ありがたい値上げ
醤油の値上げってのはけっこう痛いが、なあに、the bright side of life を見よう。うんと薄味にすればよいのだ。醤油をかけるときに値段を意識するようにすれば、おのずと塩分の摂りすぎが防げる。健康にもよい。新幹線の禁煙席しか取れなかったときに、「ああ、これで少なくとも二時間くらいは禁煙できる」と、ちょっと嬉しくなるのと同じようなものだと考えればいいいのだ。どうだ、まいったか。
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醤油の値上げってのはけっこう痛いが、なあに、the bright side of life を見よう。うんと薄味にすればよいのだ。醤油をかけるときに値段を意識するようにすれば、おのずと塩分の摂りすぎが防げる。健康にもよい。新幹線の禁煙席しか取れなかったときに、「ああ、これで少なくとも二時間くらいは禁煙できる」と、ちょっと嬉しくなるのと同じようなものだと考えればいいいのだ。どうだ、まいったか。
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視覚に頼った作品だから、本格「○○と××くらいちがう」的にはあまりいい出来とは言えないが、まあ、タイムリーだし。
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▼駅前で8人刺し、1人死亡 別の殺人容疑手配中 茨城 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0323/TKY200803230086.html
23日午前11時ごろ、茨城県土浦市荒川沖東2丁目のJR荒川沖駅構内などで通行人ら8人が男に次々と刃物で刺され、1人が死亡、7人が負傷し、うち2人が重体となった。男は現場を立ち去った後、近くの交番に出頭。男は19日に同市内で起きた別の殺人事件で指名手配中の無職、金川(かながわ)真大(まさひろ)容疑者(24)=同市中村東3丁目=で、この殺人容疑で県警に逮捕された。県警によると同容疑者は22日、「早く捕まえてごらん」などと挑発する電話をかけてきており、私服警官が同駅などで警戒を強める中、凶行を許した形となった。
▼「捕まえてごらん」 容疑者、前日警察に電話 茨城殺傷 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0324/TKY200803230264.html
茨城県警の石井孝・刑事部長は23日に土浦署で開いた記者会見で、「こういう結果になったのは残念で遺憾」「駅やネットカフェへの張り付きなど、ベストを尽くしたつもりだ」と釈明した。
19日の殺人事件にかかわった疑いで金川容疑者が指名手配されたのは21日。ゲームを買いに行ったことがあるとの情報から、東京・秋葉原にも捜査員を派遣するなどして行方を追っていた。
「早く捕まえてごらん」と、金川容疑者から県警に電話が入ったのは22日昼。携帯電話の発信元は、同容疑者の自宅に近いJR荒川沖駅周辺だった。約1時間後、今度は無言の電話。常磐線の取手駅周辺からと判明したが、「携帯電話の電源が切れたこともあり、居場所を突き止められなかった」(捜査幹部)。
23日。金川容疑者が近くにまだ潜んでいるとみた県警は、始発電車が発着する時間帯から、常磐線やつくばエクスプレスの各駅を警戒した。荒川沖駅では改札口の内側と外側に2人、ホームに2人、東西のロータリー口に各1人、東ロータリーに2人、防刃チョッキを着た私服捜査員を配置した。
だが、金川容疑者を見つけることはできず、駅の通路では、警戒中の巡査も襲われた。巡査は同僚に取り押さえるよう伝えたが、追跡した捜査員も行方を見失った。
金川容疑者は19~22日まで都内のホテルに4泊したと供述しており、22日日中にいったん茨城県内に戻ったと見られる。自分だと悟られないように秋葉原で髪を丸刈りにしたとも話しているという。23日の犯行当時は黒のニット帽をかぶり、銀縁めがねをかけていた。
記者会見で県警側は「駅構内の数百メートルを全力で走りながら切りつけたので、追えなかった」と説明。本人を見逃していた理由については、捜査本部が入手していた顔写真が約2年前のものだったことや、本人がニット帽をかぶっていたことなどを挙げた。
突然頭がおかしくなった通り魔が突然犯行に及んだとでもいうのなら話はわからんでもないんだが、別の殺人事件で指名手配中の男がご丁寧にも自宅の最寄り駅付近から電話をしてきて、百七十人がかりで警戒して、事件現場の駅に八人も捜査員が張り込んでいて……それで、これかいな? 全力で走りながら切りつけたからだの、警察の写真が古くてしかも犯人が変装していたからだの、ちょっとそれは言いわけにならんだろう。日本の警察って、ここまでどんくさくなってるんだなあ。
とくに飛びぬけて狡猾で凄腕というわけでもなく、捕まえてくださいと言わんばかり(事実、言ってるんだが)のこんな若造一人をプロの警察官(アマチュアの警察官なんていないけど)が百七十人でも捕まえられず、好き勝手やらせたあげく、むこうから出頭してきたからようやく逮捕できましたって、あのなあ。ガキの使いやあらへんで!!
