前から気になっていたのだが、ほれ、「ランチパック」(山崎製パン)ってやつがありますわな。あれって、どうやって作ってるんだろうね?
なにが気になるかというと、あれを作る過程で出るはずの“パンの耳”はどうしているのかという点である。
ランチパックの大きさはビミョーだ。ふつうの食パンから、ランチパックの大きさの白い部分が二区画取れるとは思えない。きっと、ふつうのよりも断面積の大きい食パンを特別に作って、そこから一気に機械で四区画なり九区画なり十六区画なりを打ち抜いているのだと思うのだな。だとすると、ふつうの食パンの耳よりもはるかに巨大な“枠”だけが残るはずである。それをいったいどうしているのだろう?
いや、なにしろ、おれたちの世代は、食パンの白いところだけを食うなどという神をも畏れぬ所業に激しい心理的抵抗がある。給食の残りの食パンの耳を家に持ち帰り油で揚げてもらって、砂糖をまぶした菓子にして食っていた世代なのである。駅弁を食うときには、まず蓋の裏にこびりついた米粒を、ひと粒ひと粒、箸でつまみ取って食ってからでないと本体に取りかかれない世代である。米粒をひと粒でも無駄にしたら目が潰れるとお婆ちゃんに叩き込まれて育った世代である。なんの、みみちいとも、さもしいとも微塵も思わない。いまこの時代になって、お婆ちゃんは正しかった、おれたちはなんと先進的で未来的なしつけを受けたものかと、この歳になって改めてお婆ちゃんに感謝しておる。
だもんだから、ランチパックの耳はいったいどこへ行っているのか、たいへん気になるのである。まさか捨ててはおるまいな。家畜の飼料とかにしているのだろうか?
むかしは、カステラの裁ち屑だけを袋に詰めてパン屋などで安くで売っていたもので、あれはけっこううまかった。というか、味はちゃんとしたカステラと変わらん(あたりまえだ)。筒井康隆だって、貧乏なころはあれを食っていた(こんなものを食っていてはいかんと、のちにやめたそうだが、もったいない、お得なのに)。最近だと、形が崩れただけにすぎないタラコを、切れ子とかバラ子とか称して割安で売っていますわな。料亭じゃあるまいし、なにも美しいタラコを家庭で食う必要などない。賢い主婦は、バラ子をうまく料理に使っているだろう。そうよ、そのほうが合理的だ。時代の最先端である。
山崎製パンに於かれては、「これはランチパックの耳を使って作りました」という商品をぜひ企画していただきたい。いや、本気で言ってるのだよ。売れると思うぜ。そういうのが安くであったら、おれは買う。
じつを言うと、たまにランチパックを買って食うと、なんだかとてつもない贅沢をしているような気がして、うしろめたく落ち着かない。こりゃもう、そういうふうに育っているのだからしかたがない。せめて、ランチパックの耳を使った商品がちゃんとあれば、「ああ、べつにどこも無駄にはなっていないのだな」と安心してランチパックを食うことができると思うのだ。いやまあ、そういうものがあればあったで、耳のほうの商品ばかり買うかもしれないが……。
戦争を経験した人々は、そろそろ人生の終盤にさしかかり、減ってゆきつつある。団塊の連中も、早晩死んでゆくだろう。日本が貧しかったころの名残を実体験として知っている最後の世代として、おれたち昭和三十年代から四十年代前半生まれあたりの連中は、近い将来、頑固爺い、頑固婆あになって、伝えるべきことを次代に伝えておかねばならない。
米粒を残すと目が潰れる──なんとすばらしい、二十一世紀的な価値観であろうか! いやじつはおれも子供のころは、「なにをバカな、戦時中じゃあるまいし、みみっちい」と大人をバカにしていたものなのである。しかし、二十一世紀になって、改めて思う。食べものを無駄にしない。ものを大切にする。なにがみみっちいものか。じつに科学的、合理的な価値観ではないか。
いま、身のまわりを見てみろ。とくに大金持ちでもない、ごくふつうの家庭に、カラーテレビ(下手すると地デジ対応)がある、エアコンがある、電子レンジがある、パソコンがある、携帯電話がある、ハードディスクレコーダがある、携帯音楽プレイヤーがある、デジタルカメラがある……百年に一度の経済危機だとかなんとか言いながら、おれたちの子供のころに比べれば、夢のように豊かな、SFのような暮らしをおれたちは享受している。だからこそ、おれたちは、「米粒を残すと目が潰れる」というすばらしい価値観の片鱗をでも、下の世代に残してゆかねばならないのだ。
使わにゃ損そんとばかりに、自分たちの未来から際限なく借金をしてクレジットカードで現在の贅沢な生活を膨れ上がらせるバカなアメリカ人のようになってはならない。公的資金の注入で首の皮一枚のところで助けられておいて、社員に(ばかりか、元社員にまで)ボーナスを出そうなどという、恥知らずで意地汚い企業が成り立つような社会にしてはならない。アメリカのバカどもには、おれたちまっとうな日本人が、“分相応”という日本語を“もったいない”と共に教えてやらねばなるまい。
カステラの裁ち屑がごちそうで、クジラのベーコン(は、いまでこそ高級食材だが、むかしは屑肉)ばかり食わされて育ったおれたちに、少々の不況だからといって、なにも怖いものなどあるか。どれだけ落ちても、おれたちの子供のころよりは、ずっと豊かだ。ざまをみろ。どわははははははは。
それにしても、ランチパックの耳がどこへ行ったのかは、あの少年の夏の日、風に飛ばされて谷底に落ちていった麦藁帽子がどこへ行ってしまったのかと同じくらい、気になりませんか? ♪まま~、どぅゆ~りめんば~