カテゴリー「テクノロジー」の136件の記事

2013年3月 6日 (水)

わが家の電器製品の海外メーカー比率 2013

 昨年二月に、「わが家の電器製品の海外メーカー比率」ってのをやったので、そろそろ更新しておくとしよう。

 例によって、★が海外メーカーである。

  ●テレビ(メイン) ―― 東芝
  ●テレビ(メイン)用ハードディスク(1) ―― バッファロー
  ●テレビ(メイン)用ハードディスク(2) ―― バッファロー
  ●テレビ(メイン)用外部スピーカー ―― 東和電子
  ●テレビ(サブ) ―― BLUEDOT
  ●テレビ(サブ)用外部スピーカー ―― エレコム
  ★パソコン ―― acer
  ●パソコン用モニタ ―― 三菱電機
  ●パソコン用スピーカー ―― オーディオテクニカ
  ★ワイヤレスキーボード・マウス ―― ロジクール
  ●プリンタ ―― ブラザー
  ●エアコン ―― ナショナル(パナソニック)
  ★扇風機 ―― EUPA(燦坤日本電器)
  ★サーキュレータ ―― Honeywell
  ●洗濯機 ―― ナショナル(パナソニック)
  ●冷蔵庫 ―― 三菱電機
  ●電気ポット ―― タイガー
  ●電子レンジ ―― パナソニック
  ●オーブン&トースター ―― 象印
  ●電気掃除機 ―― 日立
  ★スマートフォン ―― SAMSUNG
  ●PHS(1) ―― 京セラ
  ●PHS(2) ―― 京セラ
  ●PHS(3) ―― 京セラ
  ★Androidタブレット(1) ―― acer
  ★Androidタブレット(2) ―― amazon
  ●モバイルWi-Fi/WiMAXルータ ―― 日本電気
  ●据え置き電話 ―― 三洋電機
  ★携帯音楽プレーヤー ―― Apple
  ★電子書籍リーダー ―― amazon
  ●コンパクトデジタルカメラ ―― リコー
  ●ポータブルラジオ ―― ソニー
  ●腕時計 ―― カシオ
  ●置き時計(1) ―― カシオ
  ●置き時計(2) ―― シチズン
  ●目覚まし時計 ―― カシオ
  ●掛け時計 ―― カシオ
  ●楽器(電子キーボード) ―― ヤマハ
  ●楽器(オタマトーン) ―― 明和電機

 あまり大きく出入りがあったわけではないが、Kindle Fire HD で海外モノが増えたのを、三台の日本製PHSで挽回(?)している。

 それにしても、こうして見ると、昨年の時点で、わが家からシャープ製品はすっかり姿を消していたのだな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年7月31日 (火)

火を噴くガメラ?

 ケンタッキーフライドチキンの期間限定新商品「ファイヤーウィング」ってやつを買ってみた。まだ食ってないので味はわからない。あとで食う、あとで。

 そんなことより(をい)、上記商品のテレビCMで紹介しているAR(拡張現実)っぽいおもちゃを、チキンも食わずにさっそく試してみた。CMってのは、こんなやつだ。

 スマートフォンでKFCの公式アプリ(iPhone用とAndroid用がちゃんとある)をダウンロードして起動し、上のCMでお父さん役の男がこれ見よがしに指に装着している紙の指輪(この辛いチキンに付いてくる)の表面のパターンをカメラに認識させる。アプリが指輪を認識すると、カメラの映像の中に、ゴォオオオオオオという音と共に炎が現れるという寸法である。

Fire_wing1

 なにぶんにも独り者だもんで、おれが火を噴いているところを誰もスマホで見てくれないから、自分の手が火を噴いているのを寂しくキャプチャーしてみた。

 ほんの数年前には、ARなんてものをIT関係者でもないSFファンでもないそこいらへんの人に説明するにはずいぶん手間がかかったもので、「ほれ、『電脳コイル』みたいなやつ」と言っても、もちろん相手はそんなもの観ていないから余計に話がややこしくなり苦労した。それがどうだ。いまや、新聞やらカタログやら英語の教科書やらカーナビやらなにやら、あっちゃこっちゃARだらけである。とうとう、揚げかしわ食うときまでARだ。

