カテゴリー「文化・芸術」の34件の記事

2010年8月14日 (土)

京都買います?

 夏休みで天気もよかったので、ふと気まぐれに平等院へ行ってみる気になった。八月になってから『怪奇大作戦』を全話(もちろん、第24話は除く)観直し“おさらい”してみて、「京都買います」の映像美に改めて感嘆したので、近場のロケ地を訪れたくなったのかもしれない。ラストシーンの祇王寺とかへ行くのは、京都の南の端に住んでる者にとっては、けっこうたいへんだからね。休みに外に出てみようと思っただけでも、超出不精のおれにとってはきわめて珍しいことなのだ。

Byodoin01 京阪電車宇治駅から平等院までの道には、いろいろなお店がある。宇治だから、圧倒的にお茶屋さんが多いが。

Byodoin02 SFファンなら、なにやら妙に敬意を抱いてしまう名前のお茶屋さん。

Byodoin03 ここも通販で全国的にも人気。お茶を使ったお菓子がいろいろある。

Byodoin04 十円玉の“表”でおなじみ、平等院鳳凰堂。正面右から。

Byodoin05 屋根に付いてる鳳凰は、手塚治虫『火の鳥 〈鳳凰編〉』でおなじみ(そういう連想しかできんのか)。拝観料六百円には、敷地内の博物館「鳳翔館」への入館料も含まれているが、鳳凰堂の中に入るには別途三百円が必要(決まった時間に五十人ずつガイドに連れられて入る)。写真撮影禁止の「鳳翔館」の中には、鳳凰堂の屋根にある鳳凰のレプリカなどが展示されている。『火の鳥 〈鳳凰編〉』で茜丸が作る“駄作”の鬼瓦もある(笑)。

Byodoin06 『怪奇大作戦』の「京都買います」で、仏像を愛する女・美弥子斎藤チヤ子)が古びた木製のベンチに腰掛けて鳳凰堂を愛でているところに、SRIの牧史郎岸田森)が背後から歩み寄って声をかけるシーンと、ほぼ同じアングルから撮ってみたのだが、撮ってみて気づいたのは、「京都買います」のこのシーンは、かなり高いアングルから撮っているということだ。高いところから撮ると、美弥子と鳳凰堂のあいだに池がきれいに写るのである。おれの身長くらいの高さで撮ったのでは、このアングルでは池は写らない。また、美弥子がいる陸地の形も池の面積も、植木や柵の杭のありさまも、『怪奇大作戦』撮影当時とは変わっている。そもそも、ここにはベンチなどないのだが、これはまあ、撮影のために臨時に置いたとも考えられる。また、この写真の左に見切れている樹は「京都買います」の当該シーンにはないが、けっこうな古木だからこれは当時もあったろう。たぶん、ギリギリ樹が写らないようにこの写真よりもちょっと右に回りこんだところにカメラを置いたのだろう。

Byodoin07 ちょっとしたハプニング(?)。ほんものの鳥が、二羽の鳳凰のあいだに留まった。ぴったりど真ん中に留まっているということは、この鳥、鳳凰に気を遣っているのか? 面白い写真が撮れそうなので、おれもしぶとく待ち、シャッターチャンスを狙う。

Byodoin08 やっぱり、どう見てもこいつ、鳳凰を仲間だと思っているらしい。

Byodoin09 反対側にまわり込んでも、まだなにやら鳳凰に話しかけて(?)いる。「そんなに肩肘張るなや」とでも言っているのだろうか。

 おれは個人的にはべつに平等院がそれほど好きではない。近場だから、『怪奇大作戦』のロケ地だから、出かけてみただけた。十数年ぶりだろうか。平等院ってのは、なんかこう、なに不自由ない貴族が、死だけは誰にも平等に訪れるという厳然たる事実を不条理に感じて(おれはこんなに金持ちで、こんなに現世の権勢を誇っているのに!)、金にあかせて極楽浄土を模してみただけの意地汚い建築物のように見えてしかたがない(いやまあ、専門家の方々はいろいろご意見もあるのだろうが、おれは素人だから)。その意地汚さの中で、あの鳳凰だけは、なぜか人類共通の憧れの象徴のように、美しく、雄々しく翼を広げている。きっと、そうした人間の意地汚さと鳳凰の美しさの対比こそが、手塚治虫の創作意欲を刺激したのだろうなあなどと想像するのは楽しい。



