「たり」ない
前から気になってるんだが、近年「たり」の使いかたが急速に変化しているのが感じられる。「さっきからあの男はずっと、きょろきょろあたりを見まわしたり、小走りに物陰に隠れたりしている」といった具合に使う、あの「たり」のことである。
こいつの使われかたが、最近、あきらかにおかしい。本来、「○○したり、××したり、△△したり……」と、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるべきである。というか、並置する動詞の数だけ「たり」をつけるからこそ、並置部分の長さが不揃いであったり、耳で一度聞いたくらいでは覚えきれないくらいに文章が長くなったりしても、なにとなにとなにとを同格に扱っているのかが明示され、意味の塊や論理構造がはっきりして理解しやすくなったり覚えやすくなったりするのだ。
ところが、最近では、並置の最後に置く動詞には「たり」をつけないようになっている。テレビのニュース原稿ですら、もはやそのほうが多数派だとはっきり感じる。たとえば、「休日は本を読んだりDVDを観たりします」という使いかたが、おれのような年寄りにはしっくりくるんだが、近ごろでは、「休日は本を読んだりDVDを観ます」というのが、ごくごくあたりまえになってしまっているのである。多くの人が、後者に違和感を覚えなくなっているようだ。
おれなんかは「たり」が足りないとイラッと来る。やはりおれの嫌いなら抜き言葉などとは比較にならないくらいにイラッとくる。なぜこんなにイラッとくるのか、よくよく考えてみて、はたと気づいた。上記例文の前者と後者では、おれには意味が変わってしまっているように感じられるからだったのだ。好き嫌いの問題ではなく、伝達される情報の内容が変わっているから、こんなにイラッとくるのだ。
説明しよう。「休日は本を読んだりDVDを観たりします」と言われると、おれは、「ああ、この人は休日には読書とDVD鑑賞以外にもいろんなことをするのだが、最も時間を費やす代表的なふたつを例示しているのだな」と解釈する。「たり」に、並置と同時に例示のニュアンスを感じ取る。
ところが、「休日は本を読んだりDVDを観ます」と言われると、「読書とDVD鑑賞しかしないのか」と思ってしまうのだ。「読んだり……」までのところで、「おっ、このあとに何個か“たり”が続くぞ、いったいどんなことが並置・例示されてゆくのかな、わくわく」と、言語化する間もないほどの刹那に、おれの脳は期待に打ち震える“構え”を取る。そこへ、「DVDを観ます」とあっさり言い切られたのでは、脳がはらほろひれはれとずっこけてしまう。あたかも、いい感じで食事とお酒を楽しんで店を出たところで、女性に「じゃあね」と言われたかのような落胆がおれを襲う。
こんなふうに感じてしまう言語感覚の持ち主のほうがすでにして少数派なのかもしれない。だが、おれの脳神経細胞は、並置される要素の数だけ「たり」を期待してしまう回路を子供のころに形成し、それが強化され、固定されてしまっている。そりゃもう、しようがないのである。
「休日は本を読んだりDVDを観ます」がここまで一般化したいま、もはやこれが“まちがい”であると主張したところで詮ないことではある。おれは丸谷才一ぢやない。現時点で妥当な正当性を持つ日本語の守護者であるべき放送人までが、新用法に汚染(?)されているのだから、勝ち目はないだろう。多勢に無勢だ。日常的に日本語を使っている人々全員の多数決を取ったら負けるんじゃないかとすら思う。だけど、おれはおれの主観を述べるしかない――
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コメント
小学生の頃(20年以上前)の体験でいまだに納得いかずに覚えていることがあります。
作文の宿題で,「夏休みは,プールに行ったり,花火を見たりしました」のように書いたら,先生に「後ろの『たり』はおかしいので取って」と言われたのです。
結果的に渋々書き直したのですが,なんだかそれ以来作文が嫌いになってしまって,冬樹さんのように当時きちんと説明できれば良かったな,と思います。
投稿: ソウヘイ | 2008年4月24日 (木) 19時19分
>ソウヘイさん
二十年ちょっと前くらいだと、私が大学生くらいのころかなあ。たしかに、そのころから並置の「たり」は、最後のを省略するような例が見かけられたように思います。ただ、まだそのころは、言葉遣いについてのちょっとしたコラムやらなにやらで、「これはまちがいだから気をつけましょう」といった“よくある誤用例”として取り上げられていたように思います。
