カテゴリー「書籍・雑誌」の84件の記事

2008年7月14日 (月)

『理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性』(高橋昌一郎/講談社現代新書)

 九年前に読んだ同じ著者の『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』が“アタリ”だったもんだから、今回のコレは、けっこう期待して読んだ。結論から言うと、やっぱり“アタリ”だな、これも。

 アロウの不可能性定理ハイゼンベルクの不確定性原理ゲーデルの不完全性定理と、社会科学、物理学、論理学が生んだ“これはそもそも無理ですから”という、三つの知の到達点を軸に議論を展開してゆく。いろんな分野の学者はもとより、会社員や運動選手といったパンピーも登場するソクラテス式の対話をフォーマットに議論が展開されてゆくので、難解な話になってもとても読みやすい。なんとなく、筒井康隆「マグロマル」の哲学版みたいだ。しばしば話に割り込んでは、カントに立ち返ろうとする“カント主義者”ってのは、「マグロマル」で言えば、さしずめ「ワシ、メシクテクル」ばかり繰り返しているガドガド人の役回りといったところだ。

 はっきり言って、本書で取り上げられている議論の多くは、思弁的なSFを好む人なら基礎教養として持っているような話ばかりである。つまり、逆に言うと、思弁的なSFを楽しみたい読者には、お薦めの良書だということだ。不可能性定理、不確定性原理、不完全性定理などに加えて、囚人のジレンマナッシュ均衡ラプラスの悪魔EPRパラドックスシュレーディンガーの猫パラダイム論チューリング・マシンなどなど、現代SF(とくにハードSF)を読むうえで必須のポピュラーなネタを、網羅的にわかりやすく簡潔に解説してくれている。すれっからしのSFファンにとっても、知識を整理したり、「こういう説明のしかたもあるのか」と改めて考え直したりするのには持ってこいの本だ。グレッグ・イーガンテッド・チャンがいまひとつわからない、楽しめないというSF初心者の方は、必読である。現代SFでポピュラーなネタをこれほどてんこ盛りに羅列して、シンプルに解説してくれている本はそうそうありません。理科系の人なら学生時代にどこかで触れるようなネタが多いだろうが、文科系の人にはてっとり早いお勉強に持ってこいである。

 「不可能性・不確定性・不完全性」と題していながらも、やっぱり著者の専門だから、ゲーデルの不完全性定理にはいちばん力が入っている。旧著『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』について、おれは「理論そのものを過度に単純化してわかった気にさせるくらいであれば、いっそ雰囲気だけをうまく伝えるほうがましであるというスタンスが明確だ」と評したが、本書では、ゲーデルの証明そのものにかなり深く突っ込んでいる。専門的な数学的記述を使わずに、ふつうの日本語で不完全性定理をこれほどわかりやすく説明した解説には、おれは初めてめぐりあった。むろん、これで不完全性定理を完全に理解したと思い込んではならないだろうが、少なくとも、どういうことをどういう方法で言おうとしているのかは、わかった気になれる。おれがもし、「不完全性定理ってなに?」と問われて説明しなくちゃならないような羽目に陥ったときには、本書の説明方法をパクらせてもらおうと思う。

 『ゲーデル 不完全性定理』(林晋、八杉満利子訳・解説/岩波文庫)にも述べられているように、ゲーデルの不完全性定理は、フィールズ賞受賞者の小平邦彦をして、「ゲーデルの定理を勉強したが、自分には難しかった。何とか判ったつもりだが、自信は無い」といった意味のことを語らせるほどのものなのである。おれもいろいろな一般向け啓蒙書や解説書を読んだが、数学的操作にかろうじてついてゆける程度であって、その意味するところがほんとうに心からわかったとはとても思えない。だもんで、新書一冊読んだくらいで不完全性定理を理解したと思い込むのは笑止千万であろうとは思うのだが、それでも本書は、じつにうまくゲーデルの証明の要諦を、日常言語で説明することに成功している。これは旧著『ゲーデルの哲学』を超えた成果だと思う。

 不完全性定理というと、なにやらすぐに“人間の知性の限界”といった話に過度に援用されてしまったりするのだが、じつのところ、上述の『ゲーデル 不完全性定理』や、存命中のゲーデルと会見した唯一のSF作家にして数学者、ルーディ・ラッカーInfinity And The Mind: The Science And Philosophy Of The Infinite によると、ゲーデル自身は、紛れもないプラトン主義者なのである。つまり、形式主義的数学を超えた次元で、数学的実体なるものがどこかに確固として存在しており、人間の知性にはそれを直覚する能力があると信じていたわけだ。不完全性定理を、過度にアナロジカルに、人文系の学問に援用したりすることの危険は、充分に認識しておくべきだろう。

 おれ自身、いつかは、この人類の知性のひとつの到達点を、心の底から“理解した”と言える日を迎えたいと思う。だが、哀しいかな、おれの頭脳では、いまひとつ心から“わかった”気がしないのである。老後には、こいつを徹底的に勉強したいと思う。死ぬまでには、わかりたいものである。



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2008年6月30日 (月)

“下痢小説”なんてジャンルがあったのか……

 《ヘンな検索語》シリーズなんだけど、こ、これはたしかにヘンだ――

「女子高生下痢小説」

 いやね、これが「女子高生 下痢 小説」というのなら、まだわからんでもないよ。たぶん、『ミッションスクール』田中哲弥)のタイトルを忘れた人が、「ええと、なんだっけな、女子高生が下痢のための一刻も早く排便したいのですとか言うケッタイな書き出しの小説だったんだけどな」と悩んだ末に検索してみたのだろうと、おれも納得するわけだ。

 だけど、これはちがう。複合検索ではない。堂々と単独の検索語として「女子高生下痢小説」と検索しているのである。どこの世界に“女子高生下痢小説”などというジャンルがあるものか。そんなものを書きそうなのは、田中哲弥くらいのものである。とてもひとつのジャンルを形成し得るとは思えない。

 単に“下痢小説”だとしても、やはりジャンルになるほど作品数があるかどうかは疑問である。“下痢小説”と言われて思い浮かぶのは、筒井康隆「おれは裸だ」くらいかなあ。あなた、ほかになにか思い浮かびますか?

