カテゴリー「育児」の11件の記事

2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


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2008年6月25日 (水)

旅の恥は書き捨て?

イタリアの大聖堂に落書き 岐阜の短大生、名前や校名 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200806240365.html

 岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。見晴らし台にある大理石の壁に、黒油性ペンで全員の名前と日付、ハートマーク、大学の略称「岐女短」と書き添えていたことで発覚した。
 大学側が24日、発表した。6人は2月、学生36人でイタリアに研修旅行をした際に大聖堂を訪問。3月に現地を訪れた日本人からA4判ほどの広さに書かれた落書きを撮った写真が大学側に届いた。
 大学側によると、大聖堂には各国の言葉で多くの落書きがあり、6人は「高揚してしまった」と反省しているという。大聖堂側に英語で書いた謝罪文を送って許しを請い、大学も謝罪したところ、「修復の費用負担は不要」との返事があったという。

 「修復の費用負担は不要」というのは、たぶん「バカにはこれ以上できるだけ関わりあいになりたくない」という意味のイタリア語なのだろう。

 それにしても、自分らの名前と大学名までご丁寧に書くという、あまりにぶっとんだ悪気のなさが、かえってしみじみと不気味である。「イタリアに研修旅行」とあるが、いったい行く前になにを教えておるのやら。

 慈悲深い大聖堂さん側が呆れかえってくれるだけだったからまだよかったものの、あんたら、落書きする場所と内容をちょっとまちがえたら、サルマン・ラシュディ並みの目に会わんともかぎらんぞ。

 この時代、本で読み、ビデオで観りゃすむところを、わざわざ現地まで行くという研修の意味はだな、つまるところ、端的に、ひとことで言えば、「外国は日本とはちがうのだ」ということを学びにゆくわけだろう? いやまあ、日本でだってこんなことはやっちゃいかんのは当然だが、なにも高い旅費を払って、海外にまで恥をさらしに行かんでよろしい。「岐女短」てあのなあ……。そういうときは、せめて“Gijotan was here.”とでも書くくらいのユーモアがないか。いや、もちろんそれだって書いちゃいかんぞ。ちゃんと言っとかんと、洒落というものがわからんやつがおるからな。

 大学もえらい迷惑やな。まあ、どこかの精肉会社の社長みたいに、「大学は知らん。学生が勝手にやった」などと言わず、ちゃんと大学からも謝罪するのは、あたりまえのこととはいえ、このご時世、珍しくまともな尻拭いだとは思う。欲を言えば、その六人を大学の費用でもう一度大聖堂に行かせ、修道衣に身を包み雪の中で(雪が降るまで待て!)幾晩も立ち尽くして許しを請わせるくらいのことをすれば、いろいろな意味で教育にもなっていいと思う。



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2008年6月 3日 (火)

不注意二秒、毛が一生

児童32人の前、わいせつ映像2秒流す 北九州市立動物園 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0602/SEB200806020003.html

 北九州市小倉北区の市立動物園「到津の森公園」(岩野俊郎園長)で2日午前11時半ごろ、動物の画像のスライドショーを見ていた同市八幡西区の市立小学校2年生の児童32人の前で、過ってわいせつな映像が2秒ほど流れた。
 園によると、児童たちは「動物の赤ちゃん」という学習プログラムに参加。それに使う予定だった園のパソコンが故障していたため、担当の男性嘱託職員(31)が、自分のパソコンを持ち込んだ。
 園内見学が早く終わった1クラスの児童に、別のクラスが到着するまでの間、スライドショーを見せたところ、終了後、パソコンにデータが残っていたわいせつ映像が流れたという。気がついた職員が慌てて止めた。
 市では今後、この嘱託職員や上司らの処分を検討するとともに、園職員に映像紹介前の操作確認などを徹底するという。岩野園長は「改めて職員に十分な注意を払うよう指導するとともに、今後の再発防止に取り組みたい」とのコメントを出した。

 具体的にどういう現象が起こったんだろうなあ? スライドショーというからには、そこは静止画を次々と紙芝居のように見せていたわけだ。で、「わいせつな映像が2秒ほど流れた」というからには、そこは動画だったわけだ。どんな環境で、どんなソフトを使ってスライドショーを見せていたのだろう。静止画も動画も扱えるソフトだったんだろうな。動画はどんなファイルフォーマットだったのかな。

