カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の988件の記事

2009年7月13日 (月)

チェックメイト!

都議選 民主が圧勝第1党、自公は過半数割れ (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0712/TKY200907120254.html

 東京都議会議員選挙(定数127)が12日投開票され、民主党が改選前の34議席から54議席に躍進し、自民党に代わって初の都議会第1党になった。自民は公明党と合わせた勝敗ラインの過半数(64議席)を維持できず、議長選の汚職事件をめぐる「黒い霧解散」で38議席だった65年都議選に近い惨敗。自公の敗北で与党内では衆院解散の先送り論が広がり、「麻生降ろし」が強まりそうだ。民主党は13日にも内閣不信任決議案と首相問責決議案を提出する構えだ。首相が与党の抵抗を押し切って解散に踏み切れるか、問責決議案の提出時に山場を迎えそうだ。石原慎太郎知事の都政運営にも大きく影響しそうだ。投票率は54.49%で、前回の43.99%を10.50ポイント上回った。
 「東京からの政権交代」を目指して前回の51人を上回る過去最多の58人を公認した民主党は現有34議席を上回り、第1党を確実にした。

 この石原伸晃・都連会長の写真はすばらしいなあ。「崩れ落ちる兵士」といった趣だ。「樫山晃生撮影」とある。名前を覚えておくとしよう。おれは石原伸晃はそう嫌いじゃない。自民党を中から変えたがっている一人だろうとは思う。このタイミングでこのような立場に立たされた不運な彼の複雑な心境がこの一枚の写真からひしひしと伝わってくる。惻隠の情すら覚える。だが、自民党は変われなかった。

 『自公の敗北で与党内では衆院解散の先送り論が広がり、「麻生降ろし」が強まりそうだ』とあるが、解散先送りや麻生おろしで多少なりとも支持が増えるとでも自民党がまだ本気で思っているのだとしたら、それは決定的に総選挙での惨敗を意味するだろう。むしろ、解散先送りの声も麻生おろしの声も起こらず、真正面から政策で勝負しようという声が自民党内から湧き起こり、うねりとなって多数派を占めるようなことがあれば(まずないない)、多少は総選挙での勝算があろうというものだ。ここで自民党内から、人事院に大鉈をふるう決意や、消費税を上げることに国民の理解を求める真摯な議論が出てくるものならば、腐っても鯛、さすが政権与党と見直す気にもなろうというものだが……。いまの自民党は、全然正攻法の勉強をしないくせに、偏差値がどうの試験のヤマはどうのと、その場の受験テクニックだけで入試にさえ合格できれば一生安泰とでも思っているアホ学生のようである。あの大学に受かりさえすれば、文学部でも理学部でも法学部でも経済学部でもそのほかでもとにかくなんでもいいと言っている、なにがしたいのかさっぱりわからんダメ学生のようである。

 もう盤面は“詰まって”いるんだから、解散を先送りにしようが麻生おろしをしようが、結果はたいして変わらん。というか、そのどっちをやっても、国民に見離されるばかりだ。その点、さすが小泉純一郎は、親バカではあるが、やはり腹が据わっている。自民党が下野することもあり得るし、だとしても議会制民主主義なんだからべつにあたりまえだと思っている。また取り返せばよかろうと、あたりまえに思っている。これは自民党の中では、ものすごく変わったマインドセットだと思う。変人だよねえ。国民からするとあたりまえの感覚なのだが、自民党の中で“自民党だって当然下野し得る”ということを、現実的なオプションとして常に念頭に置いている人がいったいどのくらいいるものであろうか? 目の前にドラえもんが現れるくらいにあり得ないことだと、何十年にもわたって刷り込まれてきている連中が大勢いるとおれは思う。おれは、そういう人々は、次の総選挙後に発狂するか、ショックのあまり頓死するんじゃないかと思っている。

 おれは選挙権を得てから二十六年半、ひどい風邪で身体を起こせなかった一回を除いて、すべての地方選挙、国政選挙に欠かさず票を投じてきた。自民党から共産党まで、選挙の性質をその都度考えて、いろいろな政党のいろいろな候補者に票を投じてきた(おれをよく知る人は当然だとお思いになるだろうが、もちろん公明党にだけは一度も入れたことがない。おれは宗教を必要としないし、宗教が嫌いである。よって、幸福実現党も自動的に選択肢から外す)。その多くは“死に票”になったが、おれは後悔はしていない。おれはおれの意思をその都度表明した。「おまえは何党支持なのだ?」と非難されようと、おれはおれがその都度いろいろな党のいろいろな候補者に票を投じてきたことに、恬として恥じるところはない。

 おれは十三年弱、ウェブで日記を書いているが、いままでに一度も選挙前に自分の“今回の支持政党”を表明したことはない。なんか、選挙運動みたいになるのが厭だったからだ。だが、今回、初めてその禁を破る。おれは次回の総選挙では、小選挙区も比例も、民主党に入れるつもりだ。おれは民主党の支持者なのではない。ただ、自民党を一度“ほんとうに”完膚なきまでに下野させないと、今後の日本のためによくないと考えるからだ。これまでおれが野党に入れた票は、「政権を取ってくれ」という意味ではなく、「しっかり自民党をチェックしてくれ」という意味で入れてきた。だが、今回はちがう。民主党に政権を取らせたい。というか、自民党を下野させ、官僚の中の腐った連中とのしがらみを一度断ち切りたい。そして、民主党に、官僚の癌を掃除してもらいたい。ほんとうに国を憂えている優秀な官僚たちが、ほんとうに動けるようにしてもらいたい。それから、消費税を上げる議論を真剣にしてもらいたい。「この時期に議論すらすべきではない」などとふざけたことを言ってる場合か。そもそも、議会制民主主義下において、「議論すらすべきではない」などというアホなことを代表が口にすべきではない。核武装だろうが天皇制廃止だろうが、議論すらすべきでないことなど存在しないのが民主主義国家というものだ。ともかく、増税は避けて通れないことだ。ほんとうにちゃんと使われるのなら、おれは二十パーセントくらいでもしんどいけど払うよ。おれが民主党に期待するのは、それだけだ。

 ある意味、民主党は自民党によく似ているからこそ、おれは今回あなたたちに賭けてみる気になった。自民党と官僚の癌たちは、お互いに依存していて、お互いをがんじがらめにしている。千日手だ。涼宮ハルヒの夏休みのように、ちょっとずつちがうだけで同じことを延々と繰り返している。それを断ち切ることで起こる変化に賭けてみるしかない。かといって、社民党やら共産党やらに国を預ける気になりますか、あなた? ないない。共産党はまだ、政権のチェック機関としての調査能力やツッコミ能力には端倪すべからざるものがあるから、一定の議席を与えておくことは長期的に国益に資するが(それにしても、そろそろ党名変えたらどうよ、共産党?)、社民党なんてあってもなくても同じである。旧・社会党のしがらみを断ち切って、民主党と合併したら? おれはあんたたちの北朝鮮問題に関する禊がすんでいるとは全然思っていない。公明党? まあ、節操のない政党だから、ピンチになったらどことでも野合するだろう。民主党の集票マシンとして利用する目も、いずれはあるかもしれない。集票マシンとしては、一定の存在価値はあるしな。トップが右向けと言えば都合よく全員に右を向かせることができる便利な政党だ。幸福実現党とやらも、集票マシンとしての使いみちはそのうち出てくるかもしれん。

 やれやれ、ちりめんじゃこにタコが入っているかどうかに一喜一憂するアホ日記であるべく心がけているのだが、このところ、マジで国を憂えてしまっているな。おれの身の丈に合わない。こんなの、読んでて面白くないだろう。

 ああ、それにしても、総選挙が楽しみだなあ! おれはいままでこんなに選挙が楽しみだったことはない。選挙権というもののありがたみを、いま都こんぶのように噛み締めているところだ。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年7月12日 (日)

呆れるほどわかりたいもんだなあ

 夏休みを目前にして、予備校やら家庭教師派遣会社やらのテレビCMが増えてきたが、東進ハイスクールの先生が「でも、絶対わからせますから。ホントに、呆れるほどわかるほどわからせますから」と宣言するCMには、大爆笑してしまった。

 いや、べつにおれはこの先生を揶揄しているのではない。むしろ、予備校の先生としては、きわめて正しい態度だと思う。大人がこういうのを見ると、言葉の綾というものだと話半分に捉えてあたりまえだが、不安でいっぱいの自信もない受験生にとっては、とても頼もしい先生に見えるだろう。「これだけ大口を叩くからには、わからせる自信があるにちがいない。“嘘つき”と言われるかもしれないリスクをこの先生も負いながら大口を叩いている。これだけコミットしてくれるのなら、おれも死にもの狂いでついていってみようか」と思う生徒もいるだろう。医者が不安そうにしていると患者も不安になるわけで、“病気を治す・克服する”という明確な目標を前にした場合、やはり、医者は(本音では不安でも)自信たっぷりな態度を演じなくてはならない。演じることが、プラグマティックに患者のためになる。

 してみると、医者と予備校の講師というのは、とてもよく似ている。実際に病気と闘うのは患者だし、実際に入試を受けるのは生徒なのであって、医者や講師はどれだけ親身になってくれようが、しょせん当事者になることはできない“サポートの専門家”なのである。生きる気がない患者や勉強する気がない生徒を助けろといっても、それは無理な話だ。ブラック・ジャックだってそんなことはやっとられん(まあ、彼はお人よしだと自嘲しつつも、患者を生きる気にさせるところまでしばしばサポートしてしまうわけだが……)。

 で、おれがなぜ爆笑したのかというと、「呆れるほどわからせる」というフレーズが、滑稽さと真剣さがないまぜになった、じつに秀逸なコピーだったからだ。ふつう、「わかる」という動詞を修飾する言葉としてはまず使わないよな、これは。「昨夜焼きいもを腹いっぱい食ったら、呆れるほど屁が出る」みたいなことは、ふつうに言いますけどねえ。なにかが「呆れるほどわかる」状態などいうものがもしあるのだとすれば、それはぜひ一度は体験してみたいものだという気になるじゃないか。

 もちろん、おれは生まれてこのかた、いまだかつて一度も、なにかが呆れるほどわかったことなどない。これからも、たぶん死ぬまで一度もないだろう。そもそも、自分が多少は詳しいことであっても、なにかを知れば知るほど、わからないことが増えてゆくのがふつうである。なにかが“わかる”と、それまでは“わからないということさえわからなかった”ことが、ようやく“わからない”という領域に新たに浮かび上がってくる。知識が増えると、増えたぶんよりはるかに多く、未知が増える。つまるところ、わからないことが増えるということこそが、なにかがわかるということなのだとすら、おれはこの歳になってようやくしみじみ思っている。まあ、そんなこたあ、そこそこ生きてきた大人ならみんな思っているだろうし、この先生だって百も承知なのだ。そこをあえて「呆れるほどわからせる」と演じてみせるこの先生には、たしかにプロとしての気概を感じる。

 それこそ孔子じゃないが、森羅万象の真理が朝に「呆れるほど」わかったら、おれもべつにその夕方に死んだってかまわない。もっとも、呆れるほどわかってみると、「これをぜひ人にもわからせたい」という新たな欲が出てくるものなのかもしれんが……。

 「そ、そうか……。つまり、“42”だったのか!」



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年7月11日 (土)

準児童ポルノ

 おおお、な、なんといういやらしい画像だろう。こっそりあなただけにお教えしておこう。消されないうちにダウンロードすることをお勧めする。いい歳をした豊満な大人の女性が、性器を剥き出しにした全裸の二人の児童を戯れさせ、いやらしい笑みを浮かべならがそれを眺めている。この女性はそういう趣味なのだろうか。コーフンする。劣情を催す。これで二、三発は抜けそうだ。

 あ、しまった。リンクを張ってしまった。おれはもしかすると近いうちに逮捕されてしまうかもしれない。もし長期間更新が途絶えたら、おれはブタ箱にぶちこまれていると思ってください。しばしのあいだ、さようなら、みなさん。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年7月 9日 (木)

ストレス解消

 駅のホームでチューインガムを踏んだ。ひょっとしたらフーセンガムだったのかもしれんが、何ガムであろうと知ったことではない。腹立つ。駅のホームにチューインガム(フーセンガムかもしれんが)を噛み捨てるとは、まったくどういう神経であろうか。親の顔なんか見たくない、本人の顔が見たい。

 おれはこういうとき、掛け値なしの殺意を覚える。哀川翔じゃないが、もし自分の子(おらんけど)がこのようなことをしていたら、半殺しにしてやろうと思う。

 おれに恨みがあって、おれにチューインガム(フーセンガムでもいいが)を踏ませてやろうと企み、物陰からおれが不快な顔をするのを見てけけけと楽しむというのなら、まだ人としてその気持ちはわかる。しかし、このガムの主は、おれを狙ったわけではない。ここにチューインガム(もうチューインガムにしとこう)を噛み捨てたら、“誰か”がおそらく踏むだろうが、かまうものかと思って噛み捨てているのである。またそれを“誰か”が掃除するのだろうが、その誰かは掃除が仕事なのだからかまうものかと思っているのである。「誰でもいいから殺したかった」というのと、程度の差こそあれ、方向性は変わらん。こんなやつは人間じゃねえ! 叩っ斬ってやる! (ふるー)

 と、おれは同田貫を右手にホームを見まわしたが、誰を叩っ斬ったものかわからない。行き場のない怒りが、さらにふつふつと湧き上がってくる。

ドラえも~ん!

 おれはドラえもんを呼んだ。こんなとき、彼ならなんとかしてくれるにちがいない。

 ドラえもんはたちまちひみつ道具を出した。♪チャッチャカチャッチャッ、チャーチャー、チャ~~~

ゴーバック・スプレー!

 はて、ユービック・スプレーなら聞いたことがあるが、これはいったいどういうひみつ道具なのだろう?

 ドラえもんは、ホームにへばりついている手近なチューインガムにゴーバック・スプレーを噴射した。

 すると、どうだろう! チューインガムはもこもこもこもこと蠢いたかと思うと、宙に飛び上がり、ものすごいスピードでビル街のほうに飛んでいった。聞けば、いまごろ、これを噛み捨てたやつの口の中に飛び込んでいるはずだと言う。

 これは痛快だ。

 おれはドラえもんからゴーバック・スプレーをひったくると、点字ブロックの上でてらてらと光っている薄緑色をした痰の塊に噴射した。痰はなにかを思い出したかのようにおれの目の高さまで舞い上がると、二十メートルほど離れたところでケータイを覗き込んでいるスーツ姿の男の口に飛び込んでいった。

 いいねえ!

 気をよくしたおれが、喫煙コーナーのそばでとぐろを巻いていたウンコにゴーバック・スプレーを噴射すると……。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年7月 8日 (水)

残酷な数字のテーゼ

アニメ映画「ヱヴァンゲリヲン」 信じられない低視聴率のナゾ (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/07/07044828.html

日本テレビ系で放送されたアニメ映画「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」の視聴率が12.7%(関東地区)という予想外の低さになった。高視聴率を予想する向きもあっただけに、「何かの間違いだろう」といった見方も出ていた。その真相は?

(中略)

アニメに詳しいジャーナリストは、アニメファンのここ数年の傾向として録画してから見るという人が増え、「Gガイド・テレビ王国」のランキングでもランキングの上位にアニメが登場する事が増えたと、分析している。また、「ヱヴァンゲリヲン」の場合、小さい子供やお年寄りには馴染みが薄く、ファンは学生や社会人中心。放送時間には外出している場合が多いため、ジブリの「千と千尋の神隠し」のような視聴率にならないのは当然だ、と話している。
ビデオリサーチの視聴率には録画が含まれていない。そのため、リアルタイムにテレビを見る数だけでは正確さに欠ける、などの議論が繰り返されてきた。ビデオリサーチは07年7月2日、現状の視聴率調査に加え「Gガイド・テレビ王国」が行っているようなパソコンによるテレビ視聴を、11年7月を目途に調査に加える方針を明らかにした。また、録画された番組が実際に視聴されたかどうかを認識する技術の開発を進めるという。

 わはははは、旧来の“視聴率”というものがこれほどわかりやすく崩壊すると、なかなかに痛快なものがあるな。おれも録画しながら観たが、リアルタイムで観たわけではない。つまり、CMがうっとうしいので、おれは観ようと思えばリアルタイムで観られるものでも、わざと十分から十五分ほど遅れて“追いかけ再生”で観はじめ、CMを跳ばして観ているうちに徐々にリアルタイムに追いつき、終わるころにはほぼリアルタイムで終わるような観かたをするのが常だ。ハードディスクレコーダのなにが便利と言って、こういう“追いかけ視聴”ができるようになったところが革命的だった。同時に「旧来のテレビCMは死んだ」と思ったね。

 エヴァの視聴率が低かったって? そりゃそうだろう。たとえば、サザエさん一家が茶の間に集まって、みなで『千と千尋の神隠し』をリアルタイムで観ている図は自然に想像できるが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観ているところなど想像もつかん。


  波平 「なんじゃ、『序』にはアスカは出んのか?」
  フネ 「お父さん、いい歳をしてなんですか」
  波平 「そういう母さんだって、冬月萌え~じゃないか」
  マスオ 「ぼくはレイ派ですから」
  タラ 「ぼくはペンペンでちゅ~」
  サザエ 「あら、ミサトの冷蔵庫に入ってるビールの銘柄がテレビ版とはビミョーにちがうわ」
  ワカメ 「ホントだぁ」
  カツオ 「それにしても、こんなすごい技術がある時代なのに、どうしてシンジはカセットテープなんか聴いてるんだろう?」
  マスオ 「そのあたりの狙いは、大人になればわかるよ、カツオ君」
  フネ 「ほらほら、シトが来ましたよ」
  波平 「ヤシマ作戦はいつ観ても興奮するのう」
  マスオ 「そうだ、明日、みんなで『破』を観に行きませんか、お父さん?」
  波平 「そりゃあいい」
  カツオ 「わーい、明日はみんなでヱヴァンゲリヲンだ!」
  タラ 「ヱヴァンゲリヲンでちゅ~」
  サザエ 「あたしみたいなおばさんが映画館でどんな顔したらいいのかわからないわ」
  カツオ 「笑えばいいと思うよ」
  一同 「あはははははははははははははははははははは」


 き、気色悪ぅ~。あり得ねー。もし、あり得たとしても、おれはこういう家庭では育ちたくねー。《エヴァンゲリオン》とか『ブレードランナー』とかいうものは、夜中に独りで自分専用のテレビかパソコンかポータブルDVDプレイヤーで観るもんだ。そういえば、『ブレードランナー』だって、劇場公開時にはぱっとしなかったのに、ビデオが出てから急速に人気が出たんだよね。独りで“浸る”のに向いた作品ってのは、あきらかにあるのだ。一家団欒の茶の間で、家族がみな同じ番組をリアルタイムで観るなどという昭和的な風景をいつまでも想定モデルにしていたのでは、意味のある視聴率調査はできない。

 ま、近い将来、面白い技術を駆使した視聴率調査方法が出てくるんだろうね。顔認識技術を用いたデジタルサイネージの視認効果測定方法みたいなものが、視聴率調査世帯のテレビに実装されるようになるかもしれん。

 テレビに内蔵された抽斗のようなものがぱかっと開いて、中からクッキーが出てくる。視聴者がそのクッキーを食うと、練り込まれたマイクロマシンが長期的に体内に定着してRFIDタグとして働き、AV機器が個々人を識別して……。そ、それはちょっとディック的すぎるか。



| | コメント (6) | トラックバック (1)

2009年7月 7日 (火)

脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



| | コメント (17) | トラックバック (0)

2009年7月 6日 (月)

こりゃ、いまの日本には絶対作れないものだよなあ

米連邦政府,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」と専用YouTubeチャンネルを開設 (ITpro)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20090701/332965/

 米連邦政府の最高情報責任者(CIO)であるVivek Kundra氏は米国時間2009年6月30日,政府の支出情報公開サイト「USASpending.org」内に,IT支出情報の開示コーナー「IT Dashboard」(ベータ版)を新設したと発表した。またビデオ共有サイト「YouTube」内に専用チャンネル「USAspending」も設けた。
 IT Dashboardでは,国防総省(DOD)や国土安全保障省(DHS),保健社会福祉省(HHS)といった組織におけるIT支出状況や投資プロジェクトの件数などをグラフ形式で示す。全体的な状況に加え,組織ごとの支出や進ちょくも確認できる。更新情報のRSSフィード配信も行う。
 グラフなどは,各組織から連邦政府の行政管理予算局(OMB)に提出されたデータから生成する。7000件以上あるIT投資プロジェクトの概要を掲載するほか,800件弱の主要プロジェクトについてはより詳細なデータを公開している。

 ううううむ。わしゃ、この IT Dashboard を見て、orz とくずおれたよ。すげー。

 こういうものを作るITの技術力がすごいと言っているのでは、もちろんない。この程度のものを作れる技術者なら、日本にもうようよおる。そこいらへんにいっぱいおる。作れる技術力なら、日本だってアメリカに勝るとも劣らん。だが、作らせることができるリーダーシップとコラボレーションの体制に関しては、彼我の差はまるで大人と子供、いや、大人と赤ん坊だ。作れる技術は十二分にあるのに、作らせるほうがボンクラなので、日本にはせいぜいこの程度のおもちゃしか作れない。な、情けねー。「そんなことはない」という政治家やお役人方、じゃあ、作ってみろよ。賭けてもいいが、絶対に作れないから。どんなに優秀なIT技術者を大量に雇っても、金を湯水のように注ぎ込んでも、絶対に作れないから。その理由は、あんたがたがいちばんよく知っているはずだ。

 このオバマ政権の IT Dashboard の開発に携わった技術者を全員日本にヘッドハントしてきて日本の“電子政府の総合窓口”とやらを作らせたとしても、現状と似たり寄ったりのろくでもないものしかできないと断言できる。つまるところ、問題の本質はじつに簡単なことなのだ。つまり、ITの力を引き出せるかどうかは、コンピュータ技術の問題でもなければ、ソフトウェア開発技術の問題でもないということである。

 それにしても、こういうもんをちゃちゃっと作らせることができる(“作ることができる”ではない)アメリカ合衆国という国は、虚心坦懐にすごいと思うね。

 よく、日本人は個人プレイよりもチームプレイが得意だとか、アメリカ人は一人ひとりが自分勝手だから集団行動が苦手だとか、根拠のない(事実に基かない)印象だけでほざく人がおるが、おれはその手の思い込みは笑止千万だと思う。アメリカ人は、互いに異質でバラバラのやつらが、まとまればまとまるほど賢く強くなってゆき、日本人は、個々人は優れている均質なやつらが、集まれば集まるほどアホになり弱くなってゆく。

 チームプレイが得意な国で年金が消えたりするかよ。党利党益、省利省益しか考えていない政治家と役人が馴れ合って国民不在の政治と行政を自分たちだけのために回し、そんでもって、それだけコケにされても、ろくろく選挙にも行かない国民が大勢いる日本人の、どこがチームプレイが得意なものか。あの、大多数はどう見ても能天気な阿呆としか思えないアメリカ人どもが、なぜ世界の頂点に立っているのかを、もう一度、虚心坦懐に見つめ直すべきだ。やつらは、いまのおれたちにはないものをたしかに持っている。それは“多様性というのは善である”という、たしかなマインドセットだ。そりゃあ連中だって、多様性の善を否定するようなことをしてきた。しかし、やつらは、それを自浄する能力を持っている。これは手強い。多様性の善は、生物界に於いて、三十八億年以上の実績を以て証明されてきた強力な戦略だからだ。これを国家存続のための哲学とした国は、絶対に侮れん。

 日本は、このままで行けば、数十年後には、中国の“ヤマト自治区”になっているか、アメリカの五十一番めの州になっているか(まあ、いまだってそうだという見解もある)のどっちかだとおれはマジで思うのだが、どっちかを取れと究極の選択を迫られたら、おれは日本をアメリカの五十一番めの州にしたい。むろん、独立国であることが、いちばんいいに決まっているのだが……。

 おれは思うのだが、日本人というのは、ステレオタイプな日本人像とはまったく異なり、組織やシステムの不備や怠慢を、個人個人の優れた能力と自己犠牲で切りまわしてきた、世界にも稀に見る“個人プレイ”が得意な民族なのではあるまいか? “和を以て尊しとなす”という言葉を、誰よりもはきちがえてきたのは、当の日本人なのではないかと、最近切に思うのだ。

 いまこそ日本人は、ほんとうのチームプレイ、多様性を善とするチームプレイというものを学びはじめなくてはならないのではなかろうか? その最良の教師は(反面教師も含めて)、やっぱりおれはアメリカ合衆国だと思うのだ。はっきり言って、やつらは、いまの日本人よりも、はるかにチームプレイが得意である。そうじゃないと言うあなた、たとえば、在日朝鮮人の二世や三世や、中国残留孤児の二世や三世が、能力さえあれば、近いうちにこの国で議員や大臣や首相になれると思うか? アメリカ合衆国という国の連中は、それに近いことを、すでに実際にやってのけているのだ。



| | コメント (30) | トラックバック (3)

2009年6月30日 (火)

“現役女子高生”の怪

 “現役女子高生”というのは、よく考えてみると、じつに不思議な言葉である。わざわざ“現役”であると説明しているわけだから、世の中には“現役でない女子高生”も現役女子高生と混同しかねないほど多く存在していることを前提としているわけだ。

 しかし、“現役でない女子高生”とはいったいどういう存在であるのかと可能性を検討してみると、高校に行っていないが女子高生のふりをしている“ニセ女子高生”であるか、かつては現役女子高生であったがいまはちがう“元女子高生”であるかのいずれかだろう。しかし、高校全入に近い状態のいまの日本では、ニセ女子高生などというものは現役女子高生に比べれば圧倒的な少数派であろうから、なにもわざわざマジョリティーのほうに“現役”などと冠をつけなくとも、女子高生といえば、十中八九現役なのである。

 一方、“元女子高生”の場合、そんなものはそこいらへんにいっぱいおるうえに、現役女子高生との混同を惹起するような、不正競争防止法に抵触しかねない外見を元女子高生がキープしていることはきわめて少ない。そもそも、“元”なんとかってのは、“元レースクィーン”とか“元バスガイド”とか、ある程度の希少価値がある経歴に言及する際に用いるのであって、そこいらのおばはんが「あたし、元女子高生なのよ」などとほざいてまわったら、それがいかに論理的に真である叙述であっても、鼻で笑われるか石を投げられるだけである。

 ではいったい、この“現役女子高生”という不可思議な言葉が、なぜかくも人口に膾炙しているのであろうか?