こんな警察が相手では、怖ろしく知能の高い犯罪者なんかは、おれたちの知らないところでやりたい放題やっとるんじゃないかと思えてくるなあ。使いもせん道路作っとるくらいなら、警察官(とくに指揮官)の報酬をもっと引き上げて、優秀な人材を確保してほしいもんだ。最近の犯罪見てると、どう考えても犯罪者のほうが頭がいいとしか思えないことが多い。分析技術には科学技術の粋が傾けられていても、捜査技術が非科学的・非合理的なのではあるまいかと邪推してしまう。医療とか教育とか福祉とかと同じで、現場の多くの個々人は身削ってやっているのかもしれないが、制度が疲弊してしまって、いまの時代にはちゃんと機能していないのかもなあ。いったいどうなってるんでしょうね?
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One day the pain would be gone; but never the memory.
Sir Arthur C Clarke: 90th Birthday Reflections
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そういえば、十年以上前にこんな文章を書いていたのを思い出した。『楽園の泉』を映画化するとしたら、このカットはぜひ実現してほしいんだよなあ!
クラークの訃報を聞いたときに、なぜかヴァニーヴァー・モーガンの最期が脳裡に浮かんでしまった。あの、アラームが虚しく鳴っているシーンね。
なんか、意外な人が『楽園の泉』に言及しているんで、ちょっとびっくりした。名作というのは、こういうものなのですなあ。
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▼Sir Arthur C. Clarke (1917-2008) (SFWA)
http://www.sfwa.org/news/2008/aclarke.htm
▼Obituary: Sir Arthur C Clarke (BBC NEWS)
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/2358011.stm
▼SF作家のアーサー・C・クラーク氏が死去 (asahi.com)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0319/TKY200803190065.html
▼Author Arthur C. Clarke dies (CNN.com)
http://edition.cnn.com/2008/SHOWBIZ/books/03/18/obit.clarke/index.html
▼Arthur C. Clarke, 90, Science Fiction Writer, Dies (The New York Times)
http://www.nytimes.com/2008/03/19/books/19clarke.html
▼Space Odyssey author dies (Al Jazeera English)
http://english.aljazeera.net/NR/exeres/A2827CF5-BB28-4FF1-BE69-75A67ACFD1AA.htm
▼Clarke sur orbite (Le Monde.fr)
http://passouline.blog.lemonde.fr/2008/03/19/clarke-sur-orbite/
▼Weltraum-Visionär Clarke gestorben (ZEIT online)
http://www.zeit.de/online/2008/13/clarke-2001
いつかはこの日が来るだろうとSFファンはみな頭ではわかっていたはずだ。「次はクラーク」などと失礼にも冗談のネタにしたりすることはしばしばあったが、なぜか心情的には“この人は死なない”と確信していたからこそ、そのような冗談も気安く口にされたのだろうと思う。とはいえ、アーサー・C・クラークの肉体はその機能を停止した。それは事実なのである。世界の“ミスターSF”、“SF作家の代名詞”は、ついにおれたちを後にした。これからは、クラークのいない世界で暮らさねばならないのだ。残酷な現実ではあるが、クラークなら、それを受け止めて進め、とおれたちに言うにちがいない。
クラークにはさまざまな思い入れがあるが、故人となった偉大なヴィジョナリーを偲んで、あえて個人的な感慨を述べることを許していただきたい。おれがクラーク作品の最高傑作として挙げるなら、やはり『楽園の泉』と『宇宙のランデヴー』である。だが、どの作品が“好きか”と言われると、おれはあえて『遥かなる地球の歌』
を挙げる。なんかね、好きなんだよ、この作品。
おれが The Songs of Distant Earth をペーパーバックで読んだのは、大学生のころだ。ちょうど、2010: Odyssey Two
