カテゴリー「科学」の114件の記事

2009年7月 7日 (火)

脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



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2009年6月 7日 (日)

一・二七秒前の写真

The_moon
 月がとっても青いから遠まわりして帰りながら撮影。RICOH R10 の特性もかなりわかってきたせいか、三脚を使わず(といっても、おれはミニミニ三脚しか持ってないが)手持ちで撮ったわりにはうまく撮れた。コンデジでここまで写るんだなあ。

 この写真に写っている月の中心から右上に少し上がったところにある黒いところが、あの「静かの海」である。アポロ11号が着陸したのは、白いところと黒いところの境目からほんの少し“海”に入ったあたりだ。人類はむかしあそこに降り立ったんだよなあ。ちょうど四十年前の一九六九年、おれが七歳になる年の七月のことだ。

 四十年後に人類はまだこの程度であると、六歳のおれには教えたくないなあ。



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2009年5月31日 (日)

月面二足歩行ロボットの意味

「一体何の意味があるのか」 「月面2足歩行ロボット」に批判 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/05/29042101.html

政府が策定を進めている「宇宙基本計画」が、思わぬブーイングに見舞われている。この計画自体は、情報収集衛星を増強したり、有人での月探査を目指したりする意欲的なものなのだが、「二足歩行ロボットでの月探査」という項目に、批判が続々と集まっているのだ。
「お金をかけて何がしたいかわからない」
日本の宇宙開発についての基本方針を定めた「宇宙基本法」が2008年8月に施行され、これに基づいた国家戦略「宇宙基本計画」の策定が進められている。麻生首相が本部長を務める「宇宙開発戦略本部」が案をまとめ、09年4月28日から5月18日にかけてパブリップコメント(パブコメ)が募集された。
各地から寄せられたパブコメでやり玉に挙がっているのが、「月面2足歩行ロボット」。これは3月6日に行われた専門調査会の場で、専門調査委員のひとりである元宇宙飛行士の毛利衛氏が提案したもの。毛利氏が提出した資料では、国家目標として「日の丸人型ロボット月面歩行計画」をかかげ、「有人・無人の議論を超えた第3の道」「日本独特な有人宇宙開発の提案」などどうたっている。
計画案では、2020年頃に日本独自でロボットを活用した月の無人探査、25~30年頃に宇宙飛行士とロボットが連携した有人月探査を目指しており、「2足歩行ロボット」も、その中の案として出てきたものだ。計画案には458人から1510件のパブコメが寄せられたのだが、そのうち約80件が「2足歩行ロボット」に集中。その中には、
「月や火星・金星への探査計画に、人は遅れ(原文ママ)なくとも耐環境型の自立ロボットを帯同させることも日本独特の研究といえます」
と、好意的なものもあるが、ほとんどが批判的なものだ。

 SFファンの方々なら、「そもそもなぜ人間型のロボットを作る必要があるのか」という問題をあーでもないこーでもないと考えたことがあるかと思うが、これは存外に難しい問題ではあるのよなあ。

 上の引用で好意的なパブコメを寄せている人の意見は、残念ながら、かなり頓珍漢である。探査計画で閉じてしまうのであれば、二足歩行ロボットを送る意味などない。将来、月や火星に人類が居住する(金星はまあ無理でしょう)というところまでをスコープに入れれば、そこで初めて二足歩行ロボットを送る意味が出てくる。つまり、短期的な作業効率だけを考えれば、地球と環境が著しく異なるところでわざわざロボットに二足歩行などさせる意味はなく、むしろクモ型とかヘビ型とかそのほかとかのほうが合理的だが、“そこに将来人類が住む”というところまで長期的に本気で考えれば、二足歩行ロボットから取れるデータは、将来、大いに役に立つ。要するに、どれくらいの時間的なスパンが視野に入っているかで、見解が変わってきて当然なのである。「なんの役に立つのか」と言っている人も正しいし、「役に立つ」と言っている人も正しいのだ。「二足歩行ロボットでの月探査」って表現がまずいのだろうな。ここは正直に、「人類の月面居住を視野に入れた二足歩行ロボットによるデータ収集」とまで言ってしまえば、また印象は変わってくると思う。

 おそらく毛利氏はそんなことはよくご承知で、そのうえであえて、“日本人を象徴的に鼓舞する短期的計画”として、これを提案してらっしゃるのだろうと推測する。おれが思うに、毛利氏は科学者としては政治やらなにやらに過剰適応してらっしゃるように見えるもんで、腹の中では、「そりゃ、将来、月や火星にはトーゼン人間は住むでしょ」と思いつつも、そこまで言うと荒唐無稽と思われちゃうだろうから(全然荒唐無稽じゃありません)、とりあえず、アドバルーン的な短期的スコープしかないかのように見えるものを出してらっしゃるのだろう。まあ、政府に毛利氏の提案の真意が理解できるかどうかは別として、政治家や官僚にはわかりやすい“国威発揚”的なものに見せておけば、当座はオーケーかな……といったふうに、毛利氏は考えていらっしゃるのではなかろうか。

 その“世俗に合わせすぎ”なところがまずいのだと、おれは思う。「わしらが、わしらの子や孫や曾孫が、いつまでも全員地球に住んでいられるとでもお思いか?」と、はっきり言っちゃえばいいんじゃなかろうか。言わないから、「何がしたいかわからない」と言われちゃうのだ。まあそりゃ、毛利氏のそういう“世俗に合わせすぎ”なところも、無理はないと理解はできるんだけどなあ。いまの日本政府や官僚に、“人類は遅かれ早かれ宇宙に進出せざるを得ない”という認識と哲学と覚悟があるのかどうかとなると、こりゃ、おれもかなり悲観的である。毛利氏は、政治家や官僚の思惑を超えたところまで、深く考えたうえで、こういうアドバルーンを上げてるんだと、おれは想像するんだよ。

 おれたちはいつまでも全員が地球に住んではいられないのだ──という、考えてみればあたりまえのことを、政治家たちはちゃんと打ち出すべきだと思うね。宇宙への進出は、今世紀では、もはやSFマターじゃなくて、政治マターなのだ。今世紀というスパンで考えれば、軌道エレベータスペースコロニーは、必ず建造されるだろう。というか、せざるを得なくなるだろう。

 二十世紀のSFが夢見てきたことが、年金やら消費税やらエコロジーやらと同じ次元で、おれたち(の子や孫や曾孫)の日常生活に関わるリアルな問題になってくるのが、これからの百年なのだ。オバマ大統領の勝利演説じゃないが、おれたちの世界が百年前にどうだったかを振り返ってみれば、百年後にどうなるか、どうであってほしいかもリアルなこととして想像できるはずだ。西暦二一〇〇、月に人が住んでいないとでも思いますかね、あなたは? おれは、オバマ大統領にはそこまでの視野があるだろうと思っている。politician としては目先の問題に翻弄されているだろうが、彼の statesman としてのヴィジョンには、百年後のアメリカ、百年後の世界が、当然のこととして入っているように思われるのだ。

 まあ、いま現在の日本政府や官僚が、「宇宙基本計画」とやらで、そこまで考えているとはとても思えないのも事実なんだよなあ。連中は、せいぜい、次の総選挙くらいのことまでしか考えてないんじゃないの? 毛利氏の提案は、いまの日本政府には上等すぎるんじゃなかろうか? そういう意味では、毛利氏の提案にブーイングが集中するというのは、わからないでもないんだよねえ。地球上に飢えた人々がいる状態で、宇宙開発もへったくれもあるかというのは、たしかにわからないでもない見解だ。カート・ヴォネガットもそういう姿勢だったよね。おれは、クラークも好きだけど、ヴォネガットも好きなのだ。

 ともあれ、今世紀には、わが国の閣僚や事務次官は、小松左京必読ということにしないか?



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2009年5月28日 (木)

ロボットは海苔を破ってはならない

 ロボットが卵を摑んだりするのをテレビで観るにつけ、ロボット工学の進歩に胸躍るのであるが、ここまで進んでいるんだから、ぜひロボットにやらせてみてほしいと思っていることがひとつあるのである。

 コンビニのおにぎりから海苔を破らないようにフィルムを引き出し、ちゃんと三角おにぎりを完成させられるロボットというのを作ってほしい。これは工学者にとっては、たいへんな挑戦だと思う。なにしろ、人間だって、うまくできない人はざらにいるのだ。おれもときどき失敗する。

 右手でおにぎりを把持するわな。で、左手でフィルムをつまんで引き出そうとする。右手で強く摑みすぎると、フィルムの抵抗が大きくてなかなか引き出せないし、下手をすると海苔を破る。だもんだから、右手の把持を弱めると、今度はフィルムにつられておにぎりが左側にすっぽ抜けてゆきそうになる。右手にも左手にも、強からず弱からず、フィルムを引き出すのに最適なグリップ強度と、その絶妙な連繋が要求されるのである。とくに韓国海苔のおにぎりは難しい。表面に塩をまぶした韓国海苔の場合、日本のふつうの海苔よりも摩擦が大きく、相当コンビニおにぎりに馴染んでいる猛者でも、勘が狂うのだ。

 えーと、もし、このようなアホブログを読んでいるロボット工学者の方がいらしたら、ぜひこの難題に取り組んでみていただきたいと思う。冗談でなく、マジで提案している。卵摑んだり楽器弾いたりするのはですね、見るほうも「そりゃ、ロボットなんだから、できても不思議はないわな」と、それを実現する技術のすごさなどには無頓着に思ってしまうものである。しかし、コンビニのおにぎりは、なにしろ非常に多くの人が、うまくフィルムを引き出すのがいかに難しいかをよーく知っているわけだから、ロボットがいとも簡単にやってみせたら、そりゃあ、デモンストレーションとしてはどえらいインパクトですぜ。「たしかに、ここまでできるロボットなら、近い将来、介護や医療の現場に配備してもよさそうな気がするな」くらいには思ってもらえるかも。

 が、よく考えてみると、あまりにも人間的で精妙な動作をやってのけるロボットには、ひょっとすると“気味が悪い”と感じる人もいるんじゃなかろうか。ルックスとか目配りとか受け答えとかだけじゃなく、確固たる単一の目的がある一連の動作にも、“中途半端に生々しいと気味が悪い”という、いわゆる“不気味の谷”が存在するかもしれないよね。ロボットには本来必要ないはずの動作を、生々しく小器用にやってみせたりすると、これはかなり不気味かもしれん。

 たとえば、自分でそこそこ上手に化粧をするとか、社会の窓に指を突っ込んでうまくおちんちんを引っぱり出し、用がすんだら(なんの用だ?)、またうまくしまうとか、きれいに眼鏡を拭くとか、缶入りのつぶコーンスープを終盤には缶を回しながら一気に飲み、最後にのけぞったまま缶の底を叩くとか……こういうことを、ロボットが非の打ちどころがないほどスムーズにやってのける姿を目の当たりにしたとき、人は「よくできてるなあ」と感嘆するのか「気色悪ぅ~」とドン引きするのか?

 ま、なにはともあれ、コンビニおにぎりは、ホントにどなたかやってくれないかなあ。



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2009年5月14日 (木)

報告書の始末書?

 おなじみ、《ヘンな検索語》シリーズだが、これにはちょっと考えさせられた──

「虚偽の報告書に対する始末書の書き方」

 そもそも、いったい全体、なにゆえにこのような検索をしているのかよくわからないが、どこかの誰かが虚偽の報告書を作成してしまい、それが発覚して組織から始末書を書くように求められている……ということなのだろうかな? 厳密に言えば、「始末書」の作成をペナルティーとして強制され得るのは公務員だけであって、民間企業で従業員に始末書を書かせるためには、その旨が就業規則にきちんと定義・明記されている必要がある。だもんだから、民間には「顛末書」という、これまたよくわからない不思議なものがあったりすることもある。なにしろ「顛末書」なのだから、事の次第を説明しているだけの文書であり、それはけっしてペナルティーではないのだが、事実上、そのような面倒なものを作らされること自体が懲罰になっているとも言えよう。

 それはともかく、すでに「虚偽の報告書」を作り提出した者が書く「始末書」に、どれほどの信憑性があり、反省の意がこもるものか、それ自体、疑問である。その始末書に虚偽があった場合、次はナニ書を書かせるのだろう? 

 虚偽の報告書の虚偽の始末書1の虚偽の始末書2の虚偽の始末書3の虚偽の始末書4を書いたやつが、これから始末書4について書くであろう始末書5が虚偽である確率はどれくらいか──みたいなことを求めるのには、近年IT屋さんのあいだで流行(ちゅうか再評価ちゅうか)のベイズ理論ってやつが有効なのかな? 「この人物が虚偽の文書を作成するのは五回に二回であるから、始末書5が虚偽である確率は五分のニである」などという妙に客観的すぎる考えかたには、あまり人は馴染めないものなのよな。そもそも「始末書5」などというものを書かされる羽目になっている時点で、「こいつが始末書5に虚偽の記述をする確率は相当高そうだ」と主観的に思うのが人情というものだろう。



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2009年4月27日 (月)

栄養のあるものをちゃんと食って、体力を温存しておこう

豚インフル「国際的な緊急事態」 警告レベルは維持 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200904260130.html

 【ジュネーブ=国末憲人、ワシントン=勝田敏彦】メキシコと米国での豚インフルエンザ感染を受け、世界保健機関(WHO)は25日開いた緊急委員会で、「国際的に懸念される緊急事態」だと認定し、各国に警戒を呼びかけた。ただし、感染警告レベルを引き上げる決定は先送りした。一方、米ニューヨーク市やニュージーランドなどでも新たに感染を疑わせる例が報じられ、事態は地理的に飛び火する様相を呈しつつある。
 WHOの発表によると、緊急委員会は、現状は疑問点がなお多いとしながらも、感染症阻止のための国際法上の枠組み「国際保健規則」に基づく「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」だとの点で一致。WHOのチャン事務局長はそれを受けて今回の状況を緊急事態と認定するとともに「インフルエンザ様疾患や重い肺炎が、通常みられないような形で発生していないか、すべての国は監視を強化して欲しい」と要請した。
 だが緊急委員会は、現在の警告レベルを引き上げる議論については「さらに情報が必要だ」と、決定を保留した。警告レベルは6段階分類で、現在は、下から3番目の「人から人への感染がないか、極めて限定的」なフェーズ3。これを「人から人への感染が明らか」というフェーズ4に引き上げるかが問題だった。

(中略)

 また、米疾病対策センター(CDC)が25日、感染者を新たに3人確認し、米国内での感染確認は計11人になった。ニューヨーク市東部クイーンズ地区の私立高校で生徒約100人がインフルエンザに似た症状を訴え、そのうち8人が、検査でA型インフルエンザの陽性反応が出て、豚インフルエンザに感染した疑いがあることもわかった。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると、生徒の一部は最近、メキシコに旅行していたとの情報がある。検出されたウイルスは、既知のヒト型と違うタイプだという。
 ただし、米国での感染または疑いがある例はいずれも比較的、症状は軽い。豚と接触した形跡はなく「人から人」感染が起きた可能性が高い。

 ついに来たか。いや、まだ確たる情報は少ないが、WHOが警告レベルを上げようが下げようが、それは多分に政治的要素を含んだ問題であって、われわれ一般市民は、すでに人から人への感染が起きていることを想定して行動すべきだろう。現にそう疑わざるを得ない情報も出ている。しかし、こんなもん、個々人ではどうしようもない。せいぜい、人ごみには極力出ないようにし、万一感染しても命にかかわらないように、体力を激しく消耗するような行為を控える程度のことしかできない。このグローバル時代、飛行機で世界中を人間が行き来している。よほどうまくやらなければ、水際で止めることは難しかろう。止められるに越したことはないが、おれはそれほど日本の防疫体制を信用していない。不必要に怖がらず、不必要に侮らない、腹をくくった冷静な態度が一般市民にも求められよう。

 それにしても、なんという厭らしいタイミングだ。日本はこれからゴールデンウィークなのである。さすがにメキシコ旅行を予定していた人は、よほどの豪傑でないかぎりキャンセルするだろうが(そりゃあ、かねてから予定を立てて指折り楽しみにしていた人の気持ちはわかるが、ここは涙を呑んで、日本のためにキャンセルする勇気と分別を持ってほしい)、アメリカやニュージーランドくらいであれば、まあ、大丈夫だろうと行く人も多いにちがいない。日本政府だってアホではない。それなりの準備はしてきているはずだが、ゴールデンウィークにもろに当たるという想定はしていたのだろうか? まあ、どの国へいつ行こうが自由だが、ことのなりゆきがある程度見えるまでは、不要不急の海外旅行は控えたほうが身のため、というか、いろんな人のためだと思うね。

 おれはどのみち海外旅行はおろか国内旅行すら予定していないが、しばらくは、極力、人ごみの中には出ないようにしようと思う。アジアかぜ(1957年)、香港かぜ(1968年)、ソ連かぜ(1977年)の時代とは、地球規模での人間のトラフィックが全然ちがう。大阪には国際線の空港がある。京都なんてすぐ隣だ。世界的な観光地がある。京都在住で大阪に仕事に通っているおれには、遠くの話ではない。洒落にならない。明日、いや、今日は会社に行かなくちゃならないのだ。

 ゴールデンウィークは極力外に出ないようにして、もしものときのために体力を温存するようにするぞ。感染したって、死ななきゃいいのだ。もっとも、そのようなゴールデンウィークを過ごすのは、おれの場合、今年にかぎったこっちゃなく、ほぼ毎年のことなのだがな。いやまあ、他人におれのような連休スタイルを強要するつもりはないが、今年ばかりは、大事を取ったほうがいいと思いますよ。ゴールデンウィークは、栄養のある食いものをたっぷり買い込み家に閉じこもって、読書とDVDとネット三昧ってのはどうですか? それはそれで楽しいすよ。豚とかたっぷり食ってさ。ちゃんと熱を通して調理すれば、豚食ったからって感染するなんてことはまずありません。



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2009年2月 4日 (水)

マイトはずるいという子供心

 あっ。なんということだ。この歳になって気づいた。

 子供のころ、おれは『スーパースリー』が大好きだった。だが、なにか釈然としないものを感じていたのだ。おれはマイトがいちばん好きだったが、なんだか「ずるい」と感じていたのだった。

 なぜ「ずるい」と感じたのか、大人の目で見ればなんのことはない。マイトだけが質量保存則を破っているのがあきらかだったからだ。そんな概念を習うのは夢中で『スーパースリー』を観ていた何年もあとのことだが、子供心にやっぱり“ずるい”ものを感じていたんだなあ。つまり、四歳や五歳の人生経験でも、日々の暮らしの中から、ものの“かさ”と“重さ”が、外からなにも足さないのにいっぺんに増えるのはヘンだくらいの感覚は身につけていたということなのだろう。

 むかしの子供は、しょっちゅうものを投げたり回したり飛ばしたり叩きつけたりといった遊びをしていたから、四、五歳でも、誰に教わらなくとも、“な~んとなく、ものというのはこういうふうにふるまうものだ”という感覚をひとりでに身につけられたのだろうが、それを思うと、ちょっといまの子供が心配にはなってくるな。おれはリアルをヴァーチャルの上に置くような考えはけっして取らないが、やっぱり子供のころには、手で触れられる“もの”と、重力と、遠心力と、その他もろもろの“生身で感じられる自然界の力”と、戯れてほしいものだなあと感じる今日このごろである。



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♪七つの海の底深く 科学の夢がのびてゆく

グーグル、3D海洋探査ができる地図サービス「Google Ocean」を開発中 (毎日.jp)
http://mainichi.jp/life/electronics/cnet/archive/2008/05/01/20372453.html

 「Google Earth」と「Google Sky」の次にやってくるのは、海面下の世界を表示する地図サービス「Google Ocean」となりそうである。
 Googleは、海洋学の専門家から成るアドバイザリーグループを組織し、2007年12月には、世界中の専門機関からの研究者を、カリフォルニア州マウンテンビューの本社に呼び集めた。そこで、3Dの海洋学的な地図作成計画が話し合われたことを、この件に詳しい情報筋は明らかにしている。
 この新ツールは、現在のところGoogle Oceanと呼ばれており、今後は名称の変更もあり得るが、他の3Dのオンラインマッピングアプリケーションに類似したサービスになると、この情報筋は伝えている。(Google Oceanによって)水深測量とも呼ばれる水中の地形の閲覧、特定のスポットおよび魅力的なポイントの探索、ズームやパノラマ表示によるデジタル環境ナビゲーションなどが可能になるだろう(しかしながら、この新ツールを、フランスのMagic Instinct Softwareが、海洋データのビジュアライゼーションにGoogle Earthを活用して進めている”Google Ocean”プロジェクトと混同することがないようにしてほしい)。

「タマネギをむくように街の変化を表示」Google Earth最新版 (INTERNET Watch)
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2009/02/03/22312.html

 続いて紹介したのは、海中を探索できる「Ocean機能」。バーチ氏は、海洋科学者のシルビア・アール氏に「現状のGoogle Earthは、地球と言ってはいるが、『Google 土』にとどまっている。地球の表面の3分の2は海なのに、Google Earthには海の情報が何もない」と指摘されたエピソードを紹介。「これまで地形を表示できたが、3分の1をカバーしているに過ぎなかった。Googleも海のことはよく知らなかった」と思い知らされたことが、開発のきっかけになったことを明かした。
 今回、海底の地形や海面を表現できるようにしたほか、「ナショナルジオグラフィック」の写真や解説、クイズなど海に関するコンテンツも用意した。なお、ナショナルジオグラフィックについては日本語コンテンツも用意しているが、多くは英語のままだという。ただし、テキスト情報だけでなく、BBCのコンテンツではYouTubeに掲載している動画も参照できるようになっており、英語がわからなくても海中の様子などを楽しめるとしている。

 「ををを、すげーな、今度公開された Google Ocean。おっ、マリアナ海溝の底になにか見えるぞ……。表札だ! ちゃんと“冬樹”と読めるな。あっ、こっちにはホテルに入ろうとするカップルが――」
 「プライバシーの侵害だ」

 いやしかし、楽しいこと考えるねえ。ぜひ実現してほしいな。Google の財力なら、その気になれば、原子力潜水艦だろうが深海探査艇だろうが自前で持てそうだから、光学的な写真でなくとも、音響的な世界海底地図くらいなら作れちゃいそうだけどなあ。

 その次は、地中かな? Google Earth って名前はもう使っちゃってるから、将来、そういうサービスをはじめるときは、Google Pellucidar ってのはどうだ? 家に居ながらにして地底旅行(?)ができるのはいつの日か。

 いやいや、地球ばかりが対象ではつまらない。Google Earth の要領で人体内を旅することができる Google Fantastic Voyage ってのもいいぞ。白血球に襲われそうになったところでマウスのスクロールボタンを思いきり回して“引いて”ゆくと、ミクロの世界からものすごいスピードで視野が広がり、たちまち宇宙空間から地球を見ている映像になる……なーんてのは、じつに気持ちがいいだろうな。



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2009年1月31日 (土)

百億のシャンプーと千億の塩

 先日、風呂に入っているとボディーシャンプーが切れた。やれやれと思い、買い置きを詰め替えると、今度はシャンプーが切れていた。やれやれ、なんてタイミングだと思いつつ、買い置きを詰め替えた。で、次の日の朝、洗濯機を回して家を出ようとしたら、今度は液体洗剤が切れていたので、やれやれとまた詰め替えた。重なるときは重なるものである……。

 と、おれの頭を妙なイメージが一瞬にしてよぎった。たとえば、人はシャンプーがなくなると、すぐに買い置きを出してきて詰め替えるであろう。つまり、そのときシャンプーは初期状態にリセットされるわけである。つまりこれは、シャンプーが真円を描いて軌道運動をしていると考えても、いっこうに差し支えないのではないか。軌道運動をしていると見た場合のシャンプーの残量は mod 2π の性質を持つ関数であって、一本め(一周め)であろうが二本め(二周め)であろうが、残量が同じであれば合同と見なせるのである。そうだ。おれたちが日常生活で使っている消耗品の数々は、すべて人工衛星だったのだ!

