カテゴリー「言葉」の150件の記事

2012年7月 4日 (水)

「政治生命を賭ける」やつと「土下座をする」やつは、問答無用で落とそう

 「政治生命を賭けて」などという言葉をやたら使う木っ端政治家がなぜかよくテレビに出てくるのだが、こういう言葉を平気で使うこと自体が、「私は視野狭窄でございます」と大声で喧伝しているようなものだと、なぜわからないのだろう?

 「命を賭けて」という言葉がある程度の重みを持つのは、そういう言葉を聞くほうにも、「命は大切な、とても重いものだ」という認識が共有されているからである。そんな重いものだからこそ、それを守るために超法規的措置が取られたとしても、みな、そこそこ納得するのだ。

 ところが、“政治生命”などというものは、当事者以外の人間にとっては屁のような、どうでもいいものである。そんなものを、さも普遍的に大切なものであるかのように恩着せがましく賭けて見せられたところで、「だからどうした?」と思うのが大多数のふつうの人だ。つまり、「政治生命を賭けて」などという言葉を使う人間は、そんなあたりまえのふつうの人の感覚を欠いている、あるいは、最初からそんなものは持ち合わせていないのである。

 テレビ画面の中で「政治生命を賭けてどーたらこーたら」とニューハーフのブタみたいな顔の政治家がほざいていると(最近知ったのだが、どうやらこの男はいまの首相らしい)、おれはいつも「勝手に賭けてろ、アホンダラ」とツッコむ。

 百歩譲って、“政治生命”なるものの大切さ(?)がそこいらへんの国民にも多少なりとも共有されているとしよう。だとしても、その大切なものは、政治家が自分で造り出したものではない。選挙権という、誰もが平等にちょっとずつ持っている“政治生命”が、政治家にまとめて預託されているにすぎない。いわば、政治家にとって、その“政治生命力”のすべては、人様からの大切な“預かりもの”なわけである。

 そうやって政治生命をかき集めたときに言っていたことをケロリと忘れて、または、憶えているがいけしゃあしゃあと忘れたふりをして、人から預かった政治生命を勝手にヘンなものに賭けないでほしい。おまえの政治生命はおまえのものじゃないのだ、野田(あ、言うてもた)。

 人様の政治生命をかき集めるときだけは、たとえば片山さつきのように土下座をしてみせたりする人もいる。これも失礼きわまりない話で、政治家が絶対にやってはならないことだ。土下座をするということは、「有権者なんてものは、土下座のひとつもして見せれば簡単に情にほだされて騙されるやつらなのだ、けけけけけ」と考えていることの証であり、これ以上に有権者を見下した行為はない。「おまえらみたいな阿呆が、私よりも劣るくだらない政治家にばかり票を投じているからろくな世の中にならないのだ。少しでも周りの阿呆よりもましな半馬鹿は、私に票を投じてみやがれ!」と、有権者を面罵するほうが、はるかに誠実である。

 というわけで、早晩、選挙があるだろうが、軽々に「政治生命を賭ける」阿呆と、軽々に土下座をする傲慢で狡賢いやつには、絶対に議席を与えてはならない。この二種だけは、なにも考えずに、自動的に除外してよろしかろう。



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2012年1月31日 (火)

いろんなところにスジ者が……

 奈良先端科学技術大学院大学が開発した「ワンクリック見積&データ品質診断ツール」の名は「Magi」である。まさか、これを見て、「ああ、研究者の中に敬虔なキリスト教徒がおるのだろうなあ」と思う人は、ウチのブログの読者には、まずいないと思う。きっと、二十代後半くらいの“エヴァンゲリオン、どストライク世代”の研究者がネーミングしたんだろうねえ、と推測するのがふつう(?)である。このシステムは協調フィルタリングを使っているので、「ああ、メルキオールとバルタザールとカスパーとが協調するってネタなのね」くらいの推測は誰でもするであろう(どこの「誰でも」だよ、それは)。

 はたまた、楽天技術研究所が開発したレコメンドエンジンの名は、「5ten(ごうてん)」だったり、「0-HO(れいせんほう)」だったりする( http://el.jibun.atmarkit.co.jp/rakuten/2009/11/post-7414.html )んだが、これは相当好みが渋い。エヴァンゲリオン世代よりは、ずっと歳を食っている感じだ。まあ、若いやつにも『海底軍艦』のファンはおるだろうけど、どういうネーミングセンスだ、これは。

 まあ、なんにせよ、世の中、いたるところに“スジ者”が潜んでいるということはたしかなようだ。


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2011年8月30日 (火)

奪った命はどこへゆく?

