カテゴリー「経済・政治・国際」の124件の記事

2012年7月 4日 (水)

「政治生命を賭ける」やつと「土下座をする」やつは、問答無用で落とそう

 「政治生命を賭けて」などという言葉をやたら使う木っ端政治家がなぜかよくテレビに出てくるのだが、こういう言葉を平気で使うこと自体が、「私は視野狭窄でございます」と大声で喧伝しているようなものだと、なぜわからないのだろう?

 「命を賭けて」という言葉がある程度の重みを持つのは、そういう言葉を聞くほうにも、「命は大切な、とても重いものだ」という認識が共有されているからである。そんな重いものだからこそ、それを守るために超法規的措置が取られたとしても、みな、そこそこ納得するのだ。

 ところが、“政治生命”などというものは、当事者以外の人間にとっては屁のような、どうでもいいものである。そんなものを、さも普遍的に大切なものであるかのように恩着せがましく賭けて見せられたところで、「だからどうした?」と思うのが大多数のふつうの人だ。つまり、「政治生命を賭けて」などという言葉を使う人間は、そんなあたりまえのふつうの人の感覚を欠いている、あるいは、最初からそんなものは持ち合わせていないのである。

 テレビ画面の中で「政治生命を賭けてどーたらこーたら」とニューハーフのブタみたいな顔の政治家がほざいていると(最近知ったのだが、どうやらこの男はいまの首相らしい)、おれはいつも「勝手に賭けてろ、アホンダラ」とツッコむ。

 百歩譲って、“政治生命”なるものの大切さ(?)がそこいらへんの国民にも多少なりとも共有されているとしよう。だとしても、その大切なものは、政治家が自分で造り出したものではない。選挙権という、誰もが平等にちょっとずつ持っている“政治生命”が、政治家にまとめて預託されているにすぎない。いわば、政治家にとって、その“政治生命力”のすべては、人様からの大切な“預かりもの”なわけである。

 そうやって政治生命をかき集めたときに言っていたことをケロリと忘れて、または、憶えているがいけしゃあしゃあと忘れたふりをして、人から預かった政治生命を勝手にヘンなものに賭けないでほしい。おまえの政治生命はおまえのものじゃないのだ、野田(あ、言うてもた)。

 人様の政治生命をかき集めるときだけは、たとえば片山さつきのように土下座をしてみせたりする人もいる。これも失礼きわまりない話で、政治家が絶対にやってはならないことだ。土下座をするということは、「有権者なんてものは、土下座のひとつもして見せれば簡単に情にほだされて騙されるやつらなのだ、けけけけけ」と考えていることの証であり、これ以上に有権者を見下した行為はない。「おまえらみたいな阿呆が、私よりも劣るくだらない政治家にばかり票を投じているからろくな世の中にならないのだ。少しでも周りの阿呆よりもましな半馬鹿は、私に票を投じてみやがれ!」と、有権者を面罵するほうが、はるかに誠実である。

 というわけで、早晩、選挙があるだろうが、軽々に「政治生命を賭ける」阿呆と、軽々に土下座をする傲慢で狡賢いやつには、絶対に議席を与えてはならない。この二種だけは、なにも考えずに、自動的に除外してよろしかろう。



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2012年7月 2日 (月)