を読んでから、映画化されたのを観にいって、「いやあ、ブンガク的なSFもいいけど、やっぱクラークは最高だなあ」と思っていたころに、The Songs of Distant Earth を読んだわけで、そりゃもう、クラクラ来ましたよ。どうしてこんなにカクカクした“科学的事象”を描写するだけで、読む者に poetic な感動を与えるのか、クラークはおれが思っている以上に名文家であり、おれが思っている以上に偉大な文学者なのではないかと、その文章の秘密を分析していたころだ。もうね、The Songs of Distant Earth にはノックアウトされちゃいましたね。科学と詩情というものは両立し得るのだという感動だ。よもや、後にその邦訳文庫版の解説を自分が書く運命が待っているとは、想像だにしていなかった学生時代のいい思い出である。
クラークの作品は、最先端の科学理論や工学技術を面白おかしく組み合わせては、鬼面人を驚かすものでは断じてない。むしろ彼は、ともすると陳腐とすら映りかねないアイディアも、それが合理的であれば、意に介さず重ねて使うタイプの作家である。科学的アイディアのけれん味でクラークを凌ぐSF作家の名を挙げるのは容易だろう。
それでもなお、アーサー・C・クラークの“SF作家の代名詞”たる評価が毫も揺らぐことがないのは、本来科学の持っていた素朴な驚異や感動をみずからの血肉と化している点において、彼の右に出る者はそうはいないからだ。彼にとって科学とは、電波望遠鏡や電子顕微鏡といった取捨選択可能なツールなのではなく、驚異に見開いたり感動に涙したりできる、生身の目そのものなのである。だからこそ、それ自体は無味乾燥な科学的ディテールを彼が淡々と語るとき、あたかも高僧の口から出た念仏が仏像と化すがごとく、それらはそのまま詩となり歌となってわれわれの心を打つ。このあたりが文科系の読者にも広く愛される理由なのであろう。われわれは、絶対音感を持ったメロディ音痴が譜面どおりに弾いてみせる科学論文が読みたいのではない。宇宙が暗く冷たいことを知っている科学の詩人が奏でる、“遥かなる地球の歌”に聴き惚れたいのである。
クラークの偉大なところは、おれのような文科系の読者に感動を与えただけではない。理学・工学系の読者には、実際に「いつかこういうものを実現してみたい」というヴィジョンを与えたのである。そりゃもうね、実際に“作る側”に回った人々が、いかにクラークの影響を受けているかということを、おれはSFギョーカイの片隅を汚すようになって、つくづく思い知った。SF作家にしてからが、野尻抱介や林譲治や小林泰三や小川一水といった人々は、クラークがいなかったら、いまここにいないのではないかと思う。
きっと、これからの千年、二千年のあいだに、人類は、もっと遠くへゆくだろう。ずっと、遠くへゆくだろう。そして、見知らぬ惑星の上に立った人々が、こんな会話を繰り返すにちがいない――
「こんなところに自分が立っているだなんて……なんだか信じられない気持ちだ」
「その気持ちを誰にいちばん伝えたいですか?」
「……アーサー・C・クラーク。あなたがいたからこそ、いまボクが、ここにいるんだ」
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これはおれだけなのかなあ? いや、最近「これにより」って表現が気になってしかたがないのよ。「これにより、なになにが可能になりました」みたいな文脈で近年非常にしばしば目に耳にするようになったのだが、むかしはこんなのこれほどしょっちゅう使ってたかなあ? べつに日本語として文法的にまちがっているわけではないよ。でも、昨今の使われかたを見ていると、なんだか“思考が雑”みたいな気がするんだなあ。つまり、“これ”が指すものが非常にあいまいなケースが多い。そこまでの文脈をな~んとなく受けるといった感じで野放図に“これ”を使っている例にたびたび遭遇する。
たとえばどんな例かと言われるとすぐ思いつかないので、いかにも作りましたという例を作ってみよう。
「2に2を加えると4が得られる。これにより……」みたいな例だ。この場合、“これ”はいったいなにを指しているのだろう? 最初の2か、二番目の2か、4か、“2に2を加える”という操作か、それとも“2に2を加えると4が得られる”ということそのものか? おれが細かいことを気にしすぎるのかもしれんが、むかしはこういう場合、「2に2を加えると4が得られる。この操作により……」といったような、対象をはっきり絞り込むような表現が好まれていたように思うのだ。だいたい、「これにより」なんてのは、文法的には正しいかもしれんが、思考が大ざっぱすぎて気色悪いと思いませんか? 頭の中で文章を組み立てるときの怠慢としか思えない。英語で、ただ by this なんて言われたら、すごく違和感がある。this なんだよ、と思ってしまう。by this operation とか with this method とか through this procedure とか、もっとこう、誤解を避けるような補足的な名詞がつくのが自然じゃないか。おれの思考が英語に汚染されすぎているのかもしれんが、日本語としても、あまりに曖昧すぎて気色悪くないすか?