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2009年12月31日 (木)

薄幸の階段

Ikedaya_2 昨日の朝、忘年会場の旅館を後にして、みなで喫茶店へ向かう途中、あの池田屋跡を通ったら、とても池田屋らしい居酒屋になっていた。あとで調べてみると、夏ごろに開店していたらしい。京都市民っつっても、おれはここいらへんは年に二、三度も通れば多いほうだからなあ。

 まあ、ここもケンタッキーフライドチキンになったりパチンコ屋になったり、お世辞にも“史跡”らしい扱いを受けてきたとは言い難かったが、ようやくそれっぽい外観の観光資源になったか。もっとも、よく考えるとどえらい史跡があちらこちらに公園の便所ほどの存在感もなく無造作に転がっているあたりが、逆に京都という土地の薄気味悪い奥深さでもあるので、史跡がショーアップされすぎるのもよしあしなんだけれどもね。



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2009年11月16日 (月)

逃げる夢をしばらく見ない

 イギリス人英会話講師の死体を遺棄して指名手配され、先ごろ捕まった市橋達也容疑者関連のニュースを多く目にするせいか、近ごろまたおれの中の不思議な感情を意識せざるを得なくなっている。もしかすると、おれに限ったことではなく、万人の中にある感情なのかもしれないが……。

 あのですね、あなた、“逃亡者願望”みたいなものないですか? “願望”というと語弊があるな。なんちゅうかその、自分はいつかどこかで逃亡者だったことがあり、そのときのことがなにか懐かしく思い出されるといった、自分の知らない過去だか未来だかの記憶だ。ときどき夢にも見たりする。自分がなぜ逃げているのか、追っているのは誰なのか、そういったことはまったくわからないのだが、とにかくそれは空想とかではなくて“記憶”だといった感じだ。もしかするとおれは、なにかとても悪いことをしでかして追われているのかもしれず、あるいは、おれひとりがまともなので、まともでない世間全体に追われているのかもしれない……そういう夢である。そんな夢を見たときは、けっして不快じゃなく、なにかとても懐かしい感じに触れたようで、癒される感じすらあるのだよな。どうです、そんな感じないすか?

 こういう“感じ”は、かなり普遍的なものなんじゃないかとすら、おれは思う。筒井康隆「走る取的」を初めて読んだときに、「ああ、おれ以外にもこういう“感じ”を持っている人がいたのだ」と驚愕すると同時に、心底怖くなった。話そのものが怖いというのではない(まあ、かなり怖いが)。あの話はむしろ“懐かしい”。“あの感じ”を余すところなく言語で表現し得ている生身の作家が同時代に実在することに怖くなったのだった。

 おれは最近こういう“自分が逃亡者である”という設定(?)の夢をしばらく見ていない。それがなんだかもの足りない感じすらする。自分が過去のいつかどこかで追われていた記憶、あるいは、未来のいつかどこかで必ず追われることになるといった確信のようなものは、おれの中に否定し難くずっとあって、折に触れてそれを“思い出す”ことで、おれは癒されたいと思っているのかもしれない。

 市橋はむろん卑劣な犯罪者であって、それを認める気などまったくないのだが、彼の二年七か月にも及ぶ逃亡生活に、なんだかわけのわからない“羨望”のようなものを感じたりしないだろうか? おれの中にはたしかにそういう感情があるのが、じっくり内省するとわかる。そしてそれは、おれだけが持っている不条理な感情なのではなく、あなたの中にもある、なにやら不可思議な過去あるいは未来の“おもいで”なのではないかという気がしてならないのである。

