カテゴリー「言葉」の96件の記事

2008年7月16日 (水)

コンピューターおばあちゃんの死

'World's oldest blogger' dies at 108 (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/WORLD/europe/07/14/oldest.blogger/index.html

(CNN) -- An Australian woman often described as the world's oldest blogger has died at the age of 108 after posting a final message about her ailing health but how she sang "a happy song, as I do every day."
Olive Riley died Saturday at a nursing home in New South Wales.
Riley posted more than 70 entries on her blog -- or "blob" as she jokingly called it -- since February 2007.
On the site, The Life of Riley, and in a series of videos post on YouTube, Riley mused on her day-to-day life. She also recounted living through two world wars and raising three children on her own while working as a cook and a bar maid.

(中略)

Riley was born in 1899 and would have turned 109 on October 20. She took up blogging at the suggestion of Mike Rubbo, who filmed a documentary on her life four years ago.
"First of all, I had to explain to her what a blog was and that took some doing," Rubbo said. "Then I got across the idea it was sort of a diary that she would share with the world.
"The reason for its popularity is that she was such a standout talent -- just so touching and funny and such a great story teller."

 おれはこの“世界最高齢ブロガー”のライリーおばあちゃん、この記事を読むまで知らなかったんだけど、いやあ、いいねえ。おれもこういうふうに死にたいもんだ。

 彼女がブログを書いていたのは、ほんの一年半足らず、わずか七十四エントリーを記しただけだ。それでも、彼女にとって、人生の最後に、世界中のいろんな人とこういう形で交流ができたことは、どんなにか新鮮な驚きだったことだろう。

 なにしろ、ライリーおばあちゃんは一八九九年に生まれているのだ。アインシュタインが特殊相対性理論を世に問うたのは、彼女が十六歳のときだということになる。そう考えるだけでも、彼女が経験してきたであろうことどもは、おれたちの想像を絶する。ライリーおばあちゃんは、おれたちには信じられないような、さまざまなものを見てきたにちがいない。Attack ships on fire off the shoulder of Orion. ...とかはさすがに見てないと思うが、それに相当するようなワンダーを経験してきていたのだろう。

 そんな彼女にとっても、百歳を超えた自分が個人用のコンピュータなどというものを使って世界中の人に向けて日記を書くと、見も知らぬ外国の人々が温かいコメントを寄せてくれるなどという出来事は、まるでむかし子供たちが読んでいた Amazing StoriesAstounding Science Fiction の中にいるかのようであったろう。ワンダーは未来の話にのみあるわけではもちろんない。こんなおばあちゃんの人生は、それそのものがワンダーの塊なのである。

 All those moments will be lost in time, like tears in rain. コンピューターおばあちゃん、バンザイ!



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2008年6月16日 (月)

マーク・トウェインもツッコむだろうな

Kinen 一時間しか経ってないのに、どうしてそんなことがわかったのだ??

 これって、こうして話題にされることを狙ってやってる? それとも、ホントにホントの天然ボケ?




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2008年5月21日 (水)

「光あれ」

ミサイル監視衛星も保有可能に 宇宙基本法が成立 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0521/TKY200805210132.html

 最初に聞いたときから思っていたんだが、それにしても「宇宙基本法」とは、どえらく大きく出たネーミングだなあ。

 きっと、「第一章 普遍定数 : 第一条 プランク定数、第二条 光速度、第三条 万有引力定数……」といった調子で、この宇宙のスペックがえんえんと“定めて”ある法律なのだろう。宇宙を作ってゆくときには、この法律に基いて設計せねばならないのだ。

 問題は財源だが、なんでも、空間税、時間税、質量(エネルギー)税などなどが裏でこっそりかかっていて、宇宙特定財源に充てられているという噂だ。どこの噂だ?



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2008年4月24日 (木)

「たり」ない

 前から気になってるんだが、近年「たり」の使いかたが急速に変化しているのが感じられる。「さっきからあの男はずっと、きょろきょろあたりを見まわしたり、小走りに物陰に隠れたりしている」といった具合に使う、あの「たり」のことである。

 こいつの使われかたが、最近、あきらかにおかしい。本来、「○○したり、××したり、△△したり……」と、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるべきである。というか、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるからこそ、並置部分の長さが不揃いであったり、耳で一度聞いたくらいでは覚えきれないくらいに文章が長くなったりしても、なにとなにとなにとを同格に扱っているのかが明示され、意味の塊や論理構造がはっきりして理解しやすくなったり覚えやすくなったりするのだ。

 ところが、最近では、並置の最後に置く動詞には「たり」をつけないようになっている。テレビのニュース原稿ですら、もはやそのほうが多数派だとはっきり感じる。たとえば、「休日は本を読んだりDVDを観たりします」という使いかたが、おれのような年寄りにはしっくりくるんだが、近ごろでは、「休日は本を読んだりDVDを観ます」というのが、ごくごくあたりまえになってしまっているのである。多くの人が、後者に違和感を覚えなくなっているようだ。

