聴視率
例のデアゴスティーニの《東宝特撮映画DVDコレクション》を定期購読しちゃってるもんだから、二週間に一本、東宝の特撮映画を観なければならないという義務をおのれに課しているわけである。まあ、いまのところ、観たことのあるものの“おさらい”なんだけども。
それでもやはり、むかしの映画をいま改めて観ると、いろいろと教えられることが多い。昨夜は『キングコング対ゴジラ』をひさびさに観たのだが、「ん?」と引っかかった言葉遣いがあった。
製薬会社の宣伝部の人々(彼らが宣伝のためにキングコングを日本に連れてくるのだ)がやたら「聴視率」という言葉を使う。いまなら、「視聴率」が圧倒的にふつうだし、ラジオについてなら「聴取率」を使うのが一般的だが、『キングコング対ゴジラ』の時代には、どうやらテレビについても「聴視率」という言葉を使っていたようなのだ。『キングコング対ゴジラ』は、奇しくもおれの生まれた年、一九六二年の作品である。
調べてみると、なーるほど、六十年代には、まだまだ「聴視率」が一般的であったようだ。やはり、まだ当時は、ラジオ優勢時代の言葉遣いを引きずっていたんだろうな。山形大学の図書館には、「テレビラヂオ番組聴視率調査全国結果表 昭和42年6月」なんてものが所蔵されている。
こういう、ほんの三、四十年で変わってしまうような言葉ってのは、むかしのことを書く際には要注意だろう。当時なかった言葉、あるいは、当時は非常にマイナーだった言葉をうっかり当前のように使ってしまう危険があるからだ。逆に言うと、昭和三、四十年代を舞台にしたフィクションで「聴視率」という言葉を使うと、リアリティーが増すわけである。
ちょっとむかしのものを改めて観たり読んだりすると、ほんとうに教えられることが多いなあ。すごくむかしのことというのは、“歴史的知識”として学校で習ったりするし、それらを扱った書物も多いのだが、中途半端にむかしのことというのが、いちばんの陥穽だと思う。いわゆる“考現学”の対象になるようなちょっとしたディテールが、著しくリアリティーを損ねてしまったりするのだ。重箱の隅をつつくようにそんなところばかりを指摘したくはないけれども、やっぱり気になっちゃうのよね、こういうのは。
以前も書いたような気がするが、江戸時代の時代劇で、野原に寝転がった登場人物の横でヒメジョオンが揺れているというのは、やっぱりまずいと思うわけですよ、いくら電信柱が映らないように撮影していたとしてもね。
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コメント
視聴率のことになると出てくる山岸です。超長文失礼します。
入社時(たぶん)にもらったビデオリサーチ創業20年の社史の頭のほうを見たところ、聴視率という言葉は出てきません。むしろ、昭和30年ころから、テレビ局や代理店の資料に視聴率という言葉が見られるとのことで、ニールセンやビデオの調査についても準備段階から視聴率という言葉が使われていたようです(厳密には内容が違うが、嗜好率や受け入れ率といった言葉が用いられる場面もあったらしい)。
また、ラジオ聴取率という言葉も、調査自体も、当時から別に知名度があったわけではありません。そもそも、日本のニールセンもビデオリサーチも、聴取率調査をやっていた会社が視聴率に手を出したのではなく、最初から視聴率調査のために作られた会社ですし。
では上のリンク先に出てくるテレビラヂオ番組聴視率という言葉はなにかというと、まったくの想像ですが、テレビ視聴率・ラジオ聴取率を合成した際、視(聴)聴(取)の略で視聴だとテレビのほうだけのように見えるので逆にした、といったあたりではないでしょうか。
ゴジラでの使用例については、上の例と同様、ラジオといっしょくたの感覚で使っていた可能性もありますが、視聴率調査の開始時には一般に報道はされたようなので、それを(もしかして又聞きした際)単に聞きまちがい・書きまちがい・言いまちがいをしたのがそのまま通ったということもありうると思います。この当時のゴジラ映画(にたぶん限らないけど)がそういうところをちゃんと調べて脚本書いたり、現場でチェックする人がいたわけではなさそうだ、というのは特撮本でいくつかネタになっていますし。
一方、社史には、昭和41年週刊文春の大宅壮一対談で、「TV視聴率の正体」という言葉がでかでかと見出しになっている写真があり、当時の印刷媒体が視聴率を(現在とまったく同じ批判的論点で)盛んにニュースにしていたこと、業界関係者が視聴率発表ごと(*1)に一喜一憂していたこと、などが書かれています。
なので少なくとも、「昭和三、四十年代を舞台にしたフィクションで「聴視率」という言葉を使うと、リアリティーが増す」などということはまったくなく、むしろ業界人に「聴視率」といわせたら、リアリティがなくなるか、その人物が仕事熱心でないと示唆することになるのではないかと思われます。
申しわけありませんが上の冬樹さんの文章はまさに、ほんの三、四十年の言葉には要注意、とくに映画(やテレビやたぶん小説も)を根拠にするのは危険な可能性がある、という実例になってしまっているのでは、と。
しかし聴視率という言葉はじっさいに(いいまちがいでなく)使われていたわけで、人や場所によってはそっちのほうが一般的だったケースもありうるでしょう。その場合でも、聴取率という言葉がどれだけ浸透していたかわからない以上、「ラジオ優勢時代の言葉遣いを引きずっていた」とするのは早計かと思います。
むろん、これはすべて資料に基づく推測で、当時業界にいた人に取材したら「お偉いさんや学者さんのことは知らないけど、現場じゃみんな聴視率といってたよ」という証言ばかり出てくるかもしれませんが。(でも在社当時は創業時や初期からの人がたくさん残っていましたが、聴視率という言葉は聞かなかったと思うなあ)
(*1)ちなみに視聴率が毎日発表されるようになったのは昭和52年の関東地区が最初で順次全国の地区に広がったが、現在も現在も月の最初の二週しか調査しない地区が地方には多い。というあたりをまちがった小説は、ぼくにとっては、「著しくリアリティーを損ね」ていると感じられます。人生いろいろ、リアリティもいろいろ^^;;(いやそれはちょっと)。
投稿: 山岸真 | 2010年1月11日 (月) 06時05分
ともっともらしくエラそうなことをいいましたが、単にオーディオ・ヴィジュアル→聴視、という可能性を思いつきました……。
それからキンゴジの撮影・公開時には日本では機械での視聴率調査をしているのはまだニールセンだけだったので、こちらの会社がどういう言葉を使っていたかも押さえる必要がありそう。
投稿: 山岸真 | 2010年1月11日 (月) 06時38分
確かに子供の頃にはTVなどで「聴視率」という言葉がよく使われていた記憶があります。でも新聞では「視聴率」だったような気がする。媒体によっても違ったのかな?
投稿: 林 譲治 | 2010年1月11日 (月) 11時35分
蛇足ですが、「聴取率」と同義語で「聴衆率」という言葉もあったりします。耳で聞いて「ちょうしりつ」「ちょうしゅりつ」「ちょうしゅうりつ」を区別するのはかなりむずかしいです。
当時、映画業界とテレビ業界は微妙な距離があったので、映画ではテレビで一般的でない言葉を使ってしまったということもあるかもしれませんよね。
創作の中における時代考証のリアリティーというと思い出すのが、映画『パールハーバー』です。
この映画はハワイが舞台なのでアロハシャツの考証には非常に注意が払われていたそうです。ところが一部のファッションでは意識的に考証が無視されていました。
女性の制服というのは流行の影響を受けやすく、当時の軍の看護婦の制服は肩にパッドの入ったV型の派手なデザインでした。しかし、今日の人の目から見ると看護婦がそんな肩のトンがった服を着ているのは不自然なので、もっとふんわりしたデザインに替えてしまったというのですね。
これは映画館で売っていたパンフレットに書かれていた話です。
ようするに時代考証は史実に沿って正確であるだけでなく、観客の認識にあっている必要もあるということです。個人的には納得しかねますが、制作者がそういう配慮をするのは十分に理解できます。
水戸黄門の髭とか、戦国時代以前の女性や文化人が正座してるのとか、時代考証上正しくないほうがもっともらしいのでやってるというのがあります。
当時はポピュラーでなかったとしても、わざと古臭い単語を使うのは「演出としてはアリ」かもです。
投稿: 東部戦線 | 2010年1月16日 (土) 15時37分