おそらく、このあまりに曖昧な「これにより」により、世間ではかなりコミュニケーションの齟齬が生じているのではないかと思う。言うほう、書くほうは、“これ”がピンポイントになになのかについて深く考えずに感覚的に使っており、聞くほう、読むほうも、「たぶん“これ”とは“ここいらあたり”のことだろう」と、大ざっぱに捉えてよしとしているため、とんだ誤解が生じる可能性を孕んでいるのではあるまいか。
そこでおれは“「これにより」をできるだけ使わない運動”を呼びかけたい。「この○○により」と言い換えたほうがよいと思う。もし言い換えられなかったら、それは思考が粗雑なままものを言おうとしているのである。ちゃんと明晰に思考しているのなら、「この方法により」とか「この新技術により」とか、いくらでも対象を絞り込んだ言い換えが可能なはずだからだ。
じつは、最近この「これにより」が非常にしばしば登場するのは、技術分野の報道原稿や、テレビのニュース原稿なのである。ロジックではなく雰囲気で文章を書いているとしか思えない。むろん、ロジックより雰囲気や感性(?)を優先して書くべき文章はある。だが、報道はロジックを明確にすべきだ。「これにより」を多用して、雰囲気でお茶を濁しているような文章を書いているあなた、いっぺん自分に「これにより」禁止令を発令して、ちゃんと文章が書けるかどうか、試していただきたい。
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最近、羽野晶紀と泰葉が猛然とテレビに出はじめていて、なにやらおれには一九八〇年代にタイムスリップしたように感じられ、不思議な感慨を覚えている。日曜日も、ふたりともテレビで観た。いや、おれはどちらも好きなんだよ。『現代用語の基礎体力』とかも楽しみにしてたし、泰葉がシュガー(おれはシュガーも好きなんだ)とやってた歌謡番組(もう、タイトル忘れたなあ)なんかも毎週欠かさず観てた。大学生のころだっけなあ。
だいたい、こういう才能ある人たちが家に閉じこもっているなんて、もったいないじゃないですか。片や狂言、片や落語と、伝統芸能の家庭にいったんは嫁いだ彼女らが、奇しくもほぼ時期を同じくして再び自分のキャリアを歩みはじめたのは、なかなか面白い偶然だと思う。
結局、伝統芸能というのは女性の我慢の上に成り立っているのかなどと陰口を叩かれないよう、独身の狂言師や落語家にもばりばり活躍してもらいたいものだ、なあ、春風亭昇太。
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「いまなら、一週間ほどの講習を受けるだけで宇宙飛行士の資格が取れます。来年の四月には国家資格になる予定なんですが、いまのうちなら試験の難易度も低いのです。転職にも有利ですよ。開業も夢ではありません。開業をお考えの場合は、事務所の開設までサポートさせていただきます」
ロケットやらシャトルやらは、ご自分で調達してください、ということになるだろうなあ。
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▼「大人」は18歳?世界では主流だけど… (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0314/TKY200803130442.html
大人になるのは20歳のままがいいのか、18歳に引き下げた方がいいのか。社会で独り立ちが認められる成人年齢を20歳と定めた民法を変えるかどうかの議論が11日、法相の諮問機関「法制審議会」で始まった。「最近の若者は……」という年長者の嘆き節は古来変わらないが、いまどきの若者は成熟しているのか、いないのか。
「成熟しているのか、いないのか」などと問われると、おれ自身、成熟している自信はないなあ。ずっと気分は十六歳だ。いや、十二歳かもしれん。
そもそも、こんなに個人差の激しいものを、一律に年齢でどうこうしようという発想自体が、現実離れしているのかもしれん。そりゃまあ、そうしなきゃならない実務上の事情はわかるが……。
いっそ、自己申告、というか、申請して認められたら大人になれるということにしてはどうか。もちろん、本人が厭ならいつまでも申請しなくてよい。その代わり、成人にならないとできないことは永遠にできないという不利を被るわけである。どっちが快適かは、それこそ本人次第ということになる。
日本の多くの企業などでは、いまだに“結婚してないと一人前ではない”という価値観がまかり通っているわけだから、それを考えると、成人の申請制度は、けっこう現行の日本社会に馴染むような気もするぞ。