 おれなんかは「たり」が足りないとイラッと来る。やはりおれの嫌いなら抜き言葉などとは比較にならないくらいにイラッとくる。なぜこんなにイラッとくるのか、よくよく考えてみて、はたと気づいた。上記例文の前者と後者では、おれには意味が変わってしまっているように感じられるからだったのだ。好き嫌いの問題ではなく、伝達される情報の内容が変わっているから、こんなにイラッとくるのだ。

 説明しよう。「休日は本を読んだりDVDを観たりします」と言われると、おれは、「ああ、この人は休日には読書とDVD鑑賞以外にもいろんなことをするのだが、最も時間を費やす代表的なふたつを例示しているのだな」と解釈する。「たり」に、並置と同時に例示のニュアンスを感じ取る。

 ところが、「休日は本を読んだりDVDを観ます」と言われると、「読書とDVD鑑賞しかしないのか」と思ってしまうのだ。「読んだり……」までのところで、「おっ、このあとに何個か“たり”が続くぞ、いったいどんなことが並置・例示されてゆくのかな、わくわく」と、言語化する間もないほどの刹那に、おれの脳は期待に打ち震える“構え”を取る。そこへ、「DVDを観ます」とあっさり言い切られたのでは、脳がはらほろひれはれとずっこけてしまう。あたかも、いい感じで食事とお酒を楽しんで店を出たところで、女性に「じゃあね」と言われたかのような落胆がおれを襲う。

 こんなふうに感じてしまう言語感覚の持ち主のほうがすでにして少数派なのかもしれない。だが、おれの脳神経細胞は、並置される要素の数だけ「たり」を期待してしまう回路を子供のころに形成し、それが強化され、固定されてしまっている。そりゃもう、しようがないのである。

 「休日は本を読んだりDVDを観ます」がここまで一般化したいま、もはやこれが“まちがい”であると主張したところで詮ないことではある。おれは丸谷才一ぢやない。現時点で妥当な正当性を持つ日本語の守護者であるべき放送人までが、新用法に汚染(?)されているのだから、勝ち目はないだろう。多勢に無勢だ。日常的に日本語を使っている人々全員の多数決を取ったら負けるんじゃないかとすら思う。だけど、おれはおれの主観を述べるしかない――

気色悪いんだよ、それは!



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2008年4月15日 (火)

あれはこっちではシャベルじゃない

 「家族と、もっと、シャベる。」――というのが、最近の au のコピーなんだが、ちょっと待った。

 テレビCMのあの映像などを観て、関西人の多くは違和感を覚えるはずである。ふつう、ここいらへんではあのハンディな掘削用具をシャベルとは呼ばぬ。あれはスコップだ。

 そりゃまあ、標準語では“シャベル”があのようなものを指すことになっているというのは、知識としては知っている。が、やはり、おれのコアにあるものが、「あれはシャベルではない。スコップだ」と言い張って聞かぬのである。

 小学生のころ、学校の花壇に球根やらなにやらを植えるのに使った道具はなんであろうか? スコップである。断じてシャベルなどではない。花壇にしゃがみこんで夢中で作業をしていたあのコのまぶしい太もものあいだに覗いていた純白のパンティーに誓って、あれはスコップである。

 不思議なことに、“スコップ”と言うと、関東人の多くは、工事現場とかで使っているあのでかいやつが頭に浮かぶらしい。あっちが“シャベル”やんか。

 この“シャベル-スコップ”問題、小林泰三さんがこだわっている“冷麺”問題に匹敵する不可思議な問題である。いかにしてこのような逆転が生じたのであろうか?



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2008年4月 3日 (木)

実食

CoCo壱番屋で「カレーのトッピング全部のせ」に挑戦してみた ~実食編~ (GIGAZINE)
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080403_coco1_topping_all_2/

無謀にもココイチの「カレー トッピング全部のせ」を注文したGIGAZINE編集部員たち。テーブルに置かれたのはもはやカレーに見えないカレー皿と、揚げ物が大量に乗せられた皿でした。自分たちの手で揚げ物もトッピングして全部のせカレーを完成させた様子をさきほどの注文編でお届けしましたが、今回はいよいよこのド級カレーに挑戦です。

 むちゃしおるなあ。まあ、複数人で食ったみたいだから、まだ常識がある(?)ほうだが、これ、一人で食ったらギャル曽根だよなあ。

 それはともかく、この“実食”という言葉、最近日本語に定着してきているような気がするんだが、よくよく考えると妙な言葉ではあるよな。たぶん、『とんねるずのみなさんのおかげでした』「食わず嫌い王決定戦」から出てきた言葉のように思うんだが、近年、あちこちで耳にする。

 わざわざ“実食”と言うからには、それとはちがう“食べかた”があるかのように聞こえる。食うという行為は、常に“実”に決まっているんだが、“実食”という言葉には、たしかに日本人の語感を納得させるなにかがある。元々は、まさに「食わず嫌い王決定戦」のようなシチュエーションが文脈としてないと奇異に感じる言葉のはずなんだが、「あんなものをこんなふうに食ってみたい」と事前に話題にしたうえでいよいよほんとうに食うといったシチュエーションでは、なるほど、“実食”という言葉が適切に思える。

 では、“虚食”という言葉が定着しているのかというと、これは全然そうじゃないんだな。さしずめ、雑誌の写真などを見ながら「ああ、こんなものを食ってみたいなあ」と強く想像する行為を“虚食”と呼んでもよさそうなものなんだが、どうもそういう言葉は生まれそうにない。

 宣伝とか書評とかを読んで、「なんか、この本はこういう内容らしい」と思っている段階を“虚読”とし、実際に読んでみる行為を“実読”と呼ぶようにしたら、それはそれなりに面白いんじゃないかと思うんだがどうか。



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2008年3月18日 (火)

「これにより」って、なんによるんだよ?

