« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月の26件の記事

2009年6月30日 (火)

“現役女子高生”の怪

 “現役女子高生”というのは、よく考えてみると、じつに不思議な言葉である。わざわざ“現役”であると説明しているわけだから、世の中には“現役でない女子高生”も現役女子高生と混同しかねないほど多く存在していることを前提としているわけだ。

 しかし、“現役でない女子高生”とはいったいどういう存在であるのかと可能性を検討してみると、高校に行っていないが女子高生のふりをしている“ニセ女子高生”であるか、かつては現役女子高生であったがいまはちがう“元女子高生”であるかのいずれかだろう。しかし、高校全入に近い状態のいまの日本では、ニセ女子高生などというものは現役女子高生に比べれば圧倒的な少数派であろうから、なにもわざわざマジョリティーのほうに“現役”などと冠をつけなくとも、女子高生といえば、十中八九現役なのである。

 一方、“元女子高生”の場合、そんなものはそこいらへんにいっぱいおるうえに、現役女子高生との混同を惹起するような、不正競争防止法に抵触しかねない外見を元女子高生がキープしていることはきわめて少ない。そもそも、“元”なんとかってのは、“元レースクィーン”とか“元バスガイド”とか、ある程度の希少価値がある経歴に言及する際に用いるのであって、そこいらのおばはんが「あたし、元女子高生なのよ」などとほざいてまわったら、それがいかに論理的に真である叙述であっても、鼻で笑われるか石を投げられるだけである。

 ではいったい、この“現役女子高生”という不可思議な言葉が、なぜかくも人口に膾炙しているのであろうか?

 容易に想像できるのは、やはりこの言葉は、性風俗産業用語が一般に広まったものなのではないかということである。そのむかし、どう見ても“元女子高生”にしか見えない女性が女子高生を演じるのが常態であった時代があり、消費者のほうもそれはちゃんとわかっていて幻想を投影していたのだが、いつのころからか、ほんものの女子高生が業界に参入してきて、そうした黎明期には、“現役”であることが差別化の重要な要素であったわけなのだろう。「女子高生て書いたあるけど、そんなもんウソに決まってるやん」という前提をみなが暗黙裡に持っていた時代に、“現役女子高生”というコピーには、さぞやインパクトがあったことだろう。

 おれくらいの年齢だと、そういう歴史的経緯が容易に推察できるのだが(ま、最後の“ビニ本”世代ですからね)、よく考えてみると、いまの若者たちには、“現役女子高生”という言葉が、おれたちが思う以上に奇異に響いている可能性はあるんじゃなかろうか。彼らにとっては、べつにほんものの女子高生がメディアで裸身を晒していたとて、「それがなにか?」といった感じであるにちがいない。“ジュニアアイドル”という名の小中学生が、小便臭い大胆な水着姿を晒しておっても、べつに珍しくもなんともないからな、いまは。

 “現役女子高生”という文字列に、ある種のノスタルジーと多少のインパクトを覚えているのは、おれたちよりちょっと年配の世代から上だけなのかもしれない。団塊の人たちなのかもな、若かりしころ、「げ、げんえきじょしこーせー!?」などと衝撃を受けていたのは。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月29日 (月)

謙虚になれ、爺いども!

小中学生のケータイ所持禁止 石川県条例案に異論 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/26043914.html

子どもには携帯電話を持たせないように保護者への努力義務を課す――。石川県議会に提出された条例案に異論が出ている。取り上げても、抜け道がいくらでもある、という指摘や、下校後の塾通いや防犯対策を考えると必要だ、という意見だ。実際、明確なルールを決めた上で携帯電話の持ち込みを認めている学校もある。

(中略)

一方、デジタル・メディアが教育上与える好ましくない影響についての調査を行っている、NPO法人青少年メディア研究会の理事長・下田博次さんは、今回の石川県の条例案について「条例で(携帯電話所持禁止に)踏み込むという姿勢を示したことがよかった。実効性は別だが、地方自治体が(小中学生の携帯電話利用への)危機感を持っている証明だと思う」と指摘する。

「携帯電話を持っているからネットいじめ、出会い系サイトの問題が成立しているのが現状です。これらは当然、携帯電話を持っていなければ、成立しない問題。こうした事件が携帯電話の普及とあいまって増していることを考えれば、私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」

 いろいろと議論をする中で、大人が世の中に追いついてゆこうと試行錯誤や努力をするのはじつによいことだ。思考停止をせずに、もっとああでもないこうでもないと、おれたちは考えてゆかねばならない。

 しかし、このNPO法人青少年メディア研究会の理事長とやらの見解にはずっこけた。「私は、携帯電話がどんなに優れた機器であろうとも、大人が管理、指導できないものを子どもには渡さない方がいいのではと考えます」だって? なにを言っているのかわかっているのか? 要するに、これは大人が「おれたちのわからんものを若いやつに持たせてはいかん」と言っているわけである。アホか。典型的なロートルの発想である。いつの世も、上の世代が理解できない新しいものがほんとうに世の中を変えてきたのだ。あんたも若いころは、「大人はわかってくれない」と思っていたことはないのか? それを忘れたのか? 手塚治虫だってビートルズだって筒井康隆だって、最初から大人たちは褒め称えていたのか?

 この理事長さんは、野口悠紀雄の言をとくと聴くがよい──

野口 それは、GPTの種類によるのですね。「電力の場合にはイギリスに不利な技術変化だったけれど、ITは逆で、日本に不利な技術変化だ」というのが、この本の主張です。
 例えば、ITは1980年代以降のものですから、その頃すでに企業の中堅になっていた世代の人たちが、いま企業において決定権を持っているわけですね。その人たちは、新しい技術に適応力を持っておらず、ITが得意なのは若い人です。だから、もし会社の中でITを活用するようなことになったら、下克上が起こる。
 そういう人たちがITの導入に積極的な考えを持つとは考えられません。これは、日本型企業のひとつの特徴である年功序列制が、新しい技術の導入に抑制的に働くことを意味します。

 そう、つまり、この理事長のものの考えかたは、“自分たちにわからないものを若いやつが自在に駆使するのは危険だし、面白くない”といった、結果的に組織や企業や国家の総体としての競争力を下げる方向に働く考えかたなのである。つまり、凡百のロートル経営者と同じ“すでに自分は終わっているくせに既得権にだけはしがみつこうとする”卑しい発想にすぎない。これこそ、日本がITをハコモノとしてしか捉えず、国を、社会を豊かにするためにITの真の力を引き出せない大きな理由のひとつだ。小学生や中学生には、ITの理論や仕組みはまだよくわかっていないかもしれない(が、興味さえ持てば、MITの講義だって無料で視聴できる仕組みはすでに開放されている。いま小学生の子らだって、やる気と興味さえあれば、数年後には、それらを直接利用し理解できるようになれる)。しかし彼らは、その“活かしかた”においては、下手な企業をはるかに凌ぐ。野村総研“産消逆転”などと言われて、国や企業は恥ずかしくないのか? ガートナー「大きな変革が足元で起きていることを認識してほしい」などと言われて、国や企業は危機感を覚えないのか?