酒とか煙草とかを成人にのみ認めるというのも、考えてみれば奇妙だ。べつにバラバラでもいいじゃないか。酒や煙草は肉体的に一定の年齢に達すれば認めるが、それは成人申請が受理されていようがいまいが関係ないということにしよう。だから、当然“成人映画”といった表現はなくなる。“R-20”とか“R-18”の映画を四十五の“未成年”が観てもいいわけなのである。
ただ、この制度だと、未成年のまま年金を受け取ることも可能なわけで、そこまで極端だと、ちょっと醜悪な感じもしますなあ。四十五で“ココロは十六”とか言い張ってるやつも充分醜悪にはちがいないのだが……。
あなた、いつ“大人になった”と自覚しましたか? どうもおれには、何年何月何日を以てとか、これこれこういうイベントを以て、これこれこういう体験を以て、といった区切りが、いまだにはっきりしないのである。いったいおれは、いつ大人になったのだろうなあ? というか、おそらくおれは大人なんだろうとは自分では思っているんだが……。
この歳になって思うんだが、「あっ、自分は明日死んでもまったく不思議ではないのだ」と実感できたときが大人になった瞬間だったような気がする。つまり、自分の生きざまに自分で納得できたときなんじゃないかな。自分が遺す成果とか生きた証とか、そういうものに納得できる人はごくごく少数だと思うのだが、「いま突然死んでも、自分らしく死ねるように生きている」という“微分的”な生きざまに納得できる人はかなりたくさんいると思う。それはつまり、大人だということだと考えてもよいのではなかろうか。レイ・ブラッドベリの Fahrenheit 451 に、“Live as if you'd drop dead in ten seconds.”という名言が出てくるけど、その意味がほんとうにわかった瞬間が“大人”なんだろうとおれは勝手に思っている。
おれの場合、そう思えたのがいくつだったのかはさだかではないのだが、少なくとも、十八歳や二十歳ではなかったように思うなあ。
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▼ゴジラの叫び声でお目覚め シャトルの土井さん (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0313/TKY200803130083.html
スペースシャトル・エンデバーの飛行3日目となる12日、土井隆雄さんは、地上から流された映画「ゴジラ」の劇中曲とゴジラの叫び声で目覚めた。その後、エンデバーは国際宇宙ステーション(ISS)にドッキングした。
シャトルの飛行中は毎日、乗組員や家族が打ち上げ前にリクエストした「ウエークアップ・コール」(目覚めの曲)を1曲ずつ、一日の始まりとして管制センターから流すのが習わしだ。
米中部夏時間12日午後3時(日本時間13日午前5時)に流された曲は、日本の映画「ゴジラ」の劇中曲と叫び声。地上の管制官が「土井さん、おはようございます」と日本語で呼びかけると、土井さんも「おはようございます」と返した。
「ゴジラ」を選んだのは、土井さんの妻のひとみさん。エンデバーの乗組員の多くは子供のころに「ゴジラ」や「鉄腕アトム」を見ており、打ち上げ前にも一緒にゴジラの映画を楽しんだ。
ひとみさんは「大変なミッションを前にした『スペースゴジラ』たちを、仕事の成功を祈ってゴジラの足音と叫び声で起こすことにしました」とコメントを出した。
▼Shuttle Endeavour to Dock at Space Station Tonight (SPACE.com)
http://www.space.com/missionlaunches/080312-sts123-docking-preview.html
The crew awoke today to the battle scene song from the movie "Godzilla Vs. Space Godzilla," followed by the Blue Oyster Cult's radio hit "Godzilla."
"Good morning Endeavour. Doi san, ohayo gozaimasu," said Alvin Drew, shuttle spacecraft communicator, to Japanese astronaut Takao Doi from Mission Control here in Houston. "Take on today like a monster."
"We are very happy to hear Godzilla," Doi responded. "We are ready to go and we'll have a great time today docking with the space station."
