アーサー・C・クラーク死去
▼Sir Arthur C. Clarke (1917-2008) (SFWA)
http://www.sfwa.org/news/2008/aclarke.htm
▼Obituary: Sir Arthur C Clarke (BBC NEWS)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2358011.stm
▼SF作家のアーサー・C・クラーク氏が死去 (asahi.com)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0319/TKY200803190065.html
▼Author Arthur C. Clarke dies (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/books/03/18/obit.clarke/index.html
▼Arthur C. Clarke, 90, Science Fiction Writer, Dies (The New York Times)
http://www.nytimes.com/2008/03/19/books/19clarke.html
▼Space Odyssey author dies (Al Jazeera English)
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/A2827CF5-BB28-4FF1-BE69-75A67ACFD1AA.htm
▼Clarke sur orbite (Le Monde.fr)
http://passouline.blog.lemonde.fr/2008/03/19/clarke-sur-orbite/
▼Weltraum-Visionär Clarke gestorben (ZEIT online)
http://www.zeit.de/online/2008/13/clarke-2001
いつかはこの日が来るだろうとSFファンはみな頭ではわかっていたはずだ。「次はクラーク」などと失礼にも冗談のネタにしたりすることはしばしばあったが、なぜか心情的には“この人は死なない”と確信していたからこそ、そのような冗談も気安く口にされたのだろうと思う。とはいえ、アーサー・C・クラークの肉体はその機能を停止した。それは事実なのである。世界の“ミスターSF”、“SF作家の代名詞”は、ついにおれたちを後にした。これからは、クラークのいない世界で暮らさねばならないのだ。残酷な現実ではあるが、クラークなら、それを受け止めて進め、とおれたちに言うにちがいない。
クラークにはさまざまな思い入れがあるが、故人となった偉大なヴィジョナリーを偲んで、あえて個人的な感慨を述べることを許していただきたい。おれがクラーク作品の最高傑作として挙げるなら、やはり『楽園の泉』と『宇宙のランデヴー』である。だが、どの作品が“好きか”と言われると、おれはあえて『遥かなる地球の歌』
を挙げる。なんかね、好きなんだよ、この作品。
おれが The Songs of Distant Earth をペーパーバックで読んだのは、大学生のころだ。ちょうど、2010: Odyssey Two
を読んでから、映画化されたのを観にいって、「いやあ、ブンガク的なSFもいいけど、やっぱクラークは最高だなあ」と思っていたころに、The Songs of Distant Earth を読んだわけで、そりゃもう、クラクラ来ましたよ。どうしてこんなにカクカクした“科学的事象”を描写するだけで、読む者に poetic な感動を与えるのか、クラークはおれが思っている以上に名文家であり、おれが思っている以上に偉大な文学者なのではないかと、その文章の秘密を分析していたころだ。もうね、The Songs of Distant Earth にはノックアウトされちゃいましたね。科学と詩情というものは両立し得るのだという感動だ。よもや、後にその邦訳文庫版の解説を自分が書く運命が待っているとは、想像だにしていなかった学生時代のいい思い出である。
クラークの作品は、最先端の科学理論や工学技術を面白おかしく組み合わせては、鬼面人を驚かすものでは断じてない。むしろ彼は、ともすると陳腐とすら映りかねないアイディアも、それが合理的であれば、意に介さず重ねて使うタイプの作家である。科学的アイディアのけれん味でクラークを凌ぐSF作家の名を挙げるのは容易だろう。
それでもなお、アーサー・C・クラークの“SF作家の代名詞”たる評価が毫も揺らぐことがないのは、本来科学の持っていた素朴な驚異や感動をみずからの血肉と化している点において、彼の右に出る者はそうはいないからだ。彼にとって科学とは、電波望遠鏡や電子顕微鏡といった取捨選択可能なツールなのではなく、驚異に見開いたり感動に涙したりできる、生身の目そのものなのである。だからこそ、それ自体は無味乾燥な科学的ディテールを彼が淡々と語るとき、あたかも高僧の口から出た念仏が仏像と化すがごとく、それらはそのまま詩となり歌となってわれわれの心を打つ。このあたりが文科系の読者にも広く愛される理由なのであろう。われわれは、絶対音感を持ったメロディ音痴が譜面どおりに弾いてみせる科学論文が読みたいのではない。宇宙が暗く冷たいことを知っている科学の詩人が奏でる、“遥かなる地球の歌”に聴き惚れたいのである。
クラークの偉大なところは、おれのような文科系の読者に感動を与えただけではない。理学・工学系の読者には、実際に「いつかこういうものを実現してみたい」というヴィジョンを与えたのである。そりゃもうね、実際に“作る側”に回った人々が、いかにクラークの影響を受けているかということを、おれはSFギョーカイの片隅を汚すようになって、つくづく思い知った。SF作家にしてからが、野尻抱介や林譲治や小林泰三や小川一水といった人々は、クラークがいなかったら、いまここにいないのではないかと思う。
きっと、これからの千年、二千年のあいだに、人類は、もっと遠くへゆくだろう。ずっと、遠くへゆくだろう。そして、見知らぬ惑星の上に立った人々が、こんな会話を繰り返すにちがいない――
「こんなところに自分が立っているだなんて……なんだか信じられない気持ちだ」
「その気持ちを誰にいちばん伝えたいですか?」
「……アーサー・C・クラーク。あなたがいたからこそ、いまボクが、ここにいるんだ」
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コメント
>これからは、クラークのいない世界で暮らさねばならないのだ。
昨日、夫が帰って来た時、私、まったく同じセリフを言いましたよ……
投稿: ふみお | 2008年3月20日 (木) 10時22分
イギリスとかスリランカで書かれた小説が、東アジアの片隅に住む人間の生き方を変えたというのは、SFもしくは文学の力だと思いますね。
投稿: 林 譲治 | 2008年3月20日 (木) 18時36分
>ふみおさん
じつは、「クラークを共にする」というネタは、私もむかし使ったことあります(^_^;)。ちゅーか、もはやパブリック・ドメイン?
>林譲治さん
個々人の美意識というものは、余計なものを削ぎ落としていったら最後に残る生きざまのドライブになる最強のものだと私は思っていますが、美意識の欠点は、それを共有しない者にはまったく意味がないという点です(だからこそ、個人にとっては、最も強力な“存在のよすが”なのでしょう)。
一方、科学は、少なくとも方法論や知識としては共有が可能です。「これこれこういう条件でこれこれこうすれば、誰がやってもこれこれこうなる」というのは、ものすごく強力な思想ですよね。まさに「エクス・オペレ・オペラート」です。ただ、科学の“解釈”となると、必ずしも共有できない部分もあるかと思いますが。
クラークのすごいところは、科学と美意識とをシームレスに一体化させている点だと思います。共有できないからこそ強いものと共有できるからこそ強いものとを融合させて表現するという離れ業が、いかにしてひとつの頭脳の中で可能であったのか、ただただ感嘆するばかりです。アーサー・C・クラークにはそれができたという事実は、科学と藝術とは、けっして水と油ではないのだという希望のようなものを与えてくれる気がしています。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年3月20日 (木) 20時57分
あれはなにかのエッセイ、「楽園の日々」だったかで――「人がなすべきことは、つまるところ知識の獲得と美の創造である」と、さらりと書いているのをみて舌を巻いたことがあります。
なんというか、迷いもぶれもないんですな。一万年先まで見通している、というクラーク神話は、このへんからきてるんじゃないでしょうか。
投稿: 野尻抱介 | 2008年3月20日 (木) 23時55分
晩年、クラークはバクスターと共作をしました。小松左京は沈没2部で甲州と共作しました。
これは、ある意味、年老いたクリエイターの1つの生き方を示唆したと思います。
手塚、半村はアイデアをいっぱい持ったまま亡くなったのではないでしょうか。大変にもったいないことです。
そういう意味ではクラークは、理想的な作家の死に方をしたのではないでしょうか。
投稿: 雫石鉄也 | 2008年3月21日 (金) 05時02分
>野尻抱介さん
>「人がなすべきことは、つまるところ知識の獲得と美の創造である」
こういうことをさらりと言えるところがすごいですね。むろん、クラークにだって、知識の獲得と美の創造とが局所的に相反する局面があることがわかっていたはずですが、それでもなお、こう言えるブレのなさは偉大です。きっと、遠い将来、人類は、知識の獲得=美の創造となる文化・文明を築くことになるのでしょう。そうであってほしい。
>雫石鉄也さん
これはこれは、お名前はかねがね。
クラークの共作は、どうも名前を貸しているだけではないのかと失望することもありましたが、バクスターとはたしかにいい仕事をしていると思います。
手塚治虫なんかは、大御所になってもずっと若手をライバル視していましたから、それはそれでひとつのアーティストの型だろうと思います。もったいないというのは、ほんとに同感です。まあ、手塚治虫自身があの世へ持っていってしまったアイディアはどうしようもないですが、その代わり、手塚のキャラクターや設定を用いた優れた作品が少なからず生まれつつある状況は、歓迎すべきことだと思います。きっと本人も納得することでしょう。
投稿: 冬樹蛉 | 2008年3月23日 (日) 22時56分