 もたもたしている大企業のロートルをよそに、優れた中小企業の経営者たちは、あたかも小・中・高校生たちのようにITを利活用しはじめている。投資額では大企業に遠く及ばなくとも、その利活用の知恵は大企業をはるかに凌ぐケースも少なくない。「ややこしいことは専門家に任せておけばよいが、こんなに使えるものを本業の経営に使わんでどうする? おれは技術者になるつもりはないが、経営者としてこの強力な武器を活かすために学ばねばならんことがあるなら、いくらでも学んでやる!」という、経営者としてじつに正しい気概が彼らにはある。それはあたかも、難病に立ち向かう決意をした個人が、「おれは医者じゃないし、なるつもりもないが、この病気を克服するためなら、おれの病気や治療法を当事者として患者なりに理解する努力をせねばならん」と、医学的な知識を身につけようとしているかのようである。

 おれはなにも爺さんたちに十六進数で寝言を言えとか、TCP/IP のヘッダの構成くらい暗記しておけとか、Perl や PHP や Python や Ruby でばりばりコードを書けとか言っているわけではない。新しく出てきたものが“使える”ものであれば、それを自分の本業(たとえば、経営)に“活かす”ためのリテラシーくらいは、いくつになっても謙虚に身に着けようとせよ、とくに自分より年下の者に学べと言いたいだけである。

 その自分たちの怠慢を棚に上げて、「おれたちにわからんものを若いやつが使いこなすのはけしからん」などというくだらない考えを、さも教育的に重要なことであるかのように吹聴するロートルどもの気が知れん。おれはこのような年寄りにだけは、絶対になりたくない。

 なんのことはない、ケータイがどうしたこうしたという問題は、子供の問題ではないのだ。大人の側の怠慢の問題である。

 将来もし、魔法がおのれの本業や社会全体に大きな影響を及ぼす重要な技術として台頭してきたならば、おれは魔法を子供のころから使いこなしている若いやつ(“マジカル・ネイティブ”?)に教えを乞うだろう。『はじめての魔法』とか『図解でわかる魔法』とかいった本を買ってきて読むだろう。〈日経魔法ストラテジー〉を定期購読するだろう。「魔法 is beautiful」「404 魔法 NOT FOUND」といったブログのRSSを受けるだろう。自分が魔法に習熟できなくとも、その利活用のしかたについては、年の甲に頼って、あんまりない知恵を精一杯出そうとするだろう。

 まちがっても、「おれのわからん魔法を若いやつが使いこなすのはけしからん」などとほざく爺いにだけはなりたくない。



| | コメント (3) | トラックバック (1)

2009年6月27日 (土)

♪寂~しさに負けた~、いいえっ、タヌキに負けた~

寂しさに負けた…タヌキの置物何度も盗む 容疑者を逮捕 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0625/NGY200906250001.html

 陶器のタヌキの置物を盗んだとして、愛知県警豊橋署は25日、同県豊橋市多米町、無職木村修武容疑者(52)を窃盗の疑いで逮捕した、と発表した。木村容疑者は独り暮らしで、「寂しさから盗んだ。ここ1年で、10体のタヌキの置物を盗んだ」と話しているという。
 同署によると、木村容疑者は24日午後11時10分ごろ、同市内の会社員男性(41)方で、庭にあった全長約60センチの陶器のタヌキの置物(1万円相当)を盗んだ疑いがある。木村容疑者はこの置物を盗んだ後、さらにタヌキの置物もう1体を盗もうと戻ってきたところを、男性に見つかり、110番通報で駆けつけた同署員が逮捕した。
 木村容疑者が、なぜタヌキの置物を狙っていたのかは不明で、同署員は「(木村容疑者は)タヌキマニアなのかもしれないが、よくわからない」と話している。

 まあ、先日の「ヘビの散歩」のおっさんだってそうだけど、はっきり言って、どこか“病んでる”よなあ、この人たち。だが、病んでいるがゆえに、そりゃ犯罪はいかんけれども、どうもその、そこはかとない惻隠の情というか、けっして人ごとではないなにかを感じて、妙にいとおしくなってしまうことも事実である。いやそりゃ、犯罪者ですよ。でも、悪い人じゃないような気がしちゃうんだよねー。

 これが仏像かなにかなら、オーガナイズされた組織犯罪の匂いみたいなものがして、とたんに関心が失せるのだが、タヌキの置物ってとこがしょぼくていいじゃないすか。“業”のようなものを感じる。おれもいつの日にか、カエルの置物の連続窃盗犯として逮捕されるところまで壊れてしまうようなことがないとは言えない。

 もしそういうふうにおれが壊れてしまったら、おれの友人・知人の方々にはお願いがある。「まさか、あんな真面目そうな人がこんなことを……」みたいな薄っぺらなことは、けっして言わないでほしい。え? べつに頼まれんでも言いませんかそうですか。でもまあともかく、「ああ、とうとうやりおったですか。そのうち、なんかやるんやないかと思うてました」くらいのことを言って、マスコミを喜ばせてあげてほしい。え? べつに頼まれんでも、そういうふうに言いますって? いやあ、嬉しいね、そりゃ。さすがおれの友人・知人だけのことはある。いつ壊れても安心だ。じゃあ、頼みましたよ。

 ここまで壊れたかないけどねえ……。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月25日 (木)

採用条件:地頭のよいバカ

文科相「平日の就活禁止を」新ルールづくりへ持論披露 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0624/TKY200906240374.html

 「就活」に新しいルールを――。塩谷文部科学相は24日の参院行政監視委員会で、学生の就職活動が長期化、早期化して学業に影響が出ていると指摘されていることに関連し、「少なくとも平日は、企業も就活(就職活動)の会合をしてはいけないとか、それぐらいのルールを最低限つくってもらいたいと思っています」と述べた。
 山下芳生議員(共産)が「学生は大学3年の早い時期から負担を強いられている」として就職活動のルールづくりを求めたのに答えた。
 塩谷文科相は「かつては就職協定があり、今は(日本経団連の)倫理憲章のもとにやっているが、現実には守られていない」と指摘。「要は授業のある日は(企業が就活中の学生を集める会合を)やっちゃいけないとか、それぐらいのルール」が必要だと語り、山下議員も「なかなか具体的な検討内容を披瀝(ひれき)していただいた」と評価した。
 就活に関する新しいルールづくりは、何度も議論にはなるものの、企業側が難色を示すなど状況は変わらないまま。ただ、今回の大臣の持論披露には、当の文科省内でも「ちょっと現実的ではない」と受け止められている。(青池学)

 塩谷文科相の持論はたしかにいまの状況に照らすと現実的ではないとは思うが、“学生は勉強せえ”というあたりまえのことをあたりまえに言っている点で評価できる。あたりまえのことをあたりまえに言うことは、存外に大事なことだ。

 少し前にあちこちで話題になった「三角錐の体積が計算できない技術系新入社員---深刻な若手の学力低下」という記事をいま一度併せて読むと、いったい企業側はなにを求めているのかよくわからなくなる。おれがわからなくなるのだから、就職活動中の学生諸君はなおさらわからないだろう。企業側は、自分たちが大学でろくろく勉強させずに採った学生の基礎学力がないと言って嘆く。矛盾しとらんか?

 企業側のぶっちゃけた本音を想像するに、「十八、九歳の時点の瞬間風速でそこそこの大学に入れたという“そこそこの地頭のよさ”だけを一応証明してくれれば、大学の役目などそこで終わっている。大学でなにを学ぶかなど知ったことではない。というか、あんまり余計なことを教えないで、できるだけ白紙のままでこっちに渡してくれ」ということなのではなかろうか? つまり、“できるだけ地頭のよいバカが欲しい”というのが企業側の(もしかすると、企業側自身も気づいていない深層の)本音なのかもしれん。

 このような企業側の明示的メッセージと暗示的メタメッセージとの乖離は、学生たちをいわゆる“ダブルバインド”の状況に置く。学生たちは、“私はじつは「やればデキる子」なのですが(その証拠にそこそこの大学には入れたのです)、大学では毒にも薬にもならないことをちゃんと勉強するふりをして着々と単位を取っているくらいに世渡りは上手です。もちろん、卒業後はどんな色にでも簡単に染まってみせる、要するにあなたがたの脅威にはけっしてならないアホです”というケッタイなアピールをしながら就職戦線を戦わなくてはならない。

 大学生にろくろく勉強をさせないように行動しながら、採用した新人の基礎学力がないといって嘆くのは、ちょっと学生に酷じゃないの? 企業側はここらで本音で勝負したほうがいいと思う。「まぐれだろうがなんだろうが、そこそこの大学に入れたという一事を以て、少なくとも地頭は悪くないと認定する。だから、大学生時代はできるだけ余計なことは学ばないでくれ。なあに、こっちが内定さえ出しゃ、大学の教師なんぞ簡単に折れて卒業させてくれるよ。キミは義務教育修了程度の四則演算と日本語の読み書きができりゃいい。その代わり、ウチの会社に入ってから、ちゃんと“教育”してあげるからウチに来てくれ」──要するに、こう言いたいのだろう? ぶっちゃけた話。