 容易に想像できるのは、やはりこの言葉は、性風俗産業用語が一般に広まったものなのではないかということである。そのむかし、どう見ても“元女子高生”にしか見えない女性が女子高生を演じるのが常態であった時代があり、消費者のほうもそれはちゃんとわかっていて幻想を投影していたのだが、いつのころからか、ほんものの女子高生が業界に参入してきて、そうした黎明期には、“現役”であることが差別化の重要な要素であったわけなのだろう。「女子高生て書いたあるけど、そんなもんウソに決まってるやん」という前提をみなが暗黙裡に持っていた時代に、“現役女子高生”というコピーには、さぞやインパクトがあったことだろう。

 おれくらいの年齢だと、そういう歴史的経緯が容易に推察できるのだが(ま、最後の“ビニ本”世代ですからね)、よく考えてみると、いまの若者たちには、“現役女子高生”という言葉が、おれたちが思う以上に奇異に響いている可能性はあるんじゃなかろうか。彼らにとっては、べつにほんものの女子高生がメディアで裸身を晒していたとて、「それがなにか?」といった感じであるにちがいない。“ジュニアアイドル”という名の小中学生が、小便臭い大胆な水着姿を晒しておっても、べつに珍しくもなんともないからな、いまは。

 “現役女子高生”という文字列に、ある種のノスタルジーと多少のインパクトを覚えているのは、おれたちよりちょっと年配の世代から上だけなのかもしれない。団塊の人たちなのかもな、若かりしころ、「げ、げんえきじょしこーせー!?」などと衝撃を受けていたのは。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月29日 (月)

謙虚になれ、爺いども!

小中学生のケータイ所持禁止 石川県条例案に異論 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/26043914.html

子どもには携帯電話を持たせないように保護者への努力義務を課す――。石川県議会に提出された条例案に異論が出ている。取り上げても、抜け道がいくらでもある、という指摘や、下校後の塾通いや防犯対策を考えると必要だ、という意見だ。実際、明確なルールを決めた上で携帯電話の持ち込みを認めている学校もある。

(中略)

一方、デジタル・メディアが教育上与える好ましくない影響についての調査を行っている、NPO法人青少年メディア研究会の理事長・下田博次さんは、今回の石川県の条例案について「条例で(携帯電話所持禁止に)踏み込むという姿勢を示したことがよかった。実効性は別だが、地方自治体が(小中学生の携帯電話利用への)危機感を持っている証明だと思う」と指摘する。

「携帯電話を持っているからネットいじめ、出会い系サイトの問題が成立しているのが現状です。これらは当然、携帯電話を持っていなければ、成立しない問題。こうした事件が携帯電話の普及とあいまって増していることを考えれば、私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」

 いろいろと議論をする中で、大人が世の中に追いついてゆこうと試行錯誤や努力をするのはじつによいことだ。思考停止をせずに、もっとああでもないこうでもないと、おれたちは考えてゆかねばならない。

 しかし、このNPO法人青少年メディア研究会の理事長とやらの見解にはずっこけた。「私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」だって? なにを言っているのかわかっているのか? 要するに、これは大人が「おれたちのわからんものを若いやつに持たせてはいかん」と言っているわけである。アホか。典型的なロートルの発想である。いつの世も、上の世代が理解できない新しいものがほんとうに世の中を変えてきたのだ。あんたも若いころは、「大人はわかってくれない」と思っていたことはないのか? それを忘れたのか? 手塚治虫だってビートルズだって筒井康隆だって、最初から大人たちは褒め称えていたのか?

 この理事長さんは、野口悠紀雄の言をとくと聴くがよい──

野口 それは、GPTの種類によるのですね。「電力の場合にはイギリスに不利な技術変化だったけれど、ITは逆で、日本に不利な技術変化だ」というのが、この本の主張です。
 例えば、ITは1980年代以降のものですから、その頃すでに企業の中堅になっていた世代の人たちが、いま企業において決定権を持っているわけですね。その人たちは、新しい技術に適応力を持っておらず、ITが得意なのは若い人です。だから、もし会社の中でITを活用するようなことになったら、下克上が起こる。
 そういう人たちがITの導入に積極的な考えを持つとは考えられません。これは、日本型企業のひとつの特徴である年功序列制が、新しい技術の導入に抑制的に働くことを意味します。

 そう、つまり、この理事長のものの考えかたは、“自分たちにわからないものを若いやつが自在に駆使するのは危険だし、面白くない”といった、結果的に組織や企業や国家の総体としての競争力を下げる方向に働く考えかたなのである。つまり、凡百のロートル経営者と同じ“すでに自分は終わっているくせに既得権にだけはしがみつこうとする”卑しい発想にすぎない。これこそ、日本がITをハコモノとしてしか捉えず、国を、社会を豊かにするためにITの真の力を引き出せない大きな理由のひとつだ。小学生や中学生には、ITの理論や仕組みはまだよくわかっていないかもしれない(が、興味さえ持てば、MITの講義だって無料で視聴できる仕組みはすでに開放されている。いま小学生の子らだって、やる気と興味さえあれば、数年後には、それらを直接利用し理解できるようになれる)。しかし彼らは、その“活かしかた”においては、下手な企業をはるかに凌ぐ。野村総研“産消逆転”などと言われて、国や企業は恥ずかしくないのか? ガートナー「大きな変革が足元で起きていることを認識してほしい」などと言われて、国や企業は危機感を覚えないのか?

 もたもたしている大企業のロートルをよそに、優れた中小企業の経営者たちは、あたかも小・中・高校生たちのようにITを利活用しはじめている。投資額では大企業に遠く及ばなくとも、その利活用の知恵は大企業をはるかに凌ぐケースも少なくない。「ややこしいことは専門家に任せておけばよいが、こんなに使えるものを本業の経営に使わんでどうする? おれは技術者になるつもりはないが、経営者としてこの強力な武器を活かすために学ばねばならんことがあるなら、いくらでも学んでやる!」という、経営者としてじつに正しい気概が彼らにはある。それはあたかも、難病に立ち向かう決意をした個人が、「おれは医者じゃないし、なるつもりもないが、この病気を克服するためなら、おれの病気や治療法を当事者として患者なりに理解する努力をせねばならん」と、医学的な知識を身につけようとしているかのようである。

 おれはなにも爺さんたちに十六進数で寝言を言えとか、TCP/IP のヘッダの構成くらい暗記しておけとか、Perl や PHP や Python や Ruby でばりばりコードを書けとか言っているわけではない。新しく出てきたものが“使える”ものであれば、それを自分の本業(たとえば、経営)に“活かす”ためのリテラシーくらいは、いくつになっても謙虚に身に着けようとせよ、とくに自分より年下の者に学べと言いたいだけである。

 その自分たちの怠慢を棚に上げて、「おれたちにわからんものを若いやつが使いこなすのはけしからん」などというくだらない考えを、さも教育的に重要なことであるかのように吹聴するロートルどもの気が知れん。おれはこのような年寄りにだけは、絶対になりたくない。

 なんのことはない、ケータイがどうしたこうしたという問題は、子供の問題ではないのだ。大人の側の怠慢の問題である。

 将来もし、魔法がおのれの本業や社会全体に大きな影響を及ぼす重要な技術として台頭してきたならば、おれは魔法を子供のころから使いこなしている若いやつ(“マジカル・ネイティブ”?)に教えを乞うだろう。『はじめての魔法』とか『図解でわかる魔法』とかいった本を買ってきて読むだろう。〈日経魔法ストラテジー〉を定期購読するだろう。「魔法 is beautiful」「404 魔法 NOT FOUND」といったブログのRSSを受けるだろう。自分が魔法に習熟できなくとも、その利活用のしかたについては、年の甲に頼って、あんまりない知恵を精一杯出そうとするだろう。

 まちがっても、「おれのわからん魔法を若いやつが使いこなすのはけしからん」などとほざく爺いにだけはなりたくない。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年6月27日 (土)

♪寂~しさに負けた~、いいえっ、タヌキに負けた~

寂しさに負けた…タヌキの置物何度も盗む 容疑者を逮捕 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/NGY200906250001.html

 陶器のタヌキの置物を盗んだとして、愛知県警豊橋署は25日、同県豊橋市多米町、無職木村修武容疑者(52)を窃盗の疑いで逮捕した、と発表した。木村容疑者は独り暮らしで、「寂しさから盗んだ。ここ1年で、10体のタヌキの置物を盗んだ」と話しているという。
 同署によると、木村容疑者は24日午後11時10分ごろ、同市内の会社員男性(41)方で、庭にあった全長約60センチの陶器のタヌキの置物(1万円相当)を盗んだ疑いがある。木村容疑者はこの置物を盗んだ後、さらにタヌキの置物もう1体を盗もうと戻ってきたところを、男性に見つかり、110番通報で駆けつけた同署員が逮捕した。
 木村容疑者が、なぜタヌキの置物を狙っていたのかは不明で、同署員は「(木村容疑者は)タヌキマニアなのかもしれないが、よくわからない」と話している。

 まあ、先日の「ヘビの散歩」のおっさんだってそうだけど、はっきり言って、どこか“病んでる”よなあ、この人たち。だが、病んでいるがゆえに、そりゃ犯罪はいかんけれども、どうもその、そこはかとない惻隠の情というか、けっして人ごとではないなにかを感じて、妙にいとおしくなってしまうことも事実である。いやそりゃ、犯罪者ですよ。でも、悪い人じゃないような気がしちゃうんだよねー。

 これが仏像かなにかなら、オーガナイズされた組織犯罪の匂いみたいなものがして、とたんに関心が失せるのだが、タヌキの置物ってとこがしょぼくていいじゃないすか。“業”のようなものを感じる。おれもいつの日にか、カエルの置物の連続窃盗犯として逮捕されるところまで壊れてしまうようなことがないとは言えない。

 もしそういうふうにおれが壊れてしまったら、おれの友人・知人の方々にはお願いがある。「まさか、あんな真面目そうな人がこんなことを……」みたいな薄っぺらなことは、けっして言わないでほしい。え? べつに頼まれんでも言いませんかそうですか。でもまあともかく、「ああ、とうとうやりおったですか。そのうち、なんかやるんやないかと思うてました」くらいのことを言って、マスコミを喜ばせてあげてほしい。え? べつに頼まれんでも、そういうふうに言いますって? いやあ、嬉しいね、そりゃ。さすがおれの友人・知人だけのことはある。いつ壊れても安心だ。じゃあ、頼みましたよ。

 ここまで壊れたかないけどねえ……。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月25日 (木)

採用条件:地頭のよいバカ

文科相「平日の就活禁止を」新ルールづくりへ持論披露 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0624/TKY200906240374.html

 「就活」に新しいルールを――。塩谷文部科学相は24日の参院行政監視委員会で、学生の就職活動が長期化、早期化して学業に影響が出ていると指摘されていることに関連し、「少なくとも平日は、企業も就活(就職活動)の会合をしてはいけないとか、それぐらいのルールを最低限つくってもらいたいと思っています」と述べた。
 山下芳生議員(共産)が「学生は大学3年の早い時期から負担を強いられている」として就職活動のルールづくりを求めたのに答えた。
 塩谷文科相は「かつては就職協定があり、今は(日本経団連の)倫理憲章のもとにやっているが、現実には守られていない」と指摘。「要は授業のある日は(企業が就活中の学生を集める会合を)やっちゃいけないとか、それぐらいのルール」が必要だと語り、山下議員も「なかなか具体的な検討内容を披瀝(ひれき)していただいた」と評価した。
 就活に関する新しいルールづくりは、何度も議論にはなるものの、企業側が難色を示すなど状況は変わらないまま。ただ、今回の大臣の持論披露には、当の文科省内でも「ちょっと現実的ではない」と受け止められている。(青池学)

 塩谷文科相の持論はたしかにいまの状況に照らすと現実的ではないとは思うが、“学生は勉強せえ”というあたりまえのことをあたりまえに言っている点で評価できる。あたりまえのことをあたりまえに言うことは、存外に大事なことだ。

 少し前にあちこちで話題になった「三角錐の体積が計算できない技術系新入社員---深刻な若手の学力低下」という記事をいま一度併せて読むと、いったい企業側はなにを求めているのかよくわからなくなる。おれがわからなくなるのだから、就職活動中の学生諸君はなおさらわからないだろう。企業側は、自分たちが大学でろくろく勉強させずに採った学生の基礎学力がないと言って嘆く。矛盾しとらんか?

 企業側のぶっちゃけた本音を想像するに、「十八、九歳の時点の瞬間風速でそこそこの大学に入れたという“そこそこの地頭のよさ”だけを一応証明してくれれば、大学の役目などそこで終わっている。大学でなにを学ぶかなど知ったことではない。というか、あんまり余計なことを教えないで、できるだけ白紙のままでこっちに渡してくれ」ということなのではなかろうか? つまり、“できるだけ地頭のよいバカが欲しい”というのが企業側の(もしかすると、企業側自身も気づいていない深層の)本音なのかもしれん。

 このような企業側の明示的メッセージと暗示的メタメッセージとの乖離は、学生たちをいわゆる“ダブルバインド”の状況に置く。学生たちは、“私はじつは「やればデキる子」なのですが(その証拠にそこそこの大学には入れたのです)、大学では毒にも薬にもならないことをちゃんと勉強するふりをして着々と単位を取っているくらいに世渡りは上手です。もちろん、卒業後はどんな色にでも簡単に染まってみせる、要するにあなたがたの脅威にはけっしてならないアホです”というケッタイなアピールをしながら就職戦線を戦わなくてはならない。

 大学生にろくろく勉強をさせないように行動しながら、採用した新人の基礎学力がないといって嘆くのは、ちょっと学生に酷じゃないの? 企業側はここらで本音で勝負したほうがいいと思う。「まぐれだろうがなんだろうが、そこそこの大学に入れたという一事を以て、少なくとも地頭は悪くないと認定する。だから、大学生時代はできるだけ余計なことは学ばないでくれ。なあに、こっちが内定さえ出しゃ、大学の教師なんぞ簡単に折れて卒業させてくれるよ。キミは義務教育修了程度の四則演算と日本語の読み書きができりゃいい。その代わり、ウチの会社に入ってから、ちゃんと“教育”してあげるからウチに来てくれ」──要するに、こう言いたいのだろう? ぶっちゃけた話。

 「へえ、企業ってそうなんだ? じゃあ、大学なんて要するに“入れれば勝ち”なんだね? よーし、大学入って、思いきり遊んで、立派な“地頭のよいバカ”になっていい会社に入るぞお」などと目から鱗が落ちた学生が仮にいたとしたら、そういう人は「優秀なエンジニアは「入社時のスキルを問わない会社」には就職してはいけない」という、これまた一時話題になったブログエントリーも読んでおいたほうがよい。べつにこれって、もはや“SIer”にかぎった話じゃないからね。定式化すると、“○○を以て競争力とし、○○で食っているはずの企業が「入社時の○○を問わない」と新卒を募集しているのはあきらかにおかしい。なにか裏がある”ということだ。

 なんの道によらず、大学でちゃんと勉強してきた人は、「入社時の○○を問わない」企業じゃなくて、「入社時の○○を大いに問う」企業に入ったほうが、なにかと面白いだろうと思うよ。せっかく○○をしっかり勉強してきたのに、入社してみたらいきなりド素人と横並びで、「大学教育? 専攻? なにそれ? 食えるの?」みたいな扱いをされたら、「だ、大学って……なんだったの?」と、ヤワなやつは五月病になっちまうよなあ。でも、基本的に“地頭のよいバカ”を欲しがっている企業ってのは、どこも似たり寄ったりだろうと思いますよ。

 純プラグマティックに考えると、大学時代の勉強は“趣味”と割り切って思いきりやって(趣味だからこそ、損得考えずに打ち込めるのだ)、就職活動では適当に“地頭のよいバカ”を演じて適当なところに潜り込む──ってのが、今風の処世術かもしれん。そのうち、デジタルネイティブのキミらがほんとうに面白いと思えるなにかにめぐり会うかもよ。会わないかもしれないけど。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月23日 (火)

女々しいぞ、松浪健四郎!

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 自民党内からは厳しい声も (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157738.html

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 麻生首相「これは去就の問題」 (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157749.html

自民党の古賀選対委員長から次期衆院選出馬の要請を受けた宮崎県の東国原知事が、「自分を総裁候補にする覚悟があるなら」と応じたことについて、麻生首相は23日午後6時すぎ、官邸で記者団に対し、「(事前に首相の了解を得て、古賀選対委員長は東国原知事と会談した?)東国原知事さんに会いにいくという話は知っていました。(麻生首相への挑戦ともとれるが?)知事を辞めて、それなりにいろんなことをやる。これは去就の問題ですから、そんなおちょくったような気持ちで言っているとは思いません」と述べた。
東国原知事の発言について、大阪府の橋下知事は「本当に言ったんですか? 古賀委員長に。いや~、度胸ありますね。とてもじゃないですけど、考えられない、すごい」と述べた。
自民党内からは、さまざまな声が聞かれた。
自民党の丸川珠代議員は「さすがですね。東さんの切り返しが素晴らしいと思います。それは東さんならではですね。組織をまとめていくっていうのと大統領って、また違う資質だと思うので、やってみないとわかりませんね」と述べた。
自民党の松浪健四郎議員は「『東国原君、顔洗ってくれ』と言いたい。それに、東国原知事に依存しなければいけないほどに、自民党が落ちてんのかと思うと、情けないね」と述べた。

 顔洗うのはあんたのほうだよ、松浪健四郎。自分が所属している党の選挙対策責任者が頭を下げて頼みにいった相手に、上から目線でなにをほざくか! 無礼にもほどがある。民間企業なら、こういう状況で自分の組織が頼みにいった相手を、公の場で悪く言うことなど考えられない。「なんであんなやつに頼みにいったのだ」と、あくまで内部で批判し合うのが常識である。組織というものは、対外的には“ひとつ”のものとしてふるまわなくてはならないのだ。いかに、おのれが自分の所属組織の行動に批判的であったとしてもである。そういうあたりまえのことを理解する能力を、組織の“自浄能力”という。

 松浪健四郎、あんたが、「顔洗ってこい」というべき正しい相手は、古賀選対委員長である。そんな世間ではあたりまえのこともわからずに、ただただ大きな組織にぬくぬくと属しているだけの優越感からか、自分たちが頭を下げにいった県知事に対して無礼な言を吐くとは、女々しいにもほどがあるぞ。おれはフェミニストだから“女々しい”という言葉はあまり使いたくないのだが、おれの怒りをあんたに伝えるにはこの言葉が最も適当であろうと判断する。“女々しい”という言葉が政治的に不適切だというのなら、“男の腐ったような”とでも言おうか。そんなことをうじうじ言っているんなら、古賀選対委員長にコップの水でもかけにゆけばよかろう。あるいは、そんなに自民党がいやなら、とっとと離党して、他党に入るなり新党を立ち上げるなりしろ。

 丸川珠代議員にしても橋下徹知事にしても、東国原知事の強烈な毒を含んだ発言の意図がわかっているから、天晴れ、よく言ったと、ウケながら褒めているのである。麻生首相もなにを頓珍漢なことを言うておるか。東国原知事はべつに自民党を「おちょくって」いるわけではない。「なめて」すらいない。「おまえはもう死んでいる」と言っているだけのことだ。

 東国原知事は、「都合のよいときにだけ人気者を担ぎ出せば国民なんぞいくらでも騙せる程度にまだ考えているとは、おまえらの頭の中は二十世紀のままで止まってるんじゃねーの? おまえらの人寄せパンダに使われて捨てられてたまるか。どれ、おまえらの腹のくくり具合を試してやろうじゃないか。けけけ、絶句してやがる。そりゃそうだろ。どうせできねえだろうし、できねえからこその自民党なんだ。おい、古賀、顔洗って出直してこい」と、自民党に引導を渡しただけのことである。そんなこともわからんとは、松浪健四郎、そのでかい頭に詰まっているのは筋肉か?

 大阪府第19区の有権者は、いや、全国民は、次の総選挙ではよく考えてもらいたい。もっとも、大阪府第19区の有権者はもうよくわかっていて、この人は小選挙区では“すでに死んで”おり、首の皮一枚で比例区にぶら下がっている程度なんだから、あとは比例で落としてやればよいだけのことだ。こんなのをいつまでも国会議員にしていたのでは、全国民にとってもよくないし、自民党にとってもよくない。

 案外、この事件は、あとから振り返ってみると、自民党の“終わりのはじまり”の決定的引鉄を引いた事件として語り継がれることになるかもしれんな。中央集権体制が弱体化し、地方分権へと移行してゆく時代の象徴として、「2009年 宮崎の屈辱」などと、教科書に載ることになるかもしれん。



| | コメント (14) | トラックバック (1)

蛇足

カミツキガメ飼育容疑で逮捕 ヘビの散歩から発覚 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0622/TKY200906220312.html

 特定外来生物のカミツキガメなどを無許可で飼ったとして、群馬県警は22日、沼田市の男(50)を外来生物法違反容疑などで逮捕した。
 「公園で大きなヘビを放して散歩させている」との相談があり飼い主宅を捜索したところ、甲羅が最大で31センチのカミツキガメ5匹とワニガメ1匹、ニシキヘビらしい死骸(しがい)が見つかった。
 男は「500円玉程度の大きさのカメを5年かけて育てた。ヘビやカメが好きだった」と話したという。県警幹部は「ヘビでアシがつくなんて」とあきれていた。

 素朴な疑問として、「ヘビの散歩」ってのは日本語として正しいのだろうか? じゃあどう言うのだと問われると、たしかに困る。さ、散行

 このおっさんがどのくらいの「大きなヘビ」を「散歩」させていたのかはよくわからないが、五メートルくらいのヘビの首にリードをつけ、コンビニのレジ袋とスコップを持って「散歩」させている五十男の姿をビジュアルに思い浮かべると、なかなかシュールに愉快だ。五百円玉くらいのカミツキガメを三十一センチにまで育てたこのおっさん、けっして悪い人ではなさそうな気もするんだが、違法は違法だからねえ。

 自分の愛するものを、必ずしもそこいらへんのふつうの人が愛してくれるとはかぎらないという教訓を、このおっさんは五十年も生きてきて得ることがなかったのだろうか? SFファンを五年もやれば、そういう常識は身につくんだがな。べつにSFファンにかぎらず、特定分野のオタクは、とても他人事とは思えないだろうとは思うけどねえ。同好の士諸君は、公園で青背を散歩させたりしないように。それが元で、自宅で飼っているサンリオSF文庫が見つかってしまったりするぞ。

 「お母ちゃ~ん、ヘンなおじさんが大きなヘビを散歩させてる。怖い」
 「怖くないよ、お嬢ちゃん。ほら……、伏せっ、伏せっ」
 「ずっと伏せてると思うけど……」
 「そんなことはない、こいつは調子のいいときはもっと伏せるんだ」
 「ほかになにかできるの?」
 「できるとも! ほら、お手っ、お手っ!」
 「…………」

 それにしても、「ヘビでアシがつくなんて」って、この県警幹部、役人にしてはそこそこやりますな。“座布団一枚”“中笑”“アンテナ二本”くらいはあげよう。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月21日 (日)

現金の魔力

 ATMで通帳に記帳しながら現金を下ろすとき、おれはいつも思うのである。

 人は、通帳、カード、現金を、どの順番で取るのであろうか?

 おれの場合は、現金、カード、通帳である。べつに深く考えてのことではない。とにかく現金に先に手が伸びる。

 あえて冷静に理屈づけをしてみると、あとから取るほど取り忘れの可能性が高まるだろうから、なにはともあれ、ATMまでやってきた第一目的であるところの現金を真っ先に確保してしまうのだろうと思われる。元々持っていたものより、新たに増えたもののほうが忘れやすいとなんとなく考えてしまうということもあるからだろうか。むかし知り合いに、「ATMで現金を引き下ろしたのに、肝心のお金を忘れてきてしまった」などというおどろおどろしい(?)話を聞いたことも、かなり影響しているかもしれん。カードや通帳は暗証番号で守られているが、現金は守られていないと感じるせいかもしれん。しかし、人はいちいちそんな理屈を考えて現金を引き下ろしているわけではなかろう。

 では、自動販売機でドリンクを買った場合、あなたはおつりとドリンク、どっちから取るだろうか?

 おれは、とくになにも考えずに、おつりから取る

 だが、冷静によく考えてみると、たとえば、百五十円入れて百二十円のドリンクを買った場合、おつりは三十円にしかすぎないが、出てきたドリンクには百二十円の価値があるのである。なのに、なぜかおつりから取ってしまう。不思議だ。現金はなんとなく一刻も早く確保しないと逃げてゆくような気がするからかもしれないが、それを言うなら、ドリンクだって逃げてゆくかもしれないのは同じである。
 
 どうもおれは、非合理的な行動をしているようだ。本来であれば、購入した商品とおつりとの価値を比べて、価値の高いもののほうを先に確保するべきではないのか? 先ほどのATMの例で言えば、「新たに増えたもののほう」を真っ先に確保すべきではないのか?

