カテゴリー「思想・哲学」の18件の記事

2008年7月14日 (月)

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 九年前に読んだ同じ著者の『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』が“アタリ”だったもんだから、今回のコレは、けっこう期待して読んだ。結論から言うと、やっぱり“アタリ”だな、これも。

 アロウの不可能性定理ハイゼンベルクの不確定性原理ゲーデルの不完全性定理と、社会科学、物理学、論理学が生んだ“これはそもそも無理ですから”という、三つの知の到達点を軸に議論を展開してゆく。いろんな分野の学者はもとより、会社員や運動選手といったパンピーも登場するソクラテス式の対話をフォーマットに議論が展開されてゆくので、難解な話になってもとても読みやすい。なんとなく、筒井康隆「マグロマル」の哲学版みたいだ。しばしば話に割り込んでは、カントに立ち返ろうとする“カント主義者”ってのは、「マグロマル」で言えば、さしずめ「ワシ、メシクテクル」ばかり繰り返しているガドガド人の役回りといったところだ。

 はっきり言って、本書で取り上げられている議論の多くは、思弁的なSFを好む人なら基礎教養として持っているような話ばかりである。つまり、逆に言うと、思弁的なSFを楽しみたい読者には、お薦めの良書だということだ。不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理などに加えて、囚人のジレンマナッシュ均衡ラプラスの悪魔EPRパラドックスシュレーディンガーの猫パラダイム論チューリング・マシンなどなど、現代SF(とくにハードSF)を読むうえで必須のポピュラーなネタを、網羅的にわかりやすく簡潔に解説してくれている。すれっからしのSFファンにとっても、知識を整理したり、「こういう説明のしかたもあるのか」と改めて考え直したりするのには持ってこいの本だ。グレッグ・イーガンテッド・チャンがいまひとつわからない、楽しめないというSF初心者の方は、必読である。現代SFでポピュラーなネタをこれほどてんこ盛りに羅列して、シンプルに解説してくれている本はそうそうありません。理科系の人なら学生時代にどこかで触れるようなネタが多いだろうが、文科系の人にはてっとり早いお勉強に持ってこいである。

 「不可能性・不確定性・不完全性」と題していながらも、やっぱり著者の専門だから、ゲーデルの不完全性定理にはいちばん力が入っている。旧著『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』について、おれは「理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ」と評したが、本書では、ゲーデルの証明そのものにかなり深く突っ込んでいる。専門的な数学的記述を使わずに、ふつうの日本語で不完全性定理をこれほどわかりやすく説明した解説には、おれは初めてめぐりあった。むろん、これで不完全性定理を完全に理解したと思い込んではならないだろうが、少なくとも、どういうことをどういう方法で言おうとしているのかは、わかった気になれる。おれがもし、「不完全性定理ってなに?」と問われて説明しなくちゃならないような羽目に陥ったときには、本書の説明方法をパクらせてもらおうと思う。

 『ゲーデル 不完全性定理』(林晋、八杉満利子訳・解説/岩波文庫)にも述べられているように、ゲーデルの不完全性定理は、フィールズ賞受賞者の小平邦彦をして、「ゲーデルの定理を勉強したが、自分には難しかった。何とか判ったつもりだが、自信は無い」といった意味のことを語らせるほどのものなのである。おれもいろいろな一般向け啓蒙書や解説書を読んだが、数学的操作にかろうじてついてゆける程度であって、その意味するところがほんとうに心からわかったとはとても思えない。だもんで、新書一冊読んだくらいで不完全性定理を理解したと思い込むのは笑止千万であろうとは思うのだが、それでも本書は、じつにうまくゲーデルの証明の要諦を、日常言語で説明することに成功している。これは旧著『ゲーデルの哲学』を超えた成果だと思う。

 不完全性定理というと、なにやらすぐに“人間の知性の限界”といった話に過度に援用されてしまったりするのだが、じつのところ、上述の『ゲーデル 不完全性定理』や、存命中のゲーデルと会見した唯一のSF作家にして数学者、ルーディ・ラッカーInfinity And The Mind: The Science And Philosophy Of The Infinite によると、ゲーデル自身は、紛れもないプラトン主義者なのである。つまり、形式主義的数学を超えた次元で、数学的実体なるものがどこかに確固として存在しており、人間の知性にはそれを直覚する能力があると信じていたわけだ。不完全性定理を、過度にアナロジカルに、人文系の学問に援用したりすることの危険は、充分に認識しておくべきだろう。

 おれ自身、いつかは、この人類の知性のひとつの到達点を、心の底から“理解した”と言える日を迎えたいと思う。だが、哀しいかな、おれの頭脳では、いまひとつ心から“わかった”気がしないのである。老後には、こいつを徹底的に勉強したいと思う。死ぬまでには、わかりたいものである。



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2008年7月 2日 (水)

躍動する奔放な死体

Donors sign up to have bodies dissected, displayed (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/TECH/science/06/30/body.worlds/index.html

 おわわわ、こういうのは小林泰三さんとかがいかにも好きそうだなあ。

 死体の体液や脂肪をプラスティックで置き換える plastination という技術でもって、死体がそのまま展示物になるわけである。ただただフツーに埋葬されたり火葬されたりするよりは、死後、自分の遺体を人々の教育や啓発に役立てたいと、この死体展示会のために“ドナー登録”をする人が、北米で八百人、全世界で八千六百人もいるそうなのである。英語の苦手な方は、写真だけでも見てほしいが、いや、なかなかこれはすごいものですぜ。なんか、映画の『AKIRA』みたいだ。

 おれはあんまり人様の鑑賞に堪えるような身体をしているとは思えないが、その思想には共感できるものがあるな。おれはいかなる生気論的な立場も取らないので、死んでしまったら、遺体、というか、死体は、放っておけば腐ってゆくばかりの、ただの有機物の塊だと思っている。どうせなら、そういうものを役立てる方法があるなら、なんらかのカタチで役立てたいとも思っている。