 これはおれだけなのかなあ? いや、最近「これにより」って表現が気になってしかたがないのよ。「これにより、なになにが可能になりました」みたいな文脈で近年非常にしばしば目に耳にするようになったのだが、むかしはこんなのこれほどしょっちゅう使ってたかなあ? べつに日本語として文法的にまちがっているわけではないよ。でも、昨今の使われかたを見ていると、なんだか“思考が雑”みたいな気がするんだなあ。つまり、“これ”が指すものが非常にあいまいなケースが多い。そこまでの文脈をな~んとなく受けるといった感じで野放図に“これ”を使っている例にたびたび遭遇する。

 たとえばどんな例かと言われるとすぐ思いつかないので、いかにも作りましたという例を作ってみよう。

 「2に2を加えると4が得られる。これにより……」みたいな例だ。この場合、“これ”はいったいなにを指しているのだろう? 最初の2か、二番目の2か、4か、“2に2を加える”という操作か、それとも“2に2を加えると4が得られる”ということそのものか? おれが細かいことを気にしすぎるのかもしれんが、むかしはこういう場合、「2に2を加えると4が得られる。この操作により……」といったような、対象をはっきり絞り込むような表現が好まれていたように思うのだ。だいたい、「これにより」なんてのは、文法的には正しいかもしれんが、思考が大ざっぱすぎて気色悪いと思いませんか? 頭の中で文章を組み立てるときの怠慢としか思えない。英語で、ただ by this なんて言われたら、すごく違和感がある。this なんだよ、と思ってしまう。by this operation とか with this method とか through this procedure とか、もっとこう、誤解を避けるような補足的な名詞がつくのが自然じゃないか。おれの思考が英語に汚染されすぎているのかもしれんが、日本語としても、あまりに曖昧すぎて気色悪くないすか?

 おそらく、このあまりに曖昧な「これにより」により、世間ではかなりコミュニケーションの齟齬が生じているのではないかと思う。言うほう、書くほうは、“これ”がピンポイントになになのかについて深く考えずに感覚的に使っており、聞くほう、読むほうも、「たぶん“これ”とは“ここいらあたり”のことだろう」と、大ざっぱに捉えてよしとしているため、とんだ誤解が生じる可能性を孕んでいるのではあるまいか。

 そこでおれは“「これにより」をできるだけ使わない運動”を呼びかけたい。「この○○により」と言い換えたほうがよいと思う。もし言い換えられなかったら、それは思考が粗雑なままものを言おうとしているのである。ちゃんと明晰に思考しているのなら、「この方法により」とか「この新技術により」とか、いくらでも対象を絞り込んだ言い換えが可能なはずだからだ。

 じつは、最近この「これにより」が非常にしばしば登場するのは、技術分野の報道原稿や、テレビのニュース原稿なのである。ロジックではなく雰囲気で文章を書いているとしか思えない。むろん、ロジックより雰囲気や感性(?)を優先して書くべき文章はある。だが、報道はロジックを明確にすべきだ。「これにより」を多用して、雰囲気でお茶を濁しているような文章を書いているあなた、いっぺん自分に「これにより」禁止令を発令して、ちゃんと文章が書けるかどうか、試していただきたい。



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2008年3月 2日 (日)

微笑ましく家族でドライブ

 これには大爆笑! これって、英語を教える学校のCMなのに、アメリカのテレビでは流せないよな。Engels leren? ってのは、よく知らんがオランダ語だろう。ドイツ語によく似ている。

 後部座席に座っている子供たちには英語がわかっているんだろうね。子供たち同士が微妙に笑いながら顔を見合わせるところで、それを示唆しているのだろう。

 不思議なのは、英語がまったくわからないオランダ人にはこのCMはちっとも面白くないはずだという点だ。つまりその、なんというかアレだ、“ある種の性交様式を試みたい”といった程度の英語は、多くのオランダ人には理解できるからこそ成り立つCMなのでしょうなあ。というか、オランダ人の中で“ある種の性交様式を試みたい”といった程度の英語がわかる層こそ、おそらくもっと英語をちゃんと身につけたいと思っているはずの、この語学学校のターゲット層であり、そこにピンポイントで訴求することを狙ったレーザービーム的広告なのかもしれない。英語がまったくわからないオランダ人であったとしても、「あのCM面白いね」と周囲で話題になったら、「え、私だけわからなかったのか。こりゃ、少しは英語覚えんといかんな」と焦るだろうしね。

 まったく広告屋さんというのは、どこの国でも怖ろしく頭がいい。



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2008年2月23日 (土)

ダンディーとは?

