« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

2009年5月の22件の記事

2009年5月31日 (日)

月面二足歩行ロボットの意味

「一体何の意味があるのか」 「月面2足歩行ロボット」に批判 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/05/29042101.html

政府が策定を進めている「宇宙基本計画」が、思わぬブーイングに見舞われている。この計画自体は、情報収集衛星を増強したり、有人での月探査を目指したりする意欲的なものなのだが、「二足歩行ロボットでの月探査」という項目に、批判が続々と集まっているのだ。
「お金をかけて何がしたいかわからない」
日本の宇宙開発についての基本方針を定めた「宇宙基本法」が2008年8月に施行され、これに基づいた国家戦略「宇宙基本計画」の策定が進められている。麻生首相が本部長を務める「宇宙開発戦略本部」が案をまとめ、09年4月28日から5月18日にかけてパブリップコメント(パブコメ)が募集された。
各地から寄せられたパブコメでやり玉に挙がっているのが、「月面2足歩行ロボット」。これは3月6日に行われた専門調査会の場で、専門調査委員のひとりである元宇宙飛行士の毛利衛氏が提案したもの。毛利氏が提出した資料では、国家目標として「日の丸人型ロボット月面歩行計画」をかかげ、「有人・無人の議論を超えた第3の道」「日本独特な有人宇宙開発の提案」などどうたっている。
計画案では、2020年頃に日本独自でロボットを活用した月の無人探査、25~30年頃に宇宙飛行士とロボットが連携した有人月探査を目指しており、「2足歩行ロボット」も、その中の案として出てきたものだ。計画案には458人から1510件のパブコメが寄せられたのだが、そのうち約80件が「2足歩行ロボット」に集中。その中には、
「月や火星・金星への探査計画に、人は遅れ(原文ママ)なくとも耐環境型の自立ロボットを帯同させることも日本独特の研究といえます」
と、好意的なものもあるが、ほとんどが批判的なものだ。

 SFファンの方々なら、「そもそもなぜ人間型のロボットを作る必要があるのか」という問題をあーでもないこーでもないと考えたことがあるかと思うが、これは存外に難しい問題ではあるのよなあ。

 上の引用で好意的なパブコメを寄せている人の意見は、残念ながら、かなり頓珍漢である。探査計画で閉じてしまうのであれば、二足歩行ロボットを送る意味などない。将来、月や火星に人類が居住する(金星はまあ無理でしょう)というところまでをスコープに入れれば、そこで初めて二足歩行ロボットを送る意味が出てくる。つまり、短期的な作業効率だけを考えれば、地球と環境が著しく異なるところでわざわざロボットに二足歩行などさせる意味はなく、むしろクモ型とかヘビ型とかそのほかとかのほうが合理的だが、“そこに将来人類が住む”というところまで長期的に本気で考えれば、二足歩行ロボットから取れるデータは、将来、大いに役に立つ。要するに、どれくらいの時間的なスパンが視野に入っているかで、見解が変わってきて当然なのである。「なんの役に立つのか」と言っている人も正しいし、「役に立つ」と言っている人も正しいのだ。「二足歩行ロボットでの月探査」って表現がまずいのだろうな。ここは正直に、「人類の月面居住を視野に入れた二足歩行ロボットによるデータ収集」とまで言ってしまえば、また印象は変わってくると思う。

 おそらく毛利氏はそんなことはよくご承知で、そのうえであえて、“日本人を象徴的に鼓舞する短期的計画”として、これを提案してらっしゃるのだろうと推測する。おれが思うに、毛利氏は科学者としては政治やらなにやらに過剰適応してらっしゃるように見えるもんで、腹の中では、「そりゃ、将来、月や火星にはトーゼン人間は住むでしょ」と思いつつも、そこまで言うと荒唐無稽と思われちゃうだろうから(全然荒唐無稽じゃありません)、とりあえず、アドバルーン的な短期的スコープしかないかのように見えるものを出してらっしゃるのだろう。まあ、政府に毛利氏の提案の真意が理解できるかどうかは別として、政治家や官僚にはわかりやすい“国威発揚”的なものに見せておけば、当座はオーケーかな……といったふうに、毛利氏は考えていらっしゃるのではなかろうか。

 その“世俗に合わせすぎ”なところがまずいのだと、おれは思う。「わしらが、わしらの子や孫や曾孫が、いつまでも全員地球に住んでいられるとでもお思いか?」と、はっきり言っちゃえばいいんじゃなかろうか。言わないから、「何がしたいかわからない」と言われちゃうのだ。まあそりゃ、毛利氏のそういう“世俗に合わせすぎ”なところも、無理はないと理解はできるんだけどなあ。いまの日本政府や官僚に、“人類は遅かれ早かれ宇宙に進出せざるを得ない”という認識と哲学と覚悟があるのかどうかとなると、こりゃ、おれもかなり悲観的である。毛利氏は、政治家や官僚の思惑を超えたところまで、深く考えたうえで、こういうアドバルーンを上げてるんだと、おれは想像するんだよ。

 おれたちはいつまでも全員が地球に住んではいられないのだ──という、考えてみればあたりまえのことを、政治家たちはちゃんと打ち出すべきだと思うね。宇宙への進出は、今世紀では、もはやSFマターじゃなくて、政治マターなのだ。今世紀というスパンで考えれば、軌道エレベータスペースコロニーは、必ず建造されるだろう。というか、せざるを得なくなるだろう。

 二十世紀のSFが夢見てきたことが、年金やら消費税やらエコロジーやらと同じ次元で、おれたち(の子や孫や曾孫)の日常生活に関わるリアルな問題になってくるのが、これからの百年なのだ。オバマ大統領の勝利演説じゃないが、おれたちの世界が百年前にどうだったかを振り返ってみれば、百年後にどうなるか、どうであってほしいかもリアルなこととして想像できるはずだ。西暦二一〇〇、月に人が住んでいないとでも思いますかね、あなたは? おれは、オバマ大統領にはそこまでの視野があるだろうと思っている。politician としては目先の問題に翻弄されているだろうが、彼の statesman としてのヴィジョンには、百年後のアメリカ、百年後の世界が、当然のこととして入っているように思われるのだ。

 まあ、いま現在の日本政府や官僚が、「宇宙基本計画」とやらで、そこまで考えているとはとても思えないのも事実なんだよなあ。連中は、せいぜい、次の総選挙くらいのことまでしか考えてないんじゃないの? 毛利氏の提案は、いまの日本政府には上等すぎるんじゃなかろうか? そういう意味では、毛利氏の提案にブーイングが集中するというのは、わからないでもないんだよねえ。地球上に飢えた人々がいる状態で、宇宙開発もへったくれもあるかというのは、たしかにわからないでもない見解だ。カート・ヴォネガットもそういう姿勢だったよね。おれは、クラークも好きだけど、ヴォネガットも好きなのだ。

 ともあれ、今世紀には、わが国の閣僚や事務次官は、小松左京必読ということにしないか?