 むかし、はたまた、これから、なにものかに追われている自分が、おれはひどく懐かしい。

 そうそう、初めて「走る取的」を読んだとき――取的に駅の便所に追いつめられている“自分”を感じたとき、おれは、芥川龍之介「トロッコ」をなぜかとてもよく似た話として連想した。つまり、ああいう奇妙な“懐かしさ”のことを言っているのよ、おれは。うまく表現できないけどさ。誰しも、取的に追われたこと、暗くなってゆく線路の上をひとり必死で走ったことがあるはずなのだ。そして、これからもあるはずなのだ。



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2008年10月23日 (木)

とっくに常用してるよなあ

「におい」、「臭い」も「匂い」もOK 常用漢字追加案 (asahi.com)
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200810210352.html

 文化審議会国語分科会の漢字小委員会は21日、常用漢字表に追加する予定の字種191字の音訓を定める案と、現行の常用漢字の一部に音訓を追加する案を承認した。「臭(にお)い」と「匂(にお)い」、「怪しい」と「妖(あや)しい」、「恐れる」と「畏(おそ)れる」など、複数の漢字が同じ訓をもつ異字同訓の用法が新たに認められ、常用漢字の表現力が少しだけ豊かになりそうだ。
 追加される字種には、「切る」に対して「斬(き)る」、「張る」に対して「貼(は)る」、「捕らえる」に対して「捉(とら)える」、「当てる」「充てる」に対して「宛(あ)てる」、「跡」に対して「痕(あと)」、「歌」に対して「唄(うた)」などがある。
 追加される音訓では、「込む」に対して「混(こ)む」という訓を認め、「負けが込む」「電車が混む」のような使い分けができるようにする。ただし「込(混)み合う」「人込(混)み」はどちらも使える。ほかにも、「延べる」に対して「伸(の)べる」、「作る」「造る」に対して「創(つく)る」、「早まる」に対して「速(はや)まる」などがある。
 このほかに追加する訓読みには、日常生活などで使う機会が多い「育(はぐく)む」「応(こた)える」「関(かか)わる」がある。「私」には現在の「わたくし」という訓に「わたし」が追加される。「要」も「かなめ」と読めるようになる。
 文化審議会は05年、文部科学相から「情報化時代に対応する漢字政策のあり方」を諮問され、常用漢字表の改定に取り組んでいる。漢字小委員会は次回から追加字種の字体の検討作業に入る。09年2月までに新常用漢字表(仮称)の試案を作り、文化庁のホームページなどで意見を募る。内閣が新常用漢字表を告示するのは10年秋の予定。(編集委員・白石明彦)

 この手のニュースが出るたびいつも思うんだが、こんなの気にして文章書いてる人がどのくらいいるもんなんだろうね? たぶん公務員が公式文書を作成したりする際には気にせにゃならんのかもしれんが、おれは民間でしか働いたことがないからわからない。「育む」「はぐくむ」と読むことが“常用”として認められますなどと、いまさら言われてもねえ。

 まあ、たしかになんらかの標準がないとむちゃくちゃになるやもしれんという危惧もわからんではない。「安倍福田す」などと書かれて、「なんだ、“なげだす”も読めないのか!?」と怒られても困るしな。だとしても、いわゆる常用漢字というのは、中途半端すぎやしないか? ほとんどの人が高校へ行き、受け入れのキャパシティーだけを考えるなら大学にだって全入できようという時代だ。おまけに、テレビはある雑誌は山ほどあるケータイでメールが送れるDVDは原語と日本語で字幕が出せるウェブでは誰もが情報発信しているという時代に、常用漢字はあまりにスカスカではあるまいか。

 九年以上前に、「ら致」やら「だ捕」やらがわかりにくいとこの日記でぼやいたものだけれど、公のメディアは、「誰にでも読めるように書かねばならない」という強迫観念に囚われすぎではあるまいか。「日本人だったらこれくらい読めるようになれ」と開き直ればいいのに。そりゃまあ、わざわざ態ととか恣にするとか(読めない人は、読めないところにカーソルを合わせてください)、その手の漢字検定みたいなやつをことさら“いちびって”使うこともないけれども、「要」なんてのが読めないいい大人がたまたまいて、そいつが「新聞のくせにけしからん」などとねじこんで来たとしても、そんなの無視すればよろしい。しつこいようなら、予め秘密兵器としてもらっておいた要潤のサインでもプレゼントして撃退すればよろしい。