 “ダンディー”という言葉は非常に定義しにくい。いったいどういうふるまいがダンディーなのか、定義しろと言われると、なかなか難しいのではなかろうか?

 定義するのは難しいとしても、せめて例示くらいできるのではなかろうかといろいろ考えてみた結果、「これはダンディーと言わざるを得ない」という例を思いついた。

 ナポレオンズが、あの小窓を開けた箱の中でほんとうに頭を回転させていたとしたら、これはダンディーにちがいない。世間はどこまでもギャグマジックだと思っているのだが、そのじつ、余人に真似のできないものすごいことを人知れずさりげなく行なっているのである。かっこいいなあ! このかっこよさがわからない人には、“ダンディー”のなんたるかはわからない。



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2008年2月17日 (日)

二丁目の交差点から十七件目で時々走って二分と十五秒

 おなじみ、《ヘンな検索語》シリーズ。これはなあ……。

「天文学者になればよかった 喫茶」

 うろ憶えだったんで検索して確認しようとしたんでしょうなあ。だけど、あなたの欲しい情報は、たぶんそれでは見つからない。“その喫茶店”が出てくるのは、「天文学者になればよかった」じゃなくて、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」だってば。まあ、あみんも活動再開したことだから、歴史を紐解きたいという若い方も少なくないであろうが、その検索語は惜しい。

 それにしても、「パンプキン・パイとシナモン・ティー」という表記自体が、そこはかとなく昭和を感じさせますなあ。たぶん、いまならこれくらいの長さのカタカナ語だったら、「・」(ナカグロ)は入れないほうが一般的だろうな。「パンプキンパイとシナモンティー」になってるはずだ。ここ二、三十年ばかりのあいだに、それだけ長いカタカナ語が日常的になり、日本人の目が長いカタカナ語に慣れたということなんだろう。むしろ「・」が多いほうが読みにくいくらいの感覚になってしまっている。たとえば、『戦闘妖精・雪風』『戦闘妖精・雪風〈改〉』とを読み比べてみたりしたことがある人は、そういうことに気づいてらっしゃるだろう。表記は世につれ、世は表記につれ。



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2008年1月28日 (月)

肩書きの優先順位

大阪知事に橋下氏 38歳、現職で最年少 民主敗れる (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0127/TKY200801270107.html

 大阪府知事選は27日投開票され、自民党府連推薦、公明党府本部支持のタレントで弁護士の橋下徹氏(38)が、民主、社民、国民新の3党推薦の元大阪大大学院教授の熊谷貞俊氏(63)、共産党推薦、新社会党支持の弁護士の梅田章二氏(57)らを破り、初当選した。38歳での知事就任は現職では全国最年少。33年ぶりに国政の与野党第1党の対決構図となった選挙戦は橋下氏が知名度の高さに加え、自民、公明両党の支援に支えられ、昨年の参院選と大阪市長選で勝利した民主党の攻勢を抑えた。投票率は48.95%で過去最低の前回40.49%を8.46ポイント上回った。

 あちこちのメディアがバラバラなんだが、橋下徹氏は「タレントで弁護士」なのか「弁護士でタレント」なのか、どっちだろう? おれは「弁護士でタレント」なんだろうと頭では一応思っていたんだが、たしかに印象としては「タレントで弁護士」のほうがしっくり来るなあ。

 肩書きがバラついている点が、いろいろな意味で象徴的な新知事ではある。



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2008年1月25日 (金)

機械時蝿は電気矢を好むか?

 このブログへのアクセスをチェックしていると、なんとも不可解なところからのアクセスが見つかった。ここなんだが、つまり、このブログを自動翻訳サービスでわざわざ英語に訳して読んでくれた方がいらっしゃるわけである。常連読者に海外在住の日本人の方がけっこういらっしゃるのはメールやコメントを頂戴したりするので把握しているんだが、その方々は当然日本語が読める。一日に数千、数万のアクセスがあるような人気ブログでもなし、海外でも名が知られているような有名人がやってるわけでもなし、英語のコンテンツがあるわけでもなし(本拠地のほうにひとつだけあるけど)、いったいなにを求めて英語しか読めないらしい方がこんなものをわざわざ英語に訳して読んでくださっているのか、よくわからない。ありがたいといえばまことにありがたいのだが、なんとも不可思議である。

 またこの自動翻訳サービスの性能がすさまじいんだなあ。なにを話題にしているのかがおぼろげながら掴める程度で、噴き出してしまうような怪訳に仕上がっている。「(月)」だの「(火)」だのといった表記は、近辺に日付けがあるんだから、曜日を指していると解釈するようなアルゴリズムは簡単に組めそうなものだ。「(month)」「(fire)」ってなんだよ、そりゃ。「The male be completed the book」って?? ああ、そうか、「おす」「すめ」「本」か。辞書が貧弱という以前に、形態素解析がむちゃくちゃである。

 「winter tree 蛉」ってのは、まあ人名としては使用頻度の高い漢字じゃないからいたしかたないとしても、コメントをくださっている「ふ fairway」さんとか「forest 譲」さんって誰? そうか、な、なるほど、「ふ 澪」「林 譲」か。どこで切っとるんじゃ。そもそも、「治」はどこへ行った、「治」は? まあ、「forest 譲」って、ちょっとかっこいいかも?

