カテゴリー「ニュースネタの戯言」の536件の記事

2012年7月 4日 (水)

「政治生命を賭ける」やつと「土下座をする」やつは、問答無用で落とそう

 「政治生命を賭けて」などという言葉をやたら使う木っ端政治家がなぜかよくテレビに出てくるのだが、こういう言葉を平気で使うこと自体が、「私は視野狭窄でございます」と大声で喧伝しているようなものだと、なぜわからないのだろう?

 「命を賭けて」という言葉がある程度の重みを持つのは、そういう言葉を聞くほうにも、「命は大切な、とても重いものだ」という認識が共有されているからである。そんな重いものだからこそ、それを守るために超法規的措置が取られたとしても、みな、そこそこ納得するのだ。

 ところが、“政治生命”などというものは、当事者以外の人間にとっては屁のような、どうでもいいものである。そんなものを、さも普遍的に大切なものであるかのように恩着せがましく賭けて見せられたところで、「だからどうした?」と思うのが大多数のふつうの人だ。つまり、「政治生命を賭けて」などという言葉を使う人間は、そんなあたりまえのふつうの人の感覚を欠いている、あるいは、最初からそんなものは持ち合わせていないのである。

 テレビ画面の中で「政治生命を賭けてどーたらこーたら」とニューハーフのブタみたいな顔の政治家がほざいていると(最近知ったのだが、どうやらこの男はいまの首相らしい)、おれはいつも「勝手に賭けてろ、アホンダラ」とツッコむ。

 百歩譲って、“政治生命”なるものの大切さ(?)がそこいらへんの国民にも多少なりとも共有されているとしよう。だとしても、その大切なものは、政治家が自分で造り出したものではない。選挙権という、誰もが平等にちょっとずつ持っている“政治生命”が、政治家にまとめて預託されているにすぎない。いわば、政治家にとって、その“政治生命力”のすべては、人様からの大切な“預かりもの”なわけである。

 そうやって政治生命をかき集めたときに言っていたことをケロリと忘れて、または、憶えているがいけしゃあしゃあと忘れたふりをして、人から預かった政治生命を勝手にヘンなものに賭けないでほしい。おまえの政治生命はおまえのものじゃないのだ、野田(あ、言うてもた)。

 人様の政治生命をかき集めるときだけは、たとえば片山さつきのように土下座をしてみせたりする人もいる。これも失礼きわまりない話で、政治家が絶対にやってはならないことだ。土下座をするということは、「有権者なんてものは、土下座のひとつもして見せれば簡単に情にほだされて騙されるやつらなのだ、けけけけけ」と考えていることの証であり、これ以上に有権者を見下した行為はない。「おまえらみたいな阿呆が、私よりも劣るくだらない政治家にばかり票を投じているからろくな世の中にならないのだ。少しでも周りの阿呆よりもましな半馬鹿は、私に票を投じてみやがれ!」と、有権者を面罵するほうが、はるかに誠実である。

 というわけで、早晩、選挙があるだろうが、軽々に「政治生命を賭ける」阿呆と、軽々に土下座をする傲慢で狡賢いやつには、絶対に議席を与えてはならない。この二種だけは、なにも考えずに、自動的に除外してよろしかろう。



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2012年7月 2日 (月)

〈週刊文春〉の話題で持ちきり

「あ、そうそう、〈週刊文春〉読んだ?」

「読んだ読んだ。まったく、あれはひどいなあ」

「ああ、あれか、おれも読んだよ。ちょっと叩きすぎだよね」

「むかしの話なのにねー」

「一度は好きになった相手だろうに。あの言いぐさはないわ」

「でも、ゆきずりの関係だったんだろ?」

「いや、しばらくつきあってたそうだよ」

「いやいや、すごく長いつきあいだろう」

「あの手紙、ホンモノなのかなあ?」

「手紙? メールだろ」

「なんであんなに叩かれるんだろう。そりゃまあ、それほど美形じゃないにしても、よく見ると愛嬌があるんだけどなあ。おれは好きだよ、美脚だし」

「愛嬌あるかあ? ガマガエルみたいで怖いけどなあ。美脚なのか、あの人??」

「誰が見ても、きりっとした美形だと思うけどなあ。たしかに脚はまだまだ逞しいし、尻なんかきゅっと上がってて、さすが鍛えた感じだよね」

「よく一億なんてポンと出せたなあ」

「え? 四億じゃなかったっけ?」

「おれは二十五万って聞いたけど」

「博多に移籍しちゃうんだろ? ほら、若田部のとこ。ちょっとかわいそうだなあ」

「ええっ、ホークスから声がかかってたのか? 若田部はもう現役じゃないだろ」

「おれは離党するって聞いたけどなあ」

「でもまあ、なんだかんだ言っても、ヘタレでもがんばってるとこがいいよね」

「そうだな、ヘタレだけどがんばってるな」

「たしかに、あのヘタレでもなんとかなってると思うと、気が楽になるな」



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2012年7月 1日 (日)