Fire_wing2

 独りでやっててもあんまり面白くないんで、すぐ飽きる。が、家族持ちの方々には、ぜひ試してほしいことを思いついた。

 お父さんがこの指輪を着けて立ち小便をしているところを、横から奥さんやお子さんがスマートフォンで見たら、さぞやワイルドな画になるにちがいない。父親の威厳というものを家族に示すよい機会と言えよう。ぜひ、やってみていただきたい。

 また、この指輪はサイズの調節ができるように段階的に切れ込みが入っており、指よりも相当太いものにも巻けるようになっているから、両手が空いたお父さん自身も、お父さん自身が火を噴いているところを見られるはずだ。ワイルドだろぉ?



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年4月23日 (月)

怒りのあまり暴徒と化した場合の心がけ

 おれは、まず脱原発をゴールとしっかり決定し、それが完了するまでのあいだは、危険性の少ない炉から博打を打って再稼働しろ(どのみち、動いていようが止まっていようが、廃炉を完了しないかぎり、危険性は大きくは変わらない)という考えだが、今回の大飯再稼働の政府の手順はあまりにもむちゃくちゃで、たいへん心配している。

 なにを心配しているかというと、もし大飯でまた福島に匹敵するようなことが起こったら、さすがにおとなしい日本人も黙っていないだろうということだ。そらみたことかという怒りのあまりに感情の箍が外れた一部の人々が暴徒と化し、今回むちゃくちゃな手順で再稼働を推し進めた政治家どもを吊るしにかかるだろう。事故の翌朝には、野田仙谷枝野細野はズタボロの肉塊と化し、ムッソリーニのように永田町の路傍に逆さ吊りにされていることだろう。道行く人はその肉塊に石ころや人糞を投げつけてゆくかもしれない。

 まあ、不誠実な嘘つき政治家どもはべつに吊るされてもいいのだが、おれがほんとうに心配しているのは、原子力関係の科学者や技術者たちである。民衆が怒りにまかせて彼らまで吊るしてしまったら、直近の事故に対処できる人材が減るし、廃炉のために働いてもらわねばならない人材も減る。そうなったら、もうどうしようもない。

 だから、これからもし、政治家がめちゃくちゃな手順で強引に再稼働した炉になにかあっても、そりゃまあ、お怒りになるのはごもっともだが、科学者や技術者は軽々に吊るしたりしないでほしい。その怒りは、政治家や官僚に向けてほしい。腹立たしいことではあるが、学者や技術者たちには、ケツを拭いてもらわなくてはならない。何十年かかるかわからないが、きちんと全炉を廃炉にするには、たとえこれから原発事故が何回か起こったあとであっても、ちゃんと原子力分野の学者や技術者を新たに養成してゆかねばならないのだ。現状レベルの政治家の代わりなんていくらでもいるが、社会から白い目で見られながら、終わってゆく分野に一生を捧げようと研究・研鑽してくれる科学者や技術者は、今後はそうそう出てこない。かけがえのない存在だ。

 というわけで、もしあなたが暴徒と化した場合でも、たまたま目に入った科学者や技術者の脳天をかち割ろうと振りかぶったゲバ棒(いつの言葉だよ)をぐっとこらえて、嘘つき政治家や自己保身官僚のほうに振り下ろしていただきたい。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年2月11日 (土)

未来人たちがそんなにお人よしだとは思えない

 クライオニクスcryonics 人体冷凍保存)ってやつがありますわな。自分が死んだあとにも遺体を冷凍保存しておいて、遠い未来の科学技術で復活させてもらおうというやつだ。現代の医学では治療できない病気に冒された人を冷凍保存しておいて、未来の進んだ医学で治療してもらおうという試みも含む。『ブラック・ジャック』にもそんな話がありましたよね。「未来への贈り物」だっけか。

 このクライオニクス、アメリカなどでは歴とした商売にもなっている。お金持ちは遺体をまるごと冷凍保存するわけだが、貧乏人(?)のためには、脳だけ冷凍保存するコースなどがあったりする。なにしろ未来のことだ。脳だけでも保存してあれば、記憶や人格を再構成して、なんらかの媒体にロードして“走らせる”ことが可能になっているにちがいない――と、ナイーヴに信じることができる人たちが、こういう会社と契約するのだろう。有名どころでは、SF評論家・作家のチャールズ・プラットが、不思議なことに、クライオニクスに本気で取り組んだりしている。