 なぜか一部のお役人には、「義務教育で与える情報量は、少なければ少ないほど軽い負担で覚えられるにちがいない」という奇妙奇天烈な信仰(?)があるとしか思えない。そんなことねえよなあ。まったく意味のない数列や文字列をひたすら覚えるんじゃあるまいし、言葉や事柄を覚えるのなら、それに関連した情報ごと覚えるほうが絶対覚えやすいだろう。「ら致」のほうが「拉致」より覚えやすい、画数が少ないから――なんてケッタイな人いるか? 「拉」だけを、いつどこで覚えるんだよ? 盾と矛を売ってる商人の話などされては情報量が多すぎて覚えるのに負担になるから、「矛盾」という文字だけをただただ教えてくれたほうが覚えやすい――なんてケッタイな人いるか? 「四面楚歌」なんて文字をただただ見せられて、「これは“しめんそか”と読み、敵に囲まれているさまを言う表現です」などと教わって覚えられるか?

 子供たちよ、若者よ、常用漢字なんて気にするな。本をたくさん読んで、自分の好きな作家の文字遣いを真似したり、「あ、これカッコいいな」「あ、これ合理的だな」「あ、これ“感じ”出てるな」「あ、これなんか好きだな」というのを取り入れてゆくうちに、“自分の字面”というのができてくるはずだ。たまにキミが使った漢字が読めないような人がいて「学のある人は難しい字ぃ使わはりますなあ」などと厭味を言われたとしても、「あれ? そうですか読みにくいですかそうですかあ?」とニコニコ笑いながらも不思議でたまらないといったようすでひらかなに直し、場合によっては、屏風の文字も読めないふりをし(そこいらへんにあまり屏風はないけど)、「一」という漢字すら書けないふりをして世渡りをするがよろし。なにしろ昨今は、漢字なんてものは読めなければ読めないほど人気者になれるみたいだぞ。



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2008年10月11日 (土)

萌系繪師

萌え系第2弾は「花嫁焼酎」 秋田・羽後で限定販売 (asahi.com)
http://www.asahi.com/shopping/news/TKY200810090341.html

 萌(も)え系と呼ばれる美女のイラストをラベルに使った焼酎「花嫁道中」を秋田県羽後町の4酒店が売り出した。
 町の新郎新婦が馬そりで峠を越える冬の行事「花嫁道中」にちなんだ。6月、街おこしの一環で作ったポスターにこのデザインがあり、湯沢市の両関酒造の焼酎でラベルに生かすことにした。「五年蔵」を年間千本限定で「花嫁道中」として製品化した。
 同町ではJAうごが、同じ作者のイラストを米袋に使った「あきたこまち」を販売し人気になっている。
 発売元代表の菅原弘助さん(58)は「お客さんが大型店や安売り店に流れ、個人酒店は苦戦している。何かしないといけないと挑戦した」と話している。問い合わせは菅原酒店(0183・67・2111)へ。

 例の“萌え系米袋”のあきたこまちに続く第二弾。安易と言われようとなんと言われようと、そこに需要があるのであるから、中小零細企業ならではの知恵を絞る姿勢には頭が下がる。た、たしかに、こういうラベルが付いてるとうまそうではあるよな。またこの「花嫁道中」というネーミングが、いたいけな少女が今夜どういうことになってどういう目覚めを迎えるのかとかいった、そこはかとない和のエロスを喚起せずにはおかない。うまいねえ。

 それにしても驚いたのは、このニュース、台湾の媒体でもいち早く報道されているのだった。

米袋後換酒類 萌系繪師 西又葵為「燒酎 花嫁道中」繪製形象美少女 (巴哈姆特電玩資訊站)
http://gnn.gamer.com.tw/2/32822.html

