カテゴリー「スポーツ」の34件の記事

2012年7月 2日 (月)

〈週刊文春〉の話題で持ちきり

「あ、そうそう、〈週刊文春〉読んだ?」

「読んだ読んだ。まったく、あれはひどいなあ」

「ああ、あれか、おれも読んだよ。ちょっと叩きすぎだよね」

「むかしの話なのにねー」

「一度は好きになった相手だろうに。あの言いぐさはないわ」

「でも、ゆきずりの関係だったんだろ?」

「いや、しばらくつきあってたそうだよ」

「いやいや、すごく長いつきあいだろう」

「あの手紙、ホンモノなのかなあ?」

「手紙? メールだろ」

「なんであんなに叩かれるんだろう。そりゃまあ、それほど美形じゃないにしても、よく見ると愛嬌があるんだけどなあ。おれは好きだよ、美脚だし」

「愛嬌あるかあ? ガマガエルみたいで怖いけどなあ。美脚なのか、あの人??」

「誰が見ても、きりっとした美形だと思うけどなあ。たしかに脚はまだまだ逞しいし、尻なんかきゅっと上がってて、さすが鍛えた感じだよね」

「よく一億なんてポンと出せたなあ」

「え? 四億じゃなかったっけ?」

「おれは二十五万って聞いたけど」

「博多に移籍しちゃうんだろ? ほら、若田部のとこ。ちょっとかわいそうだなあ」

「ええっ、ホークスから声がかかってたのか? 若田部はもう現役じゃないだろ」

「おれは離党するって聞いたけどなあ」

「でもまあ、なんだかんだ言っても、ヘタレでもがんばってるとこがいいよね」

「そうだな、ヘタレだけどがんばってるな」

「たしかに、あのヘタレでもなんとかなってると思うと、気が楽になるな」



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2010年11月30日 (火)

Missing K's

Ado

 こ、これは……。シアトル・マリナーズのファンの仕業にちがいない。きっと K が足らなくなって、最近はイチローの祖国にまで取りにくるようになったんだろう。ヘルナンデスはそんなにがんばっているのかー。

 


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2010年2月13日 (土)

聖火は人をふり返らせる

 バンクーバーオリンピックがはじまった。おれは、見ているぶんには、どっちかと言うと冬季オリンピックのほうが好きだ。なんとなくセンチになる。それはおそらく、ある程度もののわかるようになったちびまる子ちゃん前後の年齢で、札幌オリンピックで盛り上がった日本を体験したからだろうと思う。なにもかもが右肩上がりで、これからどんどん未来が拓けてゆくのだぞといった空気がそこかしこに漲っていた。『虹と雪のバラード』という名曲の存在も大きい。いまだに冬季オリンピックを迎えるたび、反射的にこの曲が頭の中に流れ出す。

 ああ、七十年代はよかったなあと爺いめいたことを言うつもりはない。あのころの、なんであれ、放っておいてもとにかく“成長”してゆくのがあたりまえなのだといった空気が、いま思えば、微笑ましいほどにナイーブだったのだろう。そりゃ無理もない。戦争が終わってから、まだ二十七年しか経っていなかったのだ。あのころのほうが、むしろ異常、と言って語弊があれば、特殊だったのだ。

 「あのころの元気に比べて、いまの日本の体たらくは……」などと、むかしと比べてどうこう言うようになったら、それは老化のはじまりである。なんだかんだあっても、やっぱり三十八年のあいだに、日本は、じわじわじわじわと少しずつでも、試行錯誤をしながら変化してきたではないか。あのころに戻りたいかと問われれば、おれはまっぴらごめんである。あのころは、大人たちがみんな同じほうを向いていて、元気だけど窮屈だったろうと思う。おれは、ほんとうに戦後が終わったのは去年だと思っている。

 いま札幌オリンピックの映像を観ると、現代の選手たちの技術に慣れた目には、とても見劣りがする(むろん、当時は最高水準だったのだ)。三十八年というのは、けっこうな時間だ。その時間で、これほど明白に進歩しているものがたしかにあるというのを目の当たりにすると、人間というものに対する“長期的”な希望のようなものが、吹雪の向こうにほの見える。もちろん、選手たちの身体能力や技巧を支える科学技術の発達によるところも大きいだろうが、四十年あれば、人間が“身体”を使う能力ですら、全体的に底が上がってゆくという事実は、素朴に驚異的である。

 まだまだ日本人にも、人類にも、頭脳にであれ身体にであれ、抑圧されていたり開発されていなかったりする潜在力が眠っているにちがいない。そんな“すでに持っている”能力の発現を阻害している要因を、ひとつひとつ、根気よく叩き潰してゆくことが、個々のちっぽけですばらしい人間にできること、やるべきことなのだろう。




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2009年8月18日 (火)

♪きらめく風が走る ギンバエが焦げる

 以前ご紹介した「電撃殺虫ラケット」、八月に入ってから大活躍である。とくにうっとうしい小バエに有効だ。

 通常のハエ叩きでは、飛んでいるショウジョウバエなどに空中でジャストミートすることは難しい。新聞紙を丸めたやつでもダメである。軽すぎる敵は、ハエ叩きや新聞紙のまわりに回り込むような空気の渦に乗り、あたかも大リーグボール一号のように打撃をかわしてしまう。ふわふわ浮かんでいる綿埃を手で摑もうとすると、ひょいと逃げられてしまうような感じだ。

 その点、この電撃殺虫ラケットは、空力的にも優れた設計だ。振っても、敵を逃がすような風が起きない。むしろ敵はラケットの金網に自分から飛び込んでくるくらいだ。小バエを一日に六匹葬ったのが、目下の最高記録である。小バエなんて、目で追い切れないから、「ここいらへんにおるな」というあたりでびゅんびゅん振りまわしていると、たまたまバチッとヒットしたりする。これは愉快。

 たまに迷い込んでくるでかいギンバエとなると、こちらも腰を据えてかかる。虚々実々の駆け引きが繰り広げられる。でかい獲物を仕留めると、いかにも「勝った」という感じで痛快だ。

 驚いたのは、でかいギンバエの中には、この数千ボルト以上の電撃を食らっても即死しないやつがいるってことだ。あきらかにラケットの通電網に触れ、バチッと青白い火花が飛んだというのに、そのままなにごともなかったかのように飛んで逃げたやつが一匹いた。敵ながらあっぱれである。すごいやつだ。おそらく、羽の先端が通電網に触れたが、本体にはさほどのダメージがなかったのだろう。してみると、ハエの羽ってやつは、さほど導電性が高くないのかもしれない。水分が少なそうだからな。

 もちろん、そのすごいハエは二撃めで仕留めた。おれにも学習能力がある。ラケットフェースを垂直に立ててスイングすると、ハエが運よく通電網をくぐり抜ける可能性が高くなる。羽の先端にチップしても、次の瞬間にはラケットは振り抜かれてしまっているということになりかねない。そこでおれは、グリップをコンチネンタル気味にし、ラケットフェースをやや伏せて、ボール、じゃない、ハエが斜めにフェースに当たるよう、ライジングショットの要領で斜め下から振り上げた。こうすれば、ハエは三層の金網に捉えられやすくなり、充分に長い時間電撃を受けることになろう。垂直に当てるのに比べて、ほんのわずかな時間差かもしれないが、それがハエの生死を分けるのだ。

 大学の授業でほんの少し教わったオーストラリアンテニスが、こんなところで役に立とうとはな。



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2009年4月 4日 (土)

命あっての物種だね

松村邦洋さん退院、「マラソン、やせたら再挑戦」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/showbiz/news_entertainment/TKY200904030264.html

 今年3月の東京マラソンの出場中に倒れ、一時は心肺停止状態になったタレントの松村邦洋さん(41)が3日退院し、都内で会見を開いた。後遺症もなく、近く仕事に復帰するという。心筋梗塞(こうそく)と診断されたことを明かし、「芸能界の寿命より本当の寿命が大事」と語りながら、体重を落とすことを誓った。
 松村さんの体重は約100キロ。「マラソンはしたいが、皆に迷惑をかけた。65~70キロになったら再挑戦を考えたい」と語っている。

 いやあ、いいんじゃないの。「芸能界の寿命より本当の寿命が大事」ってのは名言ですなあ。明石家さんま「生きてるだけで丸儲け」と言っている。さんまの名言は、おれの座右の銘でもある。そうだよ、べつにおれは、“デブキャラ”としての松村が好きなわけじゃない。松村ほどの藝があれば、デブだろうがヤセだろうがやってゆけると思うよ。

 それにしても、65~70キロとは大きく出たな。おれがいま60~61キロなんだぜ。おれの人生最高記録が70キロだ。そこまで落とした松村の姿は想像もできないが、案外イケメンだったりしてな。わからんぞ~。彦麻呂だって、かつてはイケメンアイドルだったわけだからな。“逆彦麻呂”を狙うのも、マーケティング的にはアリかもしれん。



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2009年3月26日 (木)

♪あっと、ひっとり~

 WBCで日本が二連覇したもんだから、昨日からテレビはどこを観てもWBC関係の報道で埋め尽くされている。まあ、野球に疎いおれでもめでたいことだとは思うし、多少なりとも景気浮揚効果があればいいなあと思う。

 で、WBCを嘗めまわすように回想している報道に、飲食店やらでテレビを観ている人々が、九回裏に「あとひとり!」コールをやっているシーンがあった。おれはあれを観て、ものすごく違和感を覚えたのよな。みんな、

「あ、ひりー! あ、ひりー!」

 と叫んでいる。これがおれには気色悪い。たぶん、関東で撮ってるんだろう。関西の場合、これは絶対にちがう。そもそも関西の場合、あれはコールではない。である。おれの子供のころは少なくともそうだった。草野球ですらそうだった。

♪あっと、っとり~♪あっと、っとり~

 と、みんなで唄うものではないのか、これは? 関西人(とくに、大阪人)が数を数えるときには、ひとりでにフシがついてしまうという現象をバラエティー番組などが面白おかしく取り上げていたりするが、アレと同じだ。「♪あっと、ひっとり~」も、むかしからそうなのだ。

 もしかしたら、最近はちがうのだろうかと YouTube を探してみて愕然とした。なんと、阪神タイガースのファンまでもが、関東風の発音をしているのだ。唄っていない。なんたることだ!

 阪神ファンまでもが関東の影響を受けてしまっているのかなあ。な、嘆かわしい。こ、これは絶対、

♪あっと、っとり~♪あっと、っとり~

 と、唄わなくてはならない。なあ、そうだろう、年配の関西人たちよ?



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2009年3月24日 (火)

♪AEDを持ってても、それだけじゃ困ります

松村邦洋のマラソン心肺停止 体重100キロは走れる体か (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/03/23038092.html

東京マラソンで一時心肺停止状態になったお笑いタレントの松村邦洋さん(41)。デブキャラで知られ、かねてより参加を危惧する声が出ていた。やはりチャレンジは無謀だったのだろうか。

(中略)

太田プロの担当マネージャーによると、プロフィールとは違って、松村さんは、マラソントレーニングをしているここ2年は体重100キロ台をキープ。東京マラソンの22日は、102キロ弱だったという。

 まあ、なんちゅうか、この人は仕事を断れんタイプなんじゃないかと思うよねえ。律儀っちゃ律儀な人なんだろう。でもなあ、四十も超えて、誰がどう見たって立派な“電波中年”なんだから、むちゃはいかんよ。本人も自分の体力を過信していたのかもしれんが、むちゃを容認する周囲も周囲だ。事務所にしてみれば、大事な商品なんだろう? それに、松村邦洋は、たいした藝もなく身体を張るだけのにぎやかし芸人とはちがう。余人を以て代え難い藝をちゃんと持っている。事務所はもっと商品を大事にせにゃ。「ここ2年は体重100キロ台をキープ」って書きかたがまた、狙ってますな、この記事。まあ、事実としてそうなんだったら、そりゃキープはキープだが、ふつうの人はそういうのを“キープ”などとは表現せんわい。おれなら、小柄な女性を背負って走ってるようなもんだ。

 多くのメディアが、「心肺停止したが、命に別状はない」などとシレっと書いてるけど、おいおい、AEDで蘇生させにゃならんかったなんてのは、どえらいことだぜ。関西人には、ちょっと面白くない人が多いことだろう。「ウチの大事な探偵になにをさせるか!」という気分だ。べつにおれは朝日放送の回し者じゃないけれども、松村邦洋はもはや『探偵!ナイトスクープ』になくてはならん貴重な人材である。つまらんことで殺してくれるな。たしかに『探偵!ナイトスクープ』だってむちゃはさせるが、アレはアホなむちゃであって、こういうむちゃはさせん。太田プロにだって、体重六、七十キロくらいの人はたくさんいると思うが、そういう人たち、あんた、仕事だからって走れるか? 本人がいくら走りたい、走れると言ったとしても、インテンシヴな競技者でもない体重百キロの人間が走って大丈夫だと思うか?

 「五輪メダリストの有森裕子さんらも育てた指導者の下で練習しており」って、あのなー、その指導者は百キロ超のマラソン選手を育てたことがあるとでも言うのか? たぶん、その指導者にとっても“想定外”だと思うがなあ。

 お祭り気分で芸能人やら局アナやらが参加する(させられる)のも、そりゃ当人たちも商売だろうから、一概に悪いとは言えないが、マラソンってのは危険なスポーツ(というか、スポーツというのはたいていは危険で、やりすぎると健康に悪い)だということを、主催者側ももうちょっと出場者たち(や、その周囲)に自覚させたほうがいいんじゃないかと思う。でないと、AEDのお世話になる人々がたびたび出てるんなら、そのうち人死にが出るぜ。

 都は、「万一死んでも文句は言いません」という誓約書でも取っておいてはどうだろう? 医者が手術の前に取る waver みたいなもんだ。そうすれば、都の訴訟リスク管理にもなり、参加者たちにも、遊び半分じゃいかんという自覚と覚悟を促すことができて一石二鳥ではないかと思うのだがどうか。



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2008年10月29日 (水)

Qちゃん、キミは輝いていた

「完全燃焼し、さわやか」 Qちゃん、涙こらえきれず (asahi.com)
http://www.asahi.com/sports/update/1028/TKY200810280369.html

 「完全燃焼して、さわやかな気持ちです」。28日に引退表明した女子マラソンの高橋尚子(36)=ファイテン=は記者会見で、そう心境を語った。日本陸上女子初の五輪金メダルをもたらし「Qちゃん」の愛称で親しまれた国民的ランナーが、20年を超える陸上人生に幕をおろした。

 『ぼくはオークレーのサングラスを清水の舞台で首をくくってから毒を飲むほどの勇気を出して買ったことがあるので「投げ捨てる」などという蛮行を目の当たりにして眩暈がするほどショックを受けました。本人によると「オークレーのサングラスだし(他のメーカーかもしれませんがたぶんそう言ったと思うのです)知り合い(父親?)の顔が見えたのでそこで投げた」ということで、それを聞いてようやくぼくの心はおさまり高橋への殺意も消えたのですが』田中哲弥

 そうか、あれからもう八年か……。

 おれみたいな根性なしは、もう、マラソン選手というだけで無条件に尊敬してしまう。そのスタミナと根性を耳掻き一杯でいいから分けてくれと思う。だが、おれは、マラソンの中継を観たりするのはあんまり好きじゃない。なんか、悲愴感すら漂ってきて、こっちまでしんどくなってしまうのだ。どうもおれは、「幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません」とか、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」とか、円谷つながり(?)のエピソードを子供のころに刷り込まれてしまったせいか、マラソンと聞くと、なにやらしばしば安易に人生にも例えられるような辛く苦しいなにやらかにやらをイメージしてしまうのである。おいおい、人生ってのは、そんなに辛く苦しいのかよと、子供心にマラソンというものは暗いくらぁ~いものであるかのような印象を漠然と抱いてしまっていた。

 しかし、高橋尚子のマラソンはちがった。あのハイピッチで四十二・一九五キロをすたすたすたすたすたすたすたすたと走ってきてテープを切ったあとに、ちょっと近所のコンビニまで走っておにぎり買ってきましたみたいな顔で、にこにこと笑うのである。マラソンって、なんて楽しいんだろうと言わんばかりに……。信じられん。超人だ――と、おれは呆然とこの少女のような童顔のランナーに感嘆したものであった。

 正直、近年の高橋尚子は、観ているほうもキツかっただろう。その期待に応えられない本人はもっとキツかったろう。高橋尚子は、ただテープを切るだけでは高橋尚子じゃないのだ。テープを切ってにこにこしなくちゃならないのである。これはキツい。ましてや、ただ勝つことすらできなくなったとあっては……。

 常人でも平泳ぎはできる(遅いけどな)。常人でも槍や砲丸は投げられる(飛ばないけどな)。だけど、常人には、フルマラソンを二時間半足らずで走り切ってにこにこしているなんてことは、到底できないのである。

 高橋尚子の引退は、端的に翻訳すると、「にこにこできなくなった」ということに尽きるのだと思う。Qちゃんが己に課すプロとしての水準は、“勝って、にこにこできる”という、とてつもなく高い水準であったのだろう。とはいえ、人間は歳を取るものだ。勝てなくても、にこにこできなくても、そりゃあ、ただゴールするだけならやってやれないことはない。でもそれは、高橋尚子の走りではない――というのが、Qちゃんの虚心坦懐な判断だったのであろうと思う。