いやあ、なかなかセンスのいい奥様だ。なんたって、ゴジラなら世界中の人が知っている。日本が世界に誇る創作物である。たしかに国家としてはあちこちで機能不全を起こしてずいぶん落ちぶれてはきたものの、腐っても日本、日本をナメるなよ、マツイと同じように宇宙でもがんばっているぞー、カミカゼ、スキヤキ、ゲイシャー、ハラキリ、テンプラ、フジヤマー、といったような裏の意味もことによると込められているのではなかろうかと、おれは勝手に思い込んでいる。
ただ、ひとつ残念なのは、やっぱり二十一世紀の日本文化のプレゼンスを示すには、この「ゴジラのテーマ」(arranged by 野尻抱介 featuring 初音ミク)を使ったほうがよかったんじゃないかなあ。
Hatsune Miku / Godzilla
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▼「ギョーザ食べ死んだ」小池氏がブラックジョーク披露 (MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/080311/stt0803110912001-n1.htm
小池百合子元防衛相(55)は10日、名古屋市で講演し、中国製ギョーザ中毒事件に関連し、台湾で聞いたジョークと前置きした上で「自殺願望の人が農薬を口にしたが偽装農薬で死ねず、良かったといってお祝いでギョーザを食べたら死んでしまった。すごくブラックなジョーク」と発言した。事件では千葉県の女児が一時重体になるなどして、全国に不安が広がっており、不適切な発言と波紋を広げそうだ。
小池氏は「ギョーザの話は食の安全から極めて重要」と強調したが、ジョークと断った上で「北朝鮮が食糧援助を求めているが『チャイナフリーにしてね』と言っているという話があったりする」とも述べた。
「不適切な発言と波紋を広げそうだ」って、あんたらが波紋を広げたがっているだけじゃないのか、産経新聞? そりゃあ、事件で重体になった人がいるのは事実だが、だとしたら、殺人事件やらなにやら、被害者が存在する事件に関するジョークは一切言えないことになってしまうではないか。もちろん、“疑惑の銃弾”事件だって含まれるだろう。そんなアホな。マスコミがどの面下げて、そんなことを言うんだよ。
おれは小池百合子という人物があまり好きではない、というか、どっちかというと嫌いなほうではあるが、この件に関しては、この程度のジョークに目くじらを立てているほうの見識を疑う。だったら、アメリカの公人の発言もちゃんとチェックして、この程度のジョークにいちいち“不適切な発言”と突っ込んだらどうよ、産経新聞。あ、すまん、英語がわかる記者は、こんなつまらん記事を書かんか?
まあ、農薬で死ねなかったがギョーザ食って死んだというジョークのほうは、すでに人口に膾炙しているポピュラーなネタだと思うので、どっちかというと、後者の北朝鮮のジョークのほうが面白いよなあ。
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▼ゆうちょ銀、ヤマトのメール便使う 日本郵政社長が怒る (asahi.com)
http://www.asahi.com/business/update/0303/TKY200803030552.html
日本郵政(JP)グループのゆうちょ銀行が2月に全国の郵便局向けに冊子を送った際、ライバルのヤマト運輸のメール便を使っていたことがわかり、グループ内でやり玉に挙がっている。ゆうちょ銀は郵便事業会社に打診したが条件が折り合わなかった。受け取った局員からは批判の声がわき上がり、西川善文JP社長は全郵便局長に「極めて遺憾」「動揺しないよう」などとする文書を配布した。
ゆうちょ銀が送ったのは預金保険機構の制度を知らせる冊子。民営化で機構に入ったため全国約2万4000の各局に送る必要があった。事前に郵便会社に、あて名作成や配送の話を持ち込んだが、「繁雑な作業」と難色を示された。やむなく一般競争入札にかけるとヤマト運輸が落札した。数百万円だった模様だ。
▼ゆうちょ銀がヤマトに仕事依頼 「なぜ悪いのか」ネットで話題 (J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2008/03/05017489.html
日本郵政(JP)グループのゆうちょ銀行が、同じグループの郵便事業会社の日本郵便ではなく、ヤマト運輸にテキスト発送を頼んでいた。JP本体は、傘下のゆうちょ銀の対応を批判したが、ネットでは、「グループ内でも競争させるのが当たり前」といった、ゆうちょ銀支持が圧倒的だ。