ラブソングの刺青

知事 「市の教育委員会が先日から調査を進めておりましたが、やはり出てきてしまいました。刺青をしている教職員が十名ほどおります」

市長 「なんとな……。いるんじゃなかろうかとは思っていたが、やっぱりいたか。そいつらは、たとえば、どんな刺青をしているのだ?」

知事 「ある者などは、古いラブソングの歌詞を彫っております。“君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで”などと」

市長 「……不思議だ。その歌、どこかで聴いたような気がする」

知事 「……わかりました。われわれの遺伝子提供者たちのカールチューンが呼び覚まされているのです」

市長 「なに!?」

知事 「五十万周期の時を超えて」



市長 「大阪市長から市教育委員会へ、大阪市長から市教育委員会へ。これより貴会を援護する」

教育委員会 「――援護!?」

知事 「プロトカルチャーの文化を失うわけにはまいりません」

桂三枝 「プロトカルチャーの文楽は? 守らんと続かん藝もありますさかい」


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2012年5月21日 (月)

♪You は食! 月で日が隠れてる

Solar_eclipse_20120521_3 千円のムックに付いてた紙製の日食メガネをコンデジに当てがい、通勤途上に手持ち連射で撮影。連射だから解像度は低い。ま、記念としてはこんなもんでしょ。京都では、右下がぎりぎりかろうじて繋がるくらいの金環。

 きっちり晴れているのに、ただただあたりの光量だけが落ちてゆくというのは、じつに奇妙な体験だった。まるで晴れの日に外出している夢を見ているかのようだ。おれは北欧なんて行ったことないけど、あるいは白夜ってのはこんな感じなのかもしれんな。

 わが日の本の国には、このところずいぶん翳りが見えてきているが、なあに、この日食で底を打ったことにしておこう。明日という字は、明るい日と書くのだ。


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2012年4月23日 (月)

怒りのあまり暴徒と化した場合の心がけ

 おれは、まず脱原発をゴールとしっかり決定し、それが完了するまでのあいだは、危険性の少ない炉から博打を打って再稼働しろ(どのみち、動いていようが止まっていようが、廃炉を完了しないかぎり、危険性は大きくは変わらない)という考えだが、今回の大飯再稼働の政府の手順はあまりにもむちゃくちゃで、たいへん心配している。

 なにを心配しているかというと、もし大飯でまた福島に匹敵するようなことが起こったら、さすがにおとなしい日本人も黙っていないだろうということだ。そらみたことかという怒りのあまりに感情の箍が外れた一部の人々が暴徒と化し、今回むちゃくちゃな手順で再稼働を推し進めた政治家どもを吊るしにかかるだろう。事故の翌朝には、野田仙谷枝野細野はズタボロの肉塊と化し、ムッソリーニのように永田町の路傍に逆さ吊りにされていることだろう。道行く人はその肉塊に石ころや人糞を投げつけてゆくかもしれない。

 まあ、不誠実な嘘つき政治家どもはべつに吊るされてもいいのだが、おれがほんとうに心配しているのは、原子力関係の科学者や技術者たちである。民衆が怒りにまかせて彼らまで吊るしてしまったら、直近の事故に対処できる人材が減るし、廃炉のために働いてもらわねばならない人材も減る。そうなったら、もうどうしようもない。

 だから、これからもし、政治家がめちゃくちゃな手順で強引に再稼働した炉になにかあっても、そりゃまあ、お怒りになるのはごもっともだが、科学者や技術者は軽々に吊るしたりしないでほしい。その怒りは、政治家や官僚に向けてほしい。腹立たしいことではあるが、学者や技術者たちには、ケツを拭いてもらわなくてはならない。何十年かかるかわからないが、きちんと全炉を廃炉にするには、たとえこれから原発事故が何回か起こったあとであっても、ちゃんと原子力分野の学者や技術者を新たに養成してゆかねばならないのだ。現状レベルの政治家の代わりなんていくらでもいるが、社会から白い目で見られながら、終わってゆく分野に一生を捧げようと研究・研鑽してくれる科学者や技術者は、今後はそうそう出てこない。かけがえのない存在だ。