 なんといっても、最高傑作は「Oven person Hiroshi」だなあ。「かま」「やつ」「ひろし」か。なんだかゲルショッカー系の怪人みたいだ。

 機械翻訳は難しい。ともあれ、翻訳してまで読んでくださった方、ありがとうございます。



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2008年1月22日 (火)

先願主義?

 さっき、キュウリを食おうと思って、キュウリを洗っていた。コンビニ弁当だけではさすがにちょっと野菜が足りんかなと思うときには、キュウリに適当に塩かドレッシングをつけて丸ごとばりぼりべりばりと立て続けに二本くらい貪り食うのがおれは好きなのだ。いちいち切るのは面倒くさいし、丸ごと食ったほうがなんだか身体によさそうな気もする。切って表面積が増えるとドレッシングがからむ量が必然的に増えてしまい、無駄な油を摂ってしまうだろうから、丸ごと齧るほうがヘルシーだとは言えるだろう。

 それはともかく、キュウリを洗っていてふと思ったのが、なるほど、こいつはナマコに似ているということである。だが、そもそも、ナマコを sea cucumber などと呼ぶのは、あまりにもナマコに失礼ではあるまいか? なんだか、キュウリのほうが本家で、ナマコのほうが“海バージョン”のパチもんみたいである。英語文化圏の連中の先祖は、たぶんキュウリのほうを先に知っていたからこういう失礼な呼称ができたのであろうが、わが日本民族はたぶんナマコのほうを先に知っていたのではあるまいか?

 調べてみると、日本でキュウリが栽培されはじめたのは、平安時代であるらしい。とすると、絶対、ナマコのほうが先だ。大森で貝を食っていたような連中が、ナマコを知らなかったとは考えにくい。だから、われわれはナマコを“海キュウリ”などと呼ぶべきではない。キュウリのほうを“畑ナマコ”と呼ぶべきなのだ。日本人のみなさんは、これからそう呼ぶように。



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2008年1月18日 (金)

成人式で暴れる阿呆どもの呼称を提案

 成人式で暴れているような阿呆どもを、おれは勝手に“揺りかごアウトロー”と名づけてそう呼んできたのだが、先日、人間ドックでもらってきた冊子に載っていた日本人の死因を眺めているとき、さらによい呼称を思いついた。

 ああいう阿呆どもを、これからはみんなで“悪性新成人”と呼ぼう。ガンみたいなやつらだから、ちょうどいいネーミングだと思うのだがどうか。みんなで使おうじゃないか。マスコミも、来年を待たずに、ばんばん使ってほしい。



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2008年1月10日 (木)

浪速のモーゼ

 今日はなんやかやでやたら疲れた。頭が朦朧として、くだらないことばかり思いつく(頭がはっきりしているときにもくだらないことばかり思いつくわけだが……)。

 晩飯に冷凍のお好み焼きを二枚食って酒を飲んでいると、突然、「モーゼの十日戎」という文字列が額の裏あたりにゴシック体の活字で浮かび上がった。なんじゃそれは? モーゼが手に持った笹を厳かに左右に振りながら「商売繁盛!」と叫ぶと、紅海がごごごごごと左右に分かれて道ができてゆく……といったスペクタクルシーンが勝手におれの頭の中で上映されはじめた。ああ、やっぱり今日は疲れている。

 だいたい「モーゼの十日戎」なんて、誰でも思いつきそうな字面ではないか。それが証拠に……と、「"モーゼの十日戎"」を Google で検索してみると――ええっ、なんてことだ! ない!

 珍しいこともあるもんだなあ。経験的に、こういうのはたいてい世界のどこかで誰かがきっと書いていてくれるものなんだけどなあ。こんなベタなネタにも、未開の領域があったのか。というか、「モーゼの十日戎」は、あまりにあんまりすぎて、日本語を使う人の誰ひとりとして、いちいちウェブで書いたりしないということなのかもしれないが……。「"モーゼの八戒"」は、さすがにちゃんとヒットするんだけどね。



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2008年1月 5日 (土)

雄と雌の勝敗

 「雌雄を決する」というのは、よく考えてみるとケッタイな言葉である。いわゆる“政治的に正しくない”表現だろうと一瞬思うのだが、よくよく考えてみると、雄が勝ったほうで雌が負けたほうだと明言しているわけではないのである。つまり、男が使うときには腹の中で「勝ったほうが雄だ」と思っていていいのだし、女が使うときには「勝ったほうが雌だ」と思っていていっこうにかまわないのである。

  「いよいよおまえと雌雄を決するときだな」
  「そうね、雌雄を決するときね」
  「わはははははは」
  「あはははははは」

 などという会話が、お互いに都合よくちゃんと成り立ち得る。「雄飛」とか「雌伏」とかいう言葉は政治的に正しくないかもしれないが、「雌雄を決する」に関しては、いずれかの優劣を明言していないだけにビミョーなところがあるよな。