 「――わっ、やべっ! あわわわわ」
 「えっ? えっ? おじさん、いまのなに?」
 「なんかガイジンさんが取っ組み合ってケンカしてたみたい。ねえねえ、おじさん、いまのなに?」
 「“おーまいごーっ”ってなに?」
 「ぼく知ってる。あおたのりこっておばさんが“じーざっす”って言うんだ」
 「あー、ロンハーなんか観ちゃだめなのにー」
 「なんでロンハーにあおたのりこが出てるって知ってるんだよー」
 「ねーねー、おじさん、いまのなあにー?」
 「ねーねー、おじさん、いまのなあにー??」
 「ねーねーねー、なぁに~~~???」
 「な、なにって……かっ、怪獣映画だよ~! 知らないかな、ほら、『サンダ対ガイラ』って……」
 「知らなぁ~~い!」
 「しっ、知らないよね、やっぱり。あはははは。あは。あははは」

 それにしても、園長の「今後の再発防止に取り組みたい」ってのは、紋切り型だからこそケッサクなコメントだ。言ってる本人だって、腹の中じゃバカバカしいと思いながら言ってるだろうな。そんなもん、めったなことじゃ再発しねーよ!



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2008年6月 1日 (日)

しっかりしてくれ、大学

大学入学式に父母出席 これは「過保護なのか」論争 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2008/05/31020864.html

学生の数を上回る父母が出席した東京大学の2008年入学式で、特別栄誉教授の安藤忠雄さんが「子離れしろ」と発言した。メディアでも取り上げられ、「これは過保護なのか」がネットで議論になっている。

 そりゃ、過保護だよ。過干渉というべきか。入学式ならほんの少しは気持ちもわからんでもないが、入試にまで親がついてくるとなると、失笑を禁じ得ない。幼稚園、小学校の“お受験”じゃあるまいし、親がついてきた時点で、そんな受験生は不合格にしてしまえ。

 話には聞いていたが、事態はおれの想像を上まわってるみたいだなあ。東大にかぎった現象でもないらしいのが情けない。もはや、大学の入学式に親が出てくるのがあたりまえという時代になりつつあるのだろう。

 私立大学だったら、学生もその親も“顧客”だから、のこのこ入学式についてゆきたいという親が増えてきたら、つっぱねるわけにもいかなくなってくるのが資本主義というものでありましょうが、国公立大学こそ、「親のための場所などない。どうしてもわが子の晴れ姿が見たいなら、慎ましく門の外で待っておれ」と毅然とした態度を示すべきだろう。安藤忠雄、よく言った。

 大学も大学、親も親なら、学生も学生だ。十八にもなれば(十九、二十歳だってざらにいるだろう)、親がついてゆきたいなどと言おうものなら、恥ずかしいからやめてくれ、大学にも迷惑だと思うもんなんじゃないだろうか? 「思うもんなんじゃないだろうか?」と言ったところで、事実、そうじゃないんだから詮ないことではありますが……。

 まあ、若者がどんどん減ってゆくわけだから、そのうち企業だって、新卒学生様、その親御様のご要望をもったいなくもありがたくも尊重させていただかざるを得なくなり、入社式にのこのこついてくる親のための席を用意するようになってくるかもしれんな。このままゆくと、その可能性は高いと見た。学生様や親御様の不興を買うと、優秀(だが過保護な)学生様が来てくれなくなるからだ。

 大学も学生も親もそれぞれに情けないと思うが、いちばん情けないのは、やっぱり大学である。学生と親は自分たちの閉じた世界でおままごとをしておれば、まったりと時間の止まった Win-Win の関係(?)が維持できて心地よいのかもしれんが、そのディストピアを“外の価値観”でガツンとやって破壊するのが、教育機関としての大学のあるべきスタンスだと思う。ぬるい親の侵攻も撃退できずに、“大学の自治”などちゃんちゃらおかしい。



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2008年5月27日 (火)

