カテゴリー「文化・芸術」の28件の記事

2008年6月25日 (水)

旅の恥は書き捨て?

イタリアの大聖堂に落書き 岐阜の短大生、名前や校名 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200806240365.html

 岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。見晴らし台にある大理石の壁に、黒油性ペンで全員の名前と日付、ハートマーク、大学の略称「岐女短」と書き添えていたことで発覚した。
 大学側が24日、発表した。6人は2月、学生36人でイタリアに研修旅行をした際に大聖堂を訪問。3月に現地を訪れた日本人からA4判ほどの広さに書かれた落書きを撮った写真が大学側に届いた。
 大学側によると、大聖堂には各国の言葉で多くの落書きがあり、6人は「高揚してしまった」と反省しているという。大聖堂側に英語で書いた謝罪文を送って許しを請い、大学も謝罪したところ、「修復の費用負担は不要」との返事があったという。

 「修復の費用負担は不要」というのは、たぶん「バカにはこれ以上できるだけ関わりあいになりたくない」という意味のイタリア語なのだろう。

 それにしても、自分らの名前と大学名までご丁寧に書くという、あまりにぶっとんだ悪気のなさが、かえってしみじみと不気味である。「イタリアに研修旅行」とあるが、いったい行く前になにを教えておるのやら。

 慈悲深い大聖堂さん側が呆れかえってくれるだけだったからまだよかったものの、あんたら、落書きする場所と内容をちょっとまちがえたら、サルマン・ラシュディ並みの目に会わんともかぎらんぞ。

 この時代、本で読み、ビデオで観りゃすむところを、わざわざ現地まで行くという研修の意味はだな、つまるところ、端的に、ひとことで言えば、「外国は日本とはちがうのだ」ということを学びにゆくわけだろう? いやまあ、日本でだってこんなことはやっちゃいかんのは当然だが、なにも高い旅費を払って、海外にまで恥をさらしに行かんでよろしい。「岐女短」てあのなあ……。そういうときは、せめて“Gijotan was here.”とでも書くくらいのユーモアがないか。いや、もちろんそれだって書いちゃいかんぞ。ちゃんと言っとかんと、洒落というものがわからんやつがおるからな。

 大学もえらい迷惑やな。まあ、どこかの精肉会社の社長みたいに、「大学は知らん。学生が勝手にやった」などと言わず、ちゃんと大学からも謝罪するのは、あたりまえのこととはいえ、このご時世、珍しくまともな尻拭いだとは思う。欲を言えば、その六人を大学の費用でもう一度大聖堂に行かせ、修道衣に身を包み雪の中で(雪が降るまで待て!)幾晩も立ち尽くして許しを請わせるくらいのことをすれば、いろいろな意味で教育にもなっていいと思う。



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2008年4月10日 (木)

くいだおれ、ついに倒れる

「くいだおれ」閉店、消える「ナニワの顔」 惜しむ声 (asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804080095.html

 戦後の大阪・道頓堀と歩みをともにしてきた「ナニワの顔」が消える。7月に閉店することが明らかになった飲食店「くいだおれ」。若者の街に変わりゆく道頓堀で創業者の教えを守り、大阪の味やユーモアにこだわり続けてきた。時代の波に押されて姿を消すことに、道頓堀の活性化をめざす地元や観光客らに惜しむ声が広がった。

くいだおれ:名物人形「太郎」売却も 7月に閉店 (毎日.jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080410k0000m040086000c.html

「名前と太郎を引き継いで…」売却検討 くいだおれ会見 (asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804090100.html

 そうか、関西人として寂しいなあ。思えば、おれはくいだおれ人形の前まで行って写真を撮ったことやら、あちこちぺたぺたといじくりまわしたことはあっても、あの店で飯を食ったことは一度もなかったなあ。こんなやつがたくさんいるから、このような事態に至ったのだろう。まことに申しわけない。

 チャールトン・ヘストンの訃報を聞いたばかりのときに、くいだおれ閉店のニュースが入ってくるとは……。なんか、おれの頭の中では、この奇妙なシンクロ加減が無性にもの悲しい。え? チャールトン・へストンとくいだおれになんの関係があるのかって? それは、おれが1997年10月24日に書いた日記をご参照いただきたい。

 せめて人形だけは、どこかが生き延びさせてほしいものだなあ。



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2008年3月17日 (月)

羽野晶紀と泰葉の復帰

 最近、羽野晶紀泰葉が猛然とテレビに出はじめていて、なにやらおれには一九八〇年代にタイムスリップしたように感じられ、不思議な感慨を覚えている。日曜日も、ふたりともテレビで観た。いや、おれはどちらも好きなんだよ。『現代用語の基礎体力』とかも楽しみにしてたし、泰葉がシュガー(おれはシュガーも好きなんだ)とやってた歌謡番組(もう、タイトル忘れたなあ)なんかも毎週欠かさず観てた。大学生のころだっけなあ。

 だいたい、こういう才能ある人たちが家に閉じこもっているなんて、もったいないじゃないですか。片や狂言、片や落語と、伝統芸能の家庭にいったんは嫁いだ彼女らが、奇しくもほぼ時期を同じくして再び自分のキャリアを歩みはじめたのは、なかなか面白い偶然だと思う。

 結局、伝統芸能というのは女性の我慢の上に成り立っているのかなどと陰口を叩かれないよう、独身の狂言師や落語家にもばりばり活躍してもらいたいものだ、なあ、春風亭昇太。



