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2009年7月 7日 (火)

脳生は人の生か?

 「脳死は人の死か?」というのは、マスコミがしょっちゅう問うていることなのだが、だったら、二十一世紀においては、「脳生は人の生か?」ということも、そろそろ真剣に問わなくてはならない。なぜなら、バイオテクロノジーの進歩によって、脳という組織だけを単独で発生させ培養することも可能になるだろうし、コンピュータ技術・ソフトウェア技術の進歩によって、相当“強い人工知能”を開発することも可能になるだろうからである。

 たとえば、事故などで脳以外の機能がまったく“死んで”しまった人は、脳が生きているかぎり、法的にも生きていると認めなければおかしいだろう。

 日本人が文化的になかなか脳死を人の死だと認め難いメンタリティーを持っていることは、おれも実感としてよくわかる。しかしそれは、裏返せば、脳生を人の生だとも認めがたいということなのではあるまいか? たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 日本人が人型ロボットをあっさり受け入れられる背景には、案外、脳死を人の死として受け入れ難いメンタリティーが関係しているのではなかろうか? つまり、人のカタチをして人のようにふるまうものは、それが“生きた脳”を持っていようがいまいが、人の一種として受け入れられる心性があるのでないか? それとも、たとえそれが機械の“心”を持っていようが、そんなものは“人の生”としては受け入れられないので、どんなに人間に近い人工物ができようとも、人間を脅かすものとは到底捉えられないがために、安心して受け入れられるということなのだろうか? わからん。おれには、まだわからん。

 いずれにせよ、これからの時代は、「脳死は人の死か?」という問題と表裏一体のものとして「脳生は人の生か?」と、おれたちは問い続けてゆかねばならないのではないかと思うのである。



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コメント

>たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 この問題提起は私にとっては非常に新鮮でした。実は正直に言うと、一読しただけでは何が問題になっているのか理解できなかったくらいです。
 これが人間に似ていて、少し違うもの。たとえば鬼とか悪魔とか宇宙人だったとき、普通の人間と同じに扱えるかといったら、少し悩んだと思います。なぜなら、彼らは「もともと」普通の人間とは異質で、思考も違うかもしれないからです。
 でも、生きている脳はやっぱり普通に人間ではないでしょうか。
 四肢が欠損した人と単に麻痺した人とで、後者の方がより人間的に扱われるとは思えないのですが。

投稿: 東部戦線 | 2009年7月 7日 (火) 04時26分

 意識というのは脳だけで存在し得るものではなく、身体と不可分なものだと思う。脳以外の神経系の情報処理も無視できない比重を占めるわけだから。だから脳死した身体に人格は存在しないのと同様に、脳だけ分離して生きていても、その状態ではやはり人格があるとは認められないのではないだろうか。

 ただ、人格に脳が占める比重は非常に大きいのも事実。そうなると医療技術が進歩した暁には、「生きてる」「死んでいる」の他に「不完全に生きている(=不完全に死んでいる)」と言うような第三の生死状態を考えなければならないのかもしれない。
 この場合、文化に依存するのは状態の呼称かな。「不完全な生」と解釈する文化と、「不完全な死」と解釈する文化に別れるような気もする(「生かつ死である」もありか)。

投稿: 林 譲治 | 2009年7月 7日 (火) 12時43分

今は資源を大切にしています。
これが続くと、
人としての最低限の動作の、
笑う、起こるなどの感情表現そして、働くという行動が出来なく、
それが出来るように回復する見込みの無いものは、
生命を維持するだけ資源を使うので、
「=死」として定義するようになる気がします。
僕としては納得できませんが。

体が死んで脳が生きている状態の人を、愛している人が見るとどう思うんでしょうね?
「今でも愛してるから、私の体を上げてもいい?」って思うのかな?
「早く楽にしてあげて」って思うのかな?
「私が愛した人ではない」って思うのかな?

