奪った命はどこへゆく?
「命を奪う」という表現がある。べつになにがどうまちがっているわけでもなく、じつに頻繁に使われているし、おれも使う。だが、ちょびっと頭の隅でいつも気になっていることがある。
たとえば、「財布を奪う」などの場合、財布は奪った者の手に移るわけである。だが、「命を奪う」場合、奪われる者は財布と同じように命を失うのだが、奪ったほうの手に命が移るわけではない。命はただ消えてなくなるだけである。これを果たして、「奪う」と能動的に表現してしまっていいものなのだろうか――と、いつも悩むのだ。もしかしたら、命などは、「奪われる」ことだけが可能であって、「奪う」ことはできないのではなかろうか?
幸福なんかもそうだ。「あの男が私たちの幸福を奪ったのよ」と言う場合、私たちが幸福を失ったことは事実かもしれないが、じゃあ、私たちの占有を離脱した当該の幸福を「あの男」が横領することによって、「あの男」がそのぶんの幸福を享受しているのかというと、たぶんそんなことはない。
もしかしてもしかすると、むかしは「命を奪う」「幸福を奪う」といった場合には、このような能動表現はなかったのではなかろうか? 「命を奪われる」「幸福を奪われる」などと受動的な表現のみが使われているうちに、能動表現のほうがあとから生まれたなんてことはあるまいか?
むろん、いつものように、これはズボラなおれの想像にすぎない。気になる方は、ご自分で調べてみていただきたい。どこかの国語学者の方などが、とうのむかしに研究なさっていることなのかもしれない。
同じ「奪う」でも、奪った者の手元に残らないようなものを奪うほうが、より罪深いと言えよう。財布は返すことができるが、命や幸福は、奪った者にも返すことができないからだ。
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