これがネットで話題になっているとは知らなかった。おれも最初の報道を読んだときに、日本郵政社長はアホちゃうかと思ったクチなので、「ゆうちょ銀支持が圧倒的」というのはよくわかるな。そんなもん、民間じゃあたりまえのことだ。より安い、より優れたサービスがあるのなら、グループ会社なんて関係あるか。こういう基本的なところで、いまの世の中についていっていないということを露呈しちゃったわけだな。世間知らずの社長が要らんことを言うもんじゃありません。
いやそりゃ、たしかに民間にも日本郵政の社長みたいな考えかたの人も、まだいることはいるし、そういう企業グループもあるにはあるよ。だけど、そんな考えかたのところは、結局、物流子会社やら情報子会社やらをスポイルしてしまって、箸にも棒にもかからないような会社にしてしまっている。ま、大ざっぱにいうと、物流子会社には親会社から突き放されて成長しているところが多いような気がするし、情報子会社は親会社にスポイルされて“ナマの市場”では闘えない程度のところが多いような気がするけどね。えーと、あくまで“気がする”だけですんで、アイタタタタと思ってしまった方は、くれぐれもお気を悪くなさらぬよう。あなたのように、アイタタタタと思える人がいるうちは、まだまだ捨てたもんじゃないのである。
まあ、ゆうちょ銀にはちゃんとわかっている人がいるみたいだから、日本郵政グループも捨てたもんじゃないかもしれないね。長い目で見てやろうよ。社長がこんなことを言ってるようじゃ、いまの日本郵政は、さしずめ東西ドイツ合併時の東ドイツの労働者みたいなものなのだと思っておけばよいのではなかろうか。連中だって好きで民営化されたわけじゃなし、しばらくは資本主義に慣れるための研修期間が必要なんだろう。
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▼声優の広川太一郎さん死去 (asahi.com)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0308/TKY200803080216.html
しゃれを交えた軽快なしゃべりから、渋い二枚目役までこなす声優として、映画やテレビで広く活動した広川太一郎さん(ひろかわ・たいちろう、本名・しん次郎(しんは言べんに甚))さんが3日、がんのため東京都内の病院で死去したことが8日わかった。69歳だった。葬儀は近親者で終えた。
映画の吹き替えは「007」シリーズのロジャー・ムーアのほかにトニー・カーチスなど、またアニメでは「宇宙戦艦ヤマト」の古代守や「ムーミン」のスノーク役で知られた。他に英国発のコメディー「モンティ・パイソン」のシリーズなどでも吹き替えをした。
数々のCMやナレーションでも声を聞かせ、「しちゃったりなんかして~」といったアドリブ調や、だじゃれ交じりの語りで人気を博した。
また昭和がひとつ逝った。寂しいなあ。おれの母親くらいの歳だったのね。信じられん。
おれは二枚目の広川太一郎よりも、やっぱり思いっきり軽薄調の広川太一郎が好きだなあ。朝日新聞よ、「しちゃったりなんかして~」じゃないだろ、「しちゃったりなんかりして~」が正調広川節だ。
なんかねえ、誰でもそのうち死ぬわけだが、それでも、死ぬなんてことは広川太一郎らしくないんだよなあ。死んでもあのノリであの世の連中を煙に巻いてほしいもんだ。「なに? 天国? ここ天国? 天国よいとこ一度はおいで酒はうまいしねーちゃんはきれいだっつったりなんかりして~」
広川太一郎さん、ご苦労さま。楽しいひとときをありがとう。おれも早晩そっちに行くだろうから、そのときはまたあの軽~いノリのナレーションを聴かせたりしちゃったりなんかりしてくださいよ。そっちに行けなかったときのために、地獄にも流してね。
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おやあ、懐かしい歌がテレビから流れているなあと目をやると、ジーンズ姿の藤原紀香。うう~む。おれはいつもCMってのは、誰になにをどう訴える気なのかと意図やらなにやらを反射的に考えながら小賢しくいやらしく観てしまうのだが、ひさびさにただただ口開けて映像に見とれてしまったよ。
ユニクロ(UNIQLO) HIGH RISEジーンズCM 藤原紀香
この人は、なに着てるときより(なに着てないときより)、ジーンズがいちばんカッコいいですなあ。か、身体の半分脚じゃん。率直に問いたい。いったい、なに食ったら日本人がこんな身体になりますか?