  前不久才剛為日本秋田縣農產品系列繪製形象角色的知名萌系繪師 西又葵,本次再度為當地的「燒酎 花嫁道中」繪製全新美少女角色。
  以《SHUFFLE!》、《甜蜜偶像》等遊戲原畫及人物設定廣為知名的的美少女遊戲繪師「西又葵」,日前為日本秋田縣羽後町的農產品「秋田小町(あきたこまち)稻米」以及草苺繪製了兩位可愛的女生角色。
  而秋田小町的稻米新包裝開始發售後,隨即銷售一空,並暫時緊急停止接受訂貨。也有相關業者表示,這次的消費客群和以往大大的不同,也令人感受到西又葵的魅力。
  本次的產品「本格燒酎・五年藏 花嫁道中」執行長為當地販售該產品的「菅原酒店」老闆,酒本身則是由「兩關酒造」負責製造。
  此外,西又葵本人除了在自己的網誌上宣傳近日為秋田縣產品所繪製的圖像之外,也透露有個大計畫將在本月月底正式公開。

 えーと、なに言ってんだかおれにはさっぱりわからないのだが、字面からはそこはかとなくわからないでもないところがまたなんちゅうか、絶妙にいやらしい。『萌系繪師 西又葵為「燒酎 花嫁道中」繪製形象美少女』ねえ。台湾の中国語でも、やっぱり「萌系」というのか。「萌系繪師」って字面がすごいよな。「形象美少女」って字面もなんかこう、本質を突いておるよなあ。

 「萌系繪師」ってのがあるのなら、たぶん「科幻系繪師」ってのも、筆談すれば通じるのだろう。どう発音するのか、おれにはわかんないけどさ。「科幻系繪師 長谷川正治とかね。



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2008年9月 8日 (月)

「あなたとはちがうんです」って、どう英訳します?

 今年の流行語大賞候補に早くも挙がっている、福田首相の「あなたとはちがうんです」であるが、これ、どう英訳されているのか、ちょっと興味が湧いて、ニュースサイトやブログを調べてみた。いくつか、例を挙げよう。

  I can see myself objectively, as opposed to you. (telegraph.co.uk

  I can see myself through an objective perspective. I am different from you. (Asia Times Online

  I am able to view myself objectively and that is my strength. (Business Week

  I am able to look at myself in an objective manner. I am different from you in that respect.  (Asian Gazette

  I can see myself objectively. I'm not like you. (Reuters > Yahoo! News

 面白いのは、アジア系の媒体では、福田首相の「ちがう」という言葉を、different と訳しがちなことである。欧米的な indivisualism が無意識にでもベースにあると、AさんとBさんとが different であるのはあたりまえのことであって、different では「おれはおまえより上等な人間なのだ」という倣岸なニュアンスが出ない。しかし、英語を外国語として学習したアジア人が読むと、たしかに福田さんの言いたいことは different でわからんでもない。おれはアジアのほかの国の言葉をよく知らないが、他と“異なる”ということに、個別には積極的な価値を見い出さないとか、そこに階層的な差異を見い出してしまうとかいったものの感じかたがベースにあるあたり、同じアジア人だなあと思う。アジア人にとっては、同一階層にある者同士が different であることは悪いことであり、different であることを誇示してもよい対象は異なる階層(とくに下の階層)にある者なのだろうな。

 その点、欧米系の媒体では、さすがに different という言葉は使っていない(まあ、時間かけて調べれば使ってるところもあるやもしれんけどな)。日本語を外国語として学習した英語ネイティブには、福田さんの言わんとするところを英語で表現するには、different ではないよなあという思いが働くのだろう。“I'm not like you”というのは、じつにうまい。そうだよね、これが福田さんの言う「あなたとはちがうんです」のニュアンスを最も正確に伝えているだろう。やはり、あたりまえかもしれんが、英語としていちばんこなれているのはロイターだろうと思うね。日本語と日本文化について深い知識と理解があるからこそ、このようなキレのよい訳ができるのだ。

 Business Week の“and that is my strength”ってのも力作だと思うが、これは文字で読むと、福田さんがこの言葉に乗せた厭味なニュアンスがうまく伝わらない。音声通訳だったら“my”を強調して読むことで正確なニュアンスを伝えることができるだろうし、そうするのなら、これが最高傑作じゃないかな。文字にするなら、“and that is MY strength”と、大文字にするくらいの工夫は欲しいな。

 中学校や高校の英語の先生に於かれては、福田さんのこの「あなたとはちがうんです」を生徒に英訳させてみて、言語と文化について考えさせてみるなんて授業を試みてご覧になるのはいかがだろう?


