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2009年2月24日 (火)

とりあえず、ありがたくも、今日、おれは生きている

「死に対する畏敬」米でも評価 「おくりびと」栄冠 (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0223/TKY200902230280.html

 受賞の瞬間、滝田洋二郎監督は足早に壇上に上がり、「サンキュー、オール・アカデミー」と英語であいさつした――。第81回アカデミー賞で「おくりびと」が外国語映画賞を受賞した。英語題は「旅立ち」を意味する「ディパーチャーズ」。海外36カ国・地域で公開が決まっている。滝田監督はスピーチを「アイル・ビー・バック」と締めくくった。
 主人公を演じた本木雅弘さんが、旅先で葬儀の光景をヒントに十数年前から温めてきた企画。07年に山形県庄内地方などで撮影し、本木さんの上司を山崎努さん、妻を広末涼子さんが演じた。
 本木さんは、納棺師の青木新門氏の著書「納棺夫日記」を読み込み、現役納棺師の特訓を受けた。「ご遺体」を丁寧に清める湯灌(ゆかん)の儀。旅立ちの衣装への着替えでは、故人の肌が見えぬよう細心の注意を払い、化粧を施して生前の面ざしをよみがえらせる。流れるような所作の美しさ。ひつぎに納めるまでの動きの隅々に、命に対する厳粛な思いがにじむ。

 おれはまだこの映画観てないんだけど、こういう日本の文化に流れる精神性がアメリカ人にも伝わっているらしいのが、なんだか喜ばしい。おれは宗教というものがまったくわからない人間だし、セレモニーというものが大嫌いな人間ではあるのだが、いったい全体、何教なんだか表面的にはさっぱりわからないような日本のあれこれの儀式の底に流れる、ある種の“思いやり”のようなものにだけは、素直に共感できるのである。だからといって、冠婚葬祭が好きなわけじゃないけどな。ほら、葬式って、悲しいけど、なんだか清々しい側面があるじゃないか。自分もいつか必ずこんなふうに灰になるのだということをしみじみ実感すると、なんだか安らぎを覚えないか? おれは葬式が嫌いだが、葬式が終わったあとの、あのなんとも言いようのない穏やかな心持ちは、ちょっと好きなんだな。

 この日記でも何度か話題にしたブログ『特殊清掃「戦う男たち」』は、ショッキングな内容と哲学的な語り口が相まって、かなり人口に膾炙した有名ブログだと思うんだが、同じ会社のエンゼルケア事業部ってところで、湯灌から納棺までやってる女性の『遺体屋の仕事』ってブログも、地味ながらいろいろ考えさせられるいいブログですぞ。まさに、“おくりびと”の日常なんである。まあ、『おくりびと』のアカデミー賞受賞を機会に、知らない方はぜひ読んでみてください。

 常々思うんだが、人の生き死にに関わる仕事ってのは、それだけでもうすごいなあと頭の下がる思いがするのである。おれたちは、人が生まれるところにも死ぬところにも、まあ、ふつうはそんなに多々遭遇するものではない。そういうものを目にするのが日常になっている人々ってのは、たぶん、自分が生きている実感ってものも、おれたちとはかなりちがうのではなかろうかと思うのである。人の生き死にというものをしょっちゅう目にするというのは、はたしていいことなのか悪いことなのかよくわからないが、少なくとも「人は死ぬものだ。じつにあっけなく死ぬものだ」ということは、咲いた桜が散ることくらいに、あたりまえのこととして常に意識しておかねばならんなあと思ったりするのだ。

 そう、ひょっとしてひょっとすると、これがおれの最後のエントリーなのかもしれないわけで、そう思うと、生きてバカをやっていることが、なんともいとおしく、かけがえのないことのように思えてくる。げに、「生きてるだけで丸儲け」なのだよなあ。



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コメント

文化人類学なんかでは、「葬式というのはそもそも、死者のためにというより、残された者たちの精神的ケアのために存在する」という考え方もあるそうです。なんか分かりますねえ。

私としては、「シブがき隊のモックン」が信念を貫いて、ヒットさせるためでもなければカッコイイ役を演るためでもなく、おゲージュツ家ぶるためでもない映画を作ったということもスゴイと思っています。

投稿: ふみお | 2009年2月24日 (火) 15時29分

貴・ブログいつも楽しく拝読。
「おくりびと」は、オススメです。映画館で2回鑑賞。
ヒロスエ氏は、多少ミス・キャスか。
山崎氏(通常はいいかげんなひとの役)は当然ですが余氏が格段に良い。
そして本木氏の仕草の「凛とした美」(普通は、気の弱い青年の役)は、一見です。

