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2011年1月の6件の記事

2011年1月30日 (日)

政府は英語禁止令を発令せよ!

 昨日のエントリー「もう小学生から英語を教える必要はなくなった」にどえらいアクセスがあって仰天している。みんなけっこう英語教育に興味あるんだなあ。

 で、SFファンの常としてですな、まず逆を考えてみるという条件反射が発動した。みんな、たとえば、いまの政府が“英語禁止令”を出したとすれば、素直に従いますかい? 従わねーよなー、絶対。もしそんなおふれが出たとすれば、「これはきっと、アホ国民どもにニューヨーク・タイムズやらガーディアンやらを読まれては困るという政府と官僚と記者クラブメディアの陰謀にちがいない」と疑って、みんなこっそり必死で英語を勉強しはじめるはずだ。

 だから、日本国民に国際競争力をつけさせようと政府が思うのであれば、政府はなにはともあれ“英語禁止令”を出すべきなのである。そうすれば、「これはいよいよ、英語ができなければほんとうにヤバいにちがいない。いまの日本政府や日本のアホマスコミの言うことしかわからないなんてのは、とんでもなく怖ろしいことだ」と、多くの日本国民が目覚め、海外メディアから直接英語で情報を取りたがるようになるにちがいない。

 日本人の英語力を底上げするには、これが最良のアイディアだとおれは思うのだがどうか。政府は“英語禁止令”を出せ。ほれ、あなたの子供のころを思い出してみるがよい。「子供がこんなもの読んじゃだめだ」と言われたものほど、隠れて必死で読んだものじゃないか? 大人が読んじゃだめだと言うものを読もうとする子供がいなくなったら、それこそ亡国の兆候である。

 だから、ここを読んでいる子供たちよ、英語なんか勉強しちゃダメだぞ。海外の新聞なんか、絶対読めるようになっちゃいけない。そのほうが君たちにとっては、ずっとしあわせなんだ。ゆめ、疑うことなかれ。いひひひひひひひひひ。


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2011年1月29日 (土)

もう小学生から英語を教える必要はなくなった

 このブログでは、「英語を教えナイト?」「英語を教えナイト? 2」「『危うし! 小学校英語』(鳥飼玖美子/文春新書)」「カテゴリーの新設」「英語教育のハコモノ行政」ほかで、さんざん日本の英語教育行政、とくに小学校での英語必修化を茶化してきたが、あれから五年、問題はひとりでに解決してしまった

 もう、素人の小学校教諭に、むちゃくちゃな英語を建前だけで教えさせるような愚かなことなどしなくてよい。ALTだって、まともなALTは全然足りてないだろう? 心配ない。案ずるより産むが易しだった。問題は、教育行政なんかじゃなく、経済がすっかり解決してしまったのだ。もう、公教育で小学校からあわてて英語を教える必要はない。なぜなら、放っておいても、国民のほうで自主的に勝手に必死にやるからである。

 日本人は、英語は必要だ必要だと表向きは言いながら、そこいらのふつうの人たちがほんとうに英語が必要だなどとは誰も思っていなかったのである。そんなことは日本人ならみな知っていることだ。『英語を学べばバカになる グローバル思考という妄想』で薬師院仁志が指摘しているとおりだ。

 ところが、ここ一、二年、堰を切ったように、明示的に象徴的な出来事が、新卒就職戦線を襲った。「企業の存続のためには背に腹は代えられない。ボンクラの日本人よりも、デキル外国人を雇います」と、はっきり明言された新卒世代などというものがかつてあったであろうか? いままではずっと、“自分と同じ卒年の日本人だけが就職戦線におけるライバル”という、まことに奇っ怪なローカルルールがあったのだが、そのつもりでいたのにいきなり水をぶっかけられ、「今年からルールが変わりました。ペリーが来ましたので」と面と向かって言われた記念すべき新世代が今年の新卒(というのも、奇妙な風習だ)だったのだ。

 気の毒といえば、まことに気の毒だ。八十年代なんて、企業は、「大学教育になどなにも期待していない。むしろ、余計なことは教えずに、大学入試をクリアできる程度の知能は一応持っていると証明された連中を、真っ白のまま企業に渡してほしい。あとはこちらで教育する」といったことを、いけしゃあしゃあと公言していた。それがだ。ここへ来ていきなり、「勉強もしてない、ボンクラゆとり日本人なんか要らん。ハングリー精神旺盛で、ものすごく勉強している外国人をどんどん採る」ってんだから、世の中の流れをあまりウォッチしていなかった呑気な学生にしてみれば、寝耳に水だ。をいをいをいをい、急にルールを変えるなよ~と泣きたい気持ちだろう。