ズルはアホよりタチが悪い

コピペしたリポート、ばれちゃうぞ 検出ソフト開発 (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0525/TKY200805250186.html

 インターネット上の公開情報を引き写しただけの「コピー・アンド・ペースト(コピペ)」でないかをチェックするパソコンソフトを、金沢工業大学教授が開発した。コピペは学生のリポートなどで横行しているとされ、先生らには朗報になりそうだ。
 金沢工大知的財産科学研究センター長の杉光一成教授が今年2月に特許出願した。来年にも市販する予定という。
 電子データで提出された文章をソフトに入力すると、翻訳ソフトに使われている「形態素解析」という技術で、文章を文節や単語に分解。それぞれの文節や単語をネット検索し、類似した文章がネット上で見つかれば、URLを表示して知らせる。複数のリポートを比べて、学生同士が写し合っていないかチェックすることもできる。
 杉光さんは一昨年、学生に課したリポートを読んでいて、学生2人の表現が似ていることに気付いた。共通する文章をネット検索したところ、あるブログからの引き写しとわかった。同僚もコピペに悩んでいると知り、昨夏、開発に着手した。
 杉光さんは「先生が不正を見抜く技術を持てば、学生には大きな抑止力になるはず。安易にコピペできなくなれば自分で文章を考えるから、学生のためにもなる」といっている。(山口智久)

 ほおお、こりゃいいや。前から、こういう学生の意地汚い根性にむかついていたのだ。稲葉振一郎さんにとっても朗報であろう。

 なにがむかつくと言ってだな、要領だけいいのがむかつく。要領がいいことはたしかに少なからぬ局面で大事なことであるが、要領だけいいのがむかつくのである。勉強してないのなら、堂々と悪い点を取るという潔さはないのか。また、勉強してもダメだったのなら、少なくともその科目においては自分には才能がないのだと受け容れる潔さはないのか。自分が得られるもの以上のものを要領よく得ようとする、そのこすからい根性がよろしくない。吐き気を催す。

 たしかに世の中には、なにをやらせても人並み以上という才人もたまにはおるが、自分がそうなのかそうでないのかくらいは、まともな人間であれば人生の早いうちに自覚するはずである。誰にでも得手不得手はある。なんに於いても、的確に現状を把握しないことには、立てるべき戦略、次に打つべき戦術など、策定のしようもない。等身大の自分以上のものを、分不相応にも得ることにだけに血道を上げる人生など、くだらないことおびただしい。おれはアホは許すが、ズルは許さん。英語には deserve といういい言葉がある。おのれに見合わないものを受け取って嬉しいか? 嬉しいなどというやつは、その程度の人間なのだ。全世界が賞賛しようとも、自分にとって納得がいかなければ、そんなものには価値がないと考えるのがサムライである。

 大学の先生に於かれては、ぜひこのようなソフトを活用なさり、要領だけよければいいのだと思っているような根性の腐った学生どもをどんどん落第させていただきたい。そういう性根の腐ったやつらが、カタチさえ踏んでおけば本来の目的などどうでもよいと考えるような、腐った小役人になり下がる(というか、当然のようになる)のにちがいない。日本の将来のためにも、そういうズルいやつらを叩き潰しておかねばならない。自分が怠け者だアホだと自覚したやつは強い。そこから進歩する無限の可能性を秘めている。だが、ズルはどこまでいってもズルのままである。一生ズルだ。そんなやつらを栄えさせてはならない。叩き潰しておくのは、大学の重要な使命だと思うぞ。



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2008年4月13日 (日)

百貫目のサル

エサもらい放題…気がつけばメタボ猿 「虐待」の声も (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0412/OSK200804120060.html

 大阪府堺市が管理する大浜公園(同市堺区)の猿山に住むアカゲザルが、集団肥満に陥っている。常駐する管理人も金網もないため、見物客から餌をもらい放題になっているのが原因らしい。おなかはだらんと垂れ下がり、ついたあだ名は「メタボ猿」。市大浜公園事務所は昨年からダイエット食に変えたが、焼け石に水だ。専門家からは「劣悪な管理が原因で、虐待だ」との指摘もある。
 「デブざるだ。乳牛みたい」「おなかに赤ちゃんがいるのかな」。子どもたちが歓声をあげる中、猿たちは膨らんだおなかを揺らしながらのっしのっしと歩く。10年以上世話を続けている職員は、「妊娠ではありません」。

