カテゴリー「ビジネス」の62件の記事

2012年2月11日 (土)

未来人たちがそんなにお人よしだとは思えない

 クライオニクスcryonics 人体冷凍保存)ってやつがありますわな。自分が死んだあとにも遺体を冷凍保存しておいて、遠い未来の科学技術で復活させてもらおうというやつだ。現代の医学では治療できない病気に冒された人を冷凍保存しておいて、未来の進んだ医学で治療してもらおうという試みも含む。『ブラック・ジャック』にもそんな話がありましたよね。「未来への贈り物」だっけか。

 このクライオニクス、アメリカなどでは歴とした商売にもなっている。お金持ちは遺体をまるごと冷凍保存するわけだが、貧乏人(?)のためには、脳だけ冷凍保存するコースなどがあったりする。なにしろ未来のことだ。脳だけでも保存してあれば、記憶や人格を再構成して、なんらかの媒体にロードして“走らせる”ことが可能になっているにちがいない――と、ナイーヴに信じることができる人たちが、こういう会社と契約するのだろう。有名どころでは、SF評論家・作家のチャールズ・プラットが、不思議なことに、クライオニクスに本気で取り組んだりしている。

 でもなあ、おれにはこんなもの、とんでもなく愚かなファンタジーだとしか思えない。

 だって、考えてもみてほしい。いまから、千年か、五千年か、二万四千年かのちの世の人たちが、二十世紀や二十一世紀に交わされた商取引契約に則って、なにが哀しゅうて、むかしの人間を蘇らせにゃならんのだ? たとえそういう技術が確立していたとしても、勝手に未来に先送りされた厄介な問題を、未来の人たちがわざわざ律儀に解決せねばならん義理などあるものか。

 そう考えると、いまクライオニクスの会社と契約して、いつか復活させてもらえるかもしれないと未来に希望を託している人たちの“遺体”など、当の未来人たちにとっては、使用済み核燃料みたいなものである。

 未来人たちは言うだろう。おまえらのファンタジーを勝手に未来に押しつけるな、と。こんなものを保存するために、貴重なエネルギーを使ってきたのか、と。おまえらのせいでこんなとんでもない未来になっているというのに、未来の超技術で生き返らせてもらおうなどと虫のいいことを考えていたやつらの“遺体”が、こんなにたくさん冷凍保存されているとは、バカバカしいことおびただしい、と。

 そこで、彼らは気づくのだ。

 待てよ……使用済み核燃料とちがって、これはこれで、貴重な蛋白源だ、と。


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2012年2月10日 (金)

わが家の電器製品の海外メーカー比率

 2012年2月7日(火)放送の『Dig』(TBSラジオ)-「家電業界の未来は?」を、昨日風呂の中でポッドキャストで聴いていて思った。ふーむ、なるほど、最近、日本の家電量販店にも、海外メーカーの製品が増えてきたなあ。そういえば、うちにもかなり海外メーカーの製品があるぞ。そうだ、いっぺん数え上げてみよう……。

 さっそく、やってみた。★が海外メーカーである。

  ●テレビ(メイン) ―― 東芝
  ●テレビ(メイン)用ハードディスク ―― バッファロー
  ●テレビ(メイン)用外部スピーカー ―― 東和電子
  ●テレビ(サブ) ―― BLUEDOT
  ●テレビ(サブ)用外部スピーカー ―― エレコム
  ★パソコン ―― Acer
  ●パソコン用モニタ ―― 三菱電機
  ●パソコン用スピーカー ―― オーディオテクニカ
  ★ワイヤレスキーボード・マウス ―― ロジクール
  ●プリンタ ―― ブラザー
  ●エアコン ―― ナショナル(パナソニック)
  ★扇風機 ―― EUPA(燦坤日本電器)
  ★サーキュレータ ―― Honeywell
  ●洗濯機 ―― ナショナル(パナソニック)
  ●冷蔵庫 ―― 三菱電機
  ●電気ポット ―― タイガー
  ●電子レンジ ―― 三洋電機
  ●オーブン&トースター ―― 象印
  ●電気掃除機 ―― 日立
  ★スマートフォン ―― SAMSUNG
  ●PHS ―― SHARP
  ●モバイルWi-Fi/WiMAXルータ ―― 日本電気
  ●据え置き電話 ―― 三洋電機
  ★携帯音楽プレーヤー ―― Apple
  ★電子書籍リーダー ―― amazon
  ●コンパクトデジタルカメラ ―― リコー
  ●ポータブルラジオ ―― ソニー
  ●腕時計 ―― カシオ
  ●置き時計(1) ―― カシオ
  ●置き時計(2) ―― シチズン
  ●目覚まし時計 ―― カシオ
  ●掛け時計 ―― カシオ
  ●楽器(電子キーボード) ―― ヤマハ
  ●楽器(オタマトーン) ―― 明和電機

