呆れるほどわかりたいもんだなあ
夏休みを目前にして、予備校やら家庭教師派遣会社やらのテレビCMが増えてきたが、東進ハイスクールの先生が「でも、絶対わからせますから。ホントに、呆れるほどわかるほどわからせますから」と宣言するCMには、大爆笑してしまった。
いや、べつにおれはこの先生を揶揄しているのではない。むしろ、予備校の先生としては、きわめて正しい態度だと思う。大人がこういうのを見ると、言葉の綾というものだと話半分に捉えてあたりまえだが、不安でいっぱいの自信もない受験生にとっては、とても頼もしい先生に見えるだろう。「これだけ大口を叩くからには、わからせる自信があるにちがいない。“嘘つき”と言われるかもしれないリスクをこの先生も負いながら大口を叩いている。これだけコミットしてくれるのなら、おれも死にもの狂いでついていってみようか」と思う生徒もいるだろう。医者が不安そうにしていると患者も不安になるわけで、“病気を治す・克服する”という明確な目標を前にした場合、やはり、医者は(本音では不安でも)自信たっぷりな態度を演じなくてはならない。演じることが、プラグマティックに患者のためになる。
してみると、医者と予備校の講師というのは、とてもよく似ている。実際に病気と闘うのは患者だし、実際に入試を受けるのは生徒なのであって、医者や講師はどれだけ親身になってくれようが、しょせん当事者になることはできない“サポートの専門家”なのである。生きる気がない患者や勉強する気がない生徒を助けろといっても、それは無理な話だ。ブラック・ジャックだってそんなことはやっとられん(まあ、彼はお人よしだと自嘲しつつも、患者を生きる気にさせるところまでしばしばサポートしてしまうわけだが……)。
で、おれがなぜ爆笑したのかというと、「呆れるほどわからせる」というフレーズが、滑稽さと真剣さがないまぜになった、じつに秀逸なコピーだったからだ。ふつう、「わかる」という動詞を修飾する言葉としてはまず使わないよな、これは。「昨夜焼きいもを腹いっぱい食ったら、呆れるほど屁が出る」みたいなことは、ふつうに言いますけどねえ。なにかが「呆れるほどわかる」状態などというものがもしあるのだとすれば、それはぜひ一度は体験してみたいものだという気になるじゃないか。
もちろん、おれは生まれてこのかた、いまだかつて一度も、なにかが呆れるほどわかったことなどない。これからも、たぶん死ぬまで一度もないだろう。そもそも、自分が多少は詳しいことであっても、なにかを知れば知るほど、わからないことが増えてゆくのがふつうである。なにかが“わかる”と、それまでは“わからないということさえわからなかった”ことが、ようやく“わからない”という領域に新たに浮かび上がってくる。知識が増えると、増えたぶんよりはるかに多く、未知が増える。つまるところ、わからないことが増えるということこそが、なにかがわかるということなのだとすら、おれはこの歳になってようやくしみじみ思っている。まあ、そんなこたあ、そこそこ生きてきた大人ならみんな思っているだろうし、この先生だって百も承知なのだ。そこをあえて「呆れるほどわからせる」と演じてみせるこの先生には、たしかにプロとしての気概を感じる。
それこそ孔子じゃないが、森羅万象の真理が朝に「呆れるほど」わかったら、おれもべつにその夕方に死んだってかまわない。もっとも、呆れるほどわかってみると、「これをぜひ人にもわからせたい」という新たな欲が出てくるものなのかもしれんが……。
「そ、そうか……。つまり、“42”だったのか!」
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