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2008年1月 5日 (土)

雄と雌の勝敗

 「雌雄を決する」というのは、よく考えてみるとケッタイな言葉である。いわゆる“政治的に正しくない”表現だろうと一瞬思うのだが、よくよく考えてみると、雄が勝ったほうで雌が負けたほうだと明言しているわけではないのである。つまり、男が使うときには腹の中で「勝ったほうが雄だ」と思っていていいのだし、女が使うときには「勝ったほうが雌だ」と思っていていっこうにかまわないのである。

  「いよいよおまえと雌雄を決するときだな」
  「そうね、雌雄を決するときね」
  「わはははははは」
  「あはははははは」

 などという会話が、お互いに都合よくちゃんと成り立ち得る。「雄飛」とか「雌伏」とかいう言葉は政治的に正しくないかもしれないが、「雌雄を決する」に関しては、いずれかの優劣を明言していないだけにビミョーなところがあるよな。

 いまのところ、たぶん、雄が勝ったほうを指すと思っている人が多いだろうとは思うが、なにしろ雌のほうを先に言っているわけだから、この先、「雌雄を決する」と言えば、当然「勝ったほうが雌だ」と大多数の人が思うようになる社会がやってくる可能性はある。いわゆる“国語力”が低下すればするほど、そうなる可能性は高い。まあ、そんな国語力は低下してしまえと思わないでもない。言葉狩りみたいなことが進み、表現そのものが抹殺されて言葉が貧しくなってゆくのはいただけないが、表現が残ってその意味が変わってしまうというのは、なかなか愉快ではないかなと思うね。よく言われる「犬も歩けば棒に当たる」とか「転石苔むさず」とか、ああいう表現の仲間にそのうち「雌雄を決する」も入るかもしれない。まあ、「情けは人の為ならず」みたいなのは、元々の意味のほうがおれは好きだけどねえ。つまるところ、多数決だからね。なんか寂しい気もするが。



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2007年12月26日 (水)

カニの肩

 この時期になるといつも不思議に思うのが、“カニの肩”というのはどこを指すのかということである。市場やスーパーなんかでは、カニの片側の脚ひと揃い(が繋がったもの)を、ひと肩、ふた肩と数えて売っているからには、脚の付け根のところがどうやら“肩”であるらしいのだが、擬人的に捉えるとすると、ハサミの付け根はたしかに“肩”かもしれんが、その他の脚の付け根はやっぱり“股”ではないかと思うんだがどうか。まあ、ひと股、ふた股と数えて売られると、あんまりうまそうじゃないけどな。

 で、素朴な疑問が湧いた。カニの肩を英語で shoulder と呼んだら、はたして英語ネイティブの連中には通じるのだろうか? 中学一年のときからかれこれ三十三年くらい英語を学習し続けているが、こんな疑問を抱いたのは初めてである。人間やっぱり、一生勉強ですなあ。

 英語ネイティブの連中がそもそも食材としてのカニをどのように数えて取り引きしたり料理したりしているのか、ウェブのあちこちを調べまわってみたところ、どうやらカニの脚の付け根のところの肉を shoulder と捉える感覚はあるようだ。カニの shoulder の肉のうまさを説いている文章はあちこちに見つかる。この感覚はまあ、納得できるよな。なにしろ、一応、腕の付け根なんだし。しかし、日本語のように“肩”を単位にカニの肉を数えている例は、いくら探しても見つからない。重量を単位に数えるのが一般的なようだ。

 獣の肉の場合、a shoulder of mutton (lamb/pork/beef/venison/bacon, etc.) といった具合に数えるのは、英語ではごくふつうの用法である。これはまあ、英語史を齧った方ならご存じのように、生きているときには英語の可算名詞で呼ぶ獣が、死んで食肉という“素材”になるとフランス語起源の不可算名詞に化けるということがあって、むろん、ノルマン征服以降の歴史的経緯がある。「ワタシ獣を飼ったり獲ってきたりする人、アナタ食べる人」というわけで、外からやってきた支配階級がフランス語(ノルマン・フレンチ)をしゃべり、土着の下々の者が英語をしゃべっていた時代に、言葉が混じり合ったプロセスの名残りなのである。食材としての肉はなにしろバラバラなので数えられないから、おおざっぱに可算化する方便として、身体の部位や取り引きしやすい形状・大きさの塊などを単位に、a shoulder of beef だの a rib of pork だのと数えているわけである。

 だが、考えてみると、カニ肉には、beef やら pork やらに対応する、食肉用専用のこなれた不可算名詞がない。せいぜい、crabmeat (crab meat) とでも呼ぶしかない。なんでかよくわからん。調べもしないで推測するに、十一、二世紀ころのフランス人は日常的にはカニを食わなかったのかもしれないよなあ。だもんだから、仮に a shoulder of crabmeat などという言いかたをしても、たぶん連中にはピンと来ないのだろう。ウシやらブタやらシカやらに比べると、連中にとってのカニってのは、たまに食うには食っても、日常生活に密着した感じがなかったんだろうなあ。

 面白いことに、カニ肉を「2 shoulders」などとして売っているのは、きまって日本の業者の英語ページなのである。きっと、日本語の数えかたを直訳しているのだろう。だけどこれ、必ずしもまちがいであると言い切ってしまうには惜しい表現だと思いませんか? 英語ネイティブの連中にも、「この和製英語は、なかなか捨てがたい味があって面白い」と思って、逆輸入しはじめる人々が出てくるかもしれない。salaryman (sarariman) みたいにさ。ひょっとしたら、未来の英語では、two shoulders of crabmeat といった表現が広く認知され、使われているかもしれないよ。

 海産物を愛でてきた民族として、カニ肉を“肩”で数えるエレガントな習慣を英語に輸出してやるのも、ちょっと愉快だとは思いませんか?