 ふむ、面白い。こうして眺めてみると、おれん家の場合、とくにハイテクな分野のものと、とくにローテクな枯れた分野のもの、つまり、両極が海外メーカーなわけだな。

 五年後、十年後に、おれがまだ生きていたら、またこうやって調べてみよう。★がどのくらい増えてゆくかな? ●のいくつかは潰れているか統合されているかで、ブランドがなくなっているかもしれない。案外、明和電機がいちばん長続きしたりして。


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2011年10月30日 (日)

イタコ読書を体験しよう

 すべての本を電子書籍で読むというところまでは、まだ環境は整っていないし、紙の本を読まなくなるのは寂しいのだけれども、amazon と Kindle のおかげで、少なくとも洋書・洋雑誌・洋新聞に関しては、ほとんど電子媒体で読めるようにはなった。

 Kindle で買った本(まあ、最近だと、スティーブ・ジョブズの伝記とかだ)を、おれは Kindle 端末が使えるほどに空間的余裕がある場所では、Kindle 端末で読む。電子インクのディスプレイは画面そのものが光らないので、長時間の読書でも老眼に負担をかけない。だが、満員電車などで、Kindle でさえ持ちにくい、あるいは、鞄の中から取り出しにくい条件下であれば、おれは同じ本を Android 端末(GALAXY S)で読む。Kindle for Android がインストールしてあるから、Kindle 端末でどこまで読んだかはちゃんとシンクロされていて、なんの面倒もなく、スマートフォンで続きが読める。

 帰宅して、パソコンを立ち上げ、そうだそうだ本の続きを読もう――というときには、パソコンにインストールしてある Kindle for PC を立ち上げると、最後に使った端末が Kindle であろうが、Android 端末であろうが、すんなりと続きのページが出てくる。要するに、一度 Kindle で買った本は、プラットフォームがなんであろうが、同じものをいつでも、どこからでも呼び出せるわけだ。これはまあ、たまにしかやらないが、Kindle for PC の画面をHDMI経由でテレビに出力して、寝る前にベッドの枕元にあるテレビで本を読むことすらある。ワイヤレスマウスの電波が届く距離にパソコンがあれば問題ない。

 こういう本の読みかたに徐々に慣れてくると、ああ、これはなにかに似ているなあと誰もが思うはずである。そう、イタコである。本の中身は霊界にいて、老婆のイタコだろうが、中年女性のイタコだろうが、若い女性のイタコだろうが、少女のイタコだろうが、その時々に都合のよいイタコが身近にいてくれれば、いつでも本を呼び出せるわけだ。

 おそらく、おれの生きているあいだに、こうした“イタコ読書”は、完全に一般的なものになるだろう。ふらりと入った喫茶店のテーブルがディスプレイになっていて、指紋とかICカードとかでちょちょいと認証すれば、今朝、電車の中でスマートフォンで読んでいた本の続きが即座に表示されるようになるのだろう。風呂の中で、備え付けの防水端末にちょちょいと音声で命じれば、昼間喫茶店で読んだ本の続きを、音声で読み上げてくれるようになるのだろう。

 つまり、クラウドという霊界にいる“あなたが読んでいる本”は、あなたのまわりにあるさまざまな“イタコ”端末に、自在に呼び出せるようになるだろう。レシピ本ばかりではなく、小説やマンガに出てきたレシピですら、簡単に冷蔵庫や電子レンジのディスプレイに呼び出せるようになるだろう。

 「電子書籍がどうとか言ってるけど、いまひとつメリットを感じないなあ。紙のほうが読みやすいよ」とおっしゃる方は、もしかしたら、たったひとつのプラットフォームで電子書籍を読んでらっしゃるのではなかろうか。だとしたら、紙とたいして変わらない読書体験しか得られないと思う。おれの言う“イタコ読書”が体験できるようなハードとソフトとサービスとの組み合わせを選んで、試してみていただきたい。電子書籍による読書体験の本質は、端末の機能やソフトの使い勝手などにあるのではない。“イタコ読書”という、人類がかつて味わったことのない読書体験にこそあるのだと、実感なさることと思う。