投稿: zazatto | 2009年2月24日 (火) 17時42分

>ふみおさん

 ああ、そういえば、伊丹監督の『お葬式』のパンフレットに、岸田秀だったかが、葬式というのは残された者の自我の組み替えの儀式だといったことを書いていた記憶があります。

 本木氏は、一貫して人の生き死にに関心があるみたいですね。『ブラック・ジャック』もやったし。


>zazattoさん

 ぜひ観てみたいと思うのですが、最近、あっというまにDVDになっちゃいますからねえ。いやまあ、映画館の雰囲気は好きなんですが、出かけてゆくのが大儀で(^_^;)。

投稿: 冬樹蛉 | 2009年2月27日 (金) 01時10分

何人か近親者を見送ってきた者として、「葬儀は遺された者の為のセレモニー」ってのは理解できますね。そして葬儀の後(私の場合は火葬後だが)の何とも言えない清々しさに似た寂寥感(?)みたいなものも同感であります。

先日、姉の飼っていた犬が死にまして。
私も勿論可愛がってはおりましたが、飼い主の姉ほどの感慨に耽る事もなかろうと思い、火葬に立ち会った次第。
なのに、なのにですよ!火葬場で姉と無駄話をしつつ順番を待ち、さあいざ火葬ってなった瞬間の胸苦しさったら!
正直「たかが犬如き」と考えていたのに嗚咽が止まりませんでしたね。
そして火葬後、遺骨を拾うだんになって、どっと愛情が込み上げてきて「こんなに可愛くてぇ…」と静かに涙が流れました。許されるなら撫でてキスしたかった。箸じゃなく手で拾い集めたかった。
と、ここで素朴な疑問。
遺骨って手で拾っちゃダメな物なの?もしそうならば理由はなんだろう?焼き立てホヤホヤで熱いから?死は「不浄」の物だから?それとも生者が不浄の物だから?

愛犬を亡くした姉とそんな話をしながらの帰り道、「自分の葬式はして欲しくないな~」と二人で異口同音。
いや、遺された者の意思に任せるけどね。自分はその時はいない訳だし。

投稿: ちいこ | 2009年3月 6日 (金) 12時44分

>ちいこさん
>遺骨って手で拾っちゃダメな物なの?もしそうならば理由はなんだろう?焼き立てホヤホヤで熱いから?死は「不浄」の物だから?それとも生者が不浄の物だから?

 どれも妥当な理由なのでしょうが、たぶん、根底にあるのは「こっち側とあっち側を画然と分けたいから」なんじゃないでしょうか。なんとなく、そんな気がしますね。

投稿: 冬樹蛉 | 2009年3月 6日 (金) 22時19分

レスありがとうございます♪

>「こっち側とあっち側を画然と分けたいから」
あ~そう言う事かとちょっと納得。
レスを読ませて頂いた時の私の心の中を書きますと、
「それってこっち側からあっち側への橋渡し(箸渡し)って事か~。(ほほうと納得)・・・いや、そんな落語みたいな落ちは無いでしょ!!!でもあれか?火葬にする様になったのはそんなに古い話でもない訳だから韻を踏むのはアリなのか?て事は箸自体の歴史に由来してるのか?じゃ、日本古来の発想では無いって事か?箸同様、渡ってきた仏教にも由来する事なのか?でも八百万の神々のいたとされる昔から韻を踏んだ行事やら何やら日本には無きにしも非ず←(この辺りからループ状態に陥る)」
ひととき楽しませて頂きました♪

投稿: ちいこ | 2009年3月 7日 (土) 10時30分

>ちいこさん
>日本古来の発想では無いって事か?箸同様、渡ってきた仏教にも由来する事なのか?

 箸は古事記のころにすでに日本にありますよ。もっとも、いまみたいに分離したやつじゃなくて、竹を二つ折りにしてピンセットみたいにして使っていたそうですが。

 たぶん漢字に汚染されていない“はし”という大和言葉は、「両端」やら「先端」やら「それらをわたすもの」といった類縁的な広~い意味領域を、われわれ日本語が母語である人間の深層イメージでカバーしているのだろうと思います。その「はしわたし」という連想は、あながちハズれてないんじゃないでしょうか。

投稿: 冬樹蛉 | 2009年3月 7日 (土) 11時41分

あ~、あのトングみたいなヤツ!そうだったのか~!分離した箸は渡来物だと思ってました!
大和言葉における「はし」を、あのトングみたいな物は表していますね~!大変勉強になりました♪

う~ん、そう考えると連綿と繰り返される命も「はしわたし」の一環なんだな~なんて思ったりして♪
外国の人なら「命のバトン」とか言うんじゃなかろうか。

現在一児の母(一応この先もそのつもり)としては、はしわたしに貢献できて良かった♪

投稿: ちいこ | 2009年3月 7日 (土) 15時59分

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