カテゴリー「思想・哲学」の30件の記事

2010年11月11日 (木)

尖閣映像を漏らした主任航海士は、正しく懲戒免職にしてあげなくてはいけない

ビデオ流出 「逮捕しないで」海保に電話やメール相次ぐ (asahi.com)

http://www.asahi.com/national/update/1110/OSK201011100082.html

 ビデオ映像の流出問題をめぐり、第5管区海上保安本部には10日、午後2時までに約300件の電話やメールが届いた。神戸海上保安部にも同日午後7時までに約120件の電話と約240通のメールがあったという。

 5管と神戸海保の関係者によると、「(流出への関与を告白した海上保安官は)間違ったことはしていない」「逮捕はしないでほしい」「(流出行為の)犯人捜しをやめてほしい」といった保安官を激励する内容がほとんどで、批判や抗議は少ないという。

 おれもいままでこのブログで、自分のことを棚にあげてずいぶんと世の嘆かわしきことどもについてぼやいてきたが、これはもう、近来稀に見る嘆かわしさである。というか、このところ起きたどんな事件よりも、「日本という国は、ほんとうにやばいのではないか」と背筋が寒くなった報道である。

 「間違ったことはしていない」――って、しとるわい! 海上保安官は国家公務員じゃ! 職務上知り得た秘密を勝手に公開していいはずがなかろう。明々白々たる国家公務員法違反だ。それは、阿呆な政府が最初から公開すべきものを秘密にしたということとは、まったく関係がない大罪である。これがどれくらい度し難い犯罪かというと、国民が選挙で選んだ人々よりも、たかが試験に受かっただけの公僕風情のほうが、より本質的に“正義”を行う能力があるし、そうしてもよいのだと勘ちがいしている点において、民主主義をその根幹から否定する大罪である

 「逮捕はしないでほしい」――って、アホか、犯罪者なのだから、逮捕されてもしかたがない。ましてや当該の犯罪者は、国家公務員の職務上の権限で知り得た、ほかのどんな秘密をさらに公開するかわかったものではない状況である。それはあなたの個人情報であるかもしれないし、国益を著しく損じる防衛上の機密かもしれん。“おれの正義”がなにものにも優先するという思想の持ち主であることは容易に推測されるからには、一刻も早く身柄を拘束すべきだ。

 「犯人捜しをやめてほしい」――めでたいやつだ。将来、おれがあんたの大事な人を殺したり、財産を奪ったりしたときにも、同じように警察に嘆願してもらいたいものである。

 そりゃあ、国家公務員が、そのときどきの阿呆な政府のやることに不満を抱くこともあろう。だが、それは国家公務員という職業に当然伴なう不満である。それが厭なら、国家公務員になどならねばいいだけの話だ。国家公務員として禄を食み、その名誉に浴して生きてきたのであれば、その不満を抱えつつも、公僕としてあるべき行動を取るのが当然のことである。

 おれがもし、なにかのまちがいで国家公務員であって、今回のいわゆる“尖閣映像”を入手できる立場にあったとしたら、おれはきっと以下のように行動する。

  (1)実名と職業・立場をあきらかにし YouTube に投稿する。

  (2)投稿した旨を Twitter でツイートする。

  (3)映像の情報が充分にゆきわたり、まず隠蔽が不可能な状態になったことを確認してから、職場への辞表を投函する。

  (4)最寄の警察署に出頭し自首、自分のしたことをつぶさに包み隠さず報告し、捜査の手間を省く。

  (5)予定どおり辞表は受理されず、自分が懲戒免職になることを従容として受け止め、懲戒免職してくれたことに「ありがとうございました」と頭を下げる。

 これが、おのれの信ずる義によって法を冒そうとする国家公務員の正しい行動だろう。国家公務員の身分であることで得られるおいしいとこ取りをしつつ、正義の味方ごっこをしようとするのは、ただ意地汚いだけであり、義士の行動ではない。国家公務員が義憤によってその身分にあるまじきことを行なおうとする場合は、叛逆者、国賊のそしりをあまんじて、否、すすんで受けてこそ、その行動には価値があると言えよう。