(中略)

 だがダイエットは思うように進まない。猿山の周りには「害になる食べ物を与えないこと」と書かれた看板が四つあるが、毎日10~20人がパンや菓子を投げ与えている。近所の女性は、朝食の残飯やバナナ、かりん糖、ピーナツなどをやるのが日課という。「大きな猿に餌を取られる小さな猿がかわいそうで」
 日本モンキーセンター(愛知県)の加藤章園長によると、10年ほど前から猿山の周囲を透明なプラスチック製の壁で覆って餌を投げ込めないようにしたり、専用の餌を限定販売したりと見物客の餌やり対策が進んだ。「まだそんな管理をしている公園があったとは。無制限に食べ物が与えられる状況を放置しているのは明らかな虐待。早く手を打つべきだ」と忠告する。

 ひええ、こっ、こりゃすごいな……。それにしても、サルが肥ると不格好だねえ。

 サルにラッキョウの皮を剥かせるとなんとやらとか、オナニーを教えるとなんとやらとかいった話は俗によく語られるのだが、人間の食いものを際限なく与えるというのも同じような話なんだろう。こりゃたしかに管理も悪いが、「かわいそう」だとかなんとか言って餌を与える見物客のマナーも悪いよ。見物客というものはいくら注意しても理解できない阿呆であるということを前提にして管理するのがプロの管理というものなのかもしれないが、むかしから驚異的な識字率を誇るわが国で、それもなんだか悲しい話である。

 そもそも、記事のとおりだとすると、その看板って、日本語おかしいだろ。「害になる食べ物を与えないこと」って、いったいどういう意味だ? 農薬の入ったギョーザとかを与えるなという意味なのだろうか? だいたい“害になる食べもの”をわざわざ持ち歩いている見物客なんているんだろうか? 飼育係以外が勝手に食べものを与えることが害になるからやめてくれと伝えたいのであれば、単に「食べものを与えないでください」と書けばいいだけの話ではなかろうか? 不可解なこと、このうえない。「誰でもいいから皆殺し」に匹敵する奇ッ怪な日本語表現である。

 まあ、近年、ここのサルみたいな人間の幼児をしばしば見かけるよなあ。子供がうまそうにものを食っているところを眺めるとたしかに癒されるし、子供が欲しいと泣けば食わせたくなる気持ちもわからんではない。が、そりゃ大人側の都合だ。子供はまだ十全に“人間”ではないのだから、食いものの質や量を親が管理してやるしかない。ギャル曽根みたいな特殊な体質の人ばかりではないのだ。この公園のサルが“虐待”されているのだとしたら、どう見ても虐待されているとしか思えないほど肥っている幼児の親も、然るべき筋が指導すべきだと思うぞ。例のメタボ検診とやらいう大きなお世話の制度は、むしろ子供に適用すべきだ。大人は、なんだかんだ言っても、つまるところ自分の意志で肥ったり痩せたりしているわけであって、むしろ自分でコントロールできない子供こそ、バカ親の虐待(?)から護ってやるべきではなかろうか?



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2008年1月18日 (金)

成人式で暴れる阿呆どもの呼称を提案

 成人式で暴れているような阿呆どもを、おれは勝手に“揺りかごアウトロー”と名づけてそう呼んできたのだが、先日、人間ドックでもらってきた冊子に載っていた日本人の死因を眺めているとき、さらによい呼称を思いついた。

 ああいう阿呆どもを、これからはみんなで“悪性新成人”と呼ぼう。ガンみたいなやつらだから、ちょうどいいネーミングだと思うのだがどうか。みんなで使おうじゃないか。マスコミも、来年を待たずに、ばんばん使ってほしい。



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2007年12月13日 (木)

今年の漢字は当たったけれど……

今年の漢字は「偽」 清水寺貫主「悲憤に堪えない」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/1212/OSK200712120062.html

