「自働算盤」から「カシオミニ」まで七十年
▼明治のスパコン、小倉にあった 最古の国産機械式計算機 (asahi.com)
http://www.asahi.com/travel/news/SEB200807270023.html
福岡県豊前市出身の発明家矢頭(やず)良一(1878~1908)が1902年に作った「自働算盤(じどうそろばん)」が、現存する最古の国産機械式計算機であることを日本機械学会が確認した。現物は北九州市小倉北区の市立文学館(佐木隆三館長)に寄託、保管されており、同学会は近く機械遺産に認定する。
この自働算盤は外観はタイプライターのような形。そろばんと同じように2、5進法で数値を入力する方式で、レバーを回すと22枚の歯車が数を記憶し、15~16けたの四則計算ができるという。
機械遺産の選考委員の西日本工業大学工学部の池森寛教授は「日本人になじみのそろばん方式を採り入れた点が独創的なところ。欧米の計算機が主流だった当時、国内の技術者に国産計算機を使うきっかけを与えた」と評価する。
同館などによると、矢頭は1878(明治11)年、福岡県の黒土村(現在の福岡県豊前市)に生まれた。鳥を見て空を飛ぶことに興味を持ち、中学を中退して鳥類や理工学の勉強のために大阪に出向いた。99(明治32)年に徴兵検査で帰郷。航空機エンジンの研究や開発の資金を得るために、計算機の発明に取り組んだとされる。
計算機の模型は、官営八幡製鉄所が開業した1901(明治34)年に完成。同年2月22日、矢頭は資金援助を受けるため、軍医として小倉に赴任していた森鴎外を訪問。その様子は鴎外の「小倉日記」にも記されている。矢頭は鴎外から支援を受けて上京し、計算機を量産。1台250円という価格は「家が一軒建つほど」だったが、陸軍省や内務省などに約200台売れたという。
文学館は秋にも、矢頭の企画展を開く予定。
うわあ、これは渋いなあ。「自働算盤」ってネーミングがスチームパンクだね。野尻抱介さんなんか、いかにも好きそうだ。なにしろ、タイガー計算機を入手したときなど、あたかも女子高生を愛撫するかのような手つきでにやにやしながらいじくりまわしていた人であるからな。もしこんなのが売りに出されたら、野尻さんなら数十万くらいは軽く出しそうだ。
調べてみると、あの“答え一発”「カシオミニ」が出たのは、一九七二年。「家が一軒建つほど」の小型計算機は、わずか七十年で一万二千八百円(なにしろ、当時CMでさんざん聞かされたから憶えているのだ)になり、庶民の手にもなんとか届くようになったのだった。
あれから三十数年。二、三年前に一円で買って母に持たせた高齢者向けのシンプルな携帯電話にすら、カシオミニをはるかに凌ぐ性能の電卓機能が搭載されている。「家が一軒建つほど」の計算機は、百年ほどで事実上タダになってしまったことになる。SFだねえ。
これからの百年、いったいなにがどうしてどうなることやら、想像するだにわくわくしますな。
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コメント
江戸末期の商品流通とそれに伴う経済発展はかなりのものだった。時計などの技術もあったわけで、もしも鎖国が続いていたら長崎経由でディファレンシャルエンジンの話を知った大店の若旦那あたりが、米相場を計算する自動算盤あたりを発明していても不思議は無いような気がします。
ただ江戸時代なら米相場計算専用機で、汎用的な数学計算には向かわないかもしれない。
投稿: 林 譲治 | 2008年7月31日 (木) 07時45分
「夏への扉」の彼は計算尺を使って、万能家事機械やら口述筆記機械やらを設計してましたよね、信じられないものができて、予想していたものはできなかったのだ・・・・・
投稿: 村上 | 2008年7月31日 (木) 08時46分
林 譲治様
江戸期には「塵劫記」のおかけで和算が結構なレベルまで進んでいたと聞いています。
暦決めや建築以外では、ほとんど利用されなかったともいいますから、かえって純粋数学の研究用計算機などが作られたかもしません。
そして動きでその数学的意味を表す算額などが作られたりして。
投稿: 修理屋ア | 2008年7月31日 (木) 12時40分
はい、古い計算機って好きです。機械が数を数えるというのが、なんか理屈抜きに面白くて、古い機械ほどそれがよくわかる。最近は70年代のワンボードマイコンの復刻版で遊んでいるわけですが。>http://www.nicovideo.jp/watch/sm4158739
タモリに根暗なんて言われながら当時のマイコン少年たちが熱中していたのは、つまるところ、いまのパソコンに電源投入して壁紙が出るまでのブートストラップ過程を手作りしていたにすぎません。WORDやEXCELのことを考えるのはまだ先のことでした。
つまり手段が目的になっていたわけで、米市場しか計算用途がなかったからといって、計算機が発達しないとはいえないのでは。もっとも、ワンボードマイコン時代にはすでに大型汎用機やAltoみたいなのがあったわけで、それをめざしていたというのはありますけど。
投稿: 野尻抱介 | 2008年8月 3日 (日) 13時21分
|米市場しか計算用途がなかったからといって、計算機が発達しないとはいえないのでは。
機械として発達はすると思います。ただそれが汎用計算機に向かうかどうか。
江戸時代の歴計算には、微積分を応用して星の位置を割り出していたものがあったそうですが、にもかかわらすそれは微積分という汎用的な数学手法にはならなかった。
米相場計算から小豆相場や先物取引の計算までこなせる計算機はあるいは誕生するとしても、それが抽象的な数学を計算する方向に向かうかどうかは疑問です。
投稿: 林 譲治 | 2008年8月 4日 (月) 08時07分
このごろ流行りの言葉で言うと、generative なテクノロジーか sterile なテクノロジーか( http://www.atmarkit.co.jp/news/200806/30/weekly.html )という話ですね。まあ、Zittrain教授の論点は面白いけど、むかしブルース・スターリングが似たような分類をしてたので、それほど目新しい考えかただとは思わないのですけれども。
暦法というのは、どうも過去の実績からすると、sterile な感じがします。なんか、横に広がってゆかないんですよね。古代マヤ人は、暦法上、位取りをする必要から「ゼロ」に相当する記号を編み出してはいましたが、結局それは暦法に留まるものだったようです。現代のわれわれが使っているのと同じような、加減乗除の対象になる“数”としてのゼロの発明は、やっぱりインド人の手柄でしょうね。
技術として高度だということと、汎用的な“豊かな”技術だということとは、似て非なるものだという気が激しくする今日このごろなのです。これはなんか、日本の技術という文脈でも考えなきゃならんことだと思います。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年8月 5日 (火) 01時07分