カテゴリー「本の紹介」の52件の記事

2008年7月14日 (月)

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 九年前に読んだ同じ著者の『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』が“アタリ”だったもんだから、今回のコレは、けっこう期待して読んだ。結論から言うと、やっぱり“アタリ”だな、これも。

 アロウの不可能性定理ハイゼンベルクの不確定性原理ゲーデルの不完全性定理と、社会科学、物理学、論理学が生んだ“これはそもそも無理ですから”という、三つの知の到達点を軸に議論を展開してゆく。いろんな分野の学者はもとより、会社員や運動選手といったパンピーも登場するソクラテス式の対話をフォーマットに議論が展開されてゆくので、難解な話になってもとても読みやすい。なんとなく、筒井康隆「マグロマル」の哲学版みたいだ。しばしば話に割り込んでは、カントに立ち返ろうとする“カント主義者”ってのは、「マグロマル」で言えば、さしずめ「ワシ、メシクテクル」ばかり繰り返しているガドガド人の役回りといったところだ。

 はっきり言って、本書で取り上げられている議論の多くは、思弁的なSFを好む人なら基礎教養として持っているような話ばかりである。つまり、逆に言うと、思弁的なSFを楽しみたい読者には、お薦めの良書だということだ。不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理などに加えて、囚人のジレンマナッシュ均衡ラプラスの悪魔EPRパラドックスシュレーディンガーの猫パラダイム論チューリング・マシンなどなど、現代SF(とくにハードSF)を読むうえで必須のポピュラーなネタを、網羅的にわかりやすく簡潔に解説してくれている。すれっからしのSFファンにとっても、知識を整理したり、「こういう説明のしかたもあるのか」と改めて考え直したりするのには持ってこいの本だ。グレッグ・イーガンテッド・チャンがいまひとつわからない、楽しめないというSF初心者の方は、必読である。現代SFでポピュラーなネタをこれほどてんこ盛りに羅列して、シンプルに解説してくれている本はそうそうありません。理科系の人なら学生時代にどこかで触れるようなネタが多いだろうが、文科系の人にはてっとり早いお勉強に持ってこいである。

 「不可能性・不確定性・不完全性」と題していながらも、やっぱり著者の専門だから、ゲーデルの不完全性定理にはいちばん力が入っている。旧著『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』について、おれは「理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ」と評したが、本書では、ゲーデルの証明そのものにかなり深く突っ込んでいる。専門的な数学的記述を使わずに、ふつうの日本語で不完全性定理をこれほどわかりやすく説明した解説には、おれは初めてめぐりあった。むろん、これで不完全性定理を完全に理解したと思い込んではならないだろうが、少なくとも、どういうことをどういう方法で言おうとしているのかは、わかった気になれる。おれがもし、「不完全性定理ってなに?」と問われて説明しなくちゃならないような羽目に陥ったときには、本書の説明方法をパクらせてもらおうと思う。

 『ゲーデル 不完全性定理』(林晋、八杉満利子訳・解説/岩波文庫)にも述べられているように、ゲーデルの不完全性定理は、フィールズ賞受賞者の小平邦彦をして、「ゲーデルの定理を勉強したが、自分には難しかった。何とか判ったつもりだが、自信は無い」といった意味のことを語らせるほどのものなのである。おれもいろいろな一般向け啓蒙書や解説書を読んだが、数学的操作にかろうじてついてゆける程度であって、その意味するところがほんとうに心からわかったとはとても思えない。だもんで、新書一冊読んだくらいで不完全性定理を理解したと思い込むのは笑止千万であろうとは思うのだが、それでも本書は、じつにうまくゲーデルの証明の要諦を、日常言語で説明することに成功している。これは旧著『ゲーデルの哲学』を超えた成果だと思う。

 不完全性定理というと、なにやらすぐに“人間の知性の限界”といった話に過度に援用されてしまったりするのだが、じつのところ、上述の『ゲーデル 不完全性定理』や、存命中のゲーデルと会見した唯一のSF作家にして数学者、ルーディ・ラッカーInfinity And The Mind: The Science And Philosophy Of The Infinite によると、ゲーデル自身は、紛れもないプラトン主義者なのである。つまり、形式主義的数学を超えた次元で、数学的実体なるものがどこかに確固として存在しており、人間の知性にはそれを直覚する能力があると信じていたわけだ。不完全性定理を、過度にアナロジカルに、人文系の学問に援用したりすることの危険は、充分に認識しておくべきだろう。

 おれ自身、いつかは、この人類の知性のひとつの到達点を、心の底から“理解した”と言える日を迎えたいと思う。だが、哀しいかな、おれの頭脳では、いまひとつ心から“わかった”気がしないのである。老後には、こいつを徹底的に勉強したいと思う。死ぬまでには、わかりたいものである。



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2008年6月 5日 (木)

『DVD&図解 見てわかるDNAのしくみ』(工藤光子・中村桂子/ブルーバックス 講談社)

 うう~む。こ、これはすごい。もっと早く買っておけばよかった。

 ブルーバックスはブルーバックスなんであるが、本のほうはDVDのダイジェストみたいなもので、まず、いきなりDVDを観るのがいいと思う。それから本に目を通せばいい。これで千六百八十円は安い。ミニサイズのDVDが三枚付いていて(これは“付録”ではない。こっちがメインである)、最初多少DVDが取り出しにくいものの、それだけDVDをがっちり保護する厚紙を綴じ込んだ作りで、ふつうの新書となんら変わることなく、そのまんま安心して本棚に収納できる。