 これは、これからの日本にとって、ものすごくよいことだと思う。“自分とちがう卒年の連中はおろか、外国人までもが、自分の直接のライバルなのだ”という、日本以外の国ではごくあたりまえのことを、ひしひしとわがこととして実感するという貴重な体験が、ようやくそこいらへんのふつうの日本人の若者にもできたのだから。こんな強烈な体験をした若者は強い。「あ、もう国境なんて意味ないのだ」と体感しただけで、すでにボンクラな年寄りたち(ってのは、つまりおれたちのことだ)を精神的に超えている。

 この“ルールの変更”は、たちまち下の世代に、いまの子供たちの親たちにも、実感として伝わってゆく。「なんだって? 翻訳が出てないから読めない? 翻訳が出るまで待つ? あほんだら、そんなことでベトナムやマレーシアやミャンマーの技術者に勝てると思うか!」

 ビバ、開国! もう、わざわざ税金で英語教育なんてする必要ないさ。放っておいても、みんな身銭を切ってやります。英語“を”勉強するなんて悠長なことは、高校・大学では言っていられない。もう、その段階では、英語“で”なにかを勉強するのだ。

 つまるところ、ほんとうに必要だと実感したら、みんな勝手にやります。それが答えだ。ほんとうに必要だと実感できないものを、なんやかやと理屈をつけて、やらなきゃならないものとしてきたところに、日本の英語教育の最大の問題があるのだ。そんな旧来の日本の英語教育の建前を捨てて勝手に上達した人たちは、みんな強烈な“必要”を各自実感した人たちなのである。この小説が読みたい、この歌詞のほんとうの意味が知りたい、この映画の台詞を覚えたい、この料理のレシピが知りたい、このエロでヌキたい――まあ、動機はいろいろだが、そこには建前じゃないほんとうの“必要”があったはずである。

 というわけで、小学校での英語必修化を進めてきた方々、気の毒だが、もう、そんなのは要らない。というか、親たちはもう、そんなレベルじゃ満足しないよ。どうする?


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さっき、ほんとうに見た悪夢

 こんな夢を見た。

 大便がしたくてトイレを探している。いや、おれはすでに便所にいるのだが、個室のドアがどれもこれも閉まっていて先客がいるのだ。ゆけどもゆけどもドアには赤い印が出ている。

 あっ、あった。空いていた!

 おれはその個室に飛び込みドアを閉めた。ふりむくと、便器にはなにかがいっぱい詰まっている。

 “ソリューション”だ。

 便器には“ソリューション”がてんこ盛りに詰まっていて、とてもじゃないが用を足すどころではない。それが具体的になんなのかは夢のこととてよくわからないのだが、おれにはそれが“ソリューション”であることだけはわかっているのだった。

 いったいどこのどいつだ、“ソリューション”を流しもせずに放っていったのは!?

 おれは水洗のレバーを「大」のほうに倒し、ひたすら“ソリューション”を流そうとするのだが、どうしたことか流せば流すほど“ソリューション”はもこもこと盛り上がってきて、やがて便器から溢れ出した。

 おれが欲しいのは“ソリューション”じゃないんだ!

 おれはただ……ただ、ウンコがしたいだけなんだ!!


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2011年1月25日 (火)

「へんく」??

 日常的に関西弁を使う方々にお尋ねしたい。

 たとえば、標準語で「見えなくなる」というのを、あなたは関西弁でどう表現するだろうか?

 おれなら、「見えへんようになる」「見えんようになる」と言う。おおかたの年配の関西人はそうだと思う。

 が、近年、若い関西人のあいだには、「見えへんくなる」という表現が広まっているように思いませんか? しばしばこいつに遭遇して、「う~む」と考え込んでしまう。なんなんだろうね、これは? 標準語と関西弁のチャンポンなんだろうか? 言わんとすることはわかるし、面白い表現だとは思うが、自分ではまず使わんだろなあ。違和感が抑えきれない。

 むかしに比べて、全国ネットのテレビで関西人が関西弁で活躍することがずっと増えたせいだろうか、関西弁がどんどん標準語を侵略しているかのように感じていたんだが、どうやら逆の流れもあるのかもしれない。関西弁としては不自然な言いまわしが、標準語から入ってきているケースもあるんじゃなかろうか。


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2011年1月 9日 (日)

去年やめたもの三つ

 去年は、いろいろと悪いものを三つもやめることができた。流行りの“断捨離”が実践できた。

 まず、煙草をやめた身体に悪いものを“断”ったわけだ。値上がりするのは前からわかっていたから、徐々に量を減らすようにしていたのだが、実際に値上がりした十月にすっぱりとやめた。最後に煙草を吸ったのは十月三日である。

 次に、日本の新聞をやめた頭に悪いものを“捨”てたわけだ。日本に存在する新聞がことごとく頭に悪いと言うつもりはないが、いわゆる五大紙なんぞは、あってもなくても同じだ。というより、あんなものを読んでいたのではアホが移る

