カテゴリー「本の紹介」の58件の記事

2010年11月29日 (月)

未来から来た工作員?

 先日の『小島慶子 キラ☆キラ』で、映画評論家の町山智浩氏がアメリカで上映中の Fair Game という映画を紹介していた。(映画公式サイトはこちら

 この原作本は、元CIAの女性秘密工作員が書いたもので、CIAの検閲によって「むかしの日本の終戦直後の教科書みたい」((C)町山智浩)なありさまになっており、あちこち黒塗りだらけというすさまじいものらしい。裏返すと、「書いてもいい」とCIAが許してくれた部分だけが堂々と出版されているわけで、CIA公認の暴露本と考えてもよいのだ。

 面白そうなので、先日 kindle を買ったのをよいことに、さっそく原作の kindle 版を買ってみた。安いなあ。個人の消費者にとっては、円高万々歳である。

 紙版は墨塗り教科書みたいだということだが、電子書籍はどうなのかとパラパラ見てみると、こんな感じ―― 

[Text has been redacted here.] but I thought if it didn't pan out, I could find something on Capitol Hill or in the Peace Corps.  In the meantime, I found a job as a management trainee with a [Text has been redacted here.]  Washington department store [Text has been redacted here.].

 なにやら朝比奈みくるが書いたかのような独特の味わいが捨て難い。紙では出せない電子書籍の味とでも申しましょうか。丸谷才一「年の残り」のようでもあり、筒井康隆「弁天さま」のようでもある(そうかぁ?)。まあ、電子書籍でも■■■■■■■■■■■■■■とでもすれば、それなりに紙の黒塗りの真似はできるだろうけどなあ。


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2010年5月30日 (日)

平成5年の電子書籍

 おや、あなた、iPad を買いましたか。これで電子書籍の読み放題だって? 今年は電子書籍元年となるだろうって?

 はっはっは、なにを寝ぼけたことを言っているのだ。そんなことを言っている人は、『死ねばいいのに』。電子書籍など、平成5年(1993年)に、そこいらの書店で売っておったわ。

 その名も《新潮電子ライブラリー》、記念すべき第一巻は安部公房「飛ぶ男」である。腰巻にも、「創刊! デジタルブック」などと麗々しく記されている。

 おれは、いまでも持っているので、それがいかにハイテクな書籍であったか、さっそくお目にかけよう。

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 どうだ? いまでも、MS-DOS Ver.2.11 以上が走り、OSが起動した状態でのフリーメモリが550Kバイト以上もあるというハイエンドな PC-9800 シリーズをお持ちの方であれば、いつでもこの電子書籍を楽しむことができる。残念ながら、おれ自身はもはやこの電子書籍を読むことができないのではあるが……。

 え? なんだって? キミは中学生か? 「その、電子書籍とやらが入っているらしい黒くて四角いものはなに?」って? はっはっは、これは3.5インチフロッピーディスクという、当時最先端の可搬型磁気記録媒体だ。いまでも、一部では現役で使われているぞ。

 なに? 「それにはどのくらいのデータが入るのか?」って? そうだな、当時の PC-9800 シリーズの支配的フォーマットであれば、1.2MB ものデータを記録することができる。「へー、この大きさで 1.2TB! それはすごい!」って? あんじょう見てみぃ、メガや、メガ



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2008年12月14日 (日)

『かんなぎ (1)~(6)』(武梨えり/REX COMICS)

     

 テレビアニメが回を重ねるごとにおれのツボにハマってくるものだから、原作でもあんな好き放題の悪ふざけをやっておるのか確認したくなり、既刊六巻を一気読みしてみた。まだ完結してない(のだが、なにやら作者体調不良のため長期休載に入ったとのこと)。

 うう~む。アニメのほうが遊びが多いが、基本的には、非常に原作に忠実であることがわかった。面白いじゃん。妾はこういうのは好きじゃ。妾は雑誌でほとんどマンガを読まぬ単行本一気買いタイプのマンガ読者なものじゃから、このような奇ッ怪なコメディーがアニメ化されるほどまでに人気を博しておったとは、神ならぬ身の知る由もなかったのじゃ。土曜のど夜中にだしぬけに威勢のいいアイドル歌謡がはじまったので、ななななにごとかとテレビを“二度見”したところ、「シリーズ構成:倉田英之」というクレジットが出たもんだから、あ、これはひょっとして妾が観なければならぬ作品かもしれぬと毎回観ているうちにハマってしまった。