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月29日 (金)

noblesse oblige

「下々の者どもは、一万二千円ぽっちを配っておけば、それなりに喜んどるようだな」
「さもしいのう……」
「一段落したところで、われわれがほんとうの給付金をいただく番だな」
「そりゃそうよ。難しい試験に受かって、国家のために尽くすという建前の仕事をしてきたわれわれは、民草どもとは次元のちがう人種なのだ」
「なんだかんだで、十四兆ほどはわれわれに入ってくる計算になるのかな」
「まあ、適当に作った基金に放り込んで、使いみちはあとでゆっくり考えればいい」
「どうせ、この借金を払うのは、一万二千円もらって喜んでる阿呆どもの子や孫や曾孫だからな」
「どうせ、われわれはそのころにはいない。畳の上で大往生したあとの話だ」
「しかし、新型インフルエンザは気になるな。毒性の強いものに変異して大流行したりせんだろうな。阿呆どもにはできるだけ長く働いてもらって、われわれを潤してもらわねばならん」
「なあに、わしらが死んだあとは、野となれ山となれだ」
「リーマンには感謝せんとなあ」
「じつにタイミングがよかったな」
「麻生はまだ使えるか?」
「そろそろ潮時だが、まだ利用価値はあるな」
「次の目くらましはどうしよう?」
「そうたびたび人気スターが公園で裸で騒いではくれないしなあ。ま、そのうち使える事件が起こるだろう」
「テレビ局も新聞社も経営が苦しいから、なんにでも食いついてきてくれるわいな」
「そうだな。アホな些末事を目の前に吊るせば、いくらでも針小棒大に取り上げおるわい」
「それにしても、今回の十四兆の給付金、なんに使う?」
「そうだなあ……三洋電機でも買おうか」
「エコポイントはつくのかな?」
「どうだろうなあ。つくことにさせようか?」
「GMを買うのはさすがにまずいかな」
「外資だからなあ。いくらなんでも、エコポイントはつけにくいんじゃないか」
「使いみちに困るなあ。わはははははは」
「ほんに。わはははははははははは」



| | コメント (7) | トラックバック (0)

2009年5月28日 (木)

ロボットは海苔を破ってはならない

 ロボットが卵を摑んだりするのをテレビで観るにつけ、ロボット工学の進歩に胸躍るのであるが、ここまで進んでいるんだから、ぜひロボットにやらせてみてほしいと思っていることがひとつあるのである。

 コンビニのおにぎりから海苔を破らないようにフィルムを引き出し、ちゃんと三角おにぎりを完成させられるロボットというのを作ってほしい。これは工学者にとっては、たいへんな挑戦だと思う。なにしろ、人間だって、うまくできない人はざらにいるのだ。おれもときどき失敗する。

 右手でおにぎりを把持するわな。で、左手でフィルムをつまんで引き出そうとする。右手で強く摑みすぎると、フィルムの抵抗が大きくてなかなか引き出せないし、下手をすると海苔を破る。だもんだから、右手の把持を弱めると、今度はフィルムにつられておにぎりが左側にすっぽ抜けてゆきそうになる。右手にも左手にも、強からず弱からず、フィルムを引き出すのに最適なグリップ強度と、その絶妙な連繋が要求されるのである。とくに韓国海苔のおにぎりは難しい。表面に塩をまぶした韓国海苔の場合、日本のふつうの海苔よりも摩擦が大きく、相当コンビニおにぎりに馴染んでいる猛者でも、勘が狂うのだ。

 えーと、もし、このようなアホブログを読んでいるロボット工学者の方がいらしたら、ぜひこの難題に取り組んでみていただきたいと思う。冗談でなく、マジで提案している。卵摑んだり楽器弾いたりするのはですね、見るほうも「そりゃ、ロボットなんだから、できても不思議はないわな」と、それを実現する技術のすごさなどには無頓着に思ってしまうものである。しかし、コンビニのおにぎりは、なにしろ非常に多くの人が、うまくフィルムを引き出すのがいかに難しいかをよーく知っているわけだから、ロボットがいとも簡単にやってみせたら、そりゃあ、デモンストレーションとしてはどえらいインパクトですぜ。「たしかに、ここまでできるロボットなら、近い将来、介護や医療の現場に配備してもよさそうな気がするな」くらいには思ってもらえるかも。

 が、よく考えてみると、あまりにも人間的で精妙な動作をやってのけるロボットには、ひょっとすると“気味が悪い”と感じる人もいるんじゃなかろうか。ルックスとか目配りとか受け答えとかだけじゃなく、確固たる単一の目的がある一連の動作にも、“中途半端に生々しいと気味が悪い”という、いわゆる“不気味の谷”が存在するかもしれないよね。ロボットには本来必要ないはずの動作を、生々しく小器用にやってみせたりすると、これはかなり不気味かもしれん。

 たとえば、自分でそこそこ上手に化粧をするとか、社会の窓に指を突っ込んでうまくおちんちんを引っぱり出し、用がすんだら(なんの用だ?)、またうまくしまうとか、きれいに眼鏡を拭くとか、缶入りのつぶコーンスープを終盤には缶を回しながら一気に飲み、最後にのけぞったまま缶の底を叩くとか……こういうことを、ロボットが非の打ちどころがないほどスムーズにやってのける姿を目の当たりにしたとき、人は「よくできてるなあ」と感嘆するのか「気色悪ぅ~」とドン引きするのか?