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2008年6月25日 (水)

旅の恥は書き捨て?

イタリアの大聖堂に落書き 岐阜の短大生、名前や校名 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/TKY200806240365.html

 岐阜市立女子短大の学生6人が、世界遺産登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に落書きをしたとして、大学から厳重注意処分を受けた。見晴らし台にある大理石の壁に、黒油性ペンで全員の名前と日付、ハートマーク、大学の略称「岐女短」と書き添えていたことで発覚した。
 大学側が24日、発表した。6人は2月、学生36人でイタリアに研修旅行をした際に大聖堂を訪問。3月に現地を訪れた日本人からA4判ほどの広さに書かれた落書きを撮った写真が大学側に届いた。
 大学側によると、大聖堂には各国の言葉で多くの落書きがあり、6人は「高揚してしまった」と反省しているという。大聖堂側に英語で書いた謝罪文を送って許しを請い、大学も謝罪したところ、「修復の費用負担は不要」との返事があったという。

 「修復の費用負担は不要」というのは、たぶん「バカにはこれ以上できるだけ関わりあいになりたくない」という意味のイタリア語なのだろう。

 それにしても、自分らの名前と大学名までご丁寧に書くという、あまりにぶっとんだ悪気のなさが、かえってしみじみと不気味である。「イタリアに研修旅行」とあるが、いったい行く前になにを教えておるのやら。

 慈悲深い大聖堂さん側が呆れかえってくれるだけだったからまだよかったものの、あんたら、落書きする場所と内容をちょっとまちがえたら、サルマン・ラシュディ並みの目に会わんともかぎらんぞ。

 この時代、本で読み、ビデオで観りゃすむところを、わざわざ現地まで行くという研修の意味はだな、つまるところ、端的に、ひとことで言えば、「外国は日本とはちがうのだ」ということを学びにゆくわけだろう? いやまあ、日本でだってこんなことはやっちゃいかんのは当然だが、なにも高い旅費を払って、海外にまで恥をさらしに行かんでよろしい。「岐女短」てあのなあ……。そういうときは、せめて“Gijotan was here.”とでも書くくらいのユーモアがないか。いや、もちろんそれだって書いちゃいかんぞ。ちゃんと言っとかんと、洒落というものがわからんやつがおるからな。

 大学もえらい迷惑やな。まあ、どこかの精肉会社の社長みたいに、「大学は知らん。学生が勝手にやった」などと言わず、ちゃんと大学からも謝罪するのは、あたりまえのこととはいえ、このご時世、珍しくまともな尻拭いだとは思う。欲を言えば、その六人を大学の費用でもう一度大聖堂に行かせ、修道衣に身を包み雪の中で(雪が降るまで待て!)幾晩も立ち尽くして許しを請わせるくらいのことをすれば、いろいろな意味で教育にもなっていいと思う。



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2008年4月10日 (木)

くいだおれ、ついに倒れる

「くいだおれ」閉店、消える「ナニワの顔」 惜しむ声 (asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804080095.html

 戦後の大阪・道頓堀と歩みをともにしてきた「ナニワの顔」が消える。7月に閉店することが明らかになった飲食店「くいだおれ」。若者の街に変わりゆく道頓堀で創業者の教えを守り、大阪の味やユーモアにこだわり続けてきた。時代の波に押されて姿を消すことに、道頓堀の活性化をめざす地元や観光客らに惜しむ声が広がった。