 今回情報を漏洩した主任航海士はきちんと逮捕し、懲戒免職にすべきである。こうした思想の持ち主を、二度と国家公務員にしてはならない。かえすがえすも残念なのは、この主任航海士が、みずからの職を賭して最初から堂々と実名で犯罪を行わなかったことである。おれはやはり、田母神俊雄元航空幕僚長を批判したのとまったく同じ考えかたで、この主任航海士を批判せざるを得ない――「しかし、田母神氏もあんまり褒められたもんじゃない。そんなふうに思いつつ面従腹背を続け空自のトップにまで昇りつめるというのは、サムライとして潔くないのではないか? 退職金が欲しかったからだとしか思われない。あなたがほんとうのサムライならば、とっとと自衛隊を辞めて、そのような言論活動を以て、世間に自分の思想をぶつけるのが本筋であったはずだ。退職ギリギリになって、鬱憤を晴らすかのように開き直るのは、サムライらしくない。あんたも卑しい」

 でもまあ、いつかどこかで、罪を償って社会復帰したこの元主任航海士に会うようなことがあれば、おれはひとこと言ってやりたいな――「あのときは、よくやってくれた」




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2009年12月20日 (日)

生きてるだけで丸儲け

 最近ブログがちょっと手薄なのは、Twitter にハマってしまっているからだというのは先日も書いたが、Twitter で関東関西の電車の運行状況情報というやつをフォローしていると、遅延情報などがほぼリアルタイムでケータイに入ってくる。これを見ていると、なんとまあ、電車というやつは、しょっちゅう人身事故で止まっているものなのだなあと、げんなりする。ほんとの“事故”もあるんだろうが、まあ、たいていは飛び込み自殺であるにちがいない。年末ともなると、この手の自殺はふだんより増えることだろう。

 そりゃまあ、なんとかこの歳まで生き続けられているおれごときが無責任に「死ぬな」と言ったところで、あんまり説得力はないかもしれん。「そりゃおまえは、ちりめんじゃこに小さなタコが入っている程度のことでしあわせなめでたいやつなのかもしれんが、おれはそんなしょうもないことで満足する卑小な人間ではない。もうダメだ。こんなに失敗してしまっては生きている値打ちがない。このあとろくな人生が待っていないのにちがいない。もう死ぬしかない」と言われたら、はあそうですかとしか言いようがない。だけどねえ、あなた、要求水準が高すぎないか? 基本、人間というやつは、「生きてるだけで丸儲け」((C)明石家さんま)と思いませんか? おれはそう思って生きている。

 もう、二十数年以上むかしのことなんだけどね、おれは電車に飛び込んで自殺した人に、とてもとても大切なことを教えてもらった経験がある。それが誰だかわかったら、いまでも線香の一本も上げて礼を言いたいくらいの想いだ。この人のおかげで、おれは死ぬのが怖くなくなったし、この世で起こる程度のことでみずから死を選んではいかんと心底思えるようになった。

 「あの肉袋が教えてくれたことはおれにとって大事なことだ」とおれは書いたが、それがどう大事なのか、長いあいだ言語化することができなかった。いまならできる。あのとき、おれが乗っていた電車に飛び込んだ人は、おれに「命というのは、吹けば飛ぶようなしょーもないものだ」と身を以て教えてくれたのだ。そして、しょーもないものほど、いとおしいものなのである。ちりめんじゃこに小さなタコが入っていたら嬉しくなる程度のしょーもないものなのだ。「人命は地球より重い」などとほざいた総理大臣がかつておったが、あんなのは世迷い言だ。そんなもん、百数十人の命より地球のほうが大事なのはあきらかである。そんな、しょーもないものだから、そんなしょーもない肉袋だからこそ、同じ肉袋にとっては“いとおしい”のだ。“いとおしい”というのは、すなわち“たいへん、もったいない”という意味である。

 もし、万が一、このアホ日記を読んでいる人の中に、早晩線路に飛び込もうと思っている人がいたら、おれは言いたい。ちょっと待て。あなたがどのような人生を歩んできて、いまどのような状況にあるのかおれは知らない。知らないけど、ちょっと待て。あなたひとりが生きようが死のうが、世界はたいして変わらん。変わらんが、小さな子供がよちよち歩いているのを見て、ああ、いとおしいなあと思う存在、きれいな花が咲いているのを見て、ああ、きれいだなあと思う存在が、あなたが死んだらひとつ減ってしまうことだけはたしかなことだ。命というのは、たぶん、しょーもないものだからこそ、軽々に捨てるにはあまりにもったいないものなのだ。