 ま、なにはともあれ、コンビニおにぎりは、ホントにどなたかやってくれないかなあ。



| | コメント (8) | トラックバック (0)

2009年5月27日 (水)

でも味噌汁付かない

 村上春樹氏の新作長編、発売前に増刷 でも味噌汁付かない
 インド・バングラ サイクロンで138人死亡 でも味噌汁付かない
 敵基地攻撃 麻生首相「法理上はできる」 でも味噌汁付かない
 北朝鮮への抗議決議、衆院で採択 制裁強化求め全会一致 でも味噌汁付かない
 赤ちゃんポスト「全国で相談態勢充実を」 病院が会見 でも味噌汁付かない
 水素燃料ハイブリッド車、初のリース販売 マツダ でも味噌汁付かない
 北朝鮮、非難に反論 「安保理が我が国の主権侵害」 でも味噌汁付かない

 いやさ、このあいだ、さだまさし『私は犬になりたい¥490』を iTunes Store で見つけて、「ああ、あのCMの曲か。いっぺんフルで聴いてみようか」と買って聴いてみたところ、予想以上によかったのでちょっと驚いたのであった。

 若いころはよくさだまさしも聴いたけどさ(たいていの人はやってるだろうが、曲を跳ばしてトークだけ聴いたりとかね)、手前が歳を取れば取るほど、“説教臭い系列”の曲がどんどんうっとうしくなってきて、気楽に聴こうという感じじゃなくなってしまったのよね。

 だが、この曲はいい。結局おれは、さだまさしの飄々としたユーモアこそを最後まで評価する。ただ笑わせるというんじゃなくて、面白うてやがて哀しき、まぬけた感じのさだまさしの曲がおれは好きだ。ふざけたあざといCMソングだと思っていたのだが、こいつは案外、さだまさしの最高傑作のひとつなんじゃないかと思う。忌野清志郎「善良な市民」と併せて聴くと、引き立て合ってじつにいいなあ。

 というわけで、asahi.com の見出しを適当に選んで「でも味噌汁付かない」を付けてみたんだが、これは魔法の言葉だね。なんに付けても、それなりの不思議な味が出る。しばらくは、それがなんであれ、とりあえず、「でも味噌汁付かない」を付けてみることにしよう。わけのわからないニュースが多い昨今、とにかく味噌汁が付かないことを嘆いてみるだけで、なんぼか冷静にものごとを見られるような気がする。

 それにしても、これじゃあ、ソフトバンクの思うつぼだ! ウィルコム派としてはなんだかくやしい。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月24日 (日)

『機動戦士ガンダム00』のエンディングっぽい空

Gundam00_sky
 逆光になるので、なかなか難しいっすね。いろんな設定で撮ってみたうち、ベストの一枚。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

♪必殺パワー、サンダーブレーク!

Dengeki01 先日、ホームセンターで三百九十八円で売ってたので、試しにわが家にも“配備”してみた。そう、あの「電撃殺虫ラケット」である。たかがハエ・蚊の類を一千数百ボルトの電圧で退治しようという大げさ加減がすばらしく、“購入”などという言葉は似つかわしくない。“配備”だ、配備。むかしは日本橋くらいでしか見かけなかったものだが、最近はホームセンターで大量に売っているのだな。

 ちゃんと使えるのかな、早く試してみたいものだと手ぐすね引いて待っていたら、昨夜、パソコンのディスプレイに小さな羽虫がぶち当たってきたではないか。来たきた、最初の獲物が来た、おれの家に入ってきたのがこいつの運の尽きである。

 おれはラケットのメインスイッチを入れ、通電スイッチに指をかけて下段に構えた。安全のために、スイッチは二段階になっている。羽虫はふらふら飛び回っている。

Dengeki02 いまだ! おれは通電スイッチを押しながら、軽くラケットを振った。バチッ!──ラケット面に青白い閃光が瞬き、すでに勝負はついていた。羽虫は、いや、羽虫であったろうものは、ラケットの金網に引っかかったまま微動だにしない。おれは電源を切ると、羽虫の残骸をティッシュでつまんで捨てた。

 ううむ、以前から半ばジョーク商品なんじゃないかと思っていたが、こいつはいい。殺虫スプレーを部屋の中で噴射すると、臭いがなかなか抜けないし、身体にも悪いにちがいない。虫が死ぬんだから、けっして人間の健康にもよい薬品ではあるまい。

 そもそも、飛び道具で毒殺するというのは、なんだか後味が悪い。二重に卑怯な気がする。虫のほうも長く苦しんで死ぬわけだから、陰惨である。一寸の虫にも三分の理。

 そこへゆくと、この電撃ラケットは潔い。飛び道具でない。漢の殺虫武器である。相手の目を見ながら、脇差しのひと突きで悪を葬る中村主水のようなダンディズムすら感じられる。なに? どっちかというと、ひかる一平のような気がする? い、いやまあ、そこは気にするな。薬剤は卑怯で電撃は卑怯ではないのかという声もあろうが、電撃のほうが虫も楽に死ねるというものである。おれは化学より物理のほうが好きだ。一瞬の出来事に、虫自身もなにが起こったのかさっぱりわからないことであろう。

 マジな話、乳児や幼児のいるご家庭などでは、殺虫スプレーはできるだけ使いたくないと思う。化学物質に対して過敏な反応をしてしまう体質の方もいらっしゃるであろう。そんな方々には、これ、けっこういいですよ。化学ではなく、物理で虫に対抗していただきたい。

 ただし、お子様の手の届かないところに保管してくださいね。金網は三層になっていて、通電されるのは外側の二層でガードされた中心の金網だけなので、通電中にうっかり軽くラケット面に触れてしまった場合も危険でないように考慮されてはいるが、強く触れたら通電網にも触れてしまうおそれがある。子供に触らせないに越したことはない。電圧が高いだけで、電流はさほどではないと思うが、電子ライターなどの圧電着火装置の火花(数千~一万ボルト)に触れたことのある人は、あれがいかに強烈なものか身を以てご存じであろう。

 おーし、今年の夏は、こいつに活躍してもらおう。おれはちょっとサドっ気があるのかもしれん。バチッ! と電撃火花が飛んだとき、なんか、すーっとした。ストレス解消にもいいグッズかもな。

 もっとも、虫の後始末をしなきゃならない点は、ほかの殺虫方法と変わらない。でも、新聞紙で叩き潰すよりはましだと思う。叩き潰すと、叩き潰した面(床、壁、襖、その他)も汚れてしまうが、こいつなら、感電死した虫はラケットの網に捕えられたままになるか、そのまま下に落ちるかである。どこも汚れない。

 さあ、来い、虫ども!