 医者の卵のために献体するという手もあるが、多くの人の目に触れるという点では、自分の遺体の利用法としては、こういう“展示”という方法も、オプションのひとつに入れておいてもいいだろう。人体というのは美しいものだなあと見学者あるいは見物人を感嘆させることはできないだろうが、煙草を吸ってるとこんなふうになりますよ、酒を飲みすぎるとこんなふうになりますよという見本くらいにはなれるかもしれない。

 虎でなくても、死して身体を遺すテクノロジーがあることはあるわけだ。



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2008年6月26日 (木)

悪人なおもて説明される、いわんや善人をや

 とんでもない善人・Aさんが、それはそれは怖ろしいばかりの無差別善行事件を起こし、人々を不安にするとしよう。なぜ人々が不安になるかというと、Aさんに比べれば、自分は卑しく、みみちく、欲深く、穢れにまみれた極悪非道の人非人のように、誰もが思えてしまうからなのだ。

 マスコミには連日連夜さまざまな識者が登場し、Aさんのような常軌を逸した善人を生んでしまった社会の病理を説明しようとする。それらにつきあっていると、なにやら、Aさんが善人であるのはAさんがふつうの人よりえらいからでもなんでもなく、Aさんの高潔な精神を形作った社会的要因の為せる業であると、みなが納得したがっているかのように聞こえてくるのだった。要するに、みな、「ああ、こんなことどもが重なったのであれば、Aさんが善人になったのも無理はない。Aさんはたまたま環境の犠牲で善人になってしまったにすぎないふつうの人なのだ」と思いたいわけである。

 Aさんの凶善行の数日前に、善行心理学者がAさんのプロフィールをぴたりと言い当てた記事を書いていたことなどがクローズアップされると、「ほうら、やっぱりAさん自身が偉いわけじゃない」といった妙な論調がエスカレートし、Aさんは“たまたま善人になるべき運命を背負わされただけのふつうの人”に引きずり下ろされる。

 テレビを観ながら「Aさんはえらいなあ」と感心してひとことつぶやき、テレビを消して自分の日常に戻る――といったごくありふれた反応に、存外に強かな健全性を覚えてしまう今日このごろなのだったのだった……。

 ――なーんてひねくれたことを考えてしまうのは、例の秋葉原連続殺傷事件をきっかけに、おれを以前からずっと悩ませている例のダブルスタンダードが、またもや頭をもたげてきたからである。「加藤智大はただの悪人です。以上」じゃ、いかんのかい?

 いや、マジな話、「マザー・テレサはえらいなあ」で終わらせずに、「マザー・テレサは“なぜ”あんなにも善人だったのか」を徹底討論するワイドショーとか報道番組とかを観てみたい気がするのよ。そういう討論は、つまるところ、必然的に“マザー・テレサはいかに偉くなかったか”を説明しようとする事象や分析や意見で溢れかえることにならなければならないはずだ。なんだかなあ。



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2008年6月21日 (土)

国際環境保護窃盗団「グリーンピース」

グリーンピース:鯨肉持ち去りでメンバー2人逮捕 (毎日jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080620k0000e040025000c.html

 国際環境保護団体「グリーンピース・ジャパン」(GP)=東京都新宿区西新宿8=のメンバーが4月、調査捕鯨船「日新丸」乗組員の鯨肉横領を裏付けようと、宅配途中の鯨肉入り段ボールを無断で持ち去った事件で、青森県警と警視庁は20日朝、GP海洋生態系問題担当部長、佐藤潤一容疑者(31)=東京都八王子市みなみ野3=ら2人を窃盗と建造物侵入の疑いで東京都内で逮捕した。

(中略)

 県警は20日午前、新宿区のGP事務所など5カ所の家宅捜索に入った。2人の身柄は同日中に青森署に移して本格的に事情を聴き、GPが組織的に関与していなかったかなどについても調べる。
 GPは5月15日、乗組員ら12人が鯨肉を着服したとして業務上横領容疑で東京地検に告発。佐藤容疑者は記者会見で、無断持ち出しを認めたうえで「横領行為の証拠を入手するためで問題ない」などと説明していた。
 県警は「持ち出し行為は悪質で、グリーンピースの主張は関係ない」としている。西濃運輸は「同様事件の再発防止を再徹底する。グリーンピースへの損害賠償請求については、弁護士に相談する」とのコメントを発表した。【矢澤秀範、野宮珠里】
 ◇「逮捕は当然だ」 国家公安委員長
 GPメンバー2人が逮捕されたことについて、泉信也国家公安委員長は20日の閣議後会見で「人の所有物を勝手にとるのはあってはならないことで許されない。(逮捕は)警察として当然の責務を果たしたものと理解している」と述べた。

グリーンピース:即時釈放求める声明 (毎日jp)
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080620k0000e040079000c.html

 国際環境保護団体グリーンピースは20日、「グリーンピース・ジャパン」の幹部ら2人が窃盗容疑などで青森県警と警視庁の合同捜査本部に逮捕されたことを受けて、「無実の人間が逮捕されたことは驚きだ。即時に釈放されるべきだ」との英文の声明を東京発で発表した。
 声明は、「日本の捕鯨は国際的に批判されている。逮捕された活動家には、捕鯨で誰が得をしているか知る権利がある。(逮捕は)脅迫行為だ」と非難した。(共同)

 おれは最初にテレビでこのニュースを観たとき、目か耳がおかしくなったのかと思ったよ。言っていることがさっぱりわからない。「横領行為の証拠を入手するためで問題ない」って、あのなあ、いつどこで誰がおまえに司法警察権を付与したというのだ?? 環境より先に、自分の脳を心配しろ。

 まあ、どんな組織にもバカはいる。ごく少数のバカが勝手な解釈で突っ走って犯罪に走ることもあろう……と大目に見てやろうかと思っていたら、団体名義の声明で「無実の人間が逮捕されたことは驚きだ」などとほざいている。おまえらが犯人たちを「無実の人間」だと思っているのが驚きだよ。