 「へえ、企業ってそうなんだ? じゃあ、大学なんて要するに“入れれば勝ち”なんだね? よーし、大学入って、思いきり遊んで、立派な“地頭のよいバカ”になっていい会社に入るぞお」などと目から鱗が落ちた学生が仮にいたとしたら、そういう人は「優秀なエンジニアは「入社時のスキルを問わない会社」には就職してはいけない」という、これまた一時話題になったブログエントリーも読んでおいたほうがよい。べつにこれって、もはや“SIer”にかぎった話じゃないからね。定式化すると、“○○を以て競争力とし、○○で食っているはずの企業が「入社時の○○を問わない」と新卒を募集しているのはあきらかにおかしい。なにか裏がある”ということだ。

 なんの道によらず、大学でちゃんと勉強してきた人は、「入社時の○○を問わない」企業じゃなくて、「入社時の○○を大いに問う」企業に入ったほうが、なにかと面白いだろうと思うよ。せっかく○○をしっかり勉強してきたのに、入社してみたらいきなりド素人と横並びで、「大学教育? 専攻? なにそれ? 食えるの?」みたいな扱いをされたら、「だ、大学って……なんだったの?」と、ヤワなやつは五月病になっちまうよなあ。でも、基本的に“地頭のよいバカ”を欲しがっている企業ってのは、どこも似たり寄ったりだろうと思いますよ。

 純プラグマティックに考えると、大学時代の勉強は“趣味”と割り切って思いきりやって(趣味だからこそ、損得考えずに打ち込めるのだ)、就職活動では適当に“地頭のよいバカ”を演じて適当なところに潜り込む──ってのが、今風の処世術かもしれん。そのうち、デジタルネイティブのキミらがほんとうに面白いと思えるなにかにめぐり会うかもよ。会わないかもしれないけど。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月23日 (火)

女々しいぞ、松浪健四郎!

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 自民党内からは厳しい声も (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157738.html

宮崎・東国原知事「総裁候補」発言 麻生首相「これは去就の問題」 (FNNニュース)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00157749.html

自民党の古賀選対委員長から次期衆院選出馬の要請を受けた宮崎県の東国原知事が、「自分を総裁候補にする覚悟があるなら」と応じたことについて、麻生首相は23日午後6時すぎ、官邸で記者団に対し、「(事前に首相の了解を得て、古賀選対委員長は東国原知事と会談した?)東国原知事さんに会いにいくという話は知っていました。(麻生首相への挑戦ともとれるが?)知事を辞めて、それなりにいろんなことをやる。これは去就の問題ですから、そんなおちょくったような気持ちで言っているとは思いません」と述べた。
東国原知事の発言について、大阪府の橋下知事は「本当に言ったんですか? 古賀委員長に。いや~、度胸ありますね。とてもじゃないですけど、考えられない、すごい」と述べた。
自民党内からは、さまざまな声が聞かれた。
自民党の丸川珠代議員は「さすがですね。東さんの切り返しが素晴らしいと思います。それは東さんならではですね。組織をまとめていくっていうのと大統領って、また違う資質だと思うので、やってみないとわかりませんね」と述べた。
自民党の松浪健四郎議員は「『東国原君、顔洗ってくれ』と言いたい。それに、東国原知事に依存しなければいけないほどに、自民党が落ちてんのかと思うと、情けないね」と述べた。

 顔洗うのはあんたのほうだよ、松浪健四郎。自分が所属している党の選挙対策責任者が頭を下げて頼みにいった相手に、上から目線でなにをほざくか! 無礼にもほどがある。民間企業なら、こういう状況で自分の組織が頼みにいった相手を、公の場で悪く言うことなど考えられない。「なんであんなやつに頼みにいったのだ」と、あくまで内部で批判し合うのが常識である。組織というものは、対外的には“ひとつ”のものとしてふるまわなくてはならないのだ。いかに、おのれが自分の所属組織の行動に批判的であったとしてもである。そういうあたりまえのことを理解する能力を、組織の“自浄能力”という。

 松浪健四郎、あんたが、「顔洗ってこい」というべき正しい相手は、古賀選対委員長である。そんな世間ではあたりまえのこともわからずに、ただただ大きな組織にぬくぬくと属しているだけの優越感からか、自分たちが頭を下げにいった県知事に対して無礼な言を吐くとは、女々しいにもほどがあるぞ。おれはフェミニストだから“女々しい”という言葉はあまり使いたくないのだが、おれの怒りをあんたに伝えるにはこの言葉が最も適当であろうと判断する。“女々しい”という言葉が政治的に不適切だというのなら、“男の腐ったような”とでも言おうか。そんなことをうじうじ言っているんなら、古賀選対委員長にコップの水でもかけにゆけばよかろう。あるいは、そんなに自民党がいやなら、とっとと離党して、他党に入るなり新党を立ち上げるなりしろ。

 丸川珠代議員にしても橋下徹知事にしても、東国原知事の強烈な毒を含んだ発言の意図がわかっているから、天晴れ、よく言ったと、ウケながら褒めているのである。麻生首相もなにを頓珍漢なことを言うておるか。東国原知事はべつに自民党を「おちょくって」いるわけではない。「なめて」すらいない。「おまえはもう死んでいる」と言っているだけのことだ。

 東国原知事は、「都合のよいときにだけ人気者を担ぎ出せば国民なんぞいくらでも騙せる程度にまだ考えているとは、おまえらの頭の中は二十世紀のままで止まってるんじゃねーの? おまえらの人寄せパンダに使われて捨てられてたまるか。どれ、おまえらの腹のくくり具合を試してやろうじゃないか。けけけ、絶句してやがる。そりゃそうだろ。どうせできねえだろうし、できねえからこその自民党なんだ。おい、古賀、顔洗って出直してこい」と、自民党に引導を渡しただけのことである。そんなこともわからんとは、松浪健四郎、そのでかい頭に詰まっているのは筋肉か?

 大阪府第19区の有権者は、いや、全国民は、次の総選挙ではよく考えてもらいたい。もっとも、大阪府第19区の有権者はもうよくわかっていて、この人は小選挙区では“すでに死んで”おり、首の皮一枚で比例区にぶら下がっている程度なんだから、あとは比例で落としてやればよいだけのことだ。こんなのをいつまでも国会議員にしていたのでは、全国民にとってもよくないし、自民党にとってもよくない。

 案外、この事件は、あとから振り返ってみると、自民党の“終わりのはじまり”の決定的引鉄を引いた事件として語り継がれることになるかもしれんな。中央集権体制が弱体化し、地方分権へと移行してゆく時代の象徴として、「2009年 宮崎の屈辱」などと、教科書に載ることになるかもしれん。



| | コメント (19) | トラックバック (1)

蛇足

カミツキガメ飼育容疑で逮捕 ヘビの散歩から発覚 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0622/TKY200906220312.html

 特定外来生物のカミツキガメなどを無許可で飼ったとして、群馬県警は22日、沼田市の男(50)を外来生物法違反容疑などで逮捕した。
 「公園で大きなヘビを放して散歩させている」との相談があり飼い主宅を捜索したところ、甲羅が最大で31センチのカミツキガメ5匹とワニガメ1匹、ニシキヘビらしい死骸(しがい)が見つかった。
 男は「500円玉程度の大きさのカメを5年かけて育てた。ヘビやカメが好きだった」と話したという。県警幹部は「ヘビでアシがつくなんて」とあきれていた。

 素朴な疑問として、「ヘビの散歩」ってのは日本語として正しいのだろうか? じゃあどう言うのだと問われると、たしかに困る。さ、散行

 このおっさんがどのくらいの「大きなヘビ」を「散歩」させていたのかはよくわからないが、五メートルくらいのヘビの首にリードをつけ、コンビニのレジ袋とスコップを持って「散歩」させている五十男の姿をビジュアルに思い浮かべると、なかなかシュールに愉快だ。五百円玉くらいのカミツキガメを三十一センチにまで育てたこのおっさん、けっして悪い人ではなさそうな気もするんだが、違法は違法だからねえ。

