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2009年11月の10件の記事

2009年11月26日 (木)

つげ式

 仕分け人 「あなたに義侠心というものがあるなら、無駄ではないことを示してください」
 現役官僚 「なるほど、きみの言わんとする意味が、だいたい見当がつきました。きみは、こう言いたいのでしょう――ムダはどこだ!」
 仕分け人 「悪質な冗談はやめてください。国の財政は破綻するかもしれないのですよ。ほら、国民の顔はだんだん蒼ざめていくではないですか」
 現役官僚 「ところで、きみたちの党が撲滅すると言っていた、優雅な生活を送っている奇妙な天下り官僚はどこへ行ったのですか?」
 仕分け人 「実はまだ日本郵政と人事院にいるのです」



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2009年11月24日 (火)

風呂に入る前に腹筋運動をするメリット

 おれは風呂に入る前に腹筋運動をするのを習慣にしている。十分であろうが十五分であろうが、やらないよりはましなのであって、意志力が続かないおれのような怠惰な人間は、とにかくなんであれ習慣にしてしまうようにすればよいのだということは、さすがにいままでの人生で学んでいるのである。

 ではなぜ風呂に入る前に腹筋運動をするのか? じつに単純なことなのである。説明しよう。

 まず、腹筋運動をする際には、上半身裸になることが必須である。これはもう、絶対に裸にならなくてはいけない。

 「ああ、知ってる知ってる。筋トレってのは、鍛えるターゲットになる筋肉がちゃんと動いているか、確認しながらやるほうが効果が上がるんだよね。たいていのフィットネスやら筋トレやらのサイトにはそう書いてある」

 ……いやまあ、それもあるが、それは裸になる主たる目的ではないのだなあ。

 上半身裸になって腹筋運動をするとだな、汗ばんでくると、背中に埃やら髪の毛やら、床に落ちているゴミがいろいろとくっついてくる。おれの場合、カーペットの上でやっているので、それはもう、ゴミが取れる取れる。どうせ腹筋運動をするなら、床の掃除もいっぺんにやってしまおうという魂胆なのである。自分の裸の背中をクイックルワイパー代わりに使えばよいのだ。

 でもって、ひととおりメニューをこなすと、背中が埃だらけになる。なあに、かまうものか、これから風呂に入るのだ。

 ――というわけで、腹筋運動は上半身裸で、風呂に入る直前にやるのが合理的であるという結論にたどり着いた。われながら、すばらしいアイディアだ。

 筋トレなんてものは、ただやっていると、あまりの非生産性に落ち込んでくるものである。ただただ運動するなんて、なんて時間の無駄遣いなのかと、どんどんアホらしくなってくる。であるからして、ついでに掃除をすることにすれば、筋トレの虚しさが多少なりとも緩和されるというものだ。

 これはおすすめ。もっとも、上半身裸のままで、廊下やら台所やらを背中で拭いてまわるようになるといくらなんでもこれは本末転倒なので、せいぜいあまり掃除をしていない部屋で腹筋運動をするように心がける程度にしておいたほうがよいと思う。



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2009年11月19日 (木)

「流線型にシルバーのカッコ良すぎる未来」ではないけれど、捨てたもんでもない

 例の“事業仕分け”、むろん全部観ている時間などないのだが、断片的に録画映像や記録をあちこちで観たり読んだりしているかぎりでは、成功と言えるんじゃないの。

 多少はおれにも知識のある分野の仕分けを観ていると、仕分け人も仕分け人なら、役人も役人という感じで、早い話が、目糞鼻糞だ。仕分け人が無知だ不見識だという意見もあるが、じゃあ、誰を仕分け人にすればどこからも文句が出ないのかとあたりまえのことを自分に問うてみると、充分にクオリファイされるやつなど、生きている人間の中には誰もいないにちがいない。歪んだものさしであれ、おれたちが選挙で選んだ人々が選んだのだから、まずはお手並みを拝見するのが良識というものである。“公開処刑”だなどとバカなことをほざいている人々もおるが、仕分けの過程は、すべて望む者にはアクセスできるわけだから、あの過程を公開することで、すなわち、仕分け人たちも自分たちの無知・不見識を晒しものにするリスクを負っているわけである。ああいう過程をガラス張りにすることは、仕分け人たちにとっても“公開処刑”なのだ。あまりにバカな仕分けをしたのでは、次の選挙が危ない。これぞ民主主義というものだ。