〈週刊文春〉の話題で持ちきり

「あ、そうそう、〈週刊文春〉読んだ?」

「読んだ読んだ。まったく、あれはひどいなあ」

「ああ、あれか、おれも読んだよ。ちょっと叩きすぎだよね」

「むかしの話なのにねー」

「一度は好きになった相手だろうに。あの言いぐさはないわ」

「でも、ゆきずりの関係だったんだろ?」

「いや、しばらくつきあってたそうだよ」

「いやいや、すごく長いつきあいだろう」

「あの手紙、ホンモノなのかなあ?」

「手紙? メールだろ」

「なんであんなに叩かれるんだろう。そりゃまあ、それほど美形じゃないにしても、よく見ると愛嬌があるんだけどなあ。おれは好きだよ、美脚だし」

「愛嬌あるかあ? ガマガエルみたいで怖いけどなあ。美脚なのか、あの人??」

「誰が見ても、きりっとした美形だと思うけどなあ。たしかに脚はまだまだ逞しいし、尻なんかきゅっと上がってて、さすが鍛えた感じだよね」

「よく一億なんてポンと出せたなあ」

「え? 四億じゃなかったっけ?」

「おれは二十五万って聞いたけど」

「博多に移籍しちゃうんだろ? ほら、若田部のとこ。ちょっとかわいそうだなあ」

「ええっ、ホークスから声がかかってたのか? 若田部はもう現役じゃないだろ」

「おれは離党するって聞いたけどなあ」

「でもまあ、なんだかんだ言っても、ヘタレでもがんばってるとこがいいよね」

「そうだな、ヘタレだけどがんばってるな」

「たしかに、あのヘタレでもなんとかなってると思うと、気が楽になるな」



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2012年4月23日 (月)

怒りのあまり暴徒と化した場合の心がけ

 おれは、まず脱原発をゴールとしっかり決定し、それが完了するまでのあいだは、危険性の少ない炉から博打を打って再稼働しろ(どのみち、動いていようが止まっていようが、廃炉を完了しないかぎり、危険性は大きくは変わらない)という考えだが、今回の大飯再稼働の政府の手順はあまりにもむちゃくちゃで、たいへん心配している。

 なにを心配しているかというと、もし大飯でまた福島に匹敵するようなことが起こったら、さすがにおとなしい日本人も黙っていないだろうということだ。そらみたことかという怒りのあまりに感情の箍が外れた一部の人々が暴徒と化し、今回むちゃくちゃな手順で再稼働を推し進めた政治家どもを吊るしにかかるだろう。事故の翌朝には、野田仙谷枝野細野はズタボロの肉塊と化し、ムッソリーニのように永田町の路傍に逆さ吊りにされていることだろう。道行く人はその肉塊に石ころや人糞を投げつけてゆくかもしれない。

 まあ、不誠実な嘘つき政治家どもはべつに吊るされてもいいのだが、おれがほんとうに心配しているのは、原子力関係の科学者や技術者たちである。民衆が怒りにまかせて彼らまで吊るしてしまったら、直近の事故に対処できる人材が減るし、廃炉のために働いてもらわねばならない人材も減る。そうなったら、もうどうしようもない。

 だから、これからもし、政治家がめちゃくちゃな手順で強引に再稼働した炉になにかあっても、そりゃまあ、お怒りになるのはごもっともだが、科学者や技術者は軽々に吊るしたりしないでほしい。その怒りは、政治家や官僚に向けてほしい。腹立たしいことではあるが、学者や技術者たちには、ケツを拭いてもらわなくてはならない。何十年かかるかわからないが、きちんと全炉を廃炉にするには、たとえこれから原発事故が何回か起こったあとであっても、ちゃんと原子力分野の学者や技術者を新たに養成してゆかねばならないのだ。現状レベルの政治家の代わりなんていくらでもいるが、社会から白い目で見られながら、終わってゆく分野に一生を捧げようと研究・研鑽してくれる科学者や技術者は、今後はそうそう出てこない。かけがえのない存在だ。

 というわけで、もしあなたが暴徒と化した場合でも、たまたま目に入った科学者や技術者の脳天をかち割ろうと振りかぶったゲバ棒(いつの言葉だよ)をぐっとこらえて、嘘つき政治家や自己保身官僚のほうに振り下ろしていただきたい。


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2012年2月16日 (木)

憧れの再生産

 おれはAKB48では、なんてったって、俄然、断然、指原莉乃推しであって、今年のカレンダーはもちろん指原だし、大好評発売中の1stフォトブック『さしこ』も、当然発売前に予約して買った。今年五十になるというのに、金を使うほどアイドルにハマったのはひさしぶりだ。