 自分の愛するものを、必ずしもそこいらへんのふつうの人が愛してくれるとはかぎらないという教訓を、このおっさんは五十年も生きてきて得ることがなかったのだろうか? SFファンを五年もやれば、そういう常識は身につくんだがな。べつにSFファンにかぎらず、特定分野のオタクは、とても他人事とは思えないだろうとは思うけどねえ。同好の士諸君は、公園で青背を散歩させたりしないように。それが元で、自宅で飼っているサンリオSF文庫が見つかってしまったりするぞ。

 「お母ちゃ~ん、ヘンなおじさんが大きなヘビを散歩させてる。怖い」
 「怖くないよ、お嬢ちゃん。ほら……、伏せっ、伏せっ」
 「ずっと伏せてると思うけど……」
 「そんなことはない、こいつは調子のいいときはもっと伏せるんだ」
 「ほかになにかできるの?」
 「できるとも! ほら、お手っ、お手っ!」
 「…………」

 それにしても、「ヘビでアシがつくなんて」って、この県警幹部、役人にしてはそこそこやりますな。“座布団一枚”“中笑”“アンテナ二本”くらいはあげよう。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月21日 (日)

現金の魔力

 ATMで通帳に記帳しながら現金を下ろすとき、おれはいつも思うのである。

 人は、通帳、カード、現金を、どの順番で取るのであろうか?

 おれの場合は、現金、カード、通帳である。べつに深く考えてのことではない。とにかく現金に先に手が伸びる。

 あえて冷静に理屈づけをしてみると、あとから取るほど取り忘れの可能性が高まるだろうから、なにはともあれ、ATMまでやってきた第一目的であるところの現金を真っ先に確保してしまうのだろうと思われる。元々持っていたものより、新たに増えたもののほうが忘れやすいとなんとなく考えてしまうということもあるからだろうか。むかし知り合いに、「ATMで現金を引き下ろしたのに、肝心のお金を忘れてきてしまった」などというおどろおどろしい(?)話を聞いたことも、かなり影響しているかもしれん。カードや通帳は暗証番号で守られているが、現金は守られていないと感じるせいかもしれん。しかし、人はいちいちそんな理屈を考えて現金を引き下ろしているわけではなかろう。

 では、自動販売機でドリンクを買った場合、あなたはおつりとドリンク、どっちから取るだろうか?

 おれは、とくになにも考えずに、おつりから取る

 だが、冷静によく考えてみると、たとえば、百五十円入れて百二十円のドリンクを買った場合、おつりは三十円にしかすぎないが、出てきたドリンクには百二十円の価値があるのである。なのに、なぜかおつりから取ってしまう。不思議だ。現金はなんとなく一刻も早く確保しないと逃げてゆくような気がするからかもしれないが、それを言うなら、ドリンクだって逃げてゆくかもしれないのは同じである。
 
 どうもおれは、非合理的な行動をしているようだ。本来であれば、購入した商品とおつりとの価値を比べて、価値の高いもののほうを先に確保するべきではないのか? 先ほどのATMの例で言えば、「新たに増えたもののほう」を真っ先に確保すべきではないのか?

 要するに、おれにはなぜだかわからないが、“いろいろあったらとにかく現金を確保せよ”というヒューリスティックな指令がビルトインされているようなのである。

 このようなおのれに埋め込まれたプログラムをじっくり精査してみると、おれはなんと“現金というものは、外気に晒すと、あたかもタンスの防虫剤のように、じわじわと減ってゆくものである”という感覚を持っていることに気づいた。ああ、わかるわかると肯いていらっしゃる方も少なくないであろう。

 事実、現金というものは、べつに外気に晒さなくても、それなりの運用をしないと、タンスに放り込んだままでは、ほぼ確実にその価値は目減りしてゆく。タンスの防虫剤のようにはっきり目に見えればいいのだが、福沢諭吉の肖像がどんどん小さくなっていったりしないので、ふだんあんまり気にかけないだけだ。

 まあ、なんにせよ、“現金というものは、できるだけ外気に晒さないほうがよい”という不条理な感覚は、たしかにおれの超自我にしっかりと埋め込まれているようなのである。だもんだから、とくに意識しない行動は、超自我の指令に従ってしまうのだろう。

 ゆえに、近代経済学が不可思議にもそのベースに仮定してきた、いわゆる“合理的経済人”などというものは、絶対にウソだと思うのである。アダム・スミスとかの時代には、ATMや自動販売機が普及していなかったので、こんなあたりまえのことにも気づかなかったんだろうな。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月20日 (土)

焼酎党の相対性理論

 

「今日は休肝日だから夕食にはビールにしよう」

 麦酒相対性理論とでも言おうか。
 

「でも、食後はやっぱり焼酎にしよう」

 それ、休肝日じゃありませんから。



| | コメント (3) | トラックバック (1)

2009年6月19日 (金)

今年はチャンスだ、森口博子!

 ウチのブログにやってくる人が用いた「検索フレーズランキング」に、「森口博子 歌唱力」ってのが急にランクインしてきて見るみる二位にまで上がってしまい、いったいなにが起こっているのだろうと思っていたのだが、そうか、こういうことだったか。

森口博子デビュー曲「ニコ動」トップ ガンダム30周年大盛り上がり (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/06/18043437.html

「機動戦士ガンダム」がテレビ放送開始から今年で30周年を迎える。記念グッズが販売され、東京、大阪、名古屋で大規模なイベントが予定されている。そうした中で、投稿動画サイト「ニコニコ動画」では森口博子さんの24年前のデビュー曲の閲覧数がトップになり、東京・お台場で作られている全長18メートルの「実物大ガンダム」をめぐってデマが駆け巡るなど大盛り上がりをみせている。

(中略)

一方、投稿動画サイト「ニコニコ動画」で09年6月15日の週からデイリーランキングのトップになっているのはタレントの森口博子さんの歌。これまで20万回近く閲覧され、コメントも2万5000も付いている。森口さんのデビュー曲は「機動戦士Zガンダム」のオープニング曲「水の星へ愛をこめて」。24年前のことになる。また、91年に公開されたアニメ映画「機動戦士ガンダムF91」では、「ETERNAL WIND~ほほえみは光る風の中~」を歌っている。
「ニコニコ動画」に「森口博子 - ガンダム関連2曲」と題してこの2曲のライブがアップされたのは09年5月30日。「曲を聴いて泣いてしまった」「初めて聞いたがいいねぇ」「マジでもっと歌ってくれ、絶対もったいない」というコメントが付いている。森口さんが「ガンダム」の曲を歌っていることを知らなかった人や、思い出の曲と思っていた人が書いたものらしい。

 森口博子を“発見”する若い人がにわかに出てきているようで、まことに喜ばしいことである。一昨年におれも激賞していた『もうひとつの未来 ~ starry spirits ~』(これもガンダムソングだ)のオリコンチャート上位ランクイン以来、森口博子の運気はじわじわ上向いているようで、今年あたり、アイドル時代を凌ぐどでかいヒットが出そうな気がな~んとなくする。絶好のチャンスだ。ここで一発、いい新曲に恵まれてほしいね。

 なんか最近、「あ、この曲いいな」と思ったら、たいていアニメに使われている曲だったりするのである。いいポップスを見つけたかったらアニメを観ることだ。

 先日、「餃子の王将」に入ったら、BGMに「Lacrimosa」Kalafina)が流れていて面食らった。で、それが終わるや否や、しょこたん「涙の種、笑顔の花」が流れ出したので、カウンター席から落ちそうになった。こ、ここは「餃子の王将」ですかっ! ほかの客をざっと見わたすと、どう見ても、これらがアニメの曲だという認識がありそうな客はひとりもいなかった。まあ、ほかの客も、スーツ姿で王将で食ってるおれを見て、「あ、あのおっさんはこの曲がアニメの曲だとわかっている」などとは夢にも思わないだろうが……。案外、あのとき王将にいた客は、ガテン系の風貌の人も家族連れもおばはんも爺さんも、み~んな心の中で、「ファントムハイヴ家の執事たる者、これくらいの曲がわからなくてどうします?」と思っていたりしてな。ちょ、ちょっと不気味だが、人は見かけによらないものだからな。ホントにそうだったとしても、べつに不思議ではない。い、いや、餃子焼いてる兄ちゃんも、「王将の従業員たる者、これくらい……(以下略)」と思っていたのかもしれない。

 だもんだから(なにが?)、アニメ作ってる人たち、いまこそ森口博子を起用して、十年後にはスタンダードになっているような曲を唄わせなさい! 若い人たちが森口を再発見しているんだから、チャンスです。本人は、アニソン歌手みたいに言われることに抵抗があった時期もあったそうなのだが、いまの森口はふっ切れてますよ。誇りを持って、アニソン唄ってくれます。だからこそ、アニソンの枠を超えて万人にアピールするポテンシャルを持っている。曲です、曲。彼女にいい曲を唄わせてちょーだい! そしたら、今年は大晦日に森口博子が観られる。

 はっ。

 なにを熱くなって事務所みたいに宣伝しているのだ?