 要するに、おれにはなぜだかわからないが、“いろいろあったらとにかく現金を確保せよ”というヒューリスティックな指令がビルトインされているようなのである。

 このようなおのれに埋め込まれたプログラムをじっくり精査してみると、おれはなんと“現金というものは、外気に晒すと、あたかもタンスの防虫剤のように、じわじわと減ってゆくものである”という感覚を持っていることに気づいた。ああ、わかるわかると肯いていらっしゃる方も少なくないであろう。

 事実、現金というものは、べつに外気に晒さなくても、それなりの運用をしないと、タンスに放り込んだままでは、ほぼ確実にその価値は目減りしてゆく。タンスの防虫剤のようにはっきり目に見えればいいのだが、福沢諭吉の肖像がどんどん小さくなっていったりしないので、ふだんあんまり気にかけないだけだ。

 まあ、なんにせよ、“現金というものは、できるだけ外気に晒さないほうがよい”という不条理な感覚は、たしかにおれの超自我にしっかりと埋め込まれているようなのである。だもんだから、とくに意識しない行動は、超自我の指令に従ってしまうのだろう。

 ゆえに、近代経済学が不可思議にもそのベースに仮定してきた、いわゆる“合理的経済人”などというものは、絶対にウソだと思うのである。アダム・スミスとかの時代には、ATMや自動販売機が普及していなかったので、こんなあたりまえのことにも気づかなかったんだろうな。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

焼酎党の相対性理論

 

「今日は休肝日だから夕食にはビールにしよう」

 麦酒相対性理論とでも言おうか。
 

「でも、食後はやっぱり焼酎にしよう」

 それ、休肝日じゃありませんから。



| | コメント (3) | トラックバック (1)

2009年6月19日 (金)

今年はチャンスだ、森口博子!

 ウチのブログにやってくる人が用いた「検索フレーズランキング」に、「森口博子 歌唱力」ってのが急にランクインしてきて見るみる二位にまで上がってしまい、いったいなにが起こっているのだろうと思っていたのだが、そうか、こういうことだったか。

森口博子デビュー曲「ニコ動」トップ ガンダム30周年大盛り上がり (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/18043437.html

「機動戦士ガンダム」がテレビ放送開始から今年で30周年を迎える。記念グッズが販売され、東京、大阪、名古屋で大規模なイベントが予定されている。そうした中で、投稿動画サイト「ニコニコ動画」では森口博子さんの24年前のデビュー曲の閲覧数がトップになり、東京・お台場で作られている全長18メートルの「実物大ガンダム」をめぐってデマが駆け巡るなど大盛り上がりをみせている。

(中略)

一方、投稿動画サイト「ニコニコ動画」で09年6月15日の週からデイリーランキングのトップになっているのはタレントの森口博子さんの歌。これまで20万回近く閲覧され、コメントも2万5000も付いている。森口さんのデビュー曲は「機動戦士Zガンダム」のオープニング曲「水の星へ愛をこめて」。24年前のことになる。また、91年に公開されたアニメ映画「機動戦士ガンダムF91」では、「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」を歌っている。
「ニコニコ動画」に「森口博子 - ガンダム関連2曲」と題してこの2曲のライブがアップされたのは09年5月30日。「曲を聴いて泣いてしまった」「初めて聞いたがいいねぇ」「マジでもっと歌ってくれ、絶対もったいない」というコメントが付いている。森口さんが「ガンダム」の曲を歌っていることを知らなかった人や、思い出の曲と思っていた人が書いたものらしい。

 森口博子を“発見”する若い人がにわかに出てきているようで、まことに喜ばしいことである。一昨年におれも激賞していた『もうひとつの未来 ~ starry spirits ~』(これもガンダムソングだ)のオリコンチャート上位ランクイン以来、森口博子の運気はじわじわ上向いているようで、今年あたり、アイドル時代を凌ぐどでかいヒットが出そうな気がな~んとなくする。絶好のチャンスだ。ここで一発、いい新曲に恵まれてほしいね。

 なんか最近、「あ、この曲いいな」と思ったら、たいていアニメに使われている曲だったりするのである。いいポップスを見つけたかったらアニメを観ることだ。

 先日、「餃子の王将」に入ったら、BGMに「Lacrimosa」Kalafina)が流れていて面食らった。で、それが終わるや否や、しょこたん「涙の種、笑顔の花」が流れ出したので、カウンター席から落ちそうになった。こ、ここは「餃子の王将」ですかっ! ほかの客をざっと見わたすと、どう見ても、これらがアニメの曲だという認識がありそうな客はひとりもいなかった。まあ、ほかの客も、スーツ姿で王将で食ってるおれを見て、「あ、あのおっさんはこの曲がアニメの曲だとわかっている」などとは夢にも思わないだろうが……。案外、あのとき王将にいた客は、ガテン系の風貌の人も家族連れもおばはんも爺さんも、み~んな心の中で、「ファントムハイヴ家の執事たる者、これくらいの曲がわからなくてどうします?」と思っていたりしてな。ちょ、ちょっと不気味だが、人は見かけによらないものだからな。ホントにそうだったとしても、べつに不思議ではない。い、いや、餃子焼いてる兄ちゃんも、「王将の従業員たる者、これくらい……(以下略)」と思っていたのかもしれない。

 だもんだから(なにが?)、アニメ作ってる人たち、いまこそ森口博子を起用して、十年後にはスタンダードになっているような曲を唄わせなさい! 若い人たちが森口を再発見しているんだから、チャンスです。本人は、アニソン歌手みたいに言われることに抵抗があった時期もあったそうなのだが、いまの森口はふっ切れてますよ。誇りを持って、アニソン唄ってくれます。だからこそ、アニソンの枠を超えて万人にアピールするポテンシャルを持っている。曲です、曲。彼女にいい曲を唄わせてちょーだい! そしたら、今年は大晦日に森口博子が観られる。

 はっ。

 なにを熱くなって事務所みたいに宣伝しているのだ?

 いやまあ、歌唱力がどうのこうのと聞いたふうなことを並べてはいるものの、はっきり言って、森口博子はおれのどストライクだというだけのことです、ハイ。ただのミーハーです、ハイ。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

ドラマチックに見れば、なんだってドラマチックなのだ

 『情熱大陸』(主にTBS系)ってドキュメンタリー番組があるが、おれはごくたまにしか観ない。なんちゅうか、誰のどんな生きざまであっても、あのフォーマットに嵌めると、それなりにドラマチックなものになってしまうだろうことが容易に想像できてしまいシラけるからである。パロディーがいろいろ出てくるのも、そうした“フォーマットの勝利”を茶化したい人が少なからずいるからだろう。

 いっそのこと、なんの変哲もないそこいらへんの人のごくごく平凡な日常を密着取材して、ああいうフォーマットに仕立ててみてはどうか? 本業ではないことにまったりまったりと気長に気長に取り組んでいる人なども面白そうだ。「彼は今日もカエルグッズにこだわる」とか「彼女が輝く時間──それは洗濯だ」とか「彼は今日もベルマークを集め続ける」とか「研ぎ澄まされた彼の目は、網棚に放置された雑誌を見逃さない」とか「ちりめんじゃこに紛れ込んでいる小さなタコが、彼の一日の疲れを癒す」とか、なんぼでもそれなりにドラマチックにできそうだ。

 番組名は、そうだなあ、『余熱大陸』なんてのはどうか。



| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年6月18日 (木)

それが手前の哲学ならば、堂々と言えよ!

「外見で不合格」4人に計850万円 神奈川県教委和解 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0617/TKY200906170324.html

 神奈川県平塚市の旧県立神田高校(現・平塚湘風高校)の受験生が、選考基準にない「茶髪」や「スカートの長さ」など外見や服装で不合格にされた問題で、県教育委員会は17日、不合格とされた22人のうち4人について、慰謝料を含め計856万円を支払うとする和解案を合意した、と発表した。19日開会の県議会に和解案を提出する。
 県教委によると、05、06、08年度の同校入試で、当時の校長の指示により、髪の色やピアスの跡、スカートの長さなどを教員が出願時や受験日にチェック。合格圏内に入っていた22人が不合格とされた。県教委が公表している選考基準では、調査書と面接、学力検査を点数化するだけで、外見や服装は選考基準になっていなかった。

 こりゃまあ、県教育委員会の判断はきわめて妥当であると思うね。

 つまるところ、なにが問題なのかと言えば、校長の陰湿な“小役人根性”だけが問題なのである。「茶髪」や「スカートの長さ」も選考基準になるというのなら、そう明示すればいいだけの話だ。そう明示するのなら、それはそれで学校の教育思想の表明なのだから、べつになんの問題もない。たとえば、「アーサー・C・クラークを読んでるやつはダメ、筒井康隆を読んでるやつはダメ」と、それが選考基準になると明示すれば、べつにな~んの問題もない。それがその学校の教育哲学なのであれば、その学校に入りたいやつは、その学校の哲学に合わせるのがあたりまえである。「そんな学校はこっちからお断りだ」と受験しないのも、単に“ご縁がなかっただけ”ですむのである。

 極端な話、「わが校には障害者は入れない。障害を持つ者にはろくな人間はいないというのがわが校の哲学である。障害者に教育など与えるべきではないというのがわが校の方針である。ゆえに、身体あるいは精神に障害のある者は問答無用で落とす」と明言している学校があるとすれば、それはそれでべつに非難されるいわれのない立派な教育方針である。そう明示されているのなら、障害者は最初からその学校を受験したりするという無駄な努力をしなくてすむ。

 この学校の校長が厭らしいところは、とにかく“なにがなんでも言質を取られないように”しつつ、ちゃっかり己の勝手な哲学を公的な意思であるかのように紛れ込ませている点である。これすなわち、“小役人根性”と言う。

 「うちの学校は、茶髪は落とす。スカート丈の長いやつも落とす」と堂々と明示しておけばよいだけの話。どうしてもその学校に入りたいという子なら、ちゃんと明示しておけば、それなりの外見で受験しにくるだろうよ。そういう選択の自由を隠然と奪うのはフェアじゃない。茶髪はダメと明示しているのに、いけしゃあしゃあと茶髪で受けにくるやつがいれば、どんなにテストの成績がよかろうが、堂々と落とせばよいだけのことである。

 この校長の厭らしい小役人根性が発揮されているのは、「わが校は外見でも落とす。文句あるか」とはっきり言う度胸もないくせに、隠然と外見で落としている点に尽きる。つまり、自分はとことん安全なところにいながら、権力だけは行使する──つまり、それを世間はずばり“小役人根性”と呼ぶ──という厭らしさなのである。要するに、「なんで茶髪はダメなの?」という受験生に、堂々と反駁するだけの一貫した哲学がないのだ。哲学がないやつに、なにを教育できると言うのだ、このあさましい小役人めが。結局、可愛いのは自分だけか。

 いわゆる優等生の諸君、こんな学校、受けたいと思いますかね? キミが優秀であればあるほど、この程度の学校を受けるのは、キミらしくないと思いませんか? やめとけやめとけ、もっと“”高い”ところを狙え。



| | コメント (2) | トラックバック (2)

2009年6月17日 (水)

「ケータリングのピザ」って十回言って……じゃあ、コレは?

長電話「ケータイひじ」にご注意 米医学誌に論文 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0605/TKY200906050105.html

 【ワシントン=勝田敏彦】携帯電話の長時間使用で、手や腕のしびれや痛みを訴える人が増えている。ひじを鋭角に曲げ続けていると起きる症状で、全米有数の医療機関の一つクリーブランド・クリニック(オハイオ州)のチームが、注意を呼びかける論文を同クリニックの学術誌に発表した。
 論文によると、「肘部管(ちゅうぶかん)症候群」または俗に「携帯電話ひじ」と呼ばれる症状で、ひじの内側を走る神経(尺骨神経)が圧迫されるのが原因。


More talking, more problems: 'Cell phone elbow' damages nerves (CNN.com)
http://www.cnn.com/2009/HEALTH/06/02/cell.phone.elbow/

(CNN) -- If your pinkie and ring fingers tingle or feel numb, you might not want to pick up that cell phone to call the doctor.
Orthopedic specialists are reporting cases of "cell phone elbow," in which patients damage an essential nerve in their arm by bending their elbows too tightly for too long.
When cell phone users hold the phone to their ears, they stretch a nerve that extends underneath the funny bone and controls the smallest fingers. When talkers chat for a long time in that position, it "chokes the blood supply to the nerves. It makes the nerves short-circuit. The next thing you know, there's tingling in the ring and small finger," said Dr. Peter J. Evans, the director of the Hand and Upper Extremity Center at the Cleveland Clinic in Cleveland, Ohio.
When that happens, the advice is simple: Switch hands -- before it gets worse.

 ……ってあのなあ、ごくごく素朴な疑問として、おまえら、どんだけ電話しとんねん!? なにをそんなに話すことがある?

 ひょっとしたら、ソフトバンクの「でか!ストラップ」のアイディアは、この問題に対する解決策を、論文に先んじて提示しているのかもしれないぞ。あのストラップが十キロくらいあったら、長電話を防止できるばかりではなく、いい筋トレにもなる。ケータイひじなどというものになる前に、疲れて通話を継続できなくなるからね。

 「論文は、携帯電話を持つ手を左右でときどき替えたり、ハンズフリー装置を使ったりすることを勧めている」って、いやだからそもそもそれ以前に勧めるべきことがあるでしょうが!



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月16日 (火)

シュワッチ!

Flash_beam

 ほれ、人はふつう、四捨五入して五十にもなったら、夜中にペンライトを持つと、ふとウルトラマンごっこをしたくなるものなのではないのか。なに? 小林泰三じゃあるまいしって? いや、そりゃ絶対彼もやってるでしょう。

Spoon



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月15日 (月)

これって便利なの?

画面にタッチで写真撮影 富士フイルムが新デジカメ (MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/release/electric/090611/elc0906111718000-n1.htm

 富士フイルムは、液晶画面で一番ピント合わせたいところにタッチするだけで撮影できるコンパクトデジタルカメラ「ファインピックスZ300」を20日発売する。
 画面の手前の花など、ピントを合わせたいポイントを指で触れるだけで撮影できる「タッチショット」機能を世界で初めて搭載。シャッターを半押ししながらピント合わせをするわずらわしさがなくなった。料理などを接写するときに最適な発光量に調整し、自然な明るさで撮影できる「スーパーiフラッシュ」も備えている。
 有効画素数は1000万画素で、市場想定価格は4万円前後。

 はあ? 記事を読んだだけではどういう機能なのか、いまひとつよくわからんな。「シャッターを半押ししながらピント合わせをするわずらわしさがなくなった」って言うけどさ、カメラをしっかり把持している左手をわざわざ離して、液晶画面にタッチするほうがよっぽどわずらわしいようにおれは思うのだが……。それに、右手だけで把持しているカメラの液晶画面に左手でタッチしたりしたら、手ブレを起こさないのだろうか? そこいらへんはちゃんと工夫をされているのかもしれないが、記事を読めば読むほど、このカメラでどこがどう便利になったのか、さっぱりわからん。

 「シャッターを半押ししながらピント合わせをする」ってのは、わずらわしいどころか、左右いずれの手もできるだけ動かさなくてすむ、充分に練られた“枯れた”ユーザインタフェースだとおれは思うんだがなあ。記事を読むかぎりでは、全然便利そうに見えないところが不可思議である。ピントを合わせるときに、左手をいちいちカメラから離して液晶画面に触れ、ピントが合ったところで、もう一度両手でしっかりとカメラを両手で把持して写せということなのだろうか? よっぽど右手がしっかりした人でもないかぎり、かえって写しにくいように思うんだけどなあ。

 まあ、どっかで実機を見たら、試してみよう。おれは買う気はないけどね。これもコンデジのコモディティー化の一方向なのかもしれないが、カメラ本来の機能を使いやすくする方向へじゃなくて、おせっかいにもほどがある“見せびらかし”インタフェースを派手にする方向へ進んでいっているような気がしてならない。

 リコーには、こういうおもちゃじみたプレゼンテーションになどには目もくれずに、ひたすら“人が頭と手を使って自分の道具として操れる手応えのあるカメラ”の路線を突き進んでほしい。ユーザに“上達する喜び”というものを与えてくれる道具にこそ、ほんとうの愛着が湧くというものだ。



| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009年6月14日 (日)

あると思います!

 このCMがはじまると、つい立体視を試みてしまう。

 まあ、視差がついてない映像だから、立体には見えないけどね。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月12日 (金)

北陸地方、午後はくもりのちおたまじゃくし、ところにより雷魚となるでしょう

「ファフロッキーズ」じゃありませんから (山本弘のSF秘密基地BLOG)
http://hirorin.otaden.jp/e42900.html

 スペルはFafrotskiesである。「Falls From The Skies」(空からの落下物)の略。 命名者は有名な超常現象研究家のアイヴァン・T・サンダースンだ。彼はオーパーツ(OOPARTS = Out Of Place Artifacts)という言葉も発明している。こういう変な略し方が好きなのかもしれない。
 このスペルをよく見てほしい。もしかしたら「ts」は「ツ」ではなく「ス」と発音する可能性もある。つまり「ファフロツキーズ」もしくは「ファフロスキーズ」である。
 でも、「ファフロッキーズ」にはならんだろう、どう見ても。

 なりませんよねえ、というか、するべきではないですね、どう見ても。なんか、今回の石川県おたまじゃくし事件(?)関連の報道でもって、マスコミまで「ファフロッキーズ」などという表記をにわかに広めはじめているみたいなので、気味の悪い表記が定着しないように、微力ながら妥当な表記の普及に協力させていただこう。“エンターティナー”みたいに、「どう考えてもこれはちゃうやろ」という表記でも、一度定着してしまうとしぶとく生き残りますからなあ。

 カタギの人があんまり使わん言葉だからといって、マスコミもマスコミだ。記事に書いたり放送したりする前に、どうして調べない? そりゃまあ語源がバスク語かなんかだったらともかく、英語だぜ? 二十年前ならこういうのを調べるのはひと苦労だったろうが、いまは中学生がケータイでだって調べられる二十一世紀だぜ。

 取材中に「こういうのは“ファフロッキーズ”と言う」という情報を得たら、「はあそうですか、そういうのは“ファフロッキーズ”ですか」などと、そのまま書くんかい!? どういう綴りだろう何語だろうなんかの略なんだろうか調べて裏を取らなくては──くらいのことは、べつに報道人じゃなくたって思うぞ、ふつう。それともあんたらナニか、そこいらへんの眼鏡かけた小太りのおっさんの写真を誰かが「金正日の三男です」と言うたら、「はあそうですか、これが金正日の三男ですか」などと、そのまま報じるんかい!? あ、報じますね。すんません。

 というわけで、お知り合いが「ファフロッキーズ」と言ったり書いたりしていたら、「fafrotskies なんだから、“ファフロツキーズ”あたりが妥当なんじゃない? ロシアの革命家に“トロッキー”なんてのがいたら気色悪いでしょ」とでも説得し、どう見ても気味の悪い表記の蔓延を防ごう。



| | コメント (9) | トラックバック (0)

2009年6月11日 (木)

詐欺から身を守るための二つの呪文

 (1)AとBに相関関係があるからといって、因果関係があるとは言えない。
 (2)AとBが無相関であるからといって、それらが常に独立であるとは言えない。

 べつにそれほど高度な数学や論理学を万人に教える必要はないと思うが、このふたつを高校卒業までにちゃんと納得させておけば、日本の詐欺の被害者は相当減るんじゃないかと思う。幼稚な詐欺のほとんどは、ごくごく基本的な集合と統計の知識で防御できる。というか、ある意味、悪魔はしばしば聖書を引用すると言われるように、報道から推察するに、稚拙な詐欺の多くが集合と統計の詐術に属する。

 え? 集合とか統計とかは学校教育では軽んじられているんですか? そうかなあ、はっきり言って、高校出てからいちばん実生活に役立った数学は、集合と統計だと感じるんだけどなあ……。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

関西人なら知らぬ人はない声

 関西に住んでいる人はみんな思っているだろうが、それにしても橋本のりこは仕事をしすぎではあるまいか。「誰それ?」て、貴様、それでも関西人かーっ!? そこに立って歯ぁ食いしばれ!

 いや、それはともかく、われわれ関西人は、橋本のりこの声をたぶん週に二、三回は絶対聴いていると思う。日中家にいてテレビを観ている人だと、ほとんど毎日何回も聴くことになろう。これは誇張ではない。事実そうなのである。関西のバラエティー番組のVTRナレーションには、必ずといってよいほど登場する、関西のナレーション女王だ。しかも藝達者で、深くて艶のある声で名所旧跡名刹名旅館名食堂を紹介するかと思えば、とても同一人物とは思えぬとぼけた声で吉本芸人の人を食った企画に華を添える。

 行楽やら出張やらで関西にいらした方は、旅館やホテルの部屋でちょっとテレビを点けてみていただきたい。三、四時間ほどテレビを観れば、たぶんあなたはその間に橋本のりこの声を一回は聴いていることになろう。嘘だと思ったら、いまテレビを点けなさい。点けましたね。では次に、関西ローカル局制作の番組をやっているチャンネルに合わせなさい。合わせましたか。毎日放送でも朝日放送でも関西テレビでもよみうりテレビでもいい。よし、合わせましたね。では、その番組を最後まで観なさい。観ましたか。観ましたね。エンディングのクレジットが流れているでしょう。「ナレーション」のところを見なさい。ほら、そこには、たぶん橋本のりこの名がある。「えっ? ナレーションの人って、一人だけだったの??」と面食らうこともあるかもしれない。

 こんなにしょっちゅう声を聴くのに、意外と関西人でも名前は知らない人は多いみたいなのだなあ。裏方のお仕事とはいえ、きわめて高度な専門職なのに、その絶大な“知声度”のわりに、放送業界外での知名度は不当に低いと言わざるを得ない。まあ、ご本人はたぶん「プロの裏方は、それでこそ本望」と思っていらっしゃるのかもしれないが……。

 もはや橋本のりこの声は、“関西の声”と呼ぶべきだと思う。海外に移り住んだ関西人なんかには、YouTube で関西ローカル番組を観ながら、「うわあ、懐かしいナレーションの声! これこれ、この声!」と涙をちょちょ切らせている人が少なくないんじゃなかろうか──「えーと、名前は知らないけど」

 この機に名前も覚えましょう。それは橋本のりこという人です。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 9日 (火)

草食う男

Japan's 'herbivore men' -- less interested in sex, money (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2009/WORLD/asiapcf/06/05/japan.herbivore.men/index.html

TOKYO, Japan (CNN) -- They are young, earn little and spend little, and take a keen interest in fashion and personal appearance -- meet the "herbivore men" of Japan.
Author and pop culture columnist Maki Fukasawa coined the term in 2006 in a series of articles on marketing to a younger generation of Japanese men. She used it to describe some men who she said were changing the country's ideas about just what is -- and isn't -- masculine.
"In Japan, sex is translated as 'relationship in flesh,'" she said, "so I named those boys 'herbivorous boys' since they are not interested in flesh."
Typically, "herbivore men" are in their 20s and 30s, and believe that friendship without sex can exist between men and women, Fukasawa said.
The term has become a buzzword in Japan. Many people in Tokyo's Harajuku neighborhood were familiar with "herbivore men" -- and had opinions about them.