 今年の世相を表す漢字は「偽」――。日本漢字能力検定協会(本部・京都市下京区)が全国から公募した「今年の漢字」が12日、清水寺(同市東山区)で発表された。森清範(せいはん)貫主が、縦1.5メートル、横1.3メートルの巨大な和紙に太い筆で一気に「偽」の字を書いた。

(中略)

 2位以下も「食」「嘘(うそ)」「疑」など、不信が渦巻いた世相を示す言葉が目立った。森貫主は「こういう字が選ばれるのは、誠に恥ずかしく悲憤に堪えない。分を知り、神仏が見ているのだと自分の心を律してほしい」と語った。

福田首相「今年の字はやっぱり『信』だ」 (nikkansports.com)
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20071212-294812.html

 「『偽』も人ベンだけどやっぱり『信』だ。来年も信を追求しないといかん」-。福田康夫首相は12日夜、官邸で記者団に今年の世相を表す漢字に「偽」が選ばれた感想をこう語り、自らが11日に選んだ「信」の1文字にこだわった。

 やっぱり、大方の予想どおりになりましたなあ。というか、ほかに思いつかなかったくらいだよ。

 首相たる者、前向きなことを言わなきゃならない立場だということで配慮をしているのかもしれんが、今年の世相を表す一文字を訊いてるんだから、福田首相のこだわる「信」はやっぱりとんちんかんでしょう。誰もあんたの希望を訊いとらん。まあ、一文字と言われて二文字答えてた人よりは、なんぼか頭はしっかりしているようだが……。

 しかし、考えてみれば、私利私欲のために偽りを為して恬として恥じぬ人々に、なにも日本人が今年になっていきなり成り下がった(香山リカ流に言えば「劣化した」)わけではない。当人たちはずっとあたりまえだと思って長年やってきたことが、今年俄然発覚しはじめただけのことである。さまざまな偽装を知っていながら、「みんなでやれば怖くない」とばかりに集団で感覚が鈍麻してしまうあたりは、むしろとても日本人的な行動様式であり、もしかすると、日本人は根っからの偽装体質民族なのかもしれない。今年になって次々と内部告発などで噴出してきたという現象そのものが、構造的には、偽装を生んできたものと通底しているようにすら感じられるくらいだ。

 その“根っからの偽装体質”を持っている日本人を、魔法のように勤勉で品格ある人々にしていた重要な“縛り”が、近年、急速に外れはじめたのだろう。やっぱりそれは「恥」なのかなあ?

 おれは日本人の「恥」という概念に、アンビバレントな想いを持っている。二種類あるような気がするんだな。「世間様に対して恥ずかしい」とかいうのは、おれは好かん。その集団迎合的な匂いが厭だ。「世間様が死ね言うたら死ぬんか」と、子供のように天邪鬼にふるまいたくなる。

 おれが重要だと考えるほうの「恥」は、“おのれに対して恥じる心”である。たとえ全世界がなにかで自分を賞賛しようとも、自分自身がおのれに対して恥じるようなことであれば、それを“恥ずかしい”と感じる美意識だ。noblesse oblige の指すところに近い。この美意識が日本人から失われたとき、「神仏が見ている」といった強固な道徳コードを持たない日本人は、私利私欲のために偽りを為すことも厭わぬ烏合の衆に成り下がりはじめたのではなかろうか。

 では、どのようにしてそうした美意識が醸成され、超自我に叩き込まれるのか――これがおれにはよくわからん。敬虔な無宗教者であるおれとしては、宗教などという必要悪に頼らずに、こうしたメンタリティーを育む方法が知りたい。論理的に考えると、つまるところ、“おのれを愛し、尊ぶ心”が持てれば、自動的に“おのれに対して恥じる心”が生まれるはずだ。

 じゃあ、おのれを愛し、尊びなさいとただただ教えたとしたら、モンスター・ペアレントやらモンスター・ペイシェントやら、図書館の本を切り抜きだらけにして返却するアホやらが、たぶん大量生産されるような気がする。

 美意識を共有するということは、じつに難しい。美意識を滅ぼすのは、とても簡単なのだが……。

 結局のところ、“この世界には、自分と同じように生命や自意識を持った存在が、自分のほかにも存在する”という、じつに単純だが強力で汎用性の高い認識だけを子供に叩き込めればいいのではなかろうか。この重要な“知恵”(“知識”ではない)を欠く人間を次々と“生産”しているような社会は、そのうちどうにかなってしまうだろう。