 いやまあ、歌唱力がどうのこうのと聞いたふうなことを並べてはいるものの、はっきり言って、森口博子はおれのどストライクだというだけのことです、ハイ。ただのミーハーです、ハイ。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

ドラマチックに見れば、なんだってドラマチックなのだ

 『情熱大陸』(主にTBS系)ってドキュメンタリー番組があるが、おれはごくたまにしか観ない。なんちゅうか、誰のどんな生きざまであっても、あのフォーマットに嵌めると、それなりにドラマチックなものになってしまうだろうことが容易に想像できてしまいシラけるからである。パロディーがいろいろ出てくるのも、そうした“フォーマットの勝利”を茶化したい人が少なからずいるからだろう。

 いっそのこと、なんの変哲もないそこいらへんの人のごくごく平凡な日常を密着取材して、ああいうフォーマットに仕立ててみてはどうか? 本業ではないことにまったりまったりと気長に気長に取り組んでいる人なども面白そうだ。「彼は今日もカエルグッズにこだわる」とか「彼女が輝く時間──それは洗濯だ」とか「彼は今日もベルマークを集め続ける」とか「研ぎ澄まされた彼の目は、網棚に放置された雑誌を見逃さない」とか「ちりめんじゃこに紛れ込んでいる小さなタコが、彼の一日の疲れを癒す」とか、なんぼでもそれなりにドラマチックにできそうだ。

 番組名は、そうだなあ、『余熱大陸』なんてのはどうか。



| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年6月18日 (木)

それが手前の哲学ならば、堂々と言えよ!

「外見で不合格」4人に計850万円 神奈川県教委和解 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0617/TKY200906170324.html

 神奈川県平塚市の旧県立神田高校(現・平塚湘風高校)の受験生が、選考基準にない「茶髪」や「スカートの長さ」など外見や服装で不合格にされた問題で、県教育委員会は17日、不合格とされた22人のうち4人について、慰謝料を含め計856万円を支払うとする和解案を合意した、と発表した。19日開会の県議会に和解案を提出する。
 県教委によると、05、06、08年度の同校入試で、当時の校長の指示により、髪の色やピアスの跡、スカートの長さなどを教員が出願時や受験日にチェック。合格圏内に入っていた22人が不合格とされた。県教委が公表している選考基準では、調査書と面接、学力検査を点数化するだけで、外見や服装は選考基準になっていなかった。

 こりゃまあ、県教育委員会の判断はきわめて妥当であると思うね。

 つまるところ、なにが問題なのかと言えば、校長の陰湿な“小役人根性”だけが問題なのである。「茶髪」や「スカートの長さ」も選考基準になるというのなら、そう明示すればいいだけの話だ。そう明示するのなら、それはそれで学校の教育思想の表明なのだから、べつになんの問題もない。たとえば、「アーサー・C・クラークを読んでるやつはダメ、筒井康隆を読んでるやつはダメ」と、それが選考基準になると明示すれば、べつにな~んの問題もない。それがその学校の教育哲学なのであれば、その学校に入りたいやつは、その学校の哲学に合わせるのがあたりまえである。「そんな学校はこっちからお断りだ」と受験しないのも、単に“ご縁がなかっただけ”ですむのである。

 極端な話、「わが校には障害者は入れない。障害を持つ者にはろくな人間はいないというのがわが校の哲学である。障害者に教育など与えるべきではないというのがわが校の方針である。ゆえに、身体あるいは精神に障害のある者は問答無用で落とす」と明言している学校があるとすれば、それはそれでべつに非難されるいわれのない立派な教育方針である。そう明示されているのなら、障害者は最初からその学校を受験したりするという無駄な努力をしなくてすむ。

 この学校の校長が厭らしいところは、とにかく“なにがなんでも言質を取られないように”しつつ、ちゃっかり己の勝手な哲学を公的な意思であるかのように紛れ込ませている点である。これすなわち、“小役人根性”と言う。

 「うちの学校は、茶髪は落とす。スカート丈の長いやつも落とす」と堂々と明示しておけばよいだけの話。どうしてもその学校に入りたいという子なら、ちゃんと明示しておけば、それなりの外見で受験しにくるだろうよ。そういう選択の自由を隠然と奪うのはフェアじゃない。茶髪はダメと明示しているのに、いけしゃあしゃあと茶髪で受けにくるやつがいれば、どんなにテストの成績がよかろうが、堂々と落とせばよいだけのことである。

 この校長の厭らしい小役人根性が発揮されているのは、「わが校は外見でも落とす。文句あるか」とはっきり言う度胸もないくせに、隠然と外見で落としている点に尽きる。つまり、自分はとことん安全なところにいながら、権力だけは行使する──つまり、それを世間はずばり“小役人根性”と呼ぶ──という厭らしさなのである。要するに、「なんで茶髪はダメなの?」という受験生に、堂々と反駁するだけの一貫した哲学がないのだ。哲学がないやつに、なにを教育できると言うのだ、このあさましい小役人めが。結局、可愛いのは自分だけか。

 いわゆる優等生の諸君、こんな学校、受けたいと思いますかね? キミが優秀であればあるほど、この程度の学校を受けるのは、キミらしくないと思いませんか? やめとけやめとけ、もっと“”高い”ところを狙え。



| | コメント (2) | トラックバック (2)

2009年6月17日 (水)

「ケータリングのピザ」って十回言って……じゃあ、コレは?

長電話「ケータイひじ」にご注意 米医学誌に論文 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0605/TKY200906050105.html

 【ワシントン=勝田敏彦】携帯電話の長時間使用で、手や腕のしびれや痛みを訴える人が増えている。ひじを鋭角に曲げ続けていると起きる症状で、全米有数の医療機関の一つクリーブランド・クリニック(オハイオ州)のチームが、注意を呼びかける論文を同クリニックの学術誌に発表した。
 論文によると、「肘部管(ちゅうぶかん)症候群」または俗に「携帯電話ひじ」と呼ばれる症状で、ひじの内側を走る神経(尺骨神経)が圧迫されるのが原因。


More talking, more problems: 'Cell phone elbow' damages nerves (CNN.com)
http://www.cnn.com/2009/HEALTH/06/02/cell.phone.elbow/

(CNN) -- If your pinkie and ring fingers tingle or feel numb, you might not want to pick up that cell phone to call the doctor.
Orthopedic specialists are reporting cases of "cell phone elbow," in which patients damage an essential nerve in their arm by bending their elbows too tightly for too long.
When cell phone users hold the phone to their ears, they stretch a nerve that extends underneath the funny bone and controls the smallest fingers. When talkers chat for a long time in that position, it "chokes the blood supply to the nerves. It makes the nerves short-circuit. The next thing you know, there's tingling in the ring and small finger," said Dr. Peter J. Evans, the director of the Hand and Upper Extremity Center at the Cleveland Clinic in Cleveland, Ohio.
When that happens, the advice is simple: Switch hands -- before it gets worse.

 ……ってあのなあ、ごくごく素朴な疑問として、おまえら、どんだけ電話しとんねん!? なにをそんなに話すことがある?