 そして、その“イタコ読書”こそが二十一世紀のあたりまえの読書体験になるであろうと見抜いており、その環境をこそ構築しようとしているのが、amazon にほかならないのだ。“テキストを読む喜び”と、“書物という工芸品を所有する喜び”とは、もはや分けて考えなくてはならない。


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2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


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2011年1月 9日 (日)

去年やめたもの三つ

 去年は、いろいろと悪いものを三つもやめることができた。流行りの“断捨離”が実践できた。

 まず、煙草をやめた身体に悪いものを“断”ったわけだ。値上がりするのは前からわかっていたから、徐々に量を減らすようにしていたのだが、実際に値上がりした十月にすっぱりとやめた。最後に煙草を吸ったのは十月三日である。

 次に、日本の新聞をやめた頭に悪いものを“捨”てたわけだ。日本に存在する新聞がことごとく頭に悪いと言うつもりはないが、いわゆる五大紙なんぞは、あってもなくても同じだ。というより、あんなものを読んでいたのではアホが移る

 さらに、紙の新聞をやめた環境に悪いものから“離”れたわけだ。日本の新聞をやめるにあたって、背中を押してくれたのは、amazon の電子書籍リーダーの kindle だ。海外の新聞や雑誌の電子版が紙版よりもはるかに安く定期購読できるので、便利なこと、この上ない。惚れちゃったね。

 いずれ kindle についてはじっくり書きたいとは思うが、二か月半ほど使ってみて見えた本質を端的に述べるならば、kindle というのは、電子書籍リーダーというハードウェアを売ると見せかけて、“クラウド読書環境”を販売しているのだということである。日本のメディアは、やれ iPad だ、やれ Android タブレットだなどと、ハードウェアとしての電子書籍リーダーばかりを比較してつまらない記事を書いていることが多いのだが、そんなものは電子書籍の本質ではない。

 kindle を所有して、いじってみて、たちまち覚えるのは、「ああ、これ“一冊”を持って歩けば、巨大な“書店”を持って歩いているのと同じなのだ」という奇妙な全能感である。欲しい洋書は、kindle 版が出てさえいれば、一分もしないうちに手元に“所有”できる。そのための通信費は、事実上無料だ。kindle は早い話が“電話”を内蔵しており、3G回線の国際ローミング費用は米アマゾンがほぼ負担してくれる。太っ腹にもほどがあるんだが、これを彼らは太っ腹とはおそらく考えていないのだろう。“読者”が負担すべき費用ではないと当然のように考えているのだろう。つまり、アマゾンは、あくまで“本屋”としての本分を、いかにテクノロジーが進もうとも、ただただ全うしようとしているだけなのである。

 以前、地方の人に聞いた話だが、地方の小さな書店では、全国紙に広告が出ているような本でも、東京の出版社から取り寄せることを拒む店があるという。なぜなら、取り寄せるために東京に電話するだけで儲けが吹っ飛んでしまうからだ。「東京に電話するのにいくらかかると思ってるんですか?」と言われるのだという。

 kindle の3G回線使用料が、日本で amazon.com から kindle 端末を買った場合でも無料であり、キャリアとの契約などまったく不要だと知ったときにまず連想したのは、上記の“お取り寄せ”の話だった。そうだ、これは無料であるべきだし、そのあたりまえのことができるアマゾンはすごいと思った。そりゃそうだろう。地方の書店で東京の出版社から本を取り寄せてもらったら、本の定価に電話代を上乗せして取られたなんて人がいるだろうか? いないいない。取り寄せを断られた人は、たくさんいるだろうけどね。「本を調達するのがわれわれの仕事なので、調達にかかる費用はわれわれが負担しよう。読者は、あくまで本に対してお金を払ってくれればよい」と、アマゾンは態度で示しているのだ。

 これはじつはものすごいことだ。こういうものすごいことができるほど、“本屋であること”に徹しているアマゾンに、旧態依然たる日本の出版社や取り次ぎや書店が、いまのままでかなうとはとても思えない。ましてや、「いい端末を作れば、電子書籍は売れる」などと考えている“おもちゃ”メーカーは、笑止千万である。