 でもなあ、おれにはこんなもの、とんでもなく愚かなファンタジーだとしか思えない。

 だって、考えてもみてほしい。いまから、千年か、五千年か、二万四千年かのちの世の人たちが、二十世紀や二十一世紀に交わされた商取引契約に則って、なにが哀しゅうて、むかしの人間を蘇らせにゃならんのだ? たとえそういう技術が確立していたとしても、勝手に未来に先送りされた厄介な問題を、未来の人たちがわざわざ律儀に解決せねばならん義理などあるものか。

 そう考えると、いまクライオニクスの会社と契約して、いつか復活させてもらえるかもしれないと未来に希望を託している人たちの“遺体”など、当の未来人たちにとっては、使用済み核燃料みたいなものである。

 未来人たちは言うだろう。おまえらのファンタジーを勝手に未来に押しつけるな、と。こんなものを保存するために、貴重なエネルギーを使ってきたのか、と。おまえらのせいでこんなとんでもない未来になっているというのに、未来の超技術で生き返らせてもらおうなどと虫のいいことを考えていたやつらの“遺体”が、こんなにたくさん冷凍保存されているとは、バカバカしいことおびただしい、と。

 そこで、彼らは気づくのだ。

 待てよ……使用済み核燃料とちがって、これはこれで、貴重な蛋白源だ、と。


| | コメント (5) | トラックバック (0)

2012年2月10日 (金)

わが家の電器製品の海外メーカー比率

 2012年2月7日(火)放送の『Dig』(TBSラジオ)-「家電業界の未来は?」を、昨日風呂の中でポッドキャストで聴いていて思った。ふーむ、なるほど、最近、日本の家電量販店にも、海外メーカーの製品が増えてきたなあ。そういえば、うちにもかなり海外メーカーの製品があるぞ。そうだ、いっぺん数え上げてみよう……。

 さっそく、やってみた。★が海外メーカーである。

  ●テレビ(メイン) ―― 東芝
  ●テレビ(メイン)用ハードディスク ―― バッファロー
  ●テレビ(メイン)用外部スピーカー ―― 東和電子
  ●テレビ(サブ) ―― BLUEDOT
  ●テレビ(サブ)用外部スピーカー ―― エレコム
  ★パソコン ―― Acer
  ●パソコン用モニタ ―― 三菱電機
  ●パソコン用スピーカー ―― オーディオテクニカ
  ★ワイヤレスキーボード・マウス ―― ロジクール
  ●プリンタ ―― ブラザー
  ●エアコン ―― ナショナル(パナソニック)
  ★扇風機 ―― EUPA(燦坤日本電器)
  ★サーキュレータ ―― Honeywell
  ●洗濯機 ―― ナショナル(パナソニック)
  ●冷蔵庫 ―― 三菱電機
  ●電気ポット ―― タイガー
  ●電子レンジ ―― 三洋電機
  ●オーブン&トースター ―― 象印
  ●電気掃除機 ―― 日立
  ★スマートフォン ―― SAMSUNG
  ●PHS ―― SHARP
  ●モバイルWi-Fi/WiMAXルータ ―― 日本電気
  ●据え置き電話 ―― 三洋電機
  ★携帯音楽プレーヤー ―― Apple
  ★電子書籍リーダー ―― amazon
  ●コンパクトデジタルカメラ ―― リコー
  ●ポータブルラジオ ―― ソニー
  ●腕時計 ―― カシオ
  ●置き時計(1) ―― カシオ
  ●置き時計(2) ―― シチズン
  ●目覚まし時計 ―― カシオ
  ●掛け時計 ―― カシオ
  ●楽器(電子キーボード) ―― ヤマハ
  ●楽器(オタマトーン) ―― 明和電機

 ふむ、面白い。こうして眺めてみると、おれん家の場合、とくにハイテクな分野のものと、とくにローテクな枯れた分野のもの、つまり、両極が海外メーカーなわけだな。

 五年後、十年後に、おれがまだ生きていたら、またこうやって調べてみよう。★がどのくらい増えてゆくかな? ●のいくつかは潰れているか統合されているかで、ブランドがなくなっているかもしれない。案外、明和電機がいちばん長続きしたりして。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月31日 (火)

