すべての本を電子書籍で読むというところまでは、まだ環境は整っていないし、紙の本を読まなくなるのは寂しいのだけれども、amazon と Kindle のおかげで、少なくとも洋書・洋雑誌・洋新聞に関しては、ほとんど電子媒体で読めるようにはなった。
Kindle で買った本(まあ、最近だと、スティーブ・ジョブズの伝記とかだ)を、おれは Kindle 端末が使えるほどに空間的余裕がある場所では、Kindle 端末で読む。電子インクのディスプレイは画面そのものが光らないので、長時間の読書でも老眼に負担をかけない。だが、満員電車などで、Kindle でさえ持ちにくい、あるいは、鞄の中から取り出しにくい条件下であれば、おれは同じ本を Android 端末(GALAXY S)で読む。Kindle for Android がインストールしてあるから、Kindle 端末でどこまで読んだかはちゃんとシンクロされていて、なんの面倒もなく、スマートフォンで続きが読める。
帰宅して、パソコンを立ち上げ、そうだそうだ本の続きを読もう――というときには、パソコンにインストールしてある Kindle for PC を立ち上げると、最後に使った端末が Kindle であろうが、Android 端末であろうが、すんなりと続きのページが出てくる。要するに、一度 Kindle で買った本は、プラットフォームがなんであろうが、同じものをいつでも、どこからでも呼び出せるわけだ。これはまあ、たまにしかやらないが、Kindle for PC の画面をHDMI経由でテレビに出力して、寝る前にベッドの枕元にあるテレビで本を読むことすらある。ワイヤレスマウスの電波が届く距離にパソコンがあれば問題ない。
こういう本の読みかたに徐々に慣れてくると、ああ、これはなにかに似ているなあと誰もが思うはずである。そう、イタコである。本の中身は霊界にいて、老婆のイタコだろうが、中年女性のイタコだろうが、若い女性のイタコだろうが、少女のイタコだろうが、その時々に都合のよいイタコが身近にいてくれれば、いつでも本を呼び出せるわけだ。
おそらく、おれの生きているあいだに、こうした“イタコ読書”は、完全に一般的なものになるだろう。ふらりと入った喫茶店のテーブルがディスプレイになっていて、指紋とかICカードとかでちょちょいと認証すれば、今朝、電車の中でスマートフォンで読んでいた本の続きが即座に表示されるようになるのだろう。風呂の中で、備え付けの防水端末にちょちょいと音声で命じれば、昼間喫茶店で読んだ本の続きを、音声で読み上げてくれるようになるのだろう。
つまり、クラウドという霊界にいる“あなたが読んでいる本”は、あなたのまわりにあるさまざまな“イタコ”端末に、自在に呼び出せるようになるだろう。レシピ本ばかりではなく、小説やマンガに出てきたレシピですら、簡単に冷蔵庫や電子レンジのディスプレイに呼び出せるようになるだろう。
「電子書籍がどうとか言ってるけど、いまひとつメリットを感じないなあ。紙のほうが読みやすいよ」とおっしゃる方は、もしかしたら、たったひとつのプラットフォームで電子書籍を読んでらっしゃるのではなかろうか。だとしたら、紙とたいして変わらない読書体験しか得られないと思う。おれの言う“イタコ読書”が体験できるようなハードとソフトとサービスとの組み合わせを選んで、試してみていただきたい。電子書籍による読書体験の本質は、端末の機能やソフトの使い勝手などにあるのではない。“イタコ読書”という、人類がかつて味わったことのない読書体験にこそあるのだと、実感なさることと思う。
そして、その“イタコ読書”こそが二十一世紀のあたりまえの読書体験になるであろうと見抜いており、その環境をこそ構築しようとしているのが、amazon にほかならないのだ。“テキストを読む喜び”と、“書物という工芸品を所有する喜び”とは、もはや分けて考えなくてはならない。
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