 おれもいままでいろんな科学書や科学雑誌や科学番組で、DNAのいろんな図解やアニメやCGを観てきたが、これほどの躍動感に打たれたものは初めてだ。DVDを観て呆然としてから、本書の「メーキング編」を読んで合点がいった。タイトルに「図解」とあるが、これはそんじょそこらの“説明のための映像”ではない。むしろ、“映像による動く模型”とでも呼ぶのがふさわしい。著者(というか、製作者というか)らは、さまざまな論文を確認し、針金のモールや紙粘土と格闘しつつ、納得のゆく“動くDNA”の手応えを得るために、手で触れられるDNAや酵素の模型を構築しながら、このCG作品をものにしたのだ。「表現すると見えてくるものがあるということをこれまで以上に強く確信」したという。さもありなん。これは、『超時空要塞マクロス』『マクロスF』などでおなじみのメカニックデザイナー&監督・河森正治の方法論そのままである。河森は、絵ならなんでもできてしまうからといって、どう見ても動きそうにない、飛びそうにないメカをデザインすることを潔しとしない。手を動かして、手で触れられる模型を作りながら、映像のためのメカをデザインしてゆく。そうした作業の中から、動きに説得力と躍動感がある、あのバルキリーなどが生み出されたわけである。「SFは絵だねえ」という野田昌宏宇宙大元帥のお言葉もあるが、二十一世紀的には、もはや「SFは模型だねえ」というのが妥当なのかもしれない。最終的なアウトプットが絵や文章の作品であっても、実際に模型を作ったうえで描く・書くくらいのこだわりが、圧倒的な説得力を生むのかもしれない。

 腰巻で福岡伸一も絶賛しているが、いわゆる“岡崎フラグメント”の生成の繰り返しによってラギング鎖側のDNAが複製されてゆくようすなど、いままで観たことのないダイナミックな映像である。ああ、こんなのが高校生のころにあったなら、おれは道を踏み誤って(あるいは、道を踏み誤り損ねて)いたかもしれないなあ。

 先日、郵便受けにどこかの教会の信者勧誘用小冊子が入っていた。おれを知る人はご存じのように、おれは宗教心のカケラもない人間であるが、どんな手を使っておるのかなあと興味本位に読んでみると、もはや使い古された“眼のような精妙な器官が進化などでできたはずがない。誰かが設計したのだ。ダーウィンだって困っていた”という例の論を中心に話を展開していたので、「けっ」と苦笑してゴミ箱に放り込んだ。えーと、この進化論への反論(?)そのものをご存じない方は、『イリーガル・エイリアン』(ロバート・J・ソウヤー)でもお読みください。

 きっと、この教会の人がこのDNAのDVDを観たら、「ほら、こんな精妙な仕組みがひとりでにできあがったはずがない。神秘を感じるでしょう?」などと勧誘してくるにちがいないが、残念でした、おれはこういうものに“神秘”などカケラも感じない。むしろ、“神秘”などというわけのわからないものが関与していないことにこそ、“驚異”を感じる。妙な言いかたかもしれないが、そこに“謎”はあっても“神秘”など介入する余地もないほどの“ミもフタもない精妙さ”があることに、一種の神秘を感じないでもないけどな。もっとも、おれはそれを“神秘”などとは呼ばないが……。そう、それは、ただただ純粋な“驚異”であり、“感動”であるだけである。

 こんなにお手軽ですごいものが出ているのだから、高校・大学の先生方は、ぜひ活用してほしいね。授業や講義で使えなくても、せめて推薦図書くらいには入れておいてほしい。何十人か何百人かに一人の学生が、“生命の驚異”(“神秘”じゃないよ、しつこいけど)に打たれて道を踏み外して(あるいは、道を見つけて)くれるなら、千六百八十円など安いものだろう。

 こりゃ、現代のSFファンは必読(ちゅうか、必見)の作品でしょう。やっぱり映像のインパクトはすごいわ。わかった気になっていただけのことを呆然と再発見し、「おれは浅はかだった」と打ちひしがれちゃいましたね。



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2008年4月18日 (金)

お役に立てたかな?

 ひさびさに《ヘンな検索語》シリーズである。今回は、ヘンというより、ちょっと喜ばしい。

「花の木登り協会」

 年配の方はご存じであろうが、『花の木登り協会』というのは、三十年以上もむかしに出たイーデス・ハンソンの風刺小説。なるほど、「花の木登り協会」で Google 検索すると、このブログのエントリーもヒットするな。

 近年は本の shelf life (日本語で正しくどう呼ぶのか知らん)が極端に短い。つまり、新刊として棚に並んでいる時間が短い。極端な場合は、書店に並んだ次の日に返本されてしまうそうだ。そんな時代に、三十年以上前の本について手軽に調べられ、また、そんなものについてもの好きにも書いているやつ(というのは手前のことだが)がすぐ見つかる手段があるというのは、まことに喜ばしいことである。

 そんなむかしの本についてたまたま調べた人の役に、少しは立てたのだろうか。おじさん・おばさん、爺さん・婆さんは、新しいことについて書くのもいいが、生きているうちに、古いことを書いてウェブに公開しておくのも、総体としてのウェブの価値を高めるのではないかと思う。そりゃ、アクセスは少ないだろうけどさ、いつかどこかの誰かの役には立つわけだよ。「ホワイト・ノイズの中から意味を汲み出す個別の利用者を想定したとき、はじめて個別に価値が生じる」のだ。

 アクセス数獲得に死ぬほど血道を上げるというのもひとつだろうけどさ、「いつかどこかの誰かの役には立つ」と信じて、気長にのんびりまったりとむかし話を遺しておくのも、またブログのひとつのありかただろうと思うわけなのよのさ(なぜピノコ語)。



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2008年3月 8日 (土)

CGMの資産価値

 昨日ネタにした mixi の規約改定騒ぎだが、おれはたぶん mixi の法務担当者がとんでもなく顧客視点を欠いたアホか、そもそも法務担当がいないのであろうと推測している。つまり、mixi の今回の大ボケは、mixi がいよいよ肥らせたユーザを取って食おうと、かねてから周到に研いでいた邪悪な牙を剥いたなどという上等な事件ではなく、単に mixi が上場企業としては信じられないレベルの幼稚な体制しか持っていない(下手すると、笠原社長は新規約を見てもいない)といった程度の、“はらほろひれはれ”なポカミスなのではないかと疑っているのだ。新規約とやらは、若造が適当にコピペして作ったのではないかとすら思っている。

