抗ウイルス薬がインフルエンザを広めるかも?
高校生の姪が、六月に韓国へ修学旅行に行く予定だったのだが、新型インフルエンザ発生のために修学旅行が延期になると同時に国内へと行き先が変わったそうだ。まあ、妥当な措置であろう。
もっとも、新型インフルエンザといっても、いまのところ得られている情報では、罹った場合の怖ろしさは、ふつうの季節性インフルエンザとさほど変わらず、先進国在住のふだん健康な成人がさほど怖れるほどのものではないようだ。持病のある人、衰弱している人、老人、幼児、乳児などにとっては、たしかに脅威だが、それはべつにいままでのインフルエンザも同じである。もはや国内で人から人への感染が確認されている現段階に至っては、いっぺんに多数が発症して医療機関への負担が短期間に急激に増えないようにすることが最優先事項だろう。どんな対策を採っても、しょせん時間稼ぎにしかすぎないのだが、その時間稼ぎこそが最重要なのだ。各個人でできることはしよう。不要不急の移動を控える、大勢の人が集まるところへの不要不急の外出を控える、頻繁に手洗いをする程度のことしかない。
マスコミはタミフルやリレンザなどのいわゆる“抗ウイルス薬”のストックや流通体制のことばかりを心配しているが、それはいかがなものかと思う。マスコミはもっと、タミフルやリレンザの作用機序をわかりやすく説明し、啓発を図るべきだと思う。
おれはべつに学者じゃないから、医学の門外漢であることにかけては、そのへんの人に劣らぬ素人であるが、小難しい説明を根気よく読んで調べてゆくことは、多少は得意である。そんなおれ程度でも気にかかっているのは、多くの人が、“タミフルやリレンザは、インフルエンザウイルスの特効薬であって、ウイルスを死滅(というのは、そもそもあれが生物であるかどうか意見の分かれるところなので語弊があるが)させる薬”だと誤解しているという点である。
タミフルやリレンザがどうして効くのか──というのは、素人のおれが各種情報から少なくとも理解している範囲ではこうだ。インフルエンザウイルスは、その殻(エンベロープ)の表面に、ヘマグルチニンという“細胞に取りつくための物質”を持っている。そいつで以て細胞にくっついたウイルスは、細胞内部に侵入し、細胞そのものが自己複製する仕組みの一部を乗っ取って、ウイルスを複製させる。工場に忍び込んだ犯罪者が、工場の設備を使って勝手にヘンなものを作るようなものだ。複製された新しいウイルスは、その感染した細胞から飛び出してゆくのだが、その際、そのままでは、最初に細胞にくっつくヘマグルチニンによって、また同じ細胞にくっついてしまう。ところがどっこい、そこはうまくしたもので、飛び出してゆこうとする新しいウイルスが、すでに感染している同じ細胞に再びくっついてしまった部分をぶった切る酵素をちゃんとウイルスは持っている。それがノイラミニダーゼというものである。こいつが働くから、複製されたウイルスは、感染した細胞を離れて、ほかの細胞をどんどん冒すべく、旅立ってゆけるのだ。すでにお気づきの方もあろうが、インフルエンザウイルスの型を示しているHとかNとかいうのは、くっつき物質・ヘマグルチニンと、ぶった切り酵素・ノイラミニダーゼの頭文字である。
タミフルやリレンザは、新しく複製されたウイルスが感染細胞から飛び出してゆく際に、元の感染細胞に再びくっつくことを妨げるノイラミニダーゼの働きを阻害する薬(ノイラミニダーゼ阻害薬)である。だもんだから、タミフルやリレンザが働くと、インフルエンザウイルスは、感染細胞の中でせっかくコピーをいっぱい作っても、それを飛び出させることができなくなるわけだ。だから、これらの薬の効果があるのは、せいぜい四十八時間以内だとされるのである。すでに多くの細胞が感染してしまっている段階でこれらの薬を投与しても、インフルエンザの症状を緩和することはできない。あくまでインフルエンザウイルスの増殖プロセスを妨げる薬であって、インフルエンザウイルスの毒性を抑える薬ではないからである。
だもんだから、タミフルやリレンザを早めに飲んでよくなったからといって、早々に人の集まるところへ出てゆくのはよくないと考えられる。自分の症状は悪化しなかったかもしれないが、他人にウイルスを移してしまう可能性はまだまだあるわけである。
タミフルやリレンザは両刃の剣だ。早期にインフルエンザウイルスの増殖を抑え、症状の悪化を防ぐという点ではこれらの抗ウイルス薬は人類への福音だが、ウイルスを持っていて発症までしてしまった人を早期に動き回れるようにしてしまうという点では、感染を広める働きをしてしまいかねないとも言える。
過去のアジアかぜ、香港かぜ、ソ連かぜなどのときには、そもそも抗ウイルス薬などは存在していなかったわけだから、今回の新型インフルエンザは、抗ウイルス薬の壮大な実験の機会とも言えよう。死者は減らすが感染は増やすかもしれないわけである。
まあ、これからは国内でも新型が蔓延してゆくことになるのだろうが、抗ウイルス薬で早めに症状を抑えられた人も、ほかの人のために、多めに休んだほうがよいと思いますよ。「おれはタミフルのおかげでもう大丈夫だ。こんな不景気なときにおちおち何日も休んでられるか」という考えが、今回のインフルエンザを広める最大の要因になりそうな気がする。
インフルエンザに罹ったときくらい、腹をくくって、ゆっくり休みましょうよ。
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コメント