 CNNが日本の“草食系男子(草食男子)”について報じている。見出しを含め、最初のほうでは 'herbivore men' と訳しているのは、さすがネイティブ感覚だ。ここは、多くの日本人は、herbivorous men とやってしまうところだろうと思う。いきなりそういうふうに言われると、英語ネイティブは、「ヴェジタリアンの男?」と思いかねない。herbivorous だの carnivorous だのというのは、第一義的には食性のことを言っているのであって、日本語ほど「草食=おとなしい・攻撃的でない」というイメージが説明抜きで伝わるわけではないってことだ。具体的に sheep とかを挙げると、日本で言っているイメージに近いところが伝わるとは思うが、herbivorous では、ぶっちゃけ、獰猛なカバだって草食ってるわけだよ。"In Japan, sex is translated as 'relationship in flesh,'" she said, "so I named those boys 'herbivorous boys' since they are not interested in flesh."などといちいち説明しなくちゃ英語ネイティブには真意は伝わらないと(おそらくは英語ネイティブの)記者が判断して書いているということなのである。

 またこれは、“名詞A+名詞B”で複合語を造る場合と、“名詞Aの形容詞形+名詞B”で表現する場合とでは、相当意味がちがってしまいかねないというよい例だろう。“草食動物的な属性を備えた男”“草ばっかり食っている男”とは似て非なるものである。smoking area は、アクセントの置きかた次第で「もくもく煙を上げているあたり」になったり「喫煙コーナー」になったりする。ここいらへんのいわく言い難い感覚ってのが、三十四年以上英語やってても、いまだに瞬時に“頭で考えてしまう”ところで、“識域下から反射で出てくる”ってところまではいかない部分なのよなあ。このへんがガイジンの限界かもなあと痛感する。ま、連中にとってのガイジンが英語が下手で文句あるかと腹をくくることも大事である。誰もがサイデンステッカードナルド・キーンになれるわけではない。が、デイヴ・スペクターくらいにはなりたいよな。

 CNNの記事のニクいところは、「この記事の文脈では“草食”ってのはこういう意味で使っていますよ」ということが読者に伝わったであろうあたりから、herbivorous という形容詞を“日本人がこの文脈で使っている意味で”使いはじめるあたりだ。伊達にCNNの記者やってるわけじゃないよね、この人は。

 断っておくが、おれはネイティブ至上主義派ではない。むしろ、英語が母語でない国で編み出された“ネイティブでないからこその表現”にも感心したり親しみを感じたりするほうだ。だけどまあ、ネイティブならではの“キレ”ってのにも憧れることはたしかなのである。たぶん、おれが「アホちゃうか!」と反射的に言うときの“キレ”に憧れてる日本語学習者も世界のどこかにいるんだろう。「日本語を三十年勉強しているが、こういう“アホちゃうか”はワタシには咄嗟に言えない。まだまだ修行が足りん」などと嘆いているガイジンだって、どっかにいるかもしれん。まあ、それはお互いさまだよ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

値の張るマジンガーZ

 いつもの《ヘンな検索語》シリーズ。

「空にそびえる白金の城」

 あの~、ちょっと歌詞ちがってますから。「鉄(くろがね)」でしょーが。なんか、もったいなくて戦えないような超高級感があるなあ。百二十五ミリメートルのガンダムでも二千九百万円してたからな。

 でも、言われてみれば、並みの敵ロボットならたちまち腐食して崩れ落ちてしまうルストハリケーンを口から出すのなら、「白金の城」も理にかなっているっちゃ理にかなっている。超合金Zは錆びないんだろうけどねえ。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 8日 (月)

トコロテンの流派

 かなり暑くなってきたせいかさっぱりしたデザートが欲しくなり、ひさびさにトコロテンを食った。えーと、漢字検定などを受けようと思っている人は“心太”と書きたくなるとは思うが、多くの人に読めない字を書いても詮ないことであるというのがおれの考えかただから(内心ではちょっと嘆かわしいとも思っていたりする)、おれはふつうはカタカナ表記する。逆に言うと、カメラの絞りのように、文字遣いで想定読者層を広げたり狭めたりする(という意思を表明する)。

 それ自体には味らしき味はないのに、なんかうまいよね、トコロテン。黒糖蜜派と、二杯酢派三杯酢派があるみたいだが、おれは二杯酢派である。おれが子供のころは黒糖蜜が添付されたものしか京都では売ってなかったように記憶していて、それはそれなりに嫌いではなかったが、二杯酢トコロテンの味を知ってからは、すっかり二杯酢派に鞍替えしている。トコロテンに“甘み”って要らないようにおれは思うので、三杯酢は試したことがないが、みりんはたぶん邪魔だろうと思う。

 水を切ったトコロテンって、ぱっと見がちょっと脳みそみたいな感じだよね。これは純然たる想像なのだが、手塚治虫『三つ目がとおる』で、写楽保介「脳みそトコロテン装置」(言わずと知れた、脳みそをトコロテンにする装置である。まんまやがな)というやつを作っていたけれども、あれはひょっとすると、手塚治虫もトコロテンを食うときに「なんだか脳みそみたいだな」と思ったから生まれたのかもしれない。

 いまもって不思議に思っているのは、脳みそトコロテン装置で脳みそをトコロテンにされてしまった学生たちは、死にはしなかったんだよなあ。アホになっただけである。たぶんあれは、前頭葉だけをトコロテンにする装置だったのではないかと推測するのだが、人間、はたして前頭葉だけが一瞬にしてトコロテンになったとしたら、死にはせずちゃんとアホになれるものなのだろうか? こればっかりは実験するわけにはいかんしなあ。

 最近、よく知っているはずの小説のタイトルとか、芸能人の名前とかが、咄嗟に出てこないことがよくある。英語では出てくるのに、定訳の日本語がなかなか出てこないとかね。そろそろおれの前頭葉も、ところどころトコロテンになってきているのかもしれん。

 全部トコロテンになったころに、知り合いを招待してパーティーを開こう。テーブルの中央には頭蓋を取り去ったおれがちょこんと座っていて、招待客には、おれのトコロテン脳みそをつついて舌鼓を打ってもらう。できれば、おれの脳みそは二杯酢でお楽しみいただきたい。それくらいは、主催者側の好みを押しつけてもいいだろう。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

一・二七秒前の写真

The_moon
 月がとっても青いから遠まわりして帰りながら撮影。RICOH R10 の特性もかなりわかってきたせいか、三脚を使わず(といっても、おれはミニミニ三脚しか持ってないが)手持ちで撮ったわりにはうまく撮れた。コンデジでここまで写るんだなあ。

 この写真に写っている月の中心から右上に少し上がったところにある黒いところが、あの「静かの海」である。アポロ11号が着陸したのは、白いところと黒いところの境目からほんの少し“海”に入ったあたりだ。人類はむかしあそこに降り立ったんだよなあ。ちょうど四十年前の一九六九年、おれが七歳になる年の七月のことだ。

 四十年後に人類はまだこの程度であると、六歳のおれには教えたくないなあ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月 6日 (土)

虹と電車の頃

Rainbow

 ああ、虹が出てるなあと駅から出たところでカメラを向けたら、抜群のタイミングで電車が来た。京阪乗るならおけいはん。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月 3日 (水)

北朝鮮シミュレータ

「お前、デキるな」でスカッと ほめてくれるサイト評判 (asahi.com)
http://www.asahi.com/digital/internet/SEB200906010004.html

 あなたじゃなきゃダメなの――。「ほめる」をキーワードにしたインターネットのサービスが注目を集めている。「ストレスが吹き飛ぶ」「幸せな気分になれる」などと、会社員や主婦らの人気は急上昇中だ。「成果主義に疲れた現代人は癒やしを求めている」。専門家らはそんな見方をしている。
 大分市のウェブ制作会社は昨年12月、インターネットサイト「ほめられサロン」(http://kakula.jp/homeSalon/)を開設した。名前やニックネーム、性別、職業を入力すると、「○○(名前)がいて本当に助かるよ」「おまえデキるな」。リズミカルなドラムの音が流れ、大量のほめ言葉がハートマークとともに次々と表示される。

 また、ケッタイなもんが流行っとるなあと思いつつ、それでもどこにどんな洞察や発見に繋がるヒントが転がっておるやもしれんし、とりあえず、メディアというものは一度は体験してみないことにはなにも言えんとばかりに、さっそく「ほめられサロン」を試してみた。

 自分の名前を入れてやってみたのだが、いっこうに嬉しくない。思い当たるフシのないことばかりで褒められる。おれ自身は、なんでこのサイトが上の記事のように紹介されるほど当たっているのか理解に苦しむのだが、当たっているという事実の裏に隠れているものには興味がある。現代人って、そんなに褒められたがってるのかなあ?

 褒められて嬉しいときというのはどういうときであるかと、よくよく胸に手を当てて考えてみると、じつに簡単なことなのだった。人は、いや、安易に一般化しちゃいかんかな、おれは、“褒められたいと思ってやったことが褒められると嬉しい”のである。つまり、“ギャグがウケて笑ってもらえた”というのと同じだ。自分がギャグのつもりでやっていないことをゲラゲラ笑われてもちっとも嬉しくない。おれ自身がただただ興味深くてやっていることとか、ただただ面白いからやっていることとか、なんだか知らんがやりたいからやっていることとかが、他人から見ると、あたかも“努力”(おれの大嫌いな言葉である)であるかのように見えていることがあるらしいのだが、そういうことを褒められてもちっとも嬉しくない。「うわあ、上手に呼吸ができるんですねえ」などと言われて嬉しい人などあろうか?

 「ここは、この改行直後に噴き出してほしいな」と思って書いている文章が、思いどおりのところでウケていたりすると、これはけっこう嬉しい。「ええか、ええか、え~のんか~」と、笑福亭鶴光にでもなったような気分になる。

 だいたい、人間なんてものは、歳を食えば食うほど肩の力が抜けて、「褒められたい」などと考えてなにかをすることなどなくなってきて、どんどん自然体になってくるものだろうから(そうじゃない年寄りもたまにおりますが、ああいうのはなんか意地汚い歳の取りかたをしてるなあと、見ていてけっして愉快なものじゃない)、ただただわけのわからないことで褒められても、年寄りは嬉しくないのである。年寄りが褒められて喜んでいる場合、「こんなに好き勝手にやりたいことをやったのに、世の中にはそれを楽しんでくれたり喜んでくれたりする人もいるのだなあ。もったいないことじゃ、もったいないことじゃ」と、一抹の申しわけなさを感じながら、喜んでいるというよりも、そうしためぐり合わせに虚心坦懐に感謝しているのだと思う。あくまでおれが思うだけだけどな。

 だもんだから、この「ほめられサロン」、アイディアは興味深いが、おれ的には全然嬉しくも面白くもないんだよなあ。

 で、おれを激賞するコメントを漫然と見ているうちに、ちがう使いかたを思いついた。これは“北朝鮮シミュレータ”として使える。こんな感じだ──

Homerare_salon01_2

 おお、なかなか適切なコメントを出してくるもんだな。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月31日 (日)

月面二足歩行ロボットの意味

「一体何の意味があるのか」 「月面2足歩行ロボット」に批判 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/05/29042101.html

政府が策定を進めている「宇宙基本計画」が、思わぬブーイングに見舞われている。この計画自体は、情報収集衛星を増強したり、有人での月探査を目指したりする意欲的なものなのだが、「二足歩行ロボットでの月探査」という項目に、批判が続々と集まっているのだ。
「お金をかけて何がしたいかわからない」
日本の宇宙開発についての基本方針を定めた「宇宙基本法」が2008年8月に施行され、これに基づいた国家戦略「宇宙基本計画」の策定が進められている。麻生首相が本部長を務める「宇宙開発戦略本部」が案をまとめ、09年4月28日から5月18日にかけてパブリップコメント(パブコメ)が募集された。
各地から寄せられたパブコメでやり玉に挙がっているのが、「月面2足歩行ロボット」。これは3月6日に行われた専門調査会の場で、専門調査委員のひとりである元宇宙飛行士の毛利衛氏が提案したもの。毛利氏が提出した資料では、国家目標として「日の丸人型ロボット月面歩行計画」をかかげ、「有人・無人の議論を超えた第3の道」「日本独特な有人宇宙開発の提案」などどうたっている。
計画案では、2020年頃に日本独自でロボットを活用した月の無人探査、25~30年頃に宇宙飛行士とロボットが連携した有人月探査を目指しており、「2足歩行ロボット」も、その中の案として出てきたものだ。計画案には458人から1510件のパブコメが寄せられたのだが、そのうち約80件が「2足歩行ロボット」に集中。その中には、
「月や火星・金星への探査計画に、人は遅れ(原文ママ)なくとも耐環境型の自立ロボットを帯同させることも日本独特の研究といえます」
と、好意的なものもあるが、ほとんどが批判的なものだ。

 SFファンの方々なら、「そもそもなぜ人間型のロボットを作る必要があるのか」という問題をあーでもないこーでもないと考えたことがあるかと思うが、これは存外に難しい問題ではあるのよなあ。

 上の引用で好意的なパブコメを寄せている人の意見は、残念ながら、かなり頓珍漢である。探査計画で閉じてしまうのであれば、二足歩行ロボットを送る意味などない。将来、月や火星に人類が居住する(金星はまあ無理でしょう)というところまでをスコープに入れれば、そこで初めて二足歩行ロボットを送る意味が出てくる。つまり、短期的な作業効率だけを考えれば、地球と環境が著しく異なるところでわざわざロボットに二足歩行などさせる意味はなく、むしろクモ型とかヘビ型とかそのほかとかのほうが合理的だが、“そこに将来人類が住む”というところまで長期的に本気で考えれば、二足歩行ロボットから取れるデータは、将来、大いに役に立つ。要するに、どれくらいの時間的なスパンが視野に入っているかで、見解が変わってきて当然なのである。「なんの役に立つのか」と言っている人も正しいし、「役に立つ」と言っている人も正しいのだ。「二足歩行ロボットでの月探査」って表現がまずいのだろうな。ここは正直に、「人類の月面居住を視野に入れた二足歩行ロボットによるデータ収集」とまで言ってしまえば、また印象は変わってくると思う。

 おそらく毛利氏はそんなことはよくご承知で、そのうえであえて、“日本人を象徴的に鼓舞する短期的計画”として、これを提案してらっしゃるのだろうと推測する。おれが思うに、毛利氏は科学者としては政治やらなにやらに過剰適応してらっしゃるように見えるもんで、腹の中では、「そりゃ、将来、月や火星にはトーゼン人間は住むでしょ」と思いつつも、そこまで言うと荒唐無稽と思われちゃうだろうから(全然荒唐無稽じゃありません)、とりあえず、アドバルーン的な短期的スコープしかないかのように見えるものを出してらっしゃるのだろう。まあ、政府に毛利氏の提案の真意が理解できるかどうかは別として、政治家や官僚にはわかりやすい“国威発揚”的なものに見せておけば、当座はオーケーかな……といったふうに、毛利氏は考えていらっしゃるのではなかろうか。

 その“世俗に合わせすぎ”なところがまずいのだと、おれは思う。「わしらが、わしらの子や孫や曾孫が、いつまでも全員地球に住んでいられるとでもお思いか?」と、はっきり言っちゃえばいいんじゃなかろうか。言わないから、「何がしたいかわからない」と言われちゃうのだ。まあそりゃ、毛利氏のそういう“世俗に合わせすぎ”なところも、無理はないと理解はできるんだけどなあ。いまの日本政府や官僚に、“人類は遅かれ早かれ宇宙に進出せざるを得ない”という認識と哲学と覚悟があるのかどうかとなると、こりゃ、おれもかなり悲観的である。毛利氏は、政治家や官僚の思惑を超えたところまで、深く考えたうえで、こういうアドバルーンを上げてるんだと、おれは想像するんだよ。

 おれたちはいつまでも全員が地球に住んではいられないのだ──という、考えてみればあたりまえのことを、政治家たちはちゃんと打ち出すべきだと思うね。宇宙への進出は、今世紀では、もはやSFマターじゃなくて、政治マターなのだ。今世紀というスパンで考えれば、軌道エレベータスペースコロニーは、必ず建造されるだろう。というか、せざるを得なくなるだろう。

 二十世紀のSFが夢見てきたことが、年金やら消費税やらエコロジーやらと同じ次元で、おれたち(の子や孫や曾孫)の日常生活に関わるリアルな問題になってくるのが、これからの百年なのだ。オバマ大統領の勝利演説じゃないが、おれたちの世界が百年前にどうだったかを振り返ってみれば、百年後にどうなるか、どうであってほしいかもリアルなこととして想像できるはずだ。西暦二一〇〇、月に人が住んでいないとでも思いますかね、あなたは? おれは、オバマ大統領にはそこまでの視野があるだろうと思っている。politician としては目先の問題に翻弄されているだろうが、彼の statesman としてのヴィジョンには、百年後のアメリカ、百年後の世界が、当然のこととして入っているように思われるのだ。

 まあ、いま現在の日本政府や官僚が、「宇宙基本計画」とやらで、そこまで考えているとはとても思えないのも事実なんだよなあ。連中は、せいぜい、次の総選挙くらいのことまでしか考えてないんじゃないの? 毛利氏の提案は、いまの日本政府には上等すぎるんじゃなかろうか? そういう意味では、毛利氏の提案にブーイングが集中するというのは、わからないでもないんだよねえ。地球上に飢えた人々がいる状態で、宇宙開発もへったくれもあるかというのは、たしかにわからないでもない見解だ。カート・ヴォネガットもそういう姿勢だったよね。おれは、クラークも好きだけど、ヴォネガットも好きなのだ。

 ともあれ、今世紀には、わが国の閣僚や事務次官は、小松左京必読ということにしないか?



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

noblesse oblige

「下々の者どもは、一万二千円ぽっちを配っておけば、それなりに喜んどるようだな」
「さもしいのう……」
「一段落したところで、われわれがほんとうの給付金をいただく番だな」
「そりゃそうよ。難しい試験に受かって、国家のために尽くすという建前の仕事をしてきたわれわれは、民草どもとは次元のちがう人種なのだ」
「なんだかんだで、十四兆ほどはわれわれに入ってくる計算になるのかな」
「まあ、適当に作った基金に放り込んで、使いみちはあとでゆっくり考えればいい」
「どうせ、この借金を払うのは、一万二千円もらって喜んでる阿呆どもの子や孫や曾孫だからな」
「どうせ、われわれはそのころにはいない。畳の上で大往生したあとの話だ」
「しかし、新型インフルエンザは気になるな。毒性の強いものに変異して大流行したりせんだろうな。阿呆どもにはできるだけ長く働いてもらって、われわれを潤してもらわねばならん」
「なあに、わしらが死んだあとは、野となれ山となれだ」
「リーマンには感謝せんとなあ」
「じつにタイミングがよかったな」
「麻生はまだ使えるか?」
「そろそろ潮時だが、まだ利用価値はあるな」
「次の目くらましはどうしよう?」
「そうたびたび人気スターが公園で裸で騒いではくれないしなあ。ま、そのうち使える事件が起こるだろう」
「テレビ局も新聞社も経営が苦しいから、なんにでも食いついてきてくれるわいな」
「そうだな。アホな些末事を目の前に吊るせば、いくらでも針小棒大に取り上げおるわい」
「それにしても、今回の十四兆の給付金、なんに使う?」
「そうだなあ……三洋電機でも買おうか」
「エコポイントはつくのかな?」
「どうだろうなあ。つくことにさせようか?」
「GMを買うのはさすがにまずいかな」
「外資だからなあ。いくらなんでも、エコポイントはつけにくいんじゃないか」
「使いみちに困るなあ。わはははははは」
「ほんに。わはははははははははは」



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

ロボットは海苔を破ってはならない

 ロボットが卵を摑んだりするのをテレビで観るにつけ、ロボット工学の進歩に胸躍るのであるが、ここまで進んでいるんだから、ぜひロボットにやらせてみてほしいと思っていることがひとつあるのである。

 コンビニのおにぎりから海苔を破らないようにフィルムを引き出し、ちゃんと三角おにぎりを完成させられるロボットというのを作ってほしい。これは工学者にとっては、たいへんな挑戦だと思う。なにしろ、人間だって、うまくできない人はざらにいるのだ。おれもときどき失敗する。

 右手でおにぎりを把持するわな。で、左手でフィルムをつまんで引き出そうとする。右手で強く摑みすぎると、フィルムの抵抗が大きくてなかなか引き出せないし、下手をすると海苔を破る。だもんだから、右手の把持を弱めると、今度はフィルムにつられておにぎりが左側にすっぽ抜けてゆきそうになる。右手にも左手にも、強からず弱からず、フィルムを引き出すのに最適なグリップ強度と、その絶妙な連繋が要求されるのである。とくに韓国海苔のおにぎりは難しい。表面に塩をまぶした韓国海苔の場合、日本のふつうの海苔よりも摩擦が大きく、相当コンビニおにぎりに馴染んでいる猛者でも、勘が狂うのだ。

 えーと、もし、このようなアホブログを読んでいるロボット工学者の方がいらしたら、ぜひこの難題に取り組んでみていただきたいと思う。冗談でなく、マジで提案している。卵摑んだり楽器弾いたりするのはですね、見るほうも「そりゃ、ロボットなんだから、できても不思議はないわな」と、それを実現する技術のすごさなどには無頓着に思ってしまうものである。しかし、コンビニのおにぎりは、なにしろ非常に多くの人が、うまくフィルムを引き出すのがいかに難しいかをよーく知っているわけだから、ロボットがいとも簡単にやってみせたら、そりゃあ、デモンストレーションとしてはどえらいインパクトですぜ。「たしかに、ここまでできるロボットなら、近い将来、介護や医療の現場に配備してもよさそうな気がするな」くらいには思ってもらえるかも。

 が、よく考えてみると、あまりにも人間的で精妙な動作をやってのけるロボットには、ひょっとすると“気味が悪い”と感じる人もいるんじゃなかろうか。ルックスとか目配りとか受け答えとかだけじゃなく、確固たる単一の目的がある一連の動作にも、“中途半端に生々しいと気味が悪い”という、いわゆる“不気味の谷”が存在するかもしれないよね。ロボットには本来必要ないはずの動作を、生々しく小器用にやってみせたりすると、これはかなり不気味かもしれん。

 たとえば、自分でそこそこ上手に化粧をするとか、社会の窓に指を突っ込んでうまくおちんちんを引っぱり出し、用がすんだら(なんの用だ?)、またうまくしまうとか、きれいに眼鏡を拭くとか、缶入りのつぶコーンスープを終盤には缶を回しながら一気に飲み、最後にのけぞったまま缶の底を叩くとか……こういうことを、ロボットが非の打ちどころがないほどスムーズにやってのける姿を目の当たりにしたとき、人は「よくできてるなあ」と感嘆するのか「気色悪ぅ~」とドン引きするのか?

 ま、なにはともあれ、コンビニおにぎりは、ホントにどなたかやってくれないかなあ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年5月27日 (水)

でも味噌汁付かない

 村上春樹氏の新作長編、発売前に増刷 でも味噌汁付かない
 インド・バングラ サイクロンで138人死亡 でも味噌汁付かない
 敵基地攻撃 麻生首相「法理上はできる」 でも味噌汁付かない
 北朝鮮への抗議決議、衆院で採択 制裁強化求め全会一致 でも味噌汁付かない
 赤ちゃんポスト「全国で相談態勢充実を」 病院が会見 でも味噌汁付かない
 水素燃料ハイブリッド車、初のリース販売 マツダ でも味噌汁付かない
 北朝鮮、非難に反論 「安保理が我が国の主権侵害」 でも味噌汁付かない

 いやさ、このあいだ、さだまさし『私は犬になりたい¥490』を iTunes Store で見つけて、「ああ、あのCMの曲か。いっぺんフルで聴いてみようか」と買って聴いてみたところ、予想以上によかったのでちょっと驚いたのであった。

 若いころはよくさだまさしも聴いたけどさ(たいていの人はやってるだろうが、曲を跳ばしてトークだけ聴いたりとかね)、手前が歳を取れば取るほど、“説教臭い系列”の曲がどんどんうっとうしくなってきて、気楽に聴こうという感じじゃなくなってしまったのよね。

 だが、この曲はいい。結局おれは、さだまさしの飄々としたユーモアこそを最後まで評価する。ただ笑わせるというんじゃなくて、面白うてやがて哀しき、まぬけた感じのさだまさしの曲がおれは好きだ。ふざけたあざといCMソングだと思っていたのだが、こいつは案外、さだまさしの最高傑作のひとつなんじゃないかと思う。忌野清志郎「善良な市民」と併せて聴くと、引き立て合ってじつにいいなあ。

 というわけで、asahi.com の見出しを適当に選んで「でも味噌汁付かない」を付けてみたんだが、これは魔法の言葉だね。なんに付けても、それなりの不思議な味が出る。しばらくは、それがなんであれ、とりあえず、「でも味噌汁付かない」を付けてみることにしよう。わけのわからないニュースが多い昨今、とにかく味噌汁が付かないことを嘆いてみるだけで、なんぼか冷静にものごとを見られるような気がする。

 それにしても、これじゃあ、ソフトバンクの思うつぼだ! ウィルコム派としてはなんだかくやしい。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月24日 (日)

『機動戦士ガンダム00』のエンディングっぽい空

Gundam00_sky
 逆光になるので、なかなか難しいっすね。いろんな設定で撮ってみたうち、ベストの一枚。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

♪必殺パワー、サンダーブレーク!

Dengeki01 先日、ホームセンターで三百九十八円で売ってたので、試しにわが家にも“配備”してみた。そう、あの「電撃殺虫ラケット」である。たかがハエ・蚊の類を一千数百ボルトの電圧で退治しようという大げさ加減がすばらしく、“購入”などという言葉は似つかわしくない。“配備”だ、配備。むかしは日本橋くらいでしか見かけなかったものだが、最近はホームセンターで大量に売っているのだな。

 ちゃんと使えるのかな、早く試してみたいものだと手ぐすね引いて待っていたら、昨夜、パソコンのディスプレイに小さな羽虫がぶち当たってきたではないか。来たきた、最初の獲物が来た、おれの家に入ってきたのがこいつの運の尽きである。

 おれはラケットのメインスイッチを入れ、通電スイッチに指をかけて下段に構えた。安全のために、スイッチは二段階になっている。羽虫はふらふら飛び回っている。

Dengeki02 いまだ! おれは通電スイッチを押しながら、軽くラケットを振った。バチッ!──ラケット面に青白い閃光が瞬き、すでに勝負はついていた。羽虫は、いや、羽虫であったろうものは、ラケットの金網に引っかかったまま微動だにしない。おれは電源を切ると、羽虫の残骸をティッシュでつまんで捨てた。

 ううむ、以前から半ばジョーク商品なんじゃないかと思っていたが、こいつはいい。殺虫スプレーを部屋の中で噴射すると、臭いがなかなか抜けないし、身体にも悪いにちがいない。虫が死ぬんだから、けっして人間の健康にもよい薬品ではあるまい。

 そもそも、飛び道具で毒殺するというのは、なんだか後味が悪い。二重に卑怯な気がする。虫のほうも長く苦しんで死ぬわけだから、陰惨である。一寸の虫にも三分の理。

 そこへゆくと、この電撃ラケットは潔い。飛び道具でない。漢の殺虫武器である。相手の目を見ながら、脇差しのひと突きで悪を葬る中村主水のようなダンディズムすら感じられる。なに? どっちかというと、ひかる一平のような気がする? い、いやまあ、そこは気にするな。薬剤は卑怯で電撃は卑怯ではないのかという声もあろうが、電撃のほうが虫も楽に死ねるというものである。おれは化学より物理のほうが好きだ。一瞬の出来事に、虫自身もなにが起こったのかさっぱりわからないことであろう。

 マジな話、乳児や幼児のいるご家庭などでは、殺虫スプレーはできるだけ使いたくないと思う。化学物質に対して過敏な反応をしてしまう体質の方もいらっしゃるであろう。そんな方々には、これ、けっこういいですよ。化学ではなく、物理で虫に対抗していただきたい。

 ただし、お子様の手の届かないところに保管してくださいね。金網は三層になっていて、通電されるのは外側の二層でガードされた中心の金網だけなので、通電中にうっかり軽くラケット面に触れてしまった場合も危険でないように考慮されてはいるが、強く触れたら通電網にも触れてしまうおそれがある。子供に触らせないに越したことはない。電圧が高いだけで、電流はさほどではないと思うが、電子ライターなどの圧電着火装置の火花(数千~一万ボルト)に触れたことのある人は、あれがいかに強烈なものか身を以てご存じであろう。

 おーし、今年の夏は、こいつに活躍してもらおう。おれはちょっとサドっ気があるのかもしれん。バチッ! と電撃火花が飛んだとき、なんか、すーっとした。ストレス解消にもいいグッズかもな。

 もっとも、虫の後始末をしなきゃならない点は、ほかの殺虫方法と変わらない。でも、新聞紙で叩き潰すよりはましだと思う。叩き潰すと、叩き潰した面(床、壁、襖、その他)も汚れてしまうが、こいつなら、感電死した虫はラケットの網に捕えられたままになるか、そのまま下に落ちるかである。どこも汚れない。

 さあ、来い、虫ども!