 とすると、ものすごく規則正しい、機械のような生活をしている人がいたとして、すべての消耗品が新品である状態を初期状態とし、シャンプーが何日でなくなるか、ボディーシャンプーが何日でなくなるか、液体洗剤が何日でなくなるか、味の素が何日でなくなるか、塩が何日でなくなるか、醤油が何日でなくなるか、胡椒が何日でなくなるか、砂糖が何日でなくなるか、酢が何日でなくなるか……(中略)……オリーブ油が何日でなくなるかなどなどなど、それぞれを一本使い切る日数(公転周期)を正確に測定できれば、それらすべてがいっせいになくなる“グランドクロスの日”が計算できるはずだ。「どうしたんだ、今日は!? なんだか一日中詰め替えばかりしているぞ」という日が、いずれはやってくるのである。

 べつに代数的にややこしい計算をしなくたって、精密な時空図を描けば、幾何的に求めることができるだろう。塩やら味の素やらの公転周期がわかればいいのだ。よほど暇な人は、消耗品が切れるインターバルを正確に測定し、トイレットペーパーを何本も繋ぎ合わせたような長~~~~いグラフ用紙を使って時空図を描き、あなたの家の消耗品がいっせいに同時に切れる“運命の日”を算出(というか、描出)してみていただきたい。何十種類もの消耗品がぴたりと同時に切れるのがあなたが描いた時空図の示すとおりであったとすれば、それはそれは感動的な日を迎えることができるだろう。「おおおお……むかし図に描いてみたとおりだった! やっぱり、シャンプーとボディーシャンプーと液体洗剤と味の素と塩と醤油と胡椒と砂糖と酢と……(中略)……オリーブ油とがいっせいに切れる日は……五十六億七千万年後のこの日だった!」と、感涙に打ち震えることであろう。それまであなたが機械のように規則正しい生活をしつつ生き永らえていられるかどうかはわからないが、シャンプーやら塩やら醤油やらなにやらがいっせいに切れる歴史的な感動を弥勒菩薩と共に分かち合えるとしたら、それはそれでなかなかすばらしいことではあるまいか。



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2008年12月26日 (金)

こういう旅館も、けっこうイケるかもしれんぞ

 郵便受けから取り出した夕刊の広告欄がちらと目に入ったわけだが、おれは「えっ?」と思わず絵に描いたような“二度見”をしてしまった――
 

科学旅館


 ――って、ななななんじゃそれはとよく見たら「料亭旅館」の広告だった。薄暗いところだと老眼が強く出るものである。

 いやしかし、「科学旅館」って、なんだか萌えますなあ。ほんとにあってもいいんじゃないか。眼鏡に白衣の仲居さんたちが三つ指着いて迎えてくれる光景が一瞬にして脳裏をよぎった。フロントには眞鍋かをり安めぐみのサインが飾ってある。なんかこう、大天文風呂とかありそうだ。浴衣の模様がペンローズタイルとかマンデルブロ集合とかになっていそうだ。宴会の余興に米村でんじろうショーがありそうだ。なぜか四種類の監視カメラでセキュリティを確保している。常にレンズにさぐられていそうだ。からくり人形がお茶を持ってきてくれそうだ。ふと庭を見ると、ケーニヒスベルクの橋がかかっていて、なぜかセールスマンが巡回していそうだ。有料テレビの「美女科学者チャンネル」に百円入れると、リサ・ランドールとかが講義をしていそうだ。布団に横になって格子模様の天井を見上げると、絶妙な位置にハエが留まっていそうだ。朝食に出てきた卵が生卵かゆで卵か当てさせられそうだ。朝食のメインはカブトガニだ。

 いや、いいなあ、マジで「科学旅館」作りませんか? メイド喫茶みたいなもんじゃんか。



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2008年12月21日 (日)

こんな人でも、自分の居場所がわからない

「居場所みつけるのに苦労」 小林さんノーベル賞祝賀会 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1220/TKY200812200162.html

 小林誠・高エネルギー加速器研究機構名誉教授のノーベル物理学賞受賞を祝う会が20日、東京都内で開かれた。同機構や日本学術振興会が中心となって呼びかけ、小柴昌俊・東京大特別栄誉教授や塩谷文部科学相ら約200人が集まった。
 小林さんは「授賞式を終えたが、いまだに、これが我が身に起こっていることだと信じられない。急に人前に引き出されて、居場所をみつけるのに苦労している」とあいさつ。「数カ月前までの自分と何も変わらないのに、周りだけが変わってしまった」と感想を語った。

 さすがノーベル賞受賞者だけあって、渋いことをおっしゃるね。「居場所をみつけるのに苦労している」――まさに。そう、それは、十代、二十代の若い人から、四十代、五十代のおっさん・おばはんまで、みーんな思っていることなんだよ。まあ、ノーベル賞を取った人でもこんなふうに思っているんだから、十代や二十代の人が自分の居場所がわからなくても、そんなのあたりまえなんですよ。

 みんながそういう場所を見つけられればいいなあと、おれは思う。そういう場所がなければ、創っちゃえよ、若い人たちは。



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2008年12月11日 (木)

歴史に残る日本語のレクチャー

 The Nobel Foundation のサイトにそろそろアップされているかなと見てみたら、ありましたなあ、益川敏英氏の Nobel Lecture"The lecture was delivered in Japanese." とわざわざ書いてある。専門的な内容はおれにはかすかにしかわからんが、しっかり三十七分観ちゃいましたね。いやあ、益川先生、英語が苦手なだけじゃなくて、日本語のレクチャーも苦手みたいなのである。原稿があるのに、あれだけつっかえるか、ふつー。しかも、内容はご自分以上に詳しいやつなど、そうそういないはずのことなのに。ほんとにこの先生、いいキャラしてますなあ。

 それはともかく、ある意味これは、日本語という言語にとって、いい宣伝だと思うのよな。このレクチャーは、おそらくフォーマットは変われど、人類が滅びるまでいろんな形で保存されることだろう。そこに日本語のレクチャーを残したというのは、歴史的快挙であろう。もっとも、レクチャーの音声を聴いているよりも、英語のPDFファイルを読んだほうがわかりやすいけれども……。ここまで頑として日本語でやるというのは、たいしたものだと思う。

 ああ、ノーベル賞を取るような学者でも英語が苦手なんだ、英語なんてやらなくても内容さえあればいいんだなどと若い人たちが誤解しないといいのだが……。“英語なんてやらなくても内容さえあればいいんだ”などと早とちりして、中学生とかが英語を学習しなくなったりすると、これはわが国の国益を著しく損ねる。それは逆に考えるべきだろう。ノーベル賞級の業績を挙げないと、世界は日本語には耳を傾けてくれないのだ。ノーベル賞を取る自信のある中学生以外は、そこそこ英語を勉強しなさい。もはや英語は、できるから得するようなものではなくて、できないと損するようなものなのだから。日本人としては、いささか癪に障るけどな。事実、そうなんだからしようがない。くそ~。いつの日か、おまえらに「あめんぼあかいな あいうえお……」と暗唱させてやるからな。いつかどこかの並行世界でな。

 そうそう、世界が日本語に振り向いてくれる分野がひとつだけある。海外のおたくたちは、日本語でアニソンを唄う。病膏肓に入るガイジンどもは、それがきっかけでマンガを“原書”で読みまくり、ほんとうに日本語をマスターしてしまったりする。英語も苦手で、ノーベル賞も取れない人たちは、「おれの母国語は、涼宮ハルヒがしゃべっている言語だ」とガイジンどもに胸を張ろう。ある特定のガイジンたちにかぎり、はは~とひれ伏してくれると思うぞ。

 ま、そういう道に進まない人は、やっぱり安全保障として英語やったほうがいいでありましょう。とくにIT関係とかは……。プロプラの時代にIT業界に入った人は英語音痴の人がめちゃめちゃ多いけど、インターネット普及以後の若い技術者はたいてい英語できるし、そもそも、できないと技術の勉強に支障来たすもんねえ。オープンソース系とかは完全にアウトでしょう。日本語のドキュメントもろくろくないことが多いしねえ。まあ、これからのデジタルネイティブの人たちは、英語ごときに怖れをなして、英語のドキュメントはこの世に存在しないかのごとき哀れなふるまいはしないよねえ――って、なんか私怨入ってないか、今日のエントリー。



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2008年12月 3日 (水)

背に腹は代えられぬ進化

カメの甲羅、起源はろっ骨? 中国で最古の化石 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1201/TKY200812010059.html

 【広州=小林哲】中国貴州省の2億2千万年前の地層から、腹側だけが甲羅で覆われた原始的なカメの化石が見つかった。全身が甲羅で覆われる進化の途上にある個体とみられ、甲羅の起源は硬くなった皮膚ではなく、発達した肋骨(ろっこつ)とする説を裏付ける有力な証拠となる。中国とカナダ、米国の研究チームが英科学誌ネイチャーに発表した。
 化石は全長約40センチ。欧州で見つかった最古のカメ化石より1千万年ほど古い。腹側の甲羅は、現代のカメと似た構造を持っているが、背中には、甲羅ができる前段階とみられる発達した肋骨などがあった。口には歯があり、背中側からみるとまるでトカゲのようだった。
 甲羅の起源には、皮膚が硬くなり骨と融合してできたとする説もあった。今回の化石の背中にはそれを裏付ける痕跡がなく、肋骨や背骨が発達して背中を覆ったとするもう一方の説が有力になった。
 化石のあった場所は、地層から海域だったことがわかっている。カナダ自然博物館の呉肖春研究員は「カメの祖先は海で進化し、泳ぐ際に下から襲われるのを防ぐため、まず腹側から甲羅が発達した」とみている。
 化石は、ラテン語で甲羅に半分覆われた歯のあるカメという意味の「オドントチェリス・セミテスタセア」と名付けられた。

 いいですなあ、「腹側だけが甲羅で覆われた原始的なカメ」かあ。なんかこう、不思議な萌え要素がある。こちらのツボを突いてくる。ぬいぐるみがあったら、かなり欲しいよな。新井素子だったら自作しそうだ。

 「カメの祖先は海で進化し、泳ぐ際に下から襲われるのを防ぐため、まず腹側から甲羅が発達した」というのは、まあ、ちょっと聞くと納得できる話ではある。つまり、最初のころは浅くしか潜れなかったんだろうな。だものだから、上から獰猛な敵が来る可能性は低く、まず腹側に盾ができた。徐々に深く潜れるようになると、上から襲われる可能性も無視できないものになり、背中側にも盾を発達させていった、という考えかたなのだろう。

 だけど、待てよ。いまのカメは、背中側の甲羅のほうが、ずっと丈夫そうではないか。それはなぜなんだろう? また、腹側にしか甲羅のない原始的なカメだって、爬虫類であるからには、海面に出て呼吸する必要がむかしからあったろう。空からの敵も大きな脅威であったはずだ。あ、そうか――2億2千万年前あたりなら、まだ翼竜も出現していない。海上に脅威になるほどの昆虫が飛んでいたとも考えにくい。空からの攻撃を想定する(って、進化に意志があるように言うのは不適切だが)必要がなかったのだ。とすると、原始的なカメは、上記記事の想像図にあるように、浅く潜って生活するということすらしていなかった可能性も残る。ことによると、荒削りな泳ぎかたで、水面に浮かんでいたのかもしれない。また、カメが背中側にも甲羅を発達させなければならなくなった主たる理由は、海中深く潜るようになったからではなく、ほんとうに翼竜が出現したからだったのかもしれない。まだまだ想像を膨らませる余地はあるなあ。

 たとえば、主に浅く潜って生活するカメの祖先は腹側から甲羅を発達させ、たまたまかなり深く潜れる能力を身につけていた別のカメの祖先は、背中側から甲羅を発達させた。あるとき両者が出会って共生をはじめ、そのうち身体を融合させていった――なーんてのは、いくらなんでもありそうにないか……。



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2008年10月30日 (木)

円い“バビロニア・ウェーブ”

 西暦二XXX年、人類は、自然界のすべての力を統一記述し、自在に操れるようになっていた。ニ〇世紀のSFを読むのが好きな、とある暇な大金持ちが、ある日、風呂の中で『バビロニア・ウェーブ』という本を読んでいて、妙なことを思いつき、さっそく金に糸目をつけずに試してみることにした。

 大金持ちは、いまや空間の曲率を自在に制御できるようになった空間工学を駆使して、まあせいぜい銀河系程度の大きさしかない小ぶりの空間回路を建造した。回路といっても、じつに単純なもので、一点から発射された光が“直進”しているうちに正確に元の発射点に戻ってくるというだけのものである。光自身は常に最短距離を直進している“つもり”なのだが、空間のほうが大きな円を描いて曲がっているので、元の場所に戻ってきてしまうのだ。

 そこでその暇な大金持ちは、酔狂な思いつきを試してみた。その閉じた空間回路の一点から、大出力のレーザーを照射した。レーザーは直進し、時間 t 後に、光源に戻ってきた。レーザーは光源をすり抜け、二周めの周回に入る。そういう性質の光源なのだ。なにしろニXXX年だ、それくらいのことは簡単にできる。光源からはずっとレーザーが照射され続けている。

 これで、レーザーは閉じた空間の中を永遠にぐるぐると回り続ける。投入したエネルギーをレーザーの形で閉じた空間内に蓄えられる、電池ならぬ“光池”の完成だ。必要なときに、光池からちょっとずつエネルギーを取り出して使えばよい。

 しかし、大金持ちは設計段階でちょっとしたいたずらを仕掛けていた。これこそ、風呂の中で思いついたことなのだ。

 大金持ちは、レーザーが空間回路を一周して元の点に達するとき、ちょうど位相がπぶんだけズレる距離に円周を設定していたのだ。ということは、二周めに入るレーザーは、いま光源から放たれた一周めのレーザーと打ち消し合い、波動として観測されないことになる。そして、三周めに入ったレーザーは、いま一周めを回っているレーザーとは強めあい、二周めを回っているレーザーとは打ち消し合うはずであるから、結局、最初に放たれたレーザーと同じ姿になるはずだ。あとは、これの繰り返し……、つまり、この空間回路では、光源からはずっとレーザーが照射され続けているにもかかわらず、時間 t ごとにレーザーが点滅するように観測されるはずである。しかし、だとすると、ずっと照射し続けているレーザーのエネルギーはどこへ行ってしまうのか? この“光池”には、どれだけレーザーのエネルギーを投入しようとも、常に回路一周ぶんのレーザーのエネルギーしか蓄えることができないのか?

 さて、そもそも、ほんとうにこんなことが起こるのだろうか? 起こらないとすれば、なにがどうまちがっているのだろう?

 いやじつは、おれにもさっぱりわからないのである。



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2008年10月 9日 (木)

たまたま日本で生まれた人がノーベル化学賞も受賞

南部さんは日本人?米国人? 人材流動化で意見百出 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1008/TKY200810080230.html

 「南部さんを日本人とカウントしないわけにはいかないが……」。素粒子物理学などの基礎研究を支援する文部科学省は、内部資料としてノーベル賞の受賞者数を国別に毎年集計している。これまでは受賞者の国籍で数えてきた。
 南部さんは注釈付きで日本の受賞者にする方向だが、関係者からは「そもそも国別に数える意味があるのか」という声も聞かれる。「外国人が日本の研究拠点での業績でノーベル賞を受けたら、日本の受賞にカウントするのだろうか」ともらす関係者もいる。
 下村さんは日本国籍のままだが、60年に渡米。そこでの研究が、今回の受賞につながった。
 政府は最近、魅力的な研究環境を整え、逆に世界から日本に人材を集める「頭脳循環」へと持ち込む姿勢を強める。塩谷文科相は8日、「大いに世界に出ていくと同時に、世界の頭脳が日本に集まる環境作りをぜひやりたい。4人もの受賞は、世界の拠点のひとつになりうる証明と思う」と話した。
 文科省は昨年、外国人比率を高める「世界トップレベル研究拠点」を全国に5カ所選出し、事務部門も含めて英語を公用語にした。そのひとつの東京大数物連携宇宙研究機構は、米カリフォルニア大教授だった素粒子論の世界的リーダー、村山斉さん(44)を機構長に引き抜いた。
 「同じ研究環境があれば欧米にこだわる必要はない。米国からは、日本の素粒子物理学が非常に華々しく見えた。かつてとは違う」と話す。
 米国に研究拠点を移して73年にノーベル物理学賞を受けた江崎玲於奈さんは「今の日本は、当時より飛躍的に研究基盤が発達している割に、外国人研究者が根付いていない。二重国籍を許すなど差別のない住みやすい日本を作るため、国内のみんながしっかり取り組まなくてはだめだ」と話した。

ノーベル化学賞に下村脩さん 蛍光たんぱく質を発見 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1008/TKY200810080238.html

 スウェーデンの王立科学アカデミーは8日、今年のノーベル化学賞を米ウッズホール海洋生物学研究所・元上席研究員の下村脩(おさむ)さん(80)と米国の研究者2氏の計3人に贈ると発表した。下村さんは、オワンクラゲの発光の仕組みを解明する過程で、緑色蛍光たんぱく質(GFP)を分離し、その構造を解明した。GFPは、生命科学の研究で、細胞内で動く分子にくっつけて追跡する便利な「道具」として世界中の研究者に使われている。

Glowing jellyfish earns Nobel Prize (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/TECH/science/10/08/nobel.chemistry/index.html

(CNN) -- Research into the mysterious green glow of a jellyfish earned three scientists this year's Nobel Prize for Chemistry, the Nobel Foundation announced Wednesday.
Osamu Shimomura of the Marine Biological Laboratory in Woods Hole, Massachusetts; Martin Chalfie of Columbia University; and Roger Tsien of the University of California at San Diego won for the discovery and development of the green fluorescent protein GFP.

(中略)

Osamu Shimomura, a Japanese citizen, was the first to isolate GFP from the crystal jellyfish, discovering that the protein glowed bright green under ultraviolet light.
American scientist Martin Chalfie demonstrated GFP's value as a luminous genetic tag in nature. One of Chalfie's first experiments, the foundation said, involved using GFP to color individual cells in a transparent roundworm.
Roger Tsien, also an American, extended the color palette beyond green. Researchers can now give various proteins and cells different colors, enabling them to follow different biological processes at the same time, the foundation said.

(中略)

Shimomura was born in Kyoto, Japan, and received a Ph.D. in organic chemistry in 1960 from Nagoya University. He is now professor emeritus at the Marine Biological Laboratory and Boston University Medical School.
Chalfie grew up in Chicago, Illinois, and received his Ph.D. in neurobiology from Harvard University in 1977. He is now a professor of biological sciences at Columbia University in New York.
Tsien was born in New York and received a Ph.D. in physiology from Cambridge University in 1977. He is a professor at UC-San Diego.

「化学賞は意外」「クラゲ85万匹採取」下村さん語る (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1008/TKY200810080259.html

 ——米国に居続けたのは?
 「昔は研究費が米国の方が段違いによかった。日本は貧乏で、サラリーだってこちらの8分の1。それに、日本にいると雑音が多くて研究に専念できない。一度、助教授として名古屋大に帰ったんだけど、納得できる研究ができなかったので米国に戻った」
 ——何が納得できなかったんですか?
 「規模が違う。僕は十何年かけて85万匹のオワンクラゲを採取した。100トンは超すでしょう。何十人もの人を雇いました。家族も手伝ってくれた。ノーベル賞はその副産物なんです」
 ——週末に海辺に行ったりされたのですか?
 「いやいや、夏に1カ月か2カ月滞在して、朝から晩までクラゲを採った」
 ——国籍は日本のままなんですね。
 「何でわざわざアメリカ人に変わる必要があるの? 日本人でもアメリカに住める。研究費を取るにも差別はなかったし、ほとんど不便は感じない」

 今年は物理学賞に引き続き、化学賞も日本で生まれた人が受賞することになった。めでたいことである。利根川進氏が医学生理学賞を受賞したときもそうだったが、前エントリーで述べたようなことをあちこちで話題にしている人がいて、これはじつによいことだと思うのである。

 たしかに、湯川秀樹氏や朝永振一郎氏が受賞したころには、単に日本で生まれた人が受賞したというだけで戦後の暗い世相に明るい光を投げかける大事件だったにちがいないが、もはや日本は、頭脳流出の問題を国家戦略的パースペクティヴで真剣に考えるべき段階に来ている。アメリカで業績を上げた日本人がノーベル賞を取ったからといって、手放しで喜んでいる場合ではないのだ。

 とくに選挙前には、政治家どもなど世論でいくらでも意のままに操作することができる。もっともっと頭脳流出を嘆く世論を盛り上げ、びくびくしている政治家どもから言質を引き出すようにしなくてはならない。食料自給率が四割を切り、天然資源もろくにないような国が一流国家として世界に伍してゆくには、頭脳以外の資源はあるまい。いまこそ、市井の人々が政治家どもを操るときだ。

 日本の新聞に、「京都大学のキルゴア・トラウト教授がノーベル経済学賞を受賞」といった見出しが躍る日を、おれは楽しみにしている。



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2008年10月 8日 (水)

たまたま日本で生まれた人々がノーベル物理学賞を受賞

ノーベル物理学賞、素粒子研究の日本人3氏に (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1007/TKY200810070297.html

 スウェーデン王立科学アカデミーは7日、今年のノーベル物理学賞を、素粒子物理学の理論づくりに貢献した米シカゴ大名誉教授で大阪市立大名誉教授の南部陽一郎氏(87)と、新たな基本粒子の存在を共同で提唱した高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)名誉教授の小林誠氏(64)と京都大名誉教授で京都産業大理学部教授の益川敏英氏(68)の日本人計3人に贈ると発表した。日本人が一つの賞で同時受賞するのは初めて。

 おおお、ひさびさにめでたいニュースだ。日本人がノーベル賞を取るたびに、いままでの受賞者をちゃんと憶えているか指折り名前を挙げてゆくのがおれの習慣なのだが、記憶力が衰えてきているうえ、今回のようにいっぺんに三人も増えると、そろそろ憶えきれなくなってくるのではなかろうか。子供のころは、湯川朝永川端だけですんだのになあ。

 とはいえ、ちょっとフクザツな想いを抱くのは、利根川進氏と南部陽一郎氏は、生まれ育ちが日本であるというだけで、世界から見れば、彼らは“アメリカの学者”だと考えるのが妥当だろうということである。南部氏にいたっては帰化しているんだから、国籍もアメリカだ。

 先進国である(はずの)日本の国民としては、単に遺伝的に日本人である人の受賞よりも、日本の大学や研究機関でノーベル賞に繋がる業績の主な部分を築いた人の受賞をより喜び、より誇るべきなのではあるまいか? いや、おれはべつに利根川氏や南部氏の個人としての偉大な業績にケチをつけるつもりはないのだ。ただ、喜びかたとして、“日本人だからどうこう”という時代では、もはやないのではないかと思うのである。まあ、おれとて、“世界で活躍する日本人”と言われる人々を見るにつけ、なにしろ同じ言語が通じるのだから親近感を覚えるのは事実だけれども、彼ら・彼女らの多くが“なぜ日本にいながら世界的に活躍できなかったのか?”という想いが反作用のように心中に生じ、フクザツな気持ちになってしまうのだ。

 そこで、日本人の意識が次の段階に進むステップとしての目標を想定しておきたい。それは、日本の大学や研究機関でノーベル賞に繋がる業績の主な部分を築いた“外国人”の受賞を国を挙げて喜ぶということである。冷静に考えると、世界から“あの人だからこそできた”と見られるよりも、“あの国でだからこそできた”と見られるほうが、日本人一般にとってはずっと誇らしいはずのことではないかと思うのだがどうか。「あの国で研究がしたい」と世界中の研究者から思われるようになることのほうが、たまたま日本に生まれ育った人がノーベル賞を取ることよりも、国家としてずっと重要だと思いませんか?



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2008年9月29日 (月)

あなたにもできる地震観測

Wanted: amateurs to help track earthquakes (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/TECH/science/09/25/earthquake.trackers.ap/index.html

LOS ANGELES, California (AP) -- Earthquake scientists want to borrow your laptop or maybe a little space in your basement or garage.
Researchers don't have enough high-tech monitoring stations to track every instance of ground shaking, so they are enlisting help from ordinary people to document quakes and pinpoint areas of possible damage.
Almost anyone can participate by equipping laptop computers with special software or installing quake sensors at home.
"If they can provide scientific data that can prepare us for events in the future, then that's extremely important," said Tom Jordan of the Southern California Earthquake Center at the University of Southern California.
The epicenter of the movement is in California, the most quake-prone state in the continental United States. Each year, 10,000 temblors rattle Southern California alone, though most are too small to be felt.
The Quake-Catcher Network was launched this year to tap into the computing power of some 300 participants worldwide, including 50 volunteers in California.
The network relies on a sensor called an accelerometer that is built into many newer laptops to detect sudden motion. If the computer is dropped, for instance, the sensor can alert the hard drive, shielding it from potential damage and preventing data from being lost.
Volunteers download software that links their computers to others in the network and sends information about shaking to scientists through the Internet.
Since any movement -- passing trucks, neighbors moving furniture or a pet jumping on the desk -- can trigger a laptop's internal sensor, scientists scan incoming data only when the U.S. Geological Survey determines that an actual quake has occurred, based on readings from its field stations.
"If there's a bunch of laptops that trigger in one location, there's probably an earthquake," said seismologist Elizabeth Cochran of the University of California, Riverside, who is a leader of the project.

 これはなかなか面白いアイディアだなあ。端的に言えば、記事にもあるように、まさに SETI@home の地震版という感じかな。みんなが観測点になれるアメダスのようなものというか。

 落下などの際の加速度を検知してハードディスクのヘッドをリトラクトするために加速度センサーを内蔵したパソコンが出てきているが、そういう個人のパソコンを用いて、地震のようすをより細かく把握しようという試みである。もちろん電源を入れっぱなしにしているパソコンばかりとはかぎらないし、加速度センサーは“生活振動”も検知してしまうにちがいないが、充分な数があれば、生活振動は除外できる。同じエリアの多数のパソコンが同時に反応しなければ地震ではないと考えられるからだ。

 多数のカーナビからのデータを集約して渋滞情報をフィードバックしたりするシステムはすでに実現しているが、この地震検知システムも、そうした Web 2.0 なアイディアですな。面白いね。今後、さまざまなセンサーを内蔵した情報家電が普及すると、それらから捕捉できるデータを用いた存外に便利なサービスが出現してくるにちがいない。

 加速度センサーといえば Wii のコントローラだが、Wii のコントローラで地震を検知しようとしたりすると、あちこちで大地震が起こっていることになってしまうだろう。まあ、そういう用途には向かない。

 だが、Wii のコントローラから取ったデータを集約できるとすれば、たとえば、「雨の日はテニスゲームをする人が多い」とか、「社会保険庁の不祥事が発覚すると、“ぶった斬り”系のゲームをする人が増える」とか、有名な“おむつとビールのアソシエーション”のような、意外で面白い相関がマイニングできる可能性はある。近い将来、さまざまな情報家電から得られる情報を基に、おれたちが度肝を抜かれるような社会科学的な事実が浮き彫りになってくるのだろう。

 まあ、おれたち一人ひとりを考えたときには、べつに個人情報を取られるわけでもないから、データのそういう使いかたが普及してきても、さほど気色悪く思うわけでもない。そもそも広告屋だって、個人情報のような危険なものはできるだけ持ちたくないと思っている。たとえば、昨今の行動ターゲティングのように、個人が特定できるような情報を持たなくても効果的な広告が打てる方法論さえあればいいのだ。

 この地震データ収集システムのような発想、設計思想のシステムは、これからどんどん出てくるだろうね。もはや、ユーザというのは、情報収集端末でもあるのだ。



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2008年9月25日 (木)

『量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在』(コリン・ブルース/訳:和田純夫/講談社ブルーバックス)

 おれはいくつかある量子力学の解釈というものは、あくまで“解釈”であって、どの解釈を取るかは好みの問題にすぎないのではないか、しょせん、“ほんとうに”なにが起こっているのかなど、おれたちにはわかりっこないのではないか、宇宙が“そういうふうに”ふるまうのであれば、どう解釈しようが受け容れるしかないではないかくらいに思っていた。

 だが、この本を読むと、なるほど多世界解釈というのはとても合理的で、オッカムの剃刀の切れ味が冴える考えかたなのだということがよくわかった。これが“正しい”んじゃないかと、ほとんど説得されそうになっちゃいましたな。惜しむらくは、おれには「多世界解釈はおかしい」と自信を持って反論できるだけの、あるいは、多世界解釈を強力に推すだけの、知識も能力もない。「なるほど、言われてみればそうですな」くらいの感じで、ほとんど納得しちゃうのである。近年の実験も多世界の実在を“示唆”(“証明”じゃないのだ。ここ重要!)しているとあっては、素人としては説得される以外にないじゃないか。

 「まえがき」には、非常に挑発的かつ魅力的なくだりがある――「ここ数年【冬樹註:原著の刊行は二〇〇四年】、量子論の暗がりに突然の輝きが見られた。半死半生の猫、あるいは宇宙全体の状態を収縮させる力を備えた、意識を持つ観察者といった不思議な登場人物が現れる古い物語は、時代遅れとなった。新しい物語がいくつか登場し、そのうちの1つは特に有望である。それは我々に、古典的な宇宙を取り戻させる。ものごとはランダムではなく予測通りに振る舞い、相互作用の働く範囲は長距離ではなく局所的である。しかし犠牲も払わねばならない。我々が住む宇宙は、考えていたよりもはるかに、予想外の意味で広大であることを受け入れなければならない」

 まあ、実際になにが起こっているのか、あるいは、量子力学的な現象をどう解釈す“べき”なのかについては、おれにはなんとも言いようがないのだが、ひとつたしかなのは、おれは多世界解釈が好きだということである。実際にこのようなことが起きているのであってほしいと思う。だって、なにより、こうであったほうが面白いじゃないか!

