カテゴリー「書籍・雑誌」の99件の記事

2012年7月 2日 (月)

〈週刊文春〉の話題で持ちきり

「あ、そうそう、〈週刊文春〉読んだ?」

「読んだ読んだ。まったく、あれはひどいなあ」

「ああ、あれか、おれも読んだよ。ちょっと叩きすぎだよね」

「むかしの話なのにねー」

「一度は好きになった相手だろうに。あの言いぐさはないわ」

「でも、ゆきずりの関係だったんだろ?」

「いや、しばらくつきあってたそうだよ」

「いやいや、すごく長いつきあいだろう」

「あの手紙、ホンモノなのかなあ?」

「手紙? メールだろ」

「なんであんなに叩かれるんだろう。そりゃまあ、それほど美形じゃないにしても、よく見ると愛嬌があるんだけどなあ。おれは好きだよ、美脚だし」

「愛嬌あるかあ? ガマガエルみたいで怖いけどなあ。美脚なのか、あの人??」

「誰が見ても、きりっとした美形だと思うけどなあ。たしかに脚はまだまだ逞しいし、尻なんかきゅっと上がってて、さすが鍛えた感じだよね」

「よく一億なんてポンと出せたなあ」

「え? 四億じゃなかったっけ?」

「おれは二十五万って聞いたけど」

「博多に移籍しちゃうんだろ? ほら、若田部のとこ。ちょっとかわいそうだなあ」

「ええっ、ホークスから声がかかってたのか? 若田部はもう現役じゃないだろ」

「おれは離党するって聞いたけどなあ」

「でもまあ、なんだかんだ言っても、ヘタレでもがんばってるとこがいいよね」

「そうだな、ヘタレだけどがんばってるな」

「たしかに、あのヘタレでもなんとかなってると思うと、気が楽になるな」



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2011年10月30日 (日)

イタコ読書を体験しよう

 すべての本を電子書籍で読むというところまでは、まだ環境は整っていないし、紙の本を読まなくなるのは寂しいのだけれども、amazon と Kindle のおかげで、少なくとも洋書・洋雑誌・洋新聞に関しては、ほとんど電子媒体で読めるようにはなった。

 Kindle で買った本(まあ、最近だと、スティーブ・ジョブズの伝記とかだ)を、おれは Kindle 端末が使えるほどに空間的余裕がある場所では、Kindle 端末で読む。電子インクのディスプレイは画面そのものが光らないので、長時間の読書でも老眼に負担をかけない。だが、満員電車などで、Kindle でさえ持ちにくい、あるいは、鞄の中から取り出しにくい条件下であれば、おれは同じ本を Android 端末(GALAXY S)で読む。Kindle for Android がインストールしてあるから、Kindle 端末でどこまで読んだかはちゃんとシンクロされていて、なんの面倒もなく、スマートフォンで続きが読める。

 帰宅して、パソコンを立ち上げ、そうだそうだ本の続きを読もう――というときには、パソコンにインストールしてある Kindle for PC を立ち上げると、最後に使った端末が Kindle であろうが、Android 端末であろうが、すんなりと続きのページが出てくる。要するに、一度 Kindle で買った本は、プラットフォームがなんであろうが、同じものをいつでも、どこからでも呼び出せるわけだ。これはまあ、たまにしかやらないが、Kindle for PC の画面をHDMI経由でテレビに出力して、寝る前にベッドの枕元にあるテレビで本を読むことすらある。ワイヤレスマウスの電波が届く距離にパソコンがあれば問題ない。

 こういう本の読みかたに徐々に慣れてくると、ああ、これはなにかに似ているなあと誰もが思うはずである。そう、イタコである。本の中身は霊界にいて、老婆のイタコだろうが、中年女性のイタコだろうが、若い女性のイタコだろうが、少女のイタコだろうが、その時々に都合のよいイタコが身近にいてくれれば、いつでも本を呼び出せるわけだ。

 おそらく、おれの生きているあいだに、こうした“イタコ読書”は、完全に一般的なものになるだろう。ふらりと入った喫茶店のテーブルがディスプレイになっていて、指紋とかICカードとかでちょちょいと認証すれば、今朝、電車の中でスマートフォンで読んでいた本の続きが即座に表示されるようになるのだろう。風呂の中で、備え付けの防水端末にちょちょいと音声で命じれば、昼間喫茶店で読んだ本の続きを、音声で読み上げてくれるようになるのだろう。

 つまり、クラウドという霊界にいる“あなたが読んでいる本”は、あなたのまわりにあるさまざまな“イタコ”端末に、自在に呼び出せるようになるだろう。レシピ本ばかりではなく、小説やマンガに出てきたレシピですら、簡単に冷蔵庫や電子レンジのディスプレイに呼び出せるようになるだろう。