 電子書籍リーダーは、リーダーなのではない。それ自体が、電子書籍流通のビジネスモデルを体現した“携帯書店”にほかならないのだ。ハードウェアとしてのリーダーを比較してもなんの意味もない。携帯書店としての、顧客にとっての利便性を比較しなければ、電子書籍リーダーの比較にはならないのである。

 いまのところ最も優れた携帯書店は、kindle という名の書店だとおれは思う。少なくとも、英語の読める人にとってはそうである。アマゾンは、どこまでも本屋であることを極めようとしているからこそ、ハードウェアを売ろうが、クラウド環境を提供しようが、全然ブレないのだ。日本のハードウェアメーカーやサービスプロバイダに求められているのは、この怖ろしいまでにカスタマーセントリックなブレない視点であり、ブレないスタンスなのだ。「おまえは何屋だ?」と問われて、「本屋だ」と答え続けられることは、とてつもなくすごいことなのだ。

 日本には、こんな出版社や書店が出現するだろうか? しないのだとすれば、それは日本語文化圏にとっては、とても不幸なことだろう。


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2009年7月 8日 (水)

残酷な数字のテーゼ

アニメ映画「ヱヴァンゲリヲン」 信じられない低視聴率のナゾ (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/07/07044828.html

日本テレビ系で放送されたアニメ映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の視聴率が12.7%(関東地区)という予想外の低さになった。高視聴率を予想する向きもあっただけに、「何かの間違いだろう」といった見方も出ていた。その真相は?

(中略)

アニメに詳しいジャーナリストは、アニメファンのここ数年の傾向として録画してから見るという人が増え、「Gガイド・テレビ王国」のランキングでもランキングの上位にアニメが登場する事が増えたと、分析している。また、「ヱヴァンゲリヲン」の場合、小さい子供やお年寄りには馴染みが薄く、ファンは学生や社会人中心。放送時間には外出している場合が多いため、ジブリの「千と千尋の神隠し」のような視聴率にならないのは当然だ、と話している。
ビデオリサーチの視聴率には録画が含まれていない。そのため、リアルタイムにテレビを見る数だけでは正確さに欠ける、などの議論が繰り返されてきた。ビデオリサーチは07年7月2日、現状の視聴率調査に加え「Gガイド・テレビ王国」が行っているようなパソコンによるテレビ視聴を、11年7月を目途に調査に加える方針を明らかにした。また、録画された番組が実際に視聴されたかどうかを認識する技術の開発を進めるという。

 わはははは、旧来の“視聴率”というものがこれほどわかりやすく崩壊すると、なかなかに痛快なものがあるな。おれも録画しながら観たが、リアルタイムで観たわけではない。つまり、CMがうっとうしいので、おれは観ようと思えばリアルタイムで観られるものでも、わざと十分から十五分ほど遅れて“追いかけ再生”で観はじめ、CMを跳ばして観ているうちに徐々にリアルタイムに追いつき、終わるころにはほぼリアルタイムで終わるような観かたをするのが常だ。ハードディスクレコーダのなにが便利と言って、こういう“追いかけ視聴”ができるようになったところが革命的だった。同時に「旧来のテレビCMは死んだ」と思ったね。

 エヴァの視聴率が低かったって? そりゃそうだろう。たとえば、サザエさん一家が茶の間に集まって、みなで『千と千尋の神隠し』をリアルタイムで観ている図は自然に想像できるが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観ているところなど想像もつかん。


  波平 「なんじゃ、『序』にはアスカは出んのか?」
  フネ 「お父さん、いい歳をしてなんですか」
  波平 「そういう母さんだって、冬月萌え~じゃないか」
  マスオ 「ぼくはレイ派ですから」
  タラ 「ぼくはペンペンでちゅ~」
  サザエ 「あら、ミサトの冷蔵庫に入ってるビールの銘柄がテレビ版とはビミョーにちがうわ」
  ワカメ 「ホントだぁ」
  カツオ 「それにしても、こんなすごい技術がある時代なのに、どうしてシンジはカセットテープなんか聴いてるんだろう?」
  マスオ 「そのあたりの狙いは、大人になればわかるよ、カツオ君」
  フネ 「ほらほら、シトが来ましたよ」
  波平 「ヤシマ作戦はいつ観ても興奮するのう」
  マスオ 「そうだ、明日、みんなで『破』を観に行きませんか、お父さん?」
  波平 「そりゃあいい」
  カツオ 「わーい、明日はみんなでヱヴァンゲリヲンだ!」
  タラ 「ヱヴァンゲリヲンでちゅ~」
  サザエ 「あたしみたいなおばさんが映画館でどんな顔したらいいのかわからないわ」
  カツオ 「笑えばいいと思うよ」
  一同 「あはははははははははははははははははははは」