 かくなるうえは、出版社の方、いっそ下痢小説アンソロジーを企画してみてはいかがだろう? 下痢というのは、たしかに日常生活の中で最も存在の不条理を感じる事態である。ひょっとしておれはいま取的に追いかけられているのではなかろうかと思いながら、駅のトイレに駆け込んだ経験のある方は少なくないだろう。たかが腹具合が悪いというだけのことで、人間というものはそれで頭がいっぱいになってしまうのだ。なんともバカバカしく、そして、いとおしいではないか。案外ウケるかもしれないぞ、下痢小説アンソロジー。



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2008年6月16日 (月)

一筆啓上 業苦が見えた

 またもや、《ヘンな検索語》

「本に埋もれて死ぬ」

 あのなあ……それを検索して、なにが知りたい?

 そ、それにしても、「本に埋もれて死ぬ」のが夢だとか本望だとかいう人が、こんなにたくさんいるものなのか……。『今日の早川さん』が売れるわけだ。



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2008年6月14日 (土)

みんな一度は小学六年生だったころがある

 おなじみ《ヘンな検索語》シリーズ。ヘンはヘンだけど、懐かしいなあ。

「のぼーる みくちゃん」

 同士よ!



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2008年3月22日 (土)

THE VOICES OF TIME

 One day the pain would be gone; but never the memory.

―― The Songs of Distant Earth by Arthur C. Clarke

Sir Arthur C Clarke: 90th Birthday Reflections



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2008年3月20日 (木)

アーサー・C・クラーク死去

Sir Arthur C. Clarke (1917-2008) (SFWA)
http://www.sfwa.org/news/2008/aclarke.htm

Obituary: Sir Arthur C Clarke (BBC NEWS)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2358011.stm

SF作家のアーサー・C・クラーク氏が死去 (asahi.com)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0319/TKY200803190065.html

Author Arthur C. Clarke dies (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/books/03/18/obit.clarke/index.html

Arthur C. Clarke, 90, Science Fiction Writer, Dies (The New York Times)
http://www.nytimes.com/2008/03/19/books/19clarke.html

Space Odyssey author dies (Al Jazeera English)
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/A2827CF5-BB28-4FF1-BE69-75A67ACFD1AA.htm

Clarke sur orbite (Le Monde.fr)
http://passouline.blog.lemonde.fr/2008/03/19/clarke-sur-orbite/

Weltraum-Visionär Clarke gestorben (ZEIT online)
http://www.zeit.de/online/2008/13/clarke-2001

 いつかはこの日が来るだろうとSFファンはみな頭ではわかっていたはずだ。「次はクラーク」などと失礼にも冗談のネタにしたりすることはしばしばあったが、なぜか心情的には“この人は死なない”と確信していたからこそ、そのような冗談も気安く口にされたのだろうと思う。とはいえ、アーサー・C・クラークの肉体はその機能を停止した。それは事実なのである。世界の“ミスターSF”“SF作家の代名詞”は、ついにおれたちを後にした。これからは、クラークのいない世界で暮らさねばならないのだ。残酷な現実ではあるが、クラークなら、それを受け止めて進め、とおれたちに言うにちがいない。

 クラークにはさまざまな思い入れがあるが、故人となった偉大なヴィジョナリーを偲んで、あえて個人的な感慨を述べることを許していただきたい。おれがクラーク作品の最高傑作として挙げるなら、やはり『楽園の泉』『宇宙のランデヴー』である。だが、どの作品が“好きか”と言われると、おれはあえて『遥かなる地球の歌』を挙げる。なんかね、好きなんだよ、この作品。

 おれが The Songs of Distant Earth をペーパーバックで読んだのは、大学生のころだ。ちょうど、2010: Odyssey Twoを読んでから、映画化されたのを観にいって、「いやあ、ブンガク的なSFもいいけど、やっぱクラークは最高だなあ」と思っていたころに、The Songs of Distant Earth を読んだわけで、そりゃもう、クラクラ来ましたよ。どうしてこんなにカクカクした“科学的事象”を描写するだけで、読む者に poetic な感動を与えるのか、クラークはおれが思っている以上に名文家であり、おれが思っている以上に偉大な文学者なのではないかと、その文章の秘密を分析していたころだ。もうね、The Songs of Distant Earth にはノックアウトされちゃいましたね。科学と詩情というものは両立し得るのだという感動だ。よもや、後にその邦訳文庫版の解説を自分が書く運命が待っているとは、想像だにしていなかった学生時代のいい思い出である。

 クラークの作品は、最先端の科学理論や工学技術を面白おかしく組み合わせては、鬼面人を驚かすものでは断じてない。むしろ彼は、ともすると陳腐とすら映りかねないアイディアも、それが合理的であれば、意に介さず重ねて使うタイプの作家である。科学的アイディアのけれん味でクラークを凌ぐSF作家の名を挙げるのは容易だろう。
 それでもなお、アーサー・C・クラークの“SF作家の代名詞”たる評価が毫も揺らぐことがないのは、本来科学の持っていた素朴な驚異や感動をみずからの血肉と化している点において、彼の右に出る者はそうはいないからだ。彼にとって科学とは、電波望遠鏡や電子顕微鏡といった取捨選択可能なツールなのではなく、驚異に見開いたり感動に涙したりできる、生身の目そのものなのである。だからこそ、それ自体は無味乾燥な科学的ディテールを彼が淡々と語るとき、あたかも高僧の口から出た念仏が仏像と化すがごとく、それらはそのまま詩となり歌となってわれわれの心を打つ。このあたりが文科系の読者にも広く愛される理由なのであろう。われわれは、絶対音感を持ったメロディ音痴が譜面どおりに弾いてみせる科学論文が読みたいのではない。宇宙が暗く冷たいことを知っている科学の詩人が奏でる、“遥かなる地球の歌”に聴き惚れたいのである。
――『遥かなる地球の歌』(ハヤカワ文庫SF)解説:冬樹蛉