 ひょっとしたら、ソフトバンクの「でか!ストラップ」のアイディアは、この問題に対する解決策を、論文に先んじて提示しているのかもしれないぞ。あのストラップが十キロくらいあったら、長電話を防止できるばかりではなく、いい筋トレにもなる。ケータイひじなどというものになる前に、疲れて通話を継続できなくなるからね。

 「論文は、携帯電話を持つ手を左右でときどき替えたり、ハンズフリー装置を使ったりすることを勧めている」って、いやだからそもそもそれ以前に勧めるべきことがあるでしょうが!



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月16日 (火)

シュワッチ!

Flash_beam

 ほれ、人はふつう、四捨五入して五十にもなったら、夜中にペンライトを持つと、ふとウルトラマンごっこをしたくなるものなのではないのか。なに? 小林泰三じゃあるまいしって? いや、そりゃ絶対彼もやってるでしょう。

Spoon



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月15日 (月)

これって便利なの?

画面にタッチで写真撮影 富士フイルムが新デジカメ (MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/release/electric/090611/elc0906111718000-n1.htm

 富士フイルムは、液晶画面で一番ピント合わせたいところにタッチするだけで撮影できるコンパクトデジタルカメラ「ファインピックスZ300」を20日発売する。
 画面の手前の花など、ピントを合わせたいポイントを指で触れるだけで撮影できる「タッチショット」機能を世界で初めて搭載。シャッターを半押ししながらピント合わせをするわずらわしさがなくなった。料理などを接写するときに最適な発光量に調整し、自然な明るさで撮影できる「スーパーiフラッシュ」も備えている。
 有効画素数は1000万画素で、市場想定価格は4万円前後。

 はあ? 記事を読んだだけではどういう機能なのか、いまひとつよくわからんな。「シャッターを半押ししながらピント合わせをするわずらわしさがなくなった」って言うけどさ、カメラをしっかり把持している左手をわざわざ離して、液晶画面にタッチするほうがよっぽどわずらわしいようにおれは思うのだが……。それに、右手だけで把持しているカメラの液晶画面に左手でタッチしたりしたら、手ブレを起こさないのだろうか? そこいらへんはちゃんと工夫をされているのかもしれないが、記事を読めば読むほど、このカメラでどこがどう便利になったのか、さっぱりわからん。

 「シャッターを半押ししながらピント合わせをする」ってのは、わずらわしいどころか、左右いずれの手もできるだけ動かさなくてすむ、充分に練られた“枯れた”ユーザインタフェースだとおれは思うんだがなあ。記事を読むかぎりでは、全然便利そうに見えないところが不可思議である。ピントを合わせるときに、左手をいちいちカメラから離して液晶画面に触れ、ピントが合ったところで、もう一度両手でしっかりとカメラを両手で把持して写せということなのだろうか? よっぽど右手がしっかりした人でもないかぎり、かえって写しにくいように思うんだけどなあ。

 まあ、どっかで実機を見たら、試してみよう。おれは買う気はないけどね。これもコンデジのコモディティー化の一方向なのかもしれないが、カメラ本来の機能を使いやすくする方向へじゃなくて、おせっかいにもほどがある“見せびらかし”インタフェースを派手にする方向へ進んでいっているような気がしてならない。

 リコーには、こういうおもちゃじみたプレゼンテーションになどには目もくれずに、ひたすら“人が頭と手を使って自分の道具として操れる手応えのあるカメラ”の路線を突き進んでほしい。ユーザに“上達する喜び”というものを与えてくれる道具にこそ、ほんとうの愛着が湧くというものだ。



| | コメント (8) | トラックバック (1)

2009年6月14日 (日)

あると思います!

 このCMがはじまると、つい立体視を試みてしまう。

 まあ、視差がついてない映像だから、立体には見えないけどね。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年6月12日 (金)

北陸地方、午後はくもりのちおたまじゃくし、ところにより雷魚となるでしょう

「ファフロッキーズ」じゃありませんから (山本弘のSF秘密基地BLOG)
http://hirorin.otaden.jp/e42900.html

 スペルはFafrotskiesである。「Falls From The Skies」(空からの落下物)の略。 命名者は有名な超常現象研究家のアイヴァン・T・サンダースンだ。彼はオーパーツ(OOPARTS = Out Of Place Artifacts)という言葉も発明している。こういう変な略し方が好きなのかもしれない。
 このスペルをよく見てほしい。もしかしたら「ts」は「ツ」ではなく「ス」と発音する可能性もある。つまり「ファフロツキーズ」もしくは「ファフロスキーズ」である。
 でも、「ファフロッキーズ」にはならんだろう、どう見ても。

 なりませんよねえ、というか、するべきではないですね、どう見ても。なんか、今回の石川県おたまじゃくし事件(?)関連の報道でもって、マスコミまで「ファフロッキーズ」などという表記をにわかに広めはじめているみたいなので、気味の悪い表記が定着しないように、微力ながら妥当な表記の普及に協力させていただこう。“エンターティナー”みたいに、「どう考えてもこれはちゃうやろ」という表記でも、一度定着してしまうとしぶとく生き残りますからなあ。

 カタギの人があんまり使わん言葉だからといって、マスコミもマスコミだ。記事に書いたり放送したりする前に、どうして調べない? そりゃまあ語源がバスク語かなんかだったらともかく、英語だぜ? 二十年前ならこういうのを調べるのはひと苦労だったろうが、いまは中学生がケータイでだって調べられる二十一世紀だぜ。

 取材中に「こういうのは“ファフロッキーズ”と言う」という情報を得たら、「はあそうですか、そういうのは“ファフロッキーズ”ですか」などと、そのまま書くんかい!? どういう綴りだろう何語だろうなんかの略なんだろうか調べて裏を取らなくては──くらいのことは、べつに報道人じゃなくたって思うぞ、ふつう。それともあんたらナニか、そこいらへんの眼鏡かけた小太りのおっさんの写真を誰かが「金正日の三男です」と言うたら、「はあそうですか、これが金正日の三男ですか」などと、そのまま報じるんかい!? あ、報じますね。すんません。

 というわけで、お知り合いが「ファフロッキーズ」と言ったり書いたりしていたら、「fafrotskies なんだから、“ファフロツキーズ”あたりが妥当なんじゃない? ロシアの革命家に“トロッキー”なんてのがいたら気色悪いでしょ」とでも説得し、どう見ても気味の悪い表記の蔓延を防ごう。



| | コメント (9) | トラックバック (0)

2009年6月11日 (木)

詐欺から身を守るための二つの呪文

 (1)AとBに相関関係があるからといって、因果関係があるとは言えない。
 (2)AとBが無相関であるからといって、それらが常に独立であるとは言えない。

 べつにそれほど高度な数学や論理学を万人に教える必要はないと思うが、このふたつを高校卒業までにちゃんと納得させておけば、日本の詐欺の被害者は相当減るんじゃないかと思う。幼稚な詐欺のほとんどは、ごくごく基本的な集合と統計の知識で防御できる。というか、ある意味、悪魔はしばしば聖書を引用すると言われるように、報道から推察するに、稚拙な詐欺の多くが集合と統計の詐術に属する。

 え? 集合とか統計とかは学校教育では軽んじられているんですか? そうかなあ、はっきり言って、高校出てからいちばん実生活に役立った数学は、集合と統計だと感じるんだけどなあ……。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

関西人なら知らぬ人はない声

 関西に住んでいる人はみんな思っているだろうが、それにしても橋本のりこは仕事をしすぎではあるまいか。「誰それ?」て、貴様、それでも関西人かーっ!? そこに立って歯ぁ食いしばれ!