そのころにそんなことを国語の先生が言っていたとすると、その先生の国語力にはかなり問題があったと言わざるを得ません。まあ、お気の毒ですが、トラックに轢かれたようなものと思うしかありませんねー。「おかしいので取って」もないもんだ。あんたが国語教師になるまでに身につけてきた(身につけたのだとすれば)言語感覚がおかしいんだよ(笑)。
しかし、いまとなっては、もはや多勢に無勢。少なくとも、自分はまちがわないように、頑固爺いを続けるしかありませんね。
よく、西欧語の構造と比べて「日本語は論理的な表現に向かない」などと言う人がいますが、そんなことがあるもんか。どんな言語であれ、使う人が論理的に使おうという心構えを持っていれば、論理的に使えるはずです。使うほうが意識せず、言葉をなあなあで使うようになってゆくと、その言語が本来持っているよさがどんどん失われ、“効率”とやらに汚染されてゆくだけのことでしょう。
プログラミング言語などでも、使う人の心構えや能力次第で、同じ処理をするのでも、藝術的にエレガントなコードになったり、もたもたととにかくつじつまだけが合っているような汚いコードになったりするものでしょう。
言葉は不可避的に変転してゆくものではありますが、できるかぎり、その言語が持つ美しさや論理性を保持しつつ、その欠点を補い、時代に合う表現を編み出して、次代に渡してゆきたいものです。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年4月24日 (木) 22時18分
うわー、「たり」抜きをするとこんなにボロクソに言われてしまうのかー。作家どころか人間やめたくなるような言われようだなあ(^^;。
私は結構やるもので。ためしに『太陽の簒奪者』の原稿を検索してみたら、こんなのがありました。
(1) 「その電力がスクリューのモーターを回したり、艦内の空気をリサイクルしたり、あらゆる電子装置を動かすわけです」
(2) 老化をくい止めたり、人工冬眠を実現していてもおかしくない。
(3) 地球人を警戒したり、裏をかこうとする動きは皆無だった。
(4) たとえ識別信号にジャミングをかけたり、異星船が外見を急変させたとしても、位置が十万キロも違う。
私の感覚だと、上の例はいまでも「たり」抜きにしてしまいそう。
これは「たり」=「or」という認識なのかな。だから要素間にしか使わない。そして最後の「たり」を入れるときは「or something」みたいな気がします。要素の列挙が終わって、もうこれ以上ないよという場合は、ことさらsomethingを入れたくない。文章の結論に入る直前のピーキーなところにいわずもがなの言葉が三文字もあるのは邪魔なので、削りたくなってしまう。
どうも、気色悪くてすみませんです。
投稿: 野尻抱介 | 2008年4月24日 (木) 23時22分
ソウヘイさんもとんでもない先生に出会ってしまいましたね。
『大辞林』によれば、「たり」は二度続けて使う用法と一度だけ使う用法が存在します。
前者は並立助詞で二つの動作や状態を並べあげる場合に使います。後者は副助詞的用法で、他に同類の事柄がなおあることを暗示する使い方です。
ようするに、「たり」を一度だけ使う場合は二度目の動作や状態を端折って、似たような動作や状態が別にもあることを言外に暗示する使い方でなのですね。
つまり、先生の指導は明白に伝統的な日本語の用法に反しています。
ひょっとして、その先生は革命的な日本語改革運動でもやってたのかもしれません (^^; ジョーダンヨ
投稿: 東部戦線 | 2008年4月24日 (木) 23時35分
初めまして。ちょっと目から鱗のエントリーでした。
と言うのも、今まではこの二つの用法だと違う意味になるので意図的に違う文として書かれたものだと思っていたからです。おかげで違和感は感じませんでしたが。
だからわざと使い分けると言うのならいいのですが、同じ意味のつもりで最後の「たり」を省略するソウヘイさんの先生のような事をされると書き手の意図が通じなくなると思います。
投稿: 超時空漫才 | 2008年4月25日 (金) 03時46分
>おれなんかは「たり」が足りないとイラッと来る。
タリシウムが足りないんですね。わかります。