 でも、もしそうではなく、一応ちゃんと考えて作って発表したのだとしたら、mixi はいわゆるCGM(Consumer-Generated Media ……って言葉は英語圏ではあんまり使われていないみたいなんだが)というものをまったく理解せずにそう呼ばれるサービスをうっかり提供してしまっているのではないかと思われる。

 今回の事件を機に、CGMなるものの資産価値は那辺にあるのかを、改めて考えさせられた。ユーザが作ったコンテンツに資産としての価値があるのか? いや、ちがうちがう。そう勘ちがいしがちだが、そうではない。コンテンツは、CGMの副産物あるいは老廃物にすぎないのではあるまいか――そう考えてゆくと、CGMの本質は、昨年のベストセラーにちゃんと書いてあった。なにしろベストセラーであるから、相当多くの人がすでに読んでいるはずなのだ。ちょっと長くなるが、あえて引用しよう。これこそ、CGMの本質、CGMの価値である。

 さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が、身体のタンパク質中の同一種のアミノ酸と入れ替わったのかどうかを確かめてみた。つまりロイシンはロイシンと置き換わったかどうかを調べたのである。
 ネズミの組織のタンパク質を回収し、それを加水分解してバラバラのアミノ酸にする。二十種のアミノ酸をその性質の差によってさらに分別する。そして各アミノ酸について、重窒素が含まれているかどうかを質量分析計にかけて解析した。確かに実験後、ネズミのロイシンには重窒素が含まれていた。しかし、重窒素を含んでいるのはロイシンだけではなかった。他のアミノ酸、すなわち、グリシンにもチロシンにもグルタミン酸などにも重窒素が含まれていた。
 体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、さらに細かく分断されて、あらためて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルということになる。これはまったく驚くべきことだった。
 外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。
 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。

―― 『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)

 ユーザが作ったコンテンツがCGMの資産価値だと思うのは、アミノ酸やタンパク質やDNAに蓄えられている情報が生命の本質だと思い込むようなものだ。ちゃうちゃう。そこにある“流れそのもの”がCGMの資産価値なのである。

 CGM(って言葉自体、おれはあんまり好きじゃないけど)を“マネタイズ”したいと考える企業家たちは、基礎教養として生物学を学ぶべきではないかとすら、おれは本気で思う。うまくすれば、大腸菌に人間にとって有益な物質を作り続けさせたり、DNAに演算をさせたりするようなことが、CGMを利用したビジネスモデルにも可能であるかもしれないじゃないか。



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2007年12月25日 (火)

『里田まいのおバカ伝説』(竹書房)

 はっきり言って、おれはバカな女が嫌いである。だが、白状しよう、おれは最近里田まいにメロメロだ。テレビにこのコが出ていると、「いったい全体、次になにを口走るのか……」と、手に汗握り固唾を呑んでわくわくせずにはいられない。無視することができない。これはもうではあるまいか。いや、そんなはずはない。おれはバカな女が嫌いなのだ。もし里田まいのアレが演技で、放送作家がすべてネタを書いているのだとしたら、おれはその放送作家に脱帽するよ。そんな異能の天才作家がいたとしたらバレないはずがないと思うので、やっぱり里田まいのアレは“天然”なんであろうか? うーむ、わからん。菊川怜の言いそうなことは、大方見当がつく。だが、里田まいの言いそうなことは、まったく予測不能、というか、そんなものが予測できるような人になんかなりたくない。

 “天然”だとしたら、まったくもって、いったいニューロンがどういうふうに繋がったら、あのような発想が出てくるのか。里田まいがひとたび言葉を発すると、おれの乏しい知識が、おれの凡庸な価値観が、おれの脆弱な思想が、おれのちっぽけな宇宙が、おれの実存が、根底から揺さぶられる。強引かもしれんが、これはもうほとんどSFである。そうか、だからおれは里田まいから目が離せないのか。

 本書は里田まい本人が書いているわけではなく、仕事やプライベートで彼女と関わりのある人々を対象に、里田まいの常軌を逸したエピソードを集めてまわったというスタイルの、じつにまあ、安易な作りの本である。だが、千二百六十円でこれだけ笑えれば上等だ。なにはともあれ笑うことだけが目的であるならば、確実な投資であると言える。

 ここで面白いネタをいろいろ紹介したいのはやまやまだが、なにしろこの本はネタが命なので、とびきり面白いやつはマナーとして書くわけにはいかない。「ヘキサゴン伝説」の章から、おれに関わりの深いネタをふたつ、「予選ペーパーテスト」からひとつ、里田まいのそこそこの珍回答を紹介してみよう。


Q:映画や小説などのジャンル「SF」はどんな言葉の略語でしょう?(正解:[Science Fiction] サイエンス・フィクション)

  「スペシャルファイト」


 い、いやまあ、そう言われてみると、たしかに、いろんな意味で、当たらずといえども遠からずという気もしないではないんだが……。「サンフランシスコ」とか「セックスフレンド」とかは言い古されているんで、なんとなく新鮮かも。


Q:おたまじゃくしが成長するとカエルになりますがヤゴが成長するとどんな生き物になるでしょう?(正解:トンボ)

  「ウミガメ」


 ほんとうにそうだったら面白いのにと思うのは、おれだけではあるまい。


[予選ペーパーテスト 問題6]

 「君の瞳に乾杯!」というセリフで知られる、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した映画は何でしょう?

  「23の瞳」


 いったい何人いるのか、あんな妖怪とかこんな怪人とかを思い浮かべながら、危うく組み合わせを真剣に考えそうになった。ひょっとすると、目が二十三個ある妖怪が一匹だけいるのかもしれんしな……って、そもそもなんの問題だったっけ?