 「命を奪う」という表現がある。べつになにがどうまちがっているわけでもなく、じつに頻繁に使われているし、おれも使う。だが、ちょびっと頭の隅でいつも気になっていることがある。

 たとえば、「財布を奪う」などの場合、財布は奪った者の手に移るわけである。だが、「命を奪う」場合、奪われる者は財布と同じように命を失うのだが、奪ったほうの手に命が移るわけではない。命はただ消えてなくなるだけである。これを果たして、「奪う」と能動的に表現してしまっていいものなのだろうか――と、いつも悩むのだ。もしかしたら、命などは、「奪われる」ことだけが可能であって、「奪う」ことはできないのではなかろうか?

 幸福なんかもそうだ。「あの男が私たちの幸福を奪ったのよ」と言う場合、私たちが幸福を失ったことは事実かもしれないが、じゃあ、私たちの占有を離脱した当該の幸福を「あの男」が横領することによって、「あの男」がそのぶんの幸福を享受しているのかというと、たぶんそんなことはない。

 もしかしてもしかすると、むかしは「命を奪う」「幸福を奪う」といった場合には、このような能動表現はなかったのではなかろうか? 「命を奪われる」「幸福を奪われる」などと受動的な表現のみが使われているうちに、能動表現のほうがあとから生まれたなんてことはあるまいか?

 むろん、いつものように、これはズボラなおれの想像にすぎない。気になる方は、ご自分で調べてみていただきたい。どこかの国語学者の方などが、とうのむかしに研究なさっていることなのかもしれない。

 同じ「奪う」でも、奪った者の手元に残らないようなものを奪うほうが、より罪深いと言えよう。財布は返すことができるが、命や幸福は、奪った者にも返すことができないからだ。


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2011年7月 5日 (火)

なにを「ご理解いただきたい」のか?

 五十年近くこの国で生きてきておれが学んだことのひとつに、「理解」という言葉を主にどのように用いるかで、日本人はおおまかに二種類に分類できるということがある。

 たとえば、「ご理解いただきたい」と口にする場合、日本人の多数派は、「私はこんなにがんばっていて、私にもいろいろ事情があるのだから、事実関係は二の次にして、私の立場に身を置き、あたかも私になったかのように、私の気持ちをわかって私を許してほしい」という意味で言っている。とくに日本の政治家は、十中八九、こういう意味で「理解」を使う。

 だが、日本人の少数派(おれ自身はこちらに属するようだ)が「ご理解いただきたい」と言う場合、「2足す2は4であり、三角形の内角の和は180度であり、エネルギーは質量と光速の自乗との積で表され、虚数単位と円周率の積を指数としネイピア数を底とした冪乗に1を足すと0に等しくなる云々……という事実を把握してほしい」という意味である。

 この二種類の人々はいずれも、「理解」という言葉を自分たちが使っている意味以外で使う人種がいるなどとは夢にも思っていないのが常である。だから、「ここはぜひご理解いただきたい」「だって、2足す2は4じゃないですか」などといった不毛な会話(?)がえんえんと繰り広げられたりするのである。これはもう、ほとんど異星人同士の会話であって、互いに理解(?)し合えることなどまずない。おれは、この根本的な世界把握の様式の相違が、日本人が本来持つ能力の発揮を、大いに妨げていると思っている。

 おれ個人は、「私の気持ちをわかってほしい」などという意味で「理解」という言葉を使うのは、努めて廃していったほうがよいと思う。それは「理解」などではなく、むしろ「情解」とでも呼ぶほうが適当なのではあるまいか? ほかにもっといい言葉があるかもしれないけど。

 「日本人同士なのだから日本語が通じるのはあたりまえだ」といった思い込みをまず疑おう。「“理解”という言葉は、こういう意味で使おう」という共通の了解にまず立脚しよう。子供たちには、「それは君の気持ちや希望や推測なのか、それとも検証された事実なのか」をきちんと分けて認識するように叩き込もう。

 「理解」すら、みなが同じようには理解していないのだ。


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2011年1月30日 (日)

政府は英語禁止令を発令せよ!

 昨日のエントリー「もう小学生から英語を教える必要はなくなった」にどえらいアクセスがあって仰天している。みんなけっこう英語教育に興味あるんだなあ。

 で、SFファンの常としてですな、まず逆を考えてみるという条件反射が発動した。みんな、たとえば、いまの政府が“英語禁止令”を出したとすれば、素直に従いますかい? 従わねーよなー、絶対。もしそんなおふれが出たとすれば、「これはきっと、アホ国民どもにニューヨーク・タイムズやらガーディアンやらを読まれては困るという政府と官僚と記者クラブメディアの陰謀にちがいない」と疑って、みんなこっそり必死で英語を勉強しはじめるはずだ。

 だから、日本国民に国際競争力をつけさせようと政府が思うのであれば、政府はなにはともあれ“英語禁止令”を出すべきなのである。そうすれば、「これはいよいよ、英語ができなければほんとうにヤバいにちがいない。いまの日本政府や日本のアホマスコミの言うことしかわからないなんてのは、とんでもなく怖ろしいことだ」と、多くの日本国民が目覚め、海外メディアから直接英語で情報を取りたがるようになるにちがいない。

 日本人の英語力を底上げするには、これが最良のアイディアだとおれは思うのだがどうか。政府は“英語禁止令”を出せ。ほれ、あなたの子供のころを思い出してみるがよい。「子供がこんなもの読んじゃだめだ」と言われたものほど、隠れて必死で読んだものじゃないか? 大人が読んじゃだめだと言うものを読もうとする子供がいなくなったら、それこそ亡国の兆候である。

 だから、ここを読んでいる子供たちよ、英語なんか勉強しちゃダメだぞ。海外の新聞なんか、絶対読めるようになっちゃいけない。そのほうが君たちにとっては、ずっとしあわせなんだ。ゆめ、疑うことなかれ。いひひひひひひひひひ。


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2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


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さっき、ほんとうに見た悪夢

 こんな夢を見た。

 大便がしたくてトイレを探している。いや、おれはすでに便所にいるのだが、個室のドアがどれもこれも閉まっていて先客がいるのだ。ゆけどもゆけどもドアには赤い印が出ている。

 あっ、あった。空いていた!

 おれはその個室に飛び込みドアを閉めた。ふりむくと、便器にはなにかがいっぱい詰まっている。

 “ソリューション”だ。

 便器には“ソリューション”がてんこ盛りに詰まっていて、とてもじゃないが用を足すどころではない。それが具体的になんなのかは夢のこととてよくわからないのだが、おれにはそれが“ソリューション”であることだけはわかっているのだった。

 いったいどこのどいつだ、“ソリューション”を流しもせずに放っていったのは!?

 おれは水洗のレバーを「大」のほうに倒し、ひたすら“ソリューション”を流そうとするのだが、どうしたことか流せば流すほど“ソリューション”はもこもこと盛り上がってきて、やがて便器から溢れ出した。

 おれが欲しいのは“ソリューション”じゃないんだ!

 おれはただ……ただ、ウンコがしたいだけなんだ!!


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2011年1月25日 (火)

「へんく」??

 日常的に関西弁を使う方々にお尋ねしたい。

 たとえば、標準語で「見えなくなる」というのを、あなたは関西弁でどう表現するだろうか?