 さらに、紙の新聞をやめた環境に悪いものから“離”れたわけだ。日本の新聞をやめるにあたって、背中を押してくれたのは、amazon の電子書籍リーダーの kindle だ。海外の新聞や雑誌の電子版が紙版よりもはるかに安く定期購読できるので、便利なこと、この上ない。惚れちゃったね。

 いずれ kindle についてはじっくり書きたいとは思うが、二か月半ほど使ってみて見えた本質を端的に述べるならば、kindle というのは、電子書籍リーダーというハードウェアを売ると見せかけて、“クラウド読書環境”を販売しているのだということである。日本のメディアは、やれ iPad だ、やれ Android タブレットだなどと、ハードウェアとしての電子書籍リーダーばかりを比較してつまらない記事を書いていることが多いのだが、そんなものは電子書籍の本質ではない。

 kindle を所有して、いじってみて、たちまち覚えるのは、「ああ、これ“一冊”を持って歩けば、巨大な“書店”を持って歩いているのと同じなのだ」という奇妙な全能感である。欲しい洋書は、kindle 版が出てさえいれば、一分もしないうちに手元に“所有”できる。そのための通信費は、事実上無料だ。kindle は早い話が“電話”を内蔵しており、3G回線の国際ローミング費用は米アマゾンがほぼ負担してくれる。太っ腹にもほどがあるんだが、これを彼らは太っ腹とはおそらく考えていないのだろう。“読者”が負担すべき費用ではないと当然のように考えているのだろう。つまり、アマゾンは、あくまで“本屋”としての本分を、いかにテクノロジーが進もうとも、ただただ全うしようとしているだけなのである。

 以前、地方の人に聞いた話だが、地方の小さな書店では、全国紙に広告が出ているような本でも、東京の出版社から取り寄せることを拒む店があるという。なぜなら、取り寄せるために東京に電話するだけで儲けが吹っ飛んでしまうからだ。「東京に電話するのにいくらかかると思ってるんですか?」と言われるのだという。

 kindle の3G回線使用料が、日本で amazon.com から kindle 端末を買った場合でも無料であり、キャリアとの契約などまったく不要だと知ったときにまず連想したのは、上記の“お取り寄せ”の話だった。そうだ、これは無料であるべきだし、そのあたりまえのことができるアマゾンはすごいと思った。そりゃそうだろう。地方の書店で東京の出版社から本を取り寄せてもらったら、本の定価に電話代を上乗せして取られたなんて人がいるだろうか? いないいない。取り寄せを断られた人は、たくさんいるだろうけどね。「本を調達するのがわれわれの仕事なので、調達にかかる費用はわれわれが負担しよう。読者は、あくまで本に対してお金を払ってくれればよい」と、アマゾンは態度で示しているのだ。

 これはじつはものすごいことだ。こういうものすごいことができるほど、“本屋であること”に徹しているアマゾンに、旧態依然たる日本の出版社や取り次ぎや書店が、いまのままでかなうとはとても思えない。ましてや、「いい端末を作れば、電子書籍は売れる」などと考えている“おもちゃ”メーカーは、笑止千万である。

 電子書籍リーダーは、リーダーなのではない。それ自体が、電子書籍流通のビジネスモデルを体現した“携帯書店”にほかならないのだ。ハードウェアとしてのリーダーを比較してもなんの意味もない。携帯書店としての、顧客にとっての利便性を比較しなければ、電子書籍リーダーの比較にはならないのである。

 いまのところ最も優れた携帯書店は、kindle という名の書店だとおれは思う。少なくとも、英語の読める人にとってはそうである。アマゾンは、どこまでも本屋であることを極めようとしているからこそ、ハードウェアを売ろうが、クラウド環境を提供しようが、全然ブレないのだ。日本のハードウェアメーカーやサービスプロバイダに求められているのは、この怖ろしいまでにカスタマーセントリックなブレない視点であり、ブレないスタンスなのだ。「おまえは何屋だ?」と問われて、「本屋だ」と答え続けられることは、とてつもなくすごいことなのだ。

 日本には、こんな出版社や書店が出現するだろうか? しないのだとすれば、それは日本語文化圏にとっては、とても不幸なことだろう。


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2011年1月 1日 (土)

今月の言葉

大滝地デジ

 「地デジ大使」とやらには、この人を使うべきだと思うんだよなあ。“地デジ化”とはなにかがそもそもよくわからないし関心もあまりないお年寄りにわがこととして興味を持ってもらうためには、お年寄りが訴えるのがいちばんではあるまいか。まあ、「羽釜杜夫」と同じような魂胆だけども。

 さあ、アナログ停波まで、八か月を切ったぞ。ウチも先日ようやく地デジ化したばかりだ。もっとも、まだアナログテレビ一台には、停波までがんばってもらおうと思っているが。


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