 こんなのはまだ序の口なのだから怖ろしい。まこと“天然”というのは怖ろしい。芸人殺し、放送作家殺しである。芸人でも放送作家でもなくてよかった。とまあ、こういう類の“里田まい伝説”がでかい活字で一冊ぶん。ふつうに読めば三十分、じっくり味わえば(?)一時間くらいでつるつる読めて笑えます。年末年始、コタツの上に一冊置いておくと、ご家庭が明るくなること請け合い。ただ、お年寄りの方は、心臓に悪いうえに、餅を喉に詰めかねないから、数回に分けて服用なさることをお勧めします。



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2007年12月10日 (月)

『MM9』(山本弘/東京創元社)

 いやいや、これは痛快、痛快。すべての怪獣ファン必読の怪獣本格SFである。舞台は、自然災害の一種としてフツーに“怪獣災害”が存在する現代。世界有数の怪獣大国である日本では、怪獣災害に立ち向かうべくスペシャリスト集団が組織されていた。気象庁特異生物対策部――略称「気特対」である(ここで「特捜隊のうた」を頭の中で流すように)。『歩兵型戦闘車両OO(ダブルオー)』(坂本康宏)では、環境庁が作った合体ロボットが怪獣と闘っていたが、本作の場合は、気象庁が怪獣対策を行う。いずれにせよ、“自然災害”の一種ということになると、現行の制度では妥当な設定ではあるよね。

 ただ、「気特対」は、あくまで怪獣の出現予測や正体の特定、その科学力による怪獣対策のアドバイスを自衛隊に与えるだけであって、怪獣を直接攻撃するのは自衛隊なのである。これもまあ、なるほどたしかにそういうことになるにちがいない。気象庁が武力を持つのはおかしいしね。

 五話完結の連作短篇という形式を取っており、各話にそれぞれの工夫があって、飽きさせない。ハードSF的に考えるとあり得ない怪獣というものの存在や属性を、「多重人間原理」なるアクロバティックな力業できちんとSFの文脈に嵌め込んでいるのは、さすが「と学会」会長である。

 実在するわれわれの社会への皮肉やくすぐりがところどころにチクチクと入っていてニヤリとさせられるうえ、なによりかにより、“怪獣”もので育った人々なら爆笑してしまうような小ネタが随所にちりばめられている。それはもう、『ウルトラマン』はもちろん、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』から『ウルトラマンガイア』『仮面ライダー響鬼』まで、あなたにはこの小ネタ遊びがいくつわかるか? 挙句の果てには、諸星大二郎テイストまで湛えている。おみごと。

 といっても、小ネタで遊んでばかりいるおやじ世代への懐メロSFというわけではけっしてない。SFとしての屋台骨は、しっかり通っている。SF的にきちんと怪獣を出すというのは、簡単そうで難しいにちがいないのだ。誰にでもできることではない。第三話「脅威! 飛行怪獣襲来」はとくに秀逸。

 巨大幼女萌え(なんじゃそれは?)の人、必読。「べつにウルトラマンなんて出てこなくてもいいのに」と思っていた人、必読。『ウルトラマン』よりも『ウルトラセブン』よりもなによりも『ウルトラQ』が好きな人、必読。桜井浩子ファン、必読。ひし美ゆり子ファン、必読。そして、「ほんとうに怪獣が出現したらいいのに」と思っている人は、なにをおいても読むべきであります。怪獣、バンザイ!



 

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2007年10月15日 (月)

『双生児』(クリストファー・プリースト/古沢嘉通・訳/早川書房)

 今年もそろそろ総括に入らなくちゃならない時期なので、やっぱりおれも書いておかなくちゃならないなあと、いまさらのように書く。これはもう、やっぱりすごい。すでにあちこちで別格扱いの高評価が目白押しであるから、べつにおれごときがいまさら紹介する必要もないかもしれないが、なにしろおれは読むのに一か月ほどかかり、さらにこれについてなにかを書く気になるまでにさらに一か月ほどかかっているのである。それくらい楽しめますぜ。

 略せばいずれも「J・L・ソウヤー」となってしまうイギリスの一卵性双生児が、第二次世界大戦の時代にそれぞれたどる数奇な運命をプリーストらしい超絶技巧で描いた、むちゃくちゃに読み応えのある作品である。おれはまるで刺繍かなにかのように、行ったり来たりを繰り返しながら読んだ。「あれれれ、ヘンだぞ。なんだこりゃあ……」と思いはじめるあたりからの読書体験は、まさに至福! ああ、字を習ってよかったと思う。そこのキミ、ケータイ小説なんか読んでる場合じゃないぜ。こういうのを読書というのだ。

 はっきり言って、これをSFとしてだけ読むのはもったいない。というか、“SFとしても読めないことはない”ようになっているだけであって、SF風のパラレルワールドものとしてのみ読まれることをプリーストは最初から拒否しているのだ。重層的な仕掛けは、何とおりもの解釈を許す。一粒で何度もおいしい。そうだなあ、たとえば、山田正紀『ミステリ・オペラ』とか、コニー・ウィリス『航路』とかを読んで楽しかった人は、なにをおいても読むべきでありますな。ここには、あなたの大好きな“小説を読み解く”ということの悦びが横溢している。ひととおりにしか解釈できないようなつまらないテクストなんて糞喰らえである。そんなものは数式と変わらない。いや、場合によっては、数式のほうが豊かかもしれない。

 例によって、なんでも手塚治虫に見えてしまうおれの悪い癖をフルに発揮するとすれば、この作品は、イギリス人が超絶技巧で書いた『アドルフに告ぐ』なのである。三人のアドルフは、二人の「J・L・ソウヤー」なのだ。むちゃくちゃ言うとるなと思う人もいるかもしれないが、もはや今年のベスト3に入ることは確実な本書に関しては、評価が定まりすぎて、多少のむちゃくちゃを言わんと面白くないから、好き勝手言うておるのである。

 というわけで、これを読まずに年を越してはいかんぞ!