 クラークの偉大なところは、おれのような文科系の読者に感動を与えただけではない。理学・工学系の読者には、実際に「いつかこういうものを実現してみたい」というヴィジョンを与えたのである。そりゃもうね、実際に“作る側”に回った人々が、いかにクラークの影響を受けているかということを、おれはSFギョーカイの片隅を汚すようになって、つくづく思い知った。SF作家にしてからが、野尻抱介林譲治小林泰三小川一水といった人々は、クラークがいなかったら、いまここにいないのではないかと思う。

 きっと、これからの千年、二千年のあいだに、人類は、もっと遠くへゆくだろう。ずっと、遠くへゆくだろう。そして、見知らぬ惑星の上に立った人々が、こんな会話を繰り返すにちがいない――

 「こんなところに自分が立っているだなんて……なんだか信じられない気持ちだ」
 「その気持ちを誰にいちばん伝えたいですか?」
 「……アーサー・C・クラーク。あなたがいたからこそ、いまボクが、ここにいるんだ」



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2008年2月19日 (火)

“放蝶ゲリラ”と自然と人為と

マニアが放蝶? 中国原産種、首都圏で繁殖 在来種駆逐 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0218/TKY200802180175.html

 昆虫マニアが10年ほど前に神奈川県内で放したとみられる中国産のチョウ「アカボシゴマダラ」が首都圏で分布を広げている。大きくて美しくて珍しいチョウが簡単に入手できるようになったため愛好家も増えているが、このチョウは在来種を駆逐し生態系を乱す「要注意外来生物指定」。不注意な放蝶(ほうちょう)で更に分布が広がる恐れがあると、専門家は警鐘を鳴らしている。

(中略)

 見つかったアカボシゴマダラはすべて中国原産種。台風などで迷ってきたことは考えにくく、神奈川県立生命の星・地球博物館の高桑正敏学芸部長は「誰かがひそかに国内に持ち込んだ虫を繁殖させ、さらに自然界で増やそうと、藤沢でまとまった数を放したとしか考えられない」と話す。外国から生きたチョウを持ち込むのは植物防疫法違反で、「放蝶ゲリラ」と呼ばれる行為だ。
 その後の自然繁殖で、かつての希少種は近郊の野山や公園で手軽に捕まえられるようになった。チョウを繁殖させ幼虫から育てたサナギが羽化するのを観察、感動を楽しむ愛好家は多いが、アカボシゴマダラは特に好まれ、幼虫売買などが広がっているらしい。
 中国産のアカボシゴマダラは、幼虫が地表の落ち葉などで越冬する在来種のチョウと違い、木の幹や枝で越冬する。春に他のチョウよりも先に活動を始めて木を独占するため、ゴマダラチョウやオオムラサキなどの在来種への影響が心配されるという。
 高桑さんは「ゲリラ行為以外に、羽化させたあとで自由に飛び回らせてあげたいとか、虫を増やして自然を回復させたいといってチョウを放す人もいるが、生態系を混乱させることは絶対にやめて欲しい」と話す。

 ううーむ。おれはこういう話を聞くと、いつも悩んでしまう。

 そりゃまあ、おれだって、自分が慣れ親しんだ日本の自然の姿というものに愛着はある。表を歩いていて、ふと気づくと腕をセアカゴケグモが這っているのであわてて払い落とそうとしたら足が滑って池に落ち、ふと気づくとカミツキガメがジーンズに噛みついている。大あわてで池から這い上がったら、なにかがぼとんと肩の上に落ちてきた。グリーンマンバだ。泡を食って駆け出したら、足を滑らせて今度は川に落ちた。すると目の前でなにやら細長いものが跳ねる。ガーだ。アリゲーター・ガーだ。ひいいいぃと川岸をめざし必死で泳ぐと、メガネカイマンが大口を開けて笑っている――などというありふれた日本の自然に馴染みたくはない。だが、もしそうなったとしても、それはそれでいたしかたないような気すら最近はしている。冷静に考えると、単なる慣れの問題のような気もするのだ。ヒメジョオンの咲き乱れる草っぱらを駆けまわり、チューインガムやスルメでアメリカザリガニを釣っていたおれの子供時代とどこがちがうというのだろう?

 おれはSFファンだからだろうか、どうも、“自然”“人為”というものに、明確な境界線が見えない。そういうものの見かたに“悪慣れ”してしまっているのだろうか? 「生態系を乱す」と言うが、いったいなにを以て“生態系が乱れる”と考えればよいのだろう? 地球の生命圏全体で考えれば、人間が生物を移動させるのも“自然現象”なのではあるまいか? どこで線が引けるのだろう?