いろんなところにスジ者が……

 奈良先端科学技術大学院大学が開発した「ワンクリック見積&データ品質診断ツール」の名は「Magi」である。まさか、これを見て、「ああ、研究者の中に敬虔なキリスト教徒がおるのだろうなあ」と思う人は、ウチのブログの読者には、まずいないと思う。きっと、二十代後半くらいの“エヴァンゲリオン、どストライク世代”の研究者がネーミングしたんだろうねえ、と推測するのがふつう(?)である。このシステムは協調フィルタリングを使っているので、「ああ、メルキオールとバルタザールとカスパーとが協調するってネタなのね」くらいの推測は誰でもするであろう(どこの「誰でも」だよ、それは)。

 はたまた、楽天技術研究所が開発したレコメンドエンジンの名は、「5ten(ごうてん)」だったり、「0-HO(れいせんほう)」だったりする( http://el.jibun.atmarkit.co.jp/rakuten/2009/11/post-7414.html )んだが、これは相当好みが渋い。エヴァンゲリオン世代よりは、ずっと歳を食っている感じだ。まあ、若いやつにも『海底軍艦』のファンはおるだろうけど、どういうネーミングセンスだ、これは。

 まあ、なんにせよ、世の中、いたるところに“スジ者”が潜んでいるということはたしかなようだ。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年10月30日 (日)

イタコ読書を体験しよう

 すべての本を電子書籍で読むというところまでは、まだ環境は整っていないし、紙の本を読まなくなるのは寂しいのだけれども、amazon と Kindle のおかげで、少なくとも洋書・洋雑誌・洋新聞に関しては、ほとんど電子媒体で読めるようにはなった。

 Kindle で買った本(まあ、最近だと、スティーブ・ジョブズの伝記とかだ)を、おれは Kindle 端末が使えるほどに空間的余裕がある場所では、Kindle 端末で読む。電子インクのディスプレイは画面そのものが光らないので、長時間の読書でも老眼に負担をかけない。だが、満員電車などで、Kindle でさえ持ちにくい、あるいは、鞄の中から取り出しにくい条件下であれば、おれは同じ本を Android 端末(GALAXY S)で読む。Kindle for Android がインストールしてあるから、Kindle 端末でどこまで読んだかはちゃんとシンクロされていて、なんの面倒もなく、スマートフォンで続きが読める。

 帰宅して、パソコンを立ち上げ、そうだそうだ本の続きを読もう――というときには、パソコンにインストールしてある Kindle for PC を立ち上げると、最後に使った端末が Kindle であろうが、Android 端末であろうが、すんなりと続きのページが出てくる。要するに、一度 Kindle で買った本は、プラットフォームがなんであろうが、同じものをいつでも、どこからでも呼び出せるわけだ。これはまあ、たまにしかやらないが、Kindle for PC の画面をHDMI経由でテレビに出力して、寝る前にベッドの枕元にあるテレビで本を読むことすらある。ワイヤレスマウスの電波が届く距離にパソコンがあれば問題ない。

 こういう本の読みかたに徐々に慣れてくると、ああ、これはなにかに似ているなあと誰もが思うはずである。そう、イタコである。本の中身は霊界にいて、老婆のイタコだろうが、中年女性のイタコだろうが、若い女性のイタコだろうが、少女のイタコだろうが、その時々に都合のよいイタコが身近にいてくれれば、いつでも本を呼び出せるわけだ。

 おそらく、おれの生きているあいだに、こうした“イタコ読書”は、完全に一般的なものになるだろう。ふらりと入った喫茶店のテーブルがディスプレイになっていて、指紋とかICカードとかでちょちょいと認証すれば、今朝、電車の中でスマートフォンで読んでいた本の続きが即座に表示されるようになるのだろう。風呂の中で、備え付けの防水端末にちょちょいと音声で命じれば、昼間喫茶店で読んだ本の続きを、音声で読み上げてくれるようになるのだろう。