 意識を持った存在とやらの“観測”が全宇宙のありように影響を及ぼすなんて考えかたは、どうも気色が悪い。意識を持った存在に特権的地位を与えているのが、なんとも気味悪い。そんなふうに思う人には、本書は一読の価値があると思うよ。あなたが物理学者であればいろいろとツッコミどころもあるのかもしれないが、そうじゃなければ、たぶん説得されちゃうと思いますな。少なくともおれには、意識を持つ存在になにか特別な力があると思うよりは、おれがいま認識しているこの世界とは決して情報交換できない世界がいっぱいあると考えるほうが、よほど合理的に思えるよ。



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2008年9月19日 (金)

「すてきなチーズ切り」くらいなら、もう造れるんだから

エレベーターで宇宙に行けるかも 東京で今秋国際会議 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0919/OSK200809180102.html

 「上に参ります。次の階は宇宙でございます」――長さ約10万キロのケーブルをよじ登って、ロケットを使わず、そのまま宇宙へと飛び出す「宇宙エレベーター」の研究団体が日本で結成された。海外の研究者を招き、11月に第1回国際会議を東京で開催する。従来はSFの世界の乗り物とみなされてきたが、ナノテク新素材の開発によって実現の可能性が見えてきた。
 宇宙エレベーターとは、赤道の上空、高度約3万6千キロに浮かぶ静止衛星から地上に向けてケーブルを垂らし、それをガイドとして利用して、宇宙との間を昇降するエレベーター型宇宙船のこと。
 バランスが取れるように、静止衛星から地球と反対方向の宇宙にも向けてケーブルを伸ばすため、その総延長は月までの距離の約4分の1にも達する。ケーブルは、静止衛星と共に宙に浮いた状態となるので、よじ登っても落ちてこない。地球の重力を脱出する燃料がいらないので、宇宙旅行のコストが約100分の1になると見込まれている。総建設費は、約1兆円の予定。
 SF作家の故アーサー・C・クラークが小説「楽園の泉」で紹介して有名になったが、実現は不可能に近いと考えられてきた。どんな素材でもその重さに耐えきれず、ケーブルが途中で切れてしまうからだ。計算上は、鋼鉄の約180倍もの強度が必要。だが、日本宇宙エレベーター協会会長で、IT会社社長の大野修一さん(40)によれば、軽くて強いカーボンナノチューブが開発され、必要強度の約4分の1の強さの繊維がすでに造られているという。米国では、米航空宇宙局(NASA)が賞金を出すコンテストも開かれている。
 大野さんは「海外旅行感覚で、誰でも宇宙にいけるようになる。放射性廃棄物の太陽への投棄や、太陽光発電衛星の設置などいろいろな利用案も出されている」と話す。
 約50人の会員の中には、大学教授や宇宙関連産業の技術者などもいる。来年には、ケーブルを昇る模型の速さを競う国内大会を開催する計画もある。ホームページは、http://www.jsea.jp/(久保田裕)

 こういう会議が日本で開かれ、一般紙が報道するような時代になったか。感無量だねえ……。

 おれは最近しみじみ思うのが、一九六二年あたりに生まれてほんとうによかったなあということである。おれたちの世代は、家の中にある最高のハイテク製品として箪笥の上に載っていた、あのチューナーの赤い針が物理的に移動する大きなラジオを知っている。白黒テレビを知っている。“ウチにカラーテレビがやってきた日”というのを、子供のころの大きな事件として胸に刻み込んでいる。ソノシートでアニメや特撮モノの主題歌を聴いた。人類が月に立ったとき、ちゃんとその意味がわかる年ごろになっていた。やがてデジタル技術の産物が次々と生活に入ってきた。新しい技術が出現するたびに、人類が一歩SFの世界に近づいたような気がした。ほんとうにした。オリヴェッティの機械式タイプライターで卒論を書いた。パソコン通信に感動した。インターネットにもっと感動した。牧歌的なアナログの世界にもノスタルジーを覚えつつ、デジタルなハイテクにもいちいち感動してきた。生まれたときからコンピュータがコモディティー化していた世代とはあきらかに一線を画する。着々と夢が現実になってゆくさま、テクノロジーが人々の生活や人間のありかたそのものを確実に変えてゆくさまを、みずからの成長や成熟と重ねて、まざまざと見てこられた世代なのだ。なんていいときに生まれたんだろう――と、このごろホントに思うのだ。

 でもって、とうとう軌道エレベータである。あんまり長生きしたくないなあ、死ぬときにはスイッチが切れるように死にたいなあというのがおれの基本的願望ではあるのだが、こういう話に触れると、おれの生きているうちに実現するかなあとわくわくする。むかしのように「こんな夢みたいなものが実現したらいいなあ」という段階ではもはやないのだ。多少なりとも、要素技術の展望が開けてきたからこそ、こういう国際会議も開かれるのであって、人類が手を伸ばせば届く距離にそれは近づいてきているのである。あと四十年くらい生きられたとしたら、そのころには実現しているだろうか? もし間に合いそうだったら、酒も煙草もやめてみようかという気にすらなる。八十五歳でも乗せてくれますか? それこそ『楽園の泉』じゃないけれど、軌道エレベータの中で(できれば“帰路”で)息絶えるんなら、それはそれは素敵な死にかただと思う。

 「総建設費は、約1兆円の予定」だって? なんだかずいぶん安いように感じるのだが、専門家が弾いているんだから、それなりに根拠のある見積りなのだろう。安い安い。FRBがAIGの救済に投じる金があれば、軌道エレベータが九基も造れるのか! そう考えると、ホントに安いなあ。



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2008年9月 9日 (火)

『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』(佐々木正人/光文社新書)

 いやあ、すごい世界だなあ。おれはスポーツとはほとんど縁のない人生を送ってきたが、おれなどからは超人としか見えないような人々が、いったい全体、主観的にはどのような世界を感じているのかということには、たいへん興味がある。本書は、認知科学に於けるアフォーダンス理論のわが国での第一人者、佐々木正人氏が、常人の実感も想像も超えた独自の宇宙を体感している十六人のトップアスリートたちにインタビューを試みた刺激的な仕事である。トップアスリートが“環境”からどのような情報を受け取り、それをどう制御しているかを、主観的な言葉で表現するというのには、たとえば、才能に恵まれた数学者が、高次元空間の抽象的な幾何学を「これをこうすると当然こうなります」などと、あたかも日常的な三次元空間の物体を手に取って動かしているかのように語るのを聞いているみたいな不思議な感じがある。

 興味本位で読みはじめたところが、あまりに面白いのでつるつる読める。この人たちは、ほんとうに人間なのか。というか、人間だとしたら、人間の認知能力をいうのはどえらいものであるなあと、改めて感じ入る。

 潮田玲子(バドミントン)は、本書のタイトルどおり、初速が時速250キロで0.3秒後には時速50キロにまで減速するシャトルの動きを、コート上の空間を二十分割して瞬時に捉えているそうな。鈴木亜久里(F1)は、「見ることと思考の回路は全然違うところにあると思う。流れ作業をやっている人が会話してても、作業してるじゃないですか。それと同じように300kmで走っていても普段と同じように冷静に考えられるんです」と語る。船木和喜(スキー・ジャンプ)によれば、「冬と夏だと風の重さが違」うそうで、武田大作(ボート競技)は、オールを水に入れるのは「豆腐に包丁を入れる感じですね。豆腐に包丁を入れて壊さないで後ろへ持っていくような感じです。水を壊しちゃ絶対にダメです」などとお料理教室のようなことを言う。「シドニーはとにかく全体が重くて硬い感じで、アテネは比較的好きな感じのタイプでした。全体が重くて硬いというのは、グラデーションがないということです。シドニーのほうが、硬くてコキコキしていた」武田美保(シンクロナイズド・スイミング)が語るのは、プールの水の話なのである。

 なんというか、おれの日常感覚とはかけ離れた、とてつもない感覚だ。おれのようなスポーツ音痴にとっては、まるで山田風太郎忍法帖でも読んでいるかのようだ。

 彼ら・彼女らの主観的表現を科学的にどうこう言うことにはあまり意味がない。彼ら・彼女らが、信じられないほどの鋭敏な感覚で主観的に環境を捉え、それを制御しようとするさまを常人になんとか伝えようとするときに、なんだか山田風太郎じみてくるだけのことである。人間の認知能力とは、なんとものすごいものかと感動する。

 自身でスポーツをやる人はもちろん、スポーツに縁のない人にも面白いこと請け合い。これはね、トンデモとは一線を画するフィールドワークですよ。歴とした認知科学の仕事でしょうね。



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2008年8月25日 (月)

チリメンモンスター

 以前、「消えた“ちりめんタコ”」と題するエントリーで、ちりめんじゃこの中に紛れ込んでいる小さなタコに対するおれの熱い想いを吐露したことがあるが、今日、讀賣新聞の夕刊一面を見て仰天した。ウェブ版にも取り上げられている――

ジャコに紛れるエビ・タコ…その名は「チリモン」人気モン (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080825-OYT1T00435.htm

 ちりめんじゃこに紛れ込んでいる小さなエビやカニ、タコ、ヒトデなどを採集できる「じゃこパック」(250グラム、730円)が、インターネットで販売され、子どもたちの人気を呼んでいる。
 人気アニメにちなんで「チリメンモンスター(チリモン)」と呼ばれ、和歌山県湯浅町の水産加工会社「カネ上(じょう)」が4年前、ホームページで紹介。子どもたちから「気持ち悪いけど、かっこいい」といった声が寄せられ、月に200件以上の注文があるという。
 チリモンは通常、加工時に除去される。「きしわだ自然資料館」(大阪府岸和田市)では、定期的に観察会を開いており、子どもたちは図鑑を手に、ルーペで種類を確認、標本にするなどしている。
 同館学芸員、風間美穂さん(36)は「手軽に生物を観察できるのが人気の理由では。チリモン博士を目指して」と話している。

 チリメンモンスターねえ……。この水産加工会社は、じつにいいところに目を着けたもんだなあ。商売にするとはたいしたもんだ。本来捨ててしまうものを有効利用して、子供たちの生物への興味をかき立てることができる。年端もいかぬまま、ちりめんじゃこのとばっちりを受けて捕まってしまった雑多な生きものの稚魚や幼生たちの死も、まったくの無駄になるわけではない。いいことずくめではないか。

 記事中にある「きしわだ自然資料館」と協力し合って活動している「きしわだ自然友の会」のサイトには、「チリモン図鑑」と題した研究成果がある。なるほど、市場に出る前のちりめんじゃこには、じつにいろいろなものが入っているのだなあ。ウニの幼生まで確認できるものなのか。

 もっと驚いたのは、友の会サイトの「チリモン広報板」に、「第47回日本SF大会開催記念・サイエンスファクトリーきしわだ」などという文字が躍っていたことだ。きっと、学芸員や友の会会員にも、スジモンが何人かいるんだろうなあ。



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2008年8月21日 (木)

♪胸の回路に指令が走る~

 ♪俺の 俺の使命 俺の宿命~~~ (わからん人は、オタクなおじさん・おばさんに訊いてね)


ネズミの「脳」内蔵ロボ、障害物記憶し回避 英大学開発 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0818/TKY200808180058.html

 【ワシントン=勝田敏彦】コンピューターではなく、生物の「脳」の判断で障害物を避けて動くロボットを開発したと、英レディング大の研究チームが発表した。
 チームは、ネズミの胎児から取り出した脳を酵素で処理し、神経細胞30万個がバラバラになったものを作った。これに約60本の電極をつなぎ、動き回るロボットの障害物センサーから出る電気信号で、神経細胞が刺激されるようにした。
 このロボットを繰り返し動かしたところ、障害物を避けるようになった。障害物センサーからの刺激でネズミの神経細胞に新たなネットワークができて、ロボットの動きを制御したと見られる。センサーの情報で、ネズミの「脳」が学習したことになる。
 チームのベン・ウェイリー博士は「一つひとつの神経細胞が、複雑な生物行動をどのように制御しているのかはわかっていない。実験はこの問題の理解に役立つのではないか」と話している。

Rise of the rat-brained robots (New Scientist Tech)
http://technology.newscientist.com/channel/tech/mg19926696.100-rise-of-the-ratbrained-robots.html

After the selected stimuli have been applied a few times, certain behaviours become embedded in the culture for some hours. In other words, the culture has been taught what to do. "It's like training an animal to do something by gradual increments," Potter says.
The Reading team are now planning to study whether particular parts of the culture, rather than all of it, can be more useful for performing certain tasks. They also plan to study whether the culture should be embodied in a robot early on. At the moment, they wait three to five weeks until a culture is mature before applying any sensory input. This might amount to trying to get a sensory-deprived "insane" culture to learn, says Whalley.
This work will hopefully contribute to our knowledge of how brains work, but its potential should not be exaggerated, says Potter. "This system is a model. Everything it does is merely similar to what goes on in a brain, it's not really the same thing. We can learn about the brain - but it may mislead us."
Warwick agrees, but believes it will be useful. "If this kind of work can make a 1 per cent difference to the life of an Alzheimer's patient it will be worth it," he says.

 生きた脳細胞で機械を制御するというのは、そりゃあもう、SFでは定番中の定番と言ってよい(ゲップが出るほどありがちな)アイディアではあるが、こうして実際に作られると、なんとも言えない感慨がありますなあ。二十一世紀やなあ……。

 こういう記事を読みビデオを見ると、当然、“人間の脳細胞でもできるはずだ”と思うのが人情である。ちょっと前までであれば、堕胎した胎児の脳細胞を培養し……みたいな話になって、倫理的には到底実現不可能、もしもやったらマッドサイエンティストの烙印を捺されること必至だったろうが、おれたちはいまやiPS細胞を手にしている。人間の脳細胞だけを大量生産できるようになれば、こんな実験はやり放題だろう。再生医療が目的であれば、発癌性やらなにやら遺伝子操作の弊害を徹底的に調べ安全性を担保せねばならないが、ロボット工学に使うぶんには、多少の遺伝子の瑕疵は問題にならない。それが人間の脳細胞であれ、単なる生体素子にすぎないわけだ。iPS細胞は、再生医療の分野への実用よりも早く、案外、ロボット工学や情報工学に貢献する日が近いのではあるまいか。

 「おお、キミが生体脳を搭載したネズミロボット第一号か。おれたちのころは、迷路を走らされたもんだがなあ。生きた脳細胞で障害物を回避するとはたいしたもんだ」
 「畏れ入ります。これも先人、いや、先鼠の方々の業績あってのことです、あ、アルジャーノン先生」
 「そんなに固くならなくてもいいよ、先輩でいい」
 「は、ハイ、先輩っ!」
 「♪ぽっぽぽぽぽぽ、ぽっぽー ぽぽぽぽぽ、ぽっぽっぽっぽっぽー……」
 「……さては、それが唄いたかっただけやな」



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2008年8月19日 (火)

中国語の部屋

♪いつの間にか部屋に閉じ込められていた
 漢字だけが入るせまい部屋で一人
 君に出来ることは中国語の問い
 だけど充ち足りていた
 やりきれぬ虚しさも無知も
 マニュアルの指示どおりにした
 もしもどちらかもっと強い知能でいたら
 会話続いていたのか
 餃子かじりながら語り明したよね
 意味はあれから何処へ


 元歌が古いしなあ、ネタがマニアックだしなあ。ウケねえだろなあ。でも、だしぬけに思いついちまったものはしかたがない。備忘録(?)として書き残しておこう。人工知能スジの人かSFファンにしか通じねーだろなあ。さっぱりわからない人は、『中国語の部屋』を調べてください。



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2008年8月17日 (日)

打ち水が「温暖化対策」なわけないだろう

打ち水で「温暖化止めよう」 暑さ日本一の岐阜・多治見 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0816/NGY200808160002.html

 昨年8月16日に最高気温が40.9度となり、74年ぶりに国内記録を更新した岐阜県多治見市は、毎年この日を地球環境を考える「たじみクールアースデー」と定めた。今年は1日早い15日に催しがあり、市が打ち水や消灯など身近な温暖化対策への取り組みを呼びかけた。
 市役所前での打ち水には、貯水槽にためた雨水が使われた。市民ら約200人のほか、「住民票」を交付された市のマスコットキャラクター「うながっぱ」も登場。約500リットルをバケツやひしゃくで道路にまいた。
 市立精華小学校の近くでは、市街地の地下を流れる虎渓用水の水をくみ上げる手押しポンプ「ガチャポン」がお披露目され、地域の人たちがくんだばかりの水を歩道や庭先に打ち水した。
 用水から給水した散水車も市内を巡回。夕方からは、市役所の敷地内でろうそくをともし、庁舎の照明を落とした。

 ちょ、ちょっと待て。この記事、まず見出しを一瞥しただけで、義務教育を修了した人ならズッコケるだろう。「市が打ち水や消灯など身近な温暖化対策への取り組みを呼びかけた」って、えーと、これは市がトンチンカンなのか、記者がトンチンカンなのか、両方トンチンカンなのか?

 消灯はまあいいとしようや。たしかに二酸化炭素排出削減には繋がる。二酸化炭素を含む温室効果ガスがどのくらいの時間幅でどの程度地球全体の温暖化に寄与しているかしていないかといった議論は置いておくとして、やらないよりはやったほうがいいことだろう。

 だが、打ち水「温暖化対策」などと呼ぶのは、ミスリーディングもおびただしい。教育上、悪い。打ち水の効果は、水が蒸発するときに地表から気化熱を奪い、地表からの輻射熱を減らし、地表付近の気温も多少下げるというだけのことにすぎない。熱エネルギーは地表から水の分子に移動しただけであって、ちょっと広い範囲で見れば、熱の総量は変わっていない。

 こういう文脈で「温暖化対策」なんて言葉を使っちゃいけませんなあ。この言葉は「地球温暖化対策」と解釈されるのが常だ。そういう“流行語”をイベントの広報や新聞記事にちりばめたいという大人の思惑はわからんでもないけど、限度というものがある。これは拡大解釈なんてもんじゃなく、ただの歪曲だ。打ち水を「温暖化対策」と呼ぶのは、水飲み鳥を永久機関と呼んでいるに等しい。いくらなんでもやりすぎだ。「打ち水をすることで少しでもエアコンの電力消費を抑えることができると考えられるから、“温暖化対策”なのだ」と言いたいのかもしれないが、だったらその意図こそを明確に書け。この記事の書きかたでは、打ち水そのものが直接「温暖化対策」として効果があるかのように読めてしまう。

 「温暖化対策」で人類が求められているものの見かたは、打ち水という行為の効果が体感できる範囲のものの見かたと、むしろ真っ向から対立するとすら言えるかもしれない。いや、おれは打ち水が悪いと言ってるんじゃないよ。生活の場に淡水が豊富に存在する日本が育んできた貴重な文化ではある。おれが問題にしているのは、あきらかに地球温暖化対策ではないものに「温暖化対策」などという中途半端な言葉を軽々に貼り付けて、狂騒的な“ブーム”のようなものに乗っかって目立とうとする多治見市だか記者だかのあさましい姿勢である。

 科学部を持っているような大新聞が、こういう、中学生でもおかしいと思うような軽薄で意地汚い言葉遣いをノーチェックで通しちゃいけませんなあ。

 多治見市も多治見市で、ちゃんとオチまでつけている。「夕方からは、市役所の敷地内でろうそくをともし、庁舎の照明を落とした」って、もの燃やしとるやないかあっ! 何本くらい燃やしたのか知らんが、誰か市の職員は二酸化炭素排出量の計算をしたのか? あるいは、然るべきところに算出を依頼したのか? もし、ふつうの蛍光灯が消費する電力を得るために排出する以上の二酸化炭素を蝋燭を灯すことで出しておったとしたら、洒落にもならんイベントだということになる。市民の税金でやっとるんだろう?



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2008年8月16日 (土)

♪タコ、手と足ばかりでごめんね~

タコの足6本、実は「手」? えさ探しに活用、利き手も (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0814/TKY200808140212.html

 みんなが8本足だと思っているタコだが、実は足の大半は「手」かもしれないという研究結果を、欧州の水族館「シー・ライフ」のチームが発表した。AFP通信が伝えた。特に一番前の2本は探索を担い「生きた獲物に忍び寄り、飛びかかって捕まえるのに役立っている」という。
 英国、ドイツ、ベルギーなどの16カ所の水族館で、タコの足の働きを調べる実験をした。すると、一番後ろの2本が主に移動を受け持っていたのに対し、前方の6本はえさの探索、調査などさまざまな目的で使われ、むしろ「手」に近い働きをしていた。
 また、こうした「手」の使い方をみると、タコによって右利き、左利きがいることもわかった。色の好みもさまざまで、研究チームのアレックス・ジェラード氏は「タコは非常に強い個性をもっている」としている。

Octopuses more arms than legs: research (Yahoo! News)
http://news.yahoo.com/s/afp/20080813/od_afp/britainanimalsresearchoffbeat

However, he does not believe octopuses -- named after the ancient Greek for eight footed -- will have to be give a new name.
"The name's pretty good and they would have to rename James Bond movies," he said.

 asahi.com の記事を読んだだけではなにが言いたいのかいまひとつよくわからなかったのだが、元記事を読んでようやく納得がいった。

 つまり、タコに八本ついている“アレ”は、ハードウェアとしてはまったく同じだが、ソフトウェアレベルで機能が分化していると言いたいのだな。実証的研究によってあきらかにしたのはたいしたものだが、情報処理の効率化という観点で考えれば、予測はつきそうな話だ。つまり、タコの情報処理系が“次の直近のアクション”を起こそうとする場合に、いちいち八通りの可能性を検討しているとは考えにくい。そんな効率の悪いことをしているのだとしたら、タコが八本も“アレ”を持っていることにたいした生存価はないだろう。タコが生まれて自然界で運動を繰り返すうちに、おのずと情報処理の“定石”のようなものが形成されてくるはずだ。文字どおり“決まり手”(“決まり足”でもいいけどさ)ができてくるのだろう。すべての“アレ”を同列に扱って処理するよりも、決まり手を作るほうがタコの脳にかかる負荷は小さいに決まっている。Life finds a way. タコは、いままで生き残ってきた中で、柔軟性と効率性を計りにかけて、このような情報処理を落としどころとして選択したのだ。

 それにしても、「ジェームズ・ボンド映画を改題しなくちゃならんようでは困るからね」とは、イギリスの学者らしいユーモアですな。

 本筋とは関係ない話だけど、octopus の複数形は正式には octopi ではないのかとツッコむ人もいるかもしれないが、英語圏のメディアでも octopuses といった完全に英語化した複数形はごくふつうに使われている。というか、むしろ多数派だ。focus の複数形も foci よりは focuses のほうが目にする頻度はずっと高い。まあ、たぶん、英語ネイティブの世界でも、ギリシア語やラテン語といった古典語の教養が廃れてきて、日常的慣用の圧力に屈してきているということなのでしょうな。日本語の“ら抜き言葉”みたいなもんかな? 面白いことに、fungus の複数形は、fungi のほうが(まだ)優勢なようだ。つまり、「菌」なんて言葉は、「タコ」や「焦点」よりもずっと日常生活での使用頻度が低いということなのだろう。



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2008年7月18日 (金)

こういう会合には、ブルース・スターリングでも呼ばんとなあ

Scientists: Humans and machines will merge in future (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/TECH/07/15/bio.tech/index.html

LONDON, England (CNN) -- A group of experts from around the world will hold a first of its kind conference Thursday on global catastrophic risks.
They will discuss what should be done to prevent these risks from becoming realities that could lead to the end of human life on Earth as we know it.
Speakers at the four-day event at Oxford University in Britain will talk about topics including nuclear terrorism and what to do if a large asteroid were to be on a collision course with our planet.
On the final day of the Global Catastrophic Risk Conference, experts will focus on what could be the unintended consequences of new technologies, such as superintelligent machines that, if ill-conceived, might cause the demise of Homo sapiens.
"Any entity which is radically smarter than human beings would also be very powerful," said Dr. Nick Bostrom, director of Oxford's Future of Humanity Institute, host of the symposium. "If we get something wrong, you could imagine the consequences would involve the extinction of the human species."

(中略)

"Nanotechnology will not just be used to reprogram but to transcend biology and go beyond its limitations by merging with non-biological systems," Kurzweil said. "If we rebuild biological systems with nanotechnology, we can go beyond its limits."
The final revolution leading to the advent of Singularity will be the creation of artificial intelligence, or superintelligence, which, according to Kurzweil, could be capable of solving many of our biggest threats, like environmental destruction, poverty and disease.
"A more intelligent process will inherently outcompete one that is less intelligent, making intelligence the most powerful force in the universe," Kurzweil writes.
Yet the invention of so many high-powered technologies and the possibility of merging these new technologies with humans may pose both peril and promise for the future of mankind.
"I think there are grave dangers," Kurzweil said. "Technology has always been a double-edged sword."