 き、気色悪ぅ~。あり得ねー。もし、あり得たとしても、おれはこういう家庭では育ちたくねー。《エヴァンゲリオン》とか『ブレードランナー』とかいうものは、夜中に独りで自分専用のテレビかパソコンかポータブルDVDプレイヤーで観るもんだ。そういえば、『ブレードランナー』だって、劇場公開時にはぱっとしなかったのに、ビデオが出てから急速に人気が出たんだよね。独りで“浸る”のに向いた作品ってのは、あきらかにあるのだ。一家団欒の茶の間で、家族がみな同じ番組をリアルタイムで観るなどという昭和的な風景をいつまでも想定モデルにしていたのでは、意味のある視聴率調査はできない。

 ま、近い将来、面白い技術を駆使した視聴率調査方法が出てくるんだろうね。顔認識技術を用いたデジタルサイネージの視認効果測定方法みたいなものが、視聴率調査世帯のテレビに実装されるようになるかもしれん。

 テレビに内蔵された抽斗のようなものがぱかっと開いて、中からクッキーが出てくる。視聴者がそのクッキーを食うと、練り込まれたマイクロマシンが長期的に体内に定着してRFIDタグとして働き、AV機器が個々人を識別して……。そ、それはちょっとディック的すぎるか。



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2009年6月29日 (月)

謙虚になれ、爺いども!

小中学生のケータイ所持禁止 石川県条例案に異論 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/26043914.html

子どもには携帯電話を持たせないように保護者への努力義務を課す――。石川県議会に提出された条例案に異論が出ている。取り上げても、抜け道がいくらでもある、という指摘や、下校後の塾通いや防犯対策を考えると必要だ、という意見だ。実際、明確なルールを決めた上で携帯電話の持ち込みを認めている学校もある。

(中略)

一方、デジタル・メディアが教育上与える好ましくない影響についての調査を行っている、NPO法人青少年メディア研究会の理事長・下田博次さんは、今回の石川県の条例案について「条例で(携帯電話所持禁止に)踏み込むという姿勢を示したことがよかった。実効性は別だが、地方自治体が(小中学生の携帯電話利用への)危機感を持っている証明だと思う」と指摘する。

「携帯電話を持っているからネットいじめ、出会い系サイトの問題が成立しているのが現状です。これらは当然、携帯電話を持っていなければ、成立しない問題。こうした事件が携帯電話の普及とあいまって増していることを考えれば、私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」

 いろいろと議論をする中で、大人が世の中に追いついてゆこうと試行錯誤や努力をするのはじつによいことだ。思考停止をせずに、もっとああでもないこうでもないと、おれたちは考えてゆかねばならない。

 しかし、このNPO法人青少年メディア研究会の理事長とやらの見解にはずっこけた。「私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」だって? なにを言っているのかわかっているのか? 要するに、これは大人が「おれたちのわからんものを若いやつに持たせてはいかん」と言っているわけである。アホか。典型的なロートルの発想である。いつの世も、上の世代が理解できない新しいものがほんとうに世の中を変えてきたのだ。あんたも若いころは、「大人はわかってくれない」と思っていたことはないのか? それを忘れたのか? 手塚治虫だってビートルズだって筒井康隆だって、最初から大人たちは褒め称えていたのか?

 この理事長さんは、野口悠紀雄の言をとくと聴くがよい──

野口 それは、GPTの種類によるのですね。「電力の場合にはイギリスに不利な技術変化だったけれど、ITは逆で、日本に不利な技術変化だ」というのが、この本の主張です。
 例えば、ITは1980年代以降のものですから、その頃すでに企業の中堅になっていた世代の人たちが、いま企業において決定権を持っているわけですね。その人たちは、新しい技術に適応力を持っておらず、ITが得意なのは若い人です。だから、もし会社の中でITを活用するようなことになったら、下克上が起こる。
 そういう人たちがITの導入に積極的な考えを持つとは考えられません。これは、日本型企業のひとつの特徴である年功序列制が、新しい技術の導入に抑制的に働くことを意味します。