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2007年12月15日 (土)

絶滅危惧フレーズIA類

 この時節ともなると、夜には拍子木の音と共に火の用心を呼びかける声が聞こえてくる。子供はああいうのが好きで、大人と一緒に大声を張り上げて夜回りをしていたりする。おれも子供のころはよく町内の大人について回って拍子木を打たせてもらったりした。

 今日も夜回りの声が聞こえてきて、「ああ、またやっとるな」と本格的な冬の到来をしみじみと味わっておったのだが、ふと、あることに気づいた。違和感がある。なにかが足りない。なんだかまぬけな感じだ。あれはもはや、おれが子供のころにやった夜回りではない。

 「火のよーじん!」

  (カチ、カチ)

 「火のよぉ~じん!」

  (カチ、カチ)

 「火のよーじん!」

  (カチ、カチ)

 「火の……」


 えんえんとそれだけかい!?

 「マッチ一本火事の元」はどうした? あれが入らんと、メリハリというものがないではないか――。

 そこでおれは愕然とした。

 おれはもう何年もマッチというものを使っていない。煙草を吸うにもかかわらずだ。

 そうか。『ダイヤルMを廻せ!』だ。「マイ・ピュア・レディ」だ。「このテープは自動的に消滅する」だ。つまり、今の子供には「マッチ一本火事の元」と言ったって、そもそもなんのことかわからないのだろう。その可能性は高い。大人にしたって、そのフレーズは知っていても、今の世で“お約束”としてそんなことを大声で言うのがはばかられるのにちがいない。

 うーむ。

 しかし、これは由々しきことである。夜回りのかけ声の存亡にかかわる問題である。だいたい、「火の用心」ばかりをただただ阿呆陀羅経のように「ヴェクサシオン」のように繰り返されたのでは、どうにも気色が悪い。日本の伝統藝能(?)の危機である。二十一世紀に生きるおれたちは、「マッチ一本火事の元」に代わり得る、防火の心構えの本質を端的に剔抉した語呂のよいコピーを産み出さねばならない。

 「ライター一個火事の元」では、むろんサマにならない。そもそも、ライターそのものは、あんまり火事の元になったりしないだろう。現実的なのは、それこそ「煙草一本火事の元」だが、これでは非喫煙者がかえって火の用心をしなさそうで具合が悪い。いずれにせよ、「マッチ」という緊張感のある語感とタメを張るのは、ちょっと難しい。

 どうしたもんでしょうなあ。



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2007年6月25日 (月)

『何も起こりはしなかった――劇の言葉、政治の言葉』(ハロルド・ピンター/喜志哲雄・編訳/集英社新書)

 イギリスが生んだ偉大な劇作家、ハロルド・ピンターの政治的発言と、劇作に関するインタビューをまとめたもの。ピンターにはノーベル文学賞とかいうあまりにも遅すぎる賞がほんの二年前に授与されているが、まあ、ノーベル賞をもらわなかったら、日本でこんな本が出ることもなかったろうから(ピンターにノーベル文学賞が出たとき、日本では嘆かわしいことに『ハロルド・ピンター全集』絶版だったのだ)、それはそれでめでたいことである。


 アメリカ合衆国はもはや低水準紛争などに煩わされたりしません。控え目であることはもちろん、遠まわしなやり方をすることにさえ、アメリカは意義を認めないのです。アメリカは何ら悪びれることなく、手の内を明かしています。アメリカは要するに国連も国際法も、また反対意見も(それは無力で無関係なものだと見なされています)、問題にしてはいないのです。アメリカの後ろには、首に縄をかけられ、弱々しい鳴き声をあげながらついていく子羊がいます。哀れで無力なイギリスです。

――ノーベル文学賞受賞記念講演「藝術・真実・政治」 

 二○○二年という年の最も吐き気のする映像のひとつは、何の罪もない何千ものイラク人の殺害を準備する作業に手を貸していたわが国の首相が、同時に、クリスマスの日に教会で跪き、地上の平和と全人類に対する善意のために祈っていたというものです。
――「下院での演説」 
 自由、民主主義、解放。これらの言葉は、ブッシュやブレアによって使われる時には、実質的には死、破壊、無秩序を意味しています。
――「イラク論争」 


 ピンターは、アメリカ合衆国という傲慢きわまりない国家のやり口を、明解な言葉で真正面から批判し、非難する。イギリスと同じく、アメリカの“ポチ”である国の国民としては(まあ、イギリスのほうは“スピッツ”だという人もいるが)、透徹した知性の歯に衣着せぬアメリカ批判、イギリス批判には、真摯に耳を傾ける価値がある。イギリスに生まれ育ち、しかもユダヤ系であるピンターが、自国とアメリカに対してこれほどまでに厳しい言葉を叩きつけるのは、功成り名遂げた文化人としての地位があろうとも、さぞや勇気の要ることだろう。まあ、どこぞのお坊ちゃま首相が書いた美しい妄想を読んでる暇があったら、こっちを読んだほうが、リアリティーというものについて、ずっとましな考察ができるにちがいない。