 今日、オクスフォード大学に諸分野の専門家が集まって、global catastrophic risks について話し合うカンファレンスを持っていたらしいのだが、その global catastrophic risks ってのが、SFファンの関心事そのものである。核テロが起こったらどうなるかとか、小惑星が地球にぶつかってきたらどうなるかとか、人類の知性をはるかに凌ぐ能力を持った機械知性が現れたらどうなるかとか、べつに珍しくもなんともない話なんじゃないかなあ、SFファンにとっては。この種のカンファレンスは初だと記事は伝えているが、ほんとにそうなの? SFファンってのは、寄るとさわるとこんな話ばかりしているし、SFファンには本職の学者も多いのである。おんなじようなもんなんじゃないの?

 人類はいずれみずからを改造して機械と融合してゆくだろうなんてことを、いまさらのように言われてもねえ。しかもそれを“リスク”だと言われてもねえ。おれはそんなこと、リンゴが木から落ちるくらいあたりまえのことだと思ってたけどなあ。眼鏡や入れ歯となにがちがうというのだろう? それとも、“カタギの人”たちは、この期に及んで、人類と機械が今後融合してゆかないとでも、まだ思っているとでもいうのだろうか? そんなアホな。おれの貧しい見識に照らしてさえひとつだけ確かなのは、“人類というものは、できるようになったことは必ずやる”ということである。

 そういうわけで、この記事、SFファンにとってはちっとも面白くないのだが、Dr. Ray Kurzweil の言葉にだけは、「それは、きっとそうだろう」と頷けるものがある。グレッグ・ベアが、かつて似たようなことを言ってたよね。Kurzweil 博士曰く、"This will happen faster than people realize."

 そう、それはいままでも、常にそうだった。



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2008年7月14日 (月)

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 九年前に読んだ同じ著者の『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』が“アタリ”だったもんだから、今回のコレは、けっこう期待して読んだ。結論から言うと、やっぱり“アタリ”だな、これも。

 アロウの不可能性定理ハイゼンベルクの不確定性原理ゲーデルの不完全性定理と、社会科学、物理学、論理学が生んだ“これはそもそも無理ですから”という、三つの知の到達点を軸に議論を展開してゆく。いろんな分野の学者はもとより、会社員や運動選手といったパンピーも登場するソクラテス式の対話をフォーマットに議論が展開されてゆくので、難解な話になってもとても読みやすい。なんとなく、筒井康隆「マグロマル」の哲学版みたいだ。しばしば話に割り込んでは、カントに立ち返ろうとする“カント主義者”ってのは、「マグロマル」で言えば、さしずめ「ワシ、メシクテクル」ばかり繰り返しているガドガド人の役回りといったところだ。

 はっきり言って、本書で取り上げられている議論の多くは、思弁的なSFを好む人なら基礎教養として持っているような話ばかりである。つまり、逆に言うと、思弁的なSFを楽しみたい読者には、お薦めの良書だということだ。不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理などに加えて、囚人のジレンマナッシュ均衡ラプラスの悪魔EPRパラドックスシュレーディンガーの猫パラダイム論チューリング・マシンなどなど、現代SF(とくにハードSF)を読むうえで必須のポピュラーなネタを、網羅的にわかりやすく簡潔に解説してくれている。すれっからしのSFファンにとっても、知識を整理したり、「こういう説明のしかたもあるのか」と改めて考え直したりするのには持ってこいの本だ。グレッグ・イーガンテッド・チャンがいまひとつわからない、楽しめないというSF初心者の方は、必読である。現代SFでポピュラーなネタをこれほどてんこ盛りに羅列して、シンプルに解説してくれている本はそうそうありません。理科系の人なら学生時代にどこかで触れるようなネタが多いだろうが、文科系の人にはてっとり早いお勉強に持ってこいである。

 「不可能性・不確定性・不完全性」と題していながらも、やっぱり著者の専門だから、ゲーデルの不完全性定理にはいちばん力が入っている。旧著『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』について、おれは「理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ」と評したが、本書では、ゲーデルの証明そのものにかなり深く突っ込んでいる。専門的な数学的記述を使わずに、ふつうの日本語で不完全性定理をこれほどわかりやすく説明した解説には、おれは初めてめぐりあった。むろん、これで不完全性定理を完全に理解したと思い込んではならないだろうが、少なくとも、どういうことをどういう方法で言おうとしているのかは、わかった気になれる。おれがもし、「不完全性定理ってなに?」と問われて説明しなくちゃならないような羽目に陥ったときには、本書の説明方法をパクらせてもらおうと思う。

 『ゲーデル 不完全性定理』(林晋、八杉満利子訳・解説/岩波文庫)にも述べられているように、ゲーデルの不完全性定理は、フィールズ賞受賞者の小平邦彦をして、「ゲーデルの定理を勉強したが、自分には難しかった。何とか判ったつもりだが、自信は無い」といった意味のことを語らせるほどのものなのである。おれもいろいろな一般向け啓蒙書や解説書を読んだが、数学的操作にかろうじてついてゆける程度であって、その意味するところがほんとうに心からわかったとはとても思えない。だもんで、新書一冊読んだくらいで不完全性定理を理解したと思い込むのは笑止千万であろうとは思うのだが、それでも本書は、じつにうまくゲーデルの証明の要諦を、日常言語で説明することに成功している。これは旧著『ゲーデルの哲学』を超えた成果だと思う。

 不完全性定理というと、なにやらすぐに“人間の知性の限界”といった話に過度に援用されてしまったりするのだが、じつのところ、上述の『ゲーデル 不完全性定理』や、存命中のゲーデルと会見した唯一のSF作家にして数学者、ルーディ・ラッカーInfinity And The Mind: The Science And Philosophy Of The Infinite によると、ゲーデル自身は、紛れもないプラトン主義者なのである。つまり、形式主義的数学を超えた次元で、数学的実体なるものがどこかに確固として存在しており、人間の知性にはそれを直覚する能力があると信じていたわけだ。不完全性定理を、過度にアナロジカルに、人文系の学問に援用したりすることの危険は、充分に認識しておくべきだろう。

 おれ自身、いつかは、この人類の知性のひとつの到達点を、心の底から“理解した”と言える日を迎えたいと思う。だが、哀しいかな、おれの頭脳では、いまひとつ心から“わかった”気がしないのである。老後には、こいつを徹底的に勉強したいと思う。死ぬまでには、わかりたいものである。



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2008年7月 2日 (水)

躍動する奔放な死体

Donors sign up to have bodies dissected, displayed (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/TECH/science/06/30/body.worlds/index.html

 おわわわ、こういうのは小林泰三さんとかがいかにも好きそうだなあ。

 死体の体液や脂肪をプラスティックで置き換える plastination という技術でもって、死体がそのまま展示物になるわけである。ただただフツーに埋葬されたり火葬されたりするよりは、死後、自分の遺体を人々の教育や啓発に役立てたいと、この死体展示会のために“ドナー登録”をする人が、北米で八百人、全世界で八千六百人もいるそうなのである。英語の苦手な方は、写真だけでも見てほしいが、いや、なかなかこれはすごいものですぜ。なんか、映画の『AKIRA』みたいだ。

 おれはあんまり人様の鑑賞に堪えるような身体をしているとは思えないが、その思想には共感できるものがあるな。おれはいかなる生気論的な立場も取らないので、死んでしまったら、遺体、というか、死体は、放っておけば腐ってゆくばかりの、ただの有機物の塊だと思っている。どうせなら、そういうものを役立てる方法があるなら、なんらかのカタチで役立てたいとも思っている。

 医者の卵のために献体するという手もあるが、多くの人の目に触れるという点では、自分の遺体の利用法としては、こういう“展示”という方法も、オプションのひとつに入れておいてもいいだろう。人体というのは美しいものだなあと見学者あるいは見物人を感嘆させることはできないだろうが、煙草を吸ってるとこんなふうになりますよ、酒を飲みすぎるとこんなふうになりますよという見本くらいにはなれるかもしれない。

 虎でなくても、死して身体を遺すテクノロジーがあることはあるわけだ。



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2008年6月24日 (火)

「水と空気だけで発電し続けます」はないだろう

日経BPが永久機関の話にだまされちゃ困るだろう (Life is beautiful)
http://satoshi.blogs.com/life/2008/06/bp.html

 日経エレクトロニクスの愛読者として日経BPにはいろいろとお世話になっている私だが、今回のは完全なミスなので日経BPのためにも指摘しておきたい。こんな詐欺のような話は頭から無視すべきなのは明々白々。こんなくだらない話を記事にした記者には厳重注意を与えるべき。日経BPとしてこれ以上の権威失墜を避けるためにも、ここから先の報道は控えた方が良いだろう。できることならば、「なぜこの手の永久機関が不可能なのか」を丁寧に解説して、不幸にも誤解してしまった読者を救済すべき。

 これはじつにもっともな指摘である。アントニオ猪木ならともかく、天下の日経BPがこういう胡散臭い発表の片棒を担ぐかのような報道をするのはまずい。永久機関ではないと言っているにせよ(あたりまえだ、言っていたらそれこそトンデモだ)、中島聡氏の指摘するように、この会社も日経BPも、非常にミスリーディングなもの言いをしている。犯意があると疑われてもしかたのない発表のしかただ。

 おれとしては、“ニセ科学”の匂いがしたもんで、SFファン的野次馬根性で上記の中島氏の指摘や当該記事を興味深く眺めたのだけれども、どうもこれは“ニセ科学”というよりは、単なる“誇大広告”のようだ。それに日経BPが不注意にも乗せられてしまったということだろう。日経BPは善意の第三者(?)といった好意的な解釈もできようが、一企業の発表を内容も吟味せずウラも取らずにそのまま記事にしてしまうというあたりが、日経BPというブランドを背負っている記者としてはあまりに不注意だ。『探偵!ナイトスクープ』だって、それくらいのことはするぞ。『探偵!ナイトスクープ』がこんなネタをそのまま咀嚼もせずに取り上げたら、上岡龍太郎前局長なら怒って席を蹴って帰るよな。



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2008年6月 5日 (木)

『DVD&図解 見てわかるDNAのしくみ』(工藤光子・中村桂子/ブルーバックス 講談社)

 うう~む。こ、これはすごい。もっと早く買っておけばよかった。

 ブルーバックスはブルーバックスなんであるが、本のほうはDVDのダイジェストみたいなもので、まず、いきなりDVDを観るのがいいと思う。それから本に目を通せばいい。これで千六百八十円は安い。ミニサイズのDVDが三枚付いていて(これは“付録”ではない。こっちがメインである)、最初多少DVDが取り出しにくいものの、それだけDVDをがっちり保護する厚紙を綴じ込んだ作りで、ふつうの新書となんら変わることなく、そのまんま安心して本棚に収納できる。

 おれもいままでいろんな科学書や科学雑誌や科学番組で、DNAのいろんな図解やアニメやCGを観てきたが、これほどの躍動感に打たれたものは初めてだ。DVDを観て呆然としてから、本書の「メーキング編」を読んで合点がいった。タイトルに「図解」とあるが、これはそんじょそこらの“説明のための映像”ではない。むしろ、“映像による動く模型”とでも呼ぶのがふさわしい。著者(というか、製作者というか)らは、さまざまな論文を確認し、針金のモールや紙粘土と格闘しつつ、納得のゆく“動くDNA”の手応えを得るために、手で触れられるDNAや酵素の模型を構築しながら、このCG作品をものにしたのだ。「表現すると見えてくるものがあるということをこれまで以上に強く確信」したという。さもありなん。これは、『超時空要塞マクロス』『マクロスF』などでおなじみのメカニックデザイナー&監督・河森正治の方法論そのままである。河森は、絵ならなんでもできてしまうからといって、どう見ても動きそうにない、飛びそうにないメカをデザインすることを潔しとしない。手を動かして、手で触れられる模型を作りながら、映像のためのメカをデザインしてゆく。そうした作業の中から、動きに説得力と躍動感がある、あのバルキリーなどが生み出されたわけである。「SFは絵だねえ」という野田昌宏宇宙大元帥のお言葉もあるが、二十一世紀的には、もはや「SFは模型だねえ」というのが妥当なのかもしれない。最終的なアウトプットが絵や文章の作品であっても、実際に模型を作ったうえで描く・書くくらいのこだわりが、圧倒的な説得力を生むのかもしれない。

 腰巻で福岡伸一も絶賛しているが、いわゆる“岡崎フラグメント”の生成の繰り返しによってラギング鎖側のDNAが複製されてゆくようすなど、いままで観たことのないダイナミックな映像である。ああ、こんなのが高校生のころにあったなら、おれは道を踏み誤って(あるいは、道を踏み誤り損ねて)いたかもしれないなあ。

 先日、郵便受けにどこかの教会の信者勧誘用小冊子が入っていた。おれを知る人はご存じのように、おれは宗教心のカケラもない人間であるが、どんな手を使っておるのかなあと興味本位に読んでみると、もはや使い古された“眼のような精妙な器官が進化などでできたはずがない。誰かが設計したのだ。ダーウィンだって困っていた”という例の論を中心に話を展開していたので、「けっ」と苦笑してゴミ箱に放り込んだ。えーと、この進化論への反論(?)そのものをご存じない方は、『イリーガル・エイリアン』(ロバート・J・ソウヤー)でもお読みください。

 きっと、この教会の人がこのDNAのDVDを観たら、「ほら、こんな精妙な仕組みがひとりでにできあがったはずがない。神秘を感じるでしょう?」などと勧誘してくるにちがいないが、残念でした、おれはこういうものに“神秘”などカケラも感じない。むしろ、“神秘”などというわけのわからないものが関与していないことにこそ、“驚異”を感じる。妙な言いかたかもしれないが、そこに“謎”はあっても“神秘”など介入する余地もないほどの“ミもフタもない精妙さ”があることに、一種の神秘を感じないでもないけどな。もっとも、おれはそれを“神秘”などとは呼ばないが……。そう、それは、ただただ純粋な“驚異”であり、“感動”であるだけである。

 こんなにお手軽ですごいものが出ているのだから、高校・大学の先生方は、ぜひ活用してほしいね。授業や講義で使えなくても、せめて推薦図書くらいには入れておいてほしい。何十人か何百人かに一人の学生が、“生命の驚異”(“神秘”じゃないよ、しつこいけど)に打たれて道を踏み外して(あるいは、道を見つけて)くれるなら、千六百八十円など安いものだろう。

 こりゃ、現代のSFファンは必読(ちゅうか、必見)の作品でしょう。やっぱり映像のインパクトはすごいわ。わかった気になっていただけのことを呆然と再発見し、「おれは浅はかだった」と打ちひしがれちゃいましたね。



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2008年6月 1日 (日)

♪惑星Eから~追放さ~れた~

Monkeys control robots with their minds (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/TECH/science/05/29/monkey.robots/index.html

(CNN) -- Scientists have trained a group of monkeys to feed themselves marshmallows using a robot arm controlled by sensors implanted in their brains, a feat that could one day help paralyzed people operate prosthetic limbs on their own, according to a study out Thursday.
Lead researcher Andrew Schwartz of the University of Pittsburgh said he believes it won't be long before the technology is tested in humans, although he predicts it will be longer before the devices are used in actual patients with disabilities.
"I think we'll be doing this on an experimental basis in two years," said Schwartz, professor of neurobiology at the university's School of Medicine.
The results were appeared in the journal Nature's online edition on Thursday. The arm is controlled by a network of tiny electrodes called a brain-machine interface, implanted into the motor cortex of the monkeys' brains -- the region that controls movement.
It picks up the signals of brain cells as they generate commands to move and converts those into directional signals for the robotic arm, which the monkeys eventually used as a surrogate for their own.

 おお、すげえなあ。だけど、こういうのを見ると、おれくらいの世代の人は、このサルに“ラー”と名前を付けたくなるにちがいない。

 将来的に、こういう技術の恩恵に身体障害者が与ることができるようになると、健常者以上に器用で力持ちになる可能性すらある。おれたちが子供のころに空想してたようなものが、もはやすぐそこまで来ているのだなあ。もうすぐ、生得的に持っているものを人工物が超える時代がやってくるにちがいない。そういう技術とどうつきあってゆけばよいのかも、そろそろ考えておかなくてはならないよなあ。むかしはこういう手術をするのには、600万ドルくらいかかったもんだ。



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2008年5月21日 (水)

「光あれ」

ミサイル監視衛星も保有可能に 宇宙基本法が成立 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0521/TKY200805210132.html

 最初に聞いたときから思っていたんだが、それにしても「宇宙基本法」とは、どえらく大きく出たネーミングだなあ。

 きっと、「第一章 普遍定数 : 第一条 プランク定数、第二条 光速度、第三条 万有引力定数……」といった調子で、この宇宙のスペックがえんえんと“定めて”ある法律なのだろう。宇宙を作ってゆくときには、この法律に基いて設計せねばならないのだ。

 問題は財源だが、なんでも、空間税、時間税、質量(エネルギー)税などなどが裏でこっそりかかっていて、宇宙特定財源に充てられているという噂だ。どこの噂だ?



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2008年5月19日 (月)

半回転の味

Kandzume01Kandzume02Kandzume03 おれは焼酎党だが、まあ、たまにはウィスキーもいいかと思って、ひさしぶりにコンビニでウィスキーを買ったわけだ。オーソドックスにもほどがあるサントリー・オールドだけどな。で、そのオールドに、缶詰のおまけが付いてたのよさ。「さんまのしょうが煮」だ。おれはサンマも好きだから、これは都合がいい。

 で、家でそのおまけの箱をよく見てみたら、裏に「おいしい水割りのつくりかた」というのが書いてあった。おれはウィスキーを飲むときは、お湯割りかロックなので、水割りにすることはほとんどない。つきあい酒のときくらいのものだ。むかし筒井康隆も書いていたが、“水割り”というのはいかにもまずそうな呼称ではないか。

 それはともかく、まあ、家では水割りを飲まないおれではあるが、後学のために、「おいしい水割りのつくりかた」とやらを知っておいても損はなかろうと、一読して仰天した。こういうのである――

1.氷をたっぷり入れます。
2.ウイスキーを注ぎます。(2フィンガー)
3.水を足さずに13回転半かきまぜます。
4.氷を足します。
5.ミネラルウォーターをウイスキーの2.5倍注ぎ、3回転半かきまぜます。

 誰もが不可解に思うであろうが、この「13回転半」とか「3回転半」とかに、なにか意味があるんだろうか? 約十回転とか約三回転とかならまだわかるんだが、ここまで厳密に書いてあるからには、“半回転”かきまぜかたを誤っただけで味が変わってしまうほど、ウィスキーというのはデリケートなものであるらしい。そんな畏れ多い酒をコンビニで売っているというのもどうかと思うが、それにしてもなあ……。この「13回転半」とかは、たぶん“おまじない”みたいなもんなんだろう。「13回転半」ということになっていると知っている者同士で、コミュニティー感覚を醸成するための、符牒のようなものなのかもしれん。納豆は何回かきまぜたらいいかなんてのにも、諸説ありますからなあ。

 おれが思うに、食いもの・飲みもののレシピや作法とか、オーディオとか、武道・格闘技とかには、どう考えても“おまじない”としか思えない俗説が多々存在するようである。むろん、科学的に考えても納得のゆくことも少なくないけれども、“おまじない”的なものも同様に語り継がれているようだ。なんなんだろうね、あれは? なにもかも理屈で説明できるのは凡庸な段階であって、“真髄”とか“奥義”とかの世界になると、なにかしら神秘的なものを盛り込みたくなるということなのかな? こういうところにも、ニセ科学への入口が開いている。

 いやまあ、おれが浅学菲才であるばかりに、この「13回転半」に秘められたきわめて合理的・科学的な意味を読み取ることができないだけかもしれないということもあり得る。非科学的と一蹴するわけにもいかんかもしれない。

 そうそう、おいしい水割りを作ろうとする場合、ミネラルウォーターの瓶に、あらかじめ「ありがとう」と書いた紙を貼っておくのは、基本中の基本である。ゆめ、疑うことなかれ。



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2008年5月10日 (土)

天然ウナギイヌ

爬虫類+鳥類+哺乳類=カモノハシ? (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0509/TKY200805090094.html

 オーストラリアに生息する哺乳(ほにゅう)類のカモノハシは、アヒルのようなくちばしをもち、卵を産むが、体は毛で覆われ、母乳で子どもを育てる。この「世界で最も奇妙な哺乳類」のゲノム(全遺伝情報)を英米豪や日本の理化学研究所の研究員らでつくる国際チームが調べたところ、遺伝子も哺乳類、爬虫(はちゅう)類、鳥類の「パッチワーク」のようになっていたことがわかった。8日付の英科学誌ネイチャー(電子版)に発表した。
 約100人の研究チームが、カモノハシのメスの約1万8500個の遺伝子を調べたところ、オスのつめにある毒はヘビなどの爬虫類と同じたんぱく質だった▽性の決定にかかわる遺伝子は鳥類に似ている▽哺乳類の特徴である母乳をつくる遺伝子がある、といった特徴があった。研究チームの欧州生命情報学研究所のユアン・バーニー氏は「カモノハシは見た目と同じく、遺伝子も奇妙に混ざっていた」とコメントしている。
 進化の過程で、哺乳類が鳥類、爬虫類と共通の祖先から分かれたのは3億1500万年ほど前。カモノハシは約1億7千万年前にヒトと共通の祖先から分かれたが、鳥類、爬虫類の特徴を持ち続けたと考えられる。英オックスフォード大のクリス・ポンティング氏は「カモノハシのゲノムは、ヒトなどの哺乳類がどのように誕生したのかを探るうえでのミッシング・リンク(鎖の環(わ)の欠けている部分)だ」と指摘している。(香取啓介)

 結局、研究者も言っているように“見たまーんま”だったんだなあ。なんか、安心したと同時に、生物の驚異に改めて感じ入ったよ。よくこんな中途半端なやつがいままで生きてこられているもんだが、そこがやっぱり、オーストラリアやニュージーランドあたりの面白いところだよなあ。

 おれが前から不思議でしようがないのは、有名なカモノハシの生体電流感知能力である。あのクチバシにある感覚器で、餌になる小動物のきわめて微弱な筋電位による電場の変動を感知し、視覚がまったく役に立たない水中の泥の中でも獲物を捕えられるのだという。この進化の迷い子は、そのような能力を、遺伝的にはいったいどこから持ってきたのだろう? カモノハシになってから獲得したのか? 以前からゲノムに持っていたコードを、なんらかの形でカスタマイズして使いまわしているのか? 魚類には電場を感知する能力を持っているものは少なくないし、鳥類には磁場に敏感なものがいる。もっと下等な細菌にも、走磁性を持つものがあったよな。

 おれはなんの証拠もなく勝手に面白い方向に想像しているだけなのだが、カモノハシの電場感覚器は、ひょっとすると鳥類の磁場感覚器と遺伝的な起源を同じくしているのではなかろうか? なーんとなく、そんな気がしませんか? 「あ、DNAのこのへんのコーディングは、ちょっといじれば水中で電場センサーとして使えるやん!」などとカモノハシが考えたわけじゃもちろんないだろうが、突然変異と自然淘汰が結果的にそのようなカスタマイズを促したのやもしれない。鳥類は“それ”を地上での磁場センサーとして進化させ、カモノハシは“それ”を水中での電場センサーとして進化させた……んだとして、その“それ”が特定されたら、さぞや面白かろう。

 いやまあ、おれの言ってることは、あくまでワイルドな想像だけに頼った与太にすぎないから、こういうところをこそ分子遺伝学や分子進化学が科学的に解明してくれて、おれたち素人の酒の肴を増やしてくれるのを楽しみにしているのだ。

 それにしても、おれたち“ふつうの哺乳類”は、どうして電場や磁場に対する感覚を捨てちゃった(とも言い切れないけれども)んだろうねえ? 方向音痴のおれとしては、たいへんもったいないと思う。もっとも、そんな感覚を人間が持ったままでいたとしたら、エレクトロニクスの進歩は大幅に遅れたんじゃないかな? いや、あるいは、もっと速く進んだろうか? みんなが生まれつきファラデーやフレミングなのだ。

 まあ、いまのおれたちに、なにかの弾みで、突如、電場感覚や磁場感覚がよみがえったとしたら、“うるさくて”とても生活していられないにちがいないだろうけどねえ。



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2008年4月27日 (日)

「ひので」と『サイエンスZERO』

 今回の『サイエンスZERO』(NHK)、お題は「ここまで見えた 知られざる太陽」。一昨年秋に打ち上げられた太陽観測衛星「ひので」からのデータが着々と予想以上の成果を挙げているようすを紹介していた。思えば、二〇〇六年、「ひので」が送ってきたばかりのデータを紹介していたこの番組も、ナビゲータは二人とも変わってしまっている。彼らの記憶に小杉健郎の名はないかもしれないが、こうしてまた同じ番組で「ひので」の成果が紹介されるのであるから、お星様になった科学者もさぞやお喜びであろう。

 それにしても、今回は、内容の興味深さもさることながら、音楽が妙に懐かしかったぞ。吉川洋一郎『地球大紀行』からやら羽田健太郎『さよならジュピター』からやら、選曲したのはおれと同世代の人じゃないかな?



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2008年4月20日 (日)

片面にバターを塗ったトーストは、とても高いところから落とすと「マーフィーの法則」に従うか?