 いやまあしかし、ここでさっしーの魅力を語りたいわけではないのだ。なんというか、ああ、今日はいいものを見たなあと、ちょっとほっこりしたもんだから、書き留めておきたくなったのである。

 おれは、さしこが水曜レギュラーに大抜擢されてからというもの、『笑っていいとも!』は水曜日だけ録画して、さっしーの出てるところだけチェックしている。今日も、晩飯を食いながら、「いいとも」を観た。

 今日の「テレフォンショッキング」のコーナーは、ドリーム モーニング娘。がゲストで、かなりおばさんになった往年の「娘」たちを、彼女らがほんとうに娘だったころから知っているタモリがひとしきりいじった。

 一段落ついたとき、予め打ち合わせていたのかどうかは知らないが、指原がモー娘の追っかけであったことをタモリが話題にし、舞台裏からおずおずと指原登場。自身がいまはアイドルと呼ばれる立場になっているのに、憧れのモーニング娘。を前にして指原はすっかり一人の少女ファンに戻ってしまい、目をうるうるさせながら、ドリーム モーニング娘。一人ひとりに握手してもらって舞い上がっていた。微笑ましい。おれは、手塚治虫にサインをもらい握手までしてもらった少年のころの自分を思い出していた。

 ああ、こういうことは大事なんだなあと、指原を見ていて、改めて思った。彼女はアイドルに憧れ、みずからもアイドルになった。そしていままた、少し前の指原のような少女たちが、「指原さんみたいになりたい」とアイドルをめざし、秋元康を驚かせる。

 なんの分野であれ、それが連綿と続いてゆくには、こうした“憧れの再生産”が絶対に必要だ。憧れの再生産が縮小してゆく分野は衰退してゆかざるを得ない。あげくの果てには、世襲だらけになる。政治家のようにだ。

 「なんであんなのがいいんだ?」と、多くの大人から眉を顰められるような存在であっても、それに憧れる少年少女がいるかぎり、バトンは手渡されてゆく。手塚治虫であれ、ビートルズであれ、モーニング娘。であれ、AKB48であれ、だ。

 憧れられている存在が、実際にどれくらい偉大であるかというのは、あんまり重要ではない。客観的にどれほどちっぽけな存在であれ、その存在に憧れている後進がいるということ自体が、尊く、大切なことだと思う。

 どんなにちっぽけでも、誰かに憧れられている政治家、誰かに憧れられている官僚が少ないというのが、いまの日本の悲劇なんじゃないかという気がする。


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2011年7月15日 (金)

前年同月から16パーセント減の節電に成功

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 7月分(6月14日~7月13日)の電気使用量が、前年同月を100とした場合、84ですんだ。やればできる。

 しかし、だ。じつのところ、おれが家にいる夜の時間帯にせっせと節電したところで、あまり意味はなかろう。だがまあ、今回の原発事故は、日本の原子力行政下であればいつか必ず起こると確信してはいたものの(おれの生きてるあいだに起こってほしくはなかったが。惜しい、もうちょっとだったのに)、やはり実際に起こってみると、改めておれに水をぶっかけてくれた。

 たとえ電気があり余っていようが、野放図に使うよりはセーブするほうがいいに決まっている。電気にかぎらない。なんだってそうだ。おれの子供のころには、そういう価値観があった。それが、いつしか「ふんだんにあるものは野放図に使ってもよい」という価値観に、まだ日本がそれほど豊かではなかったころを知っているおれたち自身ですら、徐々に毒されていったのだ。猛省せねばならない。

 とはいうものの、この節電に、おれはそれほど血の滲むような努力をしたわけではない。タイミングがいいのか悪いのか、十数年使った冷蔵庫がとうとうぶっ壊れた(ガリガリ君が融けるようになったのを発端に、冷凍食品まで融けはじめた)ものだから、しぶしぶ新しい冷蔵庫を買った。