 おれなら、「見えへんようになる」「見えんようになる」と言う。おおかたの年配の関西人はそうだと思う。

 が、近年、若い関西人のあいだには、「見えへんくなる」という表現が広まっているように思いませんか? しばしばこいつに遭遇して、「う~む」と考え込んでしまう。なんなんだろうね、これは? 標準語と関西弁のチャンポンなんだろうか? 言わんとすることはわかるし、面白い表現だとは思うが、自分ではまず使わんだろなあ。違和感が抑えきれない。

 むかしに比べて、全国ネットのテレビで関西人が関西弁で活躍することがずっと増えたせいだろうか、関西弁がどんどん標準語を侵略しているかのように感じていたんだが、どうやら逆の流れもあるのかもしれない。関西弁としては不自然な言いまわしが、標準語から入ってきているケースもあるんじゃなかろうか。


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2010年11月28日 (日)

トイレのコオロギ

 むかーしむかし、おれが子供のころ、トイレには花子さんもいなければ、それはそれはきれいな女神様もいなかった。汲み取り式だったアパートの一階のトイレには、べつのものがいたのだ。

 カマドウマである。いや、「カマドウマ」などというのは、あとから図鑑で知った“よそゆき”の呼称であって、関西の人間はみな、日常的にはアレを「便所コオロギ」と呼び慣わしていた。そう呼ばれるほど、汲み取り式の便所の周辺には、決まって見かけたものだった。

 それにしても、カマドウマのほうにしてみれば、いい迷惑である。公式に呼ばれたとしても、馬でもないのに「竈馬」と呼ばれ、俗に呼ばれたとしても、コオロギでもないのに「便所コオロギ」と呼ばれる。常に、自分はなにかの“パチもん”であるかのように呼ばれるのだ。

 まあ、たしかに昆虫のくせに翅が全然ないところが、ゴキブリの幼虫のでかいやつのような印象を与え、遭遇するとかなり不気味ではあるが、人間に実害がさほどあるわけでもない。なのに、まるで害虫であるかのように、駆除の対象になったりする。じつに気の毒なやつらではある。

 カマドウマを自宅のトイレ付近に見かけたような世代は、たぶん都市部なら四十代以上、田舎なら三十代以上くらいじゃないかと思うが、植村花菜がカマドウマをトイレで見たことがあるかどうかはさだかでない。でも、彼女もベタベタの関西だし、年齢的にはギリギリ「便所コオロギ」って言いかたが通じるんじゃないかなあ。

 植村花菜が『大竹まこと ゴールデンラジオ』にゲスト出演したとき、「最近、いちばん嬉しかったことはなんだったか?」と問われて、『探偵!ナイトスクープ』に出られたこと」と答えていたのは、じつに微笑ましかった。「ああ、このコは、ほんまに関西のコぉや」と、ポッドキャストで聴きながら大笑いしそうになった。

 ひょっとしたら、植村花菜は、紅白歌合戦に出られることよりも、『探偵!ナイトスクープ』に出られたことのほうが、じつは内心嬉しいんじゃないかと思ったりする。きっと、彼女のお婆ちゃんも、生きていたらそう思うんじゃなかろうか。


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2010年7月 8日 (木)

反社会的勢力

 「反社会的勢力」って言葉をよく聞くのだが、これは具体的にはどういうものを指すのだろう?

 おそらく暴力団などの婉曲表現だと思うんだが、暴力団って「反社会的勢力」なんだろうか? 暴力団ほど社会に依存している勢力もそうそうないと思う。どこぞの無人島を買い取って組員全員で移り住み、まったくの自給自足生活をしている暴力団なんてものがもしあったら、ある意味それは「反社会的勢力」かもしれん。なにしろ、島民全員が暴力団なのだ。暴力団であることの意味を失うほどに「反社会的」であると言えよう。

 でも、実際には、暴力団というのは、暴力団でない部分の社会に依存し、また、暴力団でない部分の社会のほうでも、ある種の局面では暴力団を必要とし利用することもある(からこそ、暴力団はなくならないのだ)。暴力団が「社会的」な存在でなくてなんだと言うのだろう。

 そう考えると、おれみたいな、出不精で非社交的で独りでいることがなんの苦にもならないといったやつのほうが、暴力団よりよっぽど「反社会的勢力」なのではないか。ま、「勢力」と呼ぶに足るパワーはないわけだが。



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