 本書に収められた講演やエッセイには、内容の重複がかなりあるけれども、重複しているがゆえに、ピンターの主張にぶれがないことがかえってよくわかる。最も痛快だったのは、「アーサー・ミラーの靴下」と題する小文だ。一九八五年、国際ペンクラブ代表として、軍事独裁政権下のトルコでの文学者に対する投獄・拷問を含む迫害の実態を調査しに訪れたアーサー・ミラーとピンターが、現地のアメリカ大使館の晩餐会に招かれた。主賓のアーサー・ミラーは、「アメリカは民主主義国であるのに、我々が訪問しているこの国を含む世界中のあらゆる国々の軍事独裁政権を支持しているのは、いったいなぜなのか」と問いかけるスピーチを堂々と行なった。食後、アメリカの大使と補佐官たちは、なぜかアーサー・ミラーにではなく、ピンターに歩み寄ってイチャモンをつけはじめた……という話なのである。結局、アーサー・ミラーとピンターは大使館を追い出されてしまうのだが、ピンターのサゲ(?)がかっこいい――「アンカラのアメリカ大使館から、望んで追放されたアーサー・ミラーと一緒に放り出されたのは、私の生涯の最も誇らしい瞬間のひとつだった」

 ちなみに、本書にも訳出されている、ピンターのノーベル文学賞受賞記念講演“Art, Truth & Politics”は、ノーベル賞の公式サイトで全文が読めるし、講演の動画も観られるYouTube にも上がっているけれども、画質・音質は、ノーベル賞サイトの RealPlayer 用ファイルのほうがずっといい。Windows Media Player 用ファイルがないあたりが、よくも悪くもヨーロッパだよねえ。

 思うに、現代において最も厄介な事実は、アメリカ合衆国というきわめて特殊な国が最も強大であるということなのかもしれない。


pinter nobel lecture



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2007年6月24日 (日)

声の力

 いまソルマックのCMをテレビで観て思ったんだけどさ、ひろしピョン吉町田先生も、むかしと同じ声優さんなんだよなあ。声優ってのは、顔を出す俳優に比べると、けっして労働条件や報酬がよいとは言えない商売だそうだが、いったん地位を確立すると、かなり年を食ってもお座敷がかかる商売ではあるらしい。もっとも、それで食ってゆくとなるとたいへんだろうけど。野沢雅子千々松幸子永井一郎なんかには、マジで紫綬褒章くらいあげるべきではないかと思う。



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2007年5月27日 (日)

うまいから身体によいのか、身体によいからうまいのか?

 おれはオリーブ油が好きだ。なんならそのまま飲んでもいいくらいである(さすがに、そんなに贅沢なことはしないが)。パスタなんかを食うときには、これでもかというくらいにかける。最後に皿の中に残ったオリーブ油をずずずと啜れるほどにかける。以前、「うまい汁を吸う」というエントリーでも書いたのだが、トマトにもどぼどぼオリーブ油をかけて食う。昨晩そうやって食った。

 オリーブ油とトマトを一緒に食うとリコピンの吸収が高まるということが数年前から支配的な認識になっているけれども、おれはそれ以前からそうやって食っている。うまいからだ。イタリア人やらギリシア人やらも、むかーしから日常的にトマトとオリーブ油を一緒に食っている。彼らがそうやってトマトとオリーブ油を食ってきたのは、なにもリコピンがどーたらということを考えてのことでは絶対にあるまい。単にうまいからにちがいない。

 いや、待てよ。“うまい”というのはどういうことだろう? 逆に考えてみたら、どうなるだろう? つまり、地中海あたりに住んでいた連中のうち、オリーブ油とトマトを一緒に食うと“うまい”と感じるような嗜好を偶然遺伝的に持っていた人々が、ほんのわずかでも健康になり、子孫を残す確率がほんのわずかでも高くなって、トマトをオリーブ油で料理するという文化が強化されていったという考えかたはできないか? そのようなダーウィン進化が有意に働くには人類の歴史は短すぎるような気もするんだが、まったく働かないというわけでもなさそうに思える。人類にはファームウェアとしての遺伝子だけではなく、個体の外部で進化するソフトウェアとしての文化があるから、ダーウィン進化が加速されるってこともあるだろう。このあたりの与太な思いつきを突き詰めてゆくと、マーヴィン・ハリスの“文化唯物論”に似たものになってゆきそうだなあ。

 まあ、食文化というのは健康や寿命(すなわち、ハードウェアの耐久性)に大きな影響を及ぼすものであろうから、“文化唯物論”は極端だとしても、純粋にミームとしてだけ切り離して考えるわけにもいかないはずだ。“食性とダーウィン進化”だったら科学的にアプローチできそうだけど、“食文化とダーウィン進化”となると、これは一筋縄ではいかないだろう。でも、まったく無関係だとも思えないんだよなあ。

 トマトにオリーブ油をかけて食うたび、おれはこういう与太に思いを馳せてしまう。人類が培ってきた食文化というものには、まだまだサイエンスが取りこぼしてきている不思議が隠されていそうな気がするんだよね。もっとも、トマトとオリーブ油のような健康によい食べ合わせが偶然か必然か文化として受け継がれてきている不思議があるのとまったく同じように、世界のあちこちには、健康に悪い食べもの、健康に悪い食べかたが文化として定着してしまったせいで、あたら寿命を縮めている人々だっているはずだ。「家を出るとき犬が騒いで、飛行機に乗り遅れる人もいる。その飛行機が墜落した場合、主人を救った不思議な犬ともてはやされることにはなるわけだが、世の中には、主人を引き止めて墜落する飛行機に乗せてしまった馬鹿犬もやはり同じ確率でいるはずだ」ってのと同じである。あ、そんな難しいこと考えなくたって、酒飲みで煙草吸いの手前が好例ではないか。