 来年は、もう少しましな文字を、誰もが当然のように予想するような年になってほしいもんである。



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2007年7月 9日 (月)

育児グループウェア

The cell phone as baby monitor (CNN Money.com)
http://thebrowser.blogs.fortune.com/2007/07/06/the-cell-phone-as-baby-monitor/

A few years ago, when the price of wireless airtime plummeted, wireless executives sometimes talked about customers who used pairs of mobile phones as baby monitors. (The Browser suspects this is the stuff of urban legend, but a few websites do explain to the technically impaired how to perform this trick.)
Now along comes Babble Soft, an upstart that can turn a number of so-called “smartphones” into a different sort of baby monitor. (Company founder Aruni Gunasegaram, a mother of two, prefers the term “baby manager.”) Gunasegaram has created a web-based application that helps new parents keep track of feedings, sleep schedules and other newborn activities and milestones that pediatricians often ask moms and dads to track. A mobile version of the application, available for many smartphones, such as the Treo, allows users to access their baby data on the go. (Think Google Calendar for the diaperpail set.)

 山村美紗が、幼いころの娘(山村紅葉)にワイヤレスマイクを付けてモニタしながら仕事をしていたという、合理的なミステリ作家らしい逸話は人口に膾炙しているが、この記事が紹介している“赤ちゃんモニタ”はそういうものではない(前振りで触れているのは、ケータイを山村美沙方式で使う方法だけど)。

 Babble Soft のサイトに行っていただければ、どういうものか詳しくわかると思うけど、端的に言えば、乳幼児のケアを夫婦の共同作業と捉えたグループウェアの一種である。以前は、PDAにダウンロードして使うものだったのを、スマートフォン向けに完全にウェブアプリケーションとして提供しはじめたというわけだ。グループウェアっちゃグループウェアなのだが、夫婦だけ(欧米なら、ベビーシッターも加わるだろうけど)で使うことになるのだろう。いつミルクをやったか、いつオムツを替えたか、いつ薬を飲ませたかといった記録を赤ちゃんのケアをする者同士で共有し、共働き夫婦(最近では“片働き”のほうがむしろ少数派なわけだが)の育児コラボレーションを効率化しようという次第である。欧米のエグゼクティブのあいだでは、ブラックベリーはほぼ必需品状態だそうだから、こういうビジネスもイケそうな感じはしますねえ。

 日本でも、ITリテラシーの高い共働き夫婦の一部ではこうしたニーズも顕在化してくるかもしれないから、この企業の日本進出、あるいは、同様のサービスを提供する日本企業の出現も、そう遠い日のことではないような気がするが、文化的に日本に欧米ほどの市場が育つかどうかは、ちょっと不安ではあるよね。つまり、育児をコラボレーションと捉えないと、そもそもグループウェアの必要性なんかないわけだから。

 Hasta la vista, baby!



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2007年1月31日 (水)

べつにおれは国のために生まれてきたわけではない

 柳沢厚生労働大臣「女性は産む機械」発言がずいぶんと物議を醸しているが、なんだか根本的なところで大きな齟齬があるような気がしてならない。

 そもそも、どこの誰が、天下国家のことを考えて子供を産むというのだ? 子供なんてものは、自然な営みの中で、結果として勝手に生まれてくるものである。個々の女性ががんばろうがなにしようが、そんなもん、厚生労働大臣の知ったことか! ほっといたれや! あんた、小便するのにいちいち天下国家に益するかどうか考えながらやっとるのか?

 ほっといても、ああ、こんなすばらしい国のいまの時代に子供を産んであげたいなあと親が思えるような政治をすることがあんたらの仕事じゃろうが。何十年後か、何百年後かに日本民族が滅びようがどうしようが、そんなもん、Lサイズの卵があっちのスーパーよりこっちのスーパーのほうが二十円も安いなどとちらしを見ながら熟考している庶民には、知ったことではないのである。われらのあとに大洪水よ来たれ!



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