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2007年10月 9日 (火)

『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎/集英社新書)

 むかしスティーヴン・ホーキングは、言語の分析が哲学に残された唯一の任務だとまで言うヴィトゲンシュタインを例に挙げ、アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統を思うと、なんて落ちぶれざまだ(“What a comedown from the great tradition of philosophy from Aristotle to Kant!”)と、哲学と科学との乖離に苛立っていたもんだ(『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』)。まあ、ホーキングのヴィトゲンシュタイン批判自体が、あまりにも表層的だという意見はよく目にするが、おれはヴィトゲンシュタインはあんまり知らないので、ホーキングの批判が妥当なものなのかどうかはよくわからない。

 本書は、そうしたホーキングの苛立ちに真正面から応えるものだ。哲学的な時間論が、物理学の成果をあまりにも取り入れていないことに苛立った橋元淳一郎が、物理学的時間論と人間的時間論を統合する叩き台として提示した時間論なのである。さすがは理科系SF作家。SFファン必読でありましょう(って言ってるわりには、ずいぶん遅れて読んだわけだけど)。

 橋元淳一郎は、あくまで物理学的に考えながら、結果的には、著者本人も書いているようにハイデガーの時間論に近いところに到達している。ということは、当然道元にも近いわけで、おれの印象としては、橋元時間論は道元の『正法眼蔵』-「有時」に最も近いように思われるのだが、本書には道元のことがまったく出てこない。古今東西の時間論を参照しながら、あくまで物理学的に時間を考察している橋元淳一郎が、道元の時間論に触れていないはずはないと思われるので、まったく言及されていないことはちょっと不思議な感じがするのだが、まあ、ハイデガーが出てくるからいいか。

 哲学的にであろうが物理学的にであろうが、時間とはなにかなんてことを真剣に考えたところで、たぶん一文の得にもならないだろうけれども、あえてこういうのを新書で出そうという橋元淳一郎の気概はたいへん嬉しい。そうなんだよな、つまるところ、グレッグ・イーガンやテッド・チャンのようなバリバリの理系作家こそが最も哲学的であるという事実に、文科系人間としてはちょっと苛立っている部分があるわけだよ、おれは。

 ひさびさに面白い時間論を読んだ。極東の島国に、一文にもならないこういうことに挑む物理学者がいるということに、ホーキングも安心するんじゃなかろうか。



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2007年9月 8日 (土)

『今日の早川さん』(coco/早川書房)

 いや、なんちゅうか、早川書房さんが突然マンガをご恵贈くださったのでちょっと面食らったのだが、読んでみて、なーるほどこれはおれにご恵贈くださってもまったく不思議はないにちがいないと思い知った。本好きの女性たちの日常を描く人気のブログコミックを書籍化したものだそうだが、おれはブログでは読んだことがなかったもんで、たいへん新鮮……かつ、身につまされた。

 SF者の早川さん、ホラーマニアの帆掛さん、純文学読みの岩波さん、ライトノベルファンの富士見さん、レア本好きの国生さん……おれが女だったら、絶対この五人の女性のどれかになっているにちがいない(ってまあ、男でも似たようなものになってしまっているわけだが……)。やっぱり、いちばん近いのは早川さんだろうけどな。ま、カタギの人から見れば、これらはみんな目くそ鼻くそなんだが……。

 『住宅事情、将来的に実現可能な展望など一切考慮せずにせっせと本を買い込んでは居住スペースを圧迫し、「宝くじさえ当たれば」などとはかない夢を抱きつつ、「そのうち家が傾くね」なんて他人事のように呑気な言葉を口にしたり、最後には「地震がきて本に埋もれて死ぬのなら本望」と物騒な居直りをするので、家族の心配の種となっています』って、誰かおれんちに盗聴器を仕掛けマシタカ? カメラもか? 気色が悪いほどである。このような因果な人が女性にもたくさんいるのだとしたら、まことに、まことに心強いことだ。そうさ、日本沈没の際には、みんなで本に埋もれて死のう。♪もうひとりぼっちじゃない あなたがいるから~。

 「うんうん、私も本に埋もれて死ぬのなら本望」と、なんの抵抗もなく頷いているそこのヘンなあなたならともかく、カタギの人にとってこのマンガがどのくらい面白いものなのか、おれには想像もつかない。というのは、このマンガ、全然フィクションの部分がない(ようにおれには思える)。日常そのもの、というか、人生そのものではないか。広義には、いわゆるエッセイマンガの範疇に入るのだろうが、『ちびまる子ちゃん』やら『あたしンち』やらをはるかに凌ぐリアリティーがある。えーと、「これのどこにリアリティーがあるの?」とおっしゃる方々は、無理にこちらへは誘いませんから、そっちで楽しく生きていってください。リアリティーとは相対的なものである。

 いやー、しかし、なぜかこういう可愛い女性たちには、おれの日常では全然遭遇しないのよなー。日本が一夫多妻制で、この五人の女性たちを全員妻にできたら、さぞや面白い人生が送れることであろう。週休二日でな。もっとも、家の中はぐちゃぐちゃになるにちがいない。ぐちゃぐちゃになったところで、おれも妻もそんなことはほとんど意に介さないであろうから、なんの問題もない。めでたし、めでたし。



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2007年8月 7日 (火)

『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(太田直子/光文社新書)

 いやあ、こんな愉快な本を見逃していたとは不覚であった。字幕翻訳家が書いた本だから外国語の話がたくさん出てくるのかと思いきや、これは“字幕屋”としての視点から著者が捉えた、現代日本語への抱腹絶倒のツッコミ集なのである。おれは太田直子と年齢が近いせいか、言語感覚が似ていて、大笑いしながら「うんうん、あるあるあるある」と大いに意を強くした。「そんなに叫んでどうするの~「!」の話」「ルビと混ぜ書き」「させていただきたがる人々」「くさいものにはふた~禁止用語をめぐって」「くさそうなものには全部ふた~禁止用語をめぐって」「くさくなくてもこっそりふた~禁止用語をめぐって 番外編」などなど、章題を見ればだいたいどういうことをぼやいているか想像がつくと思うが、おれもどこかで書いたようなことを痛快に指摘してくれているので、じつにうれしい。