 ま、好きな食いものを我慢して長生きするのと、好きなもの食って多少寿命が縮むのとどちらがいいかとなると、こりゃ、個々人の哲学の問題だからねえ。「酒も煙草も女もやめて 百まで生きた莫迦がいる」って都々逸の苦笑と自嘲と共感は、たぶん、世界中の人に通じるんじゃなかろうか。



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2007年4月13日 (金)

カート・ヴォネガット死去

Kurt Vonnegut, Jr. (1922 - 2007) (Fantasy and Science Fiction News - SFWA News Site)
http://www.sfwa.org/news/2007/kvonnegut.htm

Writer and artist, Kurt Vonnegut, Jr. died Wednesday, March 11, 2007, following brain injury received in a fall at his Manhattan home a few weeks earlier.

Author Kurt Vonnegut dies at 84 (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/books/04/12/obit.vonnegut/index.html

NEW YORK (CNN) -- Kurt Vonnegut, whose absurdist visions and cynical outlook infused such books as "Slaughterhouse-Five" and "Cat's Cradle," has died. He was 84.
Vonnegut died at New York's Mount Sinai Hospital at 9:45 p.m. ET Wednesday, said his wife, photographer Jill Krementz.
Vonnegut had been hospitalized for several weeks after suffering brain injuries following a fall at his East Side Manhattan home.

 とうとう、このジョークを言わなければならない日がやってきてしまった。では、故人の希望どおりに言わせてもらうことにする――「カートはいま天国におります」

 ありがとう、ヴォネガット。あなたは、おれがこのとんでもない世界で生きていられる理由をくれた偉大な作家のひとりだ。おつかれさまでした、“戦友”よ。

 Do be do be do.

 So it goes.



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2007年3月31日 (土)

イラクのリン・ミンメイ

Idol TV show contestant unites war-weary Iraqis (CNN)
http://www.cnn.com/2007/WORLD/meast/03/28/iraq.star.academy/index.html

BAGHDAD, Iraq (CNN) -- Shada Hassoon, a charismatic and talented 26-year-old singer, is doing for Iraq what weary politicians in that strife-torn country have so far failed to do: unite the fractious nation.
Hassoon is a contestant representing Iraq on LBC's "Star Academy," a televised entertainment competition from Lebanon similar to "American Idol."
She has advanced all the way to the finals and is one of four contestants left.

(中略)

Hassoon has mixed national heritage. She was born in Morocco to an Iraqi father and a Moroccan mother.
But she is regarded as an Iraqi because nationality is based on her father's country.
She identifies herself as an Iraqi national and says her dream since childhood has been "to represent my country, Iraq, in arts."
"We voted for Shada without asking if she were a Shiite or a Sunni," Hicham Mahmoud Alaazami said on the Al-Arabiya Web site. "We voted for her just because she is an Iraqi."
Hassoon has been the object of attention in Arabic-language media in Iraq and across the Arab world.


 Shada Hassoon というイラク国籍の歌姫が、“レバノンの「American Idol」”みたいなコンテスト・テレビ番組で最後の四人に入るまで勝ち上がり、イラクのみならず、アラビア語圏の注目の的となっているそうだ。シーア派・スンニ派の対立はとりあえず脇に置いて、“イラク人”のアイドルを応援しようという空気で盛り上がっているらしい。

 政治に翻弄されたテレサ・テンのような人がすぐ頭をよぎって、日本人としては手放しでめでたがる気分にはなれないのだけれども、まあ、イラクといえばなんとも殺伐とした話ばかりが報道されるので、こういうニュースはちょっとほっとするよね。満身創痍で焼け跡から立ち上がろうとしているところへ、湯川秀樹がノーベル賞取ったくらいの感じなのかもね、日本でいえば。巨人ファンだろうが阪神ファンだろうが、WBCだとみんな日本を応援しちゃうしねえ……って、宗教対立はそういう軽いノリの問題ではないとおっしゃいましょうが、本音のところでは、意外と当たらずといえども遠からずかもしれんじゃないか。無能なアメリカ人の審判が横柄な態度を取れば取るほど、なおのこと盛り上がって団結する……って、そういう問題じゃないかもしれんが、なんとなく似てる気もしないでもないかもしれないぞ。


 Shada Hassoon star academy 4



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2007年3月24日 (土)

ロシアより萌えをこめて

声優を目指して日本へ - ロシアのオタク親善大使、ジェーニャ嬢 (MYCOMジャーナル)
http://journal.mycom.co.jp/articles/2007/03/19/jenya/

 おや、ひところネットで日本のオタクどもを驚愕の坩堝に叩き込んでいた、あの“いつき”ちゃんだよねえ。もう、こんなに活躍しているのか。おれもあのとき、オーチンハラショーな歌聴いてびっくりしたあるよ。「ワタシ、大学でカワバタの研究しましタ」みたいな人より、こういうコにずっと親近感を覚えてしまうのはなんなんだろうね? なんか、海の向こうでこういう人を作り出してしまっている日本の文化はスゴイと、妙な愛國心のようなものがめらめらと湧き起こってくるのは、われながら忌々しくも微笑ましい。♪カミカゼ スキヤキ ゲイシャ~、ハラキリ テンプラ フジヤマ~、おれ~たちの日の~丸が燃えている~!

