いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり
ふと思い立ったので、おれのハードディスクレコーダの録画予約に入っている番組を羅列してみる。単発の映画などを除き、毎回とりあえず録画はしておく(必ず観るとはかぎらない)番組のリストだ。
【日曜日】
・着信御礼!ケータイ大喜利 (ほぼ隔週)
・タモリ倶楽部
・化物語
・忘念のザムド
・あたしンち
・仮面ライダーW(ダブル)
・たかじんのそこまで言って委員会
・行列のできる法律相談所
・新堂本兄弟
【月曜日】
・ビートたけしのTVタックル
・飛び出せ!科学くん
【火曜日】
・ロンドンハーツ
・爆笑問題のニッポンの教養
【水曜日】
・涼宮ハルヒの憂鬱
【木曜日】
・とんねるずのみなさんのおかげでした
・ダウンタウンDX
・ITホワイトボックス
・ロケみつ~ロケ×ロケ×ロケ~
【金曜日】
・サイエンスZERO
・太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。
・探偵!ナイトスクープ
【土曜日】
・爆笑レッドカーペット
・世界一受けたい授業
う~む、われながら、じつにミーハーであるな。で、これらを全部欠かさず観られるかというと、もちろん観られない。バラエティ系のものは、『探偵!ナイトスクープ』を除いては、原則二回ぶん以上は溜めずに観ていようがなかろうがどんどん消す。情報系のもののいくつかは、何本溜まってしまっても、律儀に少しずつ“消化”する傾向にあるな。映画は、これは観ておかねばと思うものはとりあえず撮って、どんどんDVDに焼いて消す。それがいつ観られるかはわからないのだが……。
ハードディスクレコーダなんてものを買うと、いくらでも録画して溜めておけるような錯覚に陥る時期があるわけだが、それはむろん幻想である。人間、誰しも一日二十四時間しか持っていないのであるからには、そうそうテレビばっかり観ているわけにはいかないのだ。結局、いくら欲張っても、“積ん読”ならぬ“積ん観”が増えてゆくだけなのである。
将来、映画なら映画の全情報を瞬く間に脳に送り込めるような技術が開発されたとしたしても、問題はまったく解決されないと思う。ヘルメットみたいなものをかぶってスイッチを押すと、たとえば、黒澤明の『生きる』が二秒くらいで脳に送り込まれるとしようや。どのシーンもどの台詞もどんな些細なディテールも、問われれば瞬時に引き出すことができる。どしゃぶりの中で若き菅井きん(なのにすでにおばさん役)が志村喬にうしろから傘をさしかけているシーンが、それをどこでどんなふうに観たのかさっぱりわからないのに、頭の中で鮮明な記憶として再生されてしまうのだ。でも、それではたして、『生きる』を観たと言えるのだろうか? おれはなんかちがうような気がする。
映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、おれはそれを鑑賞している“時間”ってのは、存外に大切なものなんじゃないかと思うのよな。人間の限られた寿命から、それらを鑑賞する時間を自主的に削り取って振り向けているわけだから、その時間というのは、単に情報を脳に送り込むという客観的な現象を超えた、主観的な“体験”なのである。
フィクションを愛する者は、なにも“情報”が欲しくて鑑賞しているわけじゃない。自分の命の一部を支払って、自分の境遇における制約を超えたなにかを“体験”するという対価を得ようとしているのだ。「そんなものを読んでいる(観ている、聴いている)ヒマがあったら、なにかもっと“役に立つ”ことをせんか」と、精神生活の貧しい人から言われたことがある人は少なくないだろうが、それは大きなお世話もいいところなんである。こっちは、命を削ってなんの役にも立たないことを体験することに、生きることの大きな価値を見出しているのだ。つまり、映画であれ音楽であれ小説であれなんであれ、それを鑑賞するには“時間”がかかるということこそが、そういったものを必要とする人々の生きざまをも規定していると思うのだよな。“時間”がかかるからこそ、そこには自分の人生を削り取るリスクがあり、だからこそそれを“体験”した時間は、自分が“生きた”時間として、単なる“情報”以上のものを鑑賞者に与えるのだ――と、おれは思う。ふつう、小説なんかは“時間藝術”とは呼ばないが、こう考えると、あらゆるものは、それを“体験”するのに時間が必要なのだから、みな時間藝術なのである。