 そう、つまり、この理事長のものの考えかたは、“自分たちにわからないものを若いやつが自在に駆使するのは危険だし、面白くない”といった、結果的に組織や企業や国家の総体としての競争力を下げる方向に働く考えかたなのである。つまり、凡百のロートル経営者と同じ“すでに自分は終わっているくせに既得権にだけはしがみつこうとする”卑しい発想にすぎない。これこそ、日本がITをハコモノとしてしか捉えず、国を、社会を豊かにするためにITの真の力を引き出せない大きな理由のひとつだ。小学生や中学生には、ITの理論や仕組みはまだよくわかっていないかもしれない(が、興味さえ持てば、MITの講義だって無料で視聴できる仕組みはすでに開放されている。いま小学生の子らだって、やる気と興味さえあれば、数年後には、それらを直接利用し理解できるようになれる)。しかし彼らは、その“活かしかた”においては、下手な企業をはるかに凌ぐ。野村総研“産消逆転”などと言われて、国や企業は恥ずかしくないのか? ガートナー「大きな変革が足元で起きていることを認識してほしい」などと言われて、国や企業は危機感を覚えないのか?

 もたもたしている大企業のロートルをよそに、優れた中小企業の経営者たちは、あたかも小・中・高校生たちのようにITを利活用しはじめている。投資額では大企業に遠く及ばなくとも、その利活用の知恵は大企業をはるかに凌ぐケースも少なくない。「ややこしいことは専門家に任せておけばよいが、こんなに使えるものを本業の経営に使わんでどうする? おれは技術者になるつもりはないが、経営者としてこの強力な武器を活かすために学ばねばならんことがあるなら、いくらでも学んでやる!」という、経営者としてじつに正しい気概が彼らにはある。それはあたかも、難病に立ち向かう決意をした個人が、「おれは医者じゃないし、なるつもりもないが、この病気を克服するためなら、おれの病気や治療法を当事者として患者なりに理解する努力をせねばならん」と、医学的な知識を身につけようとしているかのようである。

 おれはなにも爺さんたちに十六進数で寝言を言えとか、TCP/IP のヘッダの構成くらい暗記しておけとか、Perl や PHP や Python や Ruby でばりばりコードを書けとか言っているわけではない。新しく出てきたものが“使える”ものであれば、それを自分の本業(たとえば、経営)に“活かす”ためのリテラシーくらいは、いくつになっても謙虚に身に着けようとせよ、とくに自分より年下の者に学べと言いたいだけである。

 その自分たちの怠慢を棚に上げて、「おれたちにわからんものを若いやつが使いこなすのはけしからん」などというくだらない考えを、さも教育的に重要なことであるかのように吹聴するロートルどもの気が知れん。おれはこのような年寄りにだけは、絶対になりたくない。

 なんのことはない、ケータイがどうしたこうしたという問題は、子供の問題ではないのだ。大人の側の怠慢の問題である。

 将来もし、魔法がおのれの本業や社会全体に大きな影響を及ぼす重要な技術として台頭してきたならば、おれは魔法を子供のころから使いこなしている若いやつ(“マジカル・ネイティブ”?)に教えを乞うだろう。『はじめての魔法』とか『図解でわかる魔法』とかいった本を買ってきて読むだろう。〈日経魔法ストラテジー〉を定期購読するだろう。「魔法 is beautiful」「404 魔法 NOT FOUND」といったブログのRSSを受けるだろう。自分が魔法に習熟できなくとも、その利活用のしかたについては、年の甲に頼って、あんまりない知恵を精一杯出そうとするだろう。

 まちがっても、「おれのわからん魔法を若いやつが使いこなすのはけしからん」などとほざく爺いにだけはなりたくない。



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2009年2月14日 (土)

己を知り己だけを知らば、己を知ることついに能わず

「管理職は自社製品10万円購入を」 パナソニック通達 (asahi.com)
http://www.asahi.com/business/update/0213/OSK200902130060.html

 パナソニックがグループの管理職社員約1万人に対し、自社製品を総額10万円以上、購入するよう通達を出した。景気低迷のなか、業績の足しにするだけでなく、管理職に危機意識を高めてもらう狙いがある。
 購入の目標期限は、ボーナス商戦を挟んだ7月まで。対象製品は限っておらず、地域販売店でも量販店でも購入できる。同社は4日に09年3月期の連結業績予想を下方修正し、純損益が3800億円の赤字に陥ると発表。通達はその後、出された。
 パナソニックは業績が落ち込んだ01~02年度にも自社製品の購入を強化したことがある。日頃は「バイ・パナソニック運動」として社員に自社製品の購入を啓発しているが、今回は通達というさらに強めた形式をとった。
 他の電機メーカーでは、富士通が1月、社員向けに携帯電話やパソコンの自社製品を買うよう呼びかけた。シャープは「日頃から自社製品を購入するようにしている」ため、目標は定めていない。三洋電機は経営が悪化した05年に役員から一般社員まで、200万~20万円の購入キャンペーンを実施したことがある。(大宮司聡)