 ふと思い出したのだが、むかし、「マーフィーの法則」ってのが流行りましたなあ。中でもおれが好きだったのは、「トーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」(あるいは、「トーストは必ずバターを塗った面を下にして着地する」と言い習わされている)といったやつだ。まあ、“法則”というほど再現性があるかどうかは別として、悪い結果になったときのほうが、人間、印象に残るものだから、まるで法則のように見えるということなのだろう。そこいらへんの道路にはいつもタクシーが走っているのを見かけるようになーんとなくふだんは思っているのだが、いざタクシーを捕まえたいときにかぎって見つからないように思えるといった“印象のマジック”なのだな。

 で、トーストだ。なんでも、人間の身長くらいのところから片面にバターを塗ったトーストを落とすと、バター面を下にして落ちる確率は1/2を上まわると、物理的なファクターをいろいろ考慮して計算で導いた人がいるそうなんだが(ご苦労さまです)、実際のところ、どうなのかねえ? 人間の身長くらいの高さから落とすのなら、たしかに半回転して落ちる確率のほうが高そうな気はするんだが、それはバター面を上にして手に持っていることが多いという前提があってのことだ。トーストの耳を地表からの鉛直線に重なるようにして(つまり、トーストを縦にして)落とした場合、人間の身長くらい(実際には、胸から腹にかけての高さくらいが多いだろう)のところから落とすのなら、バター面が上になる確率も下になる確率も、ほとんど変わらんだろうと思う。

 ここまでは前振りである。では、すごく高いところから、片面にバター(マーガリンでもいいよ)を塗ったトーストを落としたとしたら、バター面を下に着地する確率はどうなるだろう――と、ぼーっとしているときにうっかり考えてしまったわけなのである。こういうことは、トイレでウンコきばってるときとか、風呂で鼻歌唄ってるときとかに、だしぬけに思いつくことが多い。

 そうだなあ、まあ、ざっくり一万メートルくらいのところから落とすとしようか。落としかたは、公平を期するために、やはり地面からの鉛直線にトーストの耳を揃え、“縦”に落とすことにしよう。

 最初、トーストはまっすぐ落ちてゆくだろう。が、バターを塗った面と塗っていない面とでは、空気の流れかたが多少ちがうはずである。非バター面では、トーストの表面に細かな凸凹があるため、空気の流れはうまくトースト表面近くを流れてゆくだろう。空気の小さな渦があちこちにできるだろうから、全体的に見ると、かえって空気はトースト表面に吸いつくようにスムーズに流れるはずだ。

 一方、バター面はつるつるしている。よって、空気の流れはトースト表面から少し離れ、そこに不規則に大きな渦ができたりするだろう。よって、バター面側は、トースト表面近くを空気が流れている非バター面に比べると、わずかに気圧が下がるのではなかろうか。となると、トーストは最初まっすぐ地面に向かって縦に落ちてゆくが、そのうちバター面側にカーブしはじめるだろう。

 すると、カーブしはじめたことによって、非バター面は空気の抵抗をもろに受けるようになり、落下運動そのものにブレーキがかかりはじめ、トーストは一気に非バター面を下にしてバター面側に「し」の字を描くように運動し、わずかに上昇すらするかもしれん。飛行機が失速したような状態だ。

 こうなると、トーストの両側の圧力差が急になくなり、そこからはまたまっすぐ落ちはじめ、充分速度を得るとトーストの両側にまた圧力差が生じて、カーブして失速する――ということを繰り返しながら落ちてゆくだろう。つまりトーストは、ちょうど木の葉がひらひらと舞い落ちるように、右へ左へと振動しながら落ちてゆくのではなかろうか。

 その過程全体を見ると、トーストが失速するときにはバター面側にカーブして失速するのだから、トーストのバター面が上を向いている時間の総計は、非バター面が上を向いている時間の総計を上まわるはずである。よって、当然、確率的には、着地時にはバター面が上を向いている確率のほうが高くなるはずだ。

 というわけで、充分に高いところから片面にバターを塗ったトーストを落とすと、バターを塗った面を上にして着地する確率のほうがずっと高くなるとおれは思うのだが、実際にはどうなるでしょうね? 『トリビアの泉』の特番かなにかで、百回くらい実験してデータを取ってくれないものかねえ? これは、空気はあるが無重量状態の場所でブーメランを投げるくらい興味深い実験なのではないかと思うがどうか。



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2008年4月16日 (水)

生きた、書いた、死んだ

米国で著名ブロガー死亡相次ぐ 日本でも「ドクターストップ」発生 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2008/04/10018844.html

「ドクターストップ」がかかった著名ブロガーが国内にもいた。自身のブログのページビューが年間950万ほどにまで成長した経済学者の池田信夫さんは、
「プレッシャーはありますよ。月間100万アクセスを超えた辺りから、寝られない日が続き、医者にブログをやめろと言われて…。もう、どうしようもないコメントやスパムとかノイズが凄く飛んでくるんですよ。私はこういったものについて気にしない方なんですが、さすがにストレスになってきています」
と明かす。池田さんは、ストレスを抱えながらも、雑誌に掲載されるよりも社会的に影響力のある情報をいち早く掲載できるメリットがあるとして、ブログの運営は続けていく意向だ。

 うわあ、たいへんだなあ。まあ、池田氏は、アメリカの専業ブロガーとはちがって、学者としての情報発信に貴重な媒体だと意義を感じて運営なさっているんだろうから、ただただスクープを競ってブログで食っている人たちとはまたストレスの質がちがうだろうとは思うが、それでもたいへんだろうなあ。

 その点、ウチなんかは気楽なもんである。年間100万アクセスなんてのは夢の夢だ。せいぜい多いときで月間3万くらいだから、浮き沈みを考えると、ざっくり年間30万くらいか。楽しみでやっているものがストレスになってはたまらん。なんであれ、仕事にしちゃうとたいへんなのだ。

 ま、「人生の意味」を検索してやってくる人に、それは「42」だと答えているようでは、まちがったって年間100万アクセスにはならんと思うから、その点では安心だ。



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2008年4月 8日 (火)

約74日

 イリジウム192の半減期。人の噂よりは長期間放射線を出すようだ。

 というか、ふだんイリジウムを取り扱っている人たちも、きっと最初に「え~と、半減期はだいたい人の噂くらい」と覚えたのにちがいないぞ。

放射性物質盗まれる 防犯カメラに不審者 市原の検査会社 (東京新聞 TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008040802001924.html

 七日午前七時ごろ、千葉県市原市五井の検査会社「非破壊検査」(大阪市)京葉事業部の保管庫で、放射性同位元素イリジウム192を密封した容器(被害額約百三十万円)が無くなっているのを出勤してきた男性社員(66)が見つけた。
 非破壊検査によると同社は五、六の両日は休みだったが、五日未明、保管庫内の防犯カメラに容器を持ち出す不審な人物が写っており、市原署が窃盗事件として調べている。



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2008年4月 6日 (日)

常識が覆った応急心肺蘇生法

Revised CPR method helps save Arizonans (CNN.com)
http://www.cnn.com/2008/HEALTH/conditions/03/31/moh.cpr/index.html

In a bold departure from standard practice, paramedics in most Arizona cities do not follow the guidance of the American Heart Association. Instead, they follow a protocol that was developed at the University of Arizona's Sarver Heart Center, largely by Dr. Gordon Ewy.
Even after cardiac arrest, Ewy said, there's enough oxygen in the body to feed the brain and keep a person alive for several minutes. But that air helps only if someone compresses the heart to circulate blood. In traditional CPR, rescuers alternate 30 chest compressions with two long "rescue breaths." Paramedics are trained to start by checking the airway, and insert a breathing tube at the start of resuscitation. These extra steps, said Ewy, waste precious time.
In Arizona, paramedics skip the breathing step when they begin to treat a cardiac arrest. They simply alternate two minutes of pumping on the chest -- 200 compressions -- with a single shock from a defibrillator.
Epinephrine, a powerful stimulant that jump-starts the body's vital systems, is given as soon as possible. Paramedics insert a breathing tube only if several cycles of shock and compressions fail to re-start the heart.
Ewy said the Arizona study, along with studies on bystander interventions in Japan and his own animal research, show that resuscitation without additional breathing is superior.
"In my mind, the evidence is overwhelming right now," he said.

心停止、とにかく胸押して 救急医ら調査、指針見直しへ (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0404/TKY200804040161.html

 心停止状態で倒れている成人を助けるには、胸を押し続けて圧迫するだけでも、人工呼吸を加えた方法と同じ蘇生効果があることが、日本の二つのグループの調査でわかった。調査を受けて米心臓協会(AHA)は、この「圧迫」を蘇生法として市民に勧める見解を発表。日本でも指針が見直される見通しだ。
 心臓発作などで倒れた場合、命を大きく左右するのは早期の心肺蘇生。蘇生法は、胸の真ん中を押す「胸骨圧迫」と人工呼吸を交互に行うのが原則で、海外でも同じ。ただ、第一発見者の多くはたまたま居合わせた人。他人に口をあわせる人工呼吸に抵抗感があるのが課題だった。
 ところが京都大の石見拓・助教や大阪府の救急医らの調査で、人工呼吸を省いても効果が変わらないことがわかった。調査対象は、98~03年に心臓病で心停止して倒れたが、近くに人がいた大阪府民の事例約4900件。倒れて1年後に、後遺症なく社会復帰できた率を調べた。

 先日、上のCNNの記事を読んで、90へぇくらいを叩いていたんだが、American Heart Association (AHA) のガイドライン見直しを受けて、日本のメディアも報道したようだ。CNNの記事にある“studies on bystander interventions in Japan”というのが、おそらく朝日の記事にある「京都大の石見拓・助教や大阪府の救急医らの調査」なんだろう。

 要するに、急に心停止した場合には、血中には脳を数分間生かせるだけの酸素は溶けているのだから、人工呼吸に貴重な時間を費やすより、即、胸の圧迫に入って、とにかく血液を循環させることに集中したほうが、緊急の際には予後がよくなるということのようだ。言われてみれば、なるほどそうしたほうがよさそうだと素人にでも思えるんだが、なにしろ実験をするわけにはいかない分野だけに、こうした統計的な調査が威力を発揮する。

 何十万、何百万人に一人といった珍しい病気に関してならいざ知らず、心臓発作などといった、ごくありふれた症状に対する応急処置についてすら、二十一世紀になって常識が覆るんだから、まこと医学というのは奥が深い。ひょっとしたら、実際に医療の現場にいる人たち個々人には、「教科書や研修ではこう習ったが、どうも長年の経験に照らすと、ひょっとしたらこっちのほうがいいんじゃなかろうか?」と思っていることが、あれこれあるんじゃなかろうか? とはいえ、なにしろ人の命がかかっていることであるから、常識とされている手順を無視して、「こっちのほうがいいんじゃなかろうか?」と思っていることを軽々に実行するわけにはいかないのだ。下手すると、人体実験になってしまう。そのあたりが、ロゴスとプラクティスとが不可分である医学という分野の難しいところだよねえ。ジェンナーなんか、いまなら確実に訴えられますわな。おれたちが子供のころ偉人伝なんかで読まされた“自分の息子で実験した”という話はウソらしいが、自分の息子だろうが他人の子だろうが、結果オーライだったからまだよかったものの、やってることは人体実験そのものですからねえ。

 たぶん、ちょこっと未来の人たちは、いまのおれたちが中世の医術を語るような感覚で、「二十世紀には、道端で心停止して倒れた人に人工呼吸してたんだって。信じられねー」などと言うようになるのだろう。まあ、医学ってのは、もちろん科学としての理屈も大事だが、得られた経験則をすぐにでも利用して、結果として多くの人が助かりゃオーケーって面もある。それこそお釈迦様の毒矢の喩えじゃないけれども、ごちゃごちゃ議論している暇があったら、とっとと矢を抜くべき局面というのがあるだろう。

 CNNの記事は、こう続く――

Crystal Sorenson, a Glendale firefighter and medic for more than 20 years, experienced a vivid example last summer with the case of 48-year-old Daniel Lane. As she pounded his chest, Lane kept grabbing her wrist, struggling to look up. Each time she paused to deliver a defibrillator shock, "he'd let go and drop down, passing out."
A similar story inspired Ewy, who told CNN about a recording of a 911 call he heard several years ago, on which dispatchers guided a woman through CPR on her husband while she waited for paramedics to arrive.

 (これに似た話に、ユーイ博士ははっとしたのだった。彼はCNNに数年前に聴いた911の録音について語ってくれた。ある女性に、救急配車係たちが救急隊が到着するまでのあいだに心肺蘇生法の指導をしている録音である)

"After a while, she came back to the phone and said, 'Why is it every time I press on his chest, he opens his eyes, and every time I stop and breathe for him, he goes back to sleep?' " Ewy paused and gave a rueful laugh. "This woman in 10 minutes learned more about cerebral perfusion [getting blood flow to the brain] than we had in 15 or 20 years of CPR research."

 (「しばらくして彼女は電話口に戻ってきて言ったのです。“夫の胸を圧すたびに彼は目を開け、人工呼吸のために圧すのをやめるたびに意識を失うのはどうしてなの?”」 ユーイ博士は少し間をおいて、悔しそうに笑った。「この女性は、脳灌流(脳への血流確保)について、われわれが心肺蘇生法の研究で十五年、二十年とかけて学んできた以上のことを、十分間で学んだのです」)

 夫を救いたいと必死で応急処置をする妻が、その修羅場で発見したことについて、このように言える謙虚な研究者というのも、またすごいと思う。この rueful laugh は、「これにもっと早く気づいて人々に知らしめていれば、もっともっと多くの人を救えたものを、わしゃ大学のドクターでございと、いったいいままでなにをしとったんだろう……」という心持ちの laugh なのだろう。



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2008年4月 5日 (土)

責任者、吸い込んだろか

謎の深海生物「オオグチボヤ」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/komimi/TKY200803260301.html

 生態がほとんど知られていない深海生物「オオグチボヤ」が富山県魚津市の魚津水族館で、展示された。今後、水温2度以下で飼育・展示して、観察を続ける。
 このオオグチボヤは、体長約7センチ。地元の漁師が3月19日、同市青島沖の水深450メートルに仕掛けた刺し網にかかったポリ袋に付着していたのを見つけて、同館に持ち込んだ。
 オオグチボヤは、ホヤの一種。雌雄同体のゼリー状で、大きな口をあけたような姿。米国・モントレー湾やチリ沖、相模湾、富山湾、佐渡沖などで発見されているが、群生地が確認されているのは富山湾だけとされている。生きた状態での捕獲が難しく、謎の多い生物といわれる。

 「オオグチボヤ」という文字を見たとたん、どこかのマッドサイエンティストが京唄子人生幸朗の遺伝子を組み込んで造り出した世にも禍々しい怪生物の姿がおれの脳裡をよぎったのだった。

 「ポリ袋に付着していたのを見つけて」って言うけどさ、ほとんどポリ袋じゃん、こいつ。さすが漁師さん、よく見逃さなかったもんだなあ。なんの道によらず、プロフェッショナルというのはすごい。



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2008年3月20日 (木)

映画『楽園の泉』?

 そういえば、十年以上前にこんな文章を書いていたのを思い出した。『楽園の泉』を映画化するとしたら、このカットはぜひ実現してほしいんだよなあ!

 クラークの訃報を聞いたときに、なぜかヴァニーヴァー・モーガンの最期が脳裡に浮かんでしまった。あの、アラームが虚しく鳴っているシーンね。

 なんか、意外な人が『楽園の泉』に言及しているんで、ちょっとびっくりした。名作というのは、こういうものなのですなあ。



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アーサー・C・クラーク死去

Sir Arthur C. Clarke (1917-2008) (SFWA)
http://www.sfwa.org/news/2008/aclarke.htm

Obituary: Sir Arthur C Clarke (BBC NEWS)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2358011.stm

SF作家のアーサー・C・クラーク氏が死去 (asahi.com)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0319/TKY200803190065.html

Author Arthur C. Clarke dies (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/books/03/18/obit.clarke/index.html

Arthur C. Clarke, 90, Science Fiction Writer, Dies (The New York Times)
http://www.nytimes.com/2008/03/19/books/19clarke.html

Space Odyssey author dies (Al Jazeera English)
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/A2827CF5-BB28-4FF1-BE69-75A67ACFD1AA.htm

Clarke sur orbite (Le Monde.fr)
http://passouline.blog.lemonde.fr/2008/03/19/clarke-sur-orbite/

Weltraum-Visionär Clarke gestorben (ZEIT online)
http://www.zeit.de/online/2008/13/clarke-2001

 いつかはこの日が来るだろうとSFファンはみな頭ではわかっていたはずだ。「次はクラーク」などと失礼にも冗談のネタにしたりすることはしばしばあったが、なぜか心情的には“この人は死なない”と確信していたからこそ、そのような冗談も気安く口にされたのだろうと思う。とはいえ、アーサー・C・クラークの肉体はその機能を停止した。それは事実なのである。世界の“ミスターSF”“SF作家の代名詞”は、ついにおれたちを後にした。これからは、クラークのいない世界で暮らさねばならないのだ。残酷な現実ではあるが、クラークなら、それを受け止めて進め、とおれたちに言うにちがいない。

 クラークにはさまざまな思い入れがあるが、故人となった偉大なヴィジョナリーを偲んで、あえて個人的な感慨を述べることを許していただきたい。おれがクラーク作品の最高傑作として挙げるなら、やはり『楽園の泉』『宇宙のランデヴー』である。だが、どの作品が“好きか”と言われると、おれはあえて『遥かなる地球の歌』を挙げる。なんかね、好きなんだよ、この作品。

 おれが The Songs of Distant Earth をペーパーバックで読んだのは、大学生のころだ。ちょうど、2010: Odyssey Twoを読んでから、映画化されたのを観にいって、「いやあ、ブンガク的なSFもいいけど、やっぱクラークは最高だなあ」と思っていたころに、The Songs of Distant Earth を読んだわけで、そりゃもう、クラクラ来ましたよ。どうしてこんなにカクカクした“科学的事象”を描写するだけで、読む者に poetic な感動を与えるのか、クラークはおれが思っている以上に名文家であり、おれが思っている以上に偉大な文学者なのではないかと、その文章の秘密を分析していたころだ。もうね、The Songs of Distant Earth にはノックアウトされちゃいましたね。科学と詩情というものは両立し得るのだという感動だ。よもや、後にその邦訳文庫版の解説を自分が書く運命が待っているとは、想像だにしていなかった学生時代のいい思い出である。

 クラークの作品は、最先端の科学理論や工学技術を面白おかしく組み合わせては、鬼面人を驚かすものでは断じてない。むしろ彼は、ともすると陳腐とすら映りかねないアイディアも、それが合理的であれば、意に介さず重ねて使うタイプの作家である。科学的アイディアのけれん味でクラークを凌ぐSF作家の名を挙げるのは容易だろう。
 それでもなお、アーサー・C・クラークの“SF作家の代名詞”たる評価が毫も揺らぐことがないのは、本来科学の持っていた素朴な驚異や感動をみずからの血肉と化している点において、彼の右に出る者はそうはいないからだ。彼にとって科学とは、電波望遠鏡や電子顕微鏡といった取捨選択可能なツールなのではなく、驚異に見開いたり感動に涙したりできる、生身の目そのものなのである。だからこそ、それ自体は無味乾燥な科学的ディテールを彼が淡々と語るとき、あたかも高僧の口から出た念仏が仏像と化すがごとく、それらはそのまま詩となり歌となってわれわれの心を打つ。このあたりが文科系の読者にも広く愛される理由なのであろう。われわれは、絶対音感を持ったメロディ音痴が譜面どおりに弾いてみせる科学論文が読みたいのではない。宇宙が暗く冷たいことを知っている科学の詩人が奏でる、“遥かなる地球の歌”に聴き惚れたいのである。
――『遥かなる地球の歌』(ハヤカワ文庫SF)解説:冬樹蛉

 クラークの偉大なところは、おれのような文科系の読者に感動を与えただけではない。理学・工学系の読者には、実際に「いつかこういうものを実現してみたい」というヴィジョンを与えたのである。そりゃもうね、実際に“作る側”に回った人々が、いかにクラークの影響を受けているかということを、おれはSFギョーカイの片隅を汚すようになって、つくづく思い知った。SF作家にしてからが、野尻抱介林譲治小林泰三小川一水といった人々は、クラークがいなかったら、いまここにいないのではないかと思う。

 きっと、これからの千年、二千年のあいだに、人類は、もっと遠くへゆくだろう。ずっと、遠くへゆくだろう。そして、見知らぬ惑星の上に立った人々が、こんな会話を繰り返すにちがいない――

 「こんなところに自分が立っているだなんて……なんだか信じられない気持ちだ」
 「その気持ちを誰にいちばん伝えたいですか?」
 「……アーサー・C・クラーク。あなたがいたからこそ、いまボクが、ここにいるんだ」



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2008年3月 9日 (日)

山中伸弥教授がカッコよかった『サイエンスZERO』

 このところいろいろとバタバタしているので周回遅れで録画を観ている『サイエンスZERO』、今回のお題は「夢の万能細胞に挑む」。人間の皮膚から万能細胞「iPS細胞(induced pluripotent stem cell)」を造り出した時の人、京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授がゲストだというので興味津々。このあたりが痩せても枯れても腐ってもNHKだ。

 山中教授はおれと同い年なのである。SFギョーカイで囁かれる“魔の1962年生まれ”だ。遅かれ早かれ、ノーベル医学・生理学賞を取るにちがいない。いやまったく、おれは生まれて四十五年間もぼけーっといったいなにをしておったんだろうねと思わされますなあ。

 まあ、あくまでテレビで観た感想ではあるが、実直を絵に描いたような人ですな、この先生は。すごい科学者というと、なんとなくエキセントリックな天才肌の人をステロタイプとして連想してしまうのだが、山中教授はそんな感じではない。やるべきことをこつこつこつこつこつこつこつとやってきたからこそ、人のやれない仕事にたどり着いたという感じだ。

 山中教授の態度や雰囲気は、昨日もネタにした『生物と無生物のあいだ』がとくに共感を込めて讃えている、大発見の一歩手前でそのジャンプ台を地道に作った陰の英雄とも言うべき報われなかった偉大な科学者たち――DNAこそが遺伝子の本体であることを地道に解き明かしたオズワルド・エイブリーや、X線結晶学を武器にDNAの二重螺旋構造解明に繋がる写真を撮影していた夭逝のロザリンド・フランクリンなどなど――を連想させる。華々しい天才という感じがしないのだ。きっと山中教授自身も、「おれは生物学に巨大な足跡を記した大天才である」などとは、微塵も思ってらっしゃらないことであろう。ただ、地道な探求を通じて養われた prepared mind に来るべくして来るアイディアが降ってきて、自分以外の誰に訪れても不思議はなかったかもしれぬ僥倖がやってきた程度にしか考えてらっしゃらないのではなかろうか。むろん、そのような僥倖を掴める状態に自分を持ってゆき、それを維持できることが、客観的に見ると、とんでもなく非凡な才能なのである。

 「人の役に立ちたい」という元臨床医としての使命感を保ち続けて、(多くの場合はあまり報われることのない)基礎研究を地道に続けていらした姿にも頭が下がる。モーツァルトよりベートーヴェンが好きな人は、たちまち山中教授のファンになってしまいそうだ。いやあ、この先生がノーベル賞を取る日が楽しみだなあ。



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2008年3月 8日 (土)

CGMの資産価値

 昨日ネタにした mixi の規約改定騒ぎだが、おれはたぶん mixi の法務担当者がとんでもなく顧客視点を欠いたアホか、そもそも法務担当がいないのであろうと推測している。つまり、mixi の今回の大ボケは、mixi がいよいよ肥らせたユーザを取って食おうと、かねてから周到に研いでいた邪悪な牙を剥いたなどという上等な事件ではなく、単に mixi が上場企業としては信じられないレベルの幼稚な体制しか持っていない(下手すると、笠原社長は新規約を見てもいない)といった程度の、“はらほろひれはれ”なポカミスなのではないかと疑っているのだ。新規約とやらは、若造が適当にコピペして作ったのではないかとすら思っている。

 でも、もしそうではなく、一応ちゃんと考えて作って発表したのだとしたら、mixi はいわゆるCGM(Consumer-Generated Media ……って言葉は英語圏ではあんまり使われていないみたいなんだが)というものをまったく理解せずにそう呼ばれるサービスをうっかり提供してしまっているのではないかと思われる。

 今回の事件を機に、CGMなるものの資産価値は那辺にあるのかを、改めて考えさせられた。ユーザが作ったコンテンツに資産としての価値があるのか? いや、ちがうちがう。そう勘ちがいしがちだが、そうではない。コンテンツは、CGMの副産物あるいは老廃物にすぎないのではあるまいか――そう考えてゆくと、CGMの本質は、昨年のベストセラーにちゃんと書いてあった。なにしろベストセラーであるから、相当多くの人がすでに読んでいるはずなのだ。ちょっと長くなるが、あえて引用しよう。これこそ、CGMの本質、CGMの価値である。

 さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が、身体のタンパク質中の同一種のアミノ酸と入れ替わったのかどうかを確かめてみた。つまりロイシンはロイシンと置き換わったかどうかを調べたのである。
 ネズミの組織のタンパク質を回収し、それを加水分解してバラバラのアミノ酸にする。二十種のアミノ酸をその性質の差によってさらに分別する。そして各アミノ酸について、重窒素が含まれているかどうかを質量分析計にかけて解析した。確かに実験後、ネズミのロイシンには重窒素が含まれていた。しかし、重窒素を含んでいるのはロイシンだけではなかった。他のアミノ酸、すなわち、グリシンにもチロシンにもグルタミン酸などにも重窒素が含まれていた。
 体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、さらに細かく分断されて、あらためて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルということになる。これはまったく驚くべきことだった。
 外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。
 つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。

―― 『生物と無生物のあいだ』(福岡伸一/講談社現代新書)

 ユーザが作ったコンテンツがCGMの資産価値だと思うのは、アミノ酸やタンパク質やDNAに蓄えられている情報が生命の本質だと思い込むようなものだ。ちゃうちゃう。そこにある“流れそのもの”がCGMの資産価値なのである。

 CGM(って言葉自体、おれはあんまり好きじゃないけど)を“マネタイズ”したいと考える企業家たちは、基礎教養として生物学を学ぶべきではないかとすら、おれは本気で思う。うまくすれば、大腸菌に人間にとって有益な物質を作り続けさせたり、DNAに演算をさせたりするようなことが、CGMを利用したビジネスモデルにも可能であるかもしれないじゃないか。



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2008年2月19日 (火)

“放蝶ゲリラ”と自然と人為と

マニアが放蝶? 中国原産種、首都圏で繁殖 在来種駆逐 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0218/TKY200802180175.html

 昆虫マニアが10年ほど前に神奈川県内で放したとみられる中国産のチョウ「アカボシゴマダラ」が首都圏で分布を広げている。大きくて美しくて珍しいチョウが簡単に入手できるようになったため愛好家も増えているが、このチョウは在来種を駆逐し生態系を乱す「要注意外来生物指定」。不注意な放蝶(ほうちょう)で更に分布が広がる恐れがあると、専門家は警鐘を鳴らしている。

(中略)

 見つかったアカボシゴマダラはすべて中国原産種。台風などで迷ってきたことは考えにくく、神奈川県立生命の星・地球博物館の高桑正敏学芸部長は「誰かがひそかに国内に持ち込んだ虫を繁殖させ、さらに自然界で増やそうと、藤沢でまとまった数を放したとしか考えられない」と話す。外国から生きたチョウを持ち込むのは植物防疫法違反で、「放蝶ゲリラ」と呼ばれる行為だ。
 その後の自然繁殖で、かつての希少種は近郊の野山や公園で手軽に捕まえられるようになった。チョウを繁殖させ幼虫から育てたサナギが羽化するのを観察、感動を楽しむ愛好家は多いが、アカボシゴマダラは特に好まれ、幼虫売買などが広がっているらしい。
 中国産のアカボシゴマダラは、幼虫が地表の落ち葉などで越冬する在来種のチョウと違い、木の幹や枝で越冬する。春に他のチョウよりも先に活動を始めて木を独占するため、ゴマダラチョウやオオムラサキなどの在来種への影響が心配されるという。
 高桑さんは「ゲリラ行為以外に、羽化させたあとで自由に飛び回らせてあげたいとか、虫を増やして自然を回復させたいといってチョウを放す人もいるが、生態系を混乱させることは絶対にやめて欲しい」と話す。

 ううーむ。おれはこういう話を聞くと、いつも悩んでしまう。

 そりゃまあ、おれだって、自分が慣れ親しんだ日本の自然の姿というものに愛着はある。表を歩いていて、ふと気づくと腕をセアカゴケグモが這っているのであわてて払い落とそうとしたら足が滑って池に落ち、ふと気づくとカミツキガメがジーンズに噛みついている。大あわてで池から這い上がったら、なにかがぼとんと肩の上に落ちてきた。グリーンマンバだ。泡を食って駆け出したら、足を滑らせて今度は川に落ちた。すると目の前でなにやら細長いものが跳ねる。ガーだ。アリゲーター・ガーだ。ひいいいぃと川岸をめざし必死で泳ぐと、メガネカイマンが大口を開けて笑っている――などというありふれた日本の自然に馴染みたくはない。だが、もしそうなったとしても、それはそれでいたしかたないような気すら最近はしている。冷静に考えると、単なる慣れの問題のような気もするのだ。ヒメジョオンの咲き乱れる草っぱらを駆けまわり、チューインガムやスルメでアメリカザリガニを釣っていたおれの子供時代とどこがちがうというのだろう?