 ……それはともかく。

 妙齢のロシア美女が「私はショタです」と日本語で言っているかぎり、まあ、国同士のゴタゴタはいろいろあろうが、やっぱりホモ・サピエンス同士だわと長期的には楽観的になれる。プーチンとか見てると、まだまだおれたち人類はサピエンスに欠けていると短期的には暗い気持ちになるのだけれど。



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2007年1月28日 (日)

湯桶箱読み?

 それにしても、“東国原(ひがしこくばる)”というのは不思議な読みかただ。東村山「ひがしそんやま」と読んでいるようなものなのだぞ。〈訓・音・訓〉と読んでいるわけだから、さしずめ“湯桶箱読み”とでもいったところである。湯桶箱とはなにか? 知らん。たぶん、湯桶をたくさん持ち運ぶときに使う専用の箱のことだろう。そういうことにしておこう。

 ほかに、こんなふうに読む漢字三文字の名前ってあるかなあ? まあ、すぐには思いつかないが、名前なんだから、どういう読みかたもアリなわけで、いろいろあるにはちがいないよね。あ、そういえば、“小比類巻”という姓がありますな。これは〈訓・音・音・訓〉か。不思議だなあ。



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2007年1月 5日 (金)

絶滅危惧IA類:福笑い

 NOVAの新春版テレビCMでNOVAうさぎ“福笑い”をやっているのだが、ぶっちゃけた話、日本全国でこの正月に福笑いなどという遊びをした人たちが、いったいどのくらいいるものなのだろうか? というか、あのCMを観たいまの子供たちには、そもそもNOVAうさぎがなにをしているのかさっぱりわからないのではあるまいかと、ちょっと気になっている。

 正直、おれ自身、最後に福笑いをやったのは小学生のころだったかと思う。三十数年はやってない。おれがやらないのはおれの勝手だが、その三十数年、人が実際にやっているところに居合わせたことすらないのだ。もはや実際には、福笑いという遊びは絶滅寸前なのではなかろうか? おれが知らないだけで、子供のいる家庭ではひょっとするといまでもやることがあるのかもしれないが、ほかに面白い遊び(というか、ゲーム)がいっぱいあるいまの世の中、わざわざ好きこのんで福笑いなどというさして面白くもない遊びをするとはとても思えないのだ。はっきり言って、福笑いはつまらない。おれが子供のころにやっていたときですら、正月には福笑いをするものという慣習にあえて従っていただけだったような気がする。いや、ホントに福笑いって掛け値なしに面白いですか?

 それでも福笑いは、誰もやらないのに、“正月の典型的な遊び”という記号としてのみしぶとく生き残っている。その記号すら、若い世代にはすでに伝わっていないかもしれない。福笑いの復興はあるのだろうか? ゲームソフトに福笑いってあるのかな? モンタージュはあるみたいだが、福笑いってのは寡聞にして知らないんだよなあ。



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2006年11月22日 (水)

有機物最高の声・山田英津子

 このところ、ソプラノ歌手の山田英津子にハマって聴きまくっている。こないだまで美空ひばりを集中的に聴いていたというのにだ。

 いやあ、すばらしい! こんな人をいままで知らなかったなんて、おれはちょっと人生を損していた気分である。iTunes Store をうろついていてたまたま見つけ、ちょっと試聴をしてみて息を呑んだ。おれの声フェチ・インジケータが振り切れ、針が弾けとんだ。なんという声! おれはクラシックの声楽家の声というのは、声というより楽器みたいでそれほど好きじゃないのだが、“天使の歌声”などという陳腐な表現は糞食らえである。たぶん天使は、もっと冷たい、非人間的な完全すぎる声をしていると思う。そりゃ、あいつらは人間じゃないからな。山田英津子の声は、ホモ・サピエンスとしての、人間らしい最高の声である。炭素と水素と酸素と窒素のぐちゃぐちゃの塊から、このような至高の音波が出てくること自体、ひとつの奇跡としか言いようがない。オリバー・カーン“霊長類最強のゴールキーパー”と呼んだニュース番組があったが、おれは山田英津子を“有機物最高のソプラノ”と呼びたい。

 そっち方面では有名な人らしいので、いまごろ知ったのかと呆れてらっしゃる方もあろうが、知らない人はいっぺん聴いたんしゃい! iTunes Store ではここ「シューベルトのアヴェマリア」なんて、息をするのを忘れますぜ。「ふるさと」なんて、日本人なら涙なしには聴けませんぜ。いや、iTunes Store で売ってるのは全部買ってしまったのだ。ええい、ビンボーだけど、いまならボーナス払いだ。

 いったいこの人は何者なのだとネットを泳ぎまわってみたら、なんと、クラシックに疎いおれですら知っている指揮者、山田一雄の娘さんだという。すごいご家庭ですなあ。



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2006年9月17日 (日)

サンマの死骸を食う

Samma01 昨夜は、ひさびさにサンマを食った。あとは、焼き豚とサラダ。サンマの右下あたりに盛ってあるのは大根おろし(冷凍パックの便利なやつだ)。焼き豚の右下あたりに盛ってあるのはワサビである(おれは肉にはワサビ派なのだ)。カロリーがすごそうなので、米はまったく食わず、焼酎お湯割りでサンマをじっくり味わう。サンマには日本酒の熱燗が最高なのだが、買い忘れたのだ。ま、焼酎でも悪くはない。日本の酒にはちがいないしな。