 字幕という特殊なフィルタを通して見るからこそ、現代日本語のヘンな部分が、より鮮明に浮かび上がってくる。いやしかし、この人、字幕だけをやらせておくのはもったいない(と編集者が思ったからこそ、こうして本が出ているわけだが)。エッセイの呼吸が“筒井風”である。文中に一度だけ禁止用語絡みの話題で筒井康隆の名前が出てくるが、かなり筒井を愛読していると見た。『狂気の沙汰も金次第』を少なくとも三回は読んでいるにちがいない。笑わせかたがSF作家的である。隠れSFファンなのではなかろうか? だいたい、本のタイトルからして、(長いタイトルブームに乗って編集者がつけたのかもしれないけど)フィリップ・K・ディックとハーラン・エリスンを足して二で割ったようである。

 ともあれ、日常生活で目にし耳にする「日本語が変だ」と思っている人、必読。肩の凝らない、ウケを狙った文体はつるつる笑いながら読める。そのわりにけっこう深いことを言っているんだが、そんなことを表面上は感じさせないところが、字幕屋の面目躍如たるものがあるかもだ(って、ここはやはり“なっち語”にせにゃ)。



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2007年7月17日 (火)

『クロサギ(14)』(黒丸/原案:夏原武/ヤングサンデーコミックス)

 12巻あたりから、ひとつの詐欺ネタで連載八回といった長い話と三回くらいの短い話が交互に出てくるようになった。人気が不動のものになったために、長い話でも充分読者がついてくると判断したのだろう。実際、長い話のほうが、大がかりな詐欺が扱えて面白いのである。14巻ともなると、脂が乗り切っている。

 14巻の大部分を占める「テナント契約詐欺」(第145話から第152話までの八回分)は、いままでのエピソードでいちばん面白い。巨額の遺産を相続した学者バカの先生を寄ってたかって食いものにするのは親戚や銀行。詐欺同然の賃貸借契約書で世間知らずの学者先生から金を毟り取っている銀行をターゲットに、黒崎は学者の秘書として動き出す。ところが、悪辣な銀行とくれば、もうひとりの詐欺師が狙っているのはお約束。そう、黒崎のライバル、大企業専門の詐欺師、白石である。銀行、シロサギ、クロサギという三種類の詐欺師が、金融庁や財務省まで絡めて、虚々実々の詐欺合戦を展開する。いやあ、日本のマンガはほんとにレベル高いねえ。

 このエピソードで作者は、とくにバブル期における銀行の悪辣な行為を容赦なく糾弾する。巻末の「シロサギ・データ・ファイル 14」で、原案の夏原武は、銀行を「ハイエナ」とまで呼んでいるくらいだ。以前おれは、「もしかすると『クロサギ』は、“この社会そのものが、合法的な巨大詐欺システムである”というところにまで斬り込んでゆこうとしているのかもしれない」と書いたが、14巻を読んで、その期待をいよいよ膨らませた。行け、黒崎、行くとこまで行け!



 

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2007年7月 5日 (木)

『ソーシャル・ウェブ入門―Google、mixi、ブログ…新しいWeb世界の歩き方』(滑川海彦/技術評論社)

 あちこちで評判がいいので、一応読んでおくべきだろうなと手に取ったんだが、なるほど、こりゃ評判がいいのも道理だ。

 “入門”とついてる本には、ちっとも入門じゃないがちゃがちゃしたものも少なくないけれど、これはタイトルに恥じない優れた入門書にちがいない。たとえば、12くらいしかわかってない人が10くらいの内容を書いたものは、“入門書”じゃないのである。ただの内容の薄い本だ。120わかっている人が10くらいに圧縮して書くと、本書のような好著になるのだろう。この10は濃い。だものだから、「おれは70~80はわかってるつもりなんだけど、深く突っ込まれると、本質を掴んでいるかどうか心許ないかもな……」というくらいの人(というのは手前のことだが)がこの10を読むと、そいつが頭の中で“増えるわかめ”みたいにむわむわっと膨らんで、100くらいになる。要するに、入門者以外にとっても大いにためになるのが、よい入門書というものなのである。

 もっとも、の人がこれを読んでも、やっぱりだと思う。見よう見まねでウェブをあちこちいじくりまわしてみて、くらいになったときに読むと、目から鱗がぼろぼろ落ち、パズルのピースがかちゃかちゃ繋がって、たちまち50くらいになるにちがいない。

 ここ二、三年ばかり、ほとんど“相転移”と呼べるくらいに、音を立てて社会が組み変わってゆくのを感じている人は少なくないと思う。過冷却液体がなにかの拍子に一気に氷結しはじめたかのように、なにもないところに見るみる“構造”ができあがってゆく。そこには常にウェブがある。いやあ、こんなめちゃくちゃ面白い時代に生まれて、ほんとうによかった。

 本書は、一見、新奇な小ネタ的ノウハウと薀蓄を詰め込んだイージーな本に見えてしまうかもしれないのだが、とんでもない。ビシッと一本、筋が通っており、しっかりとしたパースペクティブで“いま、ここ”のウェブと社会をみごとに鳥瞰した本である。蛇のような長い鼻やら、巨木の幹のような脚やら、ひらひらした板のような耳やらに混乱している人にお薦め。たぶん、象らしきものがおぼろげに見える。この象がこれからどうなるのかは、誰にもわからんけどね。なんにせよ、なんだか面白いことが起こりそうだ。Who says elephants can't dance?




