憧れの再生産
おれはAKB48では、なんてったって、俄然、断然、指原莉乃推しであって、今年のカレンダーはもちろん指原だし、大好評発売中の1stフォトブック『さしこ』も、当然発売前に予約して買った。今年五十になるというのに、金を使うほどアイドルにハマったのはひさしぶりだ。
いやまあしかし、ここでさっしーの魅力を語りたいわけではないのだ。なんというか、ああ、今日はいいものを見たなあと、ちょっとほっこりしたもんだから、書き留めておきたくなったのである。
おれは、さしこが水曜レギュラーに大抜擢されてからというもの、『笑っていいとも!』は水曜日だけ録画して、さっしーの出てるところだけチェックしている。今日も、晩飯を食いながら、「いいとも」を観た。
今日の「テレフォンショッキング」のコーナーは、ドリーム モーニング娘。がゲストで、かなりおばさんになった往年の「娘」たちを、彼女らがほんとうに娘だったころから知っているタモリがひとしきりいじった。
一段落ついたとき、予め打ち合わせていたのかどうかは知らないが、指原がモー娘の追っかけであったことをタモリが話題にし、舞台裏からおずおずと指原登場。自身がいまはアイドルと呼ばれる立場になっているのに、憧れのモーニング娘。を前にして指原はすっかり一人の少女ファンに戻ってしまい、目をうるうるさせながら、ドリーム モーニング娘。一人ひとりに握手してもらって舞い上がっていた。微笑ましい。おれは、手塚治虫にサインをもらい握手までしてもらった少年のころの自分を思い出していた。
ああ、こういうことは大事なんだなあと、指原を見ていて、改めて思った。彼女はアイドルに憧れ、みずからもアイドルになった。そしていままた、少し前の指原のような少女たちが、「指原さんみたいになりたい」とアイドルをめざし、秋元康を驚かせる。
なんの分野であれ、それが連綿と続いてゆくには、こうした“憧れの再生産”が絶対に必要だ。憧れの再生産が縮小してゆく分野は衰退してゆかざるを得ない。あげくの果てには、世襲だらけになる。政治家のようにだ。
「なんであんなのがいいんだ?」と、多くの大人から眉を顰められるような存在であっても、それに憧れる少年少女がいるかぎり、バトンは手渡されてゆく。手塚治虫であれ、ビートルズであれ、モーニング娘。であれ、AKB48であれ、だ。
憧れられている存在が、実際にどれくらい偉大であるかというのは、あんまり重要ではない。客観的にどれほどちっぽけな存在であれ、その存在に憧れている後進がいるということ自体が、尊く、大切なことだと思う。
どんなにちっぽけでも、誰かに憧れられている政治家、誰かに憧れられている官僚が少ないというのが、いまの日本の悲劇なんじゃないかという気がする。
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