 「電子書籍がどうとか言ってるけど、いまひとつメリットを感じないなあ。紙のほうが読みやすいよ」とおっしゃる方は、もしかしたら、たったひとつのプラットフォームで電子書籍を読んでらっしゃるのではなかろうか。だとしたら、紙とたいして変わらない読書体験しか得られないと思う。おれの言う“イタコ読書”が体験できるようなハードとソフトとサービスとの組み合わせを選んで、試してみていただきたい。電子書籍による読書体験の本質は、端末の機能やソフトの使い勝手などにあるのではない。“イタコ読書”という、人類がかつて味わったことのない読書体験にこそあるのだと、実感なさることと思う。

 そして、その“イタコ読書”こそが二十一世紀のあたりまえの読書体験になるであろうと見抜いており、その環境をこそ構築しようとしているのが、amazon にほかならないのだ。“テキストを読む喜び”と、“書物という工芸品を所有する喜び”とは、もはや分けて考えなくてはならない。


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2011年1月 9日 (日)

去年やめたもの三つ

 去年は、いろいろと悪いものを三つもやめることができた。流行りの“断捨離”が実践できた。

 まず、煙草をやめた身体に悪いものを“断”ったわけだ。値上がりするのは前からわかっていたから、徐々に量を減らすようにしていたのだが、実際に値上がりした十月にすっぱりとやめた。最後に煙草を吸ったのは十月三日である。

 次に、日本の新聞をやめた頭に悪いものを“捨”てたわけだ。日本に存在する新聞がことごとく頭に悪いと言うつもりはないが、いわゆる五大紙なんぞは、あってもなくても同じだ。というより、あんなものを読んでいたのではアホが移る

 さらに、紙の新聞をやめた環境に悪いものから“離”れたわけだ。日本の新聞をやめるにあたって、背中を押してくれたのは、amazon の電子書籍リーダーの kindle だ。海外の新聞や雑誌の電子版が紙版よりもはるかに安く定期購読できるので、便利なこと、この上ない。惚れちゃったね。

 いずれ kindle についてはじっくり書きたいとは思うが、二か月半ほど使ってみて見えた本質を端的に述べるならば、kindle というのは、電子書籍リーダーというハードウェアを売ると見せかけて、“クラウド読書環境”を販売しているのだということである。日本のメディアは、やれ iPad だ、やれ Android タブレットだなどと、ハードウェアとしての電子書籍リーダーばかりを比較してつまらない記事を書いていることが多いのだが、そんなものは電子書籍の本質ではない。

 kindle を所有して、いじってみて、たちまち覚えるのは、「ああ、これ“一冊”を持って歩けば、巨大な“書店”を持って歩いているのと同じなのだ」という奇妙な全能感である。欲しい洋書は、kindle 版が出てさえいれば、一分もしないうちに手元に“所有”できる。そのための通信費は、事実上無料だ。kindle は早い話が“電話”を内蔵しており、3G回線の国際ローミング費用は米アマゾンがほぼ負担してくれる。太っ腹にもほどがあるんだが、これを彼らは太っ腹とはおそらく考えていないのだろう。“読者”が負担すべき費用ではないと当然のように考えているのだろう。つまり、アマゾンは、あくまで“本屋”としての本分を、いかにテクノロジーが進もうとも、ただただ全うしようとしているだけなのである。

 以前、地方の人に聞いた話だが、地方の小さな書店では、全国紙に広告が出ているような本でも、東京の出版社から取り寄せることを拒む店があるという。なぜなら、取り寄せるために東京に電話するだけで儲けが吹っ飛んでしまうからだ。「東京に電話するのにいくらかかると思ってるんですか?」と言われるのだという。

 kindle の3G回線使用料が、日本で amazon.com から kindle 端末を買った場合でも無料であり、キャリアとの契約などまったく不要だと知ったときにまず連想したのは、上記の“お取り寄せ”の話だった。そうだ、これは無料であるべきだし、そのあたりまえのことができるアマゾンはすごいと思った。そりゃそうだろう。地方の書店で東京の出版社から本を取り寄せてもらったら、本の定価に電話代を上乗せして取られたなんて人がいるだろうか? いないいない。取り寄せを断られた人は、たくさんいるだろうけどね。「本を調達するのがわれわれの仕事なので、調達にかかる費用はわれわれが負担しよう。読者は、あくまで本に対してお金を払ってくれればよい」と、アマゾンは態度で示しているのだ。