 それにしても、役人というのは、頭はいいはずなのに、彼らの説明の下手さには呆れかえった。仕分け人たちは各諸分野の専門家ではないわけだし、そんなことは仕分け人たち自身が自覚しているわけだから、相手の土俵に乗ってしまわない観点からツッコんでくるに決まっているのに、頭のいいはずの役人たちにはそんなこともわからんかったのか。まあ、頭はいいのだから、これで学習というものをしたであろう。次回が楽しみだ。もっとも、“他人の理解を得るために説得する”という作業をほとんどしたことがないであろう役人たちを見ていると、そりゃあ無理もないと憐憫の情すら感じたのではあるが……。いままでよっぽど“説得”とは無縁の人生を歩んできたのだろうな。かわいそうに。あの程度の仕分け人に手もなく捻られているようでは、ガイジン、とくにアメリカ人とはとても戦えん。

 それでも、おれはこの作業を観ていて、感動した。仕分け人や役人の能力に感動したのではない。むしろ、それには落胆した。しかし、こういうことが公開で行われていること、そして、仕分け人や役人をはるかに凌ぐ知識・見識を具えた“市井の有識者”たちの見解が次々とブログに書かれ、Twitter でつぶやかれているさまに激しく感動した。二十一世紀になって、いちばん「ああ、二十一世紀だなあ」と感じた出来事だったかもしれない。

 歪んだものさしであれなんであれ、ものさしで計っている過程を、そこいらの凡人にであれ賢人にであれ公開してしまうという革命的な出来事に、おれは陶然となったのだった。「こ、ここはほんとうにあのIT後進国の日本なのか……。お、おれはいま、日本の出来事を目の当たりにしているのか!?」と、自分がいつ・どこにいるのかわからなくなるくらいの思いをしばしば持った。

 なにしろ、今年は日本にとって、“議会制民主主義元年”なのだから、仕分け人がバカでも、役人がアホでも、ある程度は大目に見てやろうや。こういうことをやっているというのが、日本としてはとんでもなくすごいことなのだから……。仕分け人がバカだと思うなら選挙で落としてやればいいだけだし、役人がアホだと思うなら仕分け人たちに力を与えてやればいいだけの話である。すべての力は根源はおれたちの一票にある。ああ、なんとあたりまえのことが、あたりまえになったのだろう!

 仮に自民党が奇跡的な復活を遂げたとしても、もはやこういう過程を見てしまった日本人は、どこが政権を取ろうが、少なくとも同レベルの情報が公開されないと納得しなくなっているだろう。これは不可逆反応だ。

 日本がアメリカの IT Dashboard のようなものが作れるようになるには百年くらいかかるんじゃないかと思っていたのだが、もしかすると、それはそんなに遠い未来のことではないのではないか……と、一縷の望みが湧いてきたここ数日なのであった。



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2009年11月18日 (水)

この季節に聴きたくなる曲

 本格的に寒くなってきたよねえ。

 人は自分の生まれた季節がいちばん好きだと一説には言うようだが、たしかにおれに関しては、まったく当たっている。おれは、これから冬になってゆく十一月の末ころが、一年のうちでいちばん好きだ。

 この季節には、これが聴きたくなるんだよねえ。うーん、名曲だ!

 そして、あれよあれよというまに年末を迎えるのだ。おれは近年の日本人によるクリスマスソングでは、これがいちばん好きかもしれない。地味だけど、いい曲だ。なんで、もっと知名度が上がらないのかな。



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2009年11月16日 (月)

逃げる夢をしばらく見ない

 イギリス人英会話講師の死体を遺棄して指名手配され、先ごろ捕まった市橋達也容疑者関連のニュースを多く目にするせいか、近ごろまたおれの中の不思議な感情を意識せざるを得なくなっている。もしかすると、おれに限ったことではなく、万人の中にある感情なのかもしれないが……。

 あのですね、あなた、“逃亡者願望”みたいなものないですか? “願望”というと語弊があるな。なんちゅうかその、自分はいつかどこかで逃亡者だったことがあり、そのときのことがなにか懐かしく思い出されるといった、自分の知らない過去だか未来だかの記憶だ。ときどき夢にも見たりする。自分がなぜ逃げているのか、追っているのは誰なのか、そういったことはまったくわからないのだが、とにかくそれは空想とかではなくて“記憶”だといった感じだ。もしかするとおれは、なにかとても悪いことをしでかして追われているのかもしれず、あるいは、おれひとりがまともなので、まともでない世間全体に追われているのかもしれない……そういう夢である。そんな夢を見たときは、けっして不快じゃなく、なにかとても懐かしい感じに触れたようで、癒される感じすらあるのだよな。どうです、そんな感じないすか?

 こういう“感じ”は、かなり普遍的なものなんじゃないかとすら、おれは思う。筒井康隆「走る取的」を初めて読んだときに、「ああ、おれ以外にもこういう“感じ”を持っている人がいたのだ」と驚愕すると同時に、心底怖くなった。話そのものが怖いというのではない(まあ、かなり怖いが)。あの話はむしろ“懐かしい”。“あの感じ”を余すところなく言語で表現し得ている生身の作家が同時代に実在することに怖くなったのだった。

 おれは最近こういう“自分が逃亡者である”という設定(?)の夢をしばらく見ていない。それがなんだかもの足りない感じすらする。自分が過去のいつかどこかで追われていた記憶、あるいは、未来のいつかどこかで必ず追われることになるといった確信のようなものは、おれの中に否定し難くずっとあって、折に触れてそれを“思い出す”ことで、おれは癒されたいと思っているのかもしれない。

 市橋はむろん卑劣な犯罪者であって、それを認める気などまったくないのだが、彼の二年七か月にも及ぶ逃亡生活に、なんだかわけのわからない“羨望”のようなものを感じたりしないだろうか? おれの中にはたしかにそういう感情があるのが、じっくり内省するとわかる。そしてそれは、おれだけが持っている不条理な感情なのではなく、あなたの中にもある、なにやら不可思議な過去あるいは未来の“おもいで”なのではないかという気がしてならないのである。

 むかし、はたまた、これから、なにものかに追われている自分が、おれはひどく懐かしい。

 そうそう、初めて「走る取的」を読んだとき――取的に駅の便所に追いつめられている“自分”を感じたとき、おれは、芥川龍之介「トロッコ」をなぜかとてもよく似た話として連想した。つまり、ああいう奇妙な“懐かしさ”のことを言っているのよ、おれは。うまく表現できないけどさ。誰しも、取的に追われたこと、暗くなってゆく線路の上をひとり必死で走ったことがあるはずなのだ。そして、これからもあるはずなのだ。



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2009年11月10日 (火)

喫煙をステータスシンボルに仕立て上げる税収増大作戦

 タバコの価格が一気に倍になるやもしれんという話がいよいよ本格化してきた。おれは喫煙者だが、「取りやすいところから取りやがって」という怒りは不思議なことにまったく湧いてこない。そもそも、健康に悪いと言いながらその税収がアテにされるという矛盾を内包した不思議な商品なのだ、タバコというのは。ひと箱六百円以上になるんなら、いいやめどきだ。今度ばかりはおれもやめるぞ。

 いや、“やめる”というよりは、特別なときだけに「よーし、今日はマツタケを食うぞ」といったのと同じノリで、「よーし、今日はタバコを吸うぞ」といった具合に吸うようになるだろう。正月の三が日くらいは吸おう、とかね。そういう意味では、おれはもう何年もマツタケを“やめている”キャビアもやめているし、トリュフもやめている。ドンペリロマネ・コンティもやめている。どうだ、えらいだろう。まあ、そういうものを常習していた時期がそもそもないのだが。

 しかし待て。おれのようにものわかりよくタバコをやめようなどというやつが大多数になったら、そもそも税収増には繋がらんではないかというのはよく指摘されるところだ。どこかに損益分岐点があるのだろうが、現時点でいくら値上げするのが最も税収が増えるのかを推定するのは、けっこう難しいだろう。心理的なファクターが多いからだ。

 だとすれば、確実に税収を増やすには、「取りやすいところから取る」という考えをさらに推し進める必要がある。つまり、タバコひと箱に千円出そうが二千円出そうが屁でもないという層を狙ってこそ、確実な税収増になるのではなかろうか。タバコは、高額所得者たちにこそ広めるべきなのだ。

 そうだな、年収一千万円以上ないと、そもそもタバコが買えないということにする。ひと箱の標準的価格は五千円だ。九十八パーセントくらいは税金である。むろん、買うときには、年収証明書を提示しなくてはならないのだ。これだけでは、まだなまぬるい。年収二千万円以上でないと買えない特別な銘柄も用意する。これはひと箱一万円で、九十九パーセントは税金。まあ、正味百二十円くらいのものを、五千円、一万円で売るのだからあたりまえだ。ぼったくりである。

 だが、おれはこれは売れると思う。こうなってしまうと、タバコを吸えるということは、金持ちであることの証明となる。そこいらへんを金持ちがジャージ姿で歩いていても金持ちだとはわからないが、公衆の面前でタバコを吸うという行為で以て、「おれは金持ちだぞ」とアピールできる。金持ちの“見える化”である。そういうアピールがしたいからこそ、金持ちの中の目立ちたがりの人々は、不必要に高価なものを身に着けたりするのではないのか? だからこそ、時間を知るのならG-SHOCKで充分(というか、世界最高水準の技術の粋である)なのに、ロレックスやらフランク・ミュラーやらを着けたがるのだろう。まあ、比較的治安がいい国だから、通りすがりの暴漢に腕をチェンソーで切り落とされて持ってゆかれるということもあまりないだろうし(これから日本でもそういう事件が日常的になってゆくかもしれんけどな)。

 年収二千万円以上でないと買えないタバコも作るというところがミソである。年収二千万円未満で、そこそこ金のある層は、見栄のために、二千万円以上組から一万円のタバコを買うからである。


  「おっ、あの客、喫煙席のほうに歩いてゆくぞ」
  「すげー」
  「わっ、ま、マイルドセブン・プライム・スーパーライトだ」
  「すっ、すげー、二千万組だ。高額納税者だ」


 と、レストランの“禁煙席”でハンバーグ定食を食っている庶民は、尊敬と羨望の眼差しを向ける。お子様ランチを注文した家族など、喫煙席に向かって手を合わせている。もっとも、マイルドセブン・プライム・スーパーライトを吸っている人に子供がいたら、子供手当てはちゃんともらえているわけだが……。

 この政策は、百億単位の資産があるような、根っからの金持ちをターゲットにしたものではない。そういう人々は、むしろいかに庶民のあいだで角を立てないように生活するかに気を配っているものであって、金持ちをアピールするという発想など持ち合わせていない。

 この十年で、日本では年収二千万円以上の所得がある人口は増えている(貧困層の増えかたほどではないにせよ)。「取りやすいところから取る」と「取れるところから取る」というのを融合させた、もっと積極的な税収増を図らねばならない。民主党さん、この案、どうよ?

 「喫煙者=金持ち・成功者=カッコいい」というイメージを、国が積極的に広めればよろしい。それくらいのプラグマティズムにバチは当たらん。


  「うわあ、あの人、タバコ吸ってる! イケてるー!」
  「ダンナ様にするなら、タバコが吸える人ね」
  「なんだ、あそこでタバコ吸ってる男、ちょっとイケメンだけど、一千万組かぁ……」
  「あの喫煙席の男、指輪してないわね。睡眠導入剤を盛りたいわあ」


 とかいう具合になるように持ってゆくのだ。絶対、税収増えますぜ!



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2009年11月 9日 (月)

『audio-technica アクティブスピーカー AT-SP150 BK』(オーディオテクニカ)

 おれはなにしろものぐさなものだから、ミニコンポを持ってはいるものの、いまでは音楽を聴くのにはほとんど使わなくなってしまった。AIWA のミニコンポは、いまではすっかりテレビのスピーカーになってしまっている。だもんだから、音楽はパソコンで聴くのが常態だ。iTunes が便利なんだもん。

 だもんで、「ELECOM MS-76CH」の柔らかい木の感触の音が気に入っていて数年使ったのだが、さすがに最近内部断線らしき“ガリ”が来て調子が悪くなってきたので、パソコンのスピーカーを買い換えた。それがこの audio-technica AT-SP150 BK である。

 びっくりだ。じつに音が素直で、いじくりまわした感じがなく、なにより定位がすばらしい。二十センチやそこらしか離していないのに、楽器やヴォーカルの位置がはっきりわかる。机上ポータブルスピーカーの鑑である。この大きさでこんなことができるとは、まったく最近のスピーカーはヴァーチャル・リアリティー機器だねえ。