 今回のオペは大成功だった。「マンガに出てくる乞食がゴミ箱の中を漁ったあと頭の上に乗せているかのようなサカナのホネ」を、みごとにふたつも作ることができた。あんまり脂の乗った大物ではないが、このほうが身体にはよさそうだし、味もなかなかのものだった。このサンマは、焼いた状態のが二尾で三百円。これほどコストパフォーマンスの高い動物性蛋白もちょっとないと思う。

 サンマのパックにかけてあったラップを見ると、「北海道産」と書いてある。漁師さんたちがロシアの船に撃たれそうになりながら獲ってきたものであろうか。おれは宗教というものがまったくわからないし、わかりたくもない人間ではあるが、こういうものを粗末に扱うと“なにかに対して悪い”という感覚はある。母なら“バチが当たる”と表現するだろう。実際にはバチなど当たらんが、そう表現する感覚はおれにも理解できる。むかし星新一が、雑誌なら捨てられるのに、本を捨てるとバチが当たりそうな気がするといったことを書いていたが、その感覚もよくわかる。

 以前のエントリー「死骸を食うこと」で書いた『「こうしてご飯が食べられるのも、ほかの生きものが死んでくれたおかげだ」と常に意識しているのは、存外に大切なことではないかという気がするのだ』に直結するのだが、子供には“これは生きものの死骸だ”とあきらかにわかる姿の食いものを、たとえ嫌がってもたまには食わせるのが教育的にはよいのではないかとおれは思う。たいていの食べものはもともとはほかの生きものだと、頭ではわかっていても、とくに現代の子供には実感が湧かないだろう。生きものの死骸に箸を突き立て、自分が生きるために食うという体験をしばしばさせるべきだと思う。

 「給食費を払っているんだから、子供に“いただきます”などと言わせないでくれ」と学校に文句をつけた親がいるというのが以前あちこちで話題になったけれど、親の中にもこういう人がいるくらいであるから、子供となれば推して知るべしである。この親御さん、バカとは言わんが、きわめて精神性が乏しい人ではあるでしょうな。日本語の「いただきます」は、人に対してだけ言っているものだと思い込んでいるわけだ。こういう人は、「ありがとう」も、人に対してだけ言っているんでしょうなあ。つまり、この親御さんのような人は、日本語を正しく身につけているとは言えないのである。

 学生のころに学習塾でアルバイトをしていたとき、「センセー、“いただきます”って英語でなんて言うんや?」と問われて、「そういう習慣そのものがないから、ぴったり当てはまる言葉はないなあ。敬虔なキリスト教徒やったらお祈りしてから食うわな。まあ、あのお祈りをひとことで言うようなもんやろ、“いただきます”は」などとお茶を濁したもんだ。あえて訳せばどうなるかね? Thank everything for letting me be here and now. といった感じか?

 「もったいない」を世界的に広めてゆこうという動きもあるいま、「いただきます」もそうしてはどうかと思うぞ。かくいうおれも、飯食うたびにいちいち口に出して言ったりはしないんだが、心内発声するようにはしている。子供がいたらきっと、教育の一環として、自身も口に出して言うようにしただろうね。

 というわけで、今日の晩御飯には、サンマの死骸などいかがです?Samma02




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2006年9月15日 (金)

iTunes 7 の「Cover Flow」機能はじつに嬉しい

Cover_flow
 iTunes 7 が出たので、さっそくバージョンアップしてみた。画面が落ち着いた色合いになって、文字も見やすくなり、なかなかいい感じだ。

 アルバムのジャケットアートを次々と鑑賞できる「Cover Flow」って新機能はじつにいい。ダウンロードして買う音楽のなにが不満かというと、ジャケットがない点である。あれは本のカバーと同じくらいに立派な藝術の一分野なのであって、ジャケットだけ次々見ていったって充分楽しめるものである。その不満な点をちゃんとカバーしてくれるとは、さすがはアップル、たいしたもんだ。

 Cover Flow 機能をオンにすると、上のキャプチャー画像のようになる。なにも操作をしないと、現在流れている曲が収録されたアルバムのジャケットが中央にくるが、その状態でも、ほかのアルバムのジャケットアートだけを、いま聴いている曲とは関係なく、マウスやキーボードの操作で次々と自由に見てゆける。しばらく操作をしないと、いま流れている曲に対応するジャケットアートが自動的に画面中央に戻ってくるというしかけ。

 おれは、パソコンの前にいないときにも、しばしば漫然とBGMをパソコンで流しているのだが、パソコンの前に座ってゆっくりじっくり音楽を聴くときに覚える、そこはかとない“目持ち無沙汰”な感じが、この機能によって解消されそうだ。音楽を聴きながらカバーも楽しむってのが、やっぱりいいですな。ちょっとアナログな風味が薫って、なんだか懐かしい感じさえする。そうだよなあ、むかしはジャケット眺めながら聴いてたもんだよな、音楽ってのは。



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2006年8月21日 (月)

あなたに似た人

妖怪そっくりコン 2人受賞、水木さんも絶賛 鳥取・境港 (Yahoo!ニュース < 毎日新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060821-00000006-maip-soci

