奪った命はどこへゆく?
「命を奪う」という表現がある。べつになにがどうまちがっているわけでもなく、じつに頻繁に使われているし、おれも使う。だが、ちょびっと頭の隅でいつも気になっていることがある。
たとえば、「財布を奪う」などの場合、財布は奪った者の手に移るわけである。だが、「命を奪う」場合、奪われる者は財布と同じように命を失うのだが、奪ったほうの手に命が移るわけではない。命はただ消えてなくなるだけである。これを果たして、「奪う」と能動的に表現してしまっていいものなのだろうか――と、いつも悩むのだ。もしかしたら、命などは、「奪われる」ことだけが可能であって、「奪う」ことはできないのではなかろうか?
幸福なんかもそうだ。「あの男が私たちの幸福を奪ったのよ」と言う場合、私たちが幸福を失ったことは事実かもしれないが、じゃあ、私たちの占有を離脱した当該の幸福を「あの男」が横領することによって、「あの男」がそのぶんの幸福を享受しているのかというと、たぶんそんなことはない。
もしかしてもしかすると、むかしは「命を奪う」「幸福を奪う」といった場合には、このような能動表現はなかったのではなかろうか? 「命を奪われる」「幸福を奪われる」などと受動的な表現のみが使われているうちに、能動表現のほうがあとから生まれたなんてことはあるまいか?
むろん、いつものように、これはズボラなおれの想像にすぎない。気になる方は、ご自分で調べてみていただきたい。どこかの国語学者の方などが、とうのむかしに研究なさっていることなのかもしれない。
同じ「奪う」でも、奪った者の手元に残らないようなものを奪うほうが、より罪深いと言えよう。財布は返すことができるが、命や幸福は、奪った者にも返すことができないからだ。
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コメント
生命カメラを思い出した。
投稿: 超時空漫才 | 2011年8月30日 (火) 05時54分
その説に一票。
日本語の受動表現ってのは「被害にあった」とか自分ではどうしようもない現象が降りかかったというニュアンスがありますからね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E8%BA%AB_(%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6)#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.AA.9E.E3.81.AE.E5.8F.97.E8.BA.AB
日本語教師やってるとかの人の本で、日本人の学生が外国人のクラスメートに「カバン持ってかれた」と訴えたら「カバンを持っていったのですね」と答えられて、だから外人は気持ちが伝わらんとか文句をたれているのを聞いて云々ってのを読んだだことがあるんですが(すいません、うろ覚え)、日本語の受身形ってのは、単純な言い回しのバリエーションじゃないですよね。
投稿: Cru | 2011年8月30日 (火) 21時33分
そうそう。
「壁に絵がかけられた部屋」とかいう言い回しは翻訳調だそうで。
絵ってのは普通(誰かが)掛けてあるもんであって(勝手に)掛けられるもんじゃないとかなんとか。
投稿: Cru | 2011年8月30日 (火) 21時44分