 おれはSFファンだからだろうか、どうも、“自然”“人為”というものに、明確な境界線が見えない。そういうものの見かたに“悪慣れ”してしまっているのだろうか? 「生態系を乱す」と言うが、いったいなにを以て“生態系が乱れる”と考えればよいのだろう? 地球の生命圏全体で考えれば、人間が生物を移動させるのも“自然現象”なのではあるまいか? どこで線が引けるのだろう?

 このニュース、「マニアが販売? 日本原産アニメ同人誌、首都圏で繁殖 在来種駆逐」とロシアあたりで報道されるのと、本質的にどこがちがうというのだろう? ちがうのかもしれんが、おれにはよくわからない。これがウイルスなどの病原体だとしたら多数の人死にを含めた実害が出るわけだが、この「放蝶ゲリラ」問題と、やっぱり本質的に変わらんように思えるんだよな。事実、変わらんのだろう。「放蝶ゲリラ」なんてのどかに呼んでるが、不測のアウトブレイクもバイオテロも、結局、おれには同じものにしか見えない。

 どうも、このあいだ、川端裕人『エピデミック』を読んだせいか、妙にこのニュースが“立ち上がって”見えてしようがない。ウイルスもチョウも(そして、ミームも)、おんなじだよねえ、やっぱり。“生態系が乱れる”というのは、つまるところどういうことを意味するのか、おれは近ごろ、弱い頭を振り絞って考え続けている。ひょっとすると、生態系というのは絶対に乱れたりするもんじゃなく、単におれたちの都合で、乱れたの乱れてないのと言っているだけなんじゃないだろうか?



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2008年1月28日 (月)

これがホントの DARKER THAN BLACK

黒よりも黒い? 「最も暗い」物質 米大学チーム作製 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0128/TKY200801270132.html

 米レンセラー工科大とライス大の研究チームが「世の中で最も暗い物質」をつくった。当たった光の99.955%を吸収するという。ギネスブックに世界記録として申請している。
 この物質は、基板の上に微細な炭素の筒(カーボンナノチューブ)を成長させたもの。光を0.045%しか反射せず、従来の記録より約3倍も「暗い」という。穴がたくさん開いた長いカーボンナノチューブと、やや粗い表面の基板を使うのがコツという。
 どんな物質でも、当たった光を多かれ少なかれ反射しており、光を完全に吸収することはない。一般的な黒い塗料では5~10%の光を反射する。「暗い物質」は、太陽光を電気や熱などに変換する装置や赤外線センサーの性能を上げるのに役立つと期待される。

 いやまあ、ほとんどタイトルを言ってみたかっただけなんだが、なかなかいいなあ、これ。衣服に利用できんかな。少々高価でも、冬場は熱を効率よく吸収して温かくなりそうだ。芝居の黒子の衣装なんかにも持ってこいかもな。とくに人形浄瑠璃なんかでは威力を発揮しそうだ。作った人たちは工学的応用に発想が囚われがちなんだろうけれども、意外と“バカ”で“エレガント”な応用分野がありそうな気がする。マジシャンなんかには、金に糸目をつけずにさっそく使いたいという人もいるのではなかろうか。



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2008年1月25日 (金)

初めて聞いたわけねーだろ!

 録画しておいた『サイエンスZERO』を観る。テーマは「ミクロの“新大陸”RNA研究最前線」

 いや、内容はたいへん面白いものだったが、冒頭の掛け合いでコメンテーターの手塚眞が言った台詞にはずっこけた――「え、RNA、ね、聞き慣れない言葉ですけども、えー、あのー、視聴者のみなさんの中にもですね、えー、初めて聞いたよって人いるかもしれませんけど、ご安心ください――ボクも初めて聞きました」

 「うそつけーっ!!」っと、テレビ観てる人が全国でいっせいに手の甲をディスプレイに叩きつけてツッコんだ音がおれにははっきりと聞こえた(ような気がした)。いやまあ、手塚眞だって言いたくて言ってるんじゃなく、たぶん理科の苦手な視聴者にも親しみを持ってもらおうという意図で台本にそう書いてあるのであろうけれどもだ、里田まいならともかく、手塚眞にそう言わせるのは、な~んぼなんでも無理があるぞ、NHK。というか、ほかのどのコメンテーターに言わせたとしても無理があるわい。「レンズはさぐる」やないんやから。一応、『サイエンスZERO』は、とくに子供向けではない、一般向けの科学教養番組なんやから(とおれは思っているんだが、そうだよね?)。NHKにはNHKなりの、インサイダーにしかわからない事情がなにかあるのかもしれんが、いくらなんでも出演者に不自然なことを言わせすぎではあるまいか。せっかくいい番組なんだから、そこまで媚びなくてもいいよ。



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2008年1月21日 (月)

ネットの噂では、もうリアルタイムでこんなことができるそうです

 うおお、こ、これはすごい! 面白い!

『攻殻機動隊』『電脳メガネ』どころではない拡張現実感技術の現在 (王様の箱庭)
http://www.masayashi.com/2008/01/20/556

 もう、ノートパソコンで、リアルタイムで、こんなことができちゃうんだねえ。それにしても、この記事で紹介されている Georg Klein という研究者は、よくよくダース・ベイダーが好きなんだな。

 カプセル内視鏡やら将来の医療用マイクロマシンやらの映像とこの技術を組み合わせれば、“リアルタイム『ミクロの決死圏』”とでも言うべき映像がたちまち作れてしまうのではあるまいか。縮小光線の効果が切れて、ミクロの医療チームがだんだん大きくなってくるところも含めてだ。

 え? こんな技術なんかなくても、ボクにはしばしば小さな大名行列がとことこと机の上を歩いてゆくのが見えるって? アタシにはパソコンの上に座って英語の綴りの不合理さをバカにする緑色の小人が見えるって? いやまあ、それも拡張現実感かもしれんが、ちょっと歪んだ方向に拡張していると思うぞ。



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2008年1月13日 (日)

オウムやキュウカンチョウは、超音波や低周波でしゃべるか?

 オウムやキュウカンチョウに、超音波や低周波で言葉を教えたら、やっぱり超音波や低周波で真似するだろうか? どのくらいの音域かはわからないが、連中は人間の可聴域外の音も出していそうな気はするよな。もちろん、人間の言葉を人間の可聴域外の音で真似させたとしても、そもそもなんのためにそんなことをするのかわからない。当の人間には聞こえないのである。

 だが、もし相当高い周波数の音波を自在に出せる能力があるのなら、コウモリがエコーロケーションに使う超音波を忠実に再生できるオウムやキュウカンチョウを養成すれば、コウモリ除けになるのではなかろうか。犬笛を真似させて、軍用犬を空から指揮するなんてのはどうだ?

 いやまあ、ちょっとした疑問なのよ。ホントのとこどうなのか、おれは知らない。



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2008年1月 3日 (木)

都合のいい宇宙人がおったもんやな

宇宙人が地球を観測したら… スペイン・米チームが論文 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1231/TKY200712310097.html

 宇宙に生命を求めて太陽系外の惑星探しが盛んだが、宇宙人の天文学者に地球はどんなふうに見えるのか――。そんな論文を、スペインと米国の研究チームが天文学専門誌(電子版)に発表した。地球は、生命の存在につながりうる、気象現象がある「生きた」惑星とわかるはずだという。
 恒星を回る惑星に生命が存在するには、恒星までの距離や、大気があるかどうかなどがカギ。太陽系では、地球のすぐ内側の金星は暑すぎ、すぐ外側の火星は寒すぎる。地球はちょうど良い条件がそろい、水や水蒸気が共存して変化に富む気象現象が起きている。
 チームは、気象衛星が撮影した地球の雲の映像を分析した。遠方の宇宙人には地球が点にしか見えず、明るさの変化だけを観測すると考えられる。だが、そのパターンから自転周期が割り出せ、想定される明るさからのずれの分析で気象現象や海、大陸の存在まで知ることができるはず、と結論づけた。
 ちなみに、金星には地球より厚い大気があり、火星には逆に大気はほとんどないが、宇宙人から見れば、いずれも明るさは変わらないという。
 これまで地球の天文学者は太陽系外惑星を200個以上発見している。

 「遠方の宇宙人には地球が点にしか見えず、明るさの変化だけを観測すると考えられる」と言うんだが、なんか妙じゃないか? 遠方ってのは、どのくらいの遠方を想定しているのだろう? 地球人ですら、現代の科学力で「太陽系外惑星を200個」そこそこしか発見していないわけだよね。自恒星系外の惑星に生命が存在するかなんてことを光学観測で推測しようというほどの技術を持つ異星の生命体が、電波天文学を手にしていないなんてことがあるだろうか? まあ、そいつらにとっての“可視光”は、おれたちのそれとはちがうだろうから、そいつらがどこいらへんの波長の電磁波を観測するのを“電波天文学”と呼んでいるかは知る由もないけどなあ。もし、そいつらが「異星の知性体を探そう」という予断というか目的を持って観測をしているのであれば、光学的に観測してまわりくどいことを考えるよりも、地球から出ている電波のパターンを研究するほうが早道のような気がするんだが……。

 そもそも、この異星人は、あまりにも地球中心的な思考の持ち主である。「大気」だの「熱い」だの「寒い」だのという言葉を、なぜか地球人流に使っているし、生命の存在に水が不可欠であるかのような前提を勝手に持ち込んでいる。不思議なことおびただしい。異星人の科学者は、「どうも、この惑星では生命が存在するには寒すぎるよなあ」などと午後の硫酸をホットで飲みながら首を傾げているかもしれず、「こんな熱い星に生きものがいるはずがない。だとしたら、このガチャガチャした電磁波はなんだ? わからん、ちょっとシャワーでも浴びて気分転換しよう」と液体のメタンを浴びて頭を冷やしているかもしれない。

 結局、この論文は、「もし、自分たちが遠方の恒星系の惑星に遠いとおいむかしに捲種された地球人の同胞であったとしたなら、現在の太陽系第三惑星を光学観測してどのように推理するか」という話なんじゃないの? あ、すまん。「現在の」という言葉も、この場合、不用意に使ってはいかんのだった。おそらく、世界中のSFファンがあちこちでこのニュースにツッコんどるだろうな。



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2007年12月19日 (水)

猿の暗算、なにするものぞ

暗算、サルにもできる 正答率8割 米大学が実験 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/1218/JJT200712180006.html

 サルにも足し算の暗算をこなす能力があり、正答率は8割近くに達したとする実験報告を米デューク大学(ノースカロライナ州)のエリザベス・ブラノン准教授(認識神経学)らの研究チームがまとめ、科学誌プロス・バイオロジー12月号で発表した。
 動物には数量を認識する能力が備わっていることは分かっているが、足し算などの算数ができるかどうかははっきりしていなかった。(時事)

 なんのこれしき、まだまだサルには負けんぞ。おれなんか、三桁と二桁とか、三桁と三桁とかの掛け算が、なんと一、二秒でたちどころにできる。

  108×92=9936
  503×497=249991
  709×691=489919

 どうだ! サルめが、小賢しいわ。

 でも、112×88くらいになると、ちょ、ちょっと時間がかかるかもしれないが、そういう些細なことにこだわってはいけない。



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2007年11月27日 (火)

透明ボール

 強盗のニュースを観ていて、ふと“透明ボール”というやつを考えた。もちろん、“カラーボール”の逆(?)の機能を持っているのである。強盗に投げつけると、そいつはたちまち透明になってしまう。それでは逃走を幇助しているのではないか? いやいや、そうでもないぞ。なにしろ、そいつは一生透明なのである。せっかく金を盗んでも、それではあんまり生きている意味がない。“透明ボール”に封入されている薬剤は、その解毒剤(?)である“不透明化薬”と必ず対で生成され、その対関係を解明するには、巨大な数列をふたつの素数の積に因数分解しなければならない。透明ボールを投げつけられた犯人は、きわめて実用的な量子コンピュータでも発明しないかぎり、早晩、自首してくるという寸法である。なんか、ドラえもんチックなアイディアではあるな。



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2007年11月22日 (木)

幻の味、ウミサソリ

Scientist finds fossilized claw of man-sized sea scorpion (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/TECH/science/11/20/biggest.bug.ap/index.html

体長2.5メートル、ヒトより大きいウミサソリの化石発見 (CNN.co.jp)
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200711210023.html

ロンドン──体長2.5メートルとヒトよりも大きな「ウミサソリ」の化石の一部が、ドイツ西部で見つかった。英国の研究者が20日、英科学誌に発表した。

 いやあ、こういうのはなんか嬉しいね。巨大昆虫幻想の持ち主としては、ロマンをかき立てられますなあ。ウミサソリは昆虫じゃないけど、ま、節足動物だから広義の“ムシ”ってことで。分類学的にはカブトガニに近いらしい。

 カブトガニといえば、むかし藤森の京都市青少年科学センターで飼ってたのを何度も見たなあ。はっきり言ってアレは、裏返すとうまそうであった。ウチワエビを思い起こさせるところが、いかにもうまそうである。たぶん、似たような味がするんじゃないかなあ。実際、タイなんかでは露店で焼いて食わせているそうだ。日本だと天然記念物なんだが……。でも、正直うまそうだよな。してみると、ウミサソリもかなりうまかったのかもしれん。2・5メートルのウミサソリ……いやあ、こいつは“食いで”がありそうだ。絶滅しちゃったのは、もったいないなあ。

 ジュラシック・パーク方式で甦らせて、なんとか食用にできんものか。現代の生態系を乱すというのなら、厳格に隔離して養殖すればよい。もっとも、こいつはどう見ても蚊に刺される機会なんてなかったろうから、甦らせるのは難しいだろうけどなあ。



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2007年11月19日 (月)

不確定屁ぇ原理

 風邪を引いているせいか、屁ばっかり出る。おそらく、鼻水をしょっちゅうすするので空気を多く飲み込んでしまい、それが屁になって出てくるのだと思われる。そのせいか、ぷーすかぷーすか出るのに、全然臭くない。が、風邪を引いているもんだから、それがほんとに臭くないのかどうか、確信が持てない。風邪が治ってからゆっくり嗅いで確かめようと思うのだが、風邪が治ってしまったら、空気を飲み込んだせいで出る屁は出なくなるはずだ。つまり、風邪を引いているときに出る屁が臭いかどうかは、おれ自身には原理的にわからないということになる。Q.E.D.



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2007年10月 9日 (火)

『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎/集英社新書)

 むかしスティーヴン・ホーキングは、言語の分析が哲学に残された唯一の任務だとまで言うヴィトゲンシュタインを例に挙げ、アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統を思うと、なんて落ちぶれざまだ(“What a comedown from the great tradition of philosophy from Aristotle to Kant!”)と、哲学と科学との乖離に苛立っていたもんだ(『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』)。まあ、ホーキングのヴィトゲンシュタイン批判自体が、あまりにも表層的だという意見はよく目にするが、おれはヴィトゲンシュタインはあんまり知らないので、ホーキングの批判が妥当なものなのかどうかはよくわからない。

 本書は、そうしたホーキングの苛立ちに真正面から応えるものだ。哲学的な時間論が、物理学の成果をあまりにも取り入れていないことに苛立った橋元淳一郎が、物理学的時間論と人間的時間論を統合する叩き台として提示した時間論なのである。さすがは理科系SF作家。SFファン必読でありましょう(って言ってるわりには、ずいぶん遅れて読んだわけだけど)。

 橋元淳一郎は、あくまで物理学的に考えながら、結果的には、著者本人も書いているようにハイデガーの時間論に近いところに到達している。ということは、当然道元にも近いわけで、おれの印象としては、橋元時間論は道元の『正法眼蔵』-「有時」に最も近いように思われるのだが、本書には道元のことがまったく出てこない。古今東西の時間論を参照しながら、あくまで物理学的に時間を考察している橋元淳一郎が、道元の時間論に触れていないはずはないと思われるので、まったく言及されていないことはちょっと不思議な感じがするのだが、まあ、ハイデガーが出てくるからいいか。

 哲学的にであろうが物理学的にであろうが、時間とはなにかなんてことを真剣に考えたところで、たぶん一文の得にもならないだろうけれども、あえてこういうのを新書で出そうという橋元淳一郎の気概はたいへん嬉しい。そうなんだよな、つまるところ、グレッグ・イーガンやテッド・チャンのようなバリバリの理系作家こそが最も哲学的であるという事実に、文科系人間としてはちょっと苛立っている部分があるわけだよ、おれは。

 ひさびさに面白い時間論を読んだ。極東の島国に、一文にもならないこういうことに挑む物理学者がいるということに、ホーキングも安心するんじゃなかろうか。



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2007年10月 4日 (木)

サー・アーサーの三つの願い

 ♪一つ やさしく 愛して~、二つ わがまま 言わせて~

 ……じゃなくて。

Remembering Sputnik: Sir Arthur C. Clarke (SPECTRUM ONLINE)
http://www.spectrum.ieee.org/oct07/5584

SPECTRUM: And, finally, what do you think are some of the most important technologies humans should concentrate on developing in the next 50 years?

CLARKE: If I had three wishes, I would ask for these:

1. A method to generate limitless quantities of clean energy.

2. Affordable and reliable means of space transport.

3. Eliminating the design faults in the human body

 1.がでかすぎて、これが実現しちゃったら、たいていの願いは時間の問題でかなっちゃうような気もするんだが……。1.はまあ、ご愛嬌でしょうね。2.と3.は、「次の五十年」ということを考えると、妥当な目標だと思う。具体的には、つまるところ、“軌道エレベータの建造”“ヒューマン・ゲノムの完全解読(「読み下し」ではない)およびナノマシンによる自在な遺伝子治療の実現”ってことになるんだろうな。はてさて、1.はともかく、おれが九十四、五歳になるころには、2.と3.は実現しているだろうか。まあ、そんなに生きられんだろうけどねえ。可能性としては、生きて軌道エレベータ開通の日を迎えることも、まったくないとは言えない。

 待てよ、九十四、五歳で3.が実現し、庶民の手の届くものになっていたとすると、さらに三、四十年は生きることになるのかもしれんぞ。うーん、ビミョーだなあ、煙草やめようかなあ……。



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2007年9月24日 (月)

「二酸化炭素」と「シー・オー・ツー」はちがう

 いつのころからだろうか、テレビでは非常にしばしば二酸化炭素のことを「シー・オー・ツー」と呼ぶようになってしまった。どうもおれはこれを聞くとカチンとくる。「二酸化炭素」じゃなぜいかんのだ? いまじゃ、「二酸化炭素」より「シー・オー・ツー」を聞くことのほうがはるかに多いよな。このような言いかたは、二酸化炭素なるものが“日常の等身大のわれわれから、なにかちょっと距離を置いたところにあるもの”であるかのような印象をかえって強く与えてしまうような気がする。というか、それが目的なのか? 「シー・オー・ツーを削減しましょう」というのはしょっちゅう聞くが、「エイチ・ツー・オーを大切にしましょう」なんて呼びかけは聞いたことがない。「今朝、住宅地で気体のシー・スリー・エイチ・エイトが爆発し……」とか「なんとシー・シックス・エイチ・エイト・オー・シックスのL体は、レモン百二十個分!」とかテレビで言うておるのも聞いたことがない。べつに聞きたいとも思わないが……。

 なんか、テレビで誰かが「シー・オー・ツー」というのを聞くたび、むかしその高い危険性が取り沙汰された世にも怖ろしい化学物質「DHMO」(dihydrogen monoxide/一酸化二水素)のことを連想する。え、あなた、ご存じないですか? それはいけない。環境問題に関心の高いSFファンはたいてい知っているんだが、まだまだ一般的には知られていないのかなあ。ご存じない方は、次世代のためにも、この機にぜひ知っておいていただきたい。とくに、書籍や電子機器などはDHMO汚染に弱いので、おれと趣味を同じゅうする方々は要注意だ。

 ま、どうもマスコミの「シー・オー・ツー」汚染は、DHMO問題が揶揄している対象と同じようなもんだと思うね。




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ドミノ起き上がらし

 最近ドミノづいている(?)もんで、“ドミノ起き上がらし”という遊びが可能かどうか考えてみた。たぶん、可能である。

 まず、ドミノ倒しをふつうに地球上で行う。倒れたドミノは、床面にぺたんと伏せた状態にはならず、すべて次のドミノの上にきれいに折り重なっているとする。

 さて、この状態で、地球をまったく同じ大きさの中性子星と一瞬にして入れ替える。ここのところは、ちょっとご家庭では気軽にお試しいただけない技術的困難を伴うかとは思うが、ま、とにかく一瞬にして入れ替える。べつに中性子星でなくブラックホールでもいいのだが、ブラックホールだと事象の地平面上にものを乗せることができないため、強靭きわまりないチョコエッグのような外殻で覆ってやらなくてはならないだろうから、ここは中性子星くらいが適当であろう。

 ここまではよろしいか? で、地球が、大きさは同じままでとてつもない密度の物質と入れ替わったので、その重力場の勾配は非常に大きなものになるだろう。つまり、ほんのわずかな高さの差でも、ドミノにかかる潮汐力は、もとの地球の比ではない。ドミノは次のドミノに折り重なって倒れた状態にあるから、ドミノの最も高い部分と最も低い部分にかかる重力にはかなりの差ができるだろう。ドミノのあらゆる部分には、その部分を中性子星の中心方向とその逆方向へと引き裂こうとする力が働いている。そして、そのすべての合力は、斜めになって倒れているドミノを、地表に対して鉛直に立ち上がらせようとする力となって働くはずだ。SFファンには、ラリイ・ニーヴン『インテグラル・ツリー』に出てくる“インテグラル樹”の姿勢が潮汐力によって安定している状態を思い浮かべていただければ、話が早い。

 だけど、潮汐力が強すぎると、倒れているドミノはいっせいにぴょこんと起き上がってしまい、“ドミノ起き上がらし”らしくない。やはり、ドミノ倒しの逆をやってこその“ドミノ起き上がらし”である。

 そこで、中性子星の密度をうまく調節してやると(これもご家庭ではちょっと出せん味ですなあ)、ドミノ一個を起き上がらせることはできるが、前のドミノにのしかかられていたのでは起き上がらせられないといった最適な潮汐力が得られるであろう。この最適な条件下で“ドミノ起き上がらし”をやると、まず、自分の上に前のドミノがのしかかっていない最初のドミノがぴょこんと起き上がり、次のドミノが起き上がり、また次のドミノが起き上がり……という現象が実現できるはずである。ドミノ倒しの映像を逆回ししたように起き上がるのではなく、最初に倒れたドミノが最初に起き上がるというところが、“ドミノ起き上がらし”の面目躍如(なんの面目だ?)たるところである。

 とても危険な遊びなので、よいこのみんなは、かならずおとなのひとといっしょにやってね。



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2007年9月20日 (木)

スパイダーマン対バットマン?