 いまのところ、たぶん、雄が勝ったほうを指すと思っている人が多いだろうとは思うが、なにしろ雌のほうを先に言っているわけだから、この先、「雌雄を決する」と言えば、当然「勝ったほうが雌だ」と大多数の人が思うようになる社会がやってくる可能性はある。いわゆる“国語力”が低下すればするほど、そうなる可能性は高い。まあ、そんな国語力は低下してしまえと思わないでもない。言葉狩りみたいなことが進み、表現そのものが抹殺されて言葉が貧しくなってゆくのはいただけないが、表現が残ってその意味が変わってしまうというのは、なかなか愉快ではないかなと思うね。よく言われる「犬も歩けば棒に当たる」とか「転石苔むさず」とか、ああいう表現の仲間にそのうち「雌雄を決する」も入るかもしれない。まあ、「情けは人の為ならず」みたいなのは、元々の意味のほうがおれは好きだけどねえ。つまるところ、多数決だからね。なんか寂しい気もするが。



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2007年12月26日 (水)

カニの肩

 この時期になるといつも不思議に思うのが、“カニの肩”というのはどこを指すのかということである。市場やスーパーなんかでは、カニの片側の脚ひと揃い(が繋がったもの)を、ひと肩、ふた肩と数えて売っているからには、脚の付け根のところがどうやら“肩”であるらしいのだが、擬人的に捉えるとすると、ハサミの付け根はたしかに“肩”かもしれんが、その他の脚の付け根はやっぱり“股”ではないかと思うんだがどうか。まあ、ひと股、ふた股と数えて売られると、あんまりうまそうじゃないけどな。

 で、素朴な疑問が湧いた。カニの肩を英語で shoulder と呼んだら、はたして英語ネイティブの連中には通じるのだろうか? 中学一年のときからかれこれ三十三年くらい英語を学習し続けているが、こんな疑問を抱いたのは初めてである。人間やっぱり、一生勉強ですなあ。

 英語ネイティブの連中がそもそも食材としてのカニをどのように数えて取り引きしたり料理したりしているのか、ウェブのあちこちを調べまわってみたところ、どうやらカニの脚の付け根のところの肉を shoulder と捉える感覚はあるようだ。カニの shoulder の肉のうまさを説いている文章はあちこちに見つかる。この感覚はまあ、納得できるよな。なにしろ、一応、腕の付け根なんだし。しかし、日本語のように“肩”を単位にカニの肉を数えている例は、いくら探しても見つからない。重量を単位に数えるのが一般的なようだ。

 獣の肉の場合、a shoulder of mutton (lamb/pork/beef/venison/bacon, etc.) といった具合に数えるのは、英語ではごくふつうの用法である。これはまあ、英語史を齧った方ならご存じのように、生きているときには英語の可算名詞で呼ぶ獣が、死んで食肉という“素材”になるとフランス語起源の不可算名詞に化けるということがあって、むろん、ノルマン征服以降の歴史的経緯がある。「ワタシ獣を飼ったり獲ってきたりする人、アナタ食べる人」というわけで、外からやってきた支配階級がフランス語(ノルマン・フレンチ)をしゃべり、土着の下々の者が英語をしゃべっていた時代に、言葉が混じり合ったプロセスの名残りなのである。食材としての肉はなにしろバラバラなので数えられないから、おおざっぱに可算化する方便として、身体の部位や取り引きしやすい形状・大きさの塊などを単位に、a shoulder of beef だの a rib of pork だのと数えているわけである。

 だが、考えてみると、カニ肉には、beef やら pork やらに対応する、食肉用専用のこなれた不可算名詞がない。せいぜい、crabmeat (crab meat) とでも呼ぶしかない。なんでかよくわからん。調べもしないで推測するに、十一、二世紀ころのフランス人は日常的にはカニを食わなかったのかもしれないよなあ。だもんだから、仮に a shoulder of crabmeat などという言いかたをしても、たぶん連中にはピンと来ないのだろう。ウシやらブタやらシカやらに比べると、連中にとってのカニってのは、たまに食うには食っても、日常生活に密着した感じがなかったんだろうなあ。

 面白いことに、カニ肉を「2 shoulders」などとして売っているのは、きまって日本の業者の英語ページなのである。きっと、日本語の数えかたを直訳しているのだろう。だけどこれ、必ずしもまちがいであると言い切ってしまうには惜しい表現だと思いませんか? 英語ネイティブの連中にも、「この和製英語は、なかなか捨てがたい味があって面白い」と思って、逆輸入しはじめる人々が出てくるかもしれない。salaryman (sarariman) みたいにさ。ひょっとしたら、未来の英語では、two shoulders of crabmeat といった表現が広く認知され、使われているかもしれないよ。

 海産物を愛でてきた民族として、カニ肉を“肩”で数えるエレガントな習慣を英語に輸出してやるのも、ちょっと愉快だとは思いませんか?