 こら、あかんわ。こいつらの言っていることは、オウム真理教と本質的には変わらん。テロリストの論理だ。こういう連中は、法というものは自分たちを縛るばかりの枷だとしか考えられない程度の知能と想像力しか持ち合わせていない。その法が守っているものの中には、ほかならぬ自分たちも入っているのだとは夢にも思っていないのである。

 こんなやつらは、どんどんしょっぴけばよろしい。というか、しょっぴかんとまずい。国家公安委員長の言ってることは、まったくもって正しい。こいつらは、“環境保護”という呪文を唱えれば、なにをしてもかまわんと思っているわけだ。“なにをしても許される”と思っているわけではない点に注意されたい。なにをしてもかまわんのだから、“許される”なんて概念そのものがそもそもないのである。

 こういう団体を放っておくと、そのうち集団で秋葉原とか新宿とか霞が関とか東京駅とかでダガーナイフを振りまわし通行人を数十人、数百人と殺傷しては、シー・オー・ツーの排出を削減するためで問題ない」などと、いけしゃあしゃあとほざくにちがいない。おれは冗談で言っているのではないのだ。そういう思想を内包している団体だと、連中は自分たちで誇らしげに明言しているのである。

 まともに環境保護について考えているのだが、うっかりなにかの弾みでグリーンピースに所属してしまっている人は、すぐに脱退したほうがいい。いつなんどきどんな理屈で、“自己批判”を迫られ、粛清されるかポアされるか、わかったもんじゃないですぞ。なにしろ、あなたひとりがこの世から消えれば、あなたぶんの二酸化炭素の排出は確実に削減できるし、あなたぶんの食糧になる動物や植物の命を絶たなくてもすむのもまた、定性的にはまったく正しいことなのだから。



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2008年3月22日 (土)

THE VOICES OF TIME

 One day the pain would be gone; but never the memory.

―― The Songs of Distant Earth by Arthur C. Clarke

Sir Arthur C Clarke: 90th Birthday Reflections



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2007年12月13日 (木)

今年の漢字は当たったけれど……

今年の漢字は「偽」 清水寺貫主「悲憤に堪えない」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/1212/OSK200712120062.html

 今年の世相を表す漢字は「偽」――。日本漢字能力検定協会(本部・京都市下京区)が全国から公募した「今年の漢字」が12日、清水寺(同市東山区)で発表された。森清範(せいはん)貫主が、縦1.5メートル、横1.3メートルの巨大な和紙に太い筆で一気に「偽」の字を書いた。

(中略)

 2位以下も「食」「嘘(うそ)」「疑」など、不信が渦巻いた世相を示す言葉が目立った。森貫主は「こういう字が選ばれるのは、誠に恥ずかしく悲憤に堪えない。分を知り、神仏が見ているのだと自分の心を律してほしい」と語った。

福田首相「今年の字はやっぱり『信』だ」 (nikkansports.com)
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20071212-294812.html

 「『偽』も人ベンだけどやっぱり『信』だ。来年も信を追求しないといかん」-。福田康夫首相は12日夜、官邸で記者団に今年の世相を表す漢字に「偽」が選ばれた感想をこう語り、自らが11日に選んだ「信」の1文字にこだわった。

 やっぱり、大方の予想どおりになりましたなあ。というか、ほかに思いつかなかったくらいだよ。

 首相たる者、前向きなことを言わなきゃならない立場だということで配慮をしているのかもしれんが、今年の世相を表す一文字を訊いてるんだから、福田首相のこだわる「信」はやっぱりとんちんかんでしょう。誰もあんたの希望を訊いとらん。まあ、一文字と言われて二文字答えてた人よりは、なんぼか頭はしっかりしているようだが……。

 しかし、考えてみれば、私利私欲のために偽りを為して恬として恥じぬ人々に、なにも日本人が今年になっていきなり成り下がった(香山リカ流に言えば「劣化した」)わけではない。当人たちはずっとあたりまえだと思って長年やってきたことが、今年俄然発覚しはじめただけのことである。さまざまな偽装を知っていながら、「みんなでやれば怖くない」とばかりに集団で感覚が鈍麻してしまうあたりは、むしろとても日本人的な行動様式であり、もしかすると、日本人は根っからの偽装体質民族なのかもしれない。今年になって次々と内部告発などで噴出してきたという現象そのものが、構造的には、偽装を生んできたものと通底しているようにすら感じられるくらいだ。

 その“根っからの偽装体質”を持っている日本人を、魔法のように勤勉で品格ある人々にしていた重要な“縛り”が、近年、急速に外れはじめたのだろう。やっぱりそれは「恥」なのかなあ?

 おれは日本人の「恥」という概念に、アンビバレントな想いを持っている。二種類あるような気がするんだな。「世間様に対して恥ずかしい」とかいうのは、おれは好かん。その集団迎合的な匂いが厭だ。「世間様が死ね言うたら死ぬんか」と、子供のように天邪鬼にふるまいたくなる。

 おれが重要だと考えるほうの「恥」は、“おのれに対して恥じる心”である。たとえ全世界がなにかで自分を賞賛しようとも、自分自身がおのれに対して恥じるようなことであれば、それを“恥ずかしい”と感じる美意識だ。noblesse oblige の指すところに近い。この美意識が日本人から失われたとき、「神仏が見ている」といった強固な道徳コードを持たない日本人は、私利私欲のために偽りを為すことも厭わぬ烏合の衆に成り下がりはじめたのではなかろうか。

 では、どのようにしてそうした美意識が醸成され、超自我に叩き込まれるのか――これがおれにはよくわからん。敬虔な無宗教者であるおれとしては、宗教などという必要悪に頼らずに、こうしたメンタリティーを育む方法が知りたい。論理的に考えると、つまるところ、“おのれを愛し、尊ぶ心”が持てれば、自動的に“おのれに対して恥じる心”が生まれるはずだ。

 じゃあ、おのれを愛し、尊びなさいとただただ教えたとしたら、モンスター・ペアレントやらモンスター・ペイシェントやら、図書館の本を切り抜きだらけにして返却するアホやらが、たぶん大量生産されるような気がする。