 まあ、たいへんな状況だからこういうことを言い出す経営陣の気持ちはわからないでもないわな。だけど、「業績の足しにする」と正直に吐露するのはいいのだが、「管理職に危機意識を高めてもらう」などというキレイごとは、全然筋ちがいだと思う。

 管理職に危機意識を高めてもらうためには、むしろ「同じカテゴリーの製品で自社製品を買うのは一台までにしろ」と通達すべきだ。つまり、テレビを二台以上買うなら、二台めからは他社製品を買えと言うべきであろう。同じ会社の、ましてや自社製品ばかり使っていると、視野が狭くなり、顧客視点も失われてくる。他社の製品やサービスが自社のそれに比べていかに優れているか、あるいは劣っているかを身を以て知るには、自分自身がまず客になることである。

 自社の製品やサービスが好きで誇りを持って提供しているので、自分が買う場合も、誰に言われることもなく、すべて自社製品にしているという社員だって少なからずいるかもしれないし、一般社員ならそれでいいかもしれないが、管理職ともなれば、自社の製品が買いたくてしかたがないのだが、あえて意識的に他社の顧客になって他社の製品やサービスを体感してみるくらいのことをおのれに課す必要があるのではないか。だいたい管理職くらいになると、自社の文化にどっぷり浸かってしまい、自社が存外に世間に比べて優れている点や、異常なほどに世間常識からズレている点などが、だんだん見えなくなってくるものである。その危険をちゃんと認識し、みずからに他社の製品やサービスを広く知り、体験することを課している人は、やっぱりどっかちがう。

 手塚眞が幼少のみぎり、父親の会社が制作した番組の裏番組ばかり観ていたところ、母親に「お父さんの番組を観なさい」と叱られたそうなのだが、手塚治虫「子供には観たいものを観せなさい」と逆に妻を戒めたという。どんなに功なり名遂げても、常に若手を同じ土俵上のライバルとして対等に見ていた手塚治虫らしいエピソードだと思う。彼はおそらくそのとき、わが子を顧客視点の体現者として見ていたにちがいない。そして、自分の息子の関心をさらう裏番組の制作者に対して、クリエータとして敬意を払うと同時に、ギラギラどろどろとしたライバル心をかきたてていたのだろう。

 正直、パナソニックほどの顧客視点を大事にしてきた会社が、なりふりかまわずこのような“内向き視点”のことを言い出すほどに、経済はたいへんな状況になってきているのだなあと、なんだか気が滅入った。「彼を知らずして己を知れば、一勝一負す」などと孫子に言うが、おれはそれはおかしいと思う。勝率高すぎるやろ。彼を知らずして己を知るなどということは、そもそもできっこない。

 おれが経営者だったら、「こういうときこそ、他社製品を買え。社員一人ひとりが他社の製品やサービスを体験し、よいところは取り入れろ。悪いところがあれば、そここそが攻めどころだ」と、顧客から見ればもっともで頼もしくカッコいい通達を出してみたいものだ。で、業績の数字にちらと目をやり、小さな声で「……ま、一台めは自社製品にしなさい」と付け足すかもしれないが……。



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2009年2月 3日 (火)

“値頃感”の挑戦

しょうゆなどサイズ小さめに 適量・割安で販売増狙う (asahi.com)
http://www.asahi.com/shopping/news/TKY200902010102.html