論旨にちょっと疑問があります。
記事中にもあるようにタミフルはウイルスの増殖を阻害する薬で、解熱剤のように症状のほうを治癒する効果はありません。ということは、タミフルで症状が緩和された人は体内のウイルスも減っていると期待してよいのではないでしょうか。
市販されている風邪薬の多くは解熱や鎮痛など症状のほうを抑える作用があります。この場合には、患者自身の症状が軽くなっても、まだウイルスが比較的多く残っている可能性があるといえるかもしれません。したがって、症状の軽さに気を良くして外出すると感染を広める可能性が高いといえます。
しかし、タミフルの投与により症状が軽くなった人は解熱剤などの投与により症状が軽くなった人よりは体内のウイルスが少なく、感染を広める可能性も比較的少ないのではないでしょうか。
もちろん症状が軽くなったからといって伝染病の患者が外出することは薦められないということに違いはありませんが、タミフルには感染の広がりを抑える効果はあると思います。
投稿: 東部戦線 | 2009年5月18日 (月) 10時22分
名もない臨床医ですが、
とても鋭い指摘だと思います。
抗ウイルス薬は確かに人類にとって有力な武器
のひとつになりましたが、
実際に重症患者の発生率を改善したとか、
重症患者の予後を改善した、というデータは
ないはずです。(比較対照試験は倫理的にできませんし)
現状では、ほぼ全例にタミフルを使っているようですが、
それが感染を拡大する方向に働くか、その反対か、
今のところ感染症の専門家にもわからないでしょう。
(個人的には、効果があった、という印象があるの
ですが、根拠はないです=笑)
冬樹様や京都大当局の様な冷静な対応のできる
ひとが少しでも増えることが、感染コントロールに最も重要だとは思います。
それにしても、タミフル騒動の時は「悪魔の薬」呼ばわりだったように
思うのですが、掌返しは世の常、人の常と割り切るべきでしょうかね。
投稿: bbdqn | 2009年5月25日 (月) 20時41分
>東部戦線さん
タミフルを予防的に投与すべきだという論も一部にはあるようですが、たいていの場合、ふつうの人が処方されるのは初期の症状が出てインフルエンザの診断が確定したあとです。ということは、その時点で、その人は身体のあちこちにウイルスを持っているだろうと推測されます。
タミフルを投与されたとしても、全身の感染細胞にいっせいに同じように効くとは考えにくいので、あくまでウイルスの増殖を抑えるタミフルとウイルスの増殖との、総体的なせめぎ合いの結果によって、早期に押さえつけられたり、かなり症状が進んでから快方に向かうといった差が出てくることになるのでしょう。
いずれにせよ、タミフルを投与した直後から全身のあらゆる感染細胞でスイッチを切り替えるようにノイラミニダーゼ阻害効果が発揮されるとは思えないのです。また、感染細胞内にいるウイルスには効果があっても、粘液や体液などに遊離した形で存在するウイルスも皆無ではないでしょう。
おっしゃるように、既存の姑息対症療法的な風邪薬も、下手によく効くとウイルスを広めてしまう効果があるかと思いますが、それらを飲む人は、“これから下手をすると悪くなってゆく”という自覚があるわけで、タミフルなどの怖い点は、“これを飲んだからこれからはよくなってゆくばかり”と思わせてしまう点だろうと思うわけです。この差は心理的に大きいのではないかと。“もう一日外出を控える勇気”が、感染症に対して個人でできる心構えなんじゃないかと思います。タミフルの怖いところは、「せっかく高い薬で直接ウイルスを叩いて早くよくなるんだから、一日早く復帰しなきゃ損」と、なんか貧乏性的に思わせちゃうところなんじゃないかと考えるわけなのです。
>bbdqnさん
>現状では、ほぼ全例にタミフルを使っているようですが、
それが感染を拡大する方向に働くか、その反対か、
今のところ感染症の専門家にもわからないでしょう
そこのところが、私も想像もつかないです。薬の効きかたによって、感染を拡大するか縮小するかの損益分岐点がどこかにあるはずですが、実験は非常に難しそうですね。コンピュータシミュレーションでも、熱力学や空気力学で行うような“無個性”なシミュレーションじゃなく、A-Life 研究で行うような、個々の細胞に実際の社会モデルに近いような個性的なパラメータを持たせた厳密なシミュレーションが必要なんじゃないかと思います。あるいは、人間の実際の社会的行動を携帯端末で捕捉してモデル化するといったアプローチ(MITでやってる人たちがいますが http://reality.media.mit.edu/epidemiology.php )も、将来的に期待が持てるんじゃないかと。
>それにしても、タミフル騒動の時は「悪魔の薬」呼ばわりだったように
思うのですが、掌返しは世の常、人の常と割り切るべきでしょうかね。
近年の世論というのは、“両極端シンドローム”とでも呼ぶべき傾向を持っていますよねえ。主たる要因はマスコミの軽率さにあるような気がしますので、せめてネットでは幅広いスペクトルの意見・見解がどんどん自由に発信されるべきだと思います。それらを受け取るほうも、必ず複数のソースを当たって、“オンかオフか”じゃなくて、“どうやらこうらしい”という“曖昧さに耐える”スタンスを持つように心がけてゆく必要があるんじゃないかと思います。自戒も込めてですが。
投稿: 冬樹蛉 | 2009年5月26日 (火) 01時11分