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月21日 (木)

進んだかどうかわからないが、変わっていることはたしかなのよな

 ソ連かぜが流行したのは一九七七年だが、この三十二年で大きく変わったことを、思い当たる範囲で列挙してみる。インフルエンザを以前より流行させ得ると思われる変化に「+」以前より流行を抑える方向に働くと考えられる変化に「-」をつけてみた。「+」の要素もあれば「-」の要素もあるといった変化は「±」である。


 ■小学生のころから、大多数が塾に通うようになった。 (+)
 ■学校が週休二日になった。 (-)
 ■週休二日の職場が増えた。 (-)
 ■公衆電話が激減した。 (-)
 ■自動ドアが増えた。 (-)
 ■花粉症が国民的疾患になった。 (±)
 ■リモコンで操作する家電製品が激増した。 (±)
 ■一家に一台だったテレビが、一人に一台(以上)になった。 (-)
 ■大きなイベント会場が増えた。 (+)
 ■カラオケ店が増えた。 (+)
 ■コンビニが増えた。 (+)
 ■ATMが増えた。 (+)
 ■マンガ喫茶、ネットカフェなどが出現し、増えた。 (+)
 ■パソコンゲーム、テレビゲームが一般的娯楽になった。 (±)
 ■携帯ゲーム機が普及した。 (+)
 ■自動改札が増えた。 (-)
 ■ICカード、ケータイ、ETCなどによる電子決済が普及した。 (-)
 ■指紋認証、静脈認証などによる接触型セキュリティデバイスの導入が広まった。 (+)
 ■海外へ行くことが、一般大衆にとっても珍しいことではなくなった。 (+)
 ■独身者、独居老人が増えた。 (-)
 ■路チューしてるカップルが増えた。 (+)
 ■インターネットが普及した。 (-)


 さてさて、こんなことを列挙してみたとて、これといって役に立つわけでもないのだが、意識してみるというのは意味のあることではないかと思う。時代の流れというやつはうまくしたもので、以前あったものがなくなったことによってリスクが減る側面もあれば、以前になかったものが増えることによってリスクが高まる側面もある。

 おれのような、子供のいない独り者でもとくに痛感するのは、おれたちが小中学生、高校生だったころと比べると、現代の小中学生、高校生の生活様式はまるでちがっているということなのである。いろいろな対策を立てている“ゼーレの老人たち”には、じつは現代の子供や若者の生活がよくわかっていないかもしれない。厚生労働省は、文部科学省との連繋を密にし、現代の子供や若者たちの実態を最もよく知っている現場の先生たちの意見や疑問を吸い上げて活かすくらいのスタンスでいてほしいものである。逆に、現場の先生たちは、お上の言うことだからと鵜呑みにせず、自分たちの見識を臨機応変に感染症予防に活かしてほしいと思う。なんといっても、“いま・ここ”の子供たち、若者たちの生活をいちばんよく知っているのはあなたがたなのだし、その知識・見識は、机の前で“一般的”対策を考えている事務方たちの盲点になっていることなのかもしれないのだから。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月19日 (火)

効率のよいインフルエンザの広めかた

 正直なところ、新型インフルエンザに罹るより、裁判員に感染するほうがおれは厭だな。

 新型インフルエンザは薬飲んで数日ウチで寝てりゃたいてい治るが、裁判員に罹ったら、運がよくて三日くらい、運が悪けりゃ数日も、慣れない裁判所に出かけてゆかねばならない。

 マジな話、裁判員や裁判官の中に新型インフルエンザの罹患者がいた場合、九人全員に感染するなんてこともありそうだ。同じメンツが、至近距離で、長時間、口角泡を飛ばして議論するんだろう? 延期したほうがよくない?



| | コメント (5) | トラックバック (0)

なんでみんながみんなマスクしてるの?

 電車の中や駅でえらく大勢の人がマスクをしているので、ちょっとびっくり。インフルエンザに罹っている人や、その疑いのある人がマスクをするのはわかるが、いまのところそういう人はまだ少数派であって、なんでまたこんなにも大勢の人がマスクをしているのか、理解に苦しむ。おまじないみたいなもんか。

 インフルエンザウイルスの大きさは、だいたい100ナノメートルでこぼこだ。煙草の煙の粒子はでかいやつで1マイクロメートルくらいだそうだ。あなたが煙草の煙のでかいやつだとしたら、インフルエンザウイルスはだいたい十六、七センチの球だということになる。そこいらのコンビニやら薬局やらで手ごろな値段で売ってる“キャシャーンマスク”をしていれば、傍らで煙草を吸われても、まったく臭いもなにも感じませんか? そんなことあるか。予防という意味では、そこらの安いマスクなど、気休めにすぎない。そもそも、いくら立体的な成型をされているからといって、あんなものをナノメートル単位の隙間で顔面に密着させることなど不可能である。すでにインフルエンザに罹っている人がマスクをするのは、飛沫感染の確率を下げるという意味で大きな意味があるけれども、そのへんの手ごろなマスクでインフルエンザウイルスを漉し取ろうなどと考えるのは、サッカーゴールでビー玉を止めようとしているようなものである。本格的な医療用マスク(SARSのときに取り合いになったN95とかね)ででもないかぎり、あくまで気休めだ。まあ、電車の中とかの空気を直接吸い込みたくないという心理はわかるけどもねえ。

 猫も杓子もマスクをしている不気味な光景を見ていたら、ふとケッタイな考えが浮かんだ。サングラスをかけていればいくらかは防げるという感染症が流行ったら面白いだろうな、と。駅のホームで電車を待っているあなたがふとあたりを見まわすと、み~んながサングラスをかけているのである。想像するだに、かなり不気味な光景だ。

 若い女性だけに感染し、下半身裸でTフロントを履いていれば防げる怖ろしい病気とかが蔓延しないかなあ。



| | コメント (15) | トラックバック (1)

2009年5月18日 (月)

抗ウイルス薬がインフルエンザを広めるかも?

 高校生の姪が、六月に韓国へ修学旅行に行く予定だったのだが、新型インフルエンザ発生のために修学旅行が延期になると同時に国内へと行き先が変わったそうだ。まあ、妥当な措置であろう。

 もっとも、新型インフルエンザといっても、いまのところ得られている情報では、罹った場合の怖ろしさは、ふつうの季節性インフルエンザとさほど変わらず、先進国在住のふだん健康な成人がさほど怖れるほどのものではないようだ。持病のある人、衰弱している人、老人、幼児、乳児などにとっては、たしかに脅威だが、それはべつにいままでのインフルエンザも同じである。もはや国内で人から人への感染が確認されている現段階に至っては、いっぺんに多数が発症して医療機関への負担が短期間に急激に増えないようにすることが最優先事項だろう。どんな対策を採っても、しょせん時間稼ぎにしかすぎないのだが、その時間稼ぎこそが最重要なのだ。各個人でできることはしよう。不要不急の移動を控える、大勢の人が集まるところへの不要不急の外出を控える、頻繁に手洗いをする程度のことしかない。

 マスコミはタミフルやリレンザなどのいわゆる“抗ウイルス薬”のストックや流通体制のことばかりを心配しているが、それはいかがなものかと思う。マスコミはもっと、タミフルやリレンザの作用機序をわかりやすく説明し、啓発を図るべきだと思う。

 おれはべつに学者じゃないから、医学の門外漢であることにかけては、そのへんの人に劣らぬ素人であるが、小難しい説明を根気よく読んで調べてゆくことは、多少は得意である。そんなおれ程度でも気にかかっているのは、多くの人が、“タミフルやリレンザは、インフルエンザウイルスの特効薬であって、ウイルスを死滅(というのは、そもそもあれが生物であるかどうか意見の分かれるところなので語弊があるが)させる薬”だと誤解しているという点である。

 タミフルやリレンザがどうして効くのか──というのは、素人のおれが各種情報から少なくとも理解している範囲ではこうだ。インフルエンザウイルスは、その殻(エンベロープ)の表面に、ヘマグルチニンという“細胞に取りつくための物質”を持っている。そいつで以て細胞にくっついたウイルスは、細胞内部に侵入し、細胞そのものが自己複製する仕組みの一部を乗っ取って、ウイルスを複製させる。工場に忍び込んだ犯罪者が、工場の設備を使って勝手にヘンなものを作るようなものだ。複製された新しいウイルスは、その感染した細胞から飛び出してゆくのだが、その際、そのままでは、最初に細胞にくっつくヘマグルチニンによって、また同じ細胞にくっついてしまう。ところがどっこい、そこはうまくしたもので、飛び出してゆこうとする新しいウイルスが、すでに感染している同じ細胞に再びくっついてしまった部分をぶった切る酵素をちゃんとウイルスは持っている。それがノイラミニダーゼというものである。こいつが働くから、複製されたウイルスは、感染した細胞を離れて、ほかの細胞をどんどん冒すべく、旅立ってゆけるのだ。すでにお気づきの方もあろうが、インフルエンザウイルスの型を示しているとかとかいうのは、くっつき物質・ヘマグルチニンと、ぶった切り酵素・ノイラミニダーゼの頭文字である。

 タミフルやリレンザは、新しく複製されたウイルスが感染細胞から飛び出してゆく際に、元の感染細胞に再びくっつくことを妨げるノイラミニダーゼの働きを阻害する薬(ノイラミニダーゼ阻害薬)である。だもんだから、タミフルやリレンザが働くと、インフルエンザウイルスは、感染細胞の中でせっかくコピーをいっぱい作っても、それを飛び出させることができなくなるわけだ。だから、これらの薬の効果があるのは、せいぜい四十八時間以内だとされるのである。すでに多くの細胞が感染してしまっている段階でこれらの薬を投与しても、インフルエンザの症状を緩和することはできない。あくまでインフルエンザウイルスの増殖プロセスを妨げる薬であって、インフルエンザウイルスの毒性を抑える薬ではないからである。

 だもんだから、タミフルやリレンザを早めに飲んでよくなったからといって、早々に人の集まるところへ出てゆくのはよくないと考えられる。自分の症状は悪化しなかったかもしれないが、他人にウイルスを移してしまう可能性はまだまだあるわけである。

 タミフルやリレンザは両刃の剣だ。早期にインフルエンザウイルスの増殖を抑え、症状の悪化を防ぐという点ではこれらの抗ウイルス薬は人類への福音だが、ウイルスを持っていて発症までしてしまった人を早期に動き回れるようにしてしまうという点では、感染を広める働きをしてしまいかねないとも言える。

 過去のアジアかぜ、香港かぜ、ソ連かぜなどのときには、そもそも抗ウイルス薬などは存在していなかったわけだから、今回の新型インフルエンザは、抗ウイルス薬の壮大な実験の機会とも言えよう。死者は減らすが感染は増やすかもしれないわけである。

 まあ、これからは国内でも新型が蔓延してゆくことになるのだろうが、抗ウイルス薬で早めに症状を抑えられた人も、ほかの人のために、多めに休んだほうがよいと思いますよ。「おれはタミフルのおかげでもう大丈夫だ。こんな不景気なときにおちおち何日も休んでられるか」という考えが、今回のインフルエンザを広める最大の要因になりそうな気がする。

 インフルエンザに罹ったときくらい、腹をくくって、ゆっくり休みましょうよ。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月16日 (土)

岡部まりの“依頼読み”マジック

 そうなのだ。『探偵!ナイトスクープ』を観るたびに、毎回気になっていて、いつかそのうちブログでツッコんでみようみようと思いつつ、ついに今日までツッコミ損ねていたことをようやく書く。

 岡部まりは長崎県出身である。大人になるまでべったり九州にいたそうだ。そのわりに、まあ、テレビではちゃんと標準語をしゃべっている。

 なのに、なぜか『探偵!ナイトスクープ』の“依頼読み”のとき、「○○県にお住まいの……」と切り出す「お住まいの」の部分だけが、まるで浜村淳のようなベタベタの関西アクセントなのである。きっとみんな、あそこでいつも「おやっ?」と思っているんじゃなかろうか。九州でも「お住まいの」は関西と同じようなアクセントで発音するのだろうか。

 いや、べつにおれは岡部まりに「お住まいの」をアナウンサーのように読んでほしい、アクセントを直してほしいと思っているわけではないのだ。むしろ、『探偵!ナイトスクープ』の依頼読みは、岡部まりのあの「お住まいの」でなくてはならないと思っている。なんか、聴いててほっとするのよな。ネタへの滑り出しは、じつはあの「お住まいの」にこそかかっているとすら感じている。

 以前、岡部まりが休みのときピンチヒッターで依頼読みをやった堀友理子アナウンサー(朝日放送)は、「お住まいの」をちゃんと標準語のアクセントで読んでしまい、それがゆえに非常に違和感を覚えた。べつに堀アナが悪いわけではない。だが、おれはあのとき、堀アナがふつうに標準語で「お住まいの」を読んでしまったがゆえに、岡部まりの「お住まいの」がいかに貴重なものであったかを思い知ったのだった。よ~く考えてみると、『探偵!ナイトスクープ』の依頼読みは、あの岡部まりの「お住まいの」があるからこそ、えも言われぬ“ほっこり”したものになっているのである。

 これからも、岡部まりには、いまさらアナウンサーじみた標準語などに直さず、ずっとあの「お住まいの」をやっていってほしいと切に願うのである。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

報告書の始末書?

 おなじみ、《ヘンな検索語》シリーズだが、これにはちょっと考えさせられた──

「虚偽の報告書に対する始末書の書き方」

 そもそも、いったい全体、なにゆえにこのような検索をしているのかよくわからないが、どこかの誰かが虚偽の報告書を作成してしまい、それが発覚して組織から始末書を書くように求められている……ということなのだろうかな? 厳密に言えば、「始末書」の作成をペナルティーとして強制され得るのは公務員だけであって、民間企業で従業員に始末書を書かせるためには、その旨が就業規則にきちんと定義・明記されている必要がある。だもんだから、民間には「顛末書」という、これまたよくわからない不思議なものがあったりすることもある。なにしろ「顛末書」なのだから、事の次第を説明しているだけの文書であり、それはけっしてペナルティーではないのだが、事実上、そのような面倒なものを作らされること自体が懲罰になっているとも言えよう。

 それはともかく、すでに「虚偽の報告書」を作り提出した者が書く「始末書」に、どれほどの信憑性があり、反省の意がこもるものか、それ自体、疑問である。その始末書に虚偽があった場合、次はナニ書を書かせるのだろう? 

 虚偽の報告書の虚偽の始末書1の虚偽の始末書2の虚偽の始末書3の虚偽の始末書4を書いたやつが、これから始末書4について書くであろう始末書5が虚偽である確率はどれくらいか──みたいなことを求めるのには、近年IT屋さんのあいだで流行(ちゅうか再評価ちゅうか)のベイズ理論ってやつが有効なのかな? 「この人物が虚偽の文書を作成するのは五回に二回であるから、始末書5が虚偽である確率は五分のニである」などという妙に客観的すぎる考えかたには、あまり人は馴染めないものなのよな。そもそも「始末書5」などというものを書かされる羽目になっている時点で、「こいつが始末書5に虚偽の記述をする確率は相当高そうだ」と主観的に思うのが人情というものだろう。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

相対性理論が過小評価されてるとは思えないんだがなあ

第1回CDショップ大賞 相対性理論「シフォン主義」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0512/TKY200905120304.html

 全国のCDショップの店員が、売りたい、聞かせたい邦楽アルバムを選ぶ「第1回CDショップ大賞」が12日発表され、大賞に4人組ポップバンド、相対性理論の「シフォン主義」(みらいrecords)が選ばれた。準大賞には大橋トリオ「THIS IS MUSIC」(パッチワークスレーベル)、Perfume「GAME」(徳間ジャパン)の2作品、ほかに7作品を入賞に選んだ。
 昨年発足した「全日本CDショップ店員組合」が、大手やインディーズを問わず、過小評価されている音楽作品に光を当てたい、と企画した。いわば書店員が選ぶ「本屋大賞」のCD版。
 08年発売の邦楽のオリジナル作品を対象に、148人の店員が3票ずつ投じ、1次投票で29作品を選出、さらに2次投票で上位10作を選んだ。
 大賞の相対性理論は、80年代のテイストが漂うポップなサウンドとシュールな歌詞、淡々とした女性ボーカルが持ち味。ライブの他に、人前に出ることはほとんどなく、インターネットや口コミで話題になっていた。

 こんなのがはじまっていたとは知らなんだ。「本屋大賞」のCD版ねえ。

 おれもこのブログで激賞した相対性理論が賞を取るのは喜ばしいことだが、「全国のCDショップの店員が、売りたい、聞かせたい邦楽アルバムを選ぶ」「過小評価されている音楽作品に光を当てたい」ってところに、ちょっと違和感を覚えた。過小評価どころか、『ハイファイ新書』『シフォン主義』も、iTunes Store では、かなりのあいだ「トップアルバム」の一位と二位に輝いていたと思うんだが……。すでに大ブレークしてるんじゃないの? おれなんぞは、ネットのほうに軸足があるから、「ほとんど社会現象になりつつあるのではないか」などと思っていたくらいだ。べつにケチをつけるわけじゃないんだが、過小評価されているものに光を当てたいという主旨であれば、充分売れているとしか思えない相対性理論じゃなく、もっと売れてない名盤に光を当ててあげてはどうかと思う。

 まあ、あくまで「08年発売の邦楽のオリジナル作品」が対象ということだから、今年一月の『ハイファイ新書』の大ブレークに目をつぶれば、『シフォン主義』は賞の主旨にマッチしていると言えないこともないかなあ。おれは『ハイファイ新書』を iTunes Store で試聴して仰天し、その場で『ハイファイ新書』と『シフォン主義』をぽちぽちっと衝動的確信買いして、ヘヴィーローテーションで聴きまくっているうちにどうしても盤(いた)も手元に置いておきたくなり、アマゾンで二枚ともぽちぽちっとやった。都合二回ずつ買っているわけだが(なにも、いつもこんなアホなことをしているわけではない。それくらい気に入ったのだ)、一回もCDショップには行ってない。そういう時代なんだよねえ。売れてるものを買うのに、なにをわざわざCDショップにゆく必要があるか。

 まさかとは思うが、来年の今ごろ発表されるであろう「第2回CDショップ大賞」が、『ハイファイ新書』になったりはしないよね? 万が一、そうなりそうになったら、ちょっと賞の主旨を考え直したほうがよいと思う。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

退化してるよね、あきらかに

117億投じる「国営マンガ喫茶」 なぜ「お台場」に建設なのか (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/05/11040891.html

15兆円規模にものぼる補正予算の審議がヤマ場を迎えるなか、その内訳について、野党から批判の声があがっている。特に問題視されたのが、117億円の予算が付けられている「国立メディア芸術総合センター(仮称)」なる施設。お台場が有力な建設予定地とされているのだが、「アキバ文化」に詳しいジャーナリストからは、「秋葉原や『アニメのまち』杉並区などを無視する形のうえ、いきなり『ハコモノ』を作っても上手くいかないのでは」と、疑問の声があがっている。

 おれはマンガもアニメも嫌いじゃないし、どっちかというと好きなほうだが、これを「国営マンガ喫茶」と呼ぶのはいささか言いすぎだと思う。マンガ喫茶に失礼である。そこいらのマンガ喫茶ほど流行るとは到底思えない。少なくとも、マンガ喫茶なら、採算が取れているから営業が続けられるわけだしな。こんなものは、「マンガのグリンピア」になるのが目に見えている。なんで、いまさらハコモノなのだ?

 ここでタイムマシンに乗って、ITpro のニ〇〇一年一月の記事「中央省庁再編はアニメやCGなどコンテンツ産業に吉と出るか」を読んでみていただきたい。ああ、あったあったと思い出す人も多かろう。あの『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、この「通商産業省平成10年度補正予算先導的コンテンツ市場環境整備事業」から製作費の一部が出ており、エンドロールにもちゃんと出ていた。少なくとも、十年ほど前には国も少しはましな方向性を打ち出してはいたと思う。

 とはいえ、やがて「先導的コンテンツ」やら「マルチメディアコンテンツ」やらなにやらという曖昧な言葉は、いつのまにか「デジタルコンテンツ」に矮小化されてしまい、どこ行ったかわからなくなってしまった。かつての「ニューメディア」(死語)を思わせる。

 それでも、むかしは、ソフトに金を出そう、人を育てるのに金を出そうという、まともな方向性はあったわけだ。それを“輸出産業”としてしか見ていない役人と、アーティストのメンタリティーとのあいだに、絶望的な距離があったであろうことは想像に難くないにせよだ。この十年で、政治家や役人も少しは学習というものをしたであろうに。

 それが、平成二十一年にもなって、この「マンガのグリンピア」ですからなあ。はらほろひれはれと言わずしてなんと言おう。

 こんなもん作ってる金があったら、オタクにばらまけ! オタク給付金である。まあ、オタクといってもさまざまなオタクがあるから、経済効果の大きそうな何分野かに絞って試験をし、みごとオタクと認定された人には、百万円くらいどーんと給付する。オタクは購買力が高い。なぜかというと、金持ちのオタクは金に糸目をつけずオタクなものを買うし、貧乏人のオタクは金に糸目をつけながらでも、やっぱりオタクなものを買う。衣食住など彼らの眼中にはない。なんとか生きていられればいいのである。すぐにウンコになって出てしまううまいものなど食うくらいであれば、彼らは小説を買うマンガを買うアニメのDVDを買うフィギュアを買うコスチュームを買う。一万あれば一万買うし、十万あれば十万買うし、百万あれば百万買う。これはものすごい経済効果である。また、そうした冥府魔道をゆく呪われた人々の中から、結果的にさらなる経済効果を生む“なにかしら”を創造してしまうやつも出てくるにちがいない。

 あー、なんかちょっと話が逸れたような気もするが、一万二千円やそこらもらったところですぐに貯金してしまうような人々に金を配るくらいなら、オタクに集中的に配ったほうが絶対景気浮揚に効果があるぞ。

 だから、麻生首相はおれに百万円振り込むように。なんなら一千万でも一億でもいいぞ。一億入ったとしても、衣食住がごとき些末事の水準はほとんど変えぬままで、どばどばっと有効に使ってさしあげるぞ。もっとも、おれひとりでは一億円ぶんも本は読めんしCDは聴けんしDVDは観られんから、それだけあったら、自分の好きな作家を拉致してきて、一年でも二年でも高級ホテルに缶詰にし、傑作を書かせる。ホテルでの生活費は全部おれ持ちだ。なんと有意義な金の使いみちであろうか。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月 9日 (土)

エアコンのうがい

 そうそう、先日、連休中にえらく部屋が蒸すなあ(そりゃまあ、ゴールデンウィークともなれば、でき得るかぎり引きこもってますからな)と思ったので、ひさびさにエアコンを「ドライ」設定でしばらく入れてみた。

 スイッチを入れてしばらくすると、エアコンが「ガラガラガラガラガラ……」と音を立てはじめた。おお、エアコンがうがいをしているみたいだ──と思った次の瞬間、エアコンから


「ペッ」


 と、ほんとうになにかが吐き出されたもんだから、ひどく驚いた。エアコンに心を読まれたかのようだ。というか、おれの心を読んだエアコンが、的確なギャグで斬り返してきたような感じである。

 いったいなにが吐き出されたのかと、怖るおそるエアコンの下あたりを見てみると、ニセンチくらいのゴキブリだった。「送風」以外でエアコンを点けるのはひさしぶりだったから、どこかからエアコンの内部に入り込んだゴキブリが急激な熱環境の変化にあわててあらぬ方向へ動き出し、回転部に巻き込まれて室内に飛び出してきたのだろう。

 う~む。エアコン、侮れん。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月 6日 (水)

花嫁の余命

 このところ、『余命1ヶ月の花嫁』って映画の宣伝をやたら目にする。さっきも目にした。そこでふと疑問が湧いた──ふつうの花嫁の余命はどれくらいなのか?