 それにしても、この武梨えりという人、おれは全然知らなんだのだが、不思議な雰囲気を醸し出すマンガ家ですなあ。線が清潔で目に心地よいのもいいが、なんとも言えぬ“昭和の薫り”がぷんぷんしてくるのはどういうわけだ? この人、二十代なんだよね? なんでじゃーーー!? いやまあ、もちろん、ディテールには平成のサブカルが横溢しているのだけれども、基本、これって『ど根性ガエル』みたいなもんだよね? カエルがシャツに貼りついてしゃべりだすのと、木彫りの像に神様が降りてきて動き出すのと、べつにそう変わらん。ちょっと諸星大二郎テイスト入ってるのもいい。《栞と紙魚子》(あるいは《妖怪ハンター》)風の『ど根性ガエル』だと考えれば、なるほど納得はゆく。

 まあ、主人公のナギに性経験があったと解釈できる描写に、妙な方向に過剰な感情移入をしている一部のファンが怒り狂っているらしく、それが休載と相俟ってさまざまな憶測を呼んでいると報道されているのだが、妾にはそういう妙なファン心理はとんと理解できぬ。そもそも土着の神様なんてものは、洋の東西を問わず、ふつうバッコンバッコンやりまくっておるものじゃ。ちょっとキリスト教に毒されすぎておるのではないか? 女性として顕現した神様が処女だなどと思うておるほうがどうかしておる。むしろ、バッコンバッコンやりまくっておるからこその神様じゃ。

 なんでも、出版社の発表によれば、武梨えりは緊急に手術が必要であったほどの病状とのことで、そりゃたいへんだ。テレビアニメ化でにわかに脚光を浴びて、過度なプレッシャーがかかったのかもしれんなあ。命あっての物種だ。ふつーにマンガ作品として楽しんでいる読者は続きを楽しみにしているわけだから、ここはひとつ、じっくりゆっくり養生してから、ぼちぼち頑張ってもらいたい。ま、七巻が出るころには、アマゾンからお知らせメールが来るにちがいないのだ。それがいつになろうともね。「続きはいつ出るんだろう?」とまったりと年単位で待つのには、とくにSFファンという人種は慣れているのである。「あ、知らないうちに続きが出てた」なんてのを半年も一年も経ってから発見することも少なくないしね。

 まあ、武梨えり氏に於かれては、本が読めるほどに回復したら、若い人はたぶん知らないだろうと思うので、小松左京「歌う女」という短篇を探し出して読むことをお薦めしたい。どんな分野であれ、すべてのクリエーターにとってのほんとうのファンというのは、「あの人が歌うまでいつまでも待ちます」と言ってくれるファンなのだ。そういうファンをこそ、クリエーターは絶対に大事にしなくてはいけないと思う。たとえ、そうした結果、世俗的成功がついてこなくてもだ。そんなものがついてこなくても、クリエーターとしてのほんとうの足跡が残せるのは、そういうファンの心の中にだけである。

 武梨えりさん、お大事に。



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2008年9月25日 (木)

『量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在』(コリン・ブルース/訳:和田純夫/講談社ブルーバックス)

 おれはいくつかある量子力学の解釈というものは、あくまで“解釈”であって、どの解釈を取るかは好みの問題にすぎないのではないか、しょせん、“ほんとうに”なにが起こっているのかなど、おれたちにはわかりっこないのではないか、宇宙が“そういうふうに”ふるまうのであれば、どう解釈しようが受け容れるしかないではないかくらいに思っていた。

 だが、この本を読むと、なるほど多世界解釈というのはとても合理的で、オッカムの剃刀の切れ味が冴える考えかたなのだということがよくわかった。これが“正しい”んじゃないかと、ほとんど説得されそうになっちゃいましたな。惜しむらくは、おれには「多世界解釈はおかしい」と自信を持って反論できるだけの、あるいは、多世界解釈を強力に推すだけの、知識も能力もない。「なるほど、言われてみればそうですな」くらいの感じで、ほとんど納得しちゃうのである。近年の実験も多世界の実在を“示唆”(“証明”じゃないのだ。ここ重要!)しているとあっては、素人としては説得される以外にないじゃないか。