くいだおれ:名物人形「太郎」売却も 7月に閉店 (毎日.jp)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080410k0000m040086000c.html

「名前と太郎を引き継いで…」売却検討 くいだおれ会見 (asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200804090100.html

 そうか、関西人として寂しいなあ。思えば、おれはくいだおれ人形の前まで行って写真を撮ったことやら、あちこちぺたぺたといじくりまわしたことはあっても、あの店で飯を食ったことは一度もなかったなあ。こんなやつがたくさんいるから、このような事態に至ったのだろう。まことに申しわけない。

 チャールトン・ヘストンの訃報を聞いたばかりのときに、くいだおれ閉店のニュースが入ってくるとは……。なんか、おれの頭の中では、この奇妙なシンクロ加減が無性にもの悲しい。え? チャールトン・へストンとくいだおれになんの関係があるのかって? それは、おれが1997年10月24日に書いた日記をご参照いただきたい。

 せめて人形だけは、どこかが生き延びさせてほしいものだなあ。



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2008年3月17日 (月)

羽野晶紀と泰葉の復帰

 最近、羽野晶紀泰葉が猛然とテレビに出はじめていて、なにやらおれには一九八〇年代にタイムスリップしたように感じられ、不思議な感慨を覚えている。日曜日も、ふたりともテレビで観た。いや、おれはどちらも好きなんだよ。『現代用語の基礎体力』とかも楽しみにしてたし、泰葉がシュガー(おれはシュガーも好きなんだ)とやってた歌謡番組(もう、タイトル忘れたなあ)なんかも毎週欠かさず観てた。大学生のころだっけなあ。

 だいたい、こういう才能ある人たちが家に閉じこもっているなんて、もったいないじゃないですか。片や狂言、片や落語と、伝統芸能の家庭にいったんは嫁いだ彼女らが、奇しくもほぼ時期を同じくして再び自分のキャリアを歩みはじめたのは、なかなか面白い偶然だと思う。

 結局、伝統芸能というのは女性の我慢の上に成り立っているのかなどと陰口を叩かれないよう、独身の狂言師や落語家にもばりばり活躍してもらいたいものだ、なあ、春風亭昇太。



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2008年1月 5日 (土)

雄と雌の勝敗

 「雌雄を決する」というのは、よく考えてみるとケッタイな言葉である。いわゆる“政治的に正しくない”表現だろうと一瞬思うのだが、よくよく考えてみると、雄が勝ったほうで雌が負けたほうだと明言しているわけではないのである。つまり、男が使うときには腹の中で「勝ったほうが雄だ」と思っていていいのだし、女が使うときには「勝ったほうが雌だ」と思っていていっこうにかまわないのである。

  「いよいよおまえと雌雄を決するときだな」
  「そうね、雌雄を決するときね」
  「わはははははは」
  「あはははははは」

 などという会話が、お互いに都合よくちゃんと成り立ち得る。「雄飛」とか「雌伏」とかいう言葉は政治的に正しくないかもしれないが、「雌雄を決する」に関しては、いずれかの優劣を明言していないだけにビミョーなところがあるよな。

 いまのところ、たぶん、雄が勝ったほうを指すと思っている人が多いだろうとは思うが、なにしろ雌のほうを先に言っているわけだから、この先、「雌雄を決する」と言えば、当然「勝ったほうが雌だ」と大多数の人が思うようになる社会がやってくる可能性はある。いわゆる“国語力”が低下すればするほど、そうなる可能性は高い。まあ、そんな国語力は低下してしまえと思わないでもない。言葉狩りみたいなことが進み、表現そのものが抹殺されて言葉が貧しくなってゆくのはいただけないが、表現が残ってその意味が変わってしまうというのは、なかなか愉快ではないかなと思うね。よく言われる「犬も歩けば棒に当たる」とか「転石苔むさず」とか、ああいう表現の仲間にそのうち「雌雄を決する」も入るかもしれない。まあ、「情けは人の為ならず」みたいなのは、元々の意味のほうがおれは好きだけどねえ。つまるところ、多数決だからね。なんか寂しい気もするが。



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