 美意識を共有するということは、じつに難しい。美意識を滅ぼすのは、とても簡単なのだが……。

 結局のところ、“この世界には、自分と同じように生命や自意識を持った存在が、自分のほかにも存在する”という、じつに単純だが強力で汎用性の高い認識だけを子供に叩き込めればいいのではなかろうか。この重要な“知恵”(“知識”ではない)を欠く人間を次々と“生産”しているような社会は、そのうちどうにかなってしまうだろう。

 来年は、もう少しましな文字を、誰もが当然のように予想するような年になってほしいもんである。



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2007年10月 9日 (火)

『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎/集英社新書)

 むかしスティーヴン・ホーキングは、言語の分析が哲学に残された唯一の任務だとまで言うヴィトゲンシュタインを例に挙げ、アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統を思うと、なんて落ちぶれざまだ(“What a comedown from the great tradition of philosophy from Aristotle to Kant!”)と、哲学と科学との乖離に苛立っていたもんだ(『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』)。まあ、ホーキングのヴィトゲンシュタイン批判自体が、あまりにも表層的だという意見はよく目にするが、おれはヴィトゲンシュタインはあんまり知らないので、ホーキングの批判が妥当なものなのかどうかはよくわからない。

 本書は、そうしたホーキングの苛立ちに真正面から応えるものだ。哲学的な時間論が、物理学の成果をあまりにも取り入れていないことに苛立った橋元淳一郎が、物理学的時間論と人間的時間論を統合する叩き台として提示した時間論なのである。さすがは理科系SF作家。SFファン必読でありましょう(って言ってるわりには、ずいぶん遅れて読んだわけだけど)。

 橋元淳一郎は、あくまで物理学的に考えながら、結果的には、著者本人も書いているようにハイデガーの時間論に近いところに到達している。ということは、当然道元にも近いわけで、おれの印象としては、橋元時間論は道元の『正法眼蔵』-「有時」に最も近いように思われるのだが、本書には道元のことがまったく出てこない。古今東西の時間論を参照しながら、あくまで物理学的に時間を考察している橋元淳一郎が、道元の時間論に触れていないはずはないと思われるので、まったく言及されていないことはちょっと不思議な感じがするのだが、まあ、ハイデガーが出てくるからいいか。

 哲学的にであろうが物理学的にであろうが、時間とはなにかなんてことを真剣に考えたところで、たぶん一文の得にもならないだろうけれども、あえてこういうのを新書で出そうという橋元淳一郎の気概はたいへん嬉しい。そうなんだよな、つまるところ、グレッグ・イーガンやテッド・チャンのようなバリバリの理系作家こそが最も哲学的であるという事実に、文科系人間としてはちょっと苛立っている部分があるわけだよ、おれは。

 ひさびさに面白い時間論を読んだ。極東の島国に、一文にもならないこういうことに挑む物理学者がいるということに、ホーキングも安心するんじゃなかろうか。



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2007年8月20日 (月)

ちっちゃくてよくできてるものに対する愛情

 これっておれだけなのかなあ~? いやね、身長数十センチのちっちゃい子供がさ、なんとか日本語として聞き取れるようななにごとかを叫びながら、ちょこちょこちょこちょこと走っている姿なんかを街なかで目撃するとさ、おれは「おお、可愛いなあ」と思うよりもほんの少し先に、「おお、よくできてるなあ」と思ってしまうのである。なんというか、よくもこの小さな筐体の中にこのような精妙な機能が詰まっているものだなあと、そのことがとてもいとおしく感じられる。それはたとえば、PDAやら時計やらといった小さく精巧な機器に感じる愛情のようなものと、おれにはほとんど区別がつかない。一度破壊してしまったら、同じようなものは復元できても、まったく同じ状態のものは二度と創り出せないのだなあという危なっかしさゆえ、文字どおり“いと惜しい”感じがする。

 おれは、この小さく精巧な機器が自分のゲノムの半分を運んでいるのだなあといった実感を持ったことはないのだが、そうでなくても、ちっちゃい子供の精巧さを見せつけられると、なにやら胸を掻き毟られるかのような奇妙な愛情が湧いてくる。他人の子だろうがなんだろうが、子供一般に対してだ。おれはたぶん、精巧でちっちゃい機械と精巧でちっちゃい子供との区別が、心の底ではできていないのだと思うんだが、「なんでいちいち区別する必要がある?」とも正直なところ思っている。おれの子供に対する愛情は、世間一般的な規範に照らせば、きっとかなり歪んでいるのだと思う。思うが、それがおれの素直な感じかたなのだからしかたがない。自分に嘘はつけませんわ。

 ほんと、ちっちゃい子供ってのは、よくできてて可愛いよね~。



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2007年3月23日 (金)

ポジティブと糞とビデオテープ

「半分空っぽのコップ」を「半分水が入ったコップ」に見せるテクニック (Life is beautiful)
http://satoshi.blogs.com/life/2007/03/post_11.html

 VHSテープ全盛の時代の米国のレンタルビデオ店での話。「見終わったあとはテープ巻き戻してから返却してください」とシールを貼っておいても、巻き戻さずに返却する人が多く、店としては頭を抱えていた。そのまま次の客に貸してしまうと次の客の気分が悪くなるし、店でいちいち巻き戻していては手間がかかって仕方がない。
 これを「マナーの問題」としてしまうと、ほぼ解決不可能な難問になってしまうが、この店では思い切ってルールを変更してしまうことにより、この問題をみごとに解決したのだ。VHSテープに貼り付けるシールの文言を「このテープは一度最初まで巻き戻してからご覧ください。返却時は巻き戻さなくても結構です」に変更しただけだ。

 そうかー、おれもポジティブに考えてさえいれば、もう少し楽しく生きてこられたのかー! もちろん、以前に「ウンコをするのはおまえだけではない!」「哀川翔、えらいっ!」で書いた、トイレットペーパーの話である。