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2007年6月25日 (月)

『何も起こりはしなかった――劇の言葉、政治の言葉』(ハロルド・ピンター/喜志哲雄・編訳/集英社新書)

 イギリスが生んだ偉大な劇作家、ハロルド・ピンターの政治的発言と、劇作に関するインタビューをまとめたもの。ピンターにはノーベル文学賞とかいうあまりにも遅すぎる賞がほんの二年前に授与されているが、まあ、ノーベル賞をもらわなかったら、日本でこんな本が出ることもなかったろうから(ピンターにノーベル文学賞が出たとき、日本では嘆かわしいことに『ハロルド・ピンター全集』絶版だったのだ)、それはそれでめでたいことである。


 アメリカ合衆国はもはや低水準紛争などに煩わされたりしません。控え目であることはもちろん、遠まわしなやり方をすることにさえ、アメリカは意義を認めないのです。アメリカは何ら悪びれることなく、手の内を明かしています。アメリカは要するに国連も国際法も、また反対意見も(それは無力で無関係なものだと見なされています)、問題にしてはいないのです。アメリカの後ろには、首に縄をかけられ、弱々しい鳴き声をあげながらついていく子羊がいます。哀れで無力なイギリスです。

――ノーベル文学賞受賞記念講演「藝術・真実・政治」 

 二○○二年という年の最も吐き気のする映像のひとつは、何の罪もない何千ものイラク人の殺害を準備する作業に手を貸していたわが国の首相が、同時に、クリスマスの日に教会で跪き、地上の平和と全人類に対する善意のために祈っていたというものです。
――「下院での演説」 
 自由、民主主義、解放。これらの言葉は、ブッシュやブレアによって使われる時には、実質的には死、破壊、無秩序を意味しています。
――「イラク論争」 


 ピンターは、アメリカ合衆国という傲慢きわまりない国家のやり口を、明解な言葉で真正面から批判し、非難する。イギリスと同じく、アメリカの“ポチ”である国の国民としては(まあ、イギリスのほうは“スピッツ”だという人もいるが)、透徹した知性の歯に衣着せぬアメリカ批判、イギリス批判には、真摯に耳を傾ける価値がある。イギリスに生まれ育ち、しかもユダヤ系であるピンターが、自国とアメリカに対してこれほどまでに厳しい言葉を叩きつけるのは、功成り名遂げた文化人としての地位があろうとも、さぞや勇気の要ることだろう。まあ、どこぞのお坊ちゃま首相が書いた美しい妄想を読んでる暇があったら、こっちを読んだほうが、リアリティーというものについて、ずっとましな考察ができるにちがいない。

 本書に収められた講演やエッセイには、内容の重複がかなりあるけれども、重複しているがゆえに、ピンターの主張にぶれがないことがかえってよくわかる。最も痛快だったのは、「アーサー・ミラーの靴下」と題する小文だ。一九八五年、国際ペンクラブ代表として、軍事独裁政権下のトルコでの文学者に対する投獄・拷問を含む迫害の実態を調査しに訪れたアーサー・ミラーとピンターが、現地のアメリカ大使館の晩餐会に招かれた。主賓のアーサー・ミラーは、「アメリカは民主主義国であるのに、我々が訪問しているこの国を含む世界中のあらゆる国々の軍事独裁政権を支持しているのは、いったいなぜなのか」と問いかけるスピーチを堂々と行なった。食後、アメリカの大使と補佐官たちは、なぜかアーサー・ミラーにではなく、ピンターに歩み寄ってイチャモンをつけはじめた……という話なのである。結局、アーサー・ミラーとピンターは大使館を追い出されてしまうのだが、ピンターのサゲ(?)がかっこいい――「アンカラのアメリカ大使館から、望んで追放されたアーサー・ミラーと一緒に放り出されたのは、私の生涯の最も誇らしい瞬間のひとつだった」

 ちなみに、本書にも訳出されている、ピンターのノーベル文学賞受賞記念講演“Art, Truth & Politics”は、ノーベル賞の公式サイトで全文が読めるし、講演の動画も観られるYouTube にも上がっているけれども、画質・音質は、ノーベル賞サイトの RealPlayer 用ファイルのほうがずっといい。Windows Media Player 用ファイルがないあたりが、よくも悪くもヨーロッパだよねえ。

 思うに、現代において最も厄介な事実は、アメリカ合衆国というきわめて特殊な国が最も強大であるということなのかもしれない。


pinter nobel lecture



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2007年5月15日 (火)

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫JA)

 もう九年ほども前のことだ。おれも連載を持っていたウェブ雑誌の〈SFオンライン〉で表題作「沈黙のフライバイ」のダウンロード販売がはじまったとき、おれは「おお、時代が変わってゆくのをおれはいま目の当たりにしている」と興奮したものである。当時はまだ“SF冬の時代”といった感覚的な表現が既成事実であるかのようにまかり通っていたころであって(じつのところおれは、あの時代は、表現形質に顕れてこない“SFの中立進化”が深く静かに進行していたのだろうと思っている)、そこへ直球ど真ん中の地味なファースト・コンタクトSFがウェブマガジンのダウンロード販売といった場から飛び出してきたのだから、快哉を叫んだ人も少なくなかった。

 ま、年寄りの回想はほどほどにしよう。いや、もっとむかしを回想しようか。アポロ11号が月に着陸したころ、もう宇宙旅行(“旅行”と呼ぶには、まだあまりにも過酷だが)は現実のものなのだから、SF作家は飯の食い上げだなどという議論が一部にあったと聞く。アポロ11号はおれたちの世代にとっては人生がひっくり返るようなリアルタイムの衝撃的な体験なのだが、さすがにそのころはSFをめぐる議論のことなんて、晩稲のおれは知らない。

 実際には、アポロの月着陸くらいで宇宙SFは滅びなかった。あたりまえだ。むしろ、みなが日常的にGPSを使い、スペースシャトルが飛んでも驚きもせず、日本人宇宙飛行士が珍しくもなく、誰もがふと Google Earth で自分の家を探してみたりするような時代になったからこそ、野尻抱介のストレートな宇宙SFは、われわれの夢をかき立てる。

 なぜか野尻抱介の宇宙SFを読むと、子供のころに段ボール紙やら竹ひごやらなにやらで作ったロケットの延長線上に、気負いも衒いもなく、素直に宇宙が広がっているような気になる。ひょいと手を伸ばせば届きそうなところに宇宙があるような気にさせられてしまうのだ。いや、実際そうなんだよ。それはそうなんだが、まあ、たいていの人は、ひょいと背伸びをすれば宇宙に手が届くとはふだん思っていない。