 生きてるだけで丸儲け――じつに、すばらしい人生哲学ではないか。関西人らしい表現ではあるが、言いたいことは全世界の人類に伝わると思う。あなたは生きているだけで、生きて「美しい」「いとおしい」と思っているだけで、そこいらの花をあなたのぶんだけ美しくしているのだ。あなたは、あなたがどういう状況であろうが、あなたのぶんだけ世界を変えているのである。

 だから頼む、とにかく、死ぬまで生きていてくれ。



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2009年9月18日 (金)

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり

 ふと思い立ったので、おれのハードディスクレコーダの録画予約に入っている番組を羅列してみる。単発の映画などを除き、毎回とりあえず録画はしておく(必ず観るとはかぎらない)番組のリストだ。


【日曜日】

着信御礼!ケータイ大喜利 (ほぼ隔週)

タモリ倶楽部

化物語

忘念のザムド

あたしンち

仮面ライダーW(ダブル)

たかじんのそこまで言って委員会

行列のできる法律相談所

新堂本兄弟

【月曜日】

ビートたけしのTVタックル

飛び出せ!科学くん

【火曜日】

ロンドンハーツ

爆笑問題のニッポンの教養

【水曜日】

涼宮ハルヒの憂鬱

【木曜日】

とんねるずのみなさんのおかげでした

ダウンタウンDX

ITホワイトボックス

ロケみつ~ロケ×ロケ×ロケ~

【金曜日】

サイエンスZERO

太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。

探偵!ナイトスクープ

【土曜日】

爆笑レッドカーペット

世界一受けたい授業


 う~む、われながら、じつにミーハーであるな。で、これらを全部欠かさず観られるかというと、もちろん観られない。バラエティ系のものは、『探偵!ナイトスクープ』を除いては、原則二回ぶん以上は溜めずに観ていようがなかろうがどんどん消す。情報系のもののいくつかは、何本溜まってしまっても、律儀に少しずつ“消化”する傾向にあるな。映画は、これは観ておかねばと思うものはとりあえず撮って、どんどんDVDに焼いて消す。それがいつ観られるかはわからないのだが……。

 ハードディスクレコーダなんてものを買うと、いくらでも録画して溜めておけるような錯覚に陥る時期があるわけだが、それはむろん幻想である。人間、誰しも一日二十四時間しか持っていないのであるからには、そうそうテレビばっかり観ているわけにはいかないのだ。結局、いくら欲張っても、“積ん読”ならぬ“積ん観”が増えてゆくだけなのである。

 将来、映画なら映画の全情報を瞬く間に脳に送り込めるような技術が開発されたとしたしても、問題はまったく解決されないと思う。ヘルメットみたいなものをかぶってスイッチを押すと、たとえば、黒澤明『生きる』が二秒くらいで脳に送り込まれるとしようや。どのシーンもどの台詞もどんな些細なディテールも、問われれば瞬時に引き出すことができる。どしゃぶりの中で若き菅井きん(なのにすでにおばさん役)が志村喬にうしろから傘をさしかけているシーンが、それをどこでどんなふうに観たのかさっぱりわからないのに、頭の中で鮮明な記憶として再生されてしまうのだ。でも、それではたして、『生きる』を観たと言えるのだろうか? おれはなんかちがうような気がする。

 映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、おれはそれを鑑賞している“時間”ってのは、存外に大切なものなんじゃないかと思うのよな。人間の限られた寿命から、それらを鑑賞する時間を自主的に削り取って振り向けているわけだから、その時間というのは、単に情報を脳に送り込むという客観的な現象を超えた、主観的な“体験”なのである。