 いや、それはともかく、われわれ関西人は、橋本のりこの声をたぶん週に二、三回は絶対聴いていると思う。日中家にいてテレビを観ている人だと、ほとんど毎日何回も聴くことになろう。これは誇張ではない。事実そうなのである。関西のバラエティー番組のVTRナレーションには、必ずといってよいほど登場する、関西のナレーション女王だ。しかも藝達者で、深くて艶のある声で名所旧跡名刹名旅館名食堂を紹介するかと思えば、とても同一人物とは思えぬとぼけた声で吉本芸人の人を食った企画に華を添える。

 行楽やら出張やらで関西にいらした方は、旅館やホテルの部屋でちょっとテレビを点けてみていただきたい。三、四時間ほどテレビを観れば、たぶんあなたはその間に橋本のりこの声を一回は聴いていることになろう。嘘だと思ったら、いまテレビを点けなさい。点けましたね。では次に、関西ローカル局制作の番組をやっているチャンネルに合わせなさい。合わせましたか。毎日放送でも朝日放送でも関西テレビでもよみうりテレビでもいい。よし、合わせましたね。では、その番組を最後まで観なさい。観ましたか。観ましたね。エンディングのクレジットが流れているでしょう。「ナレーション」のところを見なさい。ほら、そこには、たぶん橋本のりこの名がある。「えっ? ナレーションの人って、一人だけだったの??」と面食らうこともあるかもしれない。

 こんなにしょっちゅう声を聴くのに、意外と関西人でも名前は知らない人は多いみたいなのだなあ。裏方のお仕事とはいえ、きわめて高度な専門職なのに、その絶大な“知声度”のわりに、放送業界外での知名度は不当に低いと言わざるを得ない。まあ、ご本人はたぶん「プロの裏方は、それでこそ本望」と思っていらっしゃるのかもしれないが……。

 もはや橋本のりこの声は、“関西の声”と呼ぶべきだと思う。海外に移り住んだ関西人なんかには、YouTube で関西ローカル番組を観ながら、「うわあ、懐かしいナレーションの声! これこれ、この声!」と涙をちょちょ切らせている人が少なくないんじゃなかろうか──「えーと、名前は知らないけど」

 この機に名前も覚えましょう。それは橋本のりこという人です。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 9日 (火)

草食う男

Japan's 'herbivore men' -- less interested in sex, money (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2009/WORLD/asiapcf/06/05/japan.herbivore.men/index.html

TOKYO, Japan (CNN) -- They are young, earn little and spend little, and take a keen interest in fashion and personal appearance -- meet the "herbivore men" of Japan.
Author and pop culture columnist Maki Fukasawa coined the term in 2006 in a series of articles on marketing to a younger generation of Japanese men. She used it to describe some men who she said were changing the country's ideas about just what is -- and isn't -- masculine.
"In Japan, sex is translated as 'relationship in flesh,'" she said, "so I named those boys 'herbivorous boys' since they are not interested in flesh."
Typically, "herbivore men" are in their 20s and 30s, and believe that friendship without sex can exist between men and women, Fukasawa said.
The term has become a buzzword in Japan. Many people in Tokyo's Harajuku neighborhood were familiar with "herbivore men" -- and had opinions about them.

 CNNが日本の“草食系男子(草食男子)”について報じている。見出しを含め、最初のほうでは 'herbivore men' と訳しているのは、さすがネイティブ感覚だ。ここは、多くの日本人は、herbivorous men とやってしまうところだろうと思う。いきなりそういうふうに言われると、英語ネイティブは、「ヴェジタリアンの男?」と思いかねない。herbivorous だの carnivorous だのというのは、第一義的には食性のことを言っているのであって、日本語ほど「草食=おとなしい・攻撃的でない」というイメージが説明抜きで伝わるわけではないってことだ。具体的に sheep とかを挙げると、日本で言っているイメージに近いところが伝わるとは思うが、herbivorous では、ぶっちゃけ、獰猛なカバだって草食ってるわけだよ。"In Japan, sex is translated as 'relationship in flesh,'" she said, "so I named those boys 'herbivorous boys' since they are not interested in flesh."などといちいち説明しなくちゃ英語ネイティブには真意は伝わらないと(おそらくは英語ネイティブの)記者が判断して書いているということなのである。

 またこれは、“名詞A+名詞B”で複合語を造る場合と、“名詞Aの形容詞形+名詞B”で表現する場合とでは、相当意味がちがってしまいかねないというよい例だろう。“草食動物的な属性を備えた男”“草ばっかり食っている男”とは似て非なるものである。smoking area は、アクセントの置きかた次第で「もくもく煙を上げているあたり」になったり「喫煙コーナー」になったりする。ここいらへんのいわく言い難い感覚ってのが、三十四年以上英語やってても、いまだに瞬時に“頭で考えてしまう”ところで、“識域下から反射で出てくる”ってところまではいかない部分なのよなあ。このへんがガイジンの限界かもなあと痛感する。ま、連中にとってのガイジンが英語が下手で文句あるかと腹をくくることも大事である。誰もがサイデンステッカードナルド・キーンになれるわけではない。が、デイヴ・スペクターくらいにはなりたいよな。

 CNNの記事のニクいところは、「この記事の文脈では“草食”ってのはこういう意味で使っていますよ」ということが読者に伝わったであろうあたりから、herbivorous という形容詞を“日本人がこの文脈で使っている意味で”使いはじめるあたりだ。伊達にCNNの記者やってるわけじゃないよね、この人は。

 断っておくが、おれはネイティブ至上主義派ではない。むしろ、英語が母語でない国で編み出された“ネイティブでないからこその表現”にも感心したり親しみを感じたりするほうだ。だけどまあ、ネイティブならではの“キレ”ってのにも憧れることはたしかなのである。たぶん、おれが「アホちゃうか!」と反射的に言うときの“キレ”に憧れてる日本語学習者も世界のどこかにいるんだろう。「日本語を三十年勉強しているが、こういう“アホちゃうか”はワタシには咄嗟に言えない。まだまだ修行が足りん」などと嘆いているガイジンだって、どっかにいるかもしれん。まあ、それはお互いさまだよ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

値の張るマジンガーZ

 いつもの《ヘンな検索語》シリーズ。

「空にそびえる白金の城」

 あの~、ちょっと歌詞ちがってますから。「鉄(くろがね)」でしょーが。なんか、もったいなくて戦えないような超高級感があるなあ。百二十五ミリメートルのガンダムでも二千九百万円してたからな。

 でも、言われてみれば、並みの敵ロボットならたちまち腐食して崩れ落ちてしまうルストハリケーンを口から出すのなら、「白金の城」も理にかなっているっちゃ理にかなっている。超合金Zは錆びないんだろうけどねえ。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 8日 (月)

トコロテンの流派

 かなり暑くなってきたせいかさっぱりしたデザートが欲しくなり、ひさびさにトコロテンを食った。えーと、漢字検定などを受けようと思っている人は“心太”と書きたくなるとは思うが、多くの人に読めない字を書いても詮ないことであるというのがおれの考えかただから(内心ではちょっと嘆かわしいとも思っていたりする)、おれはふつうはカタカナ表記する。逆に言うと、カメラの絞りのように、文字遣いで想定読者層を広げたり狭めたりする(という意思を表明する)。

 それ自体には味らしき味はないのに、なんかうまいよね、トコロテン。黒糖蜜派と、二杯酢派三杯酢派があるみたいだが、おれは二杯酢派である。おれが子供のころは黒糖蜜が添付されたものしか京都では売ってなかったように記憶していて、それはそれなりに嫌いではなかったが、二杯酢トコロテンの味を知ってからは、すっかり二杯酢派に鞍替えしている。トコロテンに“甘み”って要らないようにおれは思うので、三杯酢は試したことがないが、みりんはたぶん邪魔だろうと思う。

 水を切ったトコロテンって、ぱっと見がちょっと脳みそみたいな感じだよね。これは純然たる想像なのだが、手塚治虫『三つ目がとおる』で、写楽保介「脳みそトコロテン装置」(言わずと知れた、脳みそをトコロテンにする装置である。まんまやがな)というやつを作っていたけれども、あれはひょっとすると、手塚治虫もトコロテンを食うときに「なんだか脳みそみたいだな」と思ったから生まれたのかもしれない。

 いまもって不思議に思っているのは、脳みそトコロテン装置で脳みそをトコロテンにされてしまった学生たちは、死にはしなかったんだよなあ。アホになっただけである。たぶんあれは、前頭葉だけをトコロテンにする装置だったのではないかと推測するのだが、人間、はたして前頭葉だけが一瞬にしてトコロテンになったとしたら、死にはせずちゃんとアホになれるものなのだろうか? こればっかりは実験するわけにはいかんしなあ。