 二十八歳最初の日に結婚し、八十六歳最後の日に死ぬ女性がいるとすると、彼女が花嫁になった日の余命は七〇八か月である。月で数えると意外と少ない。「いや、多すぎる」とツッコんでいる人は、なにかいろいろフクザツな事情を抱えてらっしゃるのであろう。

 もっとも、これは“彼女が花嫁になった日の余命”であって、“花嫁としての余命”ではない。厳密に考えれば、“花嫁”と呼ばれるのは結婚式当日だけであり、慣用的に拡大解釈しても“結婚してまもないうち”が“花嫁としての余命”ということになる。そもそも花嫁は自分のことを花嫁などとは呼ばないものだから、花嫁が花嫁と呼ばれる期間は、ひとえに周囲の評価によるわけである。きわめて曖昧だ。まあ、おれの感覚では、せいぜい新婚旅行中くらいが花嫁なんじゃないかという気がするけれども。

 とはいえ、結婚後百か月経とうが二百か月経とうが、「私は花嫁だ」といけしゃあしゃあと主張する“花嫁”がいた場合、自己申告を周囲の評価で否定するのもいかがなものかと思う。本人が“結婚してまもない”と感じているのであれば、“主観的には花嫁”であることを否定されるいわれはない。

 ともあれ、結婚式に臨む花婿は、「こいつが八十六まで生きるとすると、余命何か月の花嫁ということになるだろう?」と計算してみるのも一興ではあるまいか。まあ、多くの場合、花婿のほうが先にくたばるわけだが……。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

ちょっとうれしい日常のひとコマ

 洗った包丁をびゅんと振って水を切るとき、時代劇のヒーローになったかのようでちょっとうれしい。

 ただ、そのあと包丁を持てあます。鞘があったらもっとうれしいのだが……。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

逮捕せんか~!

 と、日本中の人が大声でツッコんでいるのが聞こえるようだ。

愛知県警・守山署副署長が飲酒運転容疑 任意で取り調べ (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0505/NGY200905050001.html

 愛知県警は5日、守山署の小川直哉副署長(54)が同日未明、名古屋市守山区内で酒気帯び運転をしたとして、道交法違反容疑で任意で取り調べていると発表した。小川副署長は豊田署交通課長、県警交通安全教育推進室長を経て現職。県警によると、「何でこんなことをしてしまったかわからない。申し訳ない」と話しているという。
 監察官室の発表によると、小川副署長は同日午前2時ごろ、同区内の飲食店から自家用の乗用車を運転して署の駐車場に戻ってきたところ、署員が酒のにおいに気づき、飲酒運転がわかった。呼気中のアルコール濃度は、道交法の違反点数がより重い基準値(0.25ミリグラム/リットル)を超えていたという。
 小川副署長は4日午後6時半から5日午前0時まで、知人らと署の近くの飲食店で酒を飲み、徒歩で官舎に戻った後、1人で署の駐車場から車で再び飲食店に出かけて戻ってきたところだった。飲酒運転したのは、署と2軒目の飲食店の往復約3キロ。1軒目で焼酎の水割り3杯とビール2本を飲んだと話しているという。
 加藤僚首席監察官は「飲酒運転の絶無を期しているなか、警察幹部が飲酒運転をしたことについてはまことに申し訳なく思う。事実に基づき厳正に対処する」とのコメントを出した。

 昨今の警察の基準では、こういうのは現行犯逮捕して、ひと晩拘留し、尿検査したうえで家宅捜索するべきだろう。署員が目の前で見てて、呼気検査で違法な数値が出たんだろう? な~にが「任意で取り調べ」だ、ふざけるんじゃない。逮捕していないから、マスコミも“小川直哉容疑者”と呼ぶことができない。うまくしたもんだ。

 加藤僚首席監察官とやらは、「警察幹部が飲酒運転をしたこと」だけじゃなく、やたら身内に甘い警察の体質に関しても「まことに申し訳なく思う」べきだ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

憲法九条改定案

 ゴールデンウィークというととにかく休みが続くありがたい日々だとしか考えないのだが、なんで休みなのかをうっかり考えてしまったため、ついつい憲法について考えてしまった。考えないほうが気楽でいいのだがなあ。

 おれは以前から何度も言ってるように、改憲派である。第一章はまるごと要らんと思っている。まあ、それはそれで難しい問題だから置いておくとして、改憲というと常に問題になる九条についてである。

 これも前から言ってるように“怪我の功名”だと思っている。つまり、現生人類にはあまりにも未来的すぎてもったいなさすぎ、現実性に欠けると思っている。遠未来じゃなくて直近の現実を見た場合、国の交戦権、集団的自衛権などは限定的に認めるべきだろう。不本意ではあるが、キチガイが襲ってくることは常にあるのだ。

 しかし、非常に長期的に考えるならば、現行の日本国憲法九条を、さらに積極的な全人類へのメッセージとして改定する方向もあるかもしれない。おれは半ば本気で思っているんだが、笑うなよ。おれの素案はこうだ──国の交戦権はこれを認めず、国軍の保有も認めない。しかし、国際救助隊の保有を一国の憲法で規定するのである。そして、どの国も足元にも及ばないハイテクを駆使して、ほんものの国際救助隊“らいちょう”を作ってしまうのだ。宇宙ステーション(らいちょう五号)に救助要請が入るや否や、同盟国へであろうが国交のない国へであろうが、政情なんか関係なく、惜しげもなくハイテク飛行艇を差し向け、人命救助に当たる。これをやれば、世界はびっくり仰天、軍隊で自国を守ることしか考えていない自分たちの憲法に恥じ入り、日本人に宇宙人を見るかのような尊敬の眼差しを向けることであろう。“本家”のイギリスなど、「パクられた~! しかし、なぜおれたちが先にこれをやれなかったのか~」と地団太踏んでくやしがる(?)のではないか。

 専ら自国を守る国軍の保有を規定していないのに、巨額の予算と高度な技術を投じて世界中の人命を救う部隊の保有は憲法で規定している──とんでもないお人よしの国である。この国を攻撃しようなどという国が現れたとしたら、世界各国は“自国の国益のために”このお人よし国家を守ろうとする。それよりなにより、人命救助に用いているあれほどの技術を、もしこの国が本気で攻撃に用いたら……と考えると、どの国もなまなかなことでは怖れて手が出せないのである。それほどのスーパーハイテク部隊なのだ、“らいちょう”は。

 ファンタジーだよ。たしかに現状ではファンタジーだけども、考え得るオプションとしてはアリだとも思うんだよ、ホントに。



| | コメント (7) | トラックバック (1)

2009年4月30日 (木)

たいやきのジョー

 なにやらあちこちで流行っていて、本舗やら元祖やらそのほかやらいろんな流派(?)があるらしい「白いたいやき」の店がいつのまにか近所にできていた。うちの近所にできたのは、カタカナ表記の「白いタイヤキ えびす堂」ってやつだ。

Whitetaiyaki01 まあ、ものはためしと、白いタイヤキの黒あんチョコレートを食ってみた。上に乗ってるほうが、オーソドックスな黒あん、下の白っぽいほうがチョコレート。

Whitetaiyaki02 たしかに白い。立て! 立つんだ、ジョー!

Whitetaiyaki03 ラップをかけて、二個分で一分間、電子レンジで温めた。なんとなく、見た目ももちっとした感じかも。

Whitetaiyaki04 チョコレート。これがけっこううまい。皮の部分は、ふつうのたいやきと「雪見だいふく」の中間といった食感。たしかにもちもちしている。香ばしさというものがほとんどないので、もの足りないといえばもの足りないが、ある意味、中身の味がストレートに引き立つ。中になにを入れてもそれなりに食えそうな気がする。つまるところ、皮は食感だけを楽しむものと割り切ることで、中に入れるもののヴァリエーションを広げられるのだな。

Whitetaiyaki05 ぷにぷに。皮には甘みがないうえ、中身にもいやらしい甘みがなく、さっぱりしている。ふつうのたいやきは、二個も食ったら量よりも甘みで腹いっぱいになってしまうが、これはそんなことはない。なんなら四つくらい食えそうだ。そうか、満腹感を与えずにたくさん食わせようというわけだな。

 ま、とびきりうまいってもんでもないが、ふつうのたいやきとはまったくちがった面白い食感がなかなかいける。話の種に食ってみて損はないって程度かな。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月29日 (水)

パンデミックあげるよ

 去年の正月に「パンデミックあげるよ」などとほざいていたら、ほんとにこんな事態になってしまった。

 現時点での情報ではウイルスの毒性のほどはよくわからないが、先進諸国では感染者の死者はまだないようだから、人から人へ感染しているうちに、もっと高い毒性や抗ウイルス薬に対する耐性を獲得する方向へ変異しないかぎり、少なくとも現状では、やたら怖れるほどのことでもないようだ。とはいえ、まだメキシコでの多数の死者が国情によるものなのかウイルスの毒性によるものなのかもはっきりとは発表されていないような状況だから、大事を取るには越したことはないだろう。状況は依然として、怖がりすぎてもいけないが、侮りすぎてもいけないというところのようだ。

 とかいいながら、替え歌ができちゃったものはしようがないので、書かずにはいられない。ことによると、おれがこのインフルエンザに罹ってくたばるかもしれないのだが、そのときはこの歌を出棺のクラクションといっしょに唄って笑いものにしてやってください。それでは、不謹慎を承知で行ってみよう、『パンデミックあげるよ』──


♪おいでトラベラー サーモグラフィー
 君のだるさ 隠さないで
 帰宅したくて 寒気がしてきて
 誰かじつは ゾクゾクしてる

 元気なフリして すり抜けちゃ
 病気の謎など 解けないよ
 もっとクールに もっと正直に
 生きてほしい
 ※パンデミックあげるよ
 パンデミックあげるよ
 ホントの勇気 見せないのなら
 パンデミックあげるよ
 パンデミックあげるよ
 苦しい胸に ごろごろ絡んだ
 痰をあげるよ※
 いつかワンダフル きっとタミフル
 人のジャングル 迷いこんで
 感染するかも 発症するかも
 とてもみんな ビクビクしてる
 思ったとおりに 叫ばれちゃ
 飛沫はここまで 届いちゃう
 もっとおだやかに もっと慎ましく
 生きてごらん
 パンデミックあげるよ
 パンデミックあげるよ
 ホントの唾液 受けてくれたら
 パンデミックあげるよ
 パンデミックあげるよ
 空しいマスク やさしく通して
 熱をあげるよ
   (※くり返し)




| | コメント (3) | トラックバック (0)

おれにとっての宗教とは

 明日から連休だもんだから、たまーには甘いものでも食おうと、たまたま帰りにファミリーマートに入ったところ、噂の「Wクリームエクレア」ってのがあったので買ってみた。晩飯食ったあと、芋焼酎のアテに食ってみると、おおお、こ、これはすごい、うまい! そりゃまあ、金を出せば、これくらいのスイーツはいくらでもあろう。なにがすごいって、これが百五十円であるところがすごいのである。コンビニおそるべし……。

 と、感心しながら酒を飲んでいたところで、突如、おれの頭の中で、「あっ、そうか!」と、おれにとって宗教とはなにかという積年の疑問が解けた。解けたというより、答えは常に頭の中にあったのだが、他人にわかるようにどう説明したらよいのかが、いきなりわかったのだった。

 お答えしよう。おれにとって宗教とは“ブラジャー”のようなものである

 世の中にそれを必要とするタイプの人が相当たくさんいるという知識をおれは持っている。が、おれがそれを必要とすることはまず考えられないし、必要とするようになりたいともまず思わない。ああいう煩わしそうで面倒くさそうなものを、おれ自身は必要としなくてよかったなあと思っている。しかし、相当たくさんの人がそれを必要としているからには、それはどのようなものなのか、どんな種類があるのかといった、それに関する知識を多少は持っておかなくてはいかんとも思っている。それを取り扱わなくてはならないような状況に置かれることが、さしものおれも、いままでの人生でないではなかったからである。しかし、自分がまったく必要としないものに関する知識を持たねばならないというのも、ぶっちゃけ面倒だ。いっそ、こんなものはないほうがおれは嬉しい。たぶん、嬉しい人が相当数いると思う。

 というわけで、ひとたび思いついてみると、どんなに考えてみても、おれにとって宗教とブラジャーとは、加速度と重力と同じくらいに等価であるとしか思えないのだった。Q.E.D.



| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009年4月28日 (火)

もしおれがすでに狂っていたとしたらごめんなさい

 酒を飲んでいると、ふとわれに返ることがある。酔って“われに返る”というのも妙だが、正直、ほんとにそういう感じなのだ。ここ一、二か月を酔って冷静にふりかえってみると、冗談としか思えないようなことばかりが立て続けに起こる。ごちゃごちゃ言うからややこしくなるので、端的に箇条書きにしてみたとしようや──

  ・国が金をくれはじめた。
  ・政府が勝手に金を刷って配れば景気がよくなると、いろんな人が言っている。
  ・言っていたやつの一人は、置き引きで書類送検された。
  ・大臣がへべれけになって会見した。
  ・誰でもやってるようなことで最大野党代表の秘書がいきなり逮捕された。
  ・隣国がミサイルを撃ってくると大騒ぎした。
  ・二十四年前に川に投げ込まれて以来行方不明だったおじさんが戻ってきた。
  ・アイドルが酔って脱いで騒いで逮捕され家宅捜索された。ミサイルと同じくらい騒いだ。
  ・怖い病気が世界的に流行しそうになっているらしい。

 なんだか、怖ろしく支離滅裂で現実感がない。上の箇条書きを、「二〇〇九年のようすだよ」と、タイムマシンで二十年前のおれに見せてやったら、過去のおれはきっとのたうちまわって大爆笑することだろう。まるで、ドタバタ時代の筒井康隆ワールドにいるかのようだ。明日、「巨大なナスが降ってきて国会議事堂を押し潰した」というニュースを聞いたとしても、おれはたぶん「へー」と言ってそのまま屁ぇこいて寝そうで、その鈍磨した感覚がなにやら妙にわれながら怖ろしい。ひょっとすると、おれは知らないうちに気が狂ってしまっているのではなかろうか?

 そうだ。こんなときこそ、おれたちは“ちりめんじゃこの中に入っている小さなタコ”を探さねばならない。見つからないかもしれないが、少なくとも、タコを探しているあいだは正気に戻れると思うのだ。あまりにシンプルすぎて、ともすると忘れそうになるが、ちりめんじゃこの中に入っている小さなタコを探すことでのみ、人間は正気を保てるのだという、静かで、しかし深い確信がおれにはある。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年4月27日 (月)

栄養のあるものをちゃんと食って、体力を温存しておこう

豚インフル「国際的な緊急事態」 警告レベルは維持 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0426/TKY200904260130.html

 【ジュネーブ=国末憲人、ワシントン=勝田敏彦】メキシコと米国での豚インフルエンザ感染を受け、世界保健機関(WHO)は25日開いた緊急委員会で、「国際的に懸念される緊急事態」だと認定し、各国に警戒を呼びかけた。ただし、感染警告レベルを引き上げる決定は先送りした。一方、米ニューヨーク市やニュージーランドなどでも新たに感染を疑わせる例が報じられ、事態は地理的に飛び火する様相を呈しつつある。
 WHOの発表によると、緊急委員会は、現状は疑問点がなお多いとしながらも、感染症阻止のための国際法上の枠組み「国際保健規則」に基づく「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」だとの点で一致。WHOのチャン事務局長はそれを受けて今回の状況を緊急事態と認定するとともに「インフルエンザ様疾患や重い肺炎が、通常みられないような形で発生していないか、すべての国は監視を強化して欲しい」と要請した。
 だが緊急委員会は、現在の警告レベルを引き上げる議論については「さらに情報が必要だ」と、決定を保留した。警告レベルは6段階分類で、現在は、下から3番目の「人から人への感染がないか、極めて限定的」なフェーズ3。これを「人から人への感染が明らか」というフェーズ4に引き上げるかが問題だった。

(中略)

 また、米疾病対策センター(CDC)が25日、感染者を新たに3人確認し、米国内での感染確認は計11人になった。ニューヨーク市東部クイーンズ地区の私立高校で生徒約100人がインフルエンザに似た症状を訴え、そのうち8人が、検査でA型インフルエンザの陽性反応が出て、豚インフルエンザに感染した疑いがあることもわかった。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると、生徒の一部は最近、メキシコに旅行していたとの情報がある。検出されたウイルスは、既知のヒト型と違うタイプだという。
 ただし、米国での感染または疑いがある例はいずれも比較的、症状は軽い。豚と接触した形跡はなく「人から人」感染が起きた可能性が高い。

 ついに来たか。いや、まだ確たる情報は少ないが、WHOが警告レベルを上げようが下げようが、それは多分に政治的要素を含んだ問題であって、われわれ一般市民は、すでに人から人への感染が起きていることを想定して行動すべきだろう。現にそう疑わざるを得ない情報も出ている。しかし、こんなもん、個々人ではどうしようもない。せいぜい、人ごみには極力出ないようにし、万一感染しても命にかかわらないように、体力を激しく消耗するような行為を控える程度のことしかできない。このグローバル時代、飛行機で世界中を人間が行き来している。よほどうまくやらなければ、水際で止めることは難しかろう。止められるに越したことはないが、おれはそれほど日本の防疫体制を信用していない。不必要に怖がらず、不必要に侮らない、腹をくくった冷静な態度が一般市民にも求められよう。

 それにしても、なんという厭らしいタイミングだ。日本はこれからゴールデンウィークなのである。さすがにメキシコ旅行を予定していた人は、よほどの豪傑でないかぎりキャンセルするだろうが(そりゃあ、かねてから予定を立てて指折り楽しみにしていた人の気持ちはわかるが、ここは涙を呑んで、日本のためにキャンセルする勇気と分別を持ってほしい)、アメリカやニュージーランドくらいであれば、まあ、大丈夫だろうと行く人も多いにちがいない。日本政府だってアホではない。それなりの準備はしてきているはずだが、ゴールデンウィークにもろに当たるという想定はしていたのだろうか? まあ、どの国へいつ行こうが自由だが、ことのなりゆきがある程度見えるまでは、不要不急の海外旅行は控えたほうが身のため、というか、いろんな人のためだと思うね。

 おれはどのみち海外旅行はおろか国内旅行すら予定していないが、しばらくは、極力、人ごみの中には出ないようにしようと思う。アジアかぜ(1957年)、香港かぜ(1968年)、ソ連かぜ(1977年)の時代とは、地球規模での人間のトラフィックが全然ちがう。大阪には国際線の空港がある。京都なんてすぐ隣だ。世界的な観光地がある。京都在住で大阪に仕事に通っているおれには、遠くの話ではない。洒落にならない。明日、いや、今日は会社に行かなくちゃならないのだ。

 ゴールデンウィークは極力外に出ないようにして、もしものときのために体力を温存するようにするぞ。感染したって、死ななきゃいいのだ。もっとも、そのようなゴールデンウィークを過ごすのは、おれの場合、今年にかぎったこっちゃなく、ほぼ毎年のことなのだがな。いやまあ、他人におれのような連休スタイルを強要するつもりはないが、今年ばかりは、大事を取ったほうがいいと思いますよ。ゴールデンウィークは、栄養のある食いものをたっぷり買い込み家に閉じこもって、読書とDVDとネット三昧ってのはどうですか? それはそれで楽しいすよ。豚とかたっぷり食ってさ。ちゃんと熱を通して調理すれば、豚食ったからって感染するなんてことはまずありません。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年4月25日 (土)

おれはすげー犯罪者であるかのような気がしてきた……

 いやあ、しかし怖ろしいよなあ。公然わいせつの疑いで家宅捜索などという世にも珍しい話をごく最近聞いた。疑いもなにも、草なぎ(「なぎ」は弓へんに剪)クンの場合は、現行犯なんだろう?

 仮におれがなにかをしでかして、XXXXの疑いで家宅捜索された場合、おおよそあらゆる罪に結びつけられそうな証拠物件が押収されることであろう。てゆーか、こんなブログを読んでるあなたの家もそうでしょう、きっと。



| | コメント (10) | トラックバック (0)

さあ、それでは当探偵局の優秀な探偵たちをご紹介しましょう! まずは、長原成樹……

 さっきの『探偵!ナイトスクープ』には、ものすごい違和感があった。長年聞き慣れている台詞が、なにごともなかったかのように変わっていたからだ。筆頭探偵であった北野誠は、あたかも最初からこの世に存在しなかったかのようである。番組全体に、なにやら無理に明るくふるまっているかのようなしらじらし~い雰囲気が漂っていた。残念であると同時に、おれは画面からなにやらとてもホラーじみたものを感じて、いつものように『探偵!ナイトスクープ』を楽しむことができなかった。

 まあ、たしかに、テレビ番組というものは、みんな“つくりもの”の世界である。“つくりもの”がしらじらしかったとて、なにを不気味に思うことがあろうか。そう頭ではわかっていても、やはり人は夢を見たがる。金曜日のいつものあの時間に、浮世の憂さを忘れて、出演者たちに二十年来のご近所さんであるかのような幻想を抱いて見てしまいたいのがこの番組だったのである。アホらしくて楽しくてちょっぴりじ~んと来る、そう、往年の『時間ですよ!』にも似た、つかのまのローカル・コミュニティ感覚を味わわせてくれるのが『探偵!ナイトスクープ』であったはずなのだが、今夜はそんな感覚は雲散霧消して、ひたすらしらじらしかった。べつに、制作者や出演者を責めているのではない。大人の世界には、いろいろなことがある。くやしいが、なんともし難いことがある。きっと、番組の関係者たちも、裏では歯噛みして世の理不尽を嘆いているのにちがいない。それはわかっている。だけど、るるるる~、るるる~るる~るるる~……。

 おれは『探偵!ナイトスクープ』には、ちょっと期待していたのだ。せめて、せめて北野誠の席に“クマのぬいぐるみ”を置くくらいの、ささやかな抵抗をしてくれるのではないかと……。



| | コメント (10) | トラックバック (0)

2009年4月24日 (金)

鳩山大臣、なにもそこまで言わんでも

草なぎ容疑者を鳩山総務相「最低の人間」 地デジめぐり (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0423/TKY200904230109.html

 「地上デジタル放送推進メインキャラクター」を務める草なぎ(弓へんに剪)容疑者の逮捕に、地デジ担当の鳩山総務相は23日昼、国会内で記者団に「事実だとすればめちゃくちゃな怒りを感じる。だいたい総務省は何でそんなのをイメージキャラクターに選んだんだということにもなる。最低の人間としか思えない」と憤ったうえで、「地デジ関係の色々なものは全部取り換える」と述べた。草なぎ容疑者が写ったポスターなどは回収を指示する考えで、イメージキャラクターの差し替えも含め検討する。

 いやいや、スターにはなりたくないもんだね。ひどい言われようだ。酔って脱いで騒いだ程度のことで、一国の大臣に「最低の人間」呼ばわりされるんだから、たいへんな商売だ。江頭2:50だったら、スポーツ紙に面白おかしく書かれておしまいだろう。一般紙なら三面記事だ。ちょっと叩きすぎじゃないの?

 おれも四十六年以上生きてりゃ、酒で失敗したことも何度かあるわさ。酔っ払いに甘い日本の風潮を、よろしくないことだとも思っているし、自戒もしている。だけどなあ、つい昨日まで、総務省のために宣伝にこれ努めていたタレントではないか。そもそも、あんたらが選んだんだろう? “身体検査”とやらをちゃんとしなかったことを恥じるという気持ちはないのか。お怒りはごもっともであるが、大臣が自分たちが選んだ一タレントにここまで言うのはいかがなものか。友だちの友だちはテロリストなのに、軽犯罪にはやたら厳しいんだな。草なぎ(「なぎ」は弓へんに剪)だって、腰痛の薬や風邪薬を飲んでいたせいで酒がやたら回ってしまったのかもしれないではないか。

 法治国家の法務大臣として責務を厳粛に背負って死刑を粛々を執行した件(あれは朝日新聞が阿呆である)とか、かんぽの宿の件とかでは、おれは鳩山邦夫という人を高く評価している。が、どうも、この人、言うことやることにえらくムラがある。隙が多い。アルカイダの件とか、中央郵便局の件とかでは、「なに頓珍漢なこと言うとんねん、このおっさん?」と首を傾げたものだ。あんまりムラが大きいと、よい業績のほうも、「たまたまの思いつきか、まぐれじゃないのか」と思われてしまうぞ。そのうち、でかい地雷を踏まなければいいがな。

 とはいえ、鳩山大臣のようにボロクソに言う気にこそなれないが、稲垣クンの事件のときに自分たちが社会的にどういう存在であるかということを、草なぎ(「なぎ」は弓へんに剪)も思い知っていたはずだ。自分の酒量もよくわからない二十代前半の若僧ならともかく、ちょっと言いわけできない歳ではあるよね。まあ、人殺したわけでもなし、大麻吸ってたわけでもなし、ちょっと笑える情けない犯罪であった点が、救いっちゃ救いですが。

 以後、気をつけよう、草なぎ(「なぎ」は弓へんに剪)。授業料は高いけどね。数か月の謹慎ということになりましょうが、復帰第一弾の仕事は対談で決まりだ。いまから、中川昭一氏のスケジュールを押さえておくように。ま、五、六年経ちゃ、これをネタに笑いを取れるくらいになるわさ。



| | コメント (7) | トラックバック (2)

2009年4月23日 (木)

おれを裁判員に選んだって知~らないぞ、知らないぞ

 裁判員制度の開始まで一か月を切ったということで、またもやにわかにいよいよ是非の論議が盛り上がっているみたいだが、是非もへったくれも、もうやることになっちゃったんだから、どうしようもないわな。さいわい、おれのところにはまだ赤紙(?)は来てない。というか、来ても言っちゃダメなんだっけ。来てないと言うのはいいんだろ?

 「私は法律の知識なんかないし、裁判員なんかにさせられても……」といったコメントをする人がけっこう多いのだが、そりゃ、みんなそうだわさ。法律にめちゃめちゃ詳しかったら、弁護士やら検事やらになってるよ。国がパンピーの常識と良識で判断しろと言っているのだから、法律の知識に乏しいことをこちとらが負い目に思う必要などない。無知な私のせいで罪もない人が重罰を課せられたらどうしよう──などと思うところが、よくも悪くも真面目な日本人だなあと思う。ふつう、無能なやつを採用したり抜擢したりしてろくな結果にならなかった場合、無能なやつが悪いのではなくて、そいつを採用したり抜擢したりしたほうが悪いのである。おれを裁判員などにしてしまった場合、どんなことになろうと、それはおれを選んだやつが悪い──と、割り切って考えられないのが、お人よしの日本人のいいところでもあるし、悪いところでもあるのだよなあ。だけど、裁判員に選ばれちゃった人は、「おれが他人の人生を、ことによると、生死を左右するのだ」などと、根を詰めて悩みすぎると、心身症になっちゃうよ。ある意味、おれたちは、ごくふつうに生きていても、その一挙手一投足が、他人の人生を左右しているのだ。考えすぎると、「生まれてすみません」状態になってしまう。「生まれてすみません」よりは、「生きてるだけで丸儲け」((C)明石家さんま)と思って生きてるほうが、人生なんぼかましだと思うよ。

 「経営陣がボンクラだから、おれたちがしっかりしなきゃ、お客さんに迷惑がかかる。おれたちが会社を支えているのだ」などと、自分に給料以上の使命感を課して身体壊しちゃう人とか、極端な場合は、過労死しちゃう人とかが少なからず出るのも、愛すべき日本人のいいところでもあり、悪いところでもあるよね。「当座はおれしかいないが、そんなもん、いざとなりゃ、べつにおれの代わりなんていくらでもいる」くらいに考えて、死なない程度に働くのがしあわせなんじゃなかろうか。なにしろ、経営陣の代わりだっていくらでもいるし、仮にあなたの勤め先が潰れたって、代わりはいくらでも出てくるのだ。あなたが公務員だってそうである。だけど、息子・娘としてのあなた、夫・妻としてのあなた、父親・母親としてのあなたの代わりはどこにもいない。優先順位の付けかたはおのずとあきらかであろう。

 おっと、裁判員制度の話からちょっと逸れたな。であるからして、おれは裁判員になんぞなりたくもないが、選ばれちまったら、それはそれでいたしかたないと思っている。選ばれちまったら、「おれが正義だ」くらいの心持ちで臨むつもりだ。たまたまおれの正義に合致する立法主旨の法律があればけっこうなことだし、おれの正義に反する法律があるのだとしたら、それは法律のほうがまちがっているのだと裁判員たるおれは思ってよいのだ。文句あるか。

 それはそうと、ミステリ作家の方々にとっては、この裁判員制度、けっこうおいしいかもしれないよね。裁判員全員が共謀する『裁判員制度殺人事件』なんてのは、誰でも思いつきそうだから早いもん勝ちだ。生まれてこのかた小さな村から一度も出たことのない老婆が裁判員に選ばれ町に出てゆくのだが、彼女にはじつはとてつもない推理の才能があって、本職の法律家をも唸らせる冴えた論理で裁判員たちをことごとく納得させ、誰も想像だにしなかった真相を暴く──な~んて話も出てきそうだ。じつは、偶然にも真犯人は裁判員の中にいた──なんてのも面白そうだな。人間の心理を手玉に取る才能に恵まれているやつが裁判員の中にいて、どう考えても無実の人間を、そいつの弁舌と手練手管で死刑に追い込む“触媒殺人”なんてのもアリかもしれない。う~む、アガサ・クリスティは偉大だねえ。

 なに? 不謹慎だ? だーかーらー、なにもあなたが全宇宙を背負うことなどありませんって。あなたがどんなにいいかげんでもボンクラでも一般常識程度の法律を知らなくても、それは選んだやつが悪いんだから。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月22日 (水)

火を吐く大怪獣

  「♪倒せ、火を吐く大怪獣」とは「ウルトラセブンのうた」に唄われているとおりであるが、実際のところ、火を吐くなどというクラシックな攻撃方法を採る怪獣が、いままでどのくらいいたというのだろう? ましてや、『ウルトラセブン』は怪獣よりも宇宙人がメインのストーリー構成である。おれは小林泰三田中啓文じゃないので、そんなのいちいち憶えていないし、研究対象にもしていないのだが、どう考えても、“火を吐く”怪獣など、マイナーな存在だと思う。

 そもそも、“火”をどう定義するかで、“火を吐く大怪獣”の定義も変わってくるだろう。なんらかの電磁的エネルギービームとか、相当の運動エネルギーを持っているであろうと推測される“エネルギー弾”のようなものを“火”と呼ぶのはちょっとずるいような気がする。“火”というからには、酸素を使って燃焼することによる熱エネルギーが直接の武器になるようなものでなくてはなるまい。そう考えると、“火を吐く大怪獣”なんてものは、テレビ的にあまり面白くない。火炎放射器の炎が一直線に伸びてゆくさまはなかなかクールだが、あれは火炎を放射しているというよりは、むしろ火のついた可燃性の液体を放射しているわけだから、要するに水鉄砲のようなものである。

 火を吐く怪獣といえば、やはり代表的なのはガメラであろう。しかし、ぶっちゃけた話、昭和ガメラの火炎放射は非常に貧相だ。ほんとに火を吐いているだけである。あれは屈強の敵怪獣どもにはたいしたダメージを与えていないように見え、おれはあんまり好きじゃなかった。そこへゆくと、平成ガメラのプラズマ火球はかっこいい。だが、プラズマ火球は、設定によれば、燃焼による熱エネルギー攻撃ではなく、なにしろプラズマなのだから、どっちかというと熱も伴う電磁的なエネルギー攻撃なのである。つまり、昭和ガメラは“火を吐く大怪獣”であったが、平成ガメラはそうではない。

 というわけで、「ウルトラセブンのうた」の“火を吐く大怪獣”という表現は、あくまで象徴的でステロタイプな表現であって、実際には、火を吐く程度の大怪獣は、ウルトラセブンにとってはたいした脅威ではない。

 それにしても、『ウルトラセブン』に、燃焼による熱エネルギーを武器に用いる“怪獣”が何匹出てきたのであろうか? これはまあ、専門家の研究に委ねたい。おれのぼんやりとした記憶では、ほとんどいなかったように思うんだけどな。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年4月21日 (火)

仮面ライダーなみ

 えーと、元号が平成になったときの総理大臣は竹下登だったよなあ。だからDAIGOがあの「平成」の紙を持ってるわけだ、ういっしゅ……と、ふと考えて愕然とした。竹下登を入れて、平成の総理大臣は何人だっけと数えてみると、麻生首相で十四人めである。

 昭和から平成にまたがって放映されていた仮面ライダーは、『仮面ライダーBLACK RX』である。で、十一年ブランクがあって、平成十二年(二〇〇〇年)『仮面ライダークウガ』がはじまる。ここからが、いわゆる“平成ライダー”だ。

 ということは、BLACK RX から数えると、平成になってからの仮面ライダーは、いまの『仮面ライダーディケイド』で十一人め(まあ、平成ライダーはやたら仮面ライダーがたくさん出てくるから、実際にはもっと多いが)ということになる。ま、『仮面ライダーG』は入れないでおこう。

 つまり、平成の総理大臣は、まあ、ざっくり言えば、仮面ライダーみたいなものである。今年もし政権交代が起これば、次の総理大臣はすごいぞ。過去十四人の平成首相に自在に変身できたりするのである。そればかりか、過去の首相たちの政策を超絶変形させて必殺の武器にしたりもする──「ファイナルフォームライド、ウノ!」(弱そー)。

 国会で問い詰められると、決め台詞を吐くのだ。

   「総理総理総理、総理、総理、あなたはご自分の立場がわかってらっしゃるのですか!?」
   「通りすがりの総理大臣だ!」

 通りすがるな~!



| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009年4月20日 (月)

森下千里いいね『ITホワイトボックス』

 NHKの『ITホワイトボックス』がけっこういい。プロのIT屋さんがこの番組を観て「へ~、初めて知った」とか感心しているようではかなり困るが、非IT専門業種の人々への啓発番組としては、たいへんいい内容だと思う。これくらいのレベルの内容なら、いまの時代、全職業人に知っていてほしい。ゲストの講師も、いまのところ村井純とか渡部章とか、かなり渋い。この番組は、IT屋さんにとっても、素人筋へのわかりやすい説明はどういうふうにしたらよいかの参考になると思う。

 なにより、メインパーソナリティーに森下千里を据えたところが、やるなNHKという感じである。このコは、“知識はないがアホではない。いや、むしろ頭はいいほうだ”という役回りにピッタリだ。“知識はないがアホではない。いや、むしろ頭はいいほう”というグラビアアイドルの代表格としては若槻千夏が挙げられるであろうが、若槻の場合、ここ一、二年の芸能人としてのぶっとび具合がNHKとしてはちょっと腰が引けるであろう。となると、森下に白羽の矢が立つ。『ロンドンハーツ』では“ストーカーキャラ”として売っていたが、このコは商品としてのキャラのイメージより、ずっと頭はいいよね。さばさばしたキャラクターも好感が持てる。いや、おれは好きですよ。顔も身体つきも。

 情報処理推進機構(IPA)に於かれては、次回のITパスポート試験のイメージキャラクターは、堀北真希じゃなくて森下千里にしてはどうだろう? この『ITホワイトボックス』、ITパスポート試験の受験者層くらいにちょうどいいくらいのIT初心者向けの内容だから、森下千里をイメージキャラクターにすればうってつけなんじゃなかろうか。おれは堀北真希も嫌いじゃないけどね、ちょっと“いいコちゃん”すぎるイメージがついちゃってるじゃないか。森下千里なら、ほんとにそのへんの“おきゃん”でちょっと可愛いフツーの賢そうなコって感じでしょう。IPAには一考を促したいな。NHKの眼力は、IPAを超えてるぞ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月17日 (金)

その“鈍器”が見たい

女子高生が鈍器で殴られ、かばん奪われる 堺市の路上 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0417/OSK200904160059.html

 16日午後10時25分ごろ、堺市南区桃山台4丁の路上で、自転車で帰宅途中の高校2年の女子生徒(17)から「強盗被害に遭った」と110番通報があった。南堺署によると、前から歩いてきた男に鈍器のようなもので後頭部を数回殴られ、現金約7千円入りのかばんを奪われたという。生徒は軽いけがを負わされた。同署は強盗致傷容疑で逃げた男の行方を追っている。
 同署によると、男は25~30歳、身長約170センチ、黒色っぽい半袖Tシャツと白色っぽい長ズボン姿で、眼鏡をかけていた。硬い物が入ったスーパーの袋のようなものをすれ違いざまに振り回して殴りつけたという。

 出たな、謎の凶器“鈍器のようなもの”

 そもそも“鈍器”ってだけで十二分に曖昧な凶器なのに、さらに“のようなもの”がつくわけだから、読んでるほうにはさっぱりイメージが湧かない。「鈍器」というのは、広辞苑によれば、「鋭くないが重みのある刃物。また、刃のついていない棒状の道具」とある。そもそもがずいぶん曖昧な定義である。刃が鋭くない、あるいは、刃がついていないというところに意味領域のコアがあるようだから、言い換えれば、切ることよりも叩くことのダメージを目的としたなにものかということなのだろう。たとえば、靴下に砂を詰めたものなどは、充分に“鈍器”なわけだ。日本刀で峰打ちされた場合、それはやはり、殴られた痕を調べるかぎりは、“鈍器のようなもの”で殴られたということになるのだろうな。

 かねてより、あちこちで指摘されているのを見るのだが、はたして“鈍器”に“のようなもの”をつける意味があるのだろうか? 「鈍器のようなもので殴られた」というのは、「刃物のようなもので切られた」と言っている以上に曖昧な表現ではなかろうか。“切れる”からには、それは一般的に刃物と呼ばれるものそのものでなくとも、それに準ずる鋭利な部分を備えた凶器なのだろうなと妥当に推測できるが、“鈍器のようなもので殴られる”場合、凶器は、明確に切ることに特化した道具ででもないかぎり、およそすべての物体が候補になってしまう。というか、切ることに特化した道具をあえて殴ることに使った場合でも、候補になってしまう。広辞苑だって、立派な鈍器である。

 「鈍器のようで鈍器でないもの、ってあるのですか?」と、マジメにQ&Aサイトで尋ねている人がいて、それに続くやりとりのあまりの面白さに大爆笑してしまった。いやあ、たしかにこれはもっともな質問だと思うな。マスコミはいったいどういう理由で「鈍器のようなもの」を使い続けているのだろう?

 鈍器のようで鈍器でないものなあ……やっぱり、それは日本刀の峰打ちなんじゃないか? 実際、峰打ちだろうが、あれだけの重量の鉄の棒で殴られたら、死ぬことだって少なくなかろう。

 ♪鈍器のようで、鈍器でない、ベンベン!



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年4月15日 (水)

オリジナルプロモーションビデオ?

窓口で「おっぱい1枚」といえますか 綾瀬主演映画チケットに「珍騒動」 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/04/14039438.html

綾瀬はるかさん(23)主演の映画「おっぱいバレー」が2009年4月18日から全国公開されるが、前売りチケットを買う際、「『おっぱい』と口にするのが恥ずかしい」という声が配給会社にたくさん寄せられた。このため、「OPV(オーピーブイ)」という言葉で買えるよう全国の映画館に手配したが、ネットでは「OPVの方が、よっぽど恥ずかしい」というカキコミが出ている。

 前売りでなくとも、シネコンとかで複数の映画のチケットを同じ窓口で売ってる場合、当日券でも結局「おっぱい一枚」と言わざるを得ないような気もするのだが……。

 根本的な問題として、これだけあちこちで宣伝されていて、みんながべつに成人映画でもなんでもないことをよく知っているわけだから、「おっぱい一枚」と言うのがなぜそんなに恥ずかしいのだろうか? べつに「女教師昼下がりの禁断縄地獄バレー 昇天レシーヴ秘密の特訓、一枚」と言えというわけでもあるまいに(えーと、そんな映画はありません、いまテキトーに考えた。念のため)。

 まあ、おれくらいのおっさんともなれば、「おっぱい一枚」くらいはべつに恥ずかしくもなんともないのだがなあ。会社帰りに劇場へスーツ姿ですっ飛んでいって、「クレヨンしんちゃん、大人一枚」と言ったときのほうが、よっぽど照れくさかったかもしれん。去年なんか、キンポコ、一枚」と言って買う人はいなかったのだろうか?

 マルコヴィッチの穴、一枚」みたいなのは、気をつけたほうがいいかもしれん。人間、言いまちがえてはいかん言いまちがえてはいかんと緊張すればするほど、その“言いまちがえてはいかんほう”を言ってしまったりするものだからな。

 それにしても、「OPV」はあんまりだ。誰がそんなこと言って買うんだよ。たしかにそう言うほうがよっぽど恥ずかしいわい。べつに、同じ映画館でほかにバレーボールの映画が上映されているとも考えにくいのだから、ちょっと恥ずかしい人でも、「バレー、一枚」とか「綾瀬はるかの、一枚」とかあたりで切り抜けると思うんだがなあ。恥ずかしい人は、縁なし眼鏡に白衣とかで劇場に行って、「乳房(にゅうぼう)、一枚」などと言ってみてはどうか? 洒落のわかる窓口の人なら、「はい、にゅうぼう一枚」と笑いながらチケットを売ってくれるだろうが、まずたいていの場合は、「は? おっぱいですか?」と問い返されるのがオチだと思う。



| | コメント (11) | トラックバック (0)

2009年4月13日 (月)

♪Radio, someone still loves you!

ラジオの電リク今や昔…メールに押され電話窓口次々廃止 (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0411/OSK200904110015.html

 関西のラジオ番組でこの春、リスナー向けの電話窓口が相次いで廃止された。メールやファクスでのアクセスに押され、電話利用が減っていた事情もあって、番組改編や経費削減の波にのまれた。かつて隆盛を誇った音楽番組の電話リクエストも消えつつある。年配のファンからは、一時代の終わりを惜しむ声が絶えない。
 朝日放送(ABC、大阪市福島区)の看板番組「おはようパーソナリティ道上洋三です」(平日早朝)が、リスナー投稿用の電話窓口を廃止したのは今月3日。オペレーター10人が電話応対し、聞き取った内容をアシスタントディレクター(AD)が選んでプロデューサーに伝えていたが、メールなどに比べて手間がかかる、との理由だった。
 同局では、ほかの2番組の電話窓口も同時期にやめた。編成制作部の担当者は「ここ数年、通信手段の選択肢が増えて投稿数が伸びる半面、スタッフの数は減るばかり。番組進行の効率を考えた」。3月末に窓口廃止を告知した際、「寂しい」などの声が10件ほど寄せられたという。
 毎朝のように電話してきた高齢男性から「長い間いろんなこと言うて悪かったなあ。話を聞いてもらうのが楽しみやった」と言われ、涙が出た――。そんな話を電話窓口終了後、オペレーターの送別会で聞かされたという道上洋三・エグゼクティブ・アナウンサー(66)は「電話は多くの人の力を積み重ねてリスナーの思いを受け止めてきた」と振り返る。「かかった人の数だけ思いが詰め込まれ、マイクの前に届いていた。その思いを今後は少ない人間で感じていかなければならない」

(中略)

 そんな電リクも東京では健在だ。ニッポン放送(千代田区)は今月5日、「デジタルにはない臨場感がある」として、日曜朝の音楽番組で、長年途絶えていた電リクを復活させた。初回は電話が殺到したという。文化放送(港区)の編成部担当者は「電話はリスナーの生の声を聞ける重要なツール。ニーズはなくならない」。同局は音楽番組やトーク番組など複数の番組で電話窓口を維持している。(宮崎園子)

 うーむ。時代の流れと不況の波が重なった結果、いま、こういうことになったんだろうなあ。

 おれはラジオに葉書を書いていたころはあるが、電話をしたことはないもんだから、リスナーとオペレーターのコミュニケーションというのがどういうものなのかはいまひとつ実感を伴ってはわからないのだけれども、「長い間いろんなこと言うて悪かったなあ。話を聞いてもらうのが楽しみやった」というのは、ちょっと泣かせる話だよね。

 以前、職場で、電話通販でお茶を売っている会社のシステムを担当していたSEから聞いた話だが、お年寄りの客には、ほんとうにオペレーターとただただ話がしたくて電話をかけてくる人が少なからずいて、通販会社としては痛し痒しなのだという。ラジオの電話リクエスト窓口にかけてくる人にも、きっとそんな寂しいお年寄りがいて、孫のようなオペレーターに「いろんなこと言うて」やるのがじつは楽しみだったりしたんだろうな。

 電波のラジオというものを最近すっかり聴かなくなってしまい、ラジオは専らポッドキャストで配信されているものばかりを聴いているおれではあるが(そういう意味では、以前よりずっとラジオを聴くようになったくらいだ)、かつてのラジオ少年としては、たしかにまた一時代が終わったようで、そこはかとない寂しさを感じますなあ。その一時代を終わらせしめるほうの勢力に、おのれが紛れもなく加担しているとしてもだ。

 そうそう、ラジオといえば、前から気になっていたのだ。おれの小中学生、高校生のころは、ラジオに投稿するときの変名を、アナウンサーも番組パーソナリティーもリスナーたちも、みな「ペンネーム」と言っていたものであるが、いつのまにか、アレを「ラジオネーム」などと呼ぶのが一般的になってしまっている。おれがラジオを全然聴いていない時期に変化があったようなんだが、どうして変わったんだろうね? おれはどうも人間が古いのか、いまだに「ラジオネーム」って言葉にちょっと引っかかりを感じる。「ペンネーム」じゃいけない理由でも生じたんだろうか? べつに文筆活動じゃないからとかいう理由なんだろうか? そうかあ? そりゃ、一見さんならともかく、これには原稿料を出すべきだと思わせるような力作をしょっちゅうラジオに投稿している、投稿の鬼みたいな人とかもいるしなあ。

 かといって、テレビで匿名希望で変名を使っている葉書が読まれているときに、「テレビネーム」なんて言葉を使っているのは聞いたことないんだよな。げに不思議な言葉、「ラジオネーム」。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月12日 (日)

飛行機雲の誕生

Contrail_2009041101 夕方、買いもの帰りに「いい感じの空だな」と思ったので、RICOH R10 を向けると、画面右下から飛行機が現れた。

Contrail_2009041102 光学ズーム7.1倍で飛行機を追っていると、逆方向からもう一機現れた。

Contrail_2009041103_2 さらにデジタルズームで寄ると、最初の飛行機は画面右上へフレームアウト。

Contrail_2009041104 デジタルズームを最大の4.8倍にまで上げながら、フレームアウトした飛行機を捉える。コンデジでここまで望遠にすると、手ブレを抑えるのに必死。息を詰めて、飛行機を打ち落とそうとでもするようにシャッターを切る。飛行機雲が発生するあたりがはっきりわかった。どう見ても旅客機だから、高度一万メートルでこぼこを飛んでいるのだろうか。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年4月 5日 (日)

日本沈没、さよならジュピター

 北朝鮮がロケット(ミサイル?)を打ち上げたと政府が誤報を流してしまったことに関して、やたらマスコミが「こんなことで国民を守れるのか」といった論調で批判的な報道をしているが、そりゃあちょっと政府がかわいそうだよ。日本の政府や防衛省に国土や国民が守れるわけがないことは周知の事実でしょうが。というか、おれたちが、おれたちの一票を以て、そういう政府や防衛体制を作ってきたのだから、今回のことで政府を非難するのは、天に唾しているようなものだ。おれたちは、自国の国土や国民を、自国の力で物理的な脅威から守ることから目を背け、放棄してきたのだから、こういうことに直面してにわかに政府を非難するのはいかがなものかと思う。自国の力で自国を守れなくてもいいという覚悟を前提にしておれたちはやってきているはずであって、マスコミもそういう世論をいままで作ってきたはずだ。いまさら、どの口が「政府は国民を守れるのか」などとほざくか。守れねーよ、そんなもん。守れなくていいという道をおれたち自身が選んできたんだから、秋田にだろうが東京にだろうが、なにが落ちてこようと、それはおれたちの覚悟の中に織り込みずみのできごとのはずだ。

 今回のことが自然現象なのだと考えてみればよい。地球には元々成層圏に達するほどの巨木が生えていて、その巨木はときどき梢のあたりから種子を弾けさせる。それはどこに落ちるのかわからないし、種子にはけっこうな質量があるので、種子が“着弾”した場合、相当の被害が出る。また、その種子は、場合によっては、放射性物質すら含んでいる可能性がある。そんな木が地球のあちこちに生えているとしようや。先進国は、そのような巨木を切り倒したり、若木のうちに制御したりする技術を持っているが、どの国でもそんなことができるわけではない。

 そうした条件下で、「ウチは種子が飛んできたら、アメリカが撃墜してくれることになってますから」と、自然現象に対する備えをほとんど行わずに、ひたすら経済成長に注力するという道を選んできたのがおれたちだ。おれはそれを悪いと言っているのではない。そういう道をみずからの意志で選んできたのなら、種子が飛んできたときには、みずからの哲学相応の覚悟があって然るべきであると言っているのだ。従容として“着弾”を受け容れるべきである。種子が飛んでくるときになって、「政府はなにをしている」などと非難するのは、あまりにも潔さに欠けるのではなかろうか。もし、種子が京都府南部に落ちてくるがどうしようもないということがわかったのだとすれば、おれはそれを“日本人の総意”として受け容れる覚悟だ。自国を自然現象から守るということすらできないリーダーたちを選んできた、おれの不見識な一票の報いとして受け容れよう。

 ないものねだりをしてはいけない。おれたちがおれたちの票で作ってきたこの日本の政府には、巨木が種子を飛ばしてこようが、北朝鮮がミサイルを撃ってこようが、小惑星が東京めざして落ちてこようが、ブラックホールが太陽に迫ってこようが、そういう事態に対処する能力がもとよりあろうはずがない。いまの政府や防衛省は、さまざまな制約の下で、まだよくやっているほうだ。これで非難されるのなら、いっそ「なにもしないほうがいい」のかもしれない。

 要するに、投票場へゆくということは、自分の家に向けてミサイルが飛んできた場合に、国家にどう対処してほしいかという意志を表明しにゆく行為なのであるということを、今回のことは日本人に教育してくれているありがたい機会であると思うのよな、おれは。投票に行かないやつは、ミサイルが飛んでこようが、ブラックホールが迫ってこようが、文句を言うなということだ。どんなに平和的な思想を持って、どんなに呑気に暮らしていたって、サメが襲ってくることだってあるのさ。



| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年4月 4日 (土)

命あっての物種だね

松村邦洋さん退院、「マラソン、やせたら再挑戦」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/showbiz/news_entertainment/TKY200904030264.html

 今年3月の東京マラソンの出場中に倒れ、一時は心肺停止状態になったタレントの松村邦洋さん(41)が3日退院し、都内で会見を開いた。後遺症もなく、近く仕事に復帰するという。心筋梗塞(こうそく)と診断されたことを明かし、「芸能界の寿命より本当の寿命が大事」と語りながら、体重を落とすことを誓った。
 松村さんの体重は約100キロ。「マラソンはしたいが、皆に迷惑をかけた。65~70キロになったら再挑戦を考えたい」と語っている。

 いやあ、いいんじゃないの。「芸能界の寿命より本当の寿命が大事」ってのは名言ですなあ。明石家さんま「生きてるだけで丸儲け」と言っている。さんまの名言は、おれの座右の銘でもある。そうだよ、べつにおれは、“デブキャラ”としての松村が好きなわけじゃない。松村ほどの藝があれば、デブだろうがヤセだろうがやってゆけると思うよ。

 それにしても、65~70キロとは大きく出たな。おれがいま60~61キロなんだぜ。おれの人生最高記録が70キロだ。そこまで落とした松村の姿は想像もできないが、案外イケメンだったりしてな。わからんぞ~。彦麻呂だって、かつてはイケメンアイドルだったわけだからな。“逆彦麻呂”を狙うのも、マーケティング的にはアリかもしれん。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年3月31日 (火)

あくまで人工衛星ですから

 北朝鮮の“人工衛星打ち上げ”なんだが、なにやらマスコミまでもが平気で“迎撃”という言葉を使っているのが気にかかる。あくまで連中は、人工衛星を打ち上げると言っているわけであるから、わが国としては“迎撃”はまずかろう。北朝鮮が人工衛星を打ち上げるのであれば、わが国も人工衛星を打ち上げる。それがたまたま北朝鮮のロケットに当たってしまったとしても、それはじつに不幸な事故である。いやあ、遺憾なことでしたなあですむのである(すまんか?)。

 まあ、個人的には、わが国の人工衛星打ち上げロケットが、ああら不思議、まったくもって万にひとつの偶然で、北朝鮮の人工衛星打ち上げロケットに衝突し、木っ端微塵にしてくれればいいなあとは思うのだが、まあ、こればっかりは運だからわからない。アメリカにはどうもその気はなさそうだが、できればアメリカにも人工衛星を打ち上げてもらいたいと思う。北朝鮮の人工衛星打ち上げロケットがアラスカのあたりまで飛んでゆけば、アメリカもかなり本気になって人工衛星を打ち上げることだろう。サラ・ペイリンの庭先に落ちそうだとなれば、これはもう、アメリカとしても、たまたま北朝鮮のロケットに当たるかもしれない人工衛星を打ち上げるしかなかろう。

 いやあ、みんな人工衛星打ち上げるのが好きだねえ。



| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年3月30日 (月)

政府紙幣の使いみち?

小泉政権ブレーンの高橋洋一教授 脱衣所で窃盗容疑 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY200903300341.html

 温泉施設の脱衣所のロッカーから高級時計などを盗んだとして、警視庁は、元財務官僚の高橋洋一・東洋大教授(53)=東京都板橋区=を窃盗の疑いで30日に書類送検した。高橋教授は、小泉政権のブレーンとして郵政民営化などを進めた。
 練馬署によると、高橋教授は24日午後8時ごろ、練馬区の温泉施設「豊島園庭の湯」の脱衣所で、同区の会社員男性(67)が使っていたロッカーから現金約5万円入りの財布や、イタリア製の高級腕時計(数十万円相当)などを盗んだ疑いがある。男性は鍵をかけ忘れていたという。
 高橋教授は「いい時計で、どんな人が持っているのか興味があった。申し訳ない」と謝罪しているという。
 浴室から上がった男性が時計などが無いことに気づき、同署に通報。署員が防犯カメラの映像を確認したところ、映っていた男に似た高橋教授が午後11時ごろに施設から出てきた。事情を聴くと男性の時計などを持っており、容疑も認めたという。
 高橋教授は昨年4月から東洋大学経済学部に在籍。「さらば財務省! 官僚すべてを敵にした男の告白」などの著書がある。
 東洋大は「事実関係を確認中だが、教育に携わる者として許し難いことである。今後、厳正な処分を行う」などとするコメントを出した。

 数百万円、数千万円というならともかく、数十万円相当の腕時計なら、著書もあって講演を依頼されテレビにも出るような大学教授に買えんことはないと思うんだけどなあ。べつに生活に困っているわけでもないのに、二百円、三百円のものをわざわざ万引きして捕まる病んだ主婦みたいなもんなのかもなあ。

 さては、政府紙幣を発行しろと言っていたのは、腕時計が欲しかったからか……と、ツッコんでいる人が、いまごろ日本中にいっぱいいるにちがいない。

 それにしても、地位も名もある人が、なんともちんけな犯罪で書類送検されるもんだ。わが国が世界に誇る最高の腕時計なら、一万五千円で買えるのに。



| | コメント (4) | トラックバック (1)

たぶん「ランチパック」の耳なんだろうね

Chokonoyama01
 「ランチパックの耳はどこへ行ったのだろう?」へのコメントで、あみーご長嶋さんに教えてもらった「チョコの山」というのを発見したので、さっそく食ってみた。なーるほど、これはいかにも「ランチパック」の耳を使った商品くさいですなあ。

Chokonoyama02 味はリスカ「サクサクしっとりチョコ」といい勝負なんだけれども、パンの耳の香ばしさがえも言われぬ野味を醸し出していて、スマートなチョコ菓子よりもよほどうまい。「サクサクしっとりチョコ」が大原まり子だとすれば、「チョコの山」はA・E・ヴァン・ヴォクトである……とかなんとか言っても、SFファン以外にはまったく伝わらないフィーリングであろうが、まあ、そんな感じなのだ。

Chokonoyama03 ともあれ、たかがパンの耳をこのように有効利用しているのはたいしたものだ。下手なチョコ菓子を食うくらいなら、このパンの耳を食ったほうがよいと思う。パンの耳、万歳!




| | コメント (11) | トラックバック (2)

2009年3月29日 (日)

夜桜四重奏

Yozakura01 真っ暗な中でフラッシュを焚くとけっこういいんだな、夜桜は。

Yozakura02 家から一、二分のところでこれくらい咲いているとはね。

Yozakura03 肺胞のようでもあり、宇宙の構造のようでもあり……。

Yozakura04 つまるところ、ミクロからマクロまで、似たような美が支配しているのかも。
 そういえば、『夜桜四重奏(ヨザクラカルテット)』は、毎日放送では今夜(というか、今朝)が最終回だな。おれはむろん、ことは派です。



| | コメント (1) | トラックバック (0)

2009年3月27日 (金)

これって、ウチだけなのだろうか?

Frying_pan どの家にも、「これって、よその家もやってるのかなあ?」という疑念を抱いている風習(?)のひとつやふたつやみっつやよっつあるものであろうが、ふとおれはこれが気になった。フライパンのしまいかたである。レジ袋に入れて口をこんなふうに結ぶ。こ、これって、よそんちもやってるもんなんだろうか? レジ袋なんてものが登場してからのことだから、それほど代々伝わっているものではなく、おそらく祖母か母がやりはじめたのだろうが、「なるほど、これは具合がよい。あつらえたかのようだ。合理的である」と、いつのまにかおれにまで伝わっている。

 だもんだから、レジ袋がなくなると、困るのよな。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年3月26日 (木)

♪あっと、ひっとり~

 WBCで日本が二連覇したもんだから、昨日からテレビはどこを観てもWBC関係の報道で埋め尽くされている。まあ、野球に疎いおれでもめでたいことだとは思うし、多少なりとも景気浮揚効果があればいいなあと思う。

 で、WBCを嘗めまわすように回想している報道に、飲食店やらでテレビを観ている人々が、九回裏に「あとひとり!」コールをやっているシーンがあった。おれはあれを観て、ものすごく違和感を覚えたのよな。みんな、

「あ、ひりー! あ、ひりー!」

 と叫んでいる。これがおれには気色悪い。たぶん、関東で撮ってるんだろう。関西の場合、これは絶対にちがう。そもそも関西の場合、あれはコールではない。である。おれの子供のころは少なくともそうだった。草野球ですらそうだった。

♪あっと、っとり~♪あっと、っとり~

 と、みんなで唄うものではないのか、これは? 関西人(とくに、大阪人)が数を数えるときには、ひとりでにフシがついてしまうという現象をバラエティー番組などが面白おかしく取り上げていたりするが、アレと同じだ。「♪あっと、ひっとり~」も、むかしからそうなのだ。

 もしかしたら、最近はちがうのだろうかと YouTube を探してみて愕然とした。なんと、阪神タイガースのファンまでもが、関東風の発音をしているのだ。唄っていない。なんたることだ!

 阪神ファンまでもが関東の影響を受けてしまっているのかなあ。な、嘆かわしい。こ、これは絶対、

♪あっと、っとり~♪あっと、っとり~

 と、唄わなくてはならない。なあ、そうだろう、年配の関西人たちよ?



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年3月24日 (火)

『OMRON インテリセンス ファジィ オムロン自動血圧計 白 HEM-762』(オムロン)

 人間ドックで「軽い高血圧」と言われたもんで、血圧計を買わにゃいかんなあと思っていたのだが、血圧を測る程度のことに(と思っているのがそもそもいかんのだろうが)大枚はたくのはかなわんし、手ごろなのがなかろうかと、ふとこのあいだ思い立って調べてみると、なんだ、けっこう安いのがあるじゃないか。

 ただ単に測るだけ。メモリもなにもない。でも、病院と同じように上腕で測るちゃんとしたものだ。これはおれの偏見かもしれんが、なんか手首で測るコンパクトなやつは、ちゃんと測れてるのかなあという疑念が残る。こいつはクラシックな方式の基本機能だけでシンプルで安い。これで充分じゃん、というわけで買った。

 おれはどうも気が小さいのか、人間ドックで測ると、いつも高めに出るようだ。考えてみりゃ、検査の順番によるのである。バリウム飲まされてゲップを我慢しながら、あの拷問台の上で右に回れ左に回れ息を止めろ息を吐け、しっかりバーに掴まれ右の腰を浮かせたまましばらく止まれ女王様と呼べなどと好き放題に指示をされながら、頭を下にしてグググググと傾いてゆく滑り台から滑り落ちないように必死でバーを握り締めるなどというむかしのクイズ番組のような苦行のあとで、「血圧測りまーす」などと言われても、そりゃあなた、セックスの直後に血圧を測っているようなものである。

 そんなこんなで、あの人間ドックの血圧測定はほんとに信用できるのかという疑問は以前からあったのだが、ゆっくりと家でこいつで測ってみると、なーんだ、それほど高くないじゃん。なんか、人間ドックとか病院とかで測ると、アガっちゃうようなのだよな、おれ。根っから気が小さいのだろう。ほれ、あの腕帯が緩んでゆくときに、ドッキドッキドッキと腕に自分の脈拍を感じるときの感触がなんとも気色悪く、「ああ、もうじきアレが来るぞアレが来るぞ」と思っていると、不必要にアガってしまうようなのだ。まあ、アレが来るのはどこで測っても同じなのだが、病院だとことさらアガる。

 ま、ウチは父方の家系には脳血管関連の疾患で死んでる人が多いし、母方の家系では悪性腫瘍関連の疾患で死んでる人が多いもんだから、少しは気をつけんとな。まあ、それほど長生きしようとは思わんが。とかなんとか言いながら、酒は飲むし、煙草は吸うし、SFは読むし、身体に悪いことばっかりしているわけだけれども。いや、いいSFを読むと、絶対血圧が上がりますよ。一時的にだけど。




| | コメント (8) | トラックバック (1)

♪AEDを持ってても、それだけじゃ困ります

松村邦洋のマラソン心肺停止 体重100キロは走れる体か (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/03/23038092.html

東京マラソンで一時心肺停止状態になったお笑いタレントの松村邦洋さん(41)。デブキャラで知られ、かねてより参加を危惧する声が出ていた。やはりチャレンジは無謀だったのだろうか。

(中略)

太田プロの担当マネージャーによると、プロフィールとは違って、松村さんは、マラソントレーニングをしているここ2年は体重100キロ台をキープ。東京マラソンの22日は、102キロ弱だったという。

 まあ、なんちゅうか、この人は仕事を断れんタイプなんじゃないかと思うよねえ。律儀っちゃ律儀な人なんだろう。でもなあ、四十も超えて、誰がどう見たって立派な“電波中年”なんだから、むちゃはいかんよ。本人も自分の体力を過信していたのかもしれんが、むちゃを容認する周囲も周囲だ。事務所にしてみれば、大事な商品なんだろう? それに、松村邦洋は、たいした藝もなく身体を張るだけのにぎやかし芸人とはちがう。余人を以て代え難い藝をちゃんと持っている。事務所はもっと商品を大事にせにゃ。「ここ2年は体重100キロ台をキープ」って書きかたがまた、狙ってますな、この記事。まあ、事実としてそうなんだったら、そりゃキープはキープだが、ふつうの人はそういうのを“キープ”などとは表現せんわい。おれなら、小柄な女性を背負って走ってるようなもんだ。

 多くのメディアが、「心肺停止したが、命に別状はない」などとシレっと書いてるけど、おいおい、AEDで蘇生させにゃならんかったなんてのは、どえらいことだぜ。関西人には、ちょっと面白くない人が多いことだろう。「ウチの大事な探偵になにをさせるか!」という気分だ。べつにおれは朝日放送の回し者じゃないけれども、松村邦洋はもはや『探偵!ナイトスクープ』になくてはならん貴重な人材である。つまらんことで殺してくれるな。たしかに『探偵!ナイトスクープ』だってむちゃはさせるが、アレはアホなむちゃであって、こういうむちゃはさせん。太田プロにだって、体重六、七十キロくらいの人はたくさんいると思うが、そういう人たち、あんた、仕事だからって走れるか? 本人がいくら走りたい、走れると言ったとしても、インテンシヴな競技者でもない体重百キロの人間が走って大丈夫だと思うか?

 「五輪メダリストの有森裕子さんらも育てた指導者の下で練習しており」って、あのなー、その指導者は百キロ超のマラソン選手を育てたことがあるとでも言うのか? たぶん、その指導者にとっても“想定外”だと思うがなあ。

 お祭り気分で芸能人やら局アナやらが参加する(させられる)のも、そりゃ当人たちも商売だろうから、一概に悪いとは言えないが、マラソンってのは危険なスポーツ(というか、スポーツというのはたいていは危険で、やりすぎると健康に悪い)だということを、主催者側ももうちょっと出場者たち(や、その周囲)に自覚させたほうがいいんじゃないかと思う。でないと、AEDのお世話になる人々がたびたび出てるんなら、そのうち人死にが出るぜ。

 都は、「万一死んでも文句は言いません」という誓約書でも取っておいてはどうだろう? 医者が手術の前に取る waver みたいなもんだ。そうすれば、都の訴訟リスク管理にもなり、参加者たちにも、遊び半分じゃいかんという自覚と覚悟を促すことができて一石二鳥ではないかと思うのだがどうか。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年3月23日 (月)

豪華スピンオフ企画

 

『真下正義・今泉慎太郎・米沢守 南海の大決闘』

 ……ってのを一度観てみたいと思うのは、おれだけではあるまい。ま、なにはともあれ、三つ巴ときたら“南海の大決闘”でなくてはならないと、むかしから決まっているのだ。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年3月21日 (土)

桜と飛行機雲

 買いものに出たら、近所の自転車置き場の裏に桜が咲いていた。

Sakura01Sakura02

 買いものの帰りに空を見上げたら、飛行機が飛んでいた。

Contrail

 なんか、デジカメに頼ると小学生の日記みたいになっちまうなあ。これでは、まともなブログみたいだ。もっとこう、人間が犬を噛んでいる決定的瞬間みたいなのが撮れんものだろうか。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年3月20日 (金)

小さな英雄(2)

Whatyoumightcallit これをいったいなんと呼ぶのか、おれは知らない。つまり、アノ、アレだ。“三足いくらの靴下とかを繋ぎとめてあるアレ”だ。こいつは、なんとも気の毒である。おれたちがこいつをきちんと目にするのは、このように首を切り落とされた状態でしかあり得ないのだ。しかし、こいつがいないと、おれたちは“三足いくら”の安い靴下を買うことができない。これほどすばらしい働きをしているのに、これほど注目されない存在も珍しいのではなかろうか? おれはキミに感謝している。なんと呼べばいいのかわからない、アノ、アレよ。




| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年3月19日 (木)

放火回覧板

Bouka_2 帰宅するとドアノブに回覧板が掛かっていた。何気なく手に取ると、防火を呼びかけているらしいそれには、不可解きわまりない標語が大書されていた──「火を付けた 今からあなたが 責任者」
 火を「付け」るという妙な文字遣いはともかく、責任者というより、それは犯罪者ではないのか……と思ったのだが、どうやらそういう意味ではないらしい。ガス器具などに点火したら、その火の責任者はあなただということが言いたいらしい。伝えたい意は至極もっともであって、こういうことを考えるのが苦手な人が四苦八苦して仕事で捻り出さされたのだろう。お疲れさまと言いたい。でも、やっぱり、ぱっと見、ギョっとするぞ、これは。そのぱっと見の驚きを計算しているのだとしたら、結果として、標語の目的はたしかに達成されているけれどもなあ。

 「点けた火を 消すまであなた 責任者」くらいにしたほうがいいんじゃないかなあ。「点けた火を 消さぬあなたは 犯罪者」なんてのもどうだ? 「わかるのよ 折れた煙草の吸殻で」 これはパクりか。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

ランチパックの耳はどこへ行ったのだろう?

 前から気になっていたのだが、ほれ、「ランチパック」山崎製パン)ってやつがありますわな。あれって、どうやって作ってるんだろうね?

 なにが気になるかというと、あれを作る過程で出るはずの“パンの耳”はどうしているのかという点である。

 ランチパックの大きさはビミョーだ。ふつうの食パンから、ランチパックの大きさの白い部分が二区画取れるとは思えない。きっと、ふつうのよりも断面積の大きい食パンを特別に作って、そこから一気に機械で四区画なり九区画なり十六区画なりを打ち抜いているのだと思うのだな。だとすると、ふつうの食パンの耳よりもはるかに巨大な“枠”だけが残るはずである。それをいったいどうしているのだろう?

 いや、なにしろ、おれたちの世代は、食パンの白いところだけを食うなどという神をも畏れぬ所業に激しい心理的抵抗がある。給食の残りの食パンの耳を家に持ち帰り油で揚げてもらって、砂糖をまぶした菓子にして食っていた世代なのである。駅弁を食うときには、まず蓋の裏にこびりついた米粒を、ひと粒ひと粒、箸でつまみ取って食ってからでないと本体に取りかかれない世代である。米粒をひと粒でも無駄にしたら目が潰れるとお婆ちゃんに叩き込まれて育った世代である。なんの、みみちいとも、さもしいとも微塵も思わない。いまこの時代になって、お婆ちゃんは正しかった、おれたちはなんと先進的で未来的なしつけを受けたものかと、この歳になって改めてお婆ちゃんに感謝しておる。

 だもんだから、ランチパックの耳はいったいどこへ行っているのか、たいへん気になるのである。まさか捨ててはおるまいな。家畜の飼料とかにしているのだろうか?

 むかしは、カステラの裁ち屑だけを袋に詰めてパン屋などで安くで売っていたもので、あれはけっこううまかった。というか、味はちゃんとしたカステラと変わらん(あたりまえだ)。筒井康隆だって、貧乏なころはあれを食っていた(こんなものを食っていてはいかんと、のちにやめたそうだが、もったいない、お得なのに)。最近だと、形が崩れただけにすぎないタラコを、切れ子とかバラ子とか称して割安で売っていますわな。料亭じゃあるまいし、なにも美しいタラコを家庭で食う必要などない。賢い主婦は、バラ子をうまく料理に使っているだろう。そうよ、そのほうが合理的だ。時代の最先端である。

 山崎製パンに於かれては、「これはランチパックの耳を使って作りました」という商品をぜひ企画していただきたい。いや、本気で言ってるのだよ。売れると思うぜ。そういうのが安くであったら、おれは買う。

 じつを言うと、たまにランチパックを買って食うと、なんだかとてつもない贅沢をしているような気がして、うしろめたく落ち着かない。こりゃもう、そういうふうに育っているのだからしかたがない。せめて、ランチパックの耳を使った商品がちゃんとあれば、「ああ、べつにどこも無駄にはなっていないのだな」と安心してランチパックを食うことができると思うのだ。いやまあ、そういうものがあればあったで、耳のほうの商品ばかり買うかもしれないが……。

 戦争を経験した人々は、そろそろ人生の終盤にさしかかり、減ってゆきつつある。団塊の連中も、早晩死んでゆくだろう。日本が貧しかったころの名残を実体験として知っている最後の世代として、おれたち昭和三十年代から四十年代前半生まれあたりの連中は、近い将来、頑固爺い、頑固婆あになって、伝えるべきことを次代に伝えておかねばならない。

 米粒を残すと目が潰れる──なんとすばらしい、二十一世紀的な価値観であろうか! いやじつはおれも子供のころは、「なにをバカな、戦時中じゃあるまいし、みみっちい」と大人をバカにしていたものなのである。しかし、二十一世紀になって、改めて思う。食べものを無駄にしない。ものを大切にする。なにがみみっちいものか。じつに科学的、合理的な価値観ではないか。

 いま、身のまわりを見てみろ。とくに大金持ちでもない、ごくふつうの家庭に、カラーテレビ(下手すると地デジ対応)がある、エアコンがある、電子レンジがある、パソコンがある、携帯電話がある、ハードディスクレコーダがある、携帯音楽プレイヤーがある、デジタルカメラがある……百年に一度の経済危機だとかなんとか言いながら、おれたちの子供のころに比べれば、夢のように豊かな、SFのような暮らしをおれたちは享受している。だからこそ、おれたちは、「米粒を残すと目が潰れる」というすばらしい価値観の片鱗をでも、下の世代に残してゆかねばならないのだ。

 使わにゃ損そんとばかりに、自分たちの未来から際限なく借金をしてクレジットカードで現在の贅沢な生活を膨れ上がらせるバカなアメリカ人のようになってはならない。公的資金の注入で首の皮一枚のところで助けられておいて、社員に(ばかりか、元社員にまで)ボーナスを出そうなどという、恥知らずで意地汚い企業が成り立つような社会にしてはならない。アメリカのバカどもには、おれたちまっとうな日本人が、“分相応”という日本語を“もったいない”と共に教えてやらねばなるまい。

 カステラの裁ち屑がごちそうで、クジラのベーコン(は、いまでこそ高級食材だが、むかしは屑肉)ばかり食わされて育ったおれたちに、少々の不況だからといって、なにも怖いものなどあるか。どれだけ落ちても、おれたちの子供のころよりは、ずっと豊かだ。ざまをみろ。どわははははははは。

 それにしても、ランチパックの耳がどこへ行ったのかは、あの少年の夏の日、風に飛ばされて谷底に落ちていった麦藁帽子がどこへ行ってしまったのかと同じくらい、気になりませんか? ♪まま~、どぅゆ~りめんば~



| | コメント (11) | トラックバック (1)

2009年3月18日 (水)

線路は続くよ、さしあたり

Senro
 べつにおれは“鉄ちゃん”でもなんでもないわけなのだが、毎日見ているこの駅のこの風景は好きなもんで、なんとなくシャッターを切った。ポール・デルヴォーの絵にこんなのがあったな。あれは夜だったけど。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

サザエさん一家がもらえる定額給付金は十三万二千円

 Wikipedia の記述が正しいとすると、二〇〇九年二月一日現在、サザエ八十六歳カツオ七十か七十一歳ワカメ六十六か六十七歳波平百十三歳フネ百七か百八歳マスオ九十一か九十二歳タラオ六十二か六十三歳のはずだからである。なんかヘンかもしれないが、そういう計算になるのだからしようがない。

 十三万二千円あれば、きっとサザエさんちは、「TOSHIBA REGZA 37V型 地上・BS・110度CSデジタルフルハイビジョン液晶テレビ 37CV500」を買うだろう。これがアマゾンでいまちょうど十三万二千円なのである。他のメーカーのテレビは、諸事情があって買えない。買えないんだからしようがない。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月17日 (火)

♪ギリギリまでがんばって~

Ultraman_gaia01 やっぱり、いまのところこういうふうにしか使わない RICOH R10 なのであった。食玩のウルトラマンガイアね。じつは剥き出しのままタンスの上に飾ってあったので、煙草のヤニで少し黄ばんでいるわけなのだが、それがなんだか“汚し”が入ったようで、それなりにいい感じ。

Ultraman_gaia02 ちょっとアオって撮ると、ウルトラマンらしいかも。

Ultraman_gaia03 こんなふうにチープに撮っている。樹脂製のクリップボードの裏は、いい具合にざらざらした表面仕上げになっているので、そこに豆電球を映して“光の国感”を出す。撮影時は部屋を暗くし、豆電球だけにしてズームマクロでアオり気味に寄る。ホワイトバランスは白熱灯、露出はやや高め、ISOは200に設定。

 そろそろ、もう少しまともなものを撮りたいものだ。春になったら花やら虫やら撮る気になるかもしれんが、出不精なので、あくまで希望的観測。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年3月16日 (月)

『エッセンシャル・ベスト 麻生よう子』(麻生よう子/Sony Music Direct)

 昭和の歌姫のうち、この人ほど惜しい人もちょっといないのではなかろうか。哀しい歌が巧すぎたことが麻生よう子の不幸なのかもしれない。なんでこんなに歌唱力がある人が消えちゃったかねえ。おれはもう子供のころから「逃避行」の大ファンで、都倉俊一の最高傑作のひとつだと思っている。なあ、どう思う、半田健人? キミなら、リアルタイムで聴いていなくとも、この曲の良さをわかってくれると思うんだけどなあ。昭和だよ、昭和。

 麻生よう子のベストなら、カバーを入れるくらいなら、もっとオリジナルを入れろという意見もアマゾンの評にはあるし、それはまあそのとおりだとはおれも思うのだけれど、「ジョニィへの伝言」「別れの朝」「終着駅」などは、それはそれで、麻生よう子の声にピッタリ合った、いいカバーだとは思わないか? 「ジョニィへの伝言」はとくに秀逸だと思う。元から麻生よう子のオリジナルであってもいいくらいに、曲想と声質が合っている。

 おれは麻生よう子という歌手を忘れない。たまたま時代とのめぐり合わせが悪かっただけである。むしろ、いまなら、麻生よう子の歌唱は時代に受け容れられるのではなかろうか。七十年代の歌姫なら、中沢厚子なんかも活動を再開していることであるし、麻生よう子には、いまこそ流行やなんかを超えた次元で、みずからの個性だけを打ち出して、ふたたび唄ってほしいなあと思う。あなたの声が聴きたくてたまらない中年連中は絶対多いと思うのだ。

 甦れ、麻生よう子!



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月15日 (日)

『zabadak 1986-1993 SPECIAL EDITION』(zabadak/バイオスフィア・レコーズ)