 フィクションを愛する者は、なにも“情報”が欲しくて鑑賞しているわけじゃない。自分の命の一部を支払って、自分の境遇における制約を超えたなにかを“体験”するという対価を得ようとしているのだ。「そんなものを読んでいる(観ている、聴いている)ヒマがあったら、なにかもっと“役に立つ”ことをせんか」と、精神生活の貧しい人から言われたことがある人は少なくないだろうが、それは大きなお世話もいいところなんである。こっちは、命を削ってなんの役にも立たないことを体験することに、生きることの大きな価値を見出しているのだ。つまり、映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、それを鑑賞するには“時間”がかかるということこそが、そういったものを必要とする人々の生きざまをも規定していると思うのだよな。“時間”がかかるからこそ、そこには自分の人生を削り取るリスクがあり、だからこそそれを“体験”した時間は、自分が“生きた”時間として、単なる“情報”以上のものを鑑賞者に与えるのだ――と、おれは思う。ふつう、小説なんかは“時間藝術”とは呼ばないが、こう考えると、あらゆるものは、それを“体験”するのに時間が必要なのだから、みな時間藝術なのである。

 ドラえもん“眠らなくても疲れない薬”じゃないが、映画やら小説やらを瞬時に脳に送り込める技術が出現したとて、誰もそんなもの、バカバカしくて使わないんじゃなかろうか。受験勉強とかには便利そうだけどね。『ハムレット』についてはなぜかなにもかもことごとく“知っている”が、それを戯曲のテキストとしても舞台としても映画としても、まったく“体験”した覚えがない――などという状態は、想像するだに味気ない。

 なんだか、支離滅裂なことを言っているような気もするが、そこはそれ、大事なことはなかなか言葉ではうまく表現し切れないものなのである。ああ、この小説を早く読み終えたい、しかし、この至福の時間を少しでも長く“体験”していたい――そういった気持ちを味わったことのある人になら、おれがなにを言いたいのか、わかってもらえると思うんだけどな。



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2009年7月 7日 (火)

脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



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2009年6月18日 (木)

それが手前の哲学ならば、堂々と言えよ!

「外見で不合格」4人に計850万円 神奈川県教委和解 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0617/TKY200906170324.html

 神奈川県平塚市の旧県立神田高校(現・平塚湘風高校)の受験生が、選考基準にない「茶髪」や「スカートの長さ」など外見や服装で不合格にされた問題で、県教育委員会は17日、不合格とされた22人のうち4人について、慰謝料を含め計856万円を支払うとする和解案を合意した、と発表した。19日開会の県議会に和解案を提出する。
 県教委によると、05、06、08年度の同校入試で、当時の校長の指示により、髪の色やピアスの跡、スカートの長さなどを教員が出願時や受験日にチェック。合格圏内に入っていた22人が不合格とされた。県教委が公表している選考基準では、調査書と面接、学力検査を点数化するだけで、外見や服装は選考基準になっていなかった。

 こりゃまあ、県教育委員会の判断はきわめて妥当であると思うね。

 つまるところ、なにが問題なのかと言えば、校長の陰湿な“小役人根性”だけが問題なのである。「茶髪」や「スカートの長さ」も選考基準になるというのなら、そう明示すればいいだけの話だ。そう明示するのなら、それはそれで学校の教育思想の表明なのだから、べつになんの問題もない。たとえば、「アーサー・C・クラークを読んでるやつはダメ、筒井康隆を読んでるやつはダメ」と、それが選考基準になると明示すれば、べつにな~んの問題もない。それがその学校の教育哲学なのであれば、その学校に入りたいやつは、その学校の哲学に合わせるのがあたりまえである。「そんな学校はこっちからお断りだ」と受験しないのも、単に“ご縁がなかっただけ”ですむのである。

 極端な話、「わが校には障害者は入れない。障害を持つ者にはろくな人間はいないというのがわが校の哲学である。障害者に教育など与えるべきではないというのがわが校の方針である。ゆえに、身体あるいは精神に障害のある者は問答無用で落とす」と明言している学校があるとすれば、それはそれでべつに非難されるいわれのない立派な教育方針である。そう明示されているのなら、障害者は最初からその学校を受験したりするという無駄な努力をしなくてすむ。

 この学校の校長が厭らしいところは、とにかく“なにがなんでも言質を取られないように”しつつ、ちゃっかり己の勝手な哲学を公的な意思であるかのように紛れ込ませている点である。これすなわち、“小役人根性”と言う。

 「うちの学校は、茶髪は落とす。スカート丈の長いやつも落とす」と堂々と明示しておけばよいだけの話。どうしてもその学校に入りたいという子なら、ちゃんと明示しておけば、それなりの外見で受験しにくるだろうよ。そういう選択の自由を隠然と奪うのはフェアじゃない。茶髪はダメと明示しているのに、いけしゃあしゃあと茶髪で受けにくるやつがいれば、どんなにテストの成績がよかろうが、堂々と落とせばよいだけのことである。

 この校長の厭らしい小役人根性が発揮されているのは、「わが校は外見でも落とす。文句あるか」とはっきり言う度胸もないくせに、隠然と外見で落としている点に尽きる。つまり、自分はとことん安全なところにいながら、権力だけは行使する──つまり、それを世間はずばり“小役人根性”と呼ぶ──という厭らしさなのである。要するに、「なんで茶髪はダメなの?」という受験生に、堂々と反駁するだけの一貫した哲学がないのだ。哲学がないやつに、なにを教育できると言うのだ、このあさましい小役人めが。結局、可愛いのは自分だけか。

 いわゆる優等生の諸君、こんな学校、受けたいと思いますかね? キミが優秀であればあるほど、この程度の学校を受けるのは、キミらしくないと思いませんか? やめとけやめとけ、もっと“”高い”ところを狙え。



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2009年5月 5日 (火)

憲法九条改定案

 ゴールデンウィークというととにかく休みが続くありがたい日々だとしか考えないのだが、なんで休みなのかをうっかり考えてしまったため、ついつい憲法について考えてしまった。考えないほうが気楽でいいのだがなあ。

 おれは以前から何度も言ってるように、改憲派である。第一章はまるごと要らんと思っている。まあ、それはそれで難しい問題だから置いておくとして、改憲というと常に問題になる九条についてである。

 これも前から言ってるように“怪我の功名”だと思っている。つまり、現生人類にはあまりにも未来的すぎてもったいなさすぎ、現実性に欠けると思っている。遠未来じゃなくて直近の現実を見た場合、国の交戦権、集団的自衛権などは限定的に認めるべきだろう。不本意ではあるが、キチガイが襲ってくることは常にあるのだ。

 しかし、非常に長期的に考えるならば、現行の日本国憲法九条を、さらに積極的な全人類へのメッセージとして改定する方向もあるかもしれない。おれは半ば本気で思っているんだが、笑うなよ。おれの素案はこうだ──国の交戦権はこれを認めず、国軍の保有も認めない。しかし、国際救助隊の保有を一国の憲法で規定するのである。そして、どの国も足元にも及ばないハイテクを駆使して、ほんものの国際救助隊“らいちょう”を作ってしまうのだ。宇宙ステーション(らいちょう五号)に救助要請が入るや否や、同盟国へであろうが国交のない国へであろうが、政情なんか関係なく、惜しげもなくハイテク飛行艇を差し向け、人命救助に当たる。これをやれば、世界はびっくり仰天、軍隊で自国を守ることしか考えていない自分たちの憲法に恥じ入り、日本人に宇宙人を見るかのような尊敬の眼差しを向けることであろう。“本家”のイギリスなど、「パクられた~! しかし、なぜおれたちが先にこれをやれなかったのか~」と地団太踏んでくやしがる(?)のではないか。

 専ら自国を守る国軍の保有を規定していないのに、巨額の予算と高度な技術を投じて世界中の人命を救う部隊の保有は憲法で規定している──とんでもないお人よしの国である。この国を攻撃しようなどという国が現れたとしたら、世界各国は“自国の国益のために”このお人よし国家を守ろうとする。それよりなにより、人命救助に用いているあれほどの技術を、もしこの国が本気で攻撃に用いたら……と考えると、どの国もなまなかなことでは怖れて手が出せないのである。それほどのスーパーハイテク部隊なのだ、“らいちょう”は。

 ファンタジーだよ。たしかに現状ではファンタジーだけども、考え得るオプションとしてはアリだとも思うんだよ、ホントに。



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2009年4月29日 (水)

おれにとっての宗教とは

 明日から連休だもんだから、たまーには甘いものでも食おうと、たまたま帰りにファミリーマートに入ったところ、噂の「Wクリームエクレア」ってのがあったので買ってみた。晩飯食ったあと、芋焼酎のアテに食ってみると、おおお、こ、これはすごい、うまい! そりゃまあ、金を出せば、これくらいのスイーツはいくらでもあろう。なにがすごいって、これが百五十円であるところがすごいのである。コンビニおそるべし……。

 と、感心しながら酒を飲んでいたところで、突如、おれの頭の中で、「あっ、そうか!」と、おれにとって宗教とはなにかという積年の疑問が解けた。解けたというより、答えは常に頭の中にあったのだが、他人にわかるようにどう説明したらよいのかが、いきなりわかったのだった。

 お答えしよう。おれにとって宗教とは“ブラジャー”のようなものである

 世の中にそれを必要とするタイプの人が相当たくさんいるという知識をおれは持っている。が、おれがそれを必要とすることはまず考えられないし、必要とするようになりたいともまず思わない。ああいう煩わしそうで面倒くさそうなものを、おれ自身は必要としなくてよかったなあと思っている。しかし、相当たくさんの人がそれを必要としているからには、それはどのようなものなのか、どんな種類があるのかといった、それに関する知識を多少は持っておかなくてはいかんとも思っている。それを取り扱わなくてはならないような状況に置かれることが、さしものおれも、いままでの人生でないではなかったからである。しかし、自分がまったく必要としないものに関する知識を持たねばならないというのも、ぶっちゃけ面倒だ。いっそ、こんなものはないほうがおれは嬉しい。たぶん、嬉しい人が相当数いると思う。

 というわけで、ひとたび思いついてみると、どんなに考えてみても、おれにとって宗教とブラジャーとは、加速度と重力と同じくらいに等価であるとしか思えないのだった。Q.E.D.



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2009年4月 5日 (日)

日本沈没、さよならジュピター

 北朝鮮がロケット(ミサイル?)を打ち上げたと政府が誤報を流してしまったことに関して、やたらマスコミが「こんなことで国民を守れるのか」といった論調で批判的な報道をしているが、そりゃあちょっと政府がかわいそうだよ。日本の政府や防衛省に国土や国民が守れるわけがないことは周知の事実でしょうが。というか、おれたちが、おれたちの一票を以て、そういう政府や防衛体制を作ってきたのだから、今回のことで政府を非難するのは、天に唾しているようなものだ。おれたちは、自国の国土や国民を、自国の力で物理的な脅威から守ることから目を背け、放棄してきたのだから、こういうことに直面してにわかに政府を非難するのはいかがなものかと思う。自国の力で自国を守れなくてもいいという覚悟を前提にしておれたちはやってきているはずであって、マスコミもそういう世論をいままで作ってきたはずだ。いまさら、どの口が「政府は国民を守れるのか」などとほざくか。守れねーよ、そんなもん。守れなくていいという道をおれたち自身が選んできたんだから、秋田にだろうが東京にだろうが、なにが落ちてこようと、それはおれたちの覚悟の中に織り込みずみのできごとのはずだ。

 今回のことが自然現象なのだと考えてみればよい。地球には元々成層圏に達するほどの巨木が生えていて、その巨木はときどき梢のあたりから種子を弾けさせる。それはどこに落ちるのかわからないし、種子にはけっこうな質量があるので、種子が“着弾”した場合、相当の被害が出る。また、その種子は、場合によっては、放射性物質すら含んでいる可能性がある。そんな木が地球のあちこちに生えているとしようや。先進国は、そのような巨木を切り倒したり、若木のうちに制御したりする技術を持っているが、どの国でもそんなことができるわけではない。