 「まえがき」には、非常に挑発的かつ魅力的なくだりがある――「ここ数年【冬樹註:原著の刊行は二〇〇四年】、量子論の暗がりに突然の輝きが見られた。半死半生の猫、あるいは宇宙全体の状態を収縮させる力を備えた、意識を持つ観察者といった不思議な登場人物が現れる古い物語は、時代遅れとなった。新しい物語がいくつか登場し、そのうちの1つは特に有望である。それは我々に、古典的な宇宙を取り戻させる。ものごとはランダムではなく予測通りに振る舞い、相互作用の働く範囲は長距離ではなく局所的である。しかし犠牲も払わねばならない。我々が住む宇宙は、考えていたよりもはるかに、予想外の意味で広大であることを受け入れなければならない」

 まあ、実際になにが起こっているのか、あるいは、量子力学的な現象をどう解釈す“べき”なのかについては、おれにはなんとも言いようがないのだが、ひとつたしかなのは、おれは多世界解釈が好きだということである。実際にこのようなことが起きているのであってほしいと思う。だって、なにより、こうであったほうが面白いじゃないか!

 意識を持った存在とやらの“観測”が全宇宙のありように影響を及ぼすなんて考えかたは、どうも気色が悪い。意識を持った存在に特権的地位を与えているのが、なんとも気味悪い。そんなふうに思う人には、本書は一読の価値があると思うよ。あなたが物理学者であればいろいろとツッコミどころもあるのかもしれないが、そうじゃなければ、たぶん説得されちゃうと思いますな。少なくともおれには、意識を持つ存在になにか特別な力があると思うよりは、おれがいま認識しているこの世界とは決して情報交換できない世界がいっぱいあると考えるほうが、よほど合理的に思えるよ。



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2008年9月 9日 (火)

『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』(佐々木正人/光文社新書)

 いやあ、すごい世界だなあ。おれはスポーツとはほとんど縁のない人生を送ってきたが、おれなどからは超人としか見えないような人々が、いったい全体、主観的にはどのような世界を感じているのかということには、たいへん興味がある。本書は、認知科学に於けるアフォーダンス理論のわが国での第一人者、佐々木正人氏が、常人の実感も想像も超えた独自の宇宙を体感している十六人のトップアスリートたちにインタビューを試みた刺激的な仕事である。トップアスリートが“環境”からどのような情報を受け取り、それをどう制御しているかを、主観的な言葉で表現するというのには、たとえば、才能に恵まれた数学者が、高次元空間の抽象的な幾何学を「これをこうすると当然こうなります」などと、あたかも日常的な三次元空間の物体を手に取って動かしているかのように語るのを聞いているみたいな不思議な感じがある。

 興味本位で読みはじめたところが、あまりに面白いのでつるつる読める。この人たちは、ほんとうに人間なのか。というか、人間だとしたら、人間の認知能力というのはどえらいものであるなあと、改めて感じ入る。

 潮田玲子(バドミントン)は、本書のタイトルどおり、初速が時速250キロで0.3秒後には時速50キロにまで減速するシャトルの動きを、コート上の空間を二十分割して瞬時に捉えているそうな。鈴木亜久里(F1)は、「見ることと思考の回路は全然違うところにあると思う。流れ作業をやっている人が会話してても、作業してるじゃないですか。それと同じように300kmで走っていても普段と同じように冷静に考えられるんです」と語る。船木和喜(スキー・ジャンプ)によれば、「冬と夏だと風の重さが違」うそうで、武田大作(ボート競技)は、オールを水に入れるのは「豆腐に包丁を入れる感じですね。豆腐に包丁を入れて壊さないで後ろへ持っていくような感じです。水を壊しちゃ絶対にダメです」などとお料理教室のようなことを言う。「シドニーはとにかく全体が重くて硬い感じで、アテネは比較的好きな感じのタイプでした。全体が重くて硬いというのは、グラデーションがないということです。シドニーのほうが、硬くてコキコキしていた」武田美保(シンクロナイズド・スイミング)が語るのは、プールの水の話なのである。