 どうやらスパイダーマンのほうが強いらしい。

クモがコウモリを食べていた! 奄美大島で観察 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0918/TKY200709180338.html

 クモが哺乳(ほにゅう)類のコウモリを捕らえて食べている珍しい場面を、京都大研究員の前園泰徳さん(35)が鹿児島県・奄美大島で見つけた。
 観察されたのは体長5センチ、脚を伸ばすと長さ20センチにもなるオオジョロウグモ。直径が1メートル以上もある大きな網を林道沿いなどに張り、ふだんは主にセミやガなどの昆虫を捕まえて食べている。
 前園さんは先月、両翼を開くと20センチほどのオリイコキクガシラコウモリが、クモの巣にかかっているのを発見。コウモリの首のあたりにオオジョロウグモがかみつき、消化液を出しながら体液を吸っていた。

 まあ、たまたま“どんくさい”コウモリだったのかもしれないが、これはなかなかすごい光景ですなあ。コウモリの超音波では、クモの巣を捉えられないのだろうか? それとも、やっぱりたまたまどんくさいコウモリだったのかなあ。

 カゲロウやガには、コウモリの超音波を感知するとジグザグ飛行をしたり、突如羽ばたきを止めてストンと落下したりして、コウモリのエコーロケーションの裏をかくような行動が見られるそうなのだが、シンプルなムシのほうが小賢しい哺乳類より一枚上手なのかもしれませんなあ。柔よく剛を制すってか。



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2007年9月16日 (日)

サンマを食った夜の『サイエンスZERO』

 今夜の『サイエンスZERO』(NHK教育)、「食卓から魚が消える?」は、じつに勉強になったなあ。いや、なにしろ、つい数時間前にサンマの塩焼きを二匹食いながら、辛口の熱燗を二合ほど飲んだのである。先週の土曜日も晩飯にはサンマの塩焼きを二匹食った。四日にも昼に一匹食った。今月になってから、サンマの塩焼きを計五匹食っている。塩焼き以外のサンマなど、おれには考えられない。

 近年、クジラ(はまあ魚じゃないにしても)といいウナギといいマグロといい、どうも日本は外交下手のために政治的にハメられているのではないかと思わされるくらい、日本人の好きな漁業資源の獲得が制限を受けるようになっている。魚を食べると頭がよくなるかどうかはともかくとして、そう信じる外国の連中が組織する“死ね死ね団”かなにかが、日本人をアホにしようとして魚を食わさないように陰謀をめぐらせているのではあるまいか。

 それはともかく、政治的な事情とは別に、純粋に科学的に見ても、漁業資源は相当な危殆に瀕していることはたしかなようである。おれは、個人的には、動物性蛋白源のほとんどをニワトリと魚とオーストラリア産のウシに依存している。朝には生卵を二個ロッキーのように飲み、魚肉ソーセージを一本食う。昼にはマクドナルドのハンバーガーを一個食う。夜には、切り身の焼き魚が入っていることの多いコンビニ弁当を食う。植物性蛋白の大部分は納豆に依存している。月曜から金曜までは、規則正しくこれの繰り返しである。土日の夜だけは、多少食いものらしいものを買ってきて食う。生の素材を自宅で調理して食うなどという、しち面倒くさく時間が無駄になるようなことは、まずめったにしない。このようなじつに健康的な食生活のおかげで、メタボリック症候群にはほど遠い体組成を維持している。これで酒と煙草がやめられれば抜群に健康的なのだが、食に楽しみを求めないぶん、酒と煙草を嗜んでいるので、まあよかろう。

 一週間に二回しか食事をしない(あとのは単なる“栄養補給”であって、味とかいった些末なことはどうでもよい)おれですら、食卓から魚がなくなると非常に困る。魚肉ソーセージはおれの重要な蛋白源であるし、秋のサンマは生きている楽しみのひとつである。まあ、サンマの場合、サンマそのものよりも、どちらかというと熱燗のほうを重点的に楽しんでいるわけではあるが、サンマがある熱燗とサンマがない熱燗とは、まったく別のものなのである。それほど、熱燗にとってサンマは重要である。なにを言っているのかよくわからなくなってきたが、まあ、とにかく“持続可能な漁業”というコンセプトは大事だ。

 いやしかし、サンマが、食ったものをわずか三十分で排泄してしまうというのは、今夜の『サイエンスZERO』で初めて知った。だからワタに臭みがなくて、好む人が多いと考えられるのだという。なるほどねえ。まるで熱燗のために存在しているかのような生きものであるなあ。サンマのほうはそんなことはつゆ知らんだろうけど。サンマがなぜそんなに慌しい消化器官を持っているのかは、まだよくわかっていないそうだ。まあ、よくわからんでもうまいものはうまいからいいのだが、理由も知りたいところだ。今後の研究に期待したい。



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2007年9月14日 (金)

がんばれ原器

Official prototype of kilogram mysteriously losing weight (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/TECH/science/09/12/shrinking.kilogram.ap/index.html

「国際キログラム原器」が謎の減量50マイクログラム (CNN.co.jp)
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200709130016.html

 不思議なこともあるもんだ。増える原因のほうが減る原因よりもずっと多そうに思えるんだが、はてさて、真相はいかに?

 もし、ほんとうに質量が減ったんだとしたら、まず誰もが考えつく原因は、放射性崩壊だろう。作ったときにごく微量の放射性元素が不純物として混入していたとしたら、質量が減ることもあり得るだろうけどなあ。

 現在でも、質量だけが、普遍的な物理量に依らず、人工物が基準になっているというのは、言われてみれば無理もないよなあ。エネルギーを光速の自乗で割ればいいなどというのはあくまで理屈であって、実際問題として、一キログラムの質量に相当するエネルギーを「はい、これが原器です」などと扱えるわけがないのだ。

 それにしても、なぜ軽くなっちゃったのかなあ? えーと、誰ですか、「右に回しすぎたんだろ」なんて言ってるのは?



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2007年9月10日 (月)

階段を昇るドミノ

 先日の『ロンドンハーツ』の録画を観てたら、青木さやかを驚かせるために二回も“ドミノ倒し”が出てきた。青木が楽屋の扉を開けると、それに連動して凝った仕掛けのドミノ倒しがはじまるのだ。

 いや、ロンハーも青木さやかも、この際あんまり関係ないのだ。あのドミノ倒しを観ていて、ああそうかといまさらながらに納得したことがあるのである。ドミノ倒しなんか何回も観ているはずなのに、いまごろ気づいたのかとわれながら呆れる。

 ほれ、ドミノ倒しに必ずある仕掛けに、“ドミノが倒れてゆくという現象が階段を昇ってゆく”というのがあるじゃないか。今回のロンハーのドミノ倒しにもあった。ぱっと見にはちょっと不思議な感じがするんだが、倒れるドミノの先端が次のドミノの重心より上の部分を充分な強さでヒットすることができる程度の段差であれば、ドミノは自分より高い位置にあるドミノを倒すことができる。そうした条件を満たす段差を繰り返し設けてやれば、ドミノの“倒れ”に階段を昇らせることが現に可能である。

 だが、ドミノ倒しの録画をじっくりコマ送りで観ていると、ドミノの“倒れ”が階段を昇っているときには、“倒れ”が伝播してゆく速度が、平坦な部分を伝播してゆく速度よりも、あきらかに落ちている。単純に考えれば、その速度が落ちるぶんのエネルギーが階段を昇ってゆくぶんに使われているのだろうと思うのだが、なんだかそれもヘンな気もする。“倒れ”が重力に逆らって階段を昇ってゆくといっても、なにか質量のある実体が昇っていっているわけではない。そもそもドミノ倒しとはなんなのか、そのあたりからもう少しじっくり考えてみる必要があろう。

 まず、ドミノ倒しというものが成立すること自体、なかなか魅力的だ。最初のドミノを倒したエネルギーは、空気抵抗やらドミノ同士の衝突時に出る音やら静止しているドミノの慣性やらなにやらによって、最終的には熱に化けて失われ、ドミノを倒し続けることなどできないはずだからである。なのにドミノは倒れ続ける。考えてみれば不思議なことではあるまいか?

 そこで、無重量状態でのドミノ倒し(?)を考えてみる。ドミノ自身の質量によるもの以外には重力が働かない真空中の場で、ドミノを厳密に等間隔に設置する。最初のドミノ「│」をそのまま厳密にまっすぐ押し出してやり「→」、次のドミノ「│」の側面全体に厳密に同時に衝突するようにしてやる。最初のドミノの運動エネルギーを側面全体で同時に受け止めた次のドミノは、最初のドミノを反作用で跳ね返しながらもその次のドミノに向かって移動し、またもやびた~んとその次のドミノの側面全体にぶつかる。このような、無重量状態での“ドミノ玉突き”を考えてみると、最初のドミノの運動エネルギーは、ドミノ同士がぶつかったときの反作用によってたちまち減衰し、とても次々に伝播してゆくとは考えられない。なのに、地球上のドミノ倒しではそのようなことがふつうに起こっている。これはなぜか?

 つまり、ドミノ倒しは、最初のドミノを倒すのに加えた運動エネルギーが伝わっていっているのではないのだ。ひとつひとつのドミノを立てたときにそのドミノにチャージされた、重力場の中での位置エネルギーが順々に解放されていっているだけなのである。ひとつひとつのドミノは、言わば位置エネルギーのパッケージであって、前のドミノは、このパッケージを開封するだけの仕事(つまり、ドミノの安定を崩し、進行方向へ倒れはじめるようにするだけの仕事)をすればよい。開封された位置エネルギーは、たちまち減衰してしまう進行方向への運動エネルギーを、次のドミノを倒せるところまでリカバーする。これが次々と続いてゆくだけだ。要するに、ドミノ倒しなるものは、最初のドミノが次のドミノを倒すところまでで、構造的には完結しているのである。あとは同じことの繰り返しなのだから。

 1Gの重力加速度が加わる無限の平面上を一直線にドミノが無限個並んでいるという状況を想定してみると(物理的には不可能だろうが、思考実験としてはアリである)、このドミノが倒れてゆくさまは、一種の永久機関のように見える。だが、もちろんそれは永久機関ではなく、この無限個のドミノを立てたときに、位置エネルギーをチャージし、倒れる方向に秩序(すなわち情報)を与えたやつがどこかに絶対いるのである。そいつは、ちょっと不純な“マクスウェルの悪魔”と呼べるかもしれない。マクスウェルの悪魔は情報を与えるだけで、みずから対象にエネルギーをチャージするようなことはしないから、“ちょっと不純”なのである。

 ドミノ倒しが、減衰する進行方向への運動エネルギーを位置エネルギーでリカバーしながら続いてゆくさまは、地球上に落下してくる雨滴に似ている。妙な芸をせずに淡々と平面を倒れてゆくドミノ倒しを見ていると、“倒れ”の伝播速度は一定であることがわかる。つまり、ドミノの“倒れ”の伝播速度は、いわゆる終端速度に達しているのである。減衰する進行方向への運動エネルギーをひとつひとつのドミノにチャージされた位置エネルギーがなんとかリカバーして次に伝えているので、伝播速度を加速するだけの余裕がないのだ。この終端速度は、この場の重力加速度、ドミノの形状や質量や弾性、ドミノ間の距離、空気抵抗などの関数として決定されるだろう。これは、本来であれば重力によって加速されながら落ちてくるはずの雨滴が、空気抵抗によって終端速度に達し、ほぼ等速で落ちてくるさまに似ている。そう考えると、ドミノ倒しというやつは、横に雨が降っているようなものだと見ることもできよう。

 さて、そこで、例のドミノの“倒れ”が階段を昇る現象を見てみよう。ドミノAが、自分より高いところにあるドミノBを倒れながら叩くとき、ドミノAとBが同一平面上にあるときと異なるのは、AがBを叩く位置である。BがAより高い位置にあるとき、AはBの重心により近い位置を叩く。ドミノを最も小さいエネルギーで倒すには、重心から最も遠い上端付近を叩かねばならない。しかし、BがAより高い位置にある場合、AはBの上端を叩けず、少し重心に近い位置を叩く。つまり、Bを倒すのに、平坦な場でよりも多くのエネルギーを必要とする。しかし、ひとつひとつのドミノにチャージされている位置エネルギーはほぼ同量なので、進行方向への運動エネルギーがその損失を埋めねばならない。だから、“倒れ”が伝播する速度が落ちるのである。階段の段差が高すぎると、ひとつのドミノにチャージされた位置エネルギーでは進行方向への運動エネルギーの損失がリカバーしきれず、ドミノの“倒れ”は止まってしまうはずだ。

 では、ドミノAがドミノBの上端を叩くように、ドミノAだけ少し背を高くしてやったらどうだろう? むろん、そうすると、今度はドミノAの前のドミノは、ドミノAの上端を叩けず、ここで進行方向への運動エネルギーが余分に減衰する。いやあ、自然の収支ってのは、まことにうまくできているものである。エネルギー保存則ってのはじつに強固であるなあ……。

 ご存じのように、『ロンドンハーツ』は例の日本PTA全国協議会「子どもに見せたくない番組」とやらでV4の栄冠を勝ち取っているらしいのだが、どんなものからであれ、観るほう次第でなにかが学べるのである。おれはSFからそういう“ものの見かた”を教えてもらった。これはおれの人生で最大の宝だ。親御さんや先生は、ロンハーを肴に子供にこういう話をして考えさせてやったらどうなのかな?



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2007年9月 7日 (金)

冷たい夢に乗り込んで 宇宙(おおぞら)に消えるヴォイジャー

Voyager celebrating three decades of flight (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/TECH/space/09/04/voyager.anniversary/index.html

 考えてみれば、ヴォイジャー1号・2号の成果が次々と新聞をにぎわせていた時代というのは、おれたちの世代のSFファンにとっては、空想と現実が幸福に出会い続けていた黄金時代だったと言えよう。やはり、なんと言っても、イオの噴火の映像は衝撃的だった。たしか、『さよならジュピター』なんかは、ヴォイジャー2号の成果を“待って”書かれ、映画化されたものだと記憶している。

 このCNNの記事によれば、ヴォイジャー1号は、現在地球から最も遠くにある人工物だということだ。ということは、初めて太陽系を脱したパイオニア10号をすでに追い越しているわけである。

 なにはともあれ、三十周年おめでとう! あなたにとって、この三十年は、どんな三十年でしたか?



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2007年9月 3日 (月)

完全剛体と宇宙の壊滅

 完全剛体というのは、永久機関と同じくらい魅力的な物理与太のネタである。そんなものはこの宇宙に存在し得ないということがわかっていながら、存在したら面白かろうとついつい考えてしまうからだ。

 物理に関心のない方にも話についてきてもらうために、簡単に説明しておこう。高校生程度の物理の問題に、「ただし、この物体は剛体とする」といった条件がついていることがある。ここで言う“剛体”とは、外からの力によって変形しない物体であるといった意味だ。完全剛体というのは、究極の剛体のことである。つまり、端的に言うと、“まったくたわまない物体”のことである。

 たとえば、完全剛体で作った長さ三十万キロメートルの棒があったとする。この棒の端をちょいと一センチ押してやると、もう一方の端が厳密に同時に一センチ動く。つまり、光ですら一秒かかる距離を、エネルギー(と情報)がゼロ時間で伝わることになる。この棒の端を硬い棒かなにかでカーンと叩いてやると、その“音”は、やっぱりゼロ時間でもう片方の端に伝わる。音波は疎密波だが、疎密波もなにも、この物体は疎にも密にもならない。片方の端の変化は、厳密に同時にもう一端に伝わるのだ。こんな物体が存在しては都合が悪いことは、どんな物理音痴の人にも即座に了解されるだろう。完全剛体というのは、その存在自体が絶対座標を意味し、その物体が占める領域内では時間も空間も意味を失い、たちまち相対性理論に抵触するわけである。

 しかし、だから完全剛体は存在しないでは、SF的に面白くない。この宇宙には存在し得ないからこそ、存在したらどうなるかを考えたくなるのがSFファンというものである。で、今日も今日とて酒の肴に考えていた。もしかしたら、エヌ氏が完全剛体を発明したその瞬間に、この宇宙はたちまち“絶対宇宙”になってしまうのではあるまいか?

 「やったぞ! ホニャペレルカをソバジョラルテして、完全剛体を発明したぞ!」

 と、エヌ氏が叫んだ瞬間、この宇宙は、つじつまを合わせるために、一瞬にして、ひとつの均質な完全剛体になってしまうのではあるまいか? いやべつに確固たる理由があるわけではないのだが、なんとなくそんな気がする。自然はけっこう律儀なので、そんなふうにふるまいそうな気がするだけだ。

 もしかしたら、われわれの知っている宇宙の“外側”には完全剛体でできた絶対宇宙があって、絶対宇宙は隣接する(?)相対宇宙を“一瞬にして”自分たちの側に取り込んでいっているのではあるまいか? 異なる数学とわれわれの数学とのせめぎあいを描く、グレッグ・イーガン「ルミナス」のように……。

 だとしたら、絶対宇宙がわれわれの相対宇宙に“感染”してくるスピードはどれくらいなのだろう? その“界面”が迫ってくるスピードは? 絶対宇宙の側から見るとゼロ時間だが、われわれの宇宙の側から見ると光速を超えることはないというケッタイなことになるのかもしれない。というか、もしその界面が光速以上で迫ってくるように観測されたとすれば、観測者はすでに完全剛体になりかかっているのだ(?)。

 いやまあ、酒飲みながら書いてる与太だから、あんまり本気で考えんように。SFファンというのは、酒飲むと、こういうことばかり思いつくのである。



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2007年8月 7日 (火)

Another one writes about the dust.

「クイーン」ギタリストが天文学の博士論文提出 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0804/TKY200708040210.html

 著名な英国のロックバンド「クイーン」のギタリスト、ブライアン・メイさん(60)が3日、ロンドンのインペリアル・カレッジに天文学の博士論文を提出した。メイさんはかつて同カレッジに在籍し、71年から博士論文のための研究に入っていたが、音楽活動のために棚上げした。しかし、その後も思いは断てず、当時の研究を36年ぶりにまとめたという。
 AFPなどによると、論文のタイトルは「黄道のちり雲における視線速度」。昨年研究を再開し、今年7月にスペイン領カナリア諸島の天文台で3.6メートル級の望遠鏡を使うなどして総まとめ。「何度も頭をかきむしりながら」論文を完成させ、同カレッジの宇宙物理学の筆頭教授に自ら手渡した。
 23日に論文に関する口頭試問があり、その上で博士号が授与されるかどうか決まる。メイさんは英BBC放送に「音楽のために研究をあきらめることは、当時とても苦しい決断だった。このカレッジで、この日を迎えられることをとても誇らしく思う」と語った。

 おおー、執念ですなー。通るといいなあ。ブライアン・メイ博士なんて、かっこよすぎ! でも、さだまさしには悪いけど、この人は天文学者にならなくてよかった



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2007年7月13日 (金)

灯台下暗し

放射線防護エプロンから放射線検出 輸入業者が自主回収 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0713/OSK200707120152.html

 大阪府は12日、米国製の放射線防護エプロンに使われていた鉛から放射線が検出され、輸入業者が自主回収を始める、と発表した。大阪市北区の医療機器製造販売会社「スーガン」が米・ピーク社(99年廃業)から輸入・販売した768枚が対象。人体に対する影響はほとんど無いという。
 このエプロンは病院の放射線科などで使用されている。スーガン社によると、和歌山県立医大付属病院から9日、「エプロンの鉛から放射性同位元素『鉛210』を検出した」と報告があった。エプロン26枚のうち5枚から検出し、同病院は着用していた放射線技師の被曝(ひばく)線量も調べたが、ほとんど影響がなかったという。

 いやあ、笑いごとではないかもしれないが、やっぱり笑っちゃう事件だよなあ。作ったギャグみたいだ。

 調べてみると、鉛210は放射性同位元素だとはいえ、さほどタチの悪いものではなさそうだ。なんでも、天然のウラン238が壊変してラドン222になり、こいつがα崩壊してポロニウム218を経て鉛214になり、こいつがβ崩壊してビスマス214を経てポロニウム214になり、さらにα崩壊して鉛210になるのだそうである。で、鉛210は半減期22・3年でβ崩壊してビスマス210を経てポロニウム210になり、最後にこれがα崩壊して鉛206となって安定する――ということだ。

 要するに、鉛210はβ線、つまり電子を出すわけですな。β線は透過力が弱いので、体外から被曝する場合は、今回のようにエプロンに縫いこまれていたとなれば、さほど大騒ぎするほどのことではないと思う。ただ、粉塵のような形でいったん体内に核種を取り込んでしまうと、透過力が弱いだけに単位飛距離あたりに周囲の組織に与えるエネルギーが大きく、効果的に遺伝子に損傷を与える可能性がある(α線だと、それ自体は紙一枚で遮蔽できるが、α崩壊する核種を体内に取り込むと、逆にたいへん遺伝子へのダメージが大きい)。大事を取るに越したことはないだろう。えーと、べつにおれはラジオアイソトープの専門家でもなんでもないが、チェルノブイリ原発事故のときに集中的に本を読み漁ったので、基本的なことくらいはおのずと知ってしまったのだった。

 いやしかし、こんなネタ繰りしたかのような事件が起きるもんなんだねえ。このブラックなユーモア感覚(っつっても、わざとやったわけじゃないだろうけど)は、なにやらSFっぽいよなあ。こういうのを“βネタ”というのかもしれない。おあとがよろしいようで。



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2007年7月 4日 (水)

ある日、職場に安めぐみがやってくるとしたら……

 『サイエンスZERO』(NHK)を観てるといつも思うんだけどさ、大学やら研究施設やらで、日々学究に励んでいる人たちのところへですな、ある日、眞鍋かをりだの安めぐみだのがやってくるということになったらですよ、やっぱり大騒ぎになるのではあるまいか?

 女性の理系研究者をもっと増やさにゃならんと国が腰を上げているくらいだから、現状では、そういうところでは男のほうが断然多いだろう。当然、むさくるしい。また、アウトプットがどんなに華々しくカッコよさげに見える研究であっても、そもそも研究という過程が華々しくカッコいいわけがない。どんな研究であれ、研究というものはジミ~~~なものにちがいない。

 そんな地味でむさくるしいところに眞鍋かをりやら安めぐみやらがやってくるということが事前にわかってみろ。ベトナムの戦場にプレイメイトが慰問に来たかのような状態になるのではあるまいか。いやまあ、表立ってキャーキャー騒ぐやつはいないかもしれないが、内心かなりそわそわするだろうと思う。というか、おれだったらする。その日は休みなのに、わざわざやってきたりする研究者や学生もいるにちがいない。

 えらい先生であれ、男だったら悪い気はすまい。男のタレントが取材に行くよりも多めに回してくれるというか、とにかく、野郎が行くよりも、ちょっと余分にいろいろ見せてくれたりするなんてこともあるんじゃなかろうか。もしかしたら、『サイエンスZERO』がオヤジウケのいい女性タレントを起用するのには、そんな理由もあるのではないかと邪推するんである。

 だってさ、VTRに出てくる男の研究者たちは、相手が熊倉アナだと、ちょっとがっかりした顔をしているというか、な~んとなくテンションが低いように見えたりすることがあるんだよ(まあ、誰が来るか、事前に聞いているにしても)。おれの先入観がそんなふうに見せるのかなあ。



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2007年7月 3日 (火)

電流火花が塩基を走る

DNAに電流通る ミクロの電子デバイスに道 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0628/OSK200706280026.html

 細胞の核にあり、遺伝情報を担うDNA(デオキシリボ核酸)の中を電流が流れることを、大阪大産業科学研究所の真嶋哲朗教授(光化学)の研究グループが突き止めた。DNAの2本の鎖がつくる二重らせんの幅は2ナノメートル(ナノは10億分の1)。これを利用してナノサイズの「電線」ができれば、半導体など超ミクロの電子デバイスの作製につながる。今週の米科学アカデミー紀要電子版に発表する。
 DNAに電流が流れる可能性があることは指摘されていたが、そのルートはわかっていなかった。真嶋教授らは、実験によって、電流は二重らせんの鎖の部分ではなく、二つの鎖の間にまたがっている塩基を伝わって流れていることを初めて確認した。
 研究グループは、10~100個ほどの塩基が並ぶDNAを人工的につくってガラス基板に張り付けた。一方の端に光増感剤を、もう片方の端に蛍光色素をくっつけ、ガラス基板の裏から紫外線を当てた。すると、光増感剤から正電荷が発生し、反対の端まで移動して蛍光色素と反応し、蛍光を消す現象が観測できた。4種類の塩基の並び順によって、電気が流れる速さが変わることもつかんだ。

 ちょっと前のニュースだけど、なんか気になってたのよな。なんで話がいきなり電子デバイスに跳んでしまうんだろう?

 いやまあ、そういう役に立てば立つで面白いけど、素人なりに真っ先に抱く疑問は、「DNAに電流が通るというなら、なぜそんなふうにできているのだろう?」ということである。ふつう、そういうふうに思考が働きませんか? DNAは、なにも将来電線に使ってもらおうと思って誰かが作ったわけではないだろう。ひょっとしたら、電流が通るという性質は、DNAの構造や働きにとって、なにか重要な意味を持っているのではあるまいか。つまり、DNAに電流を流したら流れたという結果オーライみたいな話じゃなくて、DNAにはなにかの理由で電流が流れなければならないのではないか――と、想像しちゃうわけだ。「4種類の塩基の並び順によって、電気が流れる速さが変わる」ってのも、なんだか意味深な匂いがするじゃんか。それにもなにか機能と結びついた必然としての意味があるのだろうか? わくわく。

 なにかの理由とは、どういう理由かって? そんなこと、おれにわかるもんかよ。それを調べるのは学者さんにお任せする。

 あなたはどっちだろう? “問答無用でこういう性質があるから、こういうふうに使えるのではないか?”という方向に考えるタイプか、“そもそも、なぜこういう性質を持っているのだろう?”という方向に考えるタイプか? なんとなく前者のほうがお金になりそうな気もするが、あんまりそっち方向ばっかりに偏ってほしくないなあ。まあ、今回、DNAに電流が通ることが初めて実験的に立証されたのだというのなら、なぜ電流が通るのかをとんでもなく斬新な方向から考えはじめる人が出てくるのかもしれないよね。わくわく。



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2007年6月20日 (水)

心理的ダイエットの秘策?

カロリーからジュールへ? (asahi.com)
http://www.asahi.com/edu/student/kyoukashow/TKY200706140209.html

 暮らしの中でエネルギーの単位といえばカロリー。中学や高校の理科の分野でも幅をきかせていたが、現在はジュールに置き換わっている。
 カロリーは、1気圧のもとで1グラムの水の温度を1度上げるのに必要な熱量で、ラテン語で「熱」を意味する。ジュールは、1ワットの電力を1秒間使った時に発生する熱量。仕事量の単位でもあり、19世紀の英物理学者ジュールに由来し、1カロリーは約4.2ジュールとなる。

 「エネルギーの単位」っちゅうよりは、熱量の単位だけどな。まあ、この日記では、以前にもキログラム重とニュートンとか、ガウスとテスラとかをネタにしたことがあるから、同系列のネタですなあ。しかし、記事にもあるように、ジュールのほうが感覚的によくわかるといった世代が育ってくるとは考えにくいよなあ。

 もっとも、マクドナルドで発作的にメガてりやきが食いたくなったら、「これは三千七百九十二・六キロジュールなのだ」と考えてみることは、肥満予防にはよいかもしれない。



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2007年6月18日 (月)

出たな妖怪、『水からの伝言』

★き たーーーーーーーーー (前野[いろもの物理学者]昌弘のページ:日記兼更新記録 ■2007.6.17)
http://homepage3.nifty.com/iromono/diary/200706B.html#17

 今日は息子の小学校の授業参観でした。道徳の授業をやっているのをぼんやり見ていると、隣の教室の声が聞こえてくる。なにやら音楽をかけているようだ。

この音楽を聴かせると、こんな結晶ができます
おおおお(子供のどよめき)」

ちょっと待てこらなんだ今のは。
 思わず自分の子供そっちのけで隣の教室へ行くと、今度は

『ありがとう』と書いた紙を貼ったら、結晶はこうです
へええええ(子供のどよめき)」
『ばかやろう』だとこうです
ひゃあああ(子供のどよめき)」

 あああ、決定だ。

水伝きたーーーーーーーーーーーーーー!!