ドラえもんの“眠らなくても疲れない薬”じゃないが、映画やら小説やらを瞬時に脳に送り込める技術が出現したとて、誰もそんなもの、バカバカしくて使わないんじゃなかろうか。受験勉強とかには便利そうだけどね。『ハムレット』についてはなぜかなにもかもことごとく“知っている”が、それを戯曲のテキストとしても舞台としても映画としても、まったく“体験”した覚えがない――などという状態は、想像するだに味気ない。
なんだか、支離滅裂なことを言っているような気もするが、そこはそれ、大事なことはなかなか言葉ではうまく表現し切れないものなのである。ああ、この小説を早く読み終えたい、しかし、この至福の時間を少しでも長く“体験”していたい――そういった気持ちを味わったことのある人になら、おれがなにを言いたいのか、わかってもらえると思うんだけどな。
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コメント
ああ、何か分ります♪
良い本に出会った時、早く終わりを知りたいってワクワクと、終わりが近付いた時のえも言えぬ寂寥感みたいなものがせめぎあって、頭に完璧に入ってるのに、ワザワザ2~3ページ戻って読んだりしちゃいますもん。
そして読み終えた後の満足感と寂しさ、本の世界に置き忘れた心、現実に戻るまでの余韻がたまらない至福の時なんですよね~♪
本好き、映画好きじゃないと理解して貰えないのが実に残念。
投稿: ちいこ | 2009年9月18日 (金) 08時24分
最後の数ページが読むのがもったいない、早く先を読みたいのに、わざと勿体つけて自分を焦らしたりする。
そんな意味の無い行動に駆り立てる本に出合えた時が一番の幸せです。
投稿: いい子 | 2009年9月19日 (土) 10時18分
もしも、小説そのものではなくて、「小説を読んだことによって生ずるであろう心の状態」を、直接脳に送り込めるようになったら。生理的限界を越えた多読・多見・多聴(の結果と、部分的ながらも等価なもの)が実現したとしたら。
おおかたの人は、それを使う誘惑に抗し切れないのではないか、と私は思います。文字・録音録画・圧縮音源・ネットワーク情報共有の利便性の誘惑に、これまで抗し得なかったように。
そして、『命を削ることと引き換えのリアルタイム摂取』しか技術的に不可能だった、決して戻ることのできない過去を、郷愁とともに振り返る時代が、いつか来るのかも知れません……。
でも一方、あまり心配する必要はないのかも、とも思います。「読書」自体がすでに、主観的体験をじかに伝えるためのメディア、という性質を持っているから。「読書」の、1次元・超低データレートにもかかわらず、時には実体験をもしのぐ強烈な主観的体験を引き起こす驚異的伝達効率に比べると、「電脳直結による体験伝送」など、やたらハードがものものしいだけで、結果においては大差
のないシロモノなのかも、などと考えると、ちょっと愉快です。
投稿: らざるす | 2009年9月20日 (日) 23時05分
>ちいこさん
>そして読み終えた後の満足感と寂しさ、本の世界に置き忘れた心、現実に戻るまでの余韻がたまらない至福の時なんですよね~♪
そう、“寂しい”というのは、まさにそのとおりですねえ。あれはなんなんでしょうね。
>いい子さん
>早く先を読みたいのに、わざと勿体つけて自分を焦らしたりする
ありますねえ。わたしゃむかし、『刑事コロンボ』のノベライズ版を読み終わりそうになるときに、タイミングを測って、わざわざヘンリー・マンシーニ楽団の Mystery Movie Theme をかけて読み終えてました。なんかね、こうしないともったいない気がしてたですね。
>らざるすさん
>「読書」の、1次元・超低データレートにもかかわらず、時には実体験をもしのぐ強烈な主観的体験を引き起こす驚異的伝達効率に比べると、「電脳直結による体験伝送」など、やたらハードがものものしいだけで、結果においては大差
のないシロモノなのかも、などと考えると、ちょっと愉快です。
それはまさに、「言葉使い師」で描かれた問題意識ですね。私個人は、他人の体験を直接脳に送り込まれるよりは、“言葉”を介して送り込まれたほうが、より“直截的な体験”になりそうな気はします。まあ、こういう感性自体が、将来は旧いものと思われるときが来るのかもしれませんが……。
投稿: 冬樹蛉 | 2009年9月22日 (火) 03時19分