ちなみに僕もいらっとくる方です。
投稿: YN | 2008年4月25日 (金) 11時24分
嫌いなのはわかりますが、視野狭窄かつ理論的ではありませんね。
>言葉は不可避的に変転してゆくものではありますが、できるかぎり、その言語が持つ美しさや論理性を保持しつつ、その欠点を補い、時代に合う表現を編み出して、次代に渡してゆきたいものです。
これはダブルスタンダードに近いですね。個人的好き嫌いを言い訳の大前提に置いておきながら
人の好き嫌いについて笑い、自分の好き嫌いがさも一般的に美しいものであるかのように文章趣旨をまとめています。
その日本語が美しいと感じるかどうかは個人の好き嫌いなのでは。
歴史的仮名遣を支持し、国語審議会に対して否定的な丸谷才一氏の名を出しておきながら
他者を否定し、自分の好みが美しくて正しいかのように振る舞うのは理解できません。
嫌いなのはわかりますが、それを好む人間が多く居ることも御理解されているのですから
他の異論を無理解に否定し、自らの意見のみが正しいかのように振る舞うのは慎んだ方がよろしいのではないでしょうか。
>現時点で妥当な正当性を持つ日本語の守護者であるべき放送人
こんな言い方を見るとTV報道を間に受けるおばさんのような権威主義に捕らわれているのではないかとも思いますが。
何というか、揚げ足取りのようになってしまいまして、大変失礼しました。
しかし、作家という御職業ならば自らの生活にまで関わってくる事柄でしょうし
誰の目にも触れうるwebでの文章には、もう少し気をつかった方がよろしいかと思います。
文意としては野尻氏のコメントのように、ちょいと否定的過ぎるんですよね。
投稿: そらしろ | 2008年4月25日 (金) 12時58分
>誰の目にも触れうるwebでの文章には、もう少し気をつかった方がよろしいかと思います。
野尻さん、そらしろさん、ご気分を損ねたいへん申し訳ありませんでした。
言われるまでも無く正しいのは多数派であり、それは教育者だったりプロの物書きの方だったりするわけです。「たり」を繰り返し使おうとする方が旧弊で封建的な嗜好であるといえるでしょう。
でも、不快かもしれませんが、年寄りが愚痴をこぼすのくらいは許してくださいな。
投稿: 東部戦線 | 2008年4月25日 (金) 13時24分
いえ、私は冬樹さんの文章に何の不快感も持ってないですし、東部戦線さんの解説はありがたく拝読しました。私が嘆いているのは、自分と他人との間に感覚のずれがあったからです。今風にいうとKY? 他人の立場で自分の文章を読めなくなったら、小説なんか書けませんもんね。
そういう同期を取るためにも、blogであけすけに個人の主観を開陳してもらうことは必要なわけで、別に慎む必要などないと思います。
また、作家の文章は多数派を代表しているわけではなくて、多数派を意識しつつ自分の文体とすりあわせているのが現状でしょう。ら抜き表現を地の文でも使う人、会話の中のみ許す人、たとえ不自然でも絶対使わない人など、作家によりけりです。
それにつけても、大辞林にある二つの用法と、私のor/or something の感覚は正反対なんだよなあ(^^;。「気のおけない仲間」級の逸脱といえましょうか。困ったもんだ。
投稿: 野尻抱介 | 2008年4月25日 (金) 19時56分
>野尻抱介さん
>(1) 「その電力がスクリューのモーターを回したり、艦内の空気をリサイクルしたり、あらゆる電子装置を動かすわけです」
この(1)こそ、まさに私が求めていた格好の例文です。この文章では、「あらゆる電子装置を動かす」に「たり」がつくのは、むしろおかしいです。というのは、「その電力がスクリューのモーターを回」すことも、「艦内の空気をリサイクル」するのも、「あらゆる電子装置を動かす」ことに包含されるわけで、「あらゆる電子装置を動かす」ことの例示として、「その電力がスクリューのモーターを回したり、艦内の空気をリサイクルしたり」することが挙がっているのですね。{(スクリューのモーターを回す AND 艦内の空気をリサイクルする), すなわち, (あらゆる電子装置を動かす)}というのが表現したい内容でしょう。この例は、これでなくちゃならない。つまり、このようなケースと区別するためにこそ、同格のものを並置する通常の例示には、各動詞に「たり」をつけるべきだと思うのですよ。
>(2) 老化をくい止めたり、人工冬眠を実現していてもおかしくない。
