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2009年5月14日 (木)

報告書の始末書?

 おなじみ、《ヘンな検索語》シリーズだが、これにはちょっと考えさせられた──

「虚偽の報告書に対する始末書の書き方」

 そもそも、いったい全体、なにゆえにこのような検索をしているのかよくわからないが、どこかの誰かが虚偽の報告書を作成してしまい、それが発覚して組織から始末書を書くように求められている……ということなのだろうかな? 厳密に言えば、「始末書」の作成をペナルティーとして強制され得るのは公務員だけであって、民間企業で従業員に始末書を書かせるためには、その旨が就業規則にきちんと定義・明記されている必要がある。だもんだから、民間には「顛末書」という、これまたよくわからない不思議なものがあったりすることもある。なにしろ「顛末書」なのだから、事の次第を説明しているだけの文書であり、それはけっしてペナルティーではないのだが、事実上、そのような面倒なものを作らされること自体が懲罰になっているとも言えよう。

 それはともかく、すでに「虚偽の報告書」を作り提出した者が書く「始末書」に、どれほどの信憑性があり、反省の意がこもるものか、それ自体、疑問である。その始末書に虚偽があった場合、次はナニ書を書かせるのだろう? 

 虚偽の報告書の虚偽の始末書1の虚偽の始末書2の虚偽の始末書3の虚偽の始末書4を書いたやつが、これから始末書4について書くであろう始末書5が虚偽である確率はどれくらいか──みたいなことを求めるのには、近年IT屋さんのあいだで流行(ちゅうか再評価ちゅうか)のベイズ理論ってやつが有効なのかな? 「この人物が虚偽の文書を作成するのは五回に二回であるから、始末書5が虚偽である確率は五分のニである」などという妙に客観的すぎる考えかたには、あまり人は馴染めないものなのよな。そもそも「始末書5」などというものを書かされる羽目になっている時点で、「こいつが始末書5に虚偽の記述をする確率は相当高そうだ」と主観的に思うのが人情というものだろう。



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コメント

 始末書が常に虚偽であるという前提で考えれば、「始末書n」がn→∞の時に「すべての始末書に記されていない情報」が真相である……ってのは正しいかな。

投稿: 林 譲治 | 2009年5月14日 (木) 07時14分

虚偽の報告をした人は、何故虚偽するに至ったかと、そういう発想は何ゆえ生まれたかの説明を、他者に求められている事に気付けず、尚且つ虚偽の為にどんな影響を及ぼしたのかを反省する必要がある事が理解出来ないらしい。
これはあくまでも私の経験から得た結論ですが。
ま、虚偽報告した時点で「始末書」書こうが「顛末書」書こうが、その人への信頼は失墜してる訳だけどもw

投稿: ちいこ | 2009年5月16日 (土) 09時53分

実際、事件・事故が起こった際の報告書に虚偽の含まれていないものなんてないんですよ(笑)。
報告される側もする側も、もうお約束といった感じですかね。

投稿: たぬき | 2009年5月16日 (土) 10時49分

 なんだか、ボルヘスの小説の題名みたい・・・。

投稿: いぎたなし | 2009年5月16日 (土) 13時34分

>林譲治さん

 た、たぶん、正しいんじゃないでしょうか(^_^;)。そんなに始末書要らんけども。


>ちいこさん

 社会保険庁なんかは、もはやなにをどう報告しようとも、なんにも信用してもらえませんよね。まともな人はとっとと辞めて、その本来は優れた能力を民間企業で発揮してもらいたいもんです。


>たぬきさん

 ですよねえ。でもって、そのノリの裁判員制度で死刑にされる人は、いい面の皮ですよねえ。


>いぎたなしさん

 うまいっ!

投稿: 冬樹蛉 | 2009年5月25日 (月) 01時28分

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