 というわけで、もしあなたが暴徒と化した場合でも、たまたま目に入った科学者や技術者の脳天をかち割ろうと振りかぶったゲバ棒(いつの言葉だよ)をぐっとこらえて、嘘つき政治家や自己保身官僚のほうに振り下ろしていただきたい。


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2011年8月27日 (土)

放射線被曝健康法(※個人の感想です。効果には個人差があります)

「低線量の放射線被曝は、むしろ健康によい」という説がある。おれは専門家じゃないから、これを肯定したり否定したりする研究をする能力はないが、素人でも素朴に不思議に思うのは、「むしろ健康によい」のであれば、これを金にしようとする人が出現しないはずがないということである。「低線量なら、浴びてもさしつかえない」というんじゃなくて、積極的に健康を増進する効果があると言っているわけだろう? だったら、なぜ商売にしないのだろう?

 たしかに、ラジウム泉やらラドン泉やらといった、ある種の温泉などは、低線量の被曝による健康増進効果を期待して商売にしているわけだ。でも、温泉なんて、わざわざこちらから湯治に出かけてゆかねばならない。大きく儲けるには、誰もが手軽にいつでもどこでも低線量被曝の恩恵に浴すことができるような、流通可能な商品を開発したほうがいいのではないか。おお、ビッグビジネスの予感!

 そこで提案である。福島あたりの学校の校庭の隅っこに積んである、汚染された土やら砂やらがあるじゃないか。あれをですな、「低線量の放射線被曝は、むしろ健康によい」説を唱えている学者先生たちに監修してもらって、健康によい程度の分量を割り出し、食品に加工して販売するのである。ただそれだけでは売れないから、そこはそれ、こうした学者先生方の力をお借りして、特定保健用食品の認可を取る。「むしろ健康によい」程度の放射性物質を含んだ食品は、「条件付き特定保健用食品」としてなら認可される可能性は充分あるのではなかろうか?

 むろん、これを実現するには、産業廃棄物関連の法律をはじめ、いくつかの法律を改正しなくちゃならないだろうけれども、放射能汚染された瓦礫の山が健康食品の原料として宝の山に化けるのであれば、骨を折ってくださる議員さんはたくさんいるはずだ。

 特保が取れたら、有名人にCMに出てもらうのもいいだろう。「いやあ、うまい! カイワレはこれくらい汚染されているのが、むしろ健康にいいんですよ!」と、お遍路さん姿の菅直人ににっこりと言ってもらえれば売り上げ倍増である。あるいは、スポーティーな自転車を駆って躍動感たっぷりに現れた元科学技術庁長官/元原子力委員会委員長谷垣禎一が、ペットボトルを咥えて天を仰ぎ、喉仏をダイナミックに上下させながらごくごくと特保のスポーツドリンク「プルト君」を飲み干すというCMも、運動不足の中年層にアピールしそうだ。

 なにも食品や飲料ばかりが銭儲けの種ではない。旅行会社は、“放射線浴”を楽しめるツアーをなぜ組まない? もちろん、件の学者先生方にお願いして、「むしろ健康によい程度に汚染されたエリア」をピックアップしていただき、ツアーにもご同行いただこう。「◯◯先生監修! むしろ健康によい程度に被曝できるマイルドホットスポットめぐり」なんてのはどうだろう?

 いやいやいやいや、誤解してもらっては困る。おれはなにも、「むしろ健康にいい」と世のため人のためを思って無知蒙昧なおれたちを啓発してくださる先生方を茶化しているのではないのだ。ちょっとでも健康によさそうなものがあれば片っ端から商売にするビジネスマンたちが、なぜもっと商売気を出さないのか、いささか義憤すら覚えているのである。

 え? 実現したら、利用してくれるかって? いや、おれはべつにそのあの、そういうむしろ健康によいものを進んで飲み食いするほどには健康に気を遣ってないから、いいよいいよ、いいってば。どうせ独り身だ。日光浴もあんまり好きでないくらいなので、放射線浴も遠慮したい。バカだなあ、遠慮しないで、むしろ健康によいのにって、いやいやいやいや、だからおれなんかはいいから、もっとこう、健康に気を遣っている、妻も子もある人たちに薦めてあげて。


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2011年8月12日 (金)

前年同月から36パーセント減の節電に成功

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 8月分(7月14日~8月11日)の電気使用量が、前年同月を100とした場合、64ですんだ。どっしぇー。4,416円ちがうってのはでかい。

 先日書いたように、やっぱり冷蔵庫を変えたのがいちばん影響しているとは思うが、ほかに去年と変わっているのは、地デジ化によりテレビが二台新しくなったことか。一台は以前よりでかくなり、一台は以前より小さくなった。差し引き、けっこう消費電力は下がったのだろうな。あとはまあ、エアコンの設定温度をほとんどの場合は28度にして、扇風機を併用し空気をかき回すという、おなじみの使いかたに徹しているだけだ。

 無理すれば、夏場は前年同月比で四割減くらいの節電もできそうだが、がんばりすぎて身体を壊したのでは元も子もない。無理なく、三割減くらいの線をキープしよう。それにしても、扇風機って電気食わないもんだな。

 煙草はやめたわ、節電は大幅にできるわで、どんどん金が貯まっていっても不思議はないのだが、そういう実感はない。そりゃそうだ。むしろ昨年から今年にかけて、否応なしに家電製品を買わなければならないことが多く、出費が多い。節電で元を取るのはこれからである。


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2011年7月21日 (木)

放射能をどう“うまく塗り広げる”かが問題だ

 「水拭きは雑菌を塗り広げているだけ」みたいな事実を述べて脅す除菌用アルコールの宣伝があるが、まさに放射性物質ってのは、“塗り広げる”しかない。それそのものを消滅させる手段を、まだ人類は手にしていないのだから。手にするには、ご存じのように、二十九万六千光年の旅をしなければならないのだ。“除染”というのは、要するに、できるだけ人間に害のないように、うまく放射性物質を塗り広げることを言う。

 そう考えれば、いまの日本にとっては、特定の狭い地域だけが放射能に汚染されているよりも、放射性物質が日本中にまんべんなく塗り広げられたほうが、みなが問題をわがこととして捉えるようになってよいと思う。原発の恩恵を受けてきたおれたち爺さん・婆さんはともかく、なんの罪もない子供たちにはまことに申しわけないけれども。

 放射性セシウムに汚染された牛肉の話でやたら日本中が騒いでいるが、なにをいまさらである。それ自体はたいした問題ではない。いや、たいした問題なのだが、ほかにも同等のたいした問題がうようよ存在しているのは当然なので、とくにそれだけを取り上げているのが不可思議でしかたがないだけである。よもや、牛肉だけが汚染されているなどとおめでたいことを考えている人が多数派だとはとても思えない。

 放射性物質が塗り広げられてゆくのを避けることはできない。いかに子供たちや若者に害のないように放射性物質を塗り広げるかを、人生の折り返し地点を過ぎているであろうおれたちは考えねばならないのだ。消し去ってしまうことはできないのだから、どこかをきれいにすれば、どこかが汚染されるのだ。若い人たちに近づきそうな放射性物質は、おれたちのほうへ塗り広げるような方策をいろいろ考えなきゃならん。

 もはや、放射性物質にまったく汚染されていないものを食おうなどと贅沢なことを考えてはならない。いかにきれいなものを若い人に食わせ、いかに汚染されたものをおれたち年寄りが率先して食うか ―― そういう社会システムを構築してゆかねばならないのだ。汚染されているかいないかというフリップフロップ(二者択一)な考えではもうダメだ。どの程度汚染されているのかという考えかたと、日本人はこれからずっとつきあってゆかねばならないのだ。


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2011年7月15日 (金)

前年同月から16パーセント減の節電に成功

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 7月分(6月14日~7月13日)の電気使用量が、前年同月を100とした場合、84ですんだ。やればできる。

 しかし、だ。じつのところ、おれが家にいる夜の時間帯にせっせと節電したところで、あまり意味はなかろう。だがまあ、今回の原発事故は、日本の原子力行政下であればいつか必ず起こると確信してはいたものの(おれの生きてるあいだに起こってほしくはなかったが。惜しい、もうちょっとだったのに)、やはり実際に起こってみると、改めておれに水をぶっかけてくれた。

 たとえ電気があり余っていようが、野放図に使うよりはセーブするほうがいいに決まっている。電気にかぎらない。なんだってそうだ。おれの子供のころには、そういう価値観があった。それが、いつしか「ふんだんにあるものは野放図に使ってもよい」という価値観に、まだ日本がそれほど豊かではなかったころを知っているおれたち自身ですら、徐々に毒されていったのだ。猛省せねばならない。