 まあ、十数年前の冷蔵庫と消費電力を比べてみるとびっくりだ。少なくともスペックの上では、新しい冷蔵庫の消費電力は、古い冷蔵庫の四割減なのである。十数年ぶんの技術の進歩はすごい。おまけに、外寸は以前の冷蔵庫よりもずっと小さいものを買ったのに、庫内はそれほど狭くなったように感じない。

 ふつうの家庭でも絶対に電源を切らない家電製品は、ほかならぬ冷蔵庫なのである。冷蔵庫の電力消費を抑えれば、ほとんど苦労を感じずに効果的な節電ができる。とはいえ、温度設定を高くしすぎて食べものを腐らせたりして健康を害しては元も子もない。もし、あなたの冷蔵庫がおれの古い冷蔵庫と同じように相当年季が入っているのであれば、最新の冷蔵庫の消費電力をチェックしてみてはいかがだろう? さほど大きさが変わらないのに、いまの冷蔵庫は怖ろしいほど電気を食わないことに気づくだろう。壊れるまで待たずに、いっそ買い換えたほうが、節電にも家計の助けにもなるやもしれない。二、三年で元が取れるケースも少なくなかろう。

 また、買ったときには家族が多かったのだが、子供が大学へ行ったり就職したり結婚したりで、家族の人数が減っている場合は、より小さい冷蔵庫に買い換えるのもひとつの選択だと思う。ひどい風邪などで買いものに行けないといった事態を想定すると、ある程度の冷凍食品は常備しておくべきだが、災害のときには冷凍食品は必ずしも非常食にはならない。大量に冷凍しておいても、電気が止まってしまっては、一度に悪くなってしまう。ほんとうにそんなにたくさん食品を冷凍・冷蔵しておく必要があるかどうかを、家族の人数と生活パターンを鑑み、いま一度考え直してみてはいかがだろうか? 案外、食いもしないものを腐るまで保存しておくために無駄な電気を使っているかもしれない。

 冷蔵庫は壊れたからしかたなく買ったのだが、今年以降の夏用に節電目的で新たに買ったのは、扇風機である。エアコンの設定温度は、よほどのことがないかぎり、ほとんど二十八度にし、扇風機で部屋の空気を掻きまわす。部屋の数だけ温度計を買って、エアコンの設定温度を信用するのではなく、実際の効果として室温が何度になっているかに常に気を配り、冷えすぎていたらエアコンを切る。なあに、エアコンが各家庭に入りはじめたころなど、みな「電気がもったいない」ではなく「電気代がもったいない」と言って、エアコンを最後の秘密兵器のようにして使っていたではないか。

 それにしても、扇風機がまた、やたら品薄で、ヨドバシカメラで三千円ちょっとで買った(「お一人様一台限り」として売っていた)ものを、あとでアマゾンのマーケットプレイスで見たら、一万二千円ほどで出品されていた。なんだかなあ……。

 よく考えたら、扇風機なんてものを自分の金で買ったのは初めてだ。子供のころは、もちろん親が買っていたわけだからねえ。大人になって就職してからは、エアコンしか買ったことがない。よって、自分の金で扇風機を買うという体験はちょっと新鮮だった。最後に自分の部屋で扇風機を使ったのは、もう三十年くらいむかしだろうか。モーターで羽根を回して風を送るという枯れた技術ですら、この三十年にはやはりかなり進んでいるのだ。例の羽根のない扇風機なんて革新的な商品でなくとも、オーソドックスな扇風機でも、やっぱりかなり洗練されている。新しく買った扇風機は羽根が五枚もあり、音もおれが子供のころよりははるかに静かなのに風量があり、おまけにリモコンまで付いている。扇風機もハイテク(?)になっているのだ。

 おれは、「ほうら、節電なんてたいへんだろう。原発がないとたいへんなことになるのだぞ~。こわいぞ~、おそろしいぞ~、みんな貧乏になって、熱中症で死んでゆくぞ~、冬には凍え死ぬぞ~」などという、電力会社の誇大広告に騙されるつもりはない。あくまで、無理なく減らせるぶんを粛々と減らすことで、自分のいままでの生活を反省しているだけだ。