 なるほど、公衆トイレのトイレットペーパーは、そもそもホルダーに取り付けられていないものなのだと発想を切り替えれば、「自分が使い切ったら、あとの人のために取り付けておけ」などと憤らなくてもすむ。もし取り付けてあったら、「世の中には常軌を逸して親切な人がいるものなのだなあ。よくもまあ、ウンよくそんな人のあとに入ったものだ」などと、とても得をしたような気になり、人生なんぼか楽しくなることだろう……。

 ……って、そんなことあるかー! やっぱり、ビデオテープとトイレットペーパーとはちがうのだ。早くビデオテープを巻き戻さないとどえらいことになる、ズボンを下ろすのももどかしい――などという切羽詰った状況は考えにくい。トイレットペーパーの場合は、そういうことがあるのである。というか、なんとか危機を回避し、ほっとわれに返ったとき、それがホルダーに取り付けられていないことにようやく気づくのだ。

 上に紹介したエントリーを読んで、ふーむ、なるほどと感心し、このビデオテープの話を公衆トイレのトイレットペーパーに応用したりしないように。



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2007年3月12日 (月)

『ひとりっ子』(グレッグ・イーガン/山岸真編・訳/ハヤカワ文庫SF)

 なんかもう、「イーガンはいいねえ」というのは「郵便ポストは赤いねえ」というのにも等しいほどになってしまっているから、いちいち褒めるのも野暮なんだけれども、やっぱり、いいもんはいい! 「現役SF作家の最高峰という評価は日本でも完全に定着したようだ」と、本書の「編・訳者あとがき」にあるとおりである。おれがここで言わんでも、ほかの人がいっぱい言うておるであろうが、あえておれも一応言っておく。たしかに、グレッグ・イーガンは、総合的に見て、現役SF作家の最高峰である。おれが好きか嫌いかということならば、テッド・チャンの次に好きな現役海外SF作家だけどね。ま、おれは判官贔屓だから。テッド・チャンは、いまのところ、どこまで行っても、偉大なるマイナー・ポエットなのよ。堂々たる最高峰となると、やっぱりイーガンだろう。

 以前の日記で書いた「イーガンやチャンは、ほんとうなら、いわゆる純文学読者が嬉々として跳びつくような作家ではあるまいかとマジで思っているんだよ、おれは」という評価はまったく変わっていないのだが、この『ひとりっ子』に関しては、これも「編・訳者あとがき」にも注意があるように、SFを読み慣れていない読者には、ちとキツいかもしれないと思う。つまり、描かれていることや、そこに横たわる問題意識は、まさに現代の純文学が扱うべきことなのだが、その“薯を噛む境に入る”には、最低限、ポピュラーサイエンス・レベルの科学知識を必要とする。理科系の人が言うと排他的に聞こえるかもしれないが、ずぶずぶの文科系であるおれが率直にそう言うぶんにはかまうまい。現代では、文学の最先端に触れるには、科学の教養が必須なのである。そういう時代なのである。そもそも、文科系だの理科系だのという古臭い二項対立を意識しているようでは、ほんとうに面白いところにはついてこられないのである。あんまり言いたくないのだが、ついに言ってしまうと、イーガンには、ついてこられるやつだけついてこい! ああ、言っちゃった。ま、『ひとりっ子』がキツかったら、これもまた親切な「編・訳者あとがき」にあるように、SF慣れしていない読者向けに意図的に編んである『祈りの海』『しあわせの理由』で助走をつけるのが吉。

 と、またSFの読者を減らしてしまったところで、あとはおれの好みのみでファンレターを書くとすると、何度めかに再読した「ルミナス」が、やっぱり本書所収の作品ではいちばん好きだねえ。なんでこんなに好きなのかと考えてみると、SFファンになるようなやつは、イーガンほど厳密にではなくとも、子供のころから、その時々の知識レベルなりに、一度はこれに似たようなことを考えてみたことがあるからじゃないだろうか? 2たす2は宇宙のどこに行っても4なのか、みたいなことをね。

 いままた「ルミナス」をじっくり読み返してみると、この作品の語りそのものがメタ小説として成立していることに気づいた。つまり、この作品の物語は、語られている作中世界で“あるぶっ飛んだ仮説”が検証されてゆくことで展開するのだが、この作品の語りそのものも、その“ぶっ飛んだ仮説”が真であるように巧妙に信じさせてゆくところでSFとして成立している。最初に読んだときには、なにやら気色の悪い、騙されたような感じが残っただけで、そこまで考えが及ばなかったのだが、よーく読むと、“語りのレベル”と“語られている内容のレベル”とで、同じ詐術が同時進行していることがわかるのだ。それは、仮に物語の中での“あの闘い”の勝敗が逆転していたとしたら、「ルミナス」というテキストはどんなふうに終わらざるを得なかっただろうか、いや終われただろうかと考えてご覧になると、おれの言わんとしていることがなんとなくおわかりいただけると思う。ネタばらししたくないので、ずいぶん口幅ったい言いかたをしているが、この段落は、すでにお読みになった方向けということで、ご勘弁を。



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2007年1月 9日 (火)

「Power for Living」のテレビCM

 テレビを観ていると、ここ二、三日、「Power for Living」とやらのCMが目につきはじめた。m-floVERBAL やら久米小百合(ってのは、久保田早紀だよ)やらが出てくる(ほかにヒルマン監督バージョンがあるそうだ)。一見して、アメリカ流のマスメディアを使った宗教団体の広告だとわかるようなものだが、非常に抽象的であり、出演者たちが「人生が変わった」といったような効能(?)を述べ、正体不明の無料冊子「Power for Living」の請求を勧めるだけで、具体的なことはほとんど明示されない。意図してのことかどうかは知らないが、広告手法的には一種のティーザー広告(じらし広告)として機能している。現におれはこうして調べちゃったもんな。まんまとハマっているわけである。もっとも、ティーザー広告としては成功していても、抽象的すぎて不気味、あるいは胡散臭いという印象すら与えてしまっており、逆宣伝にすらなっている可能性があるだろう。