 とはいうものの、この節電に、おれはそれほど血の滲むような努力をしたわけではない。タイミングがいいのか悪いのか、十数年使った冷蔵庫がとうとうぶっ壊れた(ガリガリ君が融けるようになったのを発端に、冷凍食品まで融けはじめた)ものだから、しぶしぶ新しい冷蔵庫を買った。

 まあ、十数年前の冷蔵庫と消費電力を比べてみるとびっくりだ。少なくともスペックの上では、新しい冷蔵庫の消費電力は、古い冷蔵庫の四割減なのである。十数年ぶんの技術の進歩はすごい。おまけに、外寸は以前の冷蔵庫よりもずっと小さいものを買ったのに、庫内はそれほど狭くなったように感じない。

 ふつうの家庭でも絶対に電源を切らない家電製品は、ほかならぬ冷蔵庫なのである。冷蔵庫の電力消費を抑えれば、ほとんど苦労を感じずに効果的な節電ができる。とはいえ、温度設定を高くしすぎて食べものを腐らせたりして健康を害しては元も子もない。もし、あなたの冷蔵庫がおれの古い冷蔵庫と同じように相当年季が入っているのであれば、最新の冷蔵庫の消費電力をチェックしてみてはいかがだろう? さほど大きさが変わらないのに、いまの冷蔵庫は怖ろしいほど電気を食わないことに気づくだろう。壊れるまで待たずに、いっそ買い換えたほうが、節電にも家計の助けにもなるやもしれない。二、三年で元が取れるケースも少なくなかろう。

 また、買ったときには家族が多かったのだが、子供が大学へ行ったり就職したり結婚したりで、家族の人数が減っている場合は、より小さい冷蔵庫に買い換えるのもひとつの選択だと思う。ひどい風邪などで買いものに行けないといった事態を想定すると、ある程度の冷凍食品は常備しておくべきだが、災害のときには冷凍食品は必ずしも非常食にはならない。大量に冷凍しておいても、電気が止まってしまっては、一度に悪くなってしまう。ほんとうにそんなにたくさん食品を冷凍・冷蔵しておく必要があるかどうかを、家族の人数と生活パターンを鑑み、いま一度考え直してみてはいかがだろうか? 案外、食いもしないものを腐るまで保存しておくために無駄な電気を使っているかもしれない。

 冷蔵庫は壊れたからしかたなく買ったのだが、今年以降の夏用に節電目的で新たに買ったのは、扇風機である。エアコンの設定温度は、よほどのことがないかぎり、ほとんど二十八度にし、扇風機で部屋の空気を掻きまわす。部屋の数だけ温度計を買って、エアコンの設定温度を信用するのではなく、実際の効果として室温が何度になっているかに常に気を配り、冷えすぎていたらエアコンを切る。なあに、エアコンが各家庭に入りはじめたころなど、みな「電気がもったいない」ではなく「電気代がもったいない」と言って、エアコンを最後の秘密兵器のようにして使っていたではないか。

 それにしても、扇風機がまた、やたら品薄で、ヨドバシカメラで三千円ちょっとで買った(「お一人様一台限り」として売っていた)ものを、あとでアマゾンのマーケットプレイスで見たら、一万二千円ほどで出品されていた。なんだかなあ……。

 よく考えたら、扇風機なんてものを自分の金で買ったのは初めてだ。子供のころは、もちろん親が買っていたわけだからねえ。大人になって就職してからは、エアコンしか買ったことがない。よって、自分の金で扇風機を買うという体験はちょっと新鮮だった。最後に自分の部屋で扇風機を使ったのは、もう三十年くらいむかしだろうか。モーターで羽根を回して風を送るという枯れた技術ですら、この三十年にはやはりかなり進んでいるのだ。例の羽根のない扇風機なんて革新的な商品でなくとも、オーソドックスな扇風機でも、やっぱりかなり洗練されている。新しく買った扇風機は羽根が五枚もあり、音もおれが子供のころよりははるかに静かなのに風量があり、おまけにリモコンまで付いている。扇風機もハイテク(?)になっているのだ。

 おれは、「ほうら、節電なんてたいへんだろう。原発がないとたいへんなことになるのだぞ~。こわいぞ~、おそろしいぞ~、みんな貧乏になって、熱中症で死んでゆくぞ~、冬には凍え死ぬぞ~」などという、電力会社の誇大広告に騙されるつもりはない。あくまで、無理なく減らせるぶんを粛々と減らすことで、自分のいままでの生活を反省しているだけだ。