 つまり、クラウドという霊界にいる“あなたが読んでいる本”は、あなたのまわりにあるさまざまな“イタコ”端末に、自在に呼び出せるようになるだろう。レシピ本ばかりではなく、小説やマンガに出てきたレシピですら、簡単に冷蔵庫や電子レンジのディスプレイに呼び出せるようになるだろう。

 「電子書籍がどうとか言ってるけど、いまひとつメリットを感じないなあ。紙のほうが読みやすいよ」とおっしゃる方は、もしかしたら、たったひとつのプラットフォームで電子書籍を読んでらっしゃるのではなかろうか。だとしたら、紙とたいして変わらない読書体験しか得られないと思う。おれの言う“イタコ読書”が体験できるようなハードとソフトとサービスとの組み合わせを選んで、試してみていただきたい。電子書籍による読書体験の本質は、端末の機能やソフトの使い勝手などにあるのではない。“イタコ読書”という、人類がかつて味わったことのない読書体験にこそあるのだと、実感なさることと思う。

 そして、その“イタコ読書”こそが二十一世紀のあたりまえの読書体験になるであろうと見抜いており、その環境をこそ構築しようとしているのが、amazon にほかならないのだ。“テキストを読む喜び”と、“書物という工芸品を所有する喜び”とは、もはや分けて考えなくてはならない。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月21日 (木)

放射能をどう“うまく塗り広げる”かが問題だ

 「水拭きは雑菌を塗り広げているだけ」みたいな事実を述べて脅す除菌用アルコールの宣伝があるが、まさに放射性物質ってのは、“塗り広げる”しかない。それそのものを消滅させる手段を、まだ人類は手にしていないのだから。手にするには、ご存じのように、二十九万六千光年の旅をしなければならないのだ。“除染”というのは、要するに、できるだけ人間に害のないように、うまく放射性物質を塗り広げることを言う。

 そう考えれば、いまの日本にとっては、特定の狭い地域だけが放射能に汚染されているよりも、放射性物質が日本中にまんべんなく塗り広げられたほうが、みなが問題をわがこととして捉えるようになってよいと思う。原発の恩恵を受けてきたおれたち爺さん・婆さんはともかく、なんの罪もない子供たちにはまことに申しわけないけれども。

 放射性セシウムに汚染された牛肉の話でやたら日本中が騒いでいるが、なにをいまさらである。それ自体はたいした問題ではない。いや、たいした問題なのだが、ほかにも同等のたいした問題がうようよ存在しているのは当然なので、とくにそれだけを取り上げているのが不可思議でしかたがないだけである。よもや、牛肉だけが汚染されているなどとおめでたいことを考えている人が多数派だとはとても思えない。

 放射性物質が塗り広げられてゆくのを避けることはできない。いかに子供たちや若者に害のないように放射性物質を塗り広げるかを、人生の折り返し地点を過ぎているであろうおれたちは考えねばならないのだ。消し去ってしまうことはできないのだから、どこかをきれいにすれば、どこかが汚染されるのだ。若い人たちに近づきそうな放射性物質は、おれたちのほうへ塗り広げるような方策をいろいろ考えなきゃならん。

 もはや、放射性物質にまったく汚染されていないものを食おうなどと贅沢なことを考えてはならない。いかにきれいなものを若い人に食わせ、いかに汚染されたものをおれたち年寄りが率先して食うか ―― そういう社会システムを構築してゆかねばならないのだ。汚染されているかいないかというフリップフロップ(二者択一)な考えではもうダメだ。どの程度汚染されているのかという考えかたと、日本人はこれからずっとつきあってゆかねばならないのだ。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


| | コメント (10) | トラックバック (2)

2011年1月 9日 (日)

去年やめたもの三つ

 去年は、いろいろと悪いものを三つもやめることができた。流行りの“断捨離”が実践できた。

 まず、煙草をやめた身体に悪いものを“断”ったわけだ。値上がりするのは前からわかっていたから、徐々に量を減らすようにしていたのだが、実際に値上がりした十月にすっぱりとやめた。最後に煙草を吸ったのは十月三日である。

 次に、日本の新聞をやめた頭に悪いものを“捨”てたわけだ。日本に存在する新聞がことごとく頭に悪いと言うつもりはないが、いわゆる五大紙なんぞは、あってもなくても同じだ。というより、あんなものを読んでいたのではアホが移る