 まあ、騙されたと思って本書を読んでごらんなさい。表題作「沈黙のフライバイ」はもちろん、「轍の先にあるもの」「片道切符」「ゆりかごから墓場まで」「大風呂敷と蜘蛛の糸」と、どの収録短篇を読んでも、明日にでも自分が宇宙に行けそうな気分にさせられてしまう。これは野尻抱介が実際の宇宙開発技術によく通じていて、どこまでがいますぐにでも(リソースさえあれば)実現できて、どこからが想像の翼の力を借りねばならない領域なのかを知悉しているからこそできる藝当なのだ。つまり、野尻抱介は、「ほら、こんなふうにすれば、もうあなたは宇宙にいて、そこではこんなことが……」と、活字を使っておもしろ実験をしてくれる宇宙のでんじろう先生なのである。

 日曜大工が好きなお父さん、凝った料理が好きなお母さん、そしてもちろん、すべての子供たち、若者たちにお薦め。宇宙はすぐそこにある。いや、〈いま・ここ〉は、最初から宇宙の一部なのだ。



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2007年5月 8日 (火)

『忘却の船に流れは光』、待望の文庫化

 「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」でSFファンを呆然とさせた空前の問題作『忘却の船に流れは光』田中啓文)がハヤカワ文庫になって登場。明日発売。アマゾンでは予約受け付けがはじまっている。

 まあ、なんちゅうか、知ってる人は知ってるだろうが、ものすごい作品である。文庫解説は、あろうことか、おれ。というか、これは解説なのだろうか? 作品が作品、作家が作家であるからして、いままで文庫解説ではやったことのないようなノリでやってみたのだ。怒らないでね。さらに、著者による「文庫版のためのあとがき」が新たに加わっているという(おれもまだ読んでないのだ)。えらいことになっているかもしれない。楽しみなような、怖ろしいような……。

 い、言っとくが、いつもこんなふうに書いてるわけじゃないからね!


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2007年4月26日 (木)

『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)』(渡辺千賀/朝日新書)

 「ヒューマン2.0」なんて、なにやらミュータントもののSFにそのまま使えそうなタイトルだが、そういう本じゃなくて、シリコンバレー在住のキャリアウーマンが、シリコンバレーなる天国のようでもあり地獄のようでもある奇跡的な異界に棲息する人々の生態を、赤裸々に面白おかしく真面目に紹介している好著。ほとんど軽いブログのようなノリで書かれているから、息抜き、暇潰しにつるつる読める。

 “シリコンバレー”と聞くと、おれなどは、石を投げるとまずスーパーエンジニアに当たり、そこで跳ねた石がノーベル賞を受賞した科学者に当たり、そこで跳ねた石が海千山千のスーパービジネスマンに当たって落ちるかと思うと投資家の口の中に飛び込んで金になって戻ってくる――みたいなイメージを漠然と抱くわけだが、本書を読むと、その軽いノリの中から、アメリカが生んだこの特殊な空間の“息吹”が生々しく伝わってくる。意外とセコくてショボくてあくせくしているが、スゴいところはとてつもなくスゴいという、等身大の“シリコンバレー人間交差点”である。こういう切り口でシリコンバレーを語り、ひいてはワークスタイル変革の最先端に迫るというアプローチは、ありそうでなかったんじゃなかろうか。テクノロジーにまったく関心がない人でも読めるし、また、読んで面白いと思う。『渡る世間はギークばかり』とかなんとかいうタイトルにして、本書をベースにテレビドラマでも作ったら、けっこうウケるにちがいない。

 それにしても、“不自由なくらいに自由”ということもあるのだなあと妙に考えさせられた。若い人たちがこういうのを読んで、「おおお、ここにはおれが求めているものがある。よし、おれもいっちょ、シリコンバレーで一旗挙げてやるか!」と燃えるのは大いにけっこうなことだと思うのだけれども、はっきり言って、おれみたいにあんまり社交的でないおじさんは、読むと疲れます。こんなに宙ぶらりんで慌しい思いをしなければならないくらいなら、地位も名誉もお金も要りません、ウチ帰ってSF読んで屁ぇこいて寝ます。

 とはいえ、ウチ帰って屁ぇこいて寝る人ばかりでは技術もビジネスも進歩しないので、若い人にはやっぱりこういう環境に憧れてほしいと思うぞ。仮におれが天才級の技術者であったとしても、こんなに振幅の大きな生きかたは、話を聞くだけで疲れるけどな。しんどい。基本的に、おれはなにをするにも、エネルギーというかガッツというか、そういうなにかしらが決定的に欠けている。先天的疾患じゃないかと思うくらい、野心というやつがない。もう二十年若かったとしても、シリコンバレーにはまるで向いていなさそうだ。やっぱり、「肉食ってるやつらにはかなわんわ」というのが率直な感想なのでありました。納豆ばかり食っているおれなどとは、ベースのところのエネルギー準位がまるでちがう。

 というわけで、「自分は技術の天才だ」と思う方、または「家族を砦にアウトドアライフを楽しんで、庭でトマトを育てながら技術に関わる仕事をしたい」という方は、是非一度シリコンバレーで働いてみてください。

 ……というのが著者からのお勧めである。お、おれはけっこうです。ウチで本読んで屁ぇこいて寝たいです。

 若い人は信じないかもしれないが、そのむかし、おれたちの二、三年上の世代からおれたちの数年あとくらいまでの世代を、当時の世間は“新人類”と呼んだものだけど、なんのなんの、このシリコンバレーの“ヒューマン2.0”に比べれば、おれたちなんぞ、ほとんど旧人類の亜種、せいぜい“ヒューマン2.0β”か、よくても“ヒューマン2.0 RC”くらいだろう。

 こういう愉快な本は、十代、二十代の人が読んで、ぜひ現実的オプションとして憧れてほしいもんだ。おれには、こういう生きかたは眩しすぎる。晩飯のコンビニ弁当買うときに、四百九十円のにするか五百二十円のにするか悩んだ末、思い切って五百八十円のゴージャスなのを買ってしまった日には、なにやら分不相応なことをした罪悪感のようなものを覚えて落ち着かない……といった生きかたが、おれには身の丈