 だいたい、電力会社が消費者に節電をお願いするとはなにごとか!? 電力会社は社会に安定的に電力を供給する義務がある。その義務の履行と引き換えに、特権的な報酬を得ているのではないか。その電力会社が、すんません、電気が足らないので節電してくださいなどと消費者にお願いするとは、無能のきわみである。おまえらが原子力で電気を起こしていようが、魔法で電気を起こしていようが、そんなことはおれたち消費者の知ったことではない。ただ、原子力などというとてつもなく高くつく方法で発電をしておきながら、事故が起こったらそれを消費者に負担しろ(あるいは、国が税金で負担しろ)というのは、ちょっと虫がよすぎるのではないか? おまえら、ほかのもっと安い方法を考えてきたのか? むしろ、安い方法が出てきそうになったら、これはいかんと潰してきたのではないのか?

 そこいらへんのふつうの人が、なにやら地球全体のことを考えているかのように「電気がもったいない」などとええカッコするのはやめようや。むかしおれたちが親に怒られたように、素直に「電気代がもったいない」と考えて節電すればいいだけのことだ。まずは、そこからはじめよう。使わなくてすむものを、無理して使うことはない。また、使わなければならないものを、無理して我慢することもない。

 


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2011年4月24日 (日)

自然現象がしれっと起こってるだけのことを、たいそうに

 大震災の一発めの大きな地震から一か月(まだ、あと何発も来るかもしれんからね)、今回の震災で思ったことをいろいろな人々が、メディアで口にしはじめている。

 面白いのは――という言葉遣いはちょっとどうかとも思うので、そうだなあ、興味深いのは、少なからぬ人たちが、津波で壊滅した現場などを見て、「超自然的な力」とか「人知を超えたなにか」とか「大きなものの意志」とか、とにかくなにやらわからんけど、そんなふうな“神”の力のようなものを感じた、あるいは、そういうものがあるのではないかと改めて考えたといった感想を述べていることである。

 これがじつにおれには不可解だ。おれはそのように感じる能力をまったく欠いている。いかにものすごいことが起ころうとも、この宇宙の物理法則を超えたことが起こっているわけがなく、超自然など感じようがない。むしろ、自然現象は、おれたちの現時点での知識や能力など一顧だにせず、いかにただただ自然現象として起こるかという、その清々しいばかりの“ミもフタもなさ”に、おれは改めて感嘆する。そこに超自然的なものなどが介在する余地など微塵もない。人類が高潔に質素に生きようが、我欲にまみれて退廃的に生きようが、物理法則が変わるわけではない。聖人であろうが極悪人であろうが、鋼鉄のハンマーで頭を砕いたら死ぬのである。それは神の鉄槌でもなんでもなく、物理法則どおりのことがミもフタもなく起こったにすぎない。

 だもんだから、おれは大きな自然災害が起こると、神やら超自然やらといったものはいっさい頭に浮かばず、「ああ、おれたち人類にはまだまだ解き明かすべきことがある」と、ただただ思うだけだ。

 これからも、おれたちには大きな試練が待っている。地球は、人類が環境破壊などしなくとも、いずれは膨れ上がった太陽に呑み込まれる。地球が消えたあと、宇宙に散った人類があちこちで生き延びたとしても、いずれはこの宇宙そのものに終わりが来る。そのとき、既存の都合のよい宇宙に移住する技術、あるいは、自分たちの生存に適した新しい宇宙を作り出してそこに移り住む技術を人類は手にしているだろうか?

 いずれにせよ、遠未来にほぼ確実に起こるそうしたことどもであれ、べつに超自然的なことが起こるわけではない。地震や津波のように、ただただ物理法則に忠実な出来事が、おれたちの都合とはまったく無関係に、しれっと起こるだけのことなのだ。

 「神も仏もあるものか」という言葉がある。おれ自身は、いまだかつてこの言葉を使ったことがない。そりゃそうだ。それはおれにとって、はじめからごくごくあたりまえの事実の描写であり、いまさら恨みがましく口にするようなことではないからである。勝手に神や仏を発明しておいて、それがないらしいと実感したからといって恨み言を垂れるなど、まったくもって阿呆の所業である。最初からそんなもんがあると考えるほうがどうかしている。

 神がどうした超自然がどうしたと世迷言をほざいているうちは、おれたちは何度も何度も自然災害に叩きのめされるだろう。おれたちの能力で充分防げる災害にすら、何度もひどいめに会うことだろう。

 ミもフタもなく襲ってくる物理法則の脅威に対して、こちらもミもフタもなく、ひたすら理詰めに準備をする。これ以外の方法で、災害の被害を食い止めたり、被害を最小化したりすることはできない。「そのうち神風が吹く」などと心の隅でであれ考えているようなお気楽な民族は、早晩滅ぶにちがいない。

 「科学は万能ではない」という言いかたはまちがっている。「みずからが万能ではないと知っていることこそが、その最大の強みである思想・方法論が科学」なのだ。科学は、おれたち人類が手にしている、二番めに優れた思想・方法論だ。いちばんだと言い出したとたん、それは科学ではなくなる。

 十数メートルの津波が目の前に迫ってきているとしよう。そんな状況で、十数メートルの「数」ってのは正確にはどれくらいなのかとか、センチで表現すると国民が不安がるから気をつけようとか、仮に海底に引きずり込まれたとしても直ちに健康に影響はない、二分間くらいは大丈夫だとか、まるで、ムラ社会でのルールをなんとかすれば、それは物理法則にも影響を及ぼすとでも考えているかのような阿呆どもは、圧倒的な物理的な力で叩き潰されてしまえ。え? その力は何ニュートンですか、場合によっては、基準値を引き上げて対応しますって?

 アホんだら、これくらいの力じゃ~~~~~~!


 ぐしゃっ



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2011年4月10日 (日)

さあ、おれたち年寄りは、汚染されたものをできるだけ食うようにしよう

 おれは一九六二年生まれの四十八歳だが、だいたいおれくらいの歳の人間というのは、いま日本に起こっていることを、それほど意外なことだとは思っていないはずだ。七十年代くらいには、人類は二、三十年のうちには絶対滅びると思っていたんじゃないか? それこそその、東西陣営の核戦争がなかったとしても、地震とか公害とか原発事故とかその他諸々なんらかの要因で、自分たちのいまの社会、いまの文明がぐちゃぐちゃになるはずだと思って育ってきているはずだ。

 だもんだから、おれたちの世代は、いまのこの状況を、なんとなく懐かしいものだとすら思っている。自分たちが、子供のころから、さんざん想像してきたことが、ただ単に現実になっているだけなのだ。「ああ、やっぱり、キターーーーーーーー!」みたいな感じなんである。

 だから、おれたちはいいんだよ、べつに。覚悟のうえのことだから。おれ個人は反原発派で、徐々に脱原発ができればいいなあとは思ってきたが、結局、おれには社会を変える力などなかった。おれ自身も、原発で発電した電気の恩恵をさんざん受けてきた。だからいいさ。今回の原発事故で生じたデメリットは、極力、おれたちが引き受けよう。

 そうだなあ、いま三十代以上くらいの人は、原発推進派だろうが反対派だろうが、こういう事態を招いた社会を作ってきた張本人なんだから、これからはできるだけ若い人たちにデメリットを押しつけないようにしようじゃないか。さんざん、原発のメリットを享受してきたんだろう?

 だから、おれはこれから死ぬまで、できるだけ放射能に汚染されたものを食おうと思う。おれがそういうものを進んで食うことで、いまの社会を作るのに責任のなかった若い人たちの口に、放射能汚染された食いものが入るのを、ほんの少しでも阻止できるかもしれないじゃないか。

 われらの同世代よ! さあ、いまこそ、おれたちが責任を取るべきときだ。放射能汚染されたおそれのある食いものは、できるだけおれたちが食おう。おれたちはどうせ、あと二、三十年しか生きん。どうせ日本人の二人に一人は癌になり、三人に一人は癌で死ぬのだ。それが少々早まろうが、なんの問題があろうか? 若いやつらには、できるだけきれいなものを食わせてやろうぜ。

 おやおやおやぁ? なんかこのカレー、パンチが足らんぜ! セシウム137が足らんのじゃないか? おっ、この刺身はキレがあるぞ。ストロンチウム90が利いてるよね! さあ、もっと持ってこい。いまの日本の社会を作ってきた、おれたち四十代以上が、みんな責任持って食ってやるぜ! 爺い、婆あどもを、地獄に道連れだ! どわははははははははははははははは。

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2011年3月26日 (土)

妨害思念波

 「諸君、今朝、頼もしい援軍が来た。災害時の生存者捜索のために密かに組織されていたサイキックレスキュー部隊だ」

 「隊長の火田です。よろしくお願いします。われわれはみな、レベル4以上のテレパスで、生存者のわずかな思念波も感知できるよう、特別な訓練を受けています」

 「到着したばかりでなんだが、一刻を争う。テレパス諸君、さっそくこちらの瓦礫の下を中心に、思念波探知をはじめてくれ」

 「わかりました……ん? なに? うわぁっ! うわああああっ!!」

 「た、隊長っ! うぐぐ……んぁああっ! なっ、なんでしょう、この強烈な思念は!?」

 「ぐぉおおおお、あ、頭がっ! な、なんて卑しい思念波だ……隊長っ、こ、これはっ……」

 「ど、どうした!? テレパス諸君っ! な、なにがあった??」

 「と、東京のほうから……われわれも経験したことのない強烈で不快な思念波が放射されていて、被災者の微弱な思念などかき消されて聞こえないのです……めいっぱい精神を研ぎ澄ましてエリアを絞り込んでみました。永田町方面で放射されている思念です」

 「なんだと? ど、どんな思念なのだね?」

 「そうですね、激しい後悔の念です。あえて言葉に翻訳すると……『早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃ……』」

 「ひ、火田君っ、どうしたっ!? 火田君っ!!」

 「早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかったカイワレ食べたい早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早くカイワレ食べたい早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかったカイワレ食べてたころはよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く辞めときゃよかった早く……」  


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2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


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2010年11月29日 (月)

未来から来た工作員?

 先日の『小島慶子 キラ☆キラ』で、映画評論家の町山智浩氏がアメリカで上映中の Fair Game という映画を紹介していた。(映画公式サイトはこちら

 この原作本は、元CIAの女性秘密工作員が書いたもので、CIAの検閲によって「むかしの日本の終戦直後の教科書みたい」((C)町山智浩)なありさまになっており、あちこち黒塗りだらけというすさまじいものらしい。裏返すと、「書いてもいい」とCIAが許してくれた部分だけが堂々と出版されているわけで、CIA公認の暴露本と考えてもよいのだ。

 面白そうなので、先日 kindle を買ったのをよいことに、さっそく原作の kindle 版を買ってみた。安いなあ。個人の消費者にとっては、円高万々歳である。

 紙版は墨塗り教科書みたいだということだが、電子書籍はどうなのかとパラパラ見てみると、こんな感じ―― 

[Text has been redacted here.] but I thought if it didn't pan out, I could find something on Capitol Hill or in the Peace Corps.  In the meantime, I found a job as a management trainee with a [Text has been redacted here.]  Washington department store [Text has been redacted here.].

 なにやら朝比奈みくるが書いたかのような独特の味わいが捨て難い。紙では出せない電子書籍の味とでも申しましょうか。丸谷才一「年の残り」のようでもあり、筒井康隆「弁天さま」のようでもある(そうかぁ?)。まあ、電子書籍でも■■■■■■■■■■■■■■とでもすれば、それなりに紙の黒塗りの真似はできるだろうけどなあ。


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