『時速250kmのシャトルが見える トップアスリート16人の身体論』(佐々木正人/光文社新書)
いやあ、すごい世界だなあ。おれはスポーツとはほとんど縁のない人生を送ってきたが、おれなどからは超人としか見えないような人々が、いったい全体、主観的にはどのような世界を感じているのかということには、たいへん興味がある。本書は、認知科学に於けるアフォーダンス理論のわが国での第一人者、佐々木正人氏が、常人の実感も想像も超えた独自の宇宙を体感している十六人のトップアスリートたちにインタビューを試みた刺激的な仕事である。トップアスリートが“環境”からどのような情報を受け取り、それをどう制御しているかを、主観的な言葉で表現するというのには、たとえば、才能に恵まれた数学者が、高次元空間の抽象的な幾何学を「これをこうすると当然こうなります」などと、あたかも日常的な三次元空間の物体を手に取って動かしているかのように語るのを聞いているみたいな不思議な感じがある。
興味本位で読みはじめたところが、あまりに面白いのでつるつる読める。この人たちは、ほんとうに人間なのか。というか、人間だとしたら、人間の認知能力というのはどえらいものであるなあと、改めて感じ入る。
潮田玲子(バドミントン)は、本書のタイトルどおり、初速が時速250キロで0.3秒後には時速50キロにまで減速するシャトルの動きを、コート上の空間を二十分割して瞬時に捉えているそうな。鈴木亜久里(F1)は、「見ることと思考の回路は全然違うところにあると思う。流れ作業をやっている人が会話してても、作業してるじゃないですか。それと同じように300kmで走っていても普段と同じように冷静に考えられるんです」と語る。船木和喜(スキー・ジャンプ)によれば、「冬と夏だと風の重さが違」うそうで、武田大作(ボート競技)は、オールを水に入れるのは「豆腐に包丁を入れる感じですね。豆腐に包丁を入れて壊さないで後ろへ持っていくような感じです。水を壊しちゃ絶対にダメです」などとお料理教室のようなことを言う。「シドニーはとにかく全体が重くて硬い感じで、アテネは比較的好きな感じのタイプでした。全体が重くて硬いというのは、グラデーションがないということです。シドニーのほうが、硬くてコキコキしていた」と武田美保(シンクロナイズド・スイミング)が語るのは、プールの水の話なのである。
なんというか、おれの日常感覚とはかけ離れた、とてつもない感覚だ。おれのようなスポーツ音痴にとっては、まるで山田風太郎の忍法帖でも読んでいるかのようだ。
彼ら・彼女らの主観的表現を科学的にどうこう言うことにはあまり意味がない。彼ら・彼女らが、信じられないほどの鋭敏な感覚で主観的に環境を捉え、それを制御しようとするさまを常人になんとか伝えようとするときに、なんだか山田風太郎じみてくるだけのことである。人間の認知能力とは、なんとものすごいものかと感動する。
自身でスポーツをやる人はもちろん、スポーツに縁のない人にも面白いこと請け合い。これはね、トンデモとは一線を画するフィールドワークですよ。歴とした認知科学の仕事でしょうね。
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コメント
こういう話を読むと、テッド・チャンの「理解」がいかに傑作であるかが再確認できますね。
投稿: 林 譲治 | 2008年9月 9日 (火) 07時14分
>林譲治さん
そうそうそうそうそう、まさにそれ、この本を読みながら、なんかこの感じ知ってるなあと思っていたのです。そうか、「理解」だったかあ。
あの、もう一人の超知能の持ち主が、自分の存在を主人公に伝えるために株価操作をして、それを主人公が読み取るところがあるじゃないですか。あれって、いろもの物理学者さんが指摘なさっているように、トンデモの人のノリそのままなんですよねえ。でも、彼らのあいだでは、血で血を洗う緊迫した決戦なわけです。きっと、トップアスリート同士の世界というのも、あんな感じなんでしょうね。傍目にはなにやってるかよくわからんのですが、本人たちは常人の理解を超えた世界で対決している。
武田美保選手なんかもきっと、彼女と同レベル以上のスイマー同士では、「あそこの水って、コキコキしてない?」「うんうん、してるしてる。硬いよねえ」などと、天気の話でもしているように会話してるんじゃないでしょうか。コキコキした水とか言われてもねえ…。ほんと、「理解」そのまんまです。
まあ、作家だって、「勝手にキャラが動いて、あそこいらへんではなんにも考えずに勢いで風呂敷を広げたんですが、最後に自分でも不気味なほどにつじつまが合ったんですよ。書き上げてみてようやく、ああ、あそこは重要な伏線だったんだなとわかりました」みたいなことを言う人が少なからずいるじゃないですか。あれは、トップアスリートにも似た感覚なんだろうなと想像するのです。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年9月10日 (水) 02時10分