これも、ちょっと気色悪いですが、やはり後者がカバーする意味領域に自動的に前者が含まれるという意味では、ワタシ的には容認できる範囲です。
(3) (4)は、やっぱり私は気色悪いです(笑)。むろん、前後に続く文章のリズム如何では、気にならなくなる場合もあるでしょうが。
>東部戦線さん
リサーチ、ありがとうございます。よく「辞書に二つの意味がある、三つの意味がある」という言いかたをしますが、こういう“数え上げ”かたはあくまで学問的表現で、私は、「同じ発音をしたり、同じように表記したりする言葉同士のコアには、“ひとつ”のシンプルな共通の意味領域がある」と考えています。そうでないと、言語学になど縁もゆかりもないふつうの人が言語の微妙なニュアンスを身につけたりできるはずがないと思うからです。to see と seeing とのニュアンスのちがいなどは、まさに素朴に to とはどういう言葉か、-ing とはどういう言葉かを“感じる”ことで説明できるでしょう。
そういう意味では、『大辞林』が二つに分割している意味領域のコアには、“省略・暗示”、つまり、“挙げたものだけじゃなく、ほかにもなにかある”という共通した意味があるということでしょうね。
>超時空漫才さん
>今まではこの二つの用法だと違う意味になるので意図的に違う文として書かれたものだと思っていたからです。おかげで違和感は感じませんでしたが
超時空漫才さんは、とても頭のよい方なのだろうとお察しいたします。それがゆえに、実生活では支障を来たすおそれがあるほどではないかと。人間には、“面倒くさいので省く”というタイプの人も、大勢いるようなのです。
>YNさん
タリシウムを摂取するように心がけます。広川太一郎さんは「……なーんていってみたりきてみたり」などという名言を残されていますが、あれには私は全然イラっときません(^_^;)。
>そらしろさん
>視野狭窄かつ理論的ではありませんね
これは「視野狭窄かつ理論的」を否定しているのでしょうか、それとも、「視野狭窄」であり、「理論的ではない」と言っているのでしょうか、どちらでしょう? AND や OR で論理式を立てた場合、それを否定する表現を用いる際には、どの集合を否定しているのかを明示することに気を配る必要があります。さもないと、論理構造が往々にして曖昧になりがちです。この場合、「視野狭窄的かつ非論理的ですね」と表現するのが、より論理的でしょう。
あなたのおっしゃっていることは、じつのところ、さっぱりわかりません。私のエントリーのどこをどう読んだらそういう解釈になるのか、通常の読解力の持ち主には理解できないと思います。私の書いたことが、なぜかあなたの頭の中で不可思議な形で“脳内変換”され、あなたはそのご自分の脳内変換結果に対して、これまた勝手なイチャモンをつけてらっしゃるだけです。
>揚げ足取りのようになってしまいまして、大変失礼しました
いえいえ、失礼ではありますが、全然揚げ足取りにはなっていませんので、ご心配なく。揚げていない足を取った気になっているのは、あなただけだと思います。
ああ、そうそう、“脳内変換”といえば、とても懐かしい思い出があります。あなたの文体や奇妙な論理展開は、私の知っている人とそっくりです。むかーし、ネットのあちこちでバカにされていた悪名高い人で、“札付きのイタイ困ったちゃんの代名詞”として日本のインターネット史に刻まれている人なんですが……。
その人は、「論理的」と言うべきところで非常にしばしば「理論的」と言う癖があり(掲示板の発言ばかりでなく、ウェブ上の書評ですらそうでした)、「居る」という文字遣いを好み、「ちょいと……ですよね」という言い回しを好みました。その人は、仰ぎ見られるような属性をなにひとつ有していないにもかかわらず、いつでもどこでも滑稽な“上から目線”でものを言い、笑いものになっていました。また、野尻抱介さんはなぜか自分の味方であるという妄想を勝手に抱いており、野尻さんの発言の意図をまったく読み取れないくせに、野尻さんの発言の一部分を局所的に脳内変換しては、鬼の首を取ったように尻馬に乗ったつもりで他者を攻撃しようとするヘンな癖がありました(野尻さんも裏では大笑いしているのですが……)。
ああ、なにもかも、みな懐かしい。
えーと、そらしろさん、私はあなたに「はじめまして」と言うべきなのでしょうか、それとも、「おかえりなさい」と言うべきなのでしょうカー?