 このニュース、「マニアが販売? 日本原産アニメ同人誌、首都圏で繁殖 在来種駆逐」とロシアあたりで報道されるのと、本質的にどこがちがうというのだろう? ちがうのかもしれんが、おれにはよくわからない。これがウイルスなどの病原体だとしたら多数の人死にを含めた実害が出るわけだが、この「放蝶ゲリラ」問題と、やっぱり本質的に変わらんように思えるんだよな。事実、変わらんのだろう。「放蝶ゲリラ」なんてのどかに呼んでるが、不測のアウトブレイクもバイオテロも、結局、おれには同じものにしか見えない。

 どうも、このあいだ、川端裕人『エピデミック』を読んだせいか、妙にこのニュースが“立ち上がって”見えてしようがない。ウイルスもチョウも(そして、ミームも)、おんなじだよねえ、やっぱり。“生態系が乱れる”というのは、つまるところどういうことを意味するのか、おれは近ごろ、弱い頭を振り絞って考え続けている。ひょっとすると、生態系というのは絶対に乱れたりするもんじゃなく、単におれたちの都合で、乱れたの乱れてないのと言っているだけなんじゃないだろうか?



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2008年1月17日 (木)

紙魚子、いいじゃないすか

 諸星大二郎の《栞と紙魚子》シリーズが実写で連続テレビドラマ化されるなどと知ったときには、悪い冗談ではないかと疑いつつ、とにもかくにも企画した人の蛮勇に大きな期待とぼんやりした不安を寄せていた。おれ、アレ、大好きなんだよなあ。ところが、関西ではテレビでやってくれないんだよなあ。

 でもまあ、『栞と紙魚子の怪奇事件簿』(日本テレビ系)の番組サイトでは、全編を動画配信(無料)してくれているので、ともあれ第一話と第二話は観てみたよ。便利な時代になったもんである。

 う~む。やっぱり、こういうものになったか。いや、まさか原作のあのテイストをあのまんまでテレビドラマにできようはずもないとは思っていたから、さほど落胆したわけではない。むしろ、よくやっているほうではなかろうか。

 主演の二人にはなんの興味もなかったのだが、ま、なかなかいいじゃないすか。紙魚子役の前田敦子ってコが、絶妙に素人っぽくてよい。AKB48なんて、ふだんは群体生物(?)としてしか意識していないもんだから、おれには誰が誰だかさっぱりわからんのだが、ま、少なくとも、この紙魚子役のコだけは覚えたぞ。これはおれだけがそう思うのかもしれないのだが、この前田敦子ってコは、ほかのどの宣材写真よりも、紙魚子役を演ってるときがいちばん可愛いですな。



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2007年12月30日 (日)

謎の人物たちの素行を調査する

 「WEB素行調査」という巷で人気の調査機関があり、便利なうえに無料だというので、人をさんざん待たせてばかりで、いつもついに姿を現さないあの謎の人物について、おれは調査を依頼した。結果は、以下のようなものであった。


ゴドーは、シについて聞いて回っていた。
ゴドーとベケットが、なにやら親しく話しているところを目撃したという証言がある。
ゴドーといえば逆転裁判日和。
パトリックによると、ゴドーは「一言でいってコーヒー」らしい。
ゴドーは、吾伽式とタイトルの関係について何か知っているようだ。
戯曲の歴史にはゴドーの影が見え隠れしている。
ゴドーは、登場について何かを掴んでいるいるらしい。
ホテルについて一家言あるらしい。
ゴドーの謎をとく鍵、それは名前、オブ、こ、不条理劇、blog。
サミュエルはゴドーの過去を知っている。
ゴドーはワイエルとつながっている。
山崎清介はゴドーに特別な感情を抱いていたらしい。
ゴドーは、コメントの世界ではそこそこ名の通った人物である。
成歩堂について調べると、必ずゴドーに行き当たる。
ゴドーについて聞くと、別役実は堅く口を閉ざした。
ゴドーのおかげで串田和美の今がある、と言っても過言ではない。


 おれはさらに、主に発明家をしているらしい謎の人物についても、調査を依頼した。


エヌ氏のおかげで浅野忠信の今がある、と言っても過言ではない。
ボッコちゃんはエヌ氏に何か隠し事があるようだ。
本について調べると、必ずエヌ氏に行き当たる。
エヌ氏は、古本とウォッチリストの関係について何か知っているようだ。
エヌ氏は、冠号について聞いて回っていた。
出品者について一家言あるらしい。
エヌ氏といえばワザップ。
エム氏はエヌ氏の過去を知っている。
ケイ氏はエヌ氏に特別な感情を抱いていたらしい。
エヌ氏は、楽天ブックスについて何かを掴んでいるいるらしい。
エヌ氏の謎をとく鍵、それは情報、楽天市場、次、マイページ、出版社。
エヌ氏と星新一sfワールドが、なにやら親しく話しているところを目撃したという証言がある。
エヌ氏は、名前の世界ではそこそこ名の通った人物である。
エヌ氏について聞くと、星新一は堅く口を閉ざした。
ショートショートの歴史にはエヌ氏の影が見え隠れしている。
綸太郎氏とエヌ氏の間に肉体関係はまだない。
エヌ氏はオークションとつながっている。


 なに!? 「エム氏はエヌ氏の過去を知っている」とな! さっそくおれはエム氏の調査を依頼した。


池原ダム悪戦苦闘記について調べると、必ずエム氏に行き当たる。
エム氏は切通理作とつながっている。
日記について一家言あるらしい。
道の歴史にはエム氏の影が見え隠れしている。
エヌ氏はエム氏の過去を知っている。
エム氏の謎をとく鍵、それはmembers、デジカメ日記、東尋坊、遊園地、おにぎり。
ラーメン太郎はエム氏に何か隠し事があるようだ。
エム氏は、満腹探検隊とオフィス街の関係について何か知っているようだ。
エム氏といえばホームページ入門講座。
エム氏は、夜の世界ではそこそこ名の通った人物である。
エム氏は、ほんブログ村について何かを掴んでいるいるらしい。
エム氏は、競走馬一覧について聞いて回っていた。


 なに!? 「エヌ氏はエム氏の過去を知っている」とな! そういうことか。この二人は、互いに過去を知られているので、それについては互いに言及しないようにしているにちがいない。なるほど、うまくしたものだ。それにしてもこの調査機関、なかなか侮れない調査能力を持っている。

