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2009年9月 9日 (水)

「一生」の重み

 「九死に一生」というのは、考えてみれば不思議な言葉だ。「生」を得る確率は、九分の一なのだろうか、十分の一なのだろうか? まあ、ふつう「九死に一生」と言われたら、なにしろおれたちの頭は十進法にどっぷり浸かっているものだから、「十回のうち九回は死に、助かるのは一回くらいといった状況下で、その一回に運よく当たった」というふうに考えてしまうわけだが、極力先入観を拭い去って予断なく受け止めてみると、「九回死ぬのがあたりまえなのに、そのうち一回は助かってしまったくらいに幸運なこと」というふうに解釈できないこともない。ひょっとすると、そう解釈している子供は少なからずいるのではなかろうか?

 ややこしいことに、「九牛の一毛」と言った場合は、分母はあきらかに「九牛」なのである。一匹の牛にn本の毛が生えているとすると「1/9n くらいに、取るに足らないこと」という意味に誰でも取るだろう。というか、「九牛の一毛」の「九」は自然数の9そのものを指しているわけではなく、「とにかく数が多い」ということを慣用的に示しているだけだと、まあ、ふつうの日本人であれば、言語化して意識せずとも漠然とそう思っていることだろう。

 だが、そう考えてみると、「九死に一生」の「九」も、ひょっとすると「とにかく非常に多くの場合、死ぬ」という“死の確率の高さ”をただただ強調している「九」なのかもしれん。「十分の九は死ぬ」などとおれたちは勝手に補って、十進法の枷に囚われた思考をしてしまっているのかもしれん。

 「死:生」なら対等の比較と感じられるから「九たす一は十」という無意識の計算を前提にしていたとて自然だが、「牛:毛」はそうではないという反論もあるやもしれない。が、もしかしてひょっとすると、「九死に一生」という表現を発明した大むかしの中国の誰かは、「生」というものは「九牛の一毛」の「毛」ほどにも取るに足らない(だからこそ、稀で貴重である)という哲学的な思いを素直に込めただけなのかもしれないなあ――などと想像してみるのも愉快だ。

 ま、ホントのところはどうなのか、おれは知らん。勝手に想像してみているほうが楽しいのだ。厳密な語源に興味のある方は、調べてご覧になるのも一興ではなかろうか。



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コメント

数じゃなくて仏教用語じゃなかったかな
坊さんの説教を聞きに行くと謎が解けると思います
なんか聞いた覚えはあるんですよ

投稿: kaoru | 2009年9月 9日 (水) 08時51分

九死、多いことの喩えだと思い込んでました。 1/10という考えもあるなあ。

投稿: TORI | 2009年9月 9日 (水) 12時38分

ん~、調べてみたらどこ起源なのか、どういう意味なのか、諸説有るようですね~。
私も想像して楽しむ派ですが、調べてみると、これはこれで又楽し♪

投稿: ちいこ | 2009年9月 9日 (水) 16時07分

 原典は「楚辞」に収められた「屈原(くつげん)」の叙事詩「離騒」とするのが有力のようです。
 屈原は戦国時代、何度となく王を諌めたものの受け入れられず、ついに入水自殺した楚の政治家です。「離騒」には「亦余心之所善兮 虽九死其犹未悔(自分で善いと信じているゆえ、九回死んでも悔いはしない)」とあり、後世の劉良がこれに「虽九死无一生 未足悔恨(九死に一生を得ずとも悔いることなし)」と注釈したのが「九死一生」の由来だそうです。
 素直に理解すると、人生を九回やりなおしても失敗するという意味なのね。今は中国でも「九死一生」は「九分通り死ぬほどの危険」の意味として使われています。
 余談ですが、中国では九死一生に音の似た「9413」という電話番号を嫌うそうです。

投稿: 東部戦線 | 2009年9月 9日 (水) 20時45分

「入社してから、ずっと検査室なんですよ。」
「QCに一生かぁ。」

投稿: いぎたなし | 2009年9月10日 (木) 20時54分

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