「政治生命を賭ける」やつと「土下座をする」やつは、問答無用で落とそう
「政治生命を賭けて」などという言葉をやたら使う木っ端政治家がなぜかよくテレビに出てくるのだが、こういう言葉を平気で使うこと自体が、「私は視野狭窄でございます」と大声で喧伝しているようなものだと、なぜわからないのだろう?
「命を賭けて」という言葉がある程度の重みを持つのは、そういう言葉を聞くほうにも、「命は大切な、とても重いものだ」という認識が共有されているからである。そんな重いものだからこそ、それを守るために超法規的措置が取られたとしても、みな、そこそこ納得するのだ。
ところが、“政治生命”などというものは、当事者以外の人間にとっては屁のような、どうでもいいものである。そんなものを、さも普遍的に大切なものであるかのように恩着せがましく賭けて見せられたところで、「だからどうした?」と思うのが大多数のふつうの人だ。つまり、「政治生命を賭けて」などという言葉を使う人間は、そんなあたりまえのふつうの人の感覚を欠いている、あるいは、最初からそんなものは持ち合わせていないのである。
テレビ画面の中で「政治生命を賭けてどーたらこーたら」とニューハーフのブタみたいな顔の政治家がほざいていると(最近知ったのだが、どうやらこの男はいまの首相らしい)、おれはいつも「勝手に賭けてろ、アホンダラ」とツッコむ。
百歩譲って、“政治生命”なるものの大切さ(?)がそこいらへんの国民にも多少なりとも共有されているとしよう。だとしても、その大切なものは、政治家が自分で造り出したものではない。選挙権という、誰もが平等にちょっとずつ持っている“政治生命”が、政治家にまとめて預託されているにすぎない。いわば、政治家にとって、その“政治生命力”のすべては、人様からの大切な“預かりもの”なわけである。
そうやって政治生命をかき集めたときに言っていたことをケロリと忘れて、または、憶えているがいけしゃあしゃあと忘れたふりをして、人から預かった政治生命を勝手にヘンなものに賭けないでほしい。おまえの政治生命はおまえのものじゃないのだ、野田(あ、言うてもた)。
人様の政治生命をかき集めるときだけは、たとえば片山さつきのように土下座をしてみせたりする人もいる。これも失礼きわまりない話で、政治家が絶対にやってはならないことだ。土下座をするということは、「有権者なんてものは、土下座のひとつもして見せれば簡単に情にほだされて騙されるやつらなのだ、けけけけけ」と考えていることの証であり、これ以上に有権者を見下した行為はない。「おまえらみたいな阿呆が、私よりも劣るくだらない政治家にばかり票を投じているからろくな世の中にならないのだ。少しでも周りの阿呆よりもましな半馬鹿は、私に票を投じてみやがれ!」と、有権者を面罵するほうが、はるかに誠実である。
というわけで、早晩、選挙があるだろうが、軽々に「政治生命を賭ける」阿呆と、軽々に土下座をする傲慢で狡賢いやつには、絶対に議席を与えてはならない。この二種だけは、なにも考えずに、自動的に除外してよろしかろう。
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