>東部戦線さん、野尻抱介さん
というわけで、いよいよこのブログも“見物人”でアクセス爆裂、アフィリエイト収入ガッポガッポということになるのかもしれません。ちゅん、ちゅん。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年4月27日 (日) 04時05分
ちょいと留守にしてまして、乗り遅れた感じですが……すんません。
>(2) 老化をくい止めたり、人工冬眠を実現していてもおかしくない。
私はこれはありかなと思います。というか、これが「人口冬眠を実現したりしていても」だと、ちょっと、何と言うか、稚拙な感じがしませんか? 「たり」を並列するものと同じ数だけ続けると、場合によっては子供の作文みたいな感じになっちゃうんですよねえ。
野尻さん例の(3)と(4)も、最初の「たり」で「その他いろいろ」の存在を感じさせているので、一個で充分ではないかと。そこでまた「たり」とか「たりして」みたいなことをやると、子供の作文になっちゃう。
全然論理的じゃなくて、単なる感覚の問題ですけど、実際に文章を書く場合、こういう「何となくそんな感じ」とか、「雰囲気」とか、理論以外のものが重要になってくるのが現実だと思っております。
投稿: ふみお | 2008年4月29日 (火) 23時53分
「何となくそんな感じ」というのは、経験的に身についた言葉のルールによると思うのですよ。
「たり」を複数使うと子供の作文になっちゃうとおっしゃいますが、私は全然そうは感じないのです。「たり」が足りないことで、非常にすわりが悪いというか、正直言うとなんともいえない不快感を感じてしまうのです。
つまり、お互いにそういう言い回しに慣れてしまっているということなのだと思います。
(2)の例は、たぶん「老化をくい止める」あるいは「人工冬眠を実現する」などの技術が開発されて云々という意味として書かれたと思うのですよ。でも、私は人口冬眠の方に「たり」が無いために、「老化を食い止めるなど」の技術が開発されて、その結果として「人口冬眠を実現した」というふうに読んでしまいます。で、なにか納得のいかない気分に陥ってしまうわけです。
そういう書き方をする場合があると思い返せば良いわけですが、なかなか身についた読解ルールは直らないんですよね。
投稿: 東部戦線 | 2008年4月30日 (水) 23時37分
ごめんなさい。
「人工冬眠」が「人口冬眠」になっちゃいました。
(情けない)
投稿: 東部戦線 | 2008年4月30日 (水) 23時40分
ああっ……言葉って難しいなあ……orz
「だからこそ、いろいろな表現の可能性があるのだ」というところに逃げてしまおう(笑)。
いろいろ考える機会を下さってさりがとうございます>皆様。
投稿: ふみお | 2008年5月 1日 (木) 10時32分
慣れない言い回しのこと。
昨日テレビを見ていたらシチリアのエトナ火山のことをやっていて、アナウンサーが「現在も活発に噴火を行っています」と言うんです。
近頃は噴火も御祭りみたいに「行う」もんなんですか。私は「起きる」ものだと思ってました。
投稿: 東部戦線 | 2008年5月 4日 (日) 15時28分
>ふみおさん、東部戦線さん
たしかに、ふみおさんのおっしゃるような感覚も、藝術家の主観的感覚としてはわからないのでもないのです。しかし、美意識というものは万人に共有されるものではないので、極力誤解を生じないようにする程度の配慮は必要ではないかと思うのですね。とはいえ、実際のところ、もはやふみおさんのような感覚の持ち主がマジョリティーなのだろうとは思います。
>東部戦線さん
>噴火を行なう火山
なんなんでしょうね、それは? そのアナウンサーには、なにかエトナ火山に、過剰に擬人化したくなるような思い入れがあるのかもしれません――というふうに解釈しちゃいますよね、われわれロートルは。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年5月 5日 (月) 03時20分
先日、ある文章に「○○も××も△△する」と書いたら、プロの編集経験者に「接続詞「も」が連続している」と赤を入れられてしまいました。
念のため国語辞書を引いたところ、係助詞「も」は類似したものを列挙する時はやっぱり繰り返し使ってよいことになってました。例えば、「血も涙もない」とか「右も左もわからない」とかですね。
でも、そういう使い方は最近の出版物では禁止されてるらしいのです。
日本語の助詞には「たり」とか「も」とか「とか」とか一文の中で繰り返し使うものがありましたが、近頃は同じ助詞の繰り返し使用を避けるようになっているらしいです。外国語の影響かしらん。
投稿: 東部戦線 | 2008年7月10日 (木) 09時15分
それじゃ、どう言えと?
「今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃございませんか」
古いヤツだとお笑いでしょうが、別の言い方があったらお教えくださいませ
投稿: 村上 | 2008年7月10日 (木) 09時29分
まぁ、「右も左も真っ暗闇」は慣用句なので、そのまま通るんじゃないでしょうか。
私の場合、とりあえずは「○○と××は△△する」という風にしました。どうしても「も」を使いたかったら、
「右も左も真っ暗闇よ」
→「右は闇、左も真っ暗よ」とか「右と左、どっちも真っ暗闇よ」
てな感じかな。
投稿: 東部戦線 | 2008年7月12日 (土) 12時40分
>東部戦線さん
>先日、ある文章に「○○も××も△△する」と書いたら、プロの編集経験者に「接続詞「も」が連続している」と赤を入れられてしまいました
それはちょっと機械的すぎると思うなあ。「も」はふつうに繰り返しで使うでしょう。その編集者さんはマニュアル的すぎるのでは?
>村上さん、東部戦線さん
「右と同じくらい左も真っ暗闇じゃございませんか」とでも言えというのでしょうかねえ?
投稿: 冬樹蛉 | 2008年7月15日 (火) 00時42分