 最近、よく知っているはずの小説のタイトルとか、芸能人の名前とかが、咄嗟に出てこないことがよくある。英語では出てくるのに、定訳の日本語がなかなか出てこないとかね。そろそろおれの前頭葉も、ところどころトコロテンになってきているのかもしれん。

 全部トコロテンになったころに、知り合いを招待してパーティーを開こう。テーブルの中央には頭蓋を取り去ったおれがちょこんと座っていて、招待客には、おれのトコロテン脳みそをつついて舌鼓を打ってもらう。できれば、おれの脳みそは二杯酢でお楽しみいただきたい。それくらいは、主催者側の好みを押しつけてもいいだろう。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年6月 7日 (日)

一・二七秒前の写真

The_moon
 月がとっても青いから遠まわりして帰りながら撮影。RICOH R10 の特性もかなりわかってきたせいか、三脚を使わず(といっても、おれはミニミニ三脚しか持ってないが)手持ちで撮ったわりにはうまく撮れた。コンデジでここまで写るんだなあ。

 この写真に写っている月の中心から右上に少し上がったところにある黒いところが、あの「静かの海」である。アポロ11号が着陸したのは、白いところと黒いところの境目からほんの少し“海”に入ったあたりだ。人類はむかしあそこに降り立ったんだよなあ。ちょうど四十年前の一九六九年、おれが七歳になる年の七月のことだ。

 四十年後に人類はまだこの程度であると、六歳のおれには教えたくないなあ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月 6日 (土)

虹と電車の頃

Rainbow

 ああ、虹が出てるなあと駅から出たところでカメラを向けたら、抜群のタイミングで電車が来た。京阪乗るならおけいはん。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月 4日 (木)

お買い上げ御礼(2009年5月)

■2009年5月

【最も値段の高いもの】

 これは意外や意外、この「最も値段の高いもの」欄に消耗品がランクインしたのは初めてじゃなかろうか。かなり普及しているとはいえ、Blu-ray ディスクは、スピンドルで買ってもまだこんなにするのかあ。おれんちはまだDVDです。

【最も値段の安いもの】
  
 三点が同率ランクイン。現時点では価格が変わっているが、これらを買った人は、みんな一円で買っているのだ。

 『宇宙大シャッフル』は、あきらかに忌野清志郎追悼ということでしょうね。おれもこの曲は大好きで、CDが出たころに買っている。

 生島治郎を最近“発見”して、《片翼だけの天使》シリーズを買い集めてらっしゃるのかな。いや、おれは映画の『片翼だけの天使』しか観てないけど。ソープランドがまだトルコ風呂と呼ばれていたころの、実話ベースの純愛ストーリーである。ちょこっと、タモリも出てるんだよね。

【最も多く売れたもの】

 ああ、これはランクインの理由はあきらかだな。「第1回CDショップ大賞」に、相対性理論の『シフォン主義』が選ばれたからだろう。今年の一月にこの『ハイファイ新書』がブレークしたときに見逃していた人たちが、CDショップ大賞の報道で興味を持って、試聴などしてみたところが、たちまちハマってぽちっとやったにちがいない。

【最もケッタイなもの(主観)】
 こんな本が出てるんだねえ。いや、「冒険缶詰」などと言われると、おれなんぞはまずシュールストレミングを連想してしまうのだが、これはどうやらまともな缶詰の本みたいだ。

 「600種類以上の缶詰を開蓋し,中身をカラー写真で紹介」とあるな。たいへんな手間だろうが、なるほど、これはいい着眼だなあ。缶詰が好きな人にとってみれば、開けてみないとわからない缶詰の中身を写真入りで紹介してくれるというのは、たしかに嬉しいだろう。

 それにしても気になるのは、シュールストレミングは載っているのかという点である。あれから十年も経つのに、あの激烈な臭いの記憶は、いまもまざまざと甦ってくるもんなあ。臭いってのは、存外に記憶に重要な役割を果たしているように思うね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 3日 (水)

北朝鮮シミュレータ

「お前、デキるな」でスカッと ほめてくれるサイト評判 (asahi.com)
http://www.asahi.com/digital/internet/SEB200906010004.html

 あなたじゃなきゃダメなの――。「ほめる」をキーワードにしたインターネットのサービスが注目を集めている。「ストレスが吹き飛ぶ」「幸せな気分になれる」などと、会社員や主婦らの人気は急上昇中だ。「成果主義に疲れた現代人は癒やしを求めている」。専門家らはそんな見方をしている。
 大分市のウェブ制作会社は昨年12月、インターネットサイト「ほめられサロン」(http://kakula.jp/homeSalon/)を開設した。名前やニックネーム、性別、職業を入力すると、「○○(名前)がいて本当に助かるよ」「おまえデキるな」。リズミカルなドラムの音が流れ、大量のほめ言葉がハートマークとともに次々と表示される。

 また、ケッタイなもんが流行っとるなあと思いつつ、それでもどこにどんな洞察や発見に繋がるヒントが転がっておるやもしれんし、とりあえず、メディアというものは一度は体験してみないことにはなにも言えんとばかりに、さっそく「ほめられサロン」を試してみた。

 自分の名前を入れてやってみたのだが、いっこうに嬉しくない。思い当たるフシのないことばかりで褒められる。おれ自身は、なんでこのサイトが上の記事のように紹介されるほど当たっているのか理解に苦しむのだが、当たっているという事実の裏に隠れているものには興味がある。現代人って、そんなに褒められたがってるのかなあ?

 褒められて嬉しいときというのはどういうときであるかと、よくよく胸に手を当てて考えてみると、じつに簡単なことなのだった。人は、いや、安易に一般化しちゃいかんかな、おれは、“褒められたいと思ってやったことが褒められると嬉しい”のである。つまり、“ギャグがウケて笑ってもらえた”というのと同じだ。自分がギャグのつもりでやっていないことをゲラゲラ笑われてもちっとも嬉しくない。おれ自身がただただ興味深くてやっていることとか、ただただ面白いからやっていることとか、なんだか知らんがやりたいからやっていることとかが、他人から見ると、あたかも“努力”(おれの大嫌いな言葉である)であるかのように見えていることがあるらしいのだが、そういうことを褒められてもちっとも嬉しくない。「うわあ、上手に呼吸ができるんですねえ」などと言われて嬉しい人などあろうか?

 「ここは、この改行直後に噴き出してほしいな」と思って書いている文章が、思いどおりのところでウケていたりすると、これはけっこう嬉しい。「ええか、ええか、え~のんか~」と、笑福亭鶴光にでもなったような気分になる。

 だいたい、人間なんてものは、歳を食えば食うほど肩の力が抜けて、「褒められたい」などと考えてなにかをすることなどなくなってきて、どんどん自然体になってくるものだろうから(そうじゃない年寄りもたまにおりますが、ああいうのはなんか意地汚い歳の取りかたをしてるなあと、見ていてけっして愉快なものじゃない)、ただただわけのわからないことで褒められても、年寄りは嬉しくないのである。年寄りが褒められて喜んでいる場合、「こんなに好き勝手にやりたいことをやったのに、世の中にはそれを楽しんでくれたり喜んでくれたりする人もいるのだなあ。もったいないことじゃ、もったいないことじゃ」と、一抹の申しわけなさを感じながら、喜んでいるというよりも、そうしためぐり合わせに虚心坦懐に感謝しているのだと思う。あくまでおれが思うだけだけどな。

 だもんだから、この「ほめられサロン」、アイディアは興味深いが、おれ的には全然嬉しくも面白くもないんだよなあ。

 で、おれを激賞するコメントを漫然と見ているうちに、ちがう使いかたを思いついた。これは“北朝鮮シミュレータ”として使える。こんな感じだ──

Homerare_salon01_2

 おお、なかなか適切なコメントを出してくるもんだな。




| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月 1日 (月)

今月の言葉

熱海愛人事件

 いいなあ、健康すぎる問題があって。



| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »