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2009年1月の19件の記事

2009年1月31日 (土)

百億のシャンプーと千億の塩

 先日、風呂に入っているとボディーシャンプーが切れた。やれやれと思い、買い置きを詰め替えると、今度はシャンプーが切れていた。やれやれ、なんてタイミングだと思いつつ、買い置きを詰め替えた。で、次の日の朝、洗濯機を回して家を出ようとしたら、今度は液体洗剤が切れていたので、やれやれとまた詰め替えた。重なるときは重なるものである……。

 と、おれの頭を妙なイメージが一瞬にしてよぎった。たとえば、人はシャンプーがなくなると、すぐに買い置きを出してきて詰め替えるであろう。つまり、そのときシャンプーは初期状態にリセットされるわけである。つまりこれは、シャンプーが真円を描いて軌道運動をしていると考えても、いっこうに差し支えないのではないか。軌道運動をしていると見た場合のシャンプーの残量は mod 2π の性質を持つ関数であって、一本め(一周め)であろうが二本め(二周め)であろうが、残量が同じであれば合同と見なせるのである。そうだ。おれたちが日常生活で使っている消耗品の数々は、すべて人工衛星だったのだ!

 とすると、ものすごく規則正しい、機械のような生活をしている人がいたとして、すべての消耗品が新品である状態を初期状態とし、シャンプーが何日でなくなるか、ボディーシャンプーが何日でなくなるか、液体洗剤が何日でなくなるか、味の素が何日でなくなるか、塩が何日でなくなるか、醤油が何日でなくなるか、胡椒が何日でなくなるか、砂糖が何日でなくなるか、酢が何日でなくなるか……(中略)……オリーブ油が何日でなくなるかなどなどなど、それぞれを一本使い切る日数(公転周期)を正確に測定できれば、それらすべてがいっせいになくなる“グランドクロスの日”が計算できるはずだ。「どうしたんだ、今日は!? なんだか一日中詰め替えばかりしているぞ」という日が、いずれはやってくるのである。

 べつに代数的にややこしい計算をしなくたって、精密な時空図を描けば、幾何的に求めることができるだろう。塩やら味の素やらの公転周期がわかればいいのだ。よほど暇な人は、消耗品が切れるインターバルを正確に測定し、トイレットペーパーを何本も繋ぎ合わせたような長~~~~いグラフ用紙を使って時空図を描き、あなたの家の消耗品がいっせいに同時に切れる“運命の日”を算出(というか、描出)してみていただきたい。何十種類もの消耗品がぴたりと同時に切れるのがあなたが描いた時空図の示すとおりであったとすれば、それはそれは感動的な日を迎えることができるだろう。「おおおお……むかし図に描いてみたとおりだった! やっぱり、シャンプーとボディーシャンプーと液体洗剤と味の素と塩と醤油と胡椒と砂糖と酢と……(中略)……オリーブ油とがいっせいに切れる日は……五十六億七千万年後のこの日だった!」と、感涙に打ち震えることであろう。それまであなたが機械のように規則正しい生活をしつつ生き永らえていられるかどうかはわからないが、シャンプーやら塩やら醤油やらなにやらがいっせいに切れる歴史的な感動を弥勒菩薩と共に分かち合えるとしたら、それはそれでなかなかすばらしいことではあるまいか。



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2009年1月29日 (木)

子供に見せたくない洗濯

 われわれの日常には、「きっと、み~んなそう思ってるんだろうなあ」と思いつつも、他人がほんとうにそう思っているのかあえて訊くのもどうかと思われる、きわめて、きわめて些細なことどもがある。

 日記に書くべきか否か、いままで何度も迷ったのだが、今日、意を決して書いてみようと思う。この格調高い間歇日記の題材としては、あまりと言えばあんまりなナニなアレなのだが、「絶対、みんなそう思ってる!」と確信したので、この際、品格などというものを顧慮している場合ではないと、とにかく書く。

 世に“洗濯ネット”というものがある。ワイシャツなどを洗濯するときに、おれもいつもお世話になる。このファスナーが、誰が考えたのか、じつにうまいことできている。ジッパーが洗濯機の中で他の衣類を傷つけたりしないよう、また、水中で揉まれているうちにファスナーが開いてきたりしないよう、ファスナーの終端にジッパーを覆い隠し収納する小さな布カバーが付いている。これは絶対、実用新案なり特許なりを取っているだろう。世の中には頭のいい人がいるものだ。

 しかし、この洗濯ネットを使って洗濯をするたびに、おれはちょっと「……こ、これはいかがなものか」と、なにやらバツの悪い思いをするのである。洗濯ネットを使っているところを、あまり人に見られたいとは思えない。

Net01 ふだん洗濯など家人に任せきりであるといったしあわせな人のために、念のため、洗濯ネットなるものをお見せしておこう。独りものにはおなじみであろう。いろいろな商品があるのだと思うが、まあ、だいたいこういったものである。この中に洗濯物を入れ、洗濯機にぶち込んで使用する。

Net02 中に洗濯物を入れ、こういうふうにファスナーを閉じてゆく。

Net03 でもって、ジッパーを終端まで持っていったまさにこのとき、なぜだかわからないが(じつはわかっているが)、おれはなんだか人に見られたくないことをしているかのようなバツの悪さを覚える。おれに子供はいないが、子供に見せたくない光景であるかのような気がしてしまう。

 いや、おれはただ洗濯をしているだけなのだ。なにを恥ずかしく思うことがあろうか。いや、でも、なんか、やっぱり、ちょっと恥ずかしい。

 きっと洗濯ネットを使っている人たちはみ~んなそう思っているのだが、あまりと言えばあんまりなので、誰も口にしないだけなのだろう。そりゃ、いい大人がこんなバカなことを、「やっぱり、そう思うでしょう?」などといちいち話題にするのもどうかと思う。子供が話題にしていたら、それはそれでフクザツなものがあるけどな。

 いやしかし、これは……。なんちゅうか……。どう言っていいものやら。

 ともかく、おれは、この洗濯ネットのファスナー終端部分の工夫を考案した人に、声を大にして言いたい――


「すけべ~!」



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2009年1月27日 (火)

名は体を表すのも程度問題だと思うが……

 こんな商品があるのを見つけてしまった。べつにお薦めしているわけでもなく、レビューをしているわけでもない。そもそも買って使ってみたことがない。ただただ、あまりにもすさまじくわかりやすい商品名にのけぞってしまったもんで、面白いからネタにしているだけである。

 そ、それにしても……。まんまやないか。田中啓文小林製薬なら、「嘔吐マジック」とか「吐瀉災害防止法」とかなんとか、も少し捻ったネーミングをすると思う。

 しかしまあ、ここまで直球勝負だと、いっそ清々しい気もしないではない。お店で指名買いしにくいと思うけどな。「すいませ~ん、ゲロゲロ置いてらっしゃいます?」



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2009年1月24日 (土)

ひさびさに新作

 「○○と××くらいちがう」シリーズである――

「ピタットハウスとパパッとライスくらいちがう」

 パパっとライスにはときどきお世話になる。ピタットハウスの玄関開けたら二分でごはん……ってのは、ちがうメーカのライスか。



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2009年1月22日 (木)

口が巧いからといって、必ずしも不誠実であるわけではない

 二十日、バラク・オバマ氏が第四十四代アメリカ合衆国大統領に就任した。

Obama's inaugural speech (CNN.com)
http://www.cnn.com/2009/POLITICS/01/20/obama.politics/index.html

This is the meaning of our liberty and our creed -- why men and women and children of every race and every faith can join in celebration across this magnificent Mall, and why a man whose father less than 60 years ago might not have been served at a local restaurant can now stand before you to take a most sacred oath.

Obama's oath and inaugural address

 あいかわらず、みごとな演説である。おれたち外国人が聴いても、なにやら力づけられる。911のことにはひとことも直接には言及せずに、“the firefighter's courage to storm a stairway filled with smoke”の一節だけに語らせてしまうとは、怖るべき言葉の力だ。どこかの国では、総理大臣が漢字が読めたといっては“どよめいて”いる国会があったりするんだがなあ……。

 とはいえ、あんまり自国の政治家の情けなさばかりを責めては天に唾していることになる。つまるところ、民主主義の下では、おれたちはおれたちの身の丈相応の政治家しか持てないわけなのだから……。賢しらになにを言ったところで、いま議事堂にいる連中はおれたち自身の知性を映しているにすぎないのは事実である。それが厭で恥ずかしいと思うなら、みんなちゃんと投票に行くことだ

 おれはアメリカ合衆国という国家の身勝手さにほとんど憎悪に近いものを抱いている。しかし同時に、たとえ建前であったとしても、“多様性の力”をこそ奉じるこの国に、強い羨望を抱いていることも、また事実なのだ。おれは日本人として、アメリカに憧れ、アメリカを憎んで育った。それはちょうど近親憎悪のような感情である。この若き黒人大統領が、アメリカを、世界をどこへつれてゆくのか、楽しみでもあり怖ろしくもある。

 いやそれにしても、翻ってわが国の政界を見るに、こんなにわかりやすく、力強い言葉で語る人がほとんどいないのに愕然とする。なんなんだろうね、これは? わが日本人が、知能に於いて連中に劣っているなどとはとても思えない。その優れた知能を無駄なところに使っているような気がしてならないのだ。文化的なハンデなんだろうかね? 「巧言令色鮮なし仁」なんて儒教的なバックグラウンドがあるからだろうか? いやまあ、よしんば孔子さまのおっしゃることが事実であったとしてもだよ、“口先が巧くて愛想のいいやつは誠実ではない”という命題は、“寡黙で口下手はなやつは誠実である”ということを意味しない。だけど、なんだか知らんが、“寡黙で口下手はなやつほど誠実である”かのように自動的に曲解しているような気がするんだな、わが国の文化は。これは言うまでもなく、論理学に於ける形式的誤謬“前件否定”に該当する立論である。世の中には、誠実であるからこそ、それを他人にわかってもらえるように表現しようと、努力して弁舌や文筆を磨く人だっていっぱいいるのだ。口が巧くて誠実であれば、それに越したことはない。なに言ってるのかさっぱりわかんない政治家さんたちを、あなた、口下手だからって誠実だと思いますか?

 寡黙で口下手はなやつほど誠実なんだったら、おれの友人連中なんかは、ほとんど不誠実なろくでなしばかりということになってしまうではないか。いやそりゃ、おれ自身はろくでなしであることは否定しないが……。



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2009年1月20日 (火)

もっとほかにどよめくことはないのか

麻生首相「みぞう」 どよめく委員会 (asahi.com)
http://www.asahi.com/politics/update/0120/TKY200901200167.html

 「われわれは今……、未曽有(みぞう)のいわゆる危機といわれる」。麻生首相が20日の参院予算委員会で、かつて「みぞうゆう」と読み間違えた漢字を正しく発音した。委員会室では歓声があがり、どよめく一幕があった。
 石井一氏(民主)の定額給付金に関する質問への答弁で飛び出した。首相は一瞬、間をおいて発言したが、盟友の鳩山総務相も笑顔をみせた。
 首相は昨年11月、母校の学習院大で開かれた日中青少年友好交流年の閉幕式で、中国・四川大地震について、「みぞうゆうの自然災害というものを乗り越えて……」とあいさつ。それ以来、公開の場で「未曽有」の表現は控えていた。

 こ、こんなことでどよめいている国会っていったい……。もっと重要なことでどよめいてほしいもんだ。いやまあ、一種のお笑い番組だと思えば、気持ちはわからんでもないけどな。「首相は一瞬、間をおいて発言したが」ってのは、きっとウケを狙ってタメたんだな。ちゃんとウケたらしいので、麻生首相も「♪なんだか今日イケそうな気がする~~~」と思ったことであろう。

 まあ、新聞を読まないと豪語しているわが首相にも、多少はマスコミや国民の声は聞こえているらしい。それに、多少の学習能力はあるということは判明した。めでたいことだ。

 なにはともあれ、国を動かしているいい大人たちが、こういうことでどよめいている国ってのは、まあ、ある意味、とても平和なのでありましょう。少なくとも、明日、永田町や霞ヶ関にクラスター爆弾やら白燐弾やらが飛んでくることはないだろうし。でも、あさってはわからんけどな。

 さあ、次は“頻繁”だ。



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崩壊するライダー?

 どうでもいいけど、なんでまた『仮面ライダーディケイド』なんて表記にしたんだろうね? カタカナ表記するなら、decade は「デケイド」が適切なんじゃないの、ふつー? 「デシリットル」「ディシリットル」とか言わんでしょ。最初の音節にアクセントがあるんだし。「ディケイド」なんて書かれると、おれには decayed に聞こえてしかたがない。

 ああ、やっぱり decayed でよかったんだなどと、あとで納得するようなものにならないといいのだが……。

 あの、ぼろぼろの『仮面ライダー剣(ブレイド)』を、途中からのテコ入れであそこまでみごとに着地させた會川昇の手腕には端倪すべからざるものがあると、おれは大いに期待しているのだ。この、ものすごくあざとくえげつない設定で會川昇の才能がいかに発揮されるのか、怖いような楽しみなような、そんな感じなんである。



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「マダム・フユキの宇宙お料理教室」──ツナマヨマロニー

 なんか、突如、マロニーが食いたくなった。鍋が食いたくなったのではない。ただただマロニーが食いたくなったのだ。

 そうだ、パスタの代わりに食ってみよう――と思い立ったおれは、「♪まっろにぃ、ちゃん」と唄いながらマロニーを茹でてみた。なにしろパスタの代わりにするのだから、アルデンテが望ましい。しかし、アルデンテのマロニーなどという状態にするには、いったい何分くらい茹でればよいものかさっぱりわからん。おれは鍋につきっきりで麺(?)の具合をたしかめながら、三分弱という数字を弾き出した。

Maroni 茹で上がったはいいが、さてなにをつけて食おう? よし、パスタの代わりにするのだから、市販のパスタソースを絡めてみよう。ペペロンチーノにしようか、カルボナーラにしようか、タラコにしようか、明太子にしようか、バジルにしようか……。おれはパスタが好きだから、たいていの“絡めるだけ”系のソースは揃えてある。なになに、マロニーの袋の裏に書いてあるレシピによれば(もちろんパスタの代わりにしろなどとは書いてない)、どうやらマヨネーズは合うようだ。よし、ツナマヨにしよう。

 というわけで、ツナマヨのパスタソースをかけてみたのがご覧の写真である。これを混ぜようとしたわけだが、湯から引き上げたマロニーは、団子のようにくっついてしまって、なかなかうまく混ざらない。どうしたものか……。

 そうだ。なにしろパスタの代わりにしようというのだから、オリーブオイルをかけなくてどうする。そこで、どぼどぼとオリーブオイルをふりかけて絡めてみると、おお、絡むぞ。うまく潤滑油になって、マロニーにパスタソースが絡んでゆく。

 で、これ、食ってみるとですな、うまい。マロニー自体にはこれといった味がないので、うまいというのも語弊があるが、ツナマヨのパスタソースにはよく合う。奇妙なぷりぷりした食感が、パスタとはまたちがった食い応えを楽しませてくれる。やってみるもんだな。

 スープはるさめやら、はるさめヌードルやらがあるから、このツナマヨマロニー、一見パスタより低カロリーな感じがするが、じつはそんなことはない。この写真の量でマロニーの100グラム袋ちょうどひと袋ぶんだ。成分表記によると、349キロカロリーである。一方、ママースパゲティーの袋を見てみると、100グラムあたりのカロリーは、358キロカロリーである。重量で比べると、カロリーはそれほど変わらんのだ。マロニーの原料はジャガイモ澱粉コーンスターチだから、まあ、デュラム・セモリナとそれほど大きな差はないのだろう。

 ただ、容積がちがう。なんだか妙に“食いで”がある。ちなみに、パスタ200グラムを茹でると、写真の皿にちょうど満杯になるくらいの容積になる。マロニーの場合、この“食いで”のほとんどは、水を食っているようなものなのだから、まあ、虚しい満腹感で食欲をごまかすつもりであれば、パスタを150グラム、200グラムと食うのに比べれば、多少のダイエット効果はあるだろう。

 まあ、「マダム・フユキの宇宙お料理教室」では、ダイエットなどといういじましいことを考えてはいけない。パスタとは異なる“奇妙ななにものか”として、ツナマヨマロニーは事実うまいのである。トコロテンやわらび餅にパスタソースを絡めてみても、ひょっとすると同じようなものかもしれんが、やっぱりちょっとちがう気がするな。マロニーの食感というのは独特のものがある。関西弁では、「まずい」という意で「味ない」という言葉をよく使うのだが、マロニーってのは、味がないのに、なぜかうまい。不思議な食材である。

 追いおい、バジルやペペロンチーノも挑戦してみるか。カルボナーラは合いそうだが、ペペロンチーノはキツいかもなあ。



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2009年1月19日 (月)

ローテクの味わい

 昨年の夏からとく子さんという女性と暮らしているわけだが、今回の冬は彼女と迎える初めての冬だ。

 彼女は湯を沸かす以外のことはなにもできない“片翼ほどもない天使”であるが、それなりにたいへんおれのために尽くしてくれている。電気で湯を沸かし、魔法瓶で保温するというのは、非常に合理的である。

 で、彼女と初めて冬を迎えてみて、彼女が湯を沸かす以外の役にも立ってくれることに気づいた。

 おれは寝る前に台所のテーブルの上にいるとく子さんに水を満タンに入れ、いったん湯を沸かさせてから寝る。で、朝起きると、百度であった湯が当然いくらかは冷めている。その冷め具合は、むかしの魔法瓶とちがって、デジタル表示できっちりと示されるのである。それによって、今朝はどれくらい寒いのかが数値でわかる。八十度くらいだと、「ああ、昨夜は朝にかけてそんなに寒くはなかったのだな」とわかるし、七十度くらいだと「これは寒い朝にちがいない」と、大まかな目安になる。つまり、一定量の百度の湯が寝ているあいだに魔法瓶でどのくらい冷めるかという測定器として使えるわけなのだ。電気で保温するタイプのポットだと、こういうふうには使えない。

 なんということのない発見ではあるが、むか~しの“ただの魔法瓶”にはデジタル温度表示なんてついてなかったから、なんかこう、湯の冷め具合が数字でわかるのが妙に新鮮なのである。環境にまったく左右されないほどのハイテクも悪くはないが、ローテクで感じる季節感というのも悪くはないなと思える今日このごろなのであった。



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2009年1月16日 (金)

レバーか、ニラか、それが問題だ

 金曜日にはよく「餃子の王将」(京都王将)で飯を食って帰ることが多いのだが、いつも疑問に思いつつ注文するのが“ニラレバ炒め”である。なんで王将は“ニラレバ炒め”なんだろうな? どうもおれたちの世代だと、バカボンのパパの影響が大きいのか、ああいう料理は“レバニラ炒め”と呼ぶほうがしっくりくるのだが……。

 でもって、ちょっとウェブで調べてみると、九年以上も前にこういう調査をしている人がいた(「ニラとレバーの邂逅」)。「レバ焼きはあってもニラ焼きはないから、ニラを頭に置いた方が紛らわしくなくて良い」というのは、たしかに納得のゆく見解ではあるなあ。「バカボンのパパはふざけて逆さに言っていたのであって、あれは当然「ニラレバ炒め」でしょう」という推測にも、なんだか妙に説得力がある。賛成の反対なのだ。

 単純に Google で検索してみると、「レバニラ炒め」が約 119,000 件「ニラレバ炒め」が約 35,700 件と、レバニラが優勢である。

 こういう大事なことは、国会で青島幸男に決めておいてもらうべきだったよなあ。

 おれは気が弱く、微塵も屈折しておらず、ガラスのように繊細な心の持ち主なので、餃子の王将で注文するときには、メニューに書いてあるとおりに、小さな声で「ニラレバ炒め」と言ってしまうのだが、心の中では、「これはレバニラ炒めに決まっているのだ。これでいいのだ」と叫んでいる。

 これは、大衆食堂などでカレーライスを食うときに米が左に来るように置くべきか否かというのと同じくらい悩ましい問題だと思うのだがどうか。みなさんは、レバニラ派? それとも、ニラレバ派?



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2009年1月12日 (月)

臨界に達した連鎖反応拡大中の「相対性理論」

 げげげ。このブログに検索エンジンからやってくる人が用いた「検索フレーズランキング」(左ペインの下のほうに出してる)だが、なんと「相対性理論」6位に上がってきている。日本語を使っている人たちが突然物理学に関心を抱きはじめたとはちょっと考えにくいから、こりゃやっぱり、前エントリーで激賞したバンドの相対性理論を、日本語使用者が世界のあちこちで猛然と検索してるんでしょうなあ。

 しかし、この勢いはすごい。ほとんど社会現象になりつつあるのではないか。今回の『ハイファイ新書』のブレークで、「特殊相対性理論が一般相対性理論になった」な~んてことを言う人が、きっとうようよいるのにちがいない。あ、あなたもうどっかに書きましたか? みんな思いつくネタだと思うよ、これ。この調子では、「量子論」とか「超紐理論」とか「大統一理論」とか「万物理論」とかいうアマチュアバンドがあちこちに出現しそうだ。「万物理論」ってのはバンド名としてはけっこういいかもしれんが、よほど天才的な実力がないと絶対名前負けすると思う。

 きっといまごろ、日本中のマーケターが、このあまりにも象徴的で面白い現象を固唾を呑んで見守っていることだろう。巨額の費用を投じてテレビCMをばんばん打っても売れないレコード会社は、「え? なんで? なんで? なんでじゃーー!?」と目を白黒させているにちがいない。だってあなた、テレビのCMなんて、もはやハードディスクレコーダ使ってる人は、自動手動を問わず、みんな跳ばしちゃうでしょ、ふつう。アマゾンや iTunes Store のパーソナライズされたレコメンデーションはしばしばちゃんと見るけどね。広告主の方々は、なけなしの広告費をどこにどう使うべきか、消費者の立場で考え直しましょう。テレビ局に代表されるマスメディアの方々は、媒体屋とコンテンツ屋は本来まるで異なる商売なのだというあたりまえのことにとっとと目覚め、認可事業の既得権ビジネスモデルにいつまでもしがみついていないで自分から先手を打ってそれを破壊し、どうやったら生き残れるかを考え直しましょう。

 それにしても、ウチの「検索フレーズランキング」のベスト10入りしている人名・グループ名が、おれの名前はさておくとして、「武梨えり」「タモリ」「稲垣早希」「鳥居みゆき」「相対性理論」って、なんか、そこはかとなく読者層のカラーが見えるよなあ。まあ、なんちゅうか、友だちが多くて困るというタイプの人たちではけっしてなさそうな気がする(笑)。



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2009年1月10日 (土)

『ハイファイ新書』(相対性理論/みらい records)

 こ、これはただごとではない。ハマってしまった。一発でハマってしまった。相対性理論はニ〇〇六年九月結成だというが、こんなユニットを一年三か月も知らなかったとは、わが身の不明を恥じる思いである。べつにおれは音楽評論家じゃないし、最新の音楽シーンなんぞちっとも追っかけてない、ただただ自分の好きなものを繰り返し聴いているだけの能天気な音楽好きにすぎないので、よく考えてみるととくに不明を恥じることもないけれども、それでも個人的には、一年三か月ぶんの人生を損したような気分である。

 昨日、iTunes Store のトップページを開いたとき、奇妙なアルバムが「トップアルバム」欄の一位に突如ランクインしてきているのに気づいた。なんじゃこりゃ? 相対性理論? 人を食った名前だな。しかし、こんな名前で活動しているユニットを、SFファンとしてはすんなり受け流すわけにもいかん。しかも、二位も同じユニットの『シフォン主義』なるEPである。インディーズがにわかにメジャーに躍り出てきているらしい。これはいっぺん試聴してみずばなるまい……。

 で、『ハイファイ新書』の一曲め「テレ東」を二十秒かそこら試聴するや否や、おれは『ハイファイ新書』と『シフォン主義』を、ぽちっ、ぽちっとやってしまっていた。つまり、おれは iTunes Store で買った(iTunes URL:相対性理論)わけなので盤(いた)は持ってないのだから、「CDの紹介」として感想を書くのは厳密にはよろしくないのではないかとも思うのであるが、そんなことはどうでもよいほど、「ええもんめっけ!」という気持ちがあまりに強いので、クローズドな mixi の日記では書かずに、こうやってここで感激を表明するのである。

 聴いたとたんにおれがなにを思ったかを嘘偽りなく言うと、「あ、Scritti Politti だ」と思ったのだった。

 どこがスクリッティ・ポリッティだよ、全然似てねーじゃねーかとツッコむ人もいるかもしれないが、おれにはそっくりに聞こえたのだからしようがない。やくしまるえつこなる、これまた人を食った本名とはとても思えぬ女性ヴォーカルの歌唱は、まるで“岩男潤子と藤本房子を足して二で割ったような声をベースに開発した初音ミク”が唄っているかのようで、その“強烈な無個性”が尋常でなく心地よい。あたかも、グリーン・ガートサイドのようだ。無個性というのはどこまで行っても無個性だが、強烈な無個性というのは透明な個性なのである。

 おれは声フェチであるから、たいていのポップスは唄い手の声でハマるのであるが、相対性理論の場合、まずその“音”にハマった。強烈な無個性を主張するヴォーカルは、ギターやベースやドラムスのカッコよさを引き立てて、まったく食わない。いやもう、ことにギターがめちゃめちゃカッコいい。

 それにしても、この国籍不明のポップさ。お笑いのジョイマン川本真琴とSF短歌の笹公人がなにかのまちがいでコラボして書いてしまったような麻薬的な“声に出して読みたい”歌詞は、なにも主張してこないのに、キラキラと耳に刺さり、頭の中でぐるぐる回って離れない。やっぱ、スクリッティ・ポリッティの『Cupid & Psyche 85』を初めて聴いたときにガツーーーンとやられた記憶に重なってしまう。まあ、こういう奇妙な感想を抱くのは、おれのようなロートルだけかもしれないけどね。

 まいったなあ。しばらくは、相対性理論にべったりになりそうだ。「地獄先生」なんて、ポリス「Don't Stand So Close to Me」の今風アンサーソングに聞こえちゃうよなあ。「バーモント・キッス」もいいなあ。納豆の賞味期限はいつだったかなあなどとふと冷蔵庫の扉を開けたりするときに、「♪わたしもうやめた~、世界征服やめた~」とか鼻歌で唄っちゃいそうだ。「品川ナンバー」もいいなあ。カラオケにあったら(そのうち入るだろうか)、いっぺん唄ってみたい。

 おれは音楽に関する専門的語彙をあまり持たないので、まるで書物であるかのように感想を表現するしかないのだが、いまはまだ、こういうものにこの時代にこのタイミングで出会った驚愕と感激に圧倒されていて、ひたすら彼らの音が醸し出す世界に淫しているだけである。

 おれ的には、'00年代のスクリッティ・ポリッティが日本に現れたってのが、掛け値なしの感想だ。もう、目が離せない。これで、二、三枚のアルバムを出すだけですぱぁ~~んと沈黙しちゃうとなおさらカッコよく、伝説化すること請け合いなのだが、もっともっと新しいのが聴きたいと思うのも、また、偽らざるところである。悩ましいなあ。

 ひとつたしかな予感がある。おれが二十年以上経ったいまでも『Cupid & Psyche 85』を聴いているように、いまから二十年経っても、おそらくこの『ハイファイ新書』を聴いているであろうということである。もう、たしかにそう思えるほどに、おれのツボにハマった。よくぞ「相対性理論」なんてユニット名にしてくれたもんだ。そうでなきゃ、知るのがもっと遅れたかもしれんからな。うぅ~む、盤も買っちゃおうかなあ……。

 それにしても、こいつら、いったいなにものだ? ポップなアウトプットのバックエンドで、ガチガチに理論武装してそうだなあ。SFで言えば、円城塔みたいな連中にちがいない。

 まあ、社会的・政治的・経済的にはろくなことがない昨今ではあるが、こういうときこそ、文化的にはめちゃくちゃ面白くなるのだ。キターーーーーーっ、この時代に生まれてよかったー!

「地獄先生」PV (※わ、洞口依子じゃんか……好みってものは、どうしてこうヘンなところで繋がってゆくかねえ……)

 



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2009年1月 9日 (金)

「関西縦断ブログ旅」の稲垣早希がゴールイン

 去年の夏休みに『溜池Now はミッドタウンにお引越ししました』(GyaO)を観ててハマった芸人、桜・稲垣早希がはじめた「関西縦断ブログ旅」『ロケみつ』/毎日放送)、先ほど、みごとにゴールインの回がオンエアされた。なんちゅうか、日常生活を挟みながら途切れとぎれに旅をしていることがわかってはいても、やっぱりロケ中は過酷なロケであろうし、おれとしたことが、もらい泣きするほど感動してしまったよ。早希ちゃん、お疲れさま。

 最後は、当然のことながら「おめでとう」「おめでとう」で締めるだろうなというのは予測の範囲内であったが、ほんまもんの宮村優子「餃子の王将」に呼びつけるという展開までは予測していなかった。豪華やなあ。

 というわけで、関西では大人気の「関西縦断ブログ旅」が終わっても、この番組『ロケみつ』がそう簡単に稲垣早希を手離すわけがない。なにしろ、この番組は、はっきり言って稲垣早希で保っているのは、誰の目にもあきらかである。前番組の『なまみつ』から“番組をまたがって”その一コーナーだけが続いておるという、異例の展開なのだからな。番組のブランド力よりも、その一コーナーのブランド力のほうが強いわけである。現在放映中の後継番組『ロケみつ』を Google で検索してごらんな、番組のトップページよりも「関西縦断ブログ旅」のほうが上位に来るくらいなのだ。群集の知恵は正直である。

 「関西縦断ブログ旅」に続く“次なる旅”がはじまっていることは、オンエアに先行している「関西縦断ブログ旅」の稲垣ブログでわかってはいたものの、なんと次は「四国一周ブログ旅」であることが、さっきの放送であきらかになった。むちゃしおるなあ、さしおるなあ。これもまた、たいへんそうだ。相方の増田倫子『クイズ!紳助くん』(朝日放送)の“なにわ突撃隊”だし、コンビ揃ってよくよく身体を張らされるロケものに縁があるようだ。若手芸人はたいへんや。

 いやしかし、最初はけっこうあざとい企画だなあとは思っていたが、稲垣早希ちゃん、じつにええコですなあ。そりゃまあ、テレビとネットでしか知らんけれども、それでも性格の素直さが滲み出ておる。毎週、稲垣早希を観るたびに、「こんなコを娘にしたいなあ」とマジで思う四十六歳の冬樹であった。「嫁」にしたいなあとは、なぜか微塵も思わんのである。なんかこう、このコに手をつけたら犯罪みたいな気がするのだ。テレビで観るたび、「ああ、娘にしたい」と、スミルノフ大佐『機動戦士ガンダム00』)のごとき心境になるおれなのであった。

 ま、四国一周もがんばってほしい。がんばれ、早希。お父さんがついているぞ!(気色わるぅ~)

 それにしても、今日の日記、関西圏外の人にはさっぱりわからんかもしれんなあ……。



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2009年1月 8日 (木)

なるほど、新聞社はSIerであったか……

新聞記者は会社官僚制の中で埋没 だから新しいニーズを掬えない (連載「新聞崩壊」第9回/新聞研究者・林香里さんに聞く) (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/01/07032978.html

 トヨタのニュースであれば「トヨタを取材する」正当性(大義名分)の元に取材ができるし、麻生内閣も「支持率が落ちた」となれば、それだけで正当性ができて、すぐに取材ができる。記者クラブもある。ですが、まったく新しいニーズというのは、会社の中では「何故それが大事か」を、まず説明しないといけない。新聞社自体が大きな官僚機構ですから。そうなると、初動にすごいエネルギーが必要になります。多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」と、危ない橋を渡らなくなってしまう。外から見ていると、そういう悪循環のシステムができあがってしまったように思えますね。記者一人一人の責任や能力の問題というよりは、記者が巨大システムの中で埋没してしまって自分の意志をもてなくなっている。みんな忙しくて、目先のことに囚われてしまっている。いまはある意味で日本全体がそんな状態かもしれません。でも、記者という仕事は、必ず心のどこかに「余白」を残しておかないと、他人の痛みを感じ取ることができないのではないでしょうか。記者が会社員と違うのは、そういう種類の感受性を要求される仕事だということもあると思います。

(中略)

 どの世界にも最低限の知識やスキルは必要ですが、新聞社の場合、ジェネラリストが多すぎるのではないでしょうか。記者さんと仲良くなって「一緒に問題考えようよ」って思っても、2-3年経つとすぐに異動してしまう。もちろん、定期的にローテーションする人がいてもいいとは思うんですけど、情報を扱う企業としては、専門性にも配慮した方がいいですよね。「いまの時代、どんな読み物にもしっかりとした専門性がないと、なんかつまんないですよね。

 なーるほど、そうか。要するに、新聞業界の抱えている問題というのは、ソフトウェア業界(とくに、いわゆる「SIer」)の抱えている問題とまったく同じであったわけかあ……。林香里氏の見識によって、こういうパースペクティブを得られたのは、個人的にはちょっと得した気分である。

 林氏には、ぜひJISAIPAJIPDECの偉いさんを相手に対談でもしていただきたい。偉いさんたちには林氏の言っていることが全然ピンと来ないのに、林氏には「ブルータス、おまえもか!」と、畑ちがいの業界のことが手に取るようにビンビン理解できるかもしれない。

 そのうち、新聞業界でも、『優秀な記者は「入社時のスキルを問わない会社」には就職してはいけない』『優秀なエンジニアは「入社時のスキルを問わない会社」には就職してはいけない』参照)なんてことを、遠慮なく書く人が現れるかもな。というか、すでに誰かが書いてるかもなあ。

 『ですが、まったく新しいニーズというのは、会社の中では「何故それが大事か」を、まず説明しないといけない。新聞社自体が大きな官僚機構ですから。そうなると、初動にすごいエネルギーが必要になります。多くの記者は、「認められないネタは、やらない方がいい」と、危ない橋を渡らなくなってしまう』か……。鋭いねえ。この人、会社勤めをしたことはないはずなんだが、さすが研究者、外から観察しているがゆえの岡目八目というのはたしかにある。まあ、大学にだって、同じようなことはあるのかもしれないけどね。このご指摘、中堅規模以上の会社員であれば、どの業界の方でも、ぶんぶん音を立てて首を縦に振ることだろう。鋭い経営者にさえ理解させれば、「よし、行け!」と、いっせいにベクトルが揃う優れた中小企業のほうが、中途半端に大きい会社よりも、激動のいまの時代には、フットワークが軽くてずっと有利なのかもしれないよ。

 『でも、記者という仕事は、必ず心のどこかに「余白」を残しておかないと、他人の痛みを感じ取ることができないのではないでしょうか』――なるほど、「他人の痛み」を「顧客のニーズ」「社会のニーズ」と読み替えれば、これはまさに Google の二〇パーセントルールのことを言っているのだな。まあ、ふつうの会社じゃ、ニ〇パーセントは到底無理だ。せいぜい五パーセントだろう。

 だが、このなけなしの五パーセントがあるかないかは、決定的に大きな差となる。社員に“余白”をまったく持たせないような使いかたをしている会社は、今日の飯はさしあたり食えても、明日、あさってになにをしたらよいのかがさっぱりわからなくなるからだ。ひたすら、モグラ叩きのように、今日、今日、今日、今日、今日の飯の種だけに忙殺される。それはすなわち、放送禁止用語ではあるが、会社ごと日雇い人夫になっているのと同じなのである。



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2009年1月 7日 (水)

酸っぱいブドウの防衛機制

 あ、そういえば、宝くじの当選番号を見ていなかったな――と、ウェブで確認した。おれは夏と冬だけ、気が向けば十枚ずつ宝くじを買う。まあ、宝くじなんぞ、まず当たるようなものではない。が、買わなければ絶対に当たらないというのも、また事実なのである。

 おっ。

 「4等 10万円 各組共通 165598番」とな!

Takarakuji いま、おれの目の前に、なぜか「165600番」のくじがある。

 あるのである。

 に、二番ちがいかよ……。

 おれは「けったくそ悪い」という言葉の真の意味を九年半ほど前に知ったはずだが、あれは甘かった。今度こそ、その真の真の意味を知った気がする。


ああ、けったくそ悪い!


 それにしても、くじ運が悪い(「くじ運がない」のではない)にもほどがある。きっと、同じ売り場でおれの前に連番の封筒を買った人が、いまごろ十万円のあぶく銭を手にしているのにちがいない。けっ。あぶく銭は身に着かんぞ。全部ガシャポンとUFOキャッチャーでスッてしまえ!

 そうだ。おれはくじ運が悪いのではないかもしれない。九年半前もそうだったが、おれはただ単に“十万円”と相性が悪いだけなのだ。そうにちがいない。たかが“十万円”と相性が悪いだけであれば、むしろさいわいだ。ひょっとすると、五百万円や一億円や三億円とは、とてもとてもとても相性がいいのかもしれないではないか。十万円と相性が悪ければ悪いほど、三億円とは相性がいいという大自然の隠された法則があるかもしれないではないか。いやある、きっとそういう法則がある。そりゃもうエネルギー保存則ほど強固に、断固としてある。

 ……などと固く信じて、宝くじを百枚も二百枚も買うようなことをしはじめると、バカバカしいことおびただしい。おれは頑として、多くても年に六千円しか買わないのだ。ま、宝くじなどというものは、こうやって楽しむものでありましょう。“けったくそ悪さを楽しむ”というのが、たぶん正しいのだ。三千円でこれだけけったくそ悪くなれれば上等と言えよう。これほどのけったくそ悪さは、ふつうなかなか三千円では買えんぞ。まいったか。



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2009年1月 5日 (月)

ああ、ローゼン閣下、こんなチャンスをふいにするとは……

得意の漢字で「安心」アピール…首相が年頭会見で書き初め (YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090104-OYT1T00346.htm

 麻生首相は4日の年頭記者会見で、得意の筆を使ったパフォーマンスを披露、新年の思いを訴えた。
 首相は記者会見の冒頭、「安心して暮らせる日本、活力のある日本という思いを、年始めの字に込めたい」と語ると、演壇脇のイーゼルに立て掛けられた縦約45センチ、横約53センチの色紙に、毛筆で「安心活力」と大書した。首相は日頃から、礼状などを毛筆でしたためる習慣があり、官邸関係者によると、年頭の記者会見での“書き初め”は、「極めて異例」だという。

 テレビのニュースで麻生首相が筆を取ったとき、おれはわくわくした。きっと日本中の人がおれとまったく同じことを考えてわくわくしたにちがいない。そして、日本中のあちこちで同じことを書いている人がいるにちがいないが、やっぱり書く。「安心 活力」などという陳腐なことを書くくらいなら、麻生首相はなにがなんでもこう書くべきだったのだ――


踏襲
未曾有


 会見場の記者たちはどよめき、全国のお茶の間ではみな餅を噴き出し、のたうちまわって笑ったことだろう。これをやれば、“満点大笑い”まちがいなしだったのに。きっと、「おおお、こんなにユーモアのセンスがあって、自分自身を客観的に見ることができる人だったのか。おれたちとはちがうなあ」と、少なからぬ国民は感嘆し、内閣支持率だって、ちょっとくらいは持ち直したかもしれん。

 これ、あまりにも“おいしい”シチュエーションだよねえ。おれがもし麻生さんの立場だったら、あまりのおいしさに我慢し切れず、絶対やっちまってると思う。

 あると思います。



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2009年1月 4日 (日)

お買い上げ御礼(2008年12月)

■2008年12月

【最も値段の高いもの】

 す、すげー。ネットでポチっとやってテレビ買っちゃう人がいるわけである。景気いいなあ。

 まあ、おれもこの機種は電器店でさんざん見たことがあるから、小型の地デジ対応テレビとしてはポピュラーなものなのだろう。おそらく、実機も見て商品をよく知ったうえで、買うのはネットで買おうという買いものなのだろう。

 いやまあそれにしても、これ買った方は、たった一回の買いものでおれに二千百十四円も恵んでくださったわけで、ありがたいやらもったいないやら、とにもかくにもありがとうございます。ホテルの備品を調達している方とか、おれんとこからアマゾンに跳んで、二百台くらいまとめ買いしてくださらんか?

【最も値段の安いもの】

 どひゃー。これ、もう一円で取り引きされているのか。先日のピーター・フォークがアルツハイマーになってるという話題のエントリーから跳んで買ってくださったんだろうなあ。

 ま、おれは二見から最初に出たノベルズ版で持ってるもんね、コレ。

【最も多く売れたもの】

 な、なんちゅう取り合わせだ、これは――と一瞬思ったが、この三アイテムをよ~く眺めてつらつら考えてみると、それなりに納得のゆく取り合わせと言えないこともない……よね?

【最もケッタイなもの(主観)】

 こっ、濃ゆい……。おれにはこういう世界は“頭でしか”わからんが、生理的にわかる人にはたまらんのでありましょう。

 プールはプールでも、『イン・ザ・プール』とかなら、かなり切実にわかるんだけどなあ。

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いつ見る夢が初夢?

 “初夢”ってのは、いったいいつ見る夢なのか? 子供のころからの疑問なのだが、どうも結局のところ、いまだに曖昧なようだ

 おれの子供のころには、年寄りたちは“元日から二日にかけての睡眠で見る夢”だと教えてくれた。子供向け雑誌なんかにも、そう書いてあった。“むかしは大晦日には眠らなかったから”というのだ。しかし、もし眠った場合はどうなるのかと大人に問うても、明解な回答は返って来ないのだった。

 “元日から二日にかけての睡眠で見る夢”がなにがなんでも初夢なのだとしたら、大晦日にうつらうつらしたときに、富士山の火口から真っ赤に燃えた巨大な鷹が大噴火と共に空に舞い上がり火山弾のように茄子が降ってくるなどという夢を見てしまったら、悔やんでも悔やみきれない。肝心の“元日から二日にかけての睡眠で見る夢”は、なんの変哲もない淫夢だったりしてな。

 まあ、初夢はいつ見る夢なのかについてはいまだにいろいろな“流派”があるにしても、やはり“元日から二日にかけての睡眠で見る夢”というのが支配的ではあるようだ。考えてみれば、フロイト的な“昼間の残滓”といった考えかたや、レム睡眠が記憶の整理を行うといった現代の脳科学的な考えかたを思えば、“元日から二日にかけての睡眠で見る夢”を初夢とするのには、かなりの合理性がある。大晦日に眠った場合に見ている夢は、まだ去年までの材料で見ている夢というわけだ。

 で、おれの初夢はといえば、酒食らっては眠り、酒食らっては本を読み、酒食らっては眠り、酒食らってはテレビやDVDを観て、酒食らっては眠り、酒食らっては酒食らっているうちに、どれが夢なんだか現実なんだか初夢なんだか初現実なんだかよくわからなくなっているのだった。ま、富士や鷹や茄子が出てこなかったことだけはたしかだ。富士と鷹と茄子のキメラ怪獣(なんだそれは?)が襲ってくるとかいった、ファンキーな夢が見てみたいなあ。



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2009年1月 2日 (金)

今月の言葉

風呂執事

 風呂に入るときだけいろいろ世話をしてくれる。むろん女性がいいわけだが、それならメイドのほうがいいのではないのかという突っ込みはなしね。



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