 さらに、紙の新聞をやめた環境に悪いものから“離”れたわけだ。日本の新聞をやめるにあたって、背中を押してくれたのは、amazon の電子書籍リーダーの kindle だ。海外の新聞や雑誌の電子版が紙版よりもはるかに安く定期購読できるので、便利なこと、この上ない。惚れちゃったね。

 いずれ kindle についてはじっくり書きたいとは思うが、二か月半ほど使ってみて見えた本質を端的に述べるならば、kindle というのは、電子書籍リーダーというハードウェアを売ると見せかけて、“クラウド読書環境”を販売しているのだということである。日本のメディアは、やれ iPad だ、やれ Android タブレットだなどと、ハードウェアとしての電子書籍リーダーばかりを比較してつまらない記事を書いていることが多いのだが、そんなものは電子書籍の本質ではない。

 kindle を所有して、いじってみて、たちまち覚えるのは、「ああ、これ“一冊”を持って歩けば、巨大な“書店”を持って歩いているのと同じなのだ」という奇妙な全能感である。欲しい洋書は、kindle 版が出てさえいれば、一分もしないうちに手元に“所有”できる。そのための通信費は、事実上無料だ。kindle は早い話が“電話”を内蔵しており、3G回線の国際ローミング費用は米アマゾンがほぼ負担してくれる。太っ腹にもほどがあるんだが、これを彼らは太っ腹とはおそらく考えていないのだろう。“読者”が負担すべき費用ではないと当然のように考えているのだろう。つまり、アマゾンは、あくまで“本屋”としての本分を、いかにテクノロジーが進もうとも、ただただ全うしようとしているだけなのである。

 以前、地方の人に聞いた話だが、地方の小さな書店では、全国紙に広告が出ているような本でも、東京の出版社から取り寄せることを拒む店があるという。なぜなら、取り寄せるために東京に電話するだけで儲けが吹っ飛んでしまうからだ。「東京に電話するのにいくらかかると思ってるんですか?」と言われるのだという。

 kindle の3G回線使用料が、日本で amazon.com から kindle 端末を買った場合でも無料であり、キャリアとの契約などまったく不要だと知ったときにまず連想したのは、上記の“お取り寄せ”の話だった。そうだ、これは無料であるべきだし、そのあたりまえのことができるアマゾンはすごいと思った。そりゃそうだろう。地方の書店で東京の出版社から本を取り寄せてもらったら、本の定価に電話代を上乗せして取られたなんて人がいるだろうか? いないいない。取り寄せを断られた人は、たくさんいるだろうけどね。「本を調達するのがわれわれの仕事なので、調達にかかる費用はわれわれが負担しよう。読者は、あくまで本に対してお金を払ってくれればよい」と、アマゾンは態度で示しているのだ。

 これはじつはものすごいことだ。こういうものすごいことができるほど、“本屋であること”に徹しているアマゾンに、旧態依然たる日本の出版社や取り次ぎや書店が、いまのままでかなうとはとても思えない。ましてや、「いい端末を作れば、電子書籍は売れる」などと考えている“おもちゃ”メーカーは、笑止千万である。

 電子書籍リーダーは、リーダーなのではない。それ自体が、電子書籍流通のビジネスモデルを体現した“携帯書店”にほかならないのだ。ハードウェアとしてのリーダーを比較してもなんの意味もない。携帯書店としての、顧客にとっての利便性を比較しなければ、電子書籍リーダーの比較にはならないのである。

 いまのところ最も優れた携帯書店は、kindle という名の書店だとおれは思う。少なくとも、英語の読める人にとってはそうである。アマゾンは、どこまでも本屋であることを極めようとしているからこそ、ハードウェアを売ろうが、クラウド環境を提供しようが、全然ブレないのだ。日本のハードウェアメーカーやサービスプロバイダに求められているのは、この怖ろしいまでにカスタマーセントリックなブレない視点であり、ブレないスタンスなのだ。「おまえは何屋だ?」と問われて、「本屋だ」と答え続けられることは、とてつもなくすごいことなのだ。

 日本には、こんな出版社や書店が出現するだろうか? しないのだとすれば、それは日本語文化圏にとっては、とても不幸なことだろう。


| | コメント (4) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