 というわけで、菊池誠さんと並ぶSF界のトンデモハンター、いろもの物理学者こと前野昌弘さんのお子さんの小学校にも、ついにあの『水からの伝言』汚染がやってきたそうなのである(じつは二度めだとか)。それにしても、よりによって、物理学者の前野さんが父兄として授業参観にやってきているときに、隣のクラスでこんな授業を行うとは、天網恢々疎にして漏らさずとはよく言ったものである(意味のわからん人は、水に訊かないで辞書を引こう)。

 それにしても、まだこんな授業をやっている小学校があるとは、まったくもってけしからん。卑しくも教諭の資格を持っている方々は、『「水からの伝言」を信じないでください』(学習院大学理学部物理学科・田崎晴明教授)と『「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ』(大阪大学サイバーメディアセンター・菊池誠教授)を熟読するように。

 おれが思うに、『水からの伝言』を“道徳教育”に用いることは、理科教育に用いること以上に罪作りなことだと思う。罪作りというよりも、情けないことだと思う。

 科学的には「アホか」で終わりなのである。問題は、道徳的には「結論はそれほど悪いことを言っていないのだから、科学的事実などは二の次として、方便として教育に使ってもいいではないか」という奇妙な主張がまかり通っている点なのだ。これはすなわち、「細木数子や江原啓之の言っていることは、結論としてはそれほど社会常識に反しているわけではないから、彼らの主張の根拠がなんであれ、公共の電波で流す価値がある」という考えかたと同じである。ふざけるな。

 これはもう、教育者の堕落以外のなにものでもない。“水伝”やら『オーラの泉』やらを奉じている教育者どもは、もはや自然科学のふりをしたインチキ権威やら、超常現象のふりをしたインチキ権威やらを口実にしなくては、まともな社会道徳すら教えられなくなってしまっているのだと、みずからの無価値さ加減に恥じ入るがいい。そんな輩を教育者であるとは、おれは認めない。

 あなたのお子さんには、危険が迫っている。小学校でこんなバカなことを教えているのだぞ。事実に反することでも、それが耳に心地よければオーケーなのだという教育が、実際になされているのだ。これは憂国の事態である。資源もなーんにもない国が、“知”という最強の資源を失ったら、どうなると思う? こんなバカなことを教えている教師は、教師として不適格である。ほかにいくらでも仕事はあるのだから、頼むから教師だけは辞めろ。

 お子さんが学校でこういうバカなことを習って(?)きたら、心ある親御さんは、ぜひ学校にねじ込んでいただきたい。その前に、もし給食費を払ってなかったら、ちゃんと払ってからにしてほしいが……。



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2007年6月12日 (火)

カエルのものはカエルに、カビのものはカビに返しなさい

ツボカビ症、国内野生種も ウシガエルから確認 (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0611/TKY200706110095.html

 カエルなど両生類に感染し、絶滅などの危機を引き起こす恐れのあるカエル・ツボカビ症が、国内で野生のウシガエルなどにも感染していることがわかった。国内にいる野生のカエルで感染が確認されたのは初めて。仮にツボカビ症でカエルが減れば、カエルを捕食するヘビや鳥類の減少で生態系のバランスの崩壊につながる恐れもある。環境省は今夏から全国調査を始めるという。

 あああ、ついに恐れていたことが……。「わしの若いころにはなあ、日本にもカエルというのがおったんじゃあ」などと、姪たちのまだ生まれぬガキどもに語らねばならん日が来るのだろうか。

 がんばれ、日本のカエルたちよ! その巨大なゲノムの中には、このような種の危機に直面したときに活性化する、とっておきのコードが秘められているのやもしれん。そうであってほしい。ツボカビがなんだ! 日本のカエルの底力を見せてやれ!



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2007年5月27日 (日)

うまいから身体によいのか、身体によいからうまいのか?

 おれはオリーブ油が好きだ。なんならそのまま飲んでもいいくらいである(さすがに、そんなに贅沢なことはしないが)。パスタなんかを食うときには、これでもかというくらいにかける。最後に皿の中に残ったオリーブ油をずずずと啜れるほどにかける。以前、「うまい汁を吸う」というエントリーでも書いたのだが、トマトにもどぼどぼオリーブ油をかけて食う。昨晩そうやって食った。

 オリーブ油とトマトを一緒に食うとリコピンの吸収が高まるということが数年前から支配的な認識になっているけれども、おれはそれ以前からそうやって食っている。うまいからだ。イタリア人やらギリシア人やらも、むかーしから日常的にトマトとオリーブ油を一緒に食っている。彼らがそうやってトマトとオリーブ油を食ってきたのは、なにもリコピンがどーたらということを考えてのことでは絶対にあるまい。単にうまいからにちがいない。

 いや、待てよ。“うまい”というのはどういうことだろう? 逆に考えてみたら、どうなるだろう? つまり、地中海あたりに住んでいた連中のうち、オリーブ油とトマトを一緒に食うと“うまい”と感じるような嗜好を偶然遺伝的に持っていた人々が、ほんのわずかでも健康になり、子孫を残す確率がほんのわずかでも高くなって、トマトをオリーブ油で料理するという文化が強化されていったという考えかたはできないか? そのようなダーウィン進化が有意に働くには人類の歴史は短すぎるような気もするんだが、まったく働かないというわけでもなさそうに思える。人類にはファームウェアとしての遺伝子だけではなく、個体の外部で進化するソフトウェアとしての文化があるから、ダーウィン進化が加速されるってこともあるだろう。このあたりの与太な思いつきを突き詰めてゆくと、マーヴィン・ハリスの“文化唯物論”に似たものになってゆきそうだなあ。

 まあ、食文化というのは健康や寿命(すなわち、ハードウェアの耐久性)に大きな影響を及ぼすものであろうから、“文化唯物論”は極端だとしても、純粋にミームとしてだけ切り離して考えるわけにもいかないはずだ。“食性とダーウィン進化”だったら科学的にアプローチできそうだけど、“食文化とダーウィン進化”となると、これは一筋縄ではいかないだろう。でも、まったく無関係だとも思えないんだよなあ。

 トマトにオリーブ油をかけて食うたび、おれはこういう与太に思いを馳せてしまう。人類が培ってきた食文化というものには、まだまだサイエンスが取りこぼしてきている不思議が隠されていそうな気がするんだよね。もっとも、トマトとオリーブ油のような健康によい食べ合わせが偶然か必然か文化として受け継がれてきている不思議があるのとまったく同じように、世界のあちこちには、健康に悪い食べもの、健康に悪い食べかたが文化として定着してしまったせいで、あたら寿命を縮めている人々だっているはずだ。「家を出るとき犬が騒いで、飛行機に乗り遅れる人もいる。その飛行機が墜落した場合、主人を救った不思議な犬ともてはやされることにはなるわけだが、世の中には、主人を引き止めて墜落する飛行機に乗せてしまった馬鹿犬もやはり同じ確率でいるはずだ」ってのと同じである。あ、そんな難しいこと考えなくたって、酒飲みで煙草吸いの手前が好例ではないか。

 ま、好きな食いものを我慢して長生きするのと、好きなもの食って多少寿命が縮むのとどちらがいいかとなると、こりゃ、個々人の哲学の問題だからねえ。「酒も煙草も女もやめて 百まで生きた莫迦がいる」って都々逸の苦笑と自嘲と共感は、たぶん、世界中の人に通じるんじゃなかろうか。



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2007年5月19日 (土)

暗黒物質(ダーク・マター)

 この宇宙のロングテールのこと。局所的に見るとその存在はたいへん希薄で影響力もほとんどないのだが、巨視的に考えるとむしろこちらのほうが圧倒的に質量が多く、宇宙を現在の姿たらしめている主役と言える。暗黒物質の質量による重力場の影響が宇宙の構造をも決定しているさまを、膨大な量の暗黒物質をかき集めて考えることで間接的に観測しようというパラダイムを、近年“宇宙 2.0”と呼びならわすようになっている(ウソやで~)。



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2007年5月15日 (火)

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫JA)

 もう九年ほども前のことだ。おれも連載を持っていたウェブ雑誌の〈SFオンライン〉で表題作「沈黙のフライバイ」のダウンロード販売がはじまったとき、おれは「おお、時代が変わってゆくのをおれはいま目の当たりにしている」と興奮したものである。当時はまだ“SF冬の時代”といった感覚的な表現が既成事実であるかのようにまかり通っていたころであって(じつのところおれは、あの時代は、表現形質に顕れてこない“SFの中立進化”が深く静かに進行していたのだろうと思っている)、そこへ直球ど真ん中の地味なファースト・コンタクトSFがウェブマガジンのダウンロード販売といった場から飛び出してきたのだから、快哉を叫んだ人も少なくなかった。

 ま、年寄りの回想はほどほどにしよう。いや、もっとむかしを回想しようか。アポロ11号が月に着陸したころ、もう宇宙旅行(“旅行”と呼ぶには、まだあまりにも過酷だが)は現実のものなのだから、SF作家は飯の食い上げだなどという議論が一部にあったと聞く。アポロ11号はおれたちの世代にとっては人生がひっくり返るようなリアルタイムの衝撃的な体験なのだが、さすがにそのころはSFをめぐる議論のことなんて、晩稲のおれは知らない。

 実際には、アポロの月着陸くらいで宇宙SFは滅びなかった。あたりまえだ。むしろ、みなが日常的にGPSを使い、スペースシャトルが飛んでも驚きもせず、日本人宇宙飛行士が珍しくもなく、誰もがふと Google Earth で自分の家を探してみたりするような時代になったからこそ、野尻抱介のストレートな宇宙SFは、われわれの夢をかき立てる。

 なぜか野尻抱介の宇宙SFを読むと、子供のころに段ボール紙やら竹ひごやらなにやらで作ったロケットの延長線上に、気負いも衒いもなく、素直に宇宙が広がっているような気になる。ひょいと手を伸ばせば届きそうなところに宇宙があるような気にさせられてしまうのだ。いや、実際そうなんだよ。それはそうなんだが、まあ、たいていの人は、ひょいと背伸びをすれば宇宙に手が届くとはふだん思っていない。

 まあ、騙されたと思って本書を読んでごらんなさい。表題作「沈黙のフライバイ」はもちろん、「轍の先にあるもの」「片道切符」「ゆりかごから墓場まで」「大風呂敷と蜘蛛の糸」と、どの収録短篇を読んでも、明日にでも自分が宇宙に行けそうな気分にさせられてしまう。これは野尻抱介が実際の宇宙開発技術によく通じていて、どこまでがいますぐにでも(リソースさえあれば)実現できて、どこからが想像の翼の力を借りねばならない領域なのかを知悉しているからこそできる藝当なのだ。つまり、野尻抱介は、「ほら、こんなふうにすれば、もうあなたは宇宙にいて、そこではこんなことが……」と、活字を使っておもしろ実験をしてくれる宇宙のでんじろう先生なのである。

 日曜大工が好きなお父さん、凝った料理が好きなお母さん、そしてもちろん、すべての子供たち、若者たちにお薦め。宇宙はすぐそこにある。いや、〈いま・ここ〉は、最初から宇宙の一部なのだ。



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2007年4月25日 (水)

グラッチェ、グラッチェ

 MSN video でやってる ZDNet Whiteboards ってコーナーがけっこうお気に入り。旬なテクノロジーのキーワードを、それなりの講師が一口知識的にホワイトボードを使って一般視聴者向けに解説するという番組。ネタそのものには深く突っ込むわけでもなく、平易な用語解説に留まるのだが、ホワイトボードにキーワードを書き殴りながらやたら表情豊かに解説するガイジンさんたちが、おれにはみんなケーシー高峰に見えてしまって、微妙に面白い。まあ、そういう邪な楽しみかたをしている人はあんまりいないだろうが、それにしてもアメリカ人ってのは、こういうカタチのプレゼンがおしなべてうまいよねえ。やっぱり、子供のころからの訓練がちがうのだろうな。

 Carbon Nanotubes のお題では、ちゃんと軌道エレベータのことまで触れているのはえらい。ただ、「geosynchronous orbit が高度六万二千マイル」とか言ってるが、いくらなんでもそりゃ高すぎる。二万六千マイルのまちがいだろう。まあ、こういうツッコミができる隙があるところも、生身の人間がプレゼンしている感じがひしひしとあってご愛嬌である。

 基本テクノロジカルタームの「三分間クッキング」、英語の勉強とプレゼンの勉強がついでにできるので、文科系の学生さんにはとくにお薦め。こんなのがいくらでもタダで観られるんだから、ホント、いまの学生さんはいいよなあ。



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2007年4月23日 (月)

さすがはロシア、日本はまだまだかなわんな

ロシア国民の3割、天動説信じる 「恐竜時代に人類」も (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0422/JJT200704220005.html

 「太陽は地球の周りを回っている」―。ロシアで国民の約3割がこう信じていることが明らかになり、関係者の間に衝撃が広がっている。有力紙イズベスチヤがこのほど、全ロシア世論調査研究所から入手した調査結果として伝えた。
 調査はロシアの153都市で、1600人を対象に基本的な科学知識を試す形で行われた。
 この結果、天動説を信じている人は28%に上った。ほかに「放射能に汚染された牛乳は煮沸すれば飲んでも安全」との回答が14%、「人類は恐竜時代に既に出現していた」との回答が30%に上った。
 また、科学的な知識だけを信じる人は20%しかおらず、あとは魔法を含む何らかの超自然的な力の存在を信じていることも明らかになった。(時事)

 なあに、ロシア人よ、気に病むことはない。目くそ鼻くそじゃ。日本で同じ調査をやったら、たぶん同じくらいの成績になるか、日本がロシアを下まわると思うぞ。

 二○○二年には、『国民の科学技術に対する理解度や関心度は米英など先進各国の中で最低レベルであることが24日、文部科学省科学技術政策研究所がまとめた「科学技術に関する意識調査」で分かった』という報道があったし、二○○四年には、日本の『小学生の4割は「太陽が地球の周囲を回っている」と思っている』という報道があった。この記事を読んで、「やっぱり、ロシアは遅れているなあ」などと思っている日本人がおったとしたら、怖ろしいほど現状認識の甘い人だと言わざるを得ない。

 それにしても、さすがはスプートニクやボストークで人類の宇宙開発をリードした国だけのことはある。「放射能に汚染された牛乳は煮沸すれば飲んでも安全」と回答した人がたったの14パーセント「人類は恐竜時代に既に出現していた」と回答した人がわずか30パーセントだというのだから、驚異的に科学民度の高い国である。この二問なら、任意抽出した日本人は、まず確実にロシアに負けるとおれは思う。

 ぜひ試してみてほしいね。どうだい、テレビ朝日、そういう企画、特番でやってみないか? 文部科学大臣もゲストに呼んで、世界に向けて英語でコメントしてもらおうぜ。



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2007年4月21日 (土)

理性と科学の徒よ、『オーラの泉』の侵略を阻止せよ!

 さっき台所に酒を注ぎに行ったら、案の定、母が『オーラの泉』テレビ朝日系)を観ておった。やれやれ。こんなものをプライムタイムに持ってくるテレビ朝日という企業は、いったいなにを考えておるのか。CSRという言葉を知っておるか、テレビ朝日? 老い先短い年寄りがなにを信じようがもはやどうでもいいが、“子供の教育に悪い”というのは、まさにこういう番組のことを言うのだ。

 子供が“自称霊能者”とやらの世迷い言を真に受けて育つかと思うとぞっとする。だいたい、ニセ科学やら霊やらの“言いわけ”に寄りかからなければまともな道徳教育もできない大人が情けないわい。子供たちよ、若者よ、みずからの頭で考えず、みずからの言葉と責任で子供にものを教えることもできないようなこんな大人どもの吐く世迷い言などには、耳を貸す必要はまったくないぞ。こいつらに「おまえのオールをまかせるな」

 日本PTA全国協議会よ、おれは以前あんたたちを“敵”とみなすと宣言したが、この際、敵にも呼びかけよう。この番組を消し去るためなら、敵だの味方だのと言うてはおれん。いまこそ、あんたがたの出番だ。手前らで定めた「日本民間放送連盟 放送基準」をあからさまにないがしろにしているテレビ朝日の『オーラの泉』に、例の「子供に見せたくない番組」の名誉あるレッテルを貼りつけてやってもらいたい。人助けだと思って、ぜひやってくれ。深夜番組ならまだしも、今回のテレビ朝日の暴挙は、あんたがた日本PTA全国協議会の基本方針に照らしても、看過できるものではないはずだ。文部科学省に対して「要請活動」とやらを積極的に展開してほしい。

 さあ、よい子のみんな、土曜七時は家族といっしょに『脳内エステ IQサプリ』(フジテレビ系)を観て、みんなで脳を鍛えよう。一家団欒に『IQサプリ』だ。ほんとは『サイエンスZERO』がよかったんだが、放送時間が変わっちゃったしな。ともかく、『オーラの泉』なんか観てたら、アホになるぞ。いいことなんか、ひとつもないぞ。



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2007年4月 9日 (月)

まなべからめぐみになった『サイエンスZERO』

 昨夜録画したのをようやく観た『サイエンスZERO』(NHK教育)、装いも新たに(常套句だなあ……)、今回から女性ナビゲーターは安めぐみ。いやまあ、おれとしては、眞鍋かをりが降板するのも惜しい、安めぐみにも期待したいという、フクザツな心境である。眞鍋かをりといい安めぐみといい、よくもまあ、おれの好きな女性タレントをピンポイントで狙ってくるね。なんで知ってるんだ? こういう番組の視聴者層が好むタイプの女性タレントってのを、統計的にリサーチして割り出しているんだろうか? あるいは、この番組の主たる視聴者層ってのは、要するに、もろにおれのようなオヤジであって、単にオヤジウケのいい女性タレントを起用しているだけだったりして。

 利発で元気いっぱい風の眞鍋かをり(ブログやポッドキャストによれば、仕事以外ではかなり室内派だが)とは対照的な、ぽわわぁ~んとした癒し系の安めぐみがどういう味を出してゆくか、なかなか楽しみなところである。「ゼロからまなべ!」コーナーは、「めぐみの一歩」コーナーにタイトル替え。ちょ、ちょっと苦しいが、「まなべ」以上にこの番組に都合のいい名前はそうそうないだろうから許そう。

 考えてみれば、『サイエンスZERO』は、今回から深夜枠、つまり、はじめのころに戻ったわけである。地獄婆あスピリチュアル・デブがテレビで大きな顔をしている昨今、こういう番組はできれば子供の観る時間帯に本放送をぶつけてほしいもんだが、まあ、再放送はプライムタイムだからいいか。

 ニセ科学が蔓延する世の中だからこそ、ちゃんとした科学番組を子供や若者には観てほしいんだよな。いや、おれは親が無理やり観せるのもこれまたよくないと思うわけよ。子供が観やすい時間帯に、さりげなくやっていてほしいわけ。おれはガキのころ、いつのまにかやっていた『四つの目』を発見して毎回観るようになり、続けて『レンズはさぐる』を観ていたもんだ。それはお勉強でもなんでもなく、完全におのれの興味の赴くままにたどり着いた“娯楽”以外のなにものでもなかったのよさ(なんでピノコ語?)。たぶんおれのことだから、親が観ろなどと言おうものなら、そんな番組はひょっとすると嫌いになっちゃってたかもしれない。自分が大人になったいま、自分の子はおらんが、世間の親御さんたちにとってはそのあたりが難しいところだろうと思うねえ。

 そういう意味では、地獄婆あやスピリチュアル・デブが出ている番組を好んで観ている老母を横目で見るにつけ、心中、妙な感謝のしかたをしてしまうのだよなあ。ああ、親が科学になんの興味もなくてよかった、みたいなね。



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2007年3月27日 (火)

『バビロニア・ウェーブ』(堀晃/創元SF文庫)

 太陽系から三光日ほどのところにそれはあるのである。直径千二百万キロメートル、全長五千三百八○光年の巨大なレーザーの光束。両端にはおそらく重力場によるなんらかの反射機構が存在しているらしく、そのレーザー光束は、完全に位相の揃った定在波としてそこにただただ存在している。真空中のレーザーだから、当然、そこにそんなものがあることは横から見たってわからない。ビームの中に入り込みでもしないかぎり、わからないのだ。が、不用意に入り込んだが最後、毎秒5・3×1011エルグ、太陽常数の七○万倍に相当するエネルギー照射を浴びて黒焦げになってしまう。

 ようやく片道進んだ光ですら、古代バビロニア以前にもう一方の終端を発したことになる長大なレーザー光束――この謎の天体、人呼んで“バビロニア・ウェーブ”は、反射板を差し入れるだけで無尽蔵とも言えるエネルギーを人類に提供し、その歩みをどこへともなく歪めてゆく。地球とバビロニア・ウェーブ間をレーザー推進連絡船で往還する単調な任務に就いていた宇宙飛行士マキタは、バビロニア・ウェーブへと向かう途中、目的地から地球へのレーザー照射が停止するという事態に巻き込まれる。地球へのビームが途絶えたのでは、レーザー推進船は減速できず、目的地で停止できない。マキタは、急遽バビロニア・ウェーブに向かった、かの天体の発見者・ランドール教授と合流、連絡船を捨てて、核融合推進の救命艇で教授と共にバビロニア・ウェーブ近傍の基地に赴くこととなる。その最果てのマルドゥク基地では、バビロニア・ウェーブに関して極秘裏にある計画が進行していた……。

 と、まるでアオリ文みたいなことを書いたところで、ピンと来ない人にはさっぱりピンと来ないだろうと思う。それはもう、しようがない。ところが、なまなかなことでは人智を寄せつけない、なんだかものすごいものがただただそこに存在しているというだけで、「おおおお……」とばかりにページを繰るのももどかしくなるタイプの人が世の中には少なからずいるのである。あなたがそういう人であれば、これを読まずに死んではいけませんぜ。長らく入手困難であった日本ハードSFの金字塔、待望の復刊である。これを喜ばずして、なにを喜ぼう。

 おれは、圧倒的に巨大な未知がただそこにあるというだけで読者を魅了してしまう類のSFを、アーサー・C・クラーク『宇宙のランデヴー』を踏まえて“茶筒SF”と勝手に呼んでいるのだが、日本人SF作家で堂々たる茶筒SFをものした人は、存外に少ないのである。茶筒SFは非常に読者を選ぶから、かなり度胸のある編集者の理解がないとゴーが出ないということもあるのかもしれないな。「なんじゃこりゃあー!? こいつはなんなんだ、なにしにやってきたんだ、なんのためにそこにあるんだー!?」という“未知への畏怖”そのものを楽しめる読者は大喜びなのだが、そうでない人は「喧嘩売っとんのか!?」と怒り出しかねないのが茶筒SFというものなのである。実際、『宇宙のランデヴー』読んで怒り狂った人は、欧米にもけっこういると思うんだよなあ。かわいそうに。そういう人は生まれた星のめぐり合わせが悪かったのだろう。

 『バビロニア・ウェーブ』は、紛れもなく、日本の茶筒SFの最高傑作と呼んでよいと思う。SFにしか描けないストレートの剛速球を受け止めて、ミットの焦げる匂いをかぎながら掌と魂の痺れに愉悦を味わいたい人には、余計な御託は不要だ。とにかく、お薦めである。まさに、「スットライーック!!」なのである。

 今回の復刊を機に何度めかの再読をして改めて思ったのだが、優れたハードSF作家の資質は、おそらく想像力などではない。観察力だ。“そこにないものに対する観察力”なのである。おれにはそうとしか表現しようがない。これは単なるルースな想像力とは似て非なるものだ。“もののことわり”を考え抜く想像力は、観察力と区別がつかない。え? なにを言っているのかさっぱりわからない? わからん人は、とにかく本書を読め。



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2007年3月12日 (月)

『ひとりっ子』(グレッグ・イーガン/山岸真編・訳/ハヤカワ文庫SF)

 なんかもう、「イーガンはいいねえ」というのは「郵便ポストは赤いねえ」というのにも等しいほどになってしまっているから、いちいち褒めるのも野暮なんだけれども、やっぱり、いいもんはいい! 「現役SF作家の最高峰という評価は日本でも完全に定着したようだ」と、本書の「編・訳者あとがき」にあるとおりである。おれがここで言わんでも、ほかの人がいっぱい言うておるであろうが、あえておれも一応言っておく。たしかに、グレッグ・イーガンは、総合的に見て、現役SF作家の最高峰である。おれが好きか嫌いかということならば、テッド・チャンの次に好きな現役海外SF作家だけどね。ま、おれは判官贔屓だから。テッド・チャンは、いまのところ、どこまで行っても、偉大なるマイナー・ポエットなのよ。堂々たる最高峰となると、やっぱりイーガンだろう。

 以前の日記で書いた「イーガンやチャンは、ほんとうなら、いわゆる純文学読者が嬉々として跳びつくような作家ではあるまいかとマジで思っているんだよ、おれは」という評価はまったく変わっていないのだが、この『ひとりっ子』に関しては、これも「編・訳者あとがき」にも注意があるように、SFを読み慣れていない読者には、ちとキツいかもしれないと思う。つまり、描かれていることや、そこに横たわる問題意識は、まさに現代の純文学が扱うべきことなのだが、その“薯を噛む境に入る”には、最低限、ポピュラーサイエンス・レベルの科学知識を必要とする。理科系の人が言うと排他的に聞こえるかもしれないが、ずぶずぶの文科系であるおれが率直にそう言うぶんにはかまうまい。現代では、文学の最先端に触れるには、科学の教養が必須なのである。そういう時代なのである。そもそも、文科系だの理科系だのという古臭い二項対立を意識しているようでは、ほんとうに面白いところにはついてこられないのである。あんまり言いたくないのだが、ついに言ってしまうと、イーガンには、ついてこられるやつだけついてこい! ああ、言っちゃった。ま、『ひとりっ子』がキツかったら、これもまた親切な「編・訳者あとがき」にあるように、SF慣れしていない読者向けに意図的に編んである『祈りの海』