 この調査機関を評価したおれは、どこの誰かは知らないけれども誰もがみんな知っているという不可思議な人物について、思い切って調査を依頼してみた。


歌について調べると、必ず月光仮面に行き当たる。
月光仮面について聞くと、川内康範氏は堅く口を閉ざした。
ちくわの歴史には月光仮面の影が見え隠れしている。
千葉隆三によると、月光仮面は「一言でいって幽霊党」らしい。
月光仮面は谷幹とつながっている。
月光仮面は、爪の世界ではそこそこ名の通った人物である。
児童養護施設について一家言あるらしい。
山田のり子と月光仮面の間に肉体関係はまだない。
月光仮面は、幻について何かを掴んでいるいるらしい。
正義は月光仮面の過去を知っている。
月光仮面は、評価について聞いて回っていた。
月光仮面といえば昭和。
月光仮面は、おじさんと東映東京の関係について何か知っているようだ。
月光仮面の謎をとく鍵、それは名、味方、子どもたち、精、和音。
月光仮面のおかげでオークションの今がある、と言っても過言ではない。
鬼塚さんは月光仮面に何か隠し事があるようだ。
西村明は月光仮面に特別な感情を抱いていたらしい。
月光仮面と大瀬康一が、なにやら親しく話しているところを目撃したという証言がある。


 「月光仮面について聞くと、川内康範氏は堅く口を閉ざした」のか……。勝手に歌詞を追加して唄ったやつがどこかにいるにちがいない。

 そして、ついにおれは、みずからの危険も顧みず、調べてはならない人物についての調査を依頼した。たぶん、この調査機関なら信頼できると思うのだが、万一、ターゲットに気取られると、調査を依頼したおれの命も危ない。


デューク東郷は、質問について何かを掴んでいるいるらしい。
デューク東郷のおかげで雪藤洋士の今がある、と言っても過言ではない。
オークションによると、デューク東郷は「一言でいって作」らしい。
仕事術漆田公一はデューク東郷に特別な感情を抱いていたらしい。
デューク東郷は、レンタルサーバーの世界ではそこそこ名の通った人物である。
デューク東郷といえばお願い。
デューク東郷の謎をとく鍵、それは女、人物、激裏名無しさん、漫画、うち。
ブログについて調べると、必ずデューク東郷に行き当たる。
殺し屋の歴史にはデューク東郷の影が見え隠れしている。
デューク東郷は、名無し職人と名前:,ゴルゴの関係について何か知っているようだ。
かんについて一家言あるらしい。
デューク東郷は、出品者について聞いて回っていた。


 「デューク東郷は、レンタルサーバーの世界ではそこそこ名の通った人物である」だと? そういうことか……。レンタルサーバ事業を闇で展開して、さまざまな情報を収集しているのだろう。最近、日本の大手電機メーカが彼と手を組んでいるという事実も、おれの独自の調査であきらかになっている。そうか、そうだったのか……。



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2007年12月25日 (火)

『里田まいのおバカ伝説』(竹書房)

 はっきり言って、おれはバカな女が嫌いである。だが、白状しよう、おれは最近里田まいにメロメロだ。テレビにこのコが出ていると、「いったい全体、次になにを口走るのか……」と、手に汗握り固唾を呑んでわくわくせずにはいられない。無視することができない。これはもうではあるまいか。いや、そんなはずはない。おれはバカな女が嫌いなのだ。もし里田まいのアレが演技で、放送作家がすべてネタを書いているのだとしたら、おれはその放送作家に脱帽するよ。そんな異能の天才作家がいたとしたらバレないはずがないと思うので、やっぱり里田まいのアレは“天然”なんであろうか? うーむ、わからん。菊川怜の言いそうなことは、大方見当がつく。だが、里田まいの言いそうなことは、まったく予測不能、というか、そんなものが予測できるような人になんかなりたくない。

 “天然”だとしたら、まったくもって、いったいニューロンがどういうふうに繋がったら、あのような発想が出てくるのか。里田まいがひとたび言葉を発すると、おれの乏しい知識が、おれの凡庸な価値観が、おれの脆弱な思想が、おれのちっぽけな宇宙が、おれの実存が、根底から揺さぶられる。強引かもしれんが、これはもうほとんどSFである。そうか、だからおれは里田まいから目が離せないのか。

 本書は里田まい本人が書いているわけではなく、仕事やプライベートで彼女と関わりのある人々を対象に、里田まいの常軌を逸したエピソードを集めてまわったというスタイルの、じつにまあ、安易な作りの本である。だが、千二百六十円でこれだけ笑えれば上等だ。なにはともあれ笑うことだけが目的であるならば、確実な投資であると言える。

 ここで面白いネタをいろいろ紹介したいのはやまやまだが、なにしろこの本はネタが命なので、とびきり面白いやつはマナーとして書くわけにはいかない。「ヘキサゴン伝説」の章から、おれに関わりの深いネタをふたつ、「予選ペーパーテスト」からひとつ、里田まいのそこそこの珍回答を紹介してみよう。


Q:映画や小説などのジャンル「SF」はどんな言葉の略語でしょう?(正解:[Science Fiction] サイエンス・フィクション)

  「スペシャルファイト」


 い、いやまあ、そう言われてみると、たしかに、いろんな意味で、当たらずといえども遠からずという気もしないではないんだが……。「サンフランシスコ」とか「セックスフレンド」とかは言い古されているんで、なんとなく新鮮かも。


Q:おたまじゃくしが成長するとカエルになりますがヤゴが成長するとどんな生き物になるでしょう?(正解:トンボ)

  「ウミガメ」


 ほんとうにそうだったら面白いのにと思うのは、おれだけではあるまい。


[予選ペーパーテスト 問題6]

 「君の瞳に乾杯!」というセリフで知られる、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが共演した映画は何でしょう?