 しょうゆやドレッシングなどの分野で、従来より容量の少ない製品を発売する動きが食品メーカーに広がっている。少子高齢化などを背景に家族の人数が減り、賞味期限内に使い切れない例が増えていることに対応する。量を減らして価格を抑え、買い物客に値頃感をアピールする狙いもあるようだ。
 キッコーマンは17日から、「特選丸大豆しょうゆ」の750ミリリットルサイズを発売する。これまでの売れ筋は1リットルだったが、1世帯あたりの月平均のしょうゆの購入量は90年の985ミリリットルから07年は662ミリリットルまで減少。昨年春の値上げも影響し、1リットルの売れ行きは微減傾向が続いていた。
 希望小売価格(税抜き)は1リットルが479円なのに対し、750ミリリットルは380円。「適量で、価格が安い。販売増につながれば」(広報)と期待する。
 キユーピーも13日出荷分から順次、ドレッシング11品目を200ミリリットルから170ミリリットルに減量する。こちらも狙いは同じで、減量は58年に発売して以来、初めてという。日清オイリオグループも3月2日から、1千グラムしかなかった「日清ベジフルーツオイル」の600グラムサイズを出す。(本田靖明)

 うう~む。これはどうなのかなあ? まるで、先日のエントリー「百億のシャンプーと千億の塩」に合わせたような話だが、メーカーの思惑は図に当たるのかどうか……。要するに、おれ風に言えば“公転周期が短くなる”わけだよな。

 「適量で、価格が安い。販売増につながれば」などと広報の人は言っているそうだが、言ってる本人だって奇妙だとは気づいているにちがいない。あくまで「値頃感」だからね。どうも、おれの感覚では、“どのみちしょっちゅう使うもので、ある程度日持ちするものであれば、でかい容器でまとめて買うほうが安上がり”だとしか思えないんだけどね。たいていの主婦(主夫)はそういう感覚を持っていると思う。

 「1リットルが479円なのに対し、750ミリリットルは380円」なのだったら、3リットルだったら前者は1,437円、後者は1,520円である。“適量に見える”という心理的効果が、83円のバリアを打ち破って合理性に勝利するかどうか、これは見ものだなあ。おれなら1リットルのほうを買いますけどね。メーカーがどんな大きさの容器で売ろうが、おれの側の醤油消費量は、べつにそう大きく変動したりするわけでもないのだからねえ。



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2009年1月12日 (月)

臨界に達した連鎖反応拡大中の「相対性理論」

 げげげ。このブログに検索エンジンからやってくる人が用いた「検索フレーズランキング」(左ペインの下のほうに出してる)だが、なんと「相対性理論」6位に上がってきている。日本語を使っている人たちが突然物理学に関心を抱きはじめたとはちょっと考えにくいから、こりゃやっぱり、前エントリーで激賞したバンドの相対性理論を、日本語使用者が世界のあちこちで猛然と検索してるんでしょうなあ。

 しかし、この勢いはすごい。ほとんど社会現象になりつつあるのではないか。今回の『ハイファイ新書』のブレークで、「特殊相対性理論が一般相対性理論になった」な~んてことを言う人が、きっとうようよいるのにちがいない。あ、あなたもうどっかに書きましたか? みんな思いつくネタだと思うよ、これ。この調子では、「量子論」とか「超紐理論」とか「大統一理論」とか「万物理論」とかいうアマチュアバンドがあちこちに出現しそうだ。「万物理論」ってのはバンド名としてはけっこういいかもしれんが、よほど天才的な実力がないと絶対名前負けすると思う。

 きっといまごろ、日本中のマーケターが、このあまりにも象徴的で面白い現象を固唾を呑んで見守っていることだろう。巨額の費用を投じてテレビCMをばんばん打っても売れないレコード会社は、「え? なんで? なんで? なんでじゃーー!?」と目を白黒させているにちがいない。だってあなた、テレビのCMなんて、もはやハードディスクレコーダ使ってる人は、自動手動を問わず、みんな跳ばしちゃうでしょ、ふつう。アマゾンや iTunes Store のパーソナライズされたレコメンデーションはしばしばちゃんと見るけどね。広告主の方々は、なけなしの広告費をどこにどう使うべきか、消費者の立場で考え直しましょう。テレビ局に代表されるマスメディアの方々は、媒体屋とコンテンツ屋は本来まるで異なる商売なのだというあたりまえのことにとっとと目覚め、認可事業の既得権ビジネスモデルにいつまでもしがみついていないで自分から先手を打ってそれを破壊し、どうやったら生き残れるかを考え直しましょう。

 それにしても、ウチの「検索フレーズランキング」のベスト10入りしている人名・グループ名が、おれの名前はさておくとして、「武梨えり」「タモリ」「稲垣早希」「鳥居みゆき」「相対性理論」って、なんか、そこはかとなく読者層のカラーが見えるよなあ。まあ、なんちゅうか、友だちが多くて困るというタイプの人たちではけっしてなさそうな気がする(笑)。



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