 そうした条件下で、「ウチは種子が飛んできたら、アメリカが撃墜してくれることになってますから」と、自然現象に対する備えをほとんど行わずに、ひたすら経済成長に注力するという道を選んできたのがおれたちだ。おれはそれを悪いと言っているのではない。そういう道をみずからの意志で選んできたのなら、種子が飛んできたときには、みずからの哲学相応の覚悟があって然るべきであると言っているのだ。従容として“着弾”を受け容れるべきである。種子が飛んでくるときになって、「政府はなにをしている」などと非難するのは、あまりにも潔さに欠けるのではなかろうか。もし、種子が京都府南部に落ちてくるがどうしようもないということがわかったのだとすれば、おれはそれを“日本人の総意”として受け容れる覚悟だ。自国を自然現象から守るということすらできないリーダーたちを選んできた、おれの不見識な一票の報いとして受け容れよう。

 ないものねだりをしてはいけない。おれたちがおれたちの票で作ってきたこの日本の政府には、巨木が種子を飛ばしてこようが、北朝鮮がミサイルを撃ってこようが、小惑星が東京めざして落ちてこようが、ブラックホールが太陽に迫ってこようが、そういう事態に対処する能力がもとよりあろうはずがない。いまの政府や防衛省は、さまざまな制約の下で、まだよくやっているほうだ。これで非難されるのなら、いっそ「なにもしないほうがいい」のかもしれない。

 要するに、投票場へゆくということは、自分の家に向けてミサイルが飛んできた場合に、国家にどう対処してほしいかという意志を表明しにゆく行為なのであるということを、今回のことは日本人に教育してくれているありがたい機会であると思うのよな、おれは。投票に行かないやつは、ミサイルが飛んでこようが、ブラックホールが迫ってこようが、文句を言うなということだ。どんなに平和的な思想を持って、どんなに呑気に暮らしていたって、サメが襲ってくることだってあるのさ。



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2008年11月16日 (日)

人間の倫理とロボットの論理

人間の倫理は非理性的か:「トロッコ問題」が示すパラドックス (WIRED VISION)
http://wiredvision.jp/news/200811/2008111121.html

ある状況下では、1人を犠牲にしてたくさんの人の命を救うことは全く正しいことに思える。一方で、同様の命の救い方が、良心に欠けると感じられる状況もある。道徳観念において、われわれの考え方は思ったほど理性的ではないのかもしれない。
「興味深いのは、一貫性に欠けていることだ」とハーバード大学の社会心理学者Mahzarin Banaji氏は言う。「われわれは突如としてカント主義的になる場合がある」
このパラドックスを何より明確に示すのが、「トロッコ問題」(トロリー問題)という古典的な思考実験だ。
5人が線路上で動けない状態にあり、そこにトロッコが向かっていると想像してほしい。あなたはポイントを切り替えてトロッコを側線に引き込み、その5人の命を救う、という方法を選択できる。ただしその場合は、切り替えた側線上で1人がトロッコにひかれてしまう。
多くの人は遺憾ながらもこの選択肢をとるだろう。死ぬのは5人より1人の方がましだと考えて。
しかし、状況を少し変化させてみよう。あなたは橋の上で見知らぬ人の横に立ち、トロッコが5人の方に向かっていくのを見ている。トロッコを止める方法は、隣の見知らぬ人を橋の上から線路へ突き落とし、トロッコの進路を阻むことしかない。[この問題は「The fat man」と呼ばれるもので、Judith Jarvis Thomsonが提案したトロッコ問題のバリエーション]
この選択肢を示されると大抵の人はこれを拒否する、とBanaji氏は述べた。カリフォルニア州パロアルトで10月26日(米国時間)に行なわれた、全米サイエンス・ライティング振興協議会(CASW)の会議でのことだ。[Time誌の記事によると、「5人を救うためでも線路に落とさない」と回答するのは85%にのぼる]
われわれは、1人をトロッコの前に突き落とすことと、トロッコを1人の方へ向かわせることとは、何かが異なるようだと直観的に感じる。しかし、なぜそう感じるのかは、社会心理学でも神経科学でも哲学でも、いまだ解明できていない。

 ウェブで話題になっているらしいので読んでみたが、なるほど、これは人間としては判断に苦しむところだなあ。おれがかんべむさしの名作を踏まえて呼ぶところの“『サイコロ特攻隊』的論理”に似ている。

 見知らぬ人を突き落とさねばならないかもしれぬ後者のシチュエーションであれば、誰でも思いつくであろうもうひとつの答えがある。すなわち、自分が飛び降りてトロッコを阻むという選択肢だ。