 調べてみると、アーサーS.デモス財団という組織が布教しているキリスト教の一派の広告らしいのだが、宗教団体(またはそれに準じる組織)がこうした形でテレビCMを打つのは、アメリカではあたりまえでも、日本ではあまり馴染みがない。宗教番組としての枠を設けて布教を行うのであれば、これほど不気味な感じは抱かないし(カトリック教会とかね)、創価学会やら阿含宗やらにしたところで、まるで公共広告機構のCMに似せたような感じの、こうしたCMは打たない。もっと具体的に宣伝宣伝したものだからこそ、かえって「ああ、宗教の宣伝ね」と安心するのだ。このCMをプランニングしたやつは、かなりバクチを打ってるなという印象を受ける。

 この財団、ドイツでも同じようなキャンペーンを展開し、イデオロギーや宗教のCMを禁じているドイツの法律にひっかかり、放送禁止の処分を受けているという情報もある。まあ、ナチの残党の本場で、こういう手法使っちゃまずいでしょ。上のリンク先の記事にもあるように、American-style, mass-appeal religion が日本にも進出してきたということなのでしょうな。

 おれは宗教というものを幸か不幸か(おれ自身は幸だと思っている)知識としてしか必要としないタイプの人間なので、このCMにもマーケティング的な興味しかいまのところ抱いていない。それよりなにより、おれは、このCMの最後で、無料冊子の請求者に連絡はいたしませんといったことを言うのが、なんだか、無料サンプルを「他人に知られないよう、社名をださずに個人名にて特急便で郵送いたします」というヒサヤ大黒堂の広告みたいなだなと妙な連想をして、ちょっと笑ってしまった。というか、むしろ逆ヒサヤ大黒堂ですな。でも、たとえば、家族が全員創価学会員だとかイスラム教徒だとかゾロアスター教徒だとかボコノン教徒だとかいう人が、このCMに感銘を受けて(?)無料冊子を請求する場合、やっぱりヒサヤ大黒堂方式で送ってあげたほうが親切じゃないか?



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2006年11月29日 (水)

悪魔のホットエントリー?

 このあいだから“究極の検索エンジン”という考えを弄んでいるうち、つまるところ、検索エンジンというのは、マクスウェルの悪魔にほかならないのではないかと思えてきた。

 究極の検索エンジンが完成し、この宇宙のすべてが瞬時に検索できるようになれば、それは要するに万人が各自の能力の上限まで自在にものを知ることができ、しかも“知る”という行為を行為とすら意識しない存在となるということである。そうなると、そもそも“なにかを知りたい”という意思が消失してしまうはずで(“知りたい”と意識するかしないかのうちに、それをすでに知っている状態になるのだから)、“検索”という行為が意味を失う。誰もがこの世のすべてを知っているとも言えるし、誰にとってもこの世は一様なホワイトノイズになってしまうとも言える。情報の熱死だ。検索エンジンというものは、“まだ検索では知りようがないこと”が残っているあいだにかぎり、あたかも情報を作り出している(エントロピーを減少させている)ように局所的には見えるにすぎない装置なのかもしれない。“究極の検索エンジン”なるものは語義矛盾で、究極の検索エンジンが完成した瞬間、それはみずからのレゾンデートルを否定してしまうのだ。

 となると、そんなものが完成した世界は、やっぱりユートピアのようでもありディストピアのようでもあるなあ。というか、そもそも、ユートピアとディストピアというのは客観的には同じ表裏一体のもので、メビウスの輪を部分的に見て表裏を云々しているような言葉にすぎない。

 Google が宇宙を情報的熱死に至らしめるのは、いつのことになるだろうかなあ……。



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2006年9月17日 (日)

サンマの死骸を食う

Samma01 昨夜は、ひさびさにサンマを食った。あとは、焼き豚とサラダ。サンマの右下あたりに盛ってあるのは大根おろし(冷凍パックの便利なやつだ)。焼き豚の右下あたりに盛ってあるのはワサビである(おれは肉にはワサビ派なのだ)。カロリーがすごそうなので、米はまったく食わず、焼酎お湯割りでサンマをじっくり味わう。サンマには日本酒の熱燗が最高なのだが、買い忘れたのだ。ま、焼酎でも悪くはない。日本の酒にはちがいないしな。

 今回のオペは大成功だった。「マンガに出てくる乞食がゴミ箱の中を漁ったあと頭の上に乗せているかのようなサカナのホネ」を、みごとにふたつも作ることができた。あんまり脂の乗った大物ではないが、このほうが身体にはよさそうだし、味もなかなかのものだった。このサンマは、焼いた状態のが二尾で三百円。これほどコストパフォーマンスの高い動物性蛋白もちょっとないと思う。

 サンマのパックにかけてあったラップを見ると、「北海道産」と書いてある。漁師さんたちがロシアの船に撃たれそうになりながら獲ってきたものであろうか。おれは宗教というものがまったくわからないし、わかりたくもない人間ではあるが、こういうものを粗末に扱うと“なにかに対して悪い”という感覚はある。母なら“バチが当たる”と表現するだろう。実際にはバチなど当たらんが、そう表現する感覚はおれにも理解できる。むかし星新一が、雑誌なら捨てられるのに、本を捨てるとバチが当たりそうな気がするといったことを書いていたが、その感覚もよくわかる。

 以前のエントリー「死骸を食うこと」で書いた『「こうしてご飯が食べられるのも、ほかの生きものが死んでくれたおかげだ」と常に意識しているのは、存外に大切なことではないかという気がするのだ』に直結するのだが、子供には“これは生きものの死骸だ”とあきらかにわかる姿の食いものを、たとえ嫌がってもたまには食わせるのが教育的にはよいのではないかとおれは思う。たいていの食べものはもともとはほかの生きものだと、頭ではわかっていても、とくに現代の子供には実感が湧かないだろう。生きものの死骸に箸を突き立て、自分が生きるために食うという体験をしばしばさせるべきだと思う。

 「給食費を払っているんだから、子供に“いただきます”などと言わせないでくれ」と学校に文句をつけた親がいるというのが以前あちこちで話題になったけれど、親の中にもこういう人がいるくらいであるから、子供となれば推して知るべしである。この親御さん、バカとは言わんが、きわめて精神性が乏しい人ではあるでしょうな。日本語の「いただきます」は、人に対してだけ言っているものだと思い込んでいるわけだ。こういう人は、「ありがとう」も、人に対してだけ言っているんでしょうなあ。つまり、この親御さんのような人は、日本語を正しく身につけているとは言えないのである。

 学生のころに学習塾でアルバイトをしていたとき、「センセー、“いただきます”って英語でなんて言うんや?」と問われて、「そういう習慣そのものがないから、ぴったり当てはまる言葉はないなあ。敬虔なキリスト教徒やったらお祈りしてから食うわな。まあ、あのお祈りをひとことで言うようなもんやろ、“いただきます”は」などとお茶を濁したもんだ。あえて訳せばどうなるかね? Thank everything for letting me be here and now. といった感じか?

 「もったいない」を世界的に広めてゆこうという動きもあるいま、「いただきます」もそうしてはどうかと思うぞ。かくいうおれも、飯食うたびにいちいち口に出して言ったりはしないんだが、心内発声するようにはしている。子供がいたらきっと、教育の一環として、自身も口に出して言うようにしただろうね。

 というわけで、今日の晩御飯には、サンマの死骸などいかがです?Samma02




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2006年5月21日 (日)

Web 2.0 と人工知能

 いわゆる「Web 2.0」なるものに、なーんとなく既視感があるなあと思っていたんだが、おれなりに考えがカタチを取ったので書いてみる。

 昨今の Web 1.0(なんて言いかたは、もちろん 2.0 なる言いかたが出てきてから遡及的に出たものだが)から 2.0 へのシフトの機運は、一九八○年代の人工知能業界における流行の変転にとても雰囲気が似ているのだ。

 そう、当時は“人工知能業界”としか言いようがないものがあったのである。人工知能の産業化と商業化が一気に進んだのが八○年代だ。ま、人工知能が商売ネタとして脚光を浴びるようになったわけだ。なんでもかんでもAI、AIと言っていたバブルの時期である。当時ことさらAIアプリケーションなどと看板を掲げていた技術の多くはすっかり“浸透と拡散”が進み、いまではあたりまえの基盤技術としてあちこちに取り入れられていたりする。八○年代の人工知能業界を思い起こすに、アメリカでは人工知能研究のセールスマン的な役柄を担っていたエドワード・ファイゲンバウムという学者が、日本の第五世代コンピュータ・プロジェクトなどを挙げて、アメリカが遅れを取ってはならぬとばかりに過度に日本の脅威を半ば政治的に煽り、日本は日本で、ほら、ファイゲンバウムもあんなに熱心に布教しているんだから、とにかく時代は人工知能なのだとばかりに、奇妙に盛り上がっていた。日米は、お互いの誇張された盛り上がりを口実に盛り上がり、それがさらにお互いを盛り上げていたわけだから、まさにハウリングを起こしていたようなものだ。そんな作られたバブルを、まともな研究者たちは、冷笑的に迷惑がったり、うまく利用して予算を獲得したりして、けっこう冷静に捌いていたように思える。

 まあ、そういう時代の空気はともかくとして、いま進行中の Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトは、八○年代後半に起こった、記号論理の操作によるルールベースの人工知能から、エージェントの集合体の挙動としての人工知能への流行のシフトにとてもよく似ている。ウェブの総体をある種のAIと考えた場合(そいつがなにを“考えて”いるのだかわからないが)、その設計思想がルールベースの control 指向からエージェントベースの cooperation 指向に移行しようとしているのが、まさに Web 1.0 から Web 2.0 へのシフトなのではないだろうか。少なくともおれは、そんなふうにいまの状況を捉えている。

 “シフト”というのは適切でないかもしれない。人工知能の世界だって、自律エージェント万々歳でルールベースは古くて使いものにならないというわけでもないだろう。流行の重点が移っただけだ。ルールベースは柔軟性に欠け、ふるまいが“硬い”が、なにをどうしてそういう推論結果が出てきたかというのをトレースしやすい点では、ある意味で信頼できる。エージェント群が総体として出した推論結果など、怖くて信用できないという考えかたもある。時に魔法のように柔軟でインテリジェントなふるまいを見せるが、どうしてそんな推論結果が出てくるのか、ふるまいが非線形なため、“人間のように賢く見えるが、人間程度にしか信頼できない”ということにもなるわけだ。両者のよいところが、それぞれに適材適所で使われているのが、いまの実用ベースの産業利用の実態だろう。おそらく、人間の脳だって、非常に柔軟性の高いエージェント群の非線形なふるまいを最大限に利用する部分と、フリップフロップに近いほどに一意性の高い情報の“整流”を行なう部分(「おばあちゃん細胞」とか?)とが混在して、ダイナミックな動きをしているのだろうと思う。

 Web 2.0 の台頭をこのようなアナロジーとして捉えるならば、Web 1.0 が完全に滅びてしまうわけではないのは自明のことだ。むしろ、Web 1.0 と Web 2.0 とは、それぞれの得意技を活かして共存してゆくことになるのだろう。

 まあ、SF的に、ちょっとロングショットの想像をしてみるとするなら、Web 2.0 的なもののふるまいを研究する中から、遠い将来には、たとえば社会性昆虫の群体のふるまいを制御するかのようなテクノロジーのパラダイムが出てくるかもしれない。それは、ナノマシンの群体を制御して所与の出力を得なければならないような場面において、大いに役立ってくるのかもしれない。ま、これはちょっとSF的すぎるかな? そういうテクノロジーは、現在とはまったくちがう意味で、将来“ソーシャル・エンジニアリング”とでも呼ばれることになるのかもしれない。



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2006年5月20日 (土)