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月21日 (木)

進んだかどうかわからないが、変わっていることはたしかなのよな

 ソ連かぜが流行したのは一九七七年だが、この三十二年で大きく変わったことを、思い当たる範囲で列挙してみる。インフルエンザを以前より流行させ得ると思われる変化に「+」以前より流行を抑える方向に働くと考えられる変化に「-」をつけてみた。「+」の要素もあれば「-」の要素もあるといった変化は「±」である。


 ■小学生のころから、大多数が塾に通うようになった。 (+)
 ■学校が週休二日になった。 (-)
 ■週休二日の職場が増えた。 (-)
 ■公衆電話が激減した。 (-)
 ■自動ドアが増えた。 (-)
 ■花粉症が国民的疾患になった。 (±)
 ■リモコンで操作する家電製品が激増した。 (±)
 ■一家に一台だったテレビが、一人に一台(以上)になった。 (-)
 ■大きなイベント会場が増えた。 (+)
 ■カラオケ店が増えた。 (+)
 ■コンビニが増えた。 (+)
 ■ATMが増えた。 (+)
 ■マンガ喫茶、ネットカフェなどが出現し、増えた。 (+)
 ■パソコンゲーム、テレビゲームが一般的娯楽になった。 (±)
 ■携帯ゲーム機が普及した。 (+)
 ■自動改札が増えた。 (-)
 ■ICカード、ケータイ、ETCなどによる電子決済が普及した。 (-)
 ■指紋認証、静脈認証などによる接触型セキュリティデバイスの導入が広まった。 (+)
 ■海外へ行くことが、一般大衆にとっても珍しいことではなくなった。 (+)
 ■独身者、独居老人が増えた。 (-)
 ■路チューしてるカップルが増えた。 (+)
 ■インターネットが普及した。 (-)


 さてさて、こんなことを列挙してみたとて、これといって役に立つわけでもないのだが、意識してみるというのは意味のあることではないかと思う。時代の流れというやつはうまくしたもので、以前あったものがなくなったことによってリスクが減る側面もあれば、以前になかったものが増えることによってリスクが高まる側面もある。

 おれのような、子供のいない独り者でもとくに痛感するのは、おれたちが小中学生、高校生だったころと比べると、現代の小中学生、高校生の生活様式はまるでちがっているということなのである。いろいろな対策を立てている“ゼーレの老人たち”には、じつは現代の子供や若者の生活がよくわかっていないかもしれない。厚生労働省は、文部科学省との連繋を密にし、現代の子供や若者たちの実態を最もよく知っている現場の先生たちの意見や疑問を吸い上げて活かすくらいのスタンスでいてほしいものである。逆に、現場の先生たちは、お上の言うことだからと鵜呑みにせず、自分たちの見識を臨機応変に感染症予防に活かしてほしいと思う。なんといっても、“いま・ここ”の子供たち、若者たちの生活をいちばんよく知っているのはあなたがたなのだし、その知識・見識は、机の前で“一般的”対策を考えている事務方たちの盲点になっていることなのかもしれないのだから。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月19日 (火)

効率のよいインフルエンザの広めかた

 正直なところ、新型インフルエンザに罹るより、裁判員に感染するほうがおれは厭だな。

 新型インフルエンザは薬飲んで数日ウチで寝てりゃたいてい治るが、裁判員に罹ったら、運がよくて三日くらい、運が悪けりゃ数日も、慣れない裁判所に出かけてゆかねばならない。

 マジな話、裁判員や裁判官の中に新型インフルエンザの罹患者がいた場合、九人全員に感染するなんてこともありそうだ。同じメンツが、至近距離で、長時間、口角泡を飛ばして議論するんだろう? 延期したほうがよくない?



| | コメント (5) | トラックバック (0)

なんでみんながみんなマスクしてるの?

 電車の中や駅でえらく大勢の人がマスクをしているので、ちょっとびっくり。インフルエンザに罹っている人や、その疑いのある人がマスクをするのはわかるが、いまのところそういう人はまだ少数派であって、なんでまたこんなにも大勢の人がマスクをしているのか、理解に苦しむ。おまじないみたいなもんか。

 インフルエンザウイルスの大きさは、だいたい100ナノメートルでこぼこだ。煙草の煙の粒子はでかいやつで1マイクロメートルくらいだそうだ。あなたが煙草の煙のでかいやつだとしたら、インフルエンザウイルスはだいたい十六、七センチの球だということになる。そこいらのコンビニやら薬局やらで手ごろな値段で売ってる“キャシャーンマスク”をしていれば、傍らで煙草を吸われても、まったく臭いもなにも感じませんか? そんなことあるか。予防という意味では、そこらの安いマスクなど、気休めにすぎない。そもそも、いくら立体的な成型をされているからといって、あんなものをナノメートル単位の隙間で顔面に密着させることなど不可能である。すでにインフルエンザに罹っている人がマスクをするのは、飛沫感染の確率を下げるという意味で大きな意味があるけれども、そのへんの手ごろなマスクでインフルエンザウイルスを漉し取ろうなどと考えるのは、サッカーゴールでビー玉を止めようとしているようなものである。本格的な医療用マスク(SARSのときに取り合いになったN95とかね)ででもないかぎり、あくまで気休めだ。まあ、電車の中とかの空気を直接吸い込みたくないという心理はわかるけどもねえ。

 猫も杓子もマスクをしている不気味な光景を見ていたら、ふとケッタイな考えが浮かんだ。サングラスをかけていればいくらかは防げるという感染症が流行ったら面白いだろうな、と。駅のホームで電車を待っているあなたがふとあたりを見まわすと、み~んながサングラスをかけているのである。想像するだに、かなり不気味な光景だ。

 若い女性だけに感染し、下半身裸でTフロントを履いていれば防げる怖ろしい病気とかが蔓延しないかなあ。



| | コメント (15) | トラックバック (1)

2009年5月18日 (月)

抗ウイルス薬がインフルエンザを広めるかも?

 高校生の姪が、六月に韓国へ修学旅行に行く予定だったのだが、新型インフルエンザ発生のために修学旅行が延期になると同時に国内へと行き先が変わったそうだ。まあ、妥当な措置であろう。

 もっとも、新型インフルエンザといっても、いまのところ得られている情報では、罹った場合の怖ろしさは、ふつうの季節性インフルエンザとさほど変わらず、先進国在住のふだん健康な成人がさほど怖れるほどのものではないようだ。持病のある人、衰弱している人、老人、幼児、乳児などにとっては、たしかに脅威だが、それはべつにいままでのインフルエンザも同じである。もはや国内で人から人への感染が確認されている現段階に至っては、いっぺんに多数が発症して医療機関への負担が短期間に急激に増えないようにすることが最優先事項だろう。どんな対策を採っても、しょせん時間稼ぎにしかすぎないのだが、その時間稼ぎこそが最重要なのだ。各個人でできることはしよう。不要不急の移動を控える、大勢の人が集まるところへの不要不急の外出を控える、頻繁に手洗いをする程度のことしかない。

 マスコミはタミフルやリレンザなどのいわゆる“抗ウイルス薬”のストックや流通体制のことばかりを心配しているが、それはいかがなものかと思う。マスコミはもっと、タミフルやリレンザの作用機序をわかりやすく説明し、啓発を図るべきだと思う。

 おれはべつに学者じゃないから、医学の門外漢であることにかけては、そのへんの人に劣らぬ素人であるが、小難しい説明を根気よく読んで調べてゆくことは、多少は得意である。そんなおれ程度でも気にかかっているのは、多くの人が、“タミフルやリレンザは、インフルエンザウイルスの特効薬であって、ウイルスを死滅(というのは、そもそもあれが生物であるかどうか意見の分かれるところなので語弊があるが)させる薬”だと誤解しているという点である。

 タミフルやリレンザがどうして効くのか──というのは、素人のおれが各種情報から少なくとも理解している範囲ではこうだ。インフルエンザウイルスは、その殻(エンベロープ)の表面に、ヘマグルチニンという“細胞に取りつくための物質”を持っている。そいつで以て細胞にくっついたウイルスは、細胞内部に侵入し、細胞そのものが自己複製する仕組みの一部を乗っ取って、ウイルスを複製させる。工場に忍び込んだ犯罪者が、工場の設備を使って勝手にヘンなものを作るようなものだ。複製された新しいウイルスは、その感染した細胞から飛び出してゆくのだが、その際、そのままでは、最初に細胞にくっつくヘマグルチニンによって、また同じ細胞にくっついてしまう。ところがどっこい、そこはうまくしたもので、飛び出してゆこうとする新しいウイルスが、すでに感染している同じ細胞に再びくっついてしまった部分をぶった切る酵素をちゃんとウイルスは持っている。それがノイラミニダーゼというものである。こいつが働くから、複製されたウイルスは、感染した細胞を離れて、ほかの細胞をどんどん冒すべく、旅立ってゆけるのだ。すでにお気づきの方もあろうが、インフルエンザウイルスの型を示しているとかとかいうのは、くっつき物質・ヘマグルチニンと、ぶった切り酵素・ノイラミニダーゼの頭文字である。

 タミフルやリレンザは、新しく複製されたウイルスが感染細胞から飛び出してゆく際に、元の感染細胞に再びくっつくことを妨げるノイラミニダーゼの働きを阻害する薬(ノイラミニダーゼ阻害薬)である。だもんだから、タミフルやリレンザが働くと、インフルエンザウイルスは、感染細胞の中でせっかくコピーをいっぱい作っても、それを飛び出させることができなくなるわけだ。だから、これらの薬の効果があるのは、せいぜい四十八時間以内だとされるのである。すでに多くの細胞が感染してしまっている段階でこれらの薬を投与しても、インフルエンザの症状を緩和することはできない。あくまでインフルエンザウイルスの増殖プロセスを妨げる薬であって、インフルエンザウイルスの毒性を抑える薬ではないからである。

 だもんだから、タミフルやリレンザを早めに飲んでよくなったからといって、早々に人の集まるところへ出てゆくのはよくないと考えられる。自分の症状は悪化しなかったかもしれないが、他人にウイルスを移してしまう可能性はまだまだあるわけである。

 タミフルやリレンザは両刃の剣だ。早期にインフルエンザウイルスの増殖を抑え、症状の悪化を防ぐという点ではこれらの抗ウイルス薬は人類への福音だが、ウイルスを持っていて発症までしてしまった人を早期に動き回れるようにしてしまうという点では、感染を広める働きをしてしまいかねないとも言える。

 過去のアジアかぜ、香港かぜ、ソ連かぜなどのときには、そもそも抗ウイルス薬などは存在していなかったわけだから、今回の新型インフルエンザは、抗ウイルス薬の壮大な実験の機会とも言えよう。死者は減らすが感染は増やすかもしれないわけである。

 まあ、これからは国内でも新型が蔓延してゆくことになるのだろうが、抗ウイルス薬で早めに症状を抑えられた人も、ほかの人のために、多めに休んだほうがよいと思いますよ。「おれはタミフルのおかげでもう大丈夫だ。こんな不景気なときにおちおち何日も休んでられるか」という考えが、今回のインフルエンザを広める最大の要因になりそうな気がする。

 インフルエンザに罹ったときくらい、腹をくくって、ゆっくり休みましょうよ。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月16日 (土)

岡部まりの“依頼読み”マジック

 そうなのだ。『探偵!ナイトスクープ』を観るたびに、毎回気になっていて、いつかそのうちブログでツッコんでみようみようと思いつつ、ついに今日までツッコミ損ねていたことをようやく書く。

 岡部まりは長崎県出身である。大人になるまでべったり九州にいたそうだ。そのわりに、まあ、テレビではちゃんと標準語をしゃべっている。

 なのに、なぜか『探偵!ナイトスクープ』の“依頼読み”のとき、「○○県にお住まいの……」と切り出す「お住まいの」の部分だけが、まるで浜村淳のようなベタベタの関西アクセントなのである。きっとみんな、あそこでいつも「おやっ?」と思っているんじゃなかろうか。九州でも「お住まいの」は関西と同じようなアクセントで発音するのだろうか。

 いや、べつにおれは岡部まりに「お住まいの」をアナウンサーのように読んでほしい、アクセントを直してほしいと思っているわけではないのだ。むしろ、『探偵!ナイトスクープ』の依頼読みは、岡部まりのあの「お住まいの」でなくてはならないと思っている。なんか、聴いててほっとするのよな。ネタへの滑り出しは、じつはあの「お住まいの」にこそかかっているとすら感じている。

 以前、岡部まりが休みのときピンチヒッターで依頼読みをやった堀友理子アナウンサー(朝日放送)は、「お住まいの」をちゃんと標準語のアクセントで読んでしまい、それがゆえに非常に違和感を覚えた。べつに堀アナが悪いわけではない。だが、おれはあのとき、堀アナがふつうに標準語で「お住まいの」を読んでしまったがゆえに、岡部まりの「お住まいの」がいかに貴重なものであったかを思い知ったのだった。よ~く考えてみると、『探偵!ナイトスクープ』の依頼読みは、あの岡部まりの「お住まいの」があるからこそ、えも言われぬ“ほっこり”したものになっているのである。

 これからも、岡部まりには、いまさらアナウンサーじみた標準語などに直さず、ずっとあの「お住まいの」をやっていってほしいと切に願うのである。



| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月14日 (木)

報告書の始末書?

 おなじみ、《ヘンな検索語》シリーズだが、これにはちょっと考えさせられた──

「虚偽の報告書に対する始末書の書き方」

 そもそも、いったい全体、なにゆえにこのような検索をしているのかよくわからないが、どこかの誰かが虚偽の報告書を作成してしまい、それが発覚して組織から始末書を書くように求められている……ということなのだろうかな? 厳密に言えば、「始末書」の作成をペナルティーとして強制され得るのは公務員だけであって、民間企業で従業員に始末書を書かせるためには、その旨が就業規則にきちんと定義・明記されている必要がある。だもんだから、民間には「顛末書」という、これまたよくわからない不思議なものがあったりすることもある。なにしろ「顛末書」なのだから、事の次第を説明しているだけの文書であり、それはけっしてペナルティーではないのだが、事実上、そのような面倒なものを作らされること自体が懲罰になっているとも言えよう。

 それはともかく、すでに「虚偽の報告書」を作り提出した者が書く「始末書」に、どれほどの信憑性があり、反省の意がこもるものか、それ自体、疑問である。その始末書に虚偽があった場合、次はナニ書を書かせるのだろう? 

 虚偽の報告書の虚偽の始末書1の虚偽の始末書2の虚偽の始末書3の虚偽の始末書4を書いたやつが、これから始末書4について書くであろう始末書5が虚偽である確率はどれくらいか──みたいなことを求めるのには、近年IT屋さんのあいだで流行(ちゅうか再評価ちゅうか)のベイズ理論ってやつが有効なのかな? 「この人物が虚偽の文書を作成するのは五回に二回であるから、始末書5が虚偽である確率は五分のニである」などという妙に客観的すぎる考えかたには、あまり人は馴染めないものなのよな。そもそも「始末書5」などというものを書かされる羽目になっている時点で、「こいつが始末書5に虚偽の記述をする確率は相当高そうだ」と主観的に思うのが人情というものだろう。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年5月13日 (水)

相対性理論が過小評価されてるとは思えないんだがなあ

第1回CDショップ大賞 相対性理論「シフォン主義」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0512/TKY200905120304.html

 全国のCDショップの店員が、売りたい、聞かせたい邦楽アルバムを選ぶ「第1回CDショップ大賞」が12日発表され、大賞に4人組ポップバンド、相対性理論の「シフォン主義」(みらいrecords)が選ばれた。準大賞には大橋トリオ「THIS IS MUSIC」(パッチワークスレーベル)、Perfume「GAME」(徳間ジャパン)の2作品、ほかに7作品を入賞に選んだ。
 昨年発足した「全日本CDショップ店員組合」が、大手やインディーズを問わず、過小評価されている音楽作品に光を当てたい、と企画した。いわば書店員が選ぶ「本屋大賞」のCD版。
 08年発売の邦楽のオリジナル作品を対象に、148人の店員が3票ずつ投じ、1次投票で29作品を選出、さらに2次投票で上位10作を選んだ。
 大賞の相対性理論は、80年代のテイストが漂うポップなサウンドとシュールな歌詞、淡々とした女性ボーカルが持ち味。ライブの他に、人前に出ることはほとんどなく、インターネットや口コミで話題になっていた。

 こんなのがはじまっていたとは知らなんだ。「本屋大賞」のCD版ねえ。

 おれもこのブログで激賞した相対性理論が賞を取るのは喜ばしいことだが、「全国のCDショップの店員が、売りたい、聞かせたい邦楽アルバムを選ぶ」「過小評価されている音楽作品に光を当てたい」ってところに、ちょっと違和感を覚えた。過小評価どころか、『ハイファイ新書』『シフォン主義』も、iTunes Store では、かなりのあいだ「トップアルバム」の一位と二位に輝いていたと思うんだが……。すでに大ブレークしてるんじゃないの? おれなんぞは、ネットのほうに軸足があるから、「ほとんど社会現象になりつつあるのではないか」などと思っていたくらいだ。べつにケチをつけるわけじゃないんだが、過小評価されているものに光を当てたいという主旨であれば、充分売れているとしか思えない相対性理論じゃなく、もっと売れてない名盤に光を当ててあげてはどうかと思う。

 まあ、あくまで「08年発売の邦楽のオリジナル作品」が対象ということだから、今年一月の『ハイファイ新書』の大ブレークに目をつぶれば、『シフォン主義』は賞の主旨にマッチしていると言えないこともないかなあ。おれは『ハイファイ新書』を iTunes Store で試聴して仰天し、その場で『ハイファイ新書』と『シフォン主義』をぽちぽちっと衝動的確信買いして、ヘヴィーローテーションで聴きまくっているうちにどうしても盤(いた)も手元に置いておきたくなり、アマゾンで二枚ともぽちぽちっとやった。都合二回ずつ買っているわけだが(なにも、いつもこんなアホなことをしているわけではない。それくらい気に入ったのだ)、一回もCDショップには行ってない。そういう時代なんだよねえ。売れてるものを買うのに、なにをわざわざCDショップにゆく必要があるか。

 まさかとは思うが、来年の今ごろ発表されるであろう「第2回CDショップ大賞」が、『ハイファイ新書』になったりはしないよね? 万が一、そうなりそうになったら、ちょっと賞の主旨を考え直したほうがよいと思う。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月12日 (火)

退化してるよね、あきらかに

117億投じる「国営マンガ喫茶」 なぜ「お台場」に建設なのか (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/05/11040891.html

15兆円規模にものぼる補正予算の審議がヤマ場を迎えるなか、その内訳について、野党から批判の声があがっている。特に問題視されたのが、117億円の予算が付けられている「国立メディア芸術総合センター(仮称)」なる施設。お台場が有力な建設予定地とされているのだが、「アキバ文化」に詳しいジャーナリストからは、「秋葉原や『アニメのまち』杉並区などを無視する形のうえ、いきなり『ハコモノ』を作っても上手くいかないのでは」と、疑問の声があがっている。

 おれはマンガもアニメも嫌いじゃないし、どっちかというと好きなほうだが、これを「国営マンガ喫茶」と呼ぶのはいささか言いすぎだと思う。マンガ喫茶に失礼である。そこいらのマンガ喫茶ほど流行るとは到底思えない。少なくとも、マンガ喫茶なら、採算が取れているから営業が続けられるわけだしな。こんなものは、「マンガのグリンピア」になるのが目に見えている。なんで、いまさらハコモノなのだ?

 ここでタイムマシンに乗って、ITpro のニ〇〇一年一月の記事「中央省庁再編はアニメやCGなどコンテンツ産業に吉と出るか」を読んでみていただきたい。ああ、あったあったと思い出す人も多かろう。あの『BLOOD THE LAST VAMPIRE』は、この「通商産業省平成10年度補正予算先導的コンテンツ市場環境整備事業」から製作費の一部が出ており、エンドロールにもちゃんと出ていた。少なくとも、十年ほど前には国も少しはましな方向性を打ち出してはいたと思う。

 とはいえ、やがて「先導的コンテンツ」やら「マルチメディアコンテンツ」やらなにやらという曖昧な言葉は、いつのまにか「デジタルコンテンツ」に矮小化されてしまい、どこ行ったかわからなくなってしまった。かつての「ニューメディア」(死語)を思わせる。

 それでも、むかしは、ソフトに金を出そう、人を育てるのに金を出そうという、まともな方向性はあったわけだ。それを“輸出産業”としてしか見ていない役人と、アーティストのメンタリティーとのあいだに、絶望的な距離があったであろうことは想像に難くないにせよだ。この十年で、政治家や役人も少しは学習というものをしたであろうに。

 それが、平成二十一年にもなって、この「マンガのグリンピア」ですからなあ。はらほろひれはれと言わずしてなんと言おう。

 こんなもん作ってる金があったら、オタクにばらまけ! オタク給付金である。まあ、オタクといってもさまざまなオタクがあるから、経済効果の大きそうな何分野かに絞って試験をし、みごとオタクと認定された人には、百万円くらいどーんと給付する。オタクは購買力が高い。なぜかというと、金持ちのオタクは金に糸目をつけずオタクなものを買うし、貧乏人のオタクは金に糸目をつけながらでも、やっぱりオタクなものを買う。衣食住など彼らの眼中にはない。なんとか生きていられればいいのである。すぐにウンコになって出てしまううまいものなど食うくらいであれば、彼らは小説を買うマンガを買うアニメのDVDを買うフィギュアを買うコスチュームを買う。一万あれば一万買うし、十万あれば十万買うし、百万あれば百万買う。これはものすごい経済効果である。また、そうした冥府魔道をゆく呪われた人々の中から、結果的にさらなる経済効果を生む“なにかしら”を創造してしまうやつも出てくるにちがいない。

 あー、なんかちょっと話が逸れたような気もするが、一万二千円やそこらもらったところですぐに貯金してしまうような人々に金を配るくらいなら、オタクに集中的に配ったほうが絶対景気浮揚に効果があるぞ。

 だから、麻生首相はおれに百万円振り込むように。なんなら一千万でも一億でもいいぞ。一億入ったとしても、衣食住がごとき些末事の水準はほとんど変えぬままで、どばどばっと有効に使ってさしあげるぞ。もっとも、おれひとりでは一億円ぶんも本は読めんしCDは聴けんしDVDは観られんから、それだけあったら、自分の好きな作家を拉致してきて、一年でも二年でも高級ホテルに缶詰にし、傑作を書かせる。ホテルでの生活費は全部おれ持ちだ。なんと有意義な金の使いみちであろうか。



| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年5月 9日 (土)

エアコンのうがい

 そうそう、先日、連休中にえらく部屋が蒸すなあ(そりゃまあ、ゴールデンウィークともなれば、でき得るかぎり引きこもってますからな)と思ったので、ひさびさにエアコンを「ドライ」設定でしばらく入れてみた。

 スイッチを入れてしばらくすると、エアコンが「ガラガラガラガラガラ……」と音を立てはじめた。おお、エアコンがうがいをしているみたいだ──と思った次の瞬間、エアコンから


「ペッ」


 と、ほんとうになにかが吐き出されたもんだから、ひどく驚いた。エアコンに心を読まれたかのようだ。というか、おれの心を読んだエアコンが、的確なギャグで斬り返してきたような感じである。

 いったいなにが吐き出されたのかと、怖るおそるエアコンの下あたりを見てみると、ニセンチくらいのゴキブリだった。「送風」以外でエアコンを点けるのはひさしぶりだったから、どこかからエアコンの内部に入り込んだゴキブリが急激な熱環境の変化にあわててあらぬ方向へ動き出し、回転部に巻き込まれて室内に飛び出してきたのだろう。

 う~む。エアコン、侮れん。



| | コメント (5) | トラックバック (0)

悲しいときー

 画面の右上に出ている「アナログ」の文字があまりにうっとうしいので、しぶしぶ地デジ対応のテレビに買い換えてスイッチを入れたら、画面の右上に「デジタル」と出たときー。

 おれはまだ買い換えてないけどな。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 6日 (水)

花嫁の余命

 このところ、『余命1ヶ月の花嫁』って映画の宣伝をやたら目にする。さっきも目にした。そこでふと疑問が湧いた──ふつうの花嫁の余命はどれくらいなのか?

 二十八歳最初の日に結婚し、八十六歳最後の日に死ぬ女性がいるとすると、彼女が花嫁になった日の余命は七〇八か月である。月で数えると意外と少ない。「いや、多すぎる」とツッコんでいる人は、なにかいろいろフクザツな事情を抱えてらっしゃるのであろう。

 もっとも、これは“彼女が花嫁になった日の余命”であって、“花嫁としての余命”ではない。厳密に考えれば、“花嫁”と呼ばれるのは結婚式当日だけであり、慣用的に拡大解釈しても“結婚してまもないうち”が“花嫁としての余命”ということになる。そもそも花嫁は自分のことを花嫁などとは呼ばないものだから、花嫁が花嫁と呼ばれる期間は、ひとえに周囲の評価によるわけである。きわめて曖昧だ。まあ、おれの感覚では、せいぜい新婚旅行中くらいが花嫁なんじゃないかという気がするけれども。

 とはいえ、結婚後百か月経とうが二百か月経とうが、「私は花嫁だ」といけしゃあしゃあと主張する“花嫁”がいた場合、自己申告を周囲の評価で否定するのもいかがなものかと思う。本人が“結婚してまもない”と感じているのであれば、“主観的には花嫁”であることを否定されるいわれはない。

 ともあれ、結婚式に臨む花婿は、「こいつが八十六まで生きるとすると、余命何か月の花嫁ということになるだろう?」と計算してみるのも一興ではあるまいか。まあ、多くの場合、花婿のほうが先にくたばるわけだが……。



| | コメント (6) | トラックバック (0)

ちょっとうれしい日常のひとコマ

 洗った包丁をびゅんと振って水を切るとき、時代劇のヒーローになったかのようでちょっとうれしい。

 ただ、そのあと包丁を持てあます。鞘があったらもっとうれしいのだが……。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年5月 5日 (火)

逮捕せんか~!