  「23の瞳」


 いったい何人いるのか、あんな妖怪とかこんな怪人とかを思い浮かべながら、危うく組み合わせを真剣に考えそうになった。ひょっとすると、目が二十三個ある妖怪が一匹だけいるのかもしれんしな……って、そもそもなんの問題だったっけ?

 こんなのはまだ序の口なのだから怖ろしい。まこと“天然”というのは怖ろしい。芸人殺し、放送作家殺しである。芸人でも放送作家でもなくてよかった。とまあ、こういう類の“里田まい伝説”がでかい活字で一冊ぶん。ふつうに読めば三十分、じっくり味わえば(?)一時間くらいでつるつる読めて笑えます。年末年始、コタツの上に一冊置いておくと、ご家庭が明るくなること請け合い。ただ、お年寄りの方は、心臓に悪いうえに、餅を喉に詰めかねないから、数回に分けて服用なさることをお勧めします。



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2007年12月21日 (金)

映画『2001年宇宙の旅』のラストシーン

 生まれたばかりのスターチャイルドは、カメラ目線でこう言った。

「いつまでもデイヴと思うなよ」



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2007年12月10日 (月)

『MM9』(山本弘/東京創元社)

 いやいや、これは痛快、痛快。すべての怪獣ファン必読の怪獣本格SFである。舞台は、自然災害の一種としてフツーに“怪獣災害”が存在する現代。世界有数の怪獣大国である日本では、怪獣災害に立ち向かうべくスペシャリスト集団が組織されていた。気象庁特異生物対策部――略称「気特対」である(ここで「特捜隊のうた」を頭の中で流すように)。『歩兵型戦闘車両OO(ダブルオー)』(坂本康宏)では、環境庁が作った合体ロボットが怪獣と闘っていたが、本作の場合は、気象庁が怪獣対策を行う。いずれにせよ、“自然災害”の一種ということになると、現行の制度では妥当な設定ではあるよね。

 ただ、「気特対」は、あくまで怪獣の出現予測や正体の特定、その科学力による怪獣対策のアドバイスを自衛隊に与えるだけであって、怪獣を直接攻撃するのは自衛隊なのである。これもまあ、なるほどたしかにそういうことになるにちがいない。気象庁が武力を持つのはおかしいしね。

 五話完結の連作短篇という形式を取っており、各話にそれぞれの工夫があって、飽きさせない。ハードSF的に考えるとあり得ない怪獣というものの存在や属性を、「多重人間原理」なるアクロバティックな力業できちんとSFの文脈に嵌め込んでいるのは、さすが「と学会」会長である。

 実在するわれわれの社会への皮肉やくすぐりがところどころにチクチクと入っていてニヤリとさせられるうえ、なによりかにより、“怪獣”もので育った人々なら爆笑してしまうような小ネタが随所にちりばめられている。それはもう、『ウルトラマン』はもちろん、『ガメラ対大魔獣ジャイガー』から『ウルトラマンガイア』『仮面ライダー響鬼』まで、あなたにはこの小ネタ遊びがいくつわかるか? 挙句の果てには、諸星大二郎テイストまで湛えている。おみごと。

 といっても、小ネタで遊んでばかりいるおやじ世代への懐メロSFというわけではけっしてない。SFとしての屋台骨は、しっかり通っている。SF的にきちんと怪獣を出すというのは、簡単そうで難しいにちがいないのだ。誰にでもできることではない。第三話「脅威! 飛行怪獣襲来」はとくに秀逸。

 巨大幼女萌え(なんじゃそれは?)の人、必読。「べつにウルトラマンなんて出てこなくてもいいのに」と思っていた人、必読。『ウルトラマン』よりも『ウルトラセブン』よりもなによりも『ウルトラQ』が好きな人、必読。桜井浩子ファン、必読。ひし美ゆり子ファン、必読。そして、「ほんとうに怪獣が出現したらいいのに」と思っている人は、なにをおいても読むべきであります。怪獣、バンザイ!



 

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2007年10月30日 (火)

菅浩江、初のサイン会開催!

 ……意外や意外、そうなんだそうである。これだけキャリアのある人がサイン会は初めてというのが驚きなのだが、言われてみれば、たしかにおれもいままでそういう広告を見たことがないのだった。というわけで、京都方面の菅浩江ファンの方はゴーだ。

 以下、東京創元社の編集者さんからのお知らせ。

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管浩江『プリズムの瞳』刊行を記念して、地元・京都で初のサイン会開催!

菅浩江『プリズムの瞳』の発売を記念して京都のアバンティー・ブックセンター京都店にてサイン会が開催されます。同店にて『プリズムの瞳』(10月30日(火)発売/税込定価1,995円)をご予約、お買い上げいただいた方各先着100名様に整理券を配布いたします。

電話予約も可能ですので、ご希望の方は下記へお問い合わせください。

【日時】平成19年11月10日(土)14:00~
【場所】アバンティー・ブックセンター京都店 特設会場
【参加方法】
10月30日発売の対象書籍『プリズムの瞳』をご予約、お買上の方先着100名様に、整理券を差し上げます。

【お問合せ】アバンティー・ブックセンター京都店 TEL:075-671-8987
http://www.fismy.jp/pc/index.html

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 それにしても、菅さんがサイン会初体験とはなあ。おれは先日京都SFフェスティバルでひさびさにお会いしたのだが、まだ実物(^_^;)に会ったことないファンはぜひお行きやす。京都が服着て歩いてるような人だよ、ホント。そりゃまあ、服着ずに歩いてたらえらいこっちゃけど。



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2007年10月15日 (月)

『双生児』(クリストファー・プリースト/古沢嘉通・訳/早川書房)

 今年もそろそろ総括に入らなくちゃならない時期なので、やっぱりおれも書いておかなくちゃならないなあと、いまさらのように書く。これはもう、やっぱりすごい。すでにあちこちで別格扱いの高評価が目白押しであるから、べつにおれごときがいまさら紹介する必要もないかもしれないが、なにしろおれは読むのに一か月ほどかかり、さらにこれについてなにかを書く気になるまでにさらに一か月ほどかかっているのである。それくらい楽しめますぜ。

 略せばいずれも「J・L・ソウヤー」となってしまうイギリスの一卵性双生児が、第二次世界大戦の時代にそれぞれたどる数奇な運命をプリーストらしい超絶技巧で描いた、むちゃくちゃに読み応えのある作品である。おれはまるで刺繍かなにかのように、行ったり来たりを繰り返しながら読んだ。「あれれれ、ヘンだぞ。なんだこりゃあ……」と思いはじめるあたりからの読書体験は、まさに至福! ああ、字を習ってよかったと思う。そこのキミ、ケータイ小説なんか読んでる場合じゃないぜ。こういうのを読書というのだ。

 はっきり言って、これをSFとしてだけ読むのはもったいない。というか、“SFとしても読めないことはない”ようになっているだけであって、SF風のパラレルワールドものとしてのみ読まれることをプリーストは最初から拒否しているのだ。重層的な仕掛けは、何とおりもの解釈を許す。一粒で何度もおいしい。そうだなあ、たとえば、山田正紀『ミステリ・オペラ』とか、コニー・ウィリス『航路』とかを読んで楽しかった人は、なにをおいても読むべきでありますな。ここには、あなたの大好きな“小説を読み解く”ということの悦びが横溢している。ひととおりにしか解釈できないようなつまらないテクストなんて糞喰らえである。そんなものは数式と変わらない。いや、場合によっては、数式のほうが豊かかもしれない。

 例によって、なんでも手塚治虫に見えてしまうおれの悪い癖をフルに発揮するとすれば、この作品は、イギリス人が超絶技巧で書いた『アドルフに告ぐ』なのである。三人のアドルフは、二人の「J・L・ソウヤー」なのだ。むちゃくちゃ言うとるなと思う人もいるかもしれないが、もはや今年のベスト3に入ることは確実な本書に関しては、評価が定まりすぎて、多少のむちゃくちゃを言わんと面白くないから、好き勝手言うておるのである。

 というわけで、これを読まずに年を越してはいかんぞ!



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2007年10月12日 (金)

盗っ人を刑事告発しない市長のつくりかた

 「市長、警察の方がお見えです」
 「お通ししなさい」
 「ああ、市長、先日この男を微罪で捕まえたところ、年金を着服していたことを自白しましてな――ほらっ、顔を上げんかっ! 盗んだ金は累計で三十万くらいになるそうです」
 「申しわけありません、市長。多かれ少なかれあちこちでやってるもんですから、つい出来心で……」
 「あなたはなにを言っているのですか? その年金はあなたに差し上げたものじゃありませんか」
 「え、ええっ!?」
 「そうそう、あなたは忘れものをなさってましたよ。よっこらしょっと……ほら、税金で買ったこのふたつの銀の燭台もあなたにあげたじゃありませんか。持っていってくださらないと困りますなあ」
 「いやしかし、市長、この男はたしかに――」
 「私があげたと言っているんだから、なにか問題でも? この人は罪人なんかじゃありません。さっさと手錠をはずしてあげなさい」


 市長の慈悲に打たれた男は心の底から悔い改め、まじめに働いて、ついに市長になった。


 「市長、警察の方がお見えです」
 「お通ししなさい」
 「ああ、市長、先日この男を微罪で捕まえたところ、年金を着服していたことを自白しましてな――ほらっ、顔を上げんかっ! 盗んだ金は累計で三百万くらいになるそうです」
 「申しわけありません、市長。多かれ少なかれあちこちでやってるもんですから、つい出来心で……」
 「あなたはなにを言っているのですか? その年金はあなたに差し上げたものじゃありませんか」
 「え、ええっ!?」
 「そうそう、あなたは忘れものをなさってましたよ。よっこらしょっと……ほら、税金で買ったこの二十個の銀の燭台もあなたにあげたじゃありませんか。持っていってくださらないと困りますなあ」
 「いやしかし、市長、この男はたしかに――」
 「私があげたと言っているんだから、なにか問題でも? この人は罪人なんかじゃありません。さっさと手錠をはずしてあげなさい」


 市長の慈悲に打たれた男は心の底から悔い改め、まじめに働いて、ついに市長になった。


 「市長、警察の方がお見えです」
 「(お、いよいよ来たな)お通ししなさい……」


 かくして、年金や税金は、慈悲深い立派な市長を要請するための経費として、有意義に流用されているのであった――なわけねーだろ!



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2007年10月10日 (水)

シミュラクラ

中国産を「三輪そうめん」偽装の疑い、食品卸社長ら逮捕 (NIKKEI NET)
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20071010AT5C1000B10102007.html

 うう~む。「三輪そうめん山本」じゃなくて「三輪山本舗そうめん」とは、あざといにもほどがありますなあ。なんか、むかし局所的に流行った「山田風 太郎」みたいだ。それにしても、仮に「山田風 太郎」ってのがいたとして、人口に膾炙しているらしいその「山田」ってのはいったい誰なんだよ?