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2007年12月15日 (土)

絶滅危惧フレーズIA類

 この時節ともなると、夜には拍子木の音と共に火の用心を呼びかける声が聞こえてくる。子供はああいうのが好きで、大人と一緒に大声を張り上げて夜回りをしていたりする。おれも子供のころはよく町内の大人について回って拍子木を打たせてもらったりした。

 今日も夜回りの声が聞こえてきて、「ああ、またやっとるな」と本格的な冬の到来をしみじみと味わっておったのだが、ふと、あることに気づいた。違和感がある。なにかが足りない。なんだかまぬけな感じだ。あれはもはや、おれが子供のころにやった夜回りではない。

 「火のよーじん!」

  (カチ、カチ)

 「火のよぉ~じん!」

  (カチ、カチ)

 「火のよーじん!」

  (カチ、カチ)

 「火の……」


 えんえんとそれだけかい!?

 「マッチ一本火事の元」はどうした? あれが入らんと、メリハリというものがないではないか――。

 そこでおれは愕然とした。

 おれはもう何年もマッチというものを使っていない。煙草を吸うにもかかわらずだ。

 そうか。『ダイヤルMを廻せ!』だ。「マイ・ピュア・レディ」だ。「このテープは自動的に消滅する」だ。つまり、今の子供には「マッチ一本火事の元」と言ったって、そもそもなんのことかわからないのだろう。その可能性は高い。大人にしたって、そのフレーズは知っていても、今の世で“お約束”としてそんなことを大声で言うのがはばかられるのにちがいない。

 うーむ。

 しかし、これは由々しきことである。夜回りのかけ声の存亡にかかわる問題である。だいたい、「火の用心」ばかりをただただ阿呆陀羅経のように「ヴェクサシオン」のように繰り返されたのでは、どうにも気色が悪い。日本の伝統藝能(?)の危機である。二十一世紀に生きるおれたちは、「マッチ一本火事の元」に代わり得る、防火の心構えの本質を端的に剔抉した語呂のよいコピーを産み出さねばならない。

 「ライター一個火事の元」では、むろんサマにならない。そもそも、ライターそのものは、あんまり火事の元になったりしないだろう。現実的なのは、それこそ「煙草一本火事の元」だが、これでは非喫煙者がかえって火の用心をしなさそうで具合が悪い。いずれにせよ、「マッチ」という緊張感のある語感とタメを張るのは、ちょっと難しい。

 どうしたもんでしょうなあ。



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2007年11月 8日 (木)

すぐに役立つ今年の三大フレーズ

「ドラえもんがなんとかしてくれる」
「あうんの呼吸」
「プッツンした」

 この三つの組み合わせで、たいていのことには対処できます。



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2007年11月 6日 (火)

「今年の漢字」ねぇ……

「今年の漢字」を募る 日本漢字能力検定協会 (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/1105/OSK200711050053.html

 財団法人日本漢字能力検定協会(本部・京都市)が今年も世相を表す漢字1字を募っている。選ばれた「今年の漢字」は12月12日、京都市東山区の清水寺で森清範貫主が大書し発表する。

 ああ、今年ももうそんな季節か。

 こりゃもう、大方の意見が一致するんじゃなかろうか。


「偽」


 でしょう、きっと。

 「人の為と書いて偽と読む」なんてことをよく言うけれど、最近の「偽」には、「人の為」なんて偽善的な建前すら最初から放棄している「偽」が多いよなあ。まあ、ある意味、正直でわかりやすい「偽」だと言えば言えるけれども。



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2007年9月24日 (月)

「二酸化炭素」と「シー・オー・ツー」はちがう

 いつのころからだろうか、テレビでは非常にしばしば二酸化炭素のことを「シー・オー・ツー」と呼ぶようになってしまった。どうもおれはこれを聞くとカチンとくる。「二酸化炭素」じゃなぜいかんのだ? いまじゃ、「二酸化炭素」より「シー・オー・ツー」を聞くことのほうがはるかに多いよな。このような言いかたは、二酸化炭素なるものが“日常の等身大のわれわれから、なにかちょっと距離を置いたところにあるもの”であるかのような印象をかえって強く与えてしまうような気がする。というか、それが目的なのか? 「シー・オー・ツーを削減しましょう」というのはしょっちゅう聞くが、「エイチ・ツー・オーを大切にしましょう」なんて呼びかけは聞いたことがない。「今朝、住宅地で気体のシー・スリー・エイチ・エイトが爆発し……」とか「なんとシー・シックス・エイチ・エイト・オー・シックスのL体は、レモン百二十個分!」とかテレビで言うておるのも聞いたことがない。べつに聞きたいとも思わないが……。

 なんか、テレビで誰かが「シー・オー・ツー」というのを聞くたび、むかしその高い危険性が取り沙汰された世にも怖ろしい化学物質「DHMO」(dihydrogen monoxide/一酸化二水素)のことを連想する。え、あなた、ご存じないですか? それはいけない。環境問題に関心の高いSFファンはたいてい知っているんだが、まだまだ一般的には知られていないのかなあ。ご存じない方は、次世代のためにも、この機にぜひ知っておいていただきたい。とくに、書籍や電子機器などはDHMO汚染に弱いので、おれと趣味を同じゅうする方々は要注意だ。

 ま、どうもマスコミの「シー・オー・ツー」汚染は、DHMO問題が揶揄している対象と同じようなもんだと思うね。




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2007年9月19日 (水)