投稿: みかん | 2009年7月 7日 (火) 14時32分

>そうなると医療技術が進歩した暁には、「生きてる」「死んでいる」の他に「不完全に生きている(=不完全に死んでいる)」と言うような第三の生死状態を考えなければならないのかもしれない。

そういった考えが進んでいくと、たとえば眼が悪い人は「眼球が不完全に生きている」と言わなければならなくなってしまうのでしょうか。そうなると眼鏡をかけている人は、更になんと言われるようになるんだろう。

投稿: normal3 | 2009年7月 7日 (火) 17時07分

>たとえば、目の前の水槽みたいなものに浮かんでいる脳髄とコミュニケートできる技術基盤が確立されたとしても、日本人は、その灰褐色の塊を“人格”として尊重できるのであろうか?

 「サイモン・ライト博士」とコミュニケートできるか?うーん、何人もいると、どうやって区別できるのかがわからない。
じゃあ、「リスのたーくん」では?うーん。

投稿: いぎたなし | 2009年7月 7日 (火) 20時26分

養老孟司氏が同じようことをどこかに書いてた野を見た記憶がある。「脳死を人の死と認めれば、医学は脳だけを生かすことを考えることもあるだろう。それを受け入れられるのか」なる趣旨の投げかけだったと思う。
(たぶん私には受け入れられない。)
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あと本筋じゃないですけど、
> わからん。おれには、まだわからん。
のくだりに、ブログ主さんのものすごい良心を感じました。

投稿: 774 | 2009年7月 7日 (火) 23時06分

やっぱり、若い頃にキャプテン・フューチャーを読んだかどうかでも違ってくるかもしれませんね。ベリヤーエフしか読んでない人は首全体がないと抵抗があるとか。

投稿: ふみお | 2009年7月 7日 (火) 23時16分

ハカイダーは光明寺博士の脳を移植されているのに、人格は別物でした。子供心にこの設定はかえって新鮮でした。

投稿: 小林泰三 | 2009年7月 7日 (火) 23時51分

小学生の頃「生きている首」と言う本を読んだ事があります。
イギリスかどっかの作者の作品だったと思うのですが、脳だけで生命維持が可能で、表情や目の動きなどで意思の疎通も可能ならば、生きていると言うべきなのだろうか…と幼心に思ったものです。
この場で頻繁に出てくる「不完全な生」ってワードは、もしかしてニートを指しているのだろうか???
そして「不完全な死」ってのは認知症の寝たきり老人を指しているのだろうか???と、めっちゃ素朴な疑問。

投稿: ちいこ | 2009年7月 8日 (水) 22時30分

 ベリャーエフと聞くと、いつもな~んとなく名古屋の作家であるかのような気がしてしまう……。

投稿: 冬樹蛉 | 2009年7月 8日 (水) 22時54分

完全義体って、要するに脳でさえ自前でなくてもいいって
ことかと思ってたんですが。。。
ネットワーク上でのみ認知される「生」ってのも
なかなか趣きがあってよろしいかと。

投稿: bbdqn | 2009年7月 9日 (木) 11時09分

>林譲治さん

寺山修司でしたっけ。
「不完全な死体」として生まれ,何十年後に「完全な死体」になる。

投稿: bbdqn | 2009年7月 9日 (木) 11時16分

 「ドエリャーエフ」氏とか「エビフリャーエフ」氏とか、いそうな気がします。(検索しても出ませんでしたが)。「アホネン」氏や「パーヤネン」氏は実在するのに。

投稿: いぎたなし | 2009年7月 9日 (木) 21時18分

>「アホネン」氏や「パーヤネン」氏

フィンランドですね~。

投稿: ふみお | 2009年7月10日 (金) 00時25分

 そういえば、むかし誰だったかが、ジャン・ボードリヤールのことを「名古屋生まれのボードレールみたいな名前」と書いていたなあ。

投稿: 冬樹蛉 | 2009年7月10日 (金) 00時28分

>ふみおさん

教えて下さってありがとうございま~す(≧∇≦)
ロシア人だったか~。著者の名前をキチンと憶えとかないと又忘れちゃいそう…(^-^;
最近、過去の記憶は鮮明なのに、新しい記憶が出来なくなってきてるんだ~…( ̄○ ̄;)!
これは果たして「不完全な生」なのか「不完全な死」なのか…???
つか、誰か私の頭の中身をバージョンアップしてくれ~!!!

投稿: ちいこ | 2009年7月10日 (金) 09時33分

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