 さっきテレビでこの「三輪山本舗」のそうめんを売っていたやつが、偽装品の表示は妥当であり、騙されるほうがバカと言わんばかりの主張を頑なに展開していたが、あまりの屁理屈に、おれは大笑いしながら観ていた。それだけの屁理屈を考えつく頭があるなら、もう少しましなことして金稼げや。

 農水省はいろいろ評判悪いんだから、この際、この手の盗っ人猛々しい業者を徹底的にいぶり出し、点を稼いでいただきたいものである。

 ひょっとして、あなたが持っている『楽園の薬』の著者がアーサー・G・クラークだったり、『わたしは口ボット』の著者がアイザック・アツモフだったりしてませんか? なに? 私が古本屋で買った『わたしはロボット』「創元推理文庫」なので偽装じゃないかって? いや、それはいいんだ、それは。



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2007年10月 9日 (火)

『時間はどこで生まれるのか』(橋元淳一郎/集英社新書)

 むかしスティーヴン・ホーキングは、言語の分析が哲学に残された唯一の任務だとまで言うヴィトゲンシュタインを例に挙げ、アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統を思うと、なんて落ちぶれざまだ(“What a comedown from the great tradition of philosophy from Aristotle to Kant!”)と、哲学と科学との乖離に苛立っていたもんだ(『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』)。まあ、ホーキングのヴィトゲンシュタイン批判自体が、あまりにも表層的だという意見はよく目にするが、おれはヴィトゲンシュタインはあんまり知らないので、ホーキングの批判が妥当なものなのかどうかはよくわからない。

 本書は、そうしたホーキングの苛立ちに真正面から応えるものだ。哲学的な時間論が、物理学の成果をあまりにも取り入れていないことに苛立った橋元淳一郎が、物理学的時間論と人間的時間論を統合する叩き台として提示した時間論なのである。さすがは理科系SF作家。SFファン必読でありましょう(って言ってるわりには、ずいぶん遅れて読んだわけだけど)。

 橋元淳一郎は、あくまで物理学的に考えながら、結果的には、著者本人も書いているようにハイデガーの時間論に近いところに到達している。ということは、当然道元にも近いわけで、おれの印象としては、橋元時間論は道元の『正法眼蔵』-「有時」に最も近いように思われるのだが、本書には道元のことがまったく出てこない。古今東西の時間論を参照しながら、あくまで物理学的に時間を考察している橋元淳一郎が、道元の時間論に触れていないはずはないと思われるので、まったく言及されていないことはちょっと不思議な感じがするのだが、まあ、ハイデガーが出てくるからいいか。

 哲学的にであろうが物理学的にであろうが、時間とはなにかなんてことを真剣に考えたところで、たぶん一文の得にもならないだろうけれども、あえてこういうのを新書で出そうという橋元淳一郎の気概はたいへん嬉しい。そうなんだよな、つまるところ、グレッグ・イーガンやテッド・チャンのようなバリバリの理系作家こそが最も哲学的であるという事実に、文科系人間としてはちょっと苛立っている部分があるわけだよ、おれは。

 ひさびさに面白い時間論を読んだ。極東の島国に、一文にもならないこういうことに挑む物理学者がいるということに、ホーキングも安心するんじゃなかろうか。



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2007年9月24日 (月)

ドミノ起き上がらし

 最近ドミノづいている(?)もんで、“ドミノ起き上がらし”という遊びが可能かどうか考えてみた。たぶん、可能である。

 まず、ドミノ倒しをふつうに地球上で行う。倒れたドミノは、床面にぺたんと伏せた状態にはならず、すべて次のドミノの上にきれいに折り重なっているとする。

 さて、この状態で、地球をまったく同じ大きさの中性子星と一瞬にして入れ替える。ここのところは、ちょっとご家庭では気軽にお試しいただけない技術的困難を伴うかとは思うが、ま、とにかく一瞬にして入れ替える。べつに中性子星でなくブラックホールでもいいのだが、ブラックホールだと事象の地平面上にものを乗せることができないため、強靭きわまりないチョコエッグのような外殻で覆ってやらなくてはならないだろうから、ここは中性子星くらいが適当であろう。

 ここまではよろしいか? で、地球が、大きさは同じままでとてつもない密度の物質と入れ替わったので、その重力場の勾配は非常に大きなものになるだろう。つまり、ほんのわずかな高さの差でも、ドミノにかかる潮汐力は、もとの地球の比ではない。ドミノは次のドミノに折り重なって倒れた状態にあるから、ドミノの最も高い部分と最も低い部分にかかる重力にはかなりの差ができるだろう。ドミノのあらゆる部分には、その部分を中性子星の中心方向とその逆方向へと引き裂こうとする力が働いている。そして、そのすべての合力は、斜めになって倒れているドミノを、地表に対して鉛直に立ち上がらせようとする力となって働くはずだ。SFファンには、ラリイ・ニーヴン『インテグラル・ツリー』に出てくる“インテグラル樹”の姿勢が潮汐力によって安定している状態を思い浮かべていただければ、話が早い。

 だけど、潮汐力が強すぎると、倒れているドミノはいっせいにぴょこんと起き上がってしまい、“ドミノ起き上がらし”らしくない。やはり、ドミノ倒しの逆をやってこその“ドミノ起き上がらし”である。

 そこで、中性子星の密度をうまく調節してやると(これもご家庭ではちょっと出せん味ですなあ)、ドミノ一個を起き上がらせることはできるが、前のドミノにのしかかられていたのでは起き上がらせられないといった最適な潮汐力が得られるであろう。この最適な条件下で“ドミノ起き上がらし”をやると、まず、自分の上に前のドミノがのしかかっていない最初のドミノがぴょこんと起き上がり、次のドミノが起き上がり、また次のドミノが起き上がり……という現象が実現できるはずである。ドミノ倒しの映像を逆回ししたように起き上がるのではなく、最初に倒れたドミノが最初に起き上がるというところが、“ドミノ起き上がらし”の面目躍如(なんの面目だ?)たるところである。

 とても危険な遊びなので、よいこのみんなは、かならずおとなのひとといっしょにやってね。



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