正直者

16歳の娘、斧で警察官の父を殺害容疑 「嫌いだった」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY200709180043.html

 18日午前4時40分ごろ、京都府京田辺市、京都府警南署交通課巡査部長(45)方から、妻(41)とみられる女性の声で「主人が斧(おの)で首を切って自殺した」と119番通報があった。消防隊員が駆けつけると、2階の寝室で巡査部長が首から血を流して倒れており、すでに死亡していた。田辺署員が返り血を浴びた専門学校生の次女(16)に事情を聴いたところ殺害を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
 捜査1課と田辺署の調べによると、巡査部長はランニングシャツとパンツの下着姿で、右首の数カ所に傷があり、体の左側を下にして倒れていた。争った形跡はなかったという。
 警察が到着した際、次女は1階の居間にいた。居間には、血が付いた刃渡り約11センチの小型の斧もあった。斧はこれまで自宅になかったものとみられ、府警は次女が事前に準備したとみている。次女は「私が斧で切りつけた。以前から父が嫌いだった」などと供述しており、府警は動機を調べている。

 いや、われながらえげつなく不謹慎だとは思うのだが、このニュースを読んでいる最中、おれの脳は、おれが静止する間もあらばこそ、娘の台詞を反射的に英訳してしまったのだった――

 

I cannot tell a lie. I did it with my little hatchet.



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2007年9月18日 (火)

『英会話上達法』ふたたび

 ずいぶん前になるが、おれが高校生のころに影響を受けた名著『英会話上達法』倉谷直臣/講談社現代新書)を日記に取り上げたことがある。その後、それを発見なさった倉谷先生ご本人からメールを頂戴して驚いたりしたこともあった。

 最近はどんな活動をしてらっしゃるのだろうと、ひさびさに検索してみたら、倉谷先生、この春から「NK @ Global Village」というブログをはじめていらして、こいつが滅法面白い。『このブログは、私の「新・英会話上達法」です』とおっしゃっているとおり、あの『英会話上達法』の倉谷先生そのままの、反骨と諧謔に溢れた斬れ味のよい文章が楽しめる名ブログである。

 「学校英語をナメてはいかんぞ! (01-15) 」なんてエントリーは、痛快きわまりない。『「ネイティブも知らないような」という前に、ネイティブは知らないことをまず恥じなさい!』なんて啖呵は、不良ガイジンを奉ってチーチーパッパをやってるだけの薄っぺらな英語教師には、なかなか切れるもんじゃありませんぞ。考えてもみればよい。あなたが、外国人にわかりやすいように、本質を論理的に剔抉した視点で、正しい日本語を教えられるかを……。そんなことは、おれにはとてもできん。おれ以上に日本語に詳しい外国人になら、素直に教えを乞いたいと思う。そういうことなのだ。

 このブログ、なんでももうじき本になるとのことで、じつに楽しみだ。もう、デフォルトで買いだな。子供たちを、母国語も満足に操れないうえに似非英語を刷り込まれただけの根無し草にしようとする風潮に一石を投じる快著になることだろう。



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2007年8月28日 (火)

まず、日本語がヘンじゃないか、文部科学省?

高校英語:コミュニケーション重視に 文科省 (MSN毎日インタラクティブ)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070828k0000m040090000c.html

 今年度内に予定される学習指導要領改定の一環として文部科学省は27日、高校で教える英語の科目構成を「コミュニケーション英語」(仮称)に統合する案を中央教育審議会教育課程部会外国語専門部会に提示した。コミュニケーション能力や発信力の向上が狙いで、新科目はレベルに応じて「基礎」「I」「2」「3」に分ける方針。

 ぎゃー! なんだその名称は! 「コミュニケーション英語」って、あのな~~~! コミュニケーション以外に言葉ってなんに使うんだ!? 馬から落馬してないか? What else is a language for??

 たとえ無人島でたったひとりで沈思黙考していたとしても、人間は言語をインタフェースとして“世界”とコミュニケートしているのだ。無数の切り取りかたができるこの“世界”を、とりあえず、ある切り取りかたで認識することを選び取っているのである。多少なりとも言語というものに向き合った人間の頭から、「コミュニケーション英語」などという奇ッ怪な言葉が出てくるとはとても思えない。「仮称」とはいえ、いったいどんな薄っぺらな見識の役人が、こんな不可解で汚らしい言葉をひねくり出したのだろう?

 仮称でさいわいだ。こんな言葉、本番の教育現場では絶対に使うなよ。それこそ学生の言語感覚がおかしくなるわい。そんなケッタイな教科名で教えるくらいなら、その時間で神林長平を読ませたほうが、言語とコミュニケーションについてずっと深く有意義な認識が得られることだろう。



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2007年8月10日 (金)

ダル愛の詩

 アーノルド・シュワルツェネッガーのことをマスコミが「シュワ氏」と書くのもたいがいやなーといったことを以前書いたんだが、ダルビッシュ選手のことを「ダル」ですませるのは、もっとたいがいやなーと思う。なんちゅうか、『坊ちゃん』野だいこ「野だ」になっちゃうのにも似た、独特の力業感が漲っている。