 これはじつはものすごいことだ。こういうものすごいことができるほど、“本屋であること”に徹しているアマゾンに、旧態依然たる日本の出版社や取り次ぎや書店が、いまのままでかなうとはとても思えない。ましてや、「いい端末を作れば、電子書籍は売れる」などと考えている“おもちゃ”メーカーは、笑止千万である。

 電子書籍リーダーは、リーダーなのではない。それ自体が、電子書籍流通のビジネスモデルを体現した“携帯書店”にほかならないのだ。ハードウェアとしてのリーダーを比較してもなんの意味もない。携帯書店としての、顧客にとっての利便性を比較しなければ、電子書籍リーダーの比較にはならないのである。

 いまのところ最も優れた携帯書店は、kindle という名の書店だとおれは思う。少なくとも、英語の読める人にとってはそうである。アマゾンは、どこまでも本屋であることを極めようとしているからこそ、ハードウェアを売ろうが、クラウド環境を提供しようが、全然ブレないのだ。日本のハードウェアメーカーやサービスプロバイダに求められているのは、この怖ろしいまでにカスタマーセントリックなブレない視点であり、ブレないスタンスなのだ。「おまえは何屋だ?」と問われて、「本屋だ」と答え続けられることは、とてつもなくすごいことなのだ。

 日本には、こんな出版社や書店が出現するだろうか? しないのだとすれば、それは日本語文化圏にとっては、とても不幸なことだろう。


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2010年11月29日 (月)

未来から来た工作員?

 先日の『小島慶子 キラ☆キラ』で、映画評論家の町山智浩氏がアメリカで上映中の Fair Game という映画を紹介していた。(映画公式サイトはこちら

 この原作本は、元CIAの女性秘密工作員が書いたもので、CIAの検閲によって「むかしの日本の終戦直後の教科書みたい」((C)町山智浩)なありさまになっており、あちこち黒塗りだらけというすさまじいものらしい。裏返すと、「書いてもいい」とCIAが許してくれた部分だけが堂々と出版されているわけで、CIA公認の暴露本と考えてもよいのだ。

 面白そうなので、先日 kindle を買ったのをよいことに、さっそく原作の kindle 版を買ってみた。安いなあ。個人の消費者にとっては、円高万々歳である。

 紙版は墨塗り教科書みたいだということだが、電子書籍はどうなのかとパラパラ見てみると、こんな感じ―― 

[Text has been redacted here.] but I thought if it didn't pan out, I could find something on Capitol Hill or in the Peace Corps.  In the meantime, I found a job as a management trainee with a [Text has been redacted here.]  Washington department store [Text has been redacted here.].

 なにやら朝比奈みくるが書いたかのような独特の味わいが捨て難い。紙では出せない電子書籍の味とでも申しましょうか。丸谷才一「年の残り」のようでもあり、筒井康隆「弁天さま」のようでもある(そうかぁ?)。まあ、電子書籍でも■■■■■■■■■■■■■■とでもすれば、それなりに紙の黒塗りの真似はできるだろうけどなあ。


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2009年12月14日 (月)

アブドル・ダムラル・オムニス・ノムニス・ベル・エス・ホリマク 我とともに来たり 我とともに滅ぶべし

 さて、問題です。次の言葉に共通することはなんでしょう?

 学校の先生、増税、核武装なき「改憲」、権力の不在、自治体格差、金持ちいじめ、「国営=悪」の感情論、歳出削減と増税、今の住宅、後期高齢者医療制度、ゆとり教育、学力低下、英語オンチ、哲学のない政治家、急激な「価格破壊」、「官」の発想、偽りの優しさ、公私混同、悲観主義、誇りなき報道、「勇」なきリーダー、文科系、団塊の世代、郵政民営化、性の乱れ、貿易、時短、行革なき増税、大型間接税、政治への無理解。

 正解は、書籍のタイトルで「国を滅ぼす(亡ぼす)」とされている

 日本がとっくに滅びていないのが不思議なくらいである。まあ、数十年から百年くらいのうちには、滅びている可能性はないとは言えないけれどもねぇ……。たしかに、もはや「なにもせんほうがええ……」という気になって滅入ってしまうときがあるが、それにしても、もう少し前向きなタイトルにはできんのか?

  

「短期的に希望を持つな、長期的に絶望するな」 ―― 日野啓三



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2009年2月26日 (木)

見つけられにくいことの損益

 前野昌弘という科学者が、素粒子物理の“いろもの物理学者”さん以外にもいらして、統計解析やら物性やら無機化学やらの本を出してらっしゃることはSF文化圏(?)では周知の事実であるが、柴田淳という人が Python の本を書いているという事実を、シンガーソングライターの柴田淳ははたして知っているだろうか? たぶん、知らんのじゃないかなあ。歌手のほうの柴田淳が、本屋でプログラミング言語関係書のコーナーを見てまわるとはちょっと思えない。ひょっとしたら、しばじゅんファンのプログラマが「じつは同姓同名の人がいて……」と本人に教えているなんてことはあるかもしれないけど。

 それにしても、Python のほうの柴田淳さんはちょっと気の毒かも。だって、「柴田淳」で検索でもしようものなら、圧倒的にしばじゅんのほうばっかりが出てきて、ソフトウェア開発のことが書いてあるページなど埋もれてしまう。初対面の人などには、「うわあ、柴田淳……さんですか」と強烈な印象を与え、一発で名前を覚えてもらえるという利点もあるだろうが、有名人と同姓同名(いやまあ、プロ・プログラマの柴田淳氏のほうも、そっちの業界では有名人だと思うが)というのは、この検索時代にはなにかと不便だろうなあ。

 待てよ、“検索されても埋もれてしまえる”というのは、ある意味、いまの世の中では非常に有利なこととも言えるな。木を隠すなら森の中だ。



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2009年2月 5日 (木)

♪転売は、六千倍の、胸騒ぎ~ (♪六千倍、六千倍)

 たとえば、地方のさびれた駅前にある駄菓子屋と見まがうような店構えの小さな古本屋の百円ワゴンから買った老舎『猫城記』(サンリオSF文庫)の美本が、どこかのSFコンベンションとかで六十万円で売れるもんなら、おれも売ってみたいよ。

 いま、『猫城記』の世間相場は一万円そこそこみたいだけどな(それでも、あんな薄い文庫本が一万円とはすごい)。おれがもともと持ってるやつを売る気は毛頭ないが(よっぽど食うに困ったら売るかもしれん。話自体は全然面白くなかったもんだから、ほとんど憶えていない)、あまりものをよく知らない古本屋の百円ワゴンにほんとうに『猫城記』を見つけたとしたら、狂喜して百円で買って、もののよくわかった古本屋にすぐに一万円で転売するね、おれなら。美本なら、それくらいで買ってくれそうだ。そもそも、サンリオSF文庫の老舎を百円で売ってるほうが古本屋としてどうかしているんだが、万一、そんなのに遭遇したら、これはおいしいよなあ。どこかにそういう古本屋ないかなあ。

 えーと、なんの話だっけ?



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2008年11月18日 (火)

あたしだけ~?

 最近、『七瀬ふたたび』がまたドラマ化されているので、やっぱり観てしまうおれなのであった。七瀬役の蓮佛美沙子は若いころの知世ちゃんみたいで非常にいいのだが、あまりにあまりな低予算にはらほろひれはれとなることもしばしばである。

 それはそうと、『七瀬ふたたび』のせいで、近ごろ、SFファンには基本中の基本、誰もが少年少女時代に思いを馳せたテレパスというものについて、なにやらよしなしごとを考えてみたりしているわけだ。初心に還るとでも申しましょうか。

 思い返してみると、若いころには、マジで、じつは自分以外はみんなテレパスなんじゃないかという妄想に捉われることがあった。なんか、自分だけが、世間の人がそれに従って動いている暗黙の規範が理解できない異人であるかのように感じられることがしばしばあり、ひょっとしたら、世間の人はみんなテレパシーで会話しているんじゃないか、そうだ、そうにちがいない――みたいな荒唐無稽な実感が、ふと真実であるかのように思われることが少なからずあったのである。たぶん、こんな日記をご愛読くださっているみなさんの中には、そういう人も多いと思う(どういう読者層を想定してるんだよ?)。要はまあ、それが若いということのすばらしさでもあり、滑稽さでもあったのだろうけれども。

 しかし、考えてみれば、世間の人がみなテレパスであった場合、それはおれだけが『サトラレ』であるのと同じなのではあるまいか。というか、そもそも『サトラレ』の着想自体が、若いころのおれが抱いていたような妄想から得られたものなのではないかと思うのだよな。

 だが、世間の人がみなテレパスである場合と、おれだけがサトラレである場合とでは、同じように見えて、微妙にちがう。世間の人がみなテレパスであった場合は、世間の人同士で心内会話が可能なのに対し、おれだけがサトラレであった場合は、世間の人はおれ“だけ”の心が読めるのであって、世間の人同士でテレパシーで会話したりはできないのだ。これって、どっちが悲惨かなあ? やっぱり世間の人がみなテレパスである場合のほうが、疎外感が大きいような気はするな。

 ここまで読んだあなたにお願いなのだが、もし、ほんとうにおれ以外の人は全員テレパスなのだとしたら、ほんとうのことをおれには教えないでほしい。あなたたちだけで楽しんでいただくのはいっこうにかまわないが、おれにだけは真実を明かさないでいただきたい。「ひょっとしたら……」と思っていることが、ホントにほんとうだったときのショックは大きいのだ。



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2008年11月 5日 (水)

ブラッドベリ効果?

 “ブラッドリー効果”なんて言葉を、おれは今回のアメリカ大統領選で初めて知ったが、なるほどそういうものがあるのであれば、「私はSFファンです」という人が世論調査で大勢いたとしても、鵜呑みにしてはならんということなのだな。回答者は、SF差別主義者であると見られることを怖れて、とりあえずSFファンだと答えたのかもしれん。

 志賀直哉至上主義者とかなら、べつにSF差別主義者と見られても屁とも思わんだろうし、むしろ誇りに思うくらいかもしれんが、現代の純文学愛好家には、SF差別主義者と見られたのでは心外であると思う人は少なくないにちがいない。「私はSFファンです(と言ってもウソではあるまい。レイ・ブラッドベリとかJ・G・バラードとかクリストファー・プリーストとかはたしかに読んだことあるし。じつはバリントン・J・ベイリーとヨコジュンと田中啓文が大好きなのはひた隠しにしてるけど)」というふうに解釈しなければならないのかもしれない。

 SFファンに向けてのベスト企画とかはよくあるけれど、考えてみれば、不特定多数に向けて「あなたはSFファンですか?」などと単刀直入に訊いたアンケート企画は見たことがない。もしそういうことをやれば、ブラッドリー効果は顕れるものなのであろうか?



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2008年9月25日 (木)

『量子力学の解釈問題―実験が示唆する「多世界」の実在』(コリン・ブルース/訳:和田純夫/講談社ブルーバックス)

 おれはいくつかある量子力学の解釈というものは、あくまで“解釈”であって、どの解釈を取るかは好みの問題にすぎないのではないか、しょせん、“ほんとうに”なにが起こっているのかなど、おれたちにはわかりっこないのではないか、宇宙が“そういうふうに”ふるまうのであれば、どう解釈しようが受け容れるしかないではないかくらいに思っていた。

 だが、この本を読むと、なるほど多世界解釈というのはとても合理的で、オッカムの剃刀の切れ味が冴える考えかたなのだということがよくわかった。これが“正しい”んじゃないかと、ほとんど説得されそうになっちゃいましたな。惜しむらくは、おれには「多世界解釈はおかしい」と自信を持って反論できるだけの、あるいは、多世界解釈を強力に推すだけの、知識も能力もない。「なるほど、言われてみればそうですな」くらいの感じで、ほとんど納得しちゃうのである。近年の実験も多世界の実在を“示唆”(“証明”じゃないのだ。ここ重要!)しているとあっては、素人としては説得される以外にないじゃないか。

 「まえがき」には、非常に挑発的かつ魅力的なくだりがある――「ここ数年【冬樹註:原著の刊行は二〇〇四年】、量子論の暗がりに突然の輝きが見られた。半死半生の猫、あるいは宇宙全体の状態を収縮させる力を備えた、意識を持つ観察者といった不思議な登場人物が現れる古い物語は、時代遅れとなった。新しい物語がいくつか登場し、そのうちの1つは特に有望である。それは我々に、古典的な宇宙を取り戻させる。ものごとはランダムではなく予測通りに振る舞い、相互作用の働く範囲は長距離ではなく局所的である。しかし犠牲も払わねばならない。我々が住む宇宙は、考えていたよりもはるかに、予想外の意味で広大であることを受け入れなければならない」

 まあ、実際になにが起こっているのか、あるいは、量子力学的な現象をどう解釈す“べき”なのかについては、おれにはなんとも言いようがないのだが、ひとつたしかなのは、おれは多世界解釈が好きだということである。実際にこのようなことが起きているのであってほしいと思う。だって、なにより、こうであったほうが面白いじゃないか!

 意識を持った存在とやらの“観測”が全宇宙のありように影響を及ぼすなんて考えかたは、どうも気色が悪い。意識を持った存在に特権的地位を与えているのが、なんとも気味悪い。そんなふうに思う人には、本書は一読の価値があると思うよ。あなたが物理学者であればいろいろとツッコミどころもあるのかもしれないが、そうじゃなければ、たぶん説得されちゃうと思いますな。少なくともおれには、意識を持つ存在になにか特別な力があると思うよりは、おれがいま認識しているこの世界とは決して情報交換できない世界がいっぱいあると考えるほうが、よほど合理的に思えるよ。



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