「『フェミニズム』ってなんですか?」

 『内田樹の研究室』ブログ「エビちゃん的クライシス」(2006年05月20日)を読んで、内田氏が驚いているということにおれが驚いた。おれも最初のころはこういう現象にいちいち驚いていたのだが、最近は「そういうものなのだ」と思うようにしているからである。

 この「[間歇日記]世界Aの始末書」を長らく読んでくださっている方であれば、あの「月をなめるな」や、「『ヨクネン』って何のことですか」、あるいは「水をなめるな」といった話をご記憶であろう。有名女子大で「現代思想・現代文化論」を学ぶ学生が「『フェミニズム』ってなんですか?」という根源的な問い(?)をあっけらかんと発するという事態は、内田氏が憂えているような、フェミニズムのもたらした最良の知的資産の継承云々といった限定的な問題ではないにちがいない。これは「月をなめるな」と同次元の現象だろう。そういう意味では、内田氏の心配は杞憂だと思われる。“その程度の現象はあちこちで常態になっているのだから、ことさらそのことだけを心配するには及ばない”というのを“杞憂”と呼ぶのが日本語として正しいかどうかを度外視すればだが……。

 これがなにかの危機なのかどうかすら、おれは最近よくわからなくなっている。いいことなのか、悪いことなのかすらわからないのだ。ただただ、個人的には“寂しいこと”だとは感じる。その寂しさは、たとえば、むかしは“ヒット曲”と呼ばれていた歌謡曲を誰もが口ずさんでいたのに、いまでは何百万枚売れようが知らない人はまったく知らないのがあたりまえになっているのを痛感するときに感じる寂しさに少し似ている。

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2006年5月16日 (火)

『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する』(佐々木俊尚/文春新書)

 Google という特殊な企業を、さまざまな角度から一般向けに解説した好著。出版のタイミングが重なったということもあって、『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(梅田望夫/ちくま新書)とセットで語られることが多いようだが、『ウェブ進化論』の論旨が一般読者にどの程度伝わるかは疑問なのに対して、本書はあまりITに馴染みのない人にもたいへん読みやすく、ビジネスの上で具体的に得るところが大きいと思う。さすが元新聞記者だけあって、構成や話の進めかたに藝がある。「グーグルって名前は知っているんだが、なにをそんなに騒いでいるのだ? なにがどうすごいというのだ? ただの検索エンジン屋じゃないのか?」と首を傾げている中小企業の経営者さんなどに、とくにおすすめ。『ウェブ進化論』が若者へのアジテーションなら、本書は万人に向けた平易な解説・分析であり、また警鐘でもある。

 SFファン的には、Google をフィリップ・K・ディック“ユービック”にもなぞらえてたりしているあたりが、なかなか面白い。たしかに、Google Earth なんかで遊んでいると、そんな気にもなってきますな。

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2006年5月 3日 (水)

“愛国心”って、要するに“慣れ”のことでしょ?

 かれこれ四十三年ほど生きているが、おれにはいまだに“愛国心”というものがよくわからない。“日本における愛国心”がわからないという政治的な話なのではない。それももちろんよくわからないのだが、そもそも“愛国心”という言葉がなんなのかが、おれにはわからない。シニフィアンはそれそのものとしては空疎に認識してはいるが、シニフィエやレフェランがわからない。要するに、言葉として意味がさっぱりわからない。

 おれが個人的に最も疑問に思っているのは、愛国心というのは、その存在そのものが一種のトートロジーなのではないかということだ。Xさんは、A国に生まれ、A国の言語、A国の文化にどっぷり漬かって、A国で育った。とすれば、Xさんの人格はA国というものの存在を前提に形成されているのだから、Xさんに愛国心があるかどうかを問うこと自体が、そもそも奇妙な行為なのではないかと思うのだ。おれの疑問、わかってもらえるかな? ちょっと即物的に言い換えてみよう。おれの身体は主に炭素や水素でできている。そのおれに「炭素や水素は好きですか?」「炭素や水素のために死ねますか?」と訊くことになにか意味があるのだろうか? そういう話じゃないって? いいや、そういう話だよ。人格を認めるに足る人工知能が完成し、そのコードが仮に Java で書かれているとしてだな、その人工知能に「あなたは Java を愛していますか?」と尋ねているようなものだろう、“愛国心”という言葉は? ちがう?

 おれは日本語が好きだし、納豆が好きだし、お茶漬けが好きだ。豆腐も好きだ。日本に住んでいるということ自体が好きだ。しかしそれは、おれが日本に育って日本にしか住んだことがないからであって、単なる“慣れ”にすぎない。おれがほかの国に生まれて、ほかの国で人生をやり直せる方法があったとしたら、そのとき初めて、「日本と比べて、おれはこの国を愛している」という比較ができるのであって、そんな方法がないからには、“愛国心”という言葉には、単に“おれという人格はこの国に最も慣れている”という以上の意味などあり得ない。論理的にそうだ。でしょ?

 要するに、「国を愛する」とか言うから話が政治的になるのであって、「国に愛着を持っている」(つまり、ただ単に「慣れている」)以上でも以下でもないと思うのだな、“愛国心”というやつの正体は。そういう意味なら、おれは愛国心の塊である。ものぐさだからだ。できるだけ多くの異なる国に“愛着”を持つのは、考えただけでもたいへんな労力を要することだ。

 おれがいま使っている腕時計はそろそろ買って三年になるが、もしこいつを生まれたときから四十三年と半年くらい使っていたとしたら、おれはこの時計に日本という国に対するのと同じくらいの愛着を持つことだろう。それだけのことなのだ。おれには、いわゆる“愛国心”と“国に対する愛着”との区別が、皆目わからないのである。まったく同じものだと思っている。おれの愛国心は、腕時計や眼鏡やペンやパソコンやケータイに対する愛着心の延長線上にある。おれが納豆が好きだという気持ちの同一次元に愛国心はある。おれの納豆に対する愛着心を何倍かにすれば、それはおれの愛国心になるのだ。そうとしか思えない。

 たいていの人はそうなんじゃないの? おれの言ってること、なにかヘン?

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