 と、日本中の人が大声でツッコんでいるのが聞こえるようだ。

愛知県警・守山署副署長が飲酒運転容疑 任意で取り調べ (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0505/NGY200905050001.html

 愛知県警は5日、守山署の小川直哉副署長(54)が同日未明、名古屋市守山区内で酒気帯び運転をしたとして、道交法違反容疑で任意で取り調べていると発表した。小川副署長は豊田署交通課長、県警交通安全教育推進室長を経て現職。県警によると、「何でこんなことをしてしまったかわからない。申し訳ない」と話しているという。
 監察官室の発表によると、小川副署長は同日午前2時ごろ、同区内の飲食店から自家用の乗用車を運転して署の駐車場に戻ってきたところ、署員が酒のにおいに気づき、飲酒運転がわかった。呼気中のアルコール濃度は、道交法の違反点数がより重い基準値(0.25ミリグラム/リットル)を超えていたという。
 小川副署長は4日午後6時半から5日午前0時まで、知人らと署の近くの飲食店で酒を飲み、徒歩で官舎に戻った後、1人で署の駐車場から車で再び飲食店に出かけて戻ってきたところだった。飲酒運転したのは、署と2軒目の飲食店の往復約3キロ。1軒目で焼酎の水割り3杯とビール2本を飲んだと話しているという。
 加藤僚首席監察官は「飲酒運転の絶無を期しているなか、警察幹部が飲酒運転をしたことについてはまことに申し訳なく思う。事実に基づき厳正に対処する」とのコメントを出した。

 昨今の警察の基準では、こういうのは現行犯逮捕して、ひと晩拘留し、尿検査したうえで家宅捜索するべきだろう。署員が目の前で見てて、呼気検査で違法な数値が出たんだろう? な~にが「任意で取り調べ」だ、ふざけるんじゃない。逮捕していないから、マスコミも“小川直哉容疑者”と呼ぶことができない。うまくしたもんだ。

 加藤僚首席監察官とやらは、「警察幹部が飲酒運転をしたこと」だけじゃなく、やたら身内に甘い警察の体質に関しても「まことに申し訳なく思う」べきだ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

憲法九条改定案

 ゴールデンウィークというととにかく休みが続くありがたい日々だとしか考えないのだが、なんで休みなのかをうっかり考えてしまったため、ついつい憲法について考えてしまった。考えないほうが気楽でいいのだがなあ。

 おれは以前から何度も言ってるように、改憲派である。第一章はまるごと要らんと思っている。まあ、それはそれで難しい問題だから置いておくとして、改憲というと常に問題になる九条についてである。

 これも前から言ってるように“怪我の功名”だと思っている。つまり、現生人類にはあまりにも未来的すぎてもったいなさすぎ、現実性に欠けると思っている。遠未来じゃなくて直近の現実を見た場合、国の交戦権、集団的自衛権などは限定的に認めるべきだろう。不本意ではあるが、キチガイが襲ってくることは常にあるのだ。

 しかし、非常に長期的に考えるならば、現行の日本国憲法九条を、さらに積極的な全人類へのメッセージとして改定する方向もあるかもしれない。おれは半ば本気で思っているんだが、笑うなよ。おれの素案はこうだ──国の交戦権はこれを認めず、国軍の保有も認めない。しかし、国際救助隊の保有を一国の憲法で規定するのである。そして、どの国も足元にも及ばないハイテクを駆使して、ほんものの国際救助隊“らいちょう”を作ってしまうのだ。宇宙ステーション(らいちょう五号)に救助要請が入るや否や、同盟国へであろうが国交のない国へであろうが、政情なんか関係なく、惜しげもなくハイテク飛行艇を差し向け、人命救助に当たる。これをやれば、世界はびっくり仰天、軍隊で自国を守ることしか考えていない自分たちの憲法に恥じ入り、日本人に宇宙人を見るかのような尊敬の眼差しを向けることであろう。“本家”のイギリスなど、「パクられた~! しかし、なぜおれたちが先にこれをやれなかったのか~」と地団太踏んでくやしがる(?)のではないか。

 専ら自国を守る国軍の保有を規定していないのに、巨額の予算と高度な技術を投じて世界中の人命を救う部隊の保有は憲法で規定している──とんでもないお人よしの国である。この国を攻撃しようなどという国が現れたとしたら、世界各国は“自国の国益のために”このお人よし国家を守ろうとする。それよりなにより、人命救助に用いているあれほどの技術を、もしこの国が本気で攻撃に用いたら……と考えると、どの国もなまなかなことでは怖れて手が出せないのである。それほどのスーパーハイテク部隊なのだ、“らいちょう”は。

 ファンタジーだよ。たしかに現状ではファンタジーだけども、考え得るオプションとしてはアリだとも思うんだよ、ホントに。



| | コメント (7) | トラックバック (1)

お買い上げ御礼(2009年4月)

■2009年4月

【最も値段の高いもの】

 おれは、Always の人たちという認識しかないんだが、好きな人は好きみたいすねー。いまアマゾンでは買えなくなってるが、これを買った方は、なんと8,880円でお求めになったのである。八曲しか入ってないCDなのに。データで買えそうなもんだが、きっとどうしても“盤”が欲しかったんでしょうね。

【最も値段の安いもの】

 SFで“時間のせつなさ”を描かせたら、梶尾真治の右に出る者はそうはいない。よく“デビュー作にはその作家のすべてが詰まっている”なんてことが常套句として用いられるが、たしかに梶尾真治の場合、日本SF永遠の古典に後世もまちがいなく連ねられるであろうデビュー作「美亜へ贈る真珠」には、その後の梶尾ワールドを決定づけるものが種子の胚のようにぎっしり詰まっていたと言えるだろう。

 近年、『黄泉がえり』の映画化により(この『クロノス・ジョウンターの伝説』も、『この胸いっぱいの愛を』のタイトルでのちに映画化されている)梶尾真治のSF圏外での知名度が急上昇し、SFにはなんの興味もなかった人たちが梶尾真治の作品を過去に遡って読みはじめている例が少なくないらしい。おれ自身は『黄泉がえり』をあまり高く評価しないが、きっかけが草なぎ(「なぎ」は弓ヘンに前と刀)クンであれなんであれ、これは日本SFのためには喜ばしい現象だと思っている。

 梶尾真治の描く“時間のせつなさ”がわかる人なら、『おもいでエマノン』にはじまる《エマノン》シリーズも、ぜひ探し出してお読みください。

【最も多く売れたもの】

 3月と同様、該当なし。またもや、売れたものはみーんなひとつずつ売れたのである。

【最もケッタイなもの(主観)】

 うぬぬぬ、こ、これに五千円近く出す人がおるか。おれは出さないが、出す気持ちは少しはわかる。おれはこのアニメはさっぱり知らんけど、写真を見るかぎり、ただごとでない躍動感がある。日本の造形技術おそるべし。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年5月 1日 (金)

今月の言葉

地デジ蚊

 地デジ推進のための新キャラ。チェンバル語をしゃべる。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »