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2011年2月の3件の記事

2011年2月19日 (土)

滑稽なまでの能力の欠如

 さっきの『探偵!ナイトスクープ』「立ち幅跳びができない妻」に驚愕した。なんと、いくらがんばって跳ぼうとしても5センチしか跳べない主婦が登場。5センチて……。ふつう、なにげなく前に倒れていって、ぴょんと跳んでも20センチや30センチは跳んで“しまう”と思うんだが、なんとも不思議な人だ。わざと跳べない演技をするにしたって、これほどの運動音痴のふりは難しいにちがいない。なにかこう、ロボットに、まったくプログラミングされていない動作を無理やりさせているかのような感じなのである。

 その運動音痴ぶりがあまりに滑稽なので大爆笑しながら観ていたのだが、それがなにやら徐々に戯画のように見えてきて、しまいにはうすら寒い恐怖を覚えた。人間というものは、本能でなにかができるということがほとんどなくなってしまっていて、適切な学習をし損ねると、信じ難いばかりに能力を欠くことがあるのだということを、まざまざと見せつけられたからだ。以前にも、「7+6」とかに考え込んでしまうほど、一桁の足し算すら指を使わないとできない人が複数登場したことがあったが、あのときの恐怖がよみがえった。

 なぜ怖いかって? だって、考えてもみてほしい。この人たちは、立ち幅跳びができないとか一桁の足し算が暗算でできないとか、客観的に測定ができる、たいへんわかりやすい能力の欠如を抱えているぶん、まだましなのかもしれないのだ。もしかすると、5センチしか跳べない人を見て笑っているおれも、ふつうの人なら当然身につけているはずの能力を、滑稽なばかりに欠いているのかもしれないではないか。その欠如が浮き彫りになる状況に、たまたま遭遇しないだけで。

 たとえばおれはすごい方向音痴だが、その方向音痴具合を立ち幅跳びに換算(?)して可視化すると、必死で跳んで5センチ以下なんてことになるのかもしれないじゃないか。

 おれが自分でも「ほとんど障害と呼べるレベルかもしれんなあ」と自覚するのは、人の感情を読み取る能力の欠如である。立ち幅跳びに換算すると、跳んで2センチみたいな感じ。いや、おれは自分で言うのもなんだが、おれの頭の中だけであれば、かなり繊細な世界を生きているつもりなんだが、おれ以外の人がなにを感じているかなんてのは、想像の埒外だ。「おれだったらこう感じるんだが、だからといって他人もそうだと推測する根拠はなにもない。ゆえに、わからんもんはわからん」というのが、おれの中の他人の感情というものの扱いだ。それでも、長年生きているうちに、なんとかかんとか生活に支障を来たさない程度には推測できるようになったが、こりゃもう、わからんもんはわからん。

 とくに、たいていの人が持っているらしいのにおれの中にはまったくない心の動きとか、おれにとってはものすごく大事ななにかなのに、たいていの人は感知すらしていないとしか思えないものというのがたしかにあって、こういうのが絡むシチュエーションは要注意だ。「おれがこう感じるから、きっとこの人もこう感じてくれるだろう」という推測が裏目に出ることがしばしばある。「自分がしてほしいように相手にもしてあげよう」とか「自分がしてほしくないことは、相手もしてほしくないはずだ」とかいった緩やかな前提がないと、思いやりとかなんとかはそもそも成立しないんだが、「おれはこういうふうに扱われると心地よいのに、なんとこの人は不愉快なのかぁ」などと愕然とすることが人生で何度もあると、おれが異常なのかおれは正常で世間の大部分の人が異常なのかを考えてもしかたがなく、「まあ、とにかく、おれは多数派ではけっしてない。おれにはなにかが滑稽なほどに欠けているのか、世間の人が滑稽なまでに余計なものを抱えて生きているのかなのだ。そういうものだ」と用心深くなる。

 結局のところ、明示的に表現されない感情を勝手に推測してこちらが行動するのは、おこがましいおせっかいであると結論せざるを得ない。よって、日本語で“思いやり”と呼ばれているものをこちらが勝手に発動する場合には、「おこがましいおせっかいを他人に押しつける独善的で支配欲に満ちた極悪非道の人非人」くらいに思われてもかまわないくらいの覚悟を持たねばならないと考えている。

 え? そんなことをいちいち言葉にしてうだうだ考えている時点で、おまえは“日本人として5センチも跳べてない”んだよって?

 そ、そうかもしれん。が、それが日本人なんだったら、おれはもっと跳びたいとは全然思えないんだよなあ。


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2011年2月11日 (金)

次に「バレンタイン・キッス」が流行るのは……

 昨日、といっても、ほんの数時間前なのだが、近所のお好み焼き屋でお好み焼きを食っていると、BGMに渡り廊下走り隊7「バレンタイン・キッス」が流れはじめた。

 おれはけっこう焼酎も入っていたので、バイトの兄ちゃんをちょっとからかってやろうと、「懐かしいなあ。これ、国生さゆりが唄ってたの知ってる?」と訊いてみたが、案の定、引き攣った笑顔で首を傾げていた。そりゃあそうだろう。まるで二次元アイドルを無理やり三次元映像で観ているかのような渡辺麻友と、魔王・杉田かおるとやりあう国生さゆりおばさんとが、同列に思えるはずがない。けけけけけ。

 それはともかく、この「バレンタイン・キッス」は、なかなかの名曲だと思う。渡り廊下走り隊7のPVを観ていて、つくづくそう思う。古びてない。というか、古びてないのは道理であって、これは元々“わざと古びたふりをしている”曲なんだから、かえって古びないのは当然なのだ。

 国生さゆりがこれを唄っていたころ、年齢のわりに洋楽懐メロがけっこう好きだったおれは、「ああ、これはシェリー・フェブレーだよな」と思って聴いていた。曲想が、「ジョニー・エンジェル」みたいな、ああいう50~60年代のアメリカンポップスのラブソングによくあった感じにそっくりだ。そういうのを、80年代にあえてあざとくなぞってみせているのだろうと、製作者側の意図が伝わってきて当時にやにやしていた。

 シェリー・フェブレーの「ジョニー・エンジェル」は1962年(おれが生まれた年だ)、国生さゆりの「バレンタイン・キッス」は1986年である。二十四年後だ。そして、1986に24を足してみると……2010! いろんな人が「バレンタイン・キッス」をカバーしてきたが、これほどヒットするのは渡り廊下走り隊7を待たなければならなかったのである。ここにはなんらかの隠れた法則が働いているのではあるまいか。

 そこで、おれの仮説だ。「バレンタイン・キッス」は、今後も、ほぼ四半世紀毎にリバイバル・スマッシュヒットとなるであろう。次に当たるのは、西暦2034~35年ころにちがいない。そのころの十代のアイドルがまたこれを唄い、「ああ、そういえば、わしらの若いころに渡り廊下走り隊7ってのがあって……」と懐かしがるおっさん・おばはんたちが、またおれと同じようなことを書くのだろうな。

 歴史はぶり返す。


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2011年2月 2日 (水)

今月の言葉

時計じかけのハレンチ

 児島美ゆきは、いまどうしているのだろう?


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