 お疲れさま、高橋尚子選手。これからも、ちがう道でのあなたの活躍を目にすることと思うが、いつ観ても、たぶんあなたはにこにこしていることだと思う。そうであってほしい。

 今日はちょっと、アリスの「チャンピオン」を聴きたい気分。


シドニー五輪 女子マラソン (サングラスを投げ捨て、決然と勝負に出る高橋尚子。ぐんぐん離されるリディア・シモン)

シドニー五輪 女子マラソン (追い上げるリディア・シモンを背にゴールインし、にこにこする高橋尚子)



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2008年9月 9日 (火)

『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』(佐々木正人/光文社新書)

 いやあ、すごい世界だなあ。おれはスポーツとはほとんど縁のない人生を送ってきたが、おれなどからは超人としか見えないような人々が、いったい全体、主観的にはどのような世界を感じているのかということには、たいへん興味がある。本書は、認知科学に於けるアフォーダンス理論のわが国での第一人者、佐々木正人氏が、常人の実感も想像も超えた独自の宇宙を体感している十六人のトップアスリートたちにインタビューを試みた刺激的な仕事である。トップアスリートが“環境”からどのような情報を受け取り、それをどう制御しているかを、主観的な言葉で表現するというのには、たとえば、才能に恵まれた数学者が、高次元空間の抽象的な幾何学を「これをこうすると当然こうなります」などと、あたかも日常的な三次元空間の物体を手に取って動かしているかのように語るのを聞いているみたいな不思議な感じがある。

 興味本位で読みはじめたところが、あまりに面白いのでつるつる読める。この人たちは、ほんとうに人間なのか。というか、人間だとしたら、人間の認知能力というのはどえらいものであるなあと、改めて感じ入る。

 潮田玲子(バドミントン)は、本書のタイトルどおり、初速が時速250キロで0.3秒後には時速50キロにまで減速するシャトルの動きを、コート上の空間を二十分割して瞬時に捉えているそうな。鈴木亜久里(F1)は、「見ることと思考の回路は全然違うところにあると思う。流れ作業をやっている人が会話してても、作業してるじゃないですか。それと同じように300kmで走っていても普段と同じように冷静に考えられるんです」と語る。船木和喜(スキー・ジャンプ)によれば、「冬と夏だと風の重さが違」うそうで、武田大作(ボート競技)は、オールを水に入れるのは「豆腐に包丁を入れる感じですね。豆腐に包丁を入れて壊さないで後ろへ持っていくような感じです。水を壊しちゃ絶対にダメです」などとお料理教室のようなことを言う。「シドニーはとにかく全体が重くて硬い感じで、アテネは比較的好きな感じのタイプでした。全体が重くて硬いというのは、グラデーションがないということです。シドニーのほうが、硬くてコキコキしていた」武田美保(シンクロナイズド・スイミング)が語るのは、プールの水の話なのである。

 なんというか、おれの日常感覚とはかけ離れた、とてつもない感覚だ。おれのようなスポーツ音痴にとっては、まるで山田風太郎忍法帖でも読んでいるかのようだ。

 彼ら・彼女らの主観的表現を科学的にどうこう言うことにはあまり意味がない。彼ら・彼女らが、信じられないほどの鋭敏な感覚で主観的に環境を捉え、それを制御しようとするさまを常人になんとか伝えようとするときに、なんだか山田風太郎じみてくるだけのことである。人間の認知能力とは、なんとものすごいものかと感動する。

 自身でスポーツをやる人はもちろん、スポーツに縁のない人にも面白いこと請け合い。これはね、トンデモとは一線を画するフィールドワークですよ。歴とした認知科学の仕事でしょうね。



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2008年9月 3日 (水)

証拠隠滅の定番パターン

理事長部屋…まさか 露鵬・白露山から大麻反応 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0902/TKY200809020359.html

 角界が恐れていたことが2日、現実となった。日本相撲協会が関取衆を対象に抜き打ちで行った尿検査で、ロシア出身の露鵬(大嶽部屋)と白露山(北の湖部屋)から大麻の陽性反応が出た。秋場所の初日まで2週間足らず。元若ノ鵬容疑者の大麻事件に続く薬物汚染の捜査は理事長の部屋も直撃した。

 「親方、ウチもバレたらどうしましょう? あいつの部屋にたくさんありますよ」
 「なあに、堂々と撒けて、まず捜査されない場所があるじゃないか」



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