 なんというか、おれの日常感覚とはかけ離れた、とてつもない感覚だ。おれのようなスポーツ音痴にとっては、まるで山田風太郎忍法帖でも読んでいるかのようだ。

 彼ら・彼女らの主観的表現を科学的にどうこう言うことにはあまり意味がない。彼ら・彼女らが、信じられないほどの鋭敏な感覚で主観的に環境を捉え、それを制御しようとするさまを常人になんとか伝えようとするときに、なんだか山田風太郎じみてくるだけのことである。人間の認知能力とは、なんとものすごいものかと感動する。

 自身でスポーツをやる人はもちろん、スポーツに縁のない人にも面白いこと請け合い。これはね、トンデモとは一線を画するフィールドワークですよ。歴とした認知科学の仕事でしょうね。



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2008年9月 6日 (土)

『ディファレンス・エンジン』が復刊されたぞ!

  おおお、「『ディファレンス・エンジン』(ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング/黒丸尚・訳/角川書店)の復刊希望。こういう記念碑的古典(というには新しいが、やっぱり“スチームパンク”という意味では古典だよなあ)が古本でしか入手できないのは、じつにもったいない」などとほざいていたら、ほんとうに復刊されてしまったぞ。しかも、ハヤカワ文庫として。会社の帰りにリアル書店に寄ったら平積みされていた。どこかでどこかでエンジェルがちゃんとちゃんとちゃちゃーんと眺めてるにちがいない。まあ、おれ以外にも復刊しろしろと願っていた人はたくさんいるだろうけれども。

 十七年前にはまだ字が読めなかった若者よ(奇しくも、いわゆる“デジタルネイティブ”のほんのちょっと上の世代から、もろの世代までを含むな)、古本で読んでいなければ、今回は読もう。まあ、今後、遠い未来まで、絶版・復刊を繰り返しては、それでも読み継がれてゆくにはちがいないが、今回手に入れ損ねたら、また二十年近く待たなきゃならないかもしれないぞ。

 ふと生まれてみるとコンピュータがブラックボックスとして身のまわりにあったキミたちよ。“蒸気コンピュータ”がシュッポシュッポ(?)と稼動する、もうひとつの歴史を堪能せよ!



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2008年7月14日 (月)

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 九年前に読んだ同じ著者の『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』が“アタリ”だったもんだから、今回のコレは、けっこう期待して読んだ。結論から言うと、やっぱり“アタリ”だな、これも。

 アロウの不可能性定理ハイゼンベルクの不確定性原理ゲーデルの不完全性定理と、社会科学、物理学、論理学が生んだ“これはそもそも無理ですから”という、三つの知の到達点を軸に議論を展開してゆく。いろんな分野の学者はもとより、会社員や運動選手といったパンピーも登場するソクラテス式の対話をフォーマットに議論が展開されてゆくので、難解な話になってもとても読みやすい。なんとなく、筒井康隆「マグロマル」の哲学版みたいだ。しばしば話に割り込んでは、カントに立ち返ろうとする“カント主義者”ってのは、「マグロマル」で言えば、さしずめ「ワシ、メシクテクル」ばかり繰り返しているガドガド人の役回りといったところだ。

 はっきり言って、本書で取り上げられている議論の多くは、思弁的なSFを好む人なら基礎教養として持っているような話ばかりである。つまり、逆に言うと、思弁的なSFを楽しみたい読者には、お薦めの良書だということだ。不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理などに加えて、囚人のジレンマナッシュ均衡ラプラスの悪魔EPRパラドックスシュレーディンガーの猫パラダイム論チューリング・マシンなどなど、現代SF(とくにハードSF)を読むうえで必須のポピュラーなネタを、網羅的にわかりやすく簡潔に解説してくれている。すれっからしのSFファンにとっても、知識を整理したり、「こういう説明のしかたもあるのか」と改めて考え直したりするのには持ってこいの本だ。グレッグ・イーガンテッド・チャンがいまひとつわからない、楽しめないというSF初心者の方は、必読である。現代SFでポピュラーなネタをこれほどてんこ盛りに羅列して、シンプルに解説してくれている本はそうそうありません。理科系の人なら学生時代にどこかで触れるようなネタが多いだろうが、文科系の人にはてっとり早いお勉強に持ってこいである。

 「不可能性・不確定性・不完全性」と題していながらも、やっぱり著者の専門だから、ゲーデルの不完全性定理にはいちばん力が入っている。旧著『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』について、おれは「理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ」と評したが、本書では、ゲーデルの証明そのものにかなり深く突っ込んでいる。専門的な数学的記述を使わずに、ふつうの日本語で不完全性定理をこれほどわかりやすく説明した解説には、おれは初めてめぐりあった。むろん、これで不完全性定理を完全に理解したと思い込んではならないだろうが、少なくとも、どういうことをどういう方法で言おうとしているのかは、わかった気になれる。おれがもし、「不完全性定理ってなに?」と問われて説明しなくちゃならないような羽目に陥ったときには、本書の説明方法をパクらせてもらおうと思う。

 『ゲーデル 不完全性定理』(林晋、八杉満利子訳・解説/岩波文庫)にも述べられているように、ゲーデルの不完全性定理は、フィールズ賞受賞者の小平邦彦をして、「ゲーデルの定理を勉強したが、自分には難しかった。何とか判ったつもりだが、自信は無い」といった意味のことを語らせるほどのものなのである。おれもいろいろな一般向け啓蒙書や解説書を読んだが、数学的操作にかろうじてついてゆける程度であって、その意味するところがほんとうに心からわかったとはとても思えない。だもんで、新書一冊読んだくらいで不完全性定理を理解したと思い込むのは笑止千万であろうとは思うのだが、それでも本書は、じつにうまくゲーデルの証明の要諦を、日常言語で説明することに成功している。これは旧著『ゲーデルの哲学』を超えた成果だと思う。

 不完全性定理というと、なにやらすぐに“人間の知性の限界”といった話に過度に援用されてしまったりするのだが、じつのところ、上述の『ゲーデル 不完全性定理』や、存命中のゲーデルと会見した唯一のSF作家にして数学者、ルーディ・ラッカーInfinity And The Mind: The Science And Philosophy Of The Infinite によると、ゲーデル自身は、紛れもないプラトン主義者なのである。つまり、形式主義的数学を超えた次元で、数学的実体なるものがどこかに確固として存在しており、人間の知性にはそれを直覚する能力があると信じていたわけだ。不完全性定理を、過度にアナロジカルに、人文系の学問に援用したりすることの危険は、充分に認識しておくべきだろう。

 おれ自身、いつかは、この人類の知性のひとつの到達点を、心の底から“理解した”と言える日を迎えたいと思う。だが、哀しいかな、おれの頭脳では、いまひとつ心から“わかった”気がしないのである。老後には、こいつを徹底的に勉強したいと思う。死ぬまでには、わかりたいものである。



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2008年6月 5日 (木)

『DVD&図解 見てわかるDNAのしくみ』(工藤光子・中村桂子/ブルーバックス 講談社)

 うう~む。こ、これはすごい。もっと早く買っておけばよかった。

 ブルーバックスはブルーバックスなんであるが、本のほうはDVDのダイジェストみたいなもので、まず、いきなりDVDを観るのがいいと思う。それから本に目を通せばいい。これで千六百八十円は安い。ミニサイズのDVDが三枚付いていて(これは“付録”ではない。こっちがメインである)、最初多少DVDが取り出しにくいものの、それだけDVDをがっちり保護する厚紙を綴じ込んだ作りで、ふつうの新書となんら変わることなく、そのまんま安心して本棚に収納できる。

 おれもいままでいろんな科学書や科学雑誌や科学番組で、DNAのいろんな図解やアニメやCGを観てきたが、これほどの躍動感に打たれたものは初めてだ。DVDを観て呆然としてから、本書の「メーキング編」を読んで合点がいった。タイトルに「図解」とあるが、これはそんじょそこらの“説明のための映像”ではない。むしろ、“映像による動く模型”とでも呼ぶのがふさわしい。著者(というか、製作者というか)らは、さまざまな論文を確認し、針金のモールや紙粘土と格闘しつつ、納得のゆく“動くDNA”の手応えを得るために、手で触れられるDNAや酵素の模型を構築しながら、このCG作品をものにしたのだ。「表現すると見えてくるものがあるということをこれまで以上に強く確信」したという。さもありなん。これは、『超時空要塞マクロス』『マクロスF』などでおなじみのメカニックデザイナー&監督・河森正治の方法論そのままである。河森は、絵ならなんでもできてしまうからといって、どう見ても動きそうにない、飛びそうにないメカをデザインすることを潔しとしない。手を動かして、手で触れられる模型を作りながら、映像のためのメカをデザインしてゆく。そうした作業の中から、動きに説得力と躍動感がある、あのバルキリーなどが生み出されたわけである。「SFは絵だねえ」という野田昌宏宇宙大元帥のお言葉もあるが、二十一世紀的には、もはや「SFは模型だねえ」というのが妥当なのかもしれない。最終的なアウトプットが絵や文章の作品であっても、実際に模型を作ったうえで描く・書くくらいのこだわりが、圧倒的な説得力を生むのかもしれない。

 腰巻で福岡伸一も絶賛しているが、いわゆる“岡崎フラグメント”の生成の繰り返しによってラギング鎖側のDNAが複製されてゆくようすなど、いままで観たことのないダイナミックな映像である。ああ、こんなのが高校生のころにあったなら、おれは道を踏み誤って(あるいは、道を踏み誤り損ねて)いたかもしれないなあ。

 先日、郵便受けにどこかの教会の信者勧誘用小冊子が入っていた。おれを知る人はご存じのように、おれは宗教心のカケラもない人間であるが、どんな手を使っておるのかなあと興味本位に読んでみると、もはや使い古された“眼のような精妙な器官が進化などでできたはずがない。誰かが設計したのだ。ダーウィンだって困っていた”という例の論を中心に話を展開していたので、「けっ」と苦笑してゴミ箱に放り込んだ。えーと、この進化論への反論(?)そのものをご存じない方は、『イリーガル・エイリアン』(ロバート・J・ソウヤー)でもお読みください。

 きっと、この教会の人がこのDNAのDVDを観たら、「ほら、こんな精妙な仕組みがひとりでにできあがったはずがない。神秘を感じるでしょう?」などと勧誘してくるにちがいないが、残念でした、おれはこういうものに“神秘”などカケラも感じない。むしろ、“神秘”などというわけのわからないものが関与していないことにこそ、“驚異”を感じる。妙な言いかたかもしれないが、そこに“謎”はあっても“神秘”など介入する余地もないほどの“ミもフタもない精妙さ”があることに、一種の神秘を感じないでもないけどな。もっとも、おれはそれを“神秘”などとは呼ばないが……。そう、それは、ただただ純粋な“驚異”であり、“感動”であるだけである。

 こんなにお手軽ですごいものが出ているのだから、高校・大学の先生方は、ぜひ活用してほしいね。授業や講義で使えなくても、せめて推薦図書くらいには入れておいてほしい。何十人か何百人かに一人の学生が、“生命の驚異”(“神秘”じゃないよ、しつこいけど)に打たれて道を踏み外して(あるいは、道を見つけて)くれるなら、千六百八十円など安いものだろう。

 こりゃ、現代のSFファンは必読(ちゅうか、必見)の作品でしょう。やっぱり映像のインパクトはすごいわ。わかった気になっていただけのことを呆然と再発見し、「おれは浅はかだった」と打ちひしがれちゃいましたね。



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2008年4月18日 (金)

お役に立てたかな?

 ひさびさに《ヘンな検索語》シリーズである。今回は、ヘンというより、ちょっと喜ばしい。

「花の木登り協会」

 年配の方はご存じであろうが、『花の木登り協会』というのは、三十年以上もむかしに出たイーデス・ハンソンの風刺小説。なるほど、「花の木登り協会」で Google 検索すると、このブログのエントリーもヒットするな。

 近年は本の shelf life (日本語で正しくどう呼ぶのか知らん)が極端に短い。つまり、新刊として棚に並んでいる時間が短い。極端な場合は、書店に並んだ次の日に返本されてしまうそうだ。そんな時代に、三十年以上前の本について手軽に調べられ、また、そんなものについてもの好きにも書いているやつ(というのは手前のことだが)がすぐ見つかる手段があるというのは、まことに喜ばしいことである。

 そんなむかしの本についてたまたま調べた人の役に、少しは立てたのだろうか。おじさん・おばさん、爺さん・婆さんは、新しいことについて書くのもいいが、生きているうちに、古いことを書いてウェブに公開しておくのも、総体としてのウェブの価値を高めるのではないかと思う。そりゃ、アクセスは少ないだろうけどさ、いつかどこかの誰かの役には立つわけだよ。「ホワイト・ノイズの中から意味を汲み出す個別の利用者を想定したとき、はじめて個別に価値が生じる」のだ。

 アクセス数獲得に死ぬほど血道を上げるというのもひとつだろうけどさ、「いつかどこかの誰かの役には立つ」と信じて、気長にのんびりまったりとむかし話を遺しておくのも、またブログのひとつのありかただろうと思うわけなのよのさ(なぜピノコ語)。



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2008年3月 8日 (土)

CGMの資産価値

 昨日ネタにした mixi の規約改定騒ぎだが、おれはたぶん mixi の法務担当者がとんでもなく顧客視点を欠いたアホか、そもそも法務担当がいないのであろうと推測している。つまり、mixi の今回の大ボケは、mixi がいよいよ肥らせたユーザを取って食おうと、かねてから周到に研いでいた邪悪な牙を剥いたなどという上等な事件ではなく、単に mixi が上場企業としては信じられないレベルの幼稚な体制しか持っていない(下手すると、笠原社長は新規約を見てもいない)といった程度の、“はらほろひれはれ”なポカミスなのではないかと疑っているのだ。新規約とやらは、若造が適当にコピペして作ったのではないかとすら思っている。

 でも、もしそうではなく、一応ちゃんと考えて作って発表したのだとしたら、mixi はいわゆるCGM(Consumer-Generated Media ……って言葉は英語圏ではあんまり使われていないみたいなんだが)というものをまったく理解せずにそう呼ばれるサービスをうっかり提供してしまっているのではないかと思われる。

 今回の事件を機に、CGMなるものの資産価値は那辺にあるのかを、改めて考えさせられた。ユーザが作ったコンテンツに資産としての価値があるのか? いや、ちがうちがう。そう勘ちがいしがちだが、そうではない。コンテンツは、CGMの副産物あるいは老廃物にすぎないのではあるまいか――そう考えてゆくと、CGMの本質は、昨年のベストセラーにちゃんと書いてあった。なにしろベストセラーであるから、相当多くの人がすでに読んでいるはずなのだ。ちょっと長くなるが、あえて引用しよう。これこそ、CGMの本質、CGMの価値である。

 さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が、身体のタンパク質中の同一種のアミノ酸と入れ替わったのかどうかを確かめてみた。つまりロイシンはロイシンと置き換わったかどうかを調べたのである。
 ネズミの組織のタンパク質を回収し、それを加水分解してバラバラのアミノ酸にする。二十種のアミノ酸をその性質の差によってさらに分別する。そして各アミノ酸について、重窒素が含まれているかどうかを質量分析計にかけて解析した。確かに実験後、ネズミのロイシンには重窒素が含まれていた。しかし、重窒素を含んでいるのはロイシンだけではなかった。他のアミノ酸、すなわち、グリシンにもチロシンにもグルタミン酸などにも重窒素が含まれていた。
 体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、さらに細かく分断されて、あらためて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルということになる。これはまったく驚くべきことだった。
 外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。
 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。

―― 『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)

 ユーザが作ったコンテンツがCGMの資産価値だと思うのは、アミノ酸やタンパク質やDNAに蓄えられている情報が生命の本質だと思い込むようなものだ。ちゃうちゃう。そこにある“流れそのもの”がCGMの資産価値なのである。

 CGM(って言葉自体、おれはあんまり好きじゃないけど)を“マネタイズ”したいと考える企業家たちは、基礎教養として生物学を学ぶべきではないかとすら、おれは本気で思う。うまくすれば、大腸菌に人間にとって有益な物質を作り続けさせたり、DNAに演算をさせたりするようなことが、CGMを利用したビジネスモデルにも可能であるかもしれないじゃないか。



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