 アマゾン評では低音がもの足りないといった感想がいくつかあるが、全然そんなことはない。アマゾンで指摘されたもんだから、ひょっとしたら近年のロットでは低音を調整しているのかもしれないが、この大きさのハコでベースがこれだけ出れば上等である。三年前に出てるモデルだから当初よりも断然価格も下がっているので、いまならコストパフォーマンスは抜群だと思う。

Atsp150_2 おれは狭苦しいガラステーブルの上にパソコンを置いて使っているものだから、縦に置くとディスプレイに阻まれて音の拡がりが悪い。だもんだから、こんなふうに横倒しにしてみたら、全然「問題ない」((C)碇ゲンドウ)。ディスプレイの下をかいくぐって、ぶわっと音像が拡がる。

 この値段でこれだけの音が出るとは、ウソみたいだ。パソコンでばりばり音楽を聴くが、スピーカーごときに何万も出したくないという方には断然おすすめ。心配な人はいっぺん実機を陳列してる店を捜して聴いてみては? 以前、「オーディオ機器なんてものは、とにかく金さえ出す気であれば、いくらでも高性能のものが手に入るのだから、価格相応の性能であったところで、それはあたりまえなのである。価格を裏切る高性能に当たったときに、お得感もひとしおだ」と述べたものだが、こいつもまさしくそうだなあ。対価格満足度は抜群じゃなかろうか。



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2009年11月 3日 (火)

ホットメディア?

 「パブロン50」って風邪薬のCMに感心した。体温計で体温を測ったところ、体温が表示されているディスプレイに風邪薬の広告が流れだすのである。「これは近い将来、実現しちゃうかもなあ」と、想像を膨らませてしまった。

 体温計までもが情報家電になってしまっているわけだ。当然、体温計はIPアドレスを持っており、ネットワークのノードとして認識される。むろん、測った体温はホームサーバに送られ、履歴が管理される。居間のディスプレイをちょちょいと操作すると、グラフなんかも簡単に出せるから、快方に向かっているのかどうかなど一目瞭然だ。

 一方で、使用者の体温が平熱より高いと、その情報は広告配信用のレコメンダーシステムに送られ、風邪薬の広告が体温計のディスプレイに表示されるという寸法である。システムはあくまで体温計を端末として認識しているだけだから、個人を識別できるデータを扱っているわけではない。個人情報を扱わなくても、体温計はデジタルサイネージ機器として機能する。

 う~む、これって、ほんとに近い将来、実現しちゃうんじゃないか? 現時点でも、ハイエンドな体組成計は、パソコンにデータを転送できる機能を備えている。体組成計そのものにIPアドレスを持たせるのも、時間の問題ではあるまいか。

 このCMを作った人は洒落でやってるんだろうと思うが、存外に近未来を予測しちゃってるんじゃないかな。



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2009年11月 2日 (月)

Tweet & Shout

 いかん。どうも Twitter ばかりやっているとブログのほうが疎かになる。アカウントは以前から持っていたのだが、Tween という Twitter クライアントをパソコンにインストールしてみたら、これが古のパソコン通信のチャットのようで、たちまちハマってしまった。

 Twitter は脊髄反射的だから、その場の思いつきの面白さはあるのだが、やっぱりちゃんとブログを書かんといかん。じゃあ、おまえはブログのほうはじっくり考えて書いているのかとツッコまれると、そんなことはまったくない。ただまあ、脊髄反射の度合い(どんな度合いだ?)が Twitter とブログではあきらかにちがう。そうだなあ、“つぶやき”“ぼやき”くらいにはちがうような気がする。

 最近、冬樹はブログの手を抜いておるのではないか、けしからんと思ってくださっている奇特な読者の方々は、Twitter でおれのつぶやきをフォローしてくだされば、いかにくだらんことをつぶやいているかおわかりいただけるかと思う。うん、でも、やっぱりブログのほうがたくさん字が書けて(あたりまえだ)、こっちはこっちでいいものだな。



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2009年11月 1日 (日)

今月の言葉

円楽の泉

 座布団を三万六千キロメートル積み上げた偉大な落語家を描く浅志亭苦楽のSF落語。『遥かなる地球の歌丸』、『三遊亭綺譚』などと共に広く親しまれている。



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