 だいたい、電力会社が消費者に節電をお願いするとはなにごとか!? 電力会社は社会に安定的に電力を供給する義務がある。その義務の履行と引き換えに、特権的な報酬を得ているのではないか。その電力会社が、すんません、電気が足らないので節電してくださいなどと消費者にお願いするとは、無能のきわみである。おまえらが原子力で電気を起こしていようが、魔法で電気を起こしていようが、そんなことはおれたち消費者の知ったことではない。ただ、原子力などというとてつもなく高くつく方法で発電をしておきながら、事故が起こったらそれを消費者に負担しろ(あるいは、国が税金で負担しろ)というのは、ちょっと虫がよすぎるのではないか? おまえら、ほかのもっと安い方法を考えてきたのか? むしろ、安い方法が出てきそうになったら、これはいかんと潰してきたのではないのか?

 そこいらへんのふつうの人が、なにやら地球全体のことを考えているかのように「電気がもったいない」などとええカッコするのはやめようや。むかしおれたちが親に怒られたように、素直に「電気代がもったいない」と考えて節電すればいいだけのことだ。まずは、そこからはじめよう。使わなくてすむものを、無理して使うことはない。また、使わなければならないものを、無理して我慢することもない。

 


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2011年5月15日 (日)

もしあなたの家の冷蔵庫が火を噴く欠陥品だったら

 ある日、あなたはテレビを観ていて仰天する。家電メーカーが緊急告知をしているのだ。なんと、あなたの家で使っているのと同型の冷蔵庫に欠陥があり、最悪、火を噴いて炎上する可能性があるという。むこう一年のあいだに、100台のうち約6.6台が確実に火を噴く計算になるらしい。

 これはたいへんだ。あなたは家族を集めて宣言する――「すぐに冷蔵庫を停めるぞ」

 できれば停めたほうがよいということには家族の誰もが賛成なのだが、妻がまず不服を言う――なにぶんにも現在の経済状態では、すぐに冷蔵庫を買い換えるわけにはいかない。とてもじゃないが、冷蔵庫がなくては、現代家庭の食生活は成り立たない。冷凍食品が利用できない。ガリガリ君も食えない。むこう一年のうちに100台に6、7台程度が火を噴くくらいであれば、なにもよりによってウチのが火を噴くと決まったわけではないのだから、せめて冷蔵庫を買い換えられる程度の貯金ができるまでは、いまの冷蔵庫を動かし続けてはどうか?

 あなたは仰天して反論する――なにを言う!? もし家に誰もいないときに冷蔵庫が火を噴いたらどうするのだ? 下手をすると家が丸焼けになってしまうのだぞ。みなが熟睡しているときに火事になったらどうする? 最悪、みんな焼け死んでしまうのだぞ。借金をしてでも冷蔵庫を買い換えるべきであるし、借金ができないのであれば、その都度必要な食べものをコンビニに買いにゆくような生活をしてでも、この危機を回避すべきだ。

 妻は食い下がる――いや、よしんば冷蔵庫が火を噴いたからといって、家が丸焼けになるとはかぎらないではないか。私は専業主婦だ。家に誰もいなくなる時間は、きわめて短い。

 息子と娘がかわるがわる泣きわめく――夏にガリガリ君が食えない生活なんて考えられない。先進国じゃない。経済大国じゃない。中国にも劣る。韓国にも劣る。北朝鮮のようだ。少量の火事は、むしろ健康によい。

 あなたは家族に押し切られ、しぶしぶ欠陥冷蔵庫を“しばらくのあいだ”使い続けることに同意する。

 ある日、あなたが会社から帰ってくると、なにやら近所が騒がしい。足を速めたあなたが自宅の、自宅のあるはずの場所にたどりついてみると、そこにはあるはずのものがなく、なにやら消し炭の柱があちこちでくすぶっている。妻や息子の姿は見当たらず、頬を煤だらけにした娘だけが、門があったあたりにしゃがみこんで泣いているのだった――。

 「……なーんてことになったらどうする!?」 あなたは声を荒らげてテーブルを叩く。

 「だから、あなたは心配性がすぎるのよ」と、妻。

 「♪ガーリガリ君、ガーリガリ君、ガーリガリ君」と、息子と娘。

 「しかしなあ、おまえら……」と、力なく呟くあなた。

 「大丈夫よ。いくらなんでも、明日火を噴いたりはしないから。当面は絶対大丈夫よ

 あなたは溜息をついて冷蔵庫の扉を開け、よく冷えた発泡酒の缶を掴むと、二階の自室へと逃げてゆくのだった。

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