 ロボット工学三原則に照らすとすれば、後者のシチュエーションでは、ロボットはまちがいなく自分が飛び降りるだろう。人間であっても、他人一人を突き落として他人五人を救うなんてことをするくらいであれば、自分が犠牲になったほうがましであると考える人も、少なからずいるだろうと思う。いざそういう状況に置かれたとして、自分にそれを実行できる勇気が持てるかどうかは別にしてね。あくまで思考実験としてなら、そういう選択肢を取りたいそういう自分でありたいと望む人は少なくないだろう。おれも、他人を突き落として「あれが論理的な判断でした」とあとからほざくくらいなら、咄嗟に自分が飛び降りるかもしれん。というか、飛び降りたい。だが、おれにはなにもできず、あたふたしているうちに、五人がトロッコの下敷きになるのを結果的に看過してしまうかもしれん。まあ、その可能性がいちばん高いだろうな。

 どうやらおれは、人間であるよりもロボットであったほうが、人間的に倫理的な行動ができそうだ。“トロッコ繋がり”というわけでもないが、「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」という芥川龍之介のアフォリズム(『侏儒の言葉』)に倣えば、「ロボット的な、余りにロボット的なものは大抵は確かに人間的」なのかもしれない。



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2008年9月25日 (木)

『量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在』(コリン・ブルース/訳:和田純夫/講談社ブルーバックス)

 おれはいくつかある量子力学の解釈というものは、あくまで“解釈”であって、どの解釈を取るかは好みの問題にすぎないのではないか、しょせん、“ほんとうに”なにが起こっているのかなど、おれたちにはわかりっこないのではないか、宇宙が“そういうふうに”ふるまうのであれば、どう解釈しようが受け容れるしかないではないかくらいに思っていた。

 だが、この本を読むと、なるほど多世界解釈というのはとても合理的で、オッカムの剃刀の切れ味が冴える考えかたなのだということがよくわかった。これが“正しい”んじゃないかと、ほとんど説得されそうになっちゃいましたな。惜しむらくは、おれには「多世界解釈はおかしい」と自信を持って反論できるだけの、あるいは、多世界解釈を強力に推すだけの、知識も能力もない。「なるほど、言われてみればそうですな」くらいの感じで、ほとんど納得しちゃうのである。近年の実験も多世界の実在を“示唆”(“証明”じゃないのだ。ここ重要!)しているとあっては、素人としては説得される以外にないじゃないか。

 「まえがき」には、非常に挑発的かつ魅力的なくだりがある――「ここ数年【冬樹註:原著の刊行は二〇〇四年】、量子論の暗がりに突然の輝きが見られた。半死半生の猫、あるいは宇宙全体の状態を収縮させる力を備えた、意識を持つ観察者といった不思議な登場人物が現れる古い物語は、時代遅れとなった。新しい物語がいくつか登場し、そのうちの1つは特に有望である。それは我々に、古典的な宇宙を取り戻させる。ものごとはランダムではなく予測通りに振る舞い、相互作用の働く範囲は長距離ではなく局所的である。しかし犠牲も払わねばならない。我々が住む宇宙は、考えていたよりもはるかに、予想外の意味で広大であることを受け入れなければならない」

 まあ、実際になにが起こっているのか、あるいは、量子力学的な現象をどう解釈す“べき”なのかについては、おれにはなんとも言いようがないのだが、ひとつたしかなのは、おれは多世界解釈が好きだということである。実際にこのようなことが起きているのであってほしいと思う。だって、なにより、こうであったほうが面白いじゃないか!

 意識を持った存在とやらの“観測”が全宇宙のありように影響を及ぼすなんて考えかたは、どうも気色が悪い。意識を持った存在に特権的地位を与えているのが、なんとも気味悪い。そんなふうに思う人には、本書は一読の価値があると思うよ。あなたが物理学者であればいろいろとツッコミどころもあるのかもしれないが、そうじゃなければ、たぶん説得されちゃうと思いますな。少なくともおれには、意識を持つ存在になにか特別な力があると思うよりは、おれがいま認識しているこの世界とは決して情報交換できない世界がいっぱいあると考えるほうが、よほど合理的に思えるよ。



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