自然現象がしれっと起こってるだけのことを、たいそうに
大震災の一発めの大きな地震から一か月(まだ、あと何発も来るかもしれんからね)、今回の震災で思ったことをいろいろな人々が、メディアで口にしはじめている。
面白いのは――という言葉遣いはちょっとどうかとも思うので、そうだなあ、興味深いのは、少なからぬ人たちが、津波で壊滅した現場などを見て、「超自然的な力」とか「人知を超えたなにか」とか「大きなものの意志」とか、とにかくなにやらわからんけど、そんなふうな“神”の力のようなものを感じた、あるいは、そういうものがあるのではないかと改めて考えたといった感想を述べていることである。
これがじつにおれには不可解だ。おれはそのように感じる能力をまったく欠いている。いかにものすごいことが起ころうとも、この宇宙の物理法則を超えたことが起こっているわけがなく、超自然など感じようがない。むしろ、自然現象は、おれたちの現時点での知識や能力など一顧だにせず、いかにただただ自然現象として起こるかという、その清々しいばかりの“ミもフタもなさ”に、おれは改めて感嘆する。そこに超自然的なものなどが介在する余地など微塵もない。人類が高潔に質素に生きようが、我欲にまみれて退廃的に生きようが、物理法則が変わるわけではない。聖人であろうが極悪人であろうが、鋼鉄のハンマーで頭を砕いたら死ぬのである。それは神の鉄槌でもなんでもなく、物理法則どおりのことがミもフタもなく起こったにすぎない。
だもんだから、おれは大きな自然災害が起こると、神やら超自然やらといったものはいっさい頭に浮かばず、「ああ、おれたち人類にはまだまだ解き明かすべきことがある」と、ただただ思うだけだ。
これからも、おれたちには大きな試練が待っている。地球は、人類が環境破壊などしなくとも、いずれは膨れ上がった太陽に呑み込まれる。地球が消えたあと、宇宙に散った人類があちこちで生き延びたとしても、いずれはこの宇宙そのものに終わりが来る。そのとき、既存の都合のよい宇宙に移住する技術、あるいは、自分たちの生存に適した新しい宇宙を作り出してそこに移り住む技術を人類は手にしているだろうか?
いずれにせよ、遠未来にほぼ確実に起こるそうしたことどもであれ、べつに超自然的なことが起こるわけではない。地震や津波のように、ただただ物理法則に忠実な出来事が、おれたちの都合とはまったく無関係に、しれっと起こるだけのことなのだ。
「神も仏もあるものか」という言葉がある。おれ自身は、いまだかつてこの言葉を使ったことがない。そりゃそうだ。それはおれにとって、はじめからごくごくあたりまえの事実の描写であり、いまさら恨みがましく口にするようなことではないからである。勝手に神や仏を発明しておいて、それがないらしいと実感したからといって恨み言を垂れるなど、まったくもって阿呆の所業である。最初からそんなもんがあると考えるほうがどうかしている。
神がどうした超自然がどうしたと世迷言をほざいているうちは、おれたちは何度も何度も自然災害に叩きのめされるだろう。おれたちの能力で充分防げる災害にすら、何度もひどいめに会うことだろう。
ミもフタもなく襲ってくる物理法則の脅威に対して、こちらもミもフタもなく、ひたすら理詰めに準備をする。これ以外の方法で、災害の被害を食い止めたり、被害を最小化したりすることはできない。「そのうち神風が吹く」などと心の隅でであれ考えているようなお気楽な民族は、早晩滅ぶにちがいない。
「科学は万能ではない」という言いかたはまちがっている。「みずからが万能ではないと知っていることこそが、その最大の強みである思想・方法論が科学」なのだ。科学は、おれたち人類が手にしている、二番めに優れた思想・方法論だ。いちばんだと言い出したとたん、それは科学ではなくなる。
十数メートルの津波が目の前に迫ってきているとしよう。そんな状況で、十数メートルの「数」ってのは正確にはどれくらいなのかとか、センチで表現すると国民が不安がるから気をつけようとか、仮に海底に引きずり込まれたとしても直ちに健康に影響はない、二分間くらいは大丈夫だとか、まるで、ムラ社会でのルールをなんとかすれば、それは物理法則にも影響を及ぼすとでも考えているかのような阿呆どもは、圧倒的な物理的な力で叩き潰されてしまえ。え? その力は何ニュートンですか、場合によっては、基準値を引き上げて対応しますって?
アホんだら、これくらいの力じゃ~~~~~~!
ぐしゃっ
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