もう小学生から英語を教える必要はなくなった
このブログでは、「英語を教えナイト?」、「英語を教えナイト? 2」、「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」、「カテゴリーの新設」、「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった。
もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。
日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。
ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。
気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。
これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。
この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」
ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。
つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。
というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?
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