 「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる漫画家・水木しげるさん(84)の出身地・鳥取県境港市で20日、妖怪そっくり度を競う初のコンテストがあり、仮装部門は「子なき爺(じじい)」に扮(ふん)した男性、そっくりさん部門は「あかなめ」似の小学生女児が、最優秀賞に輝いた。審査委員長を務めた水木さんも「驚くほどそっくり」と絶賛していた。

 以前話題にした「妖怪そっくりコンテスト」の結果が出たようなんだが、あああのですね、“あかなめ”ってこれですよ。これに「驚くほどそっくり」水木しげる絶賛される小学生女児っていったい……。まあ、仮装部門はベースが似てれば熱意と技術でどうとでも似せようがあるんじゃないかとは思うのだが、そっくりさん部門ってのは“地”ですからなあ。まだ一年生の女の子だというが、けっこう肝が据わっているのだろう。“そういう方面”で人を楽しませることができれば嬉しいという、ある種の覚悟が幼くして具わっているのかもしれん。一度会ってみたいよ、このコ。

 案外、就職のときとか有利かもしれんぞ。履歴書に書ける。「第一回妖怪そっくりコンテスト そっくりさん部門最優秀賞受賞(あかなめ)」とか書いてあれば、平凡な資格やなんかが書き連ねてあるよりも、よっぽどインパクトがある。金太郎飴のような人材にうんざりしている採用担当者には、その捨て身のサービス精神が高く評価されるだろう。

 いやまあその、おめでとうございました……って言っていいのかな?



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2006年4月22日 (土)

伝承の崩壊

 近所を歩いていると、小学校低学年くらいの女の子たちが、珍しく“花いちもんめ”をやっていた。むかしは、あちこちからあの歌がしょっちゅう聞こえていたもんだが、いやあ、やっぱり最近の子もやったりするんだなあ、懐かしいなあと耳を傾けながら、おれはその場を通りすぎようとした。

 ところが、背後からはっきりと聞こえてきたのだ――

♪勝ってうれしい、花いちごんべー
   負けーてくやしい、花いちごんべー

 あれは聞きまちがいではない。少女たちは何度も何度もそう唄っていたのだ。替え歌を唄って面白がっているふうでもない。なんの疑いもなく、楽しそうにそう唄っていた。

 きっとあの子らは、花市権兵衛という格闘家かなにかが試合の結果に一喜一憂する歌だとでも思っているのだろうなあ。とはいえ、哀しい人身売買の歌だと教えてやるのも興を殺ぐような気がする。そんな歌で遊べないよなあ。

 家に帰って母にその話をすると、母は大笑いして言った――「“どん兵衛”でのうてよかったこっちゃ」

 そ、そういう問題か……。

 ま、まさか、すでに「花いちごんべー」の歌詞のほうが優勢だったりするんじゃないだろうなあ?

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2006年2月23日 (木)

バルタン星人がやってきた

 先週、先々週の『ウルトラマンマックス』第33話・第34話)を観て、封じ込めていた子供のころの欲望がむらむらと甦ってきてしまい、矢も盾もたまらずバルタン星人を買ってしまったのだった。今日帰宅したら届いていたのだ。

valtan01 晩飯もそこそこに、わくわく、いそいそとパッケージを開ける。

valtan02valtan03valtan04valtan05valtan06
 今度のバルタンは子供向けでもすごいぞ。なんたって、目が光るのがいい。しかも、縦方向に振動を与えると、あの「フォッフォッフォッフォッ……」加藤淳ではない)というリアルな(?)笑い声が出る。
 いやあ、バルタン星人は、何度見ても惚れぼれするデザインだねえ。ハサミの開閉はできないけど、肩と肘が動きハサミが回るので、なかなかいいポーズがキマる。

valtan07valtan08 見よ、この雄姿!

valtan09 うしろ姿はちょっとまぬけ。

valtan10 「地球人に告ぐ。四十年かかってもわれわれの侵略がうまくゆかないのは、いつもじゃんけんに負けてしまうからなのだ。フォッフォッフォッフォッ……」

valtan11 食玩の小バルタンと。はい、チーズ。

valtan12 “オキテ破りの倍率”の図。食玩のウルトラマンを赤子のようにあしらう、われらがバルタン星人。

 おれ、今年の秋に四十四歳になります。ええ、長いつきあいですとも。初めてバルタン星人を観たのは、四歳のときだったんですからねえ。

 それにしても、目が光ってフォフォフォと笑うバルタン星人をいまこうして現実に手にしているなんて、夢のようだ。こんなの、タイムマシンで四十年前のおれに持っていってやったら、狂喜して小便をちびるだろうな。なんだかんだ言っても、やっぱりいまはもう二十一世紀なのだよなあ。ビルのあいだをエアカーが飛びまわってないだけで、進んでいるところはちゃんと進んでいるのだ。フォッフォッフォッフォッ……。



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2006年2月19日 (日)

死骸を食うこと

 いま、焼きうるめいわしを食いながら、いいちこのお湯割りを飲んでいる。おれの母なんぞは魚が嫌いで、とくに生きているときとほとんど同じ形をした魚は絶対に食べられない。そのくせ、エビやらカニやらは、どう見ても虫みたいなおどろおどろしい形をしているのに、平気でばりばり引き裂いて食う。好き嫌いというのは不可解なものである。

 そこで、ふと考えた。おれたちは基本的には、動植物を問わず、ほかの生きものの死骸や組織の一部を食っている。食わないと生きてゆけない。だが、いずれは食物をすべて