仮に、藤原紀香がこのジーンズを脱いでおれに手渡し、「履いてみて」と言うとするわな。おれは腹囲八〇センチだから、まず前のボタンが留まりませんわな。下手すると、ファスナーも上がりませんわな。下を見ると、なぜかジーンズの開口部から足が出現しないでしょうな。ふーんっ、ふーんっ、と、股間の障害物をどっちかに寄せて思いっきり引っぱり上げても、やっぱり足は出現しないでしょうな。おれに残されているのは、もはや“松の廊下ごっこ”をするくらいのことであろう。殿中でござる、殿中でござる~。
胴まわりは努力次第でなんとかなりそうだが、脚の長さだけはどうしようもない。脚が長きゃカッコいいってもんでもないが(短かきゃカッコいいってもんでもないけど)、こういう脚の長い人がジーンズ履いて歩いていると、いかにも二足歩行しているにちがいないと感心してしまう。ホンダのアシモに人気があるのは、きっと大多数の日本人のように歩くからだろう。もしアシモが藤原紀香みたいな体型で、藤原紀香のように歩いたら、たぶん反感買うよな。藤原紀香の場合、ああいう顔でああいうあけっぴろげなキャラクターだから反感買わないのであって(だと思う)、首から上が小沢一郎だったら、絶対、石投げられるよ。
まあ、日本は地震が多いんだから、藤原紀香のようなハードウェアではきっと不便だろう。震度3くらいでよろけそうだ。その点、おれなんかは、けっこう耐えると思うぞ。重心が低いからな。
それにしてもこのCM、はたしてジーンズの宣伝になっているのだろうか? これを観たたいていの日本人は、「このジーンズがカッコいいんじゃなくて、単に藤原紀香がカッコいいだけではないか」と思うような気がする。しませんか?
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このところいろいろとバタバタしているので周回遅れで録画を観ている『サイエンスZERO』、今回のお題は「夢の万能細胞に挑む」。人間の皮膚から万能細胞「iPS細胞(induced pluripotent stem cell)」を造り出した時の人、京都大学再生医科学研究所の山中伸弥教授がゲストだというので興味津々。このあたりが痩せても枯れても腐ってもNHKだ。
山中教授はおれと同い年なのである。SFギョーカイで囁かれる“魔の1962年生まれ”だ。遅かれ早かれ、ノーベル医学・生理学賞を取るにちがいない。いやまったく、おれは生まれて四十五年間もぼけーっといったいなにをしておったんだろうねと思わされますなあ。
まあ、あくまでテレビで観た感想ではあるが、実直を絵に描いたような人ですな、この先生は。すごい科学者というと、なんとなくエキセントリックな天才肌の人をステロタイプとして連想してしまうのだが、山中教授はそんな感じではない。やるべきことをこつこつこつこつこつこつこつとやってきたからこそ、人のやれない仕事にたどり着いたという感じだ。
山中教授の態度や雰囲気は、昨日もネタにした『生物と無生物のあいだ』がとくに共感を込めて讃えている、大発見の一歩手前でそのジャンプ台を地道に作った陰の英雄とも言うべき報われなかった偉大な科学者たち――DNAこそが遺伝子の本体であることを地道に解き明かしたオズワルド・エイブリーや、X線結晶学を武器にDNAの二重螺旋構造解明に繋がる写真を撮影していた夭逝のロザリンド・フランクリンなどなど――を連想させる。華々しい天才という感じがしないのだ。きっと山中教授自身も、「おれは生物学に巨大な足跡を記した大天才である」などとは、微塵も思ってらっしゃらないことであろう。ただ、地道な探求を通じて養われた prepared mind に来るべくして来るアイディアが降ってきて、自分以外の誰に訪れても不思議はなかったかもしれぬ僥倖がやってきた程度にしか考えてらっしゃらないのではなかろうか。むろん、そのような僥倖を掴める状態に自分を持ってゆき、それを維持できることが、客観的に見ると、とんでもなく非凡な才能なのである。
「人の役に立ちたい」という元臨床医としての使命感を保ち続けて、(多くの場合はあまり報われることのない)基礎研究を地道に続けていらした姿にも頭が下がる。モーツァルトよりベートーヴェンが好きな人は、たちまち山中教授のファンになってしまいそうだ。いやあ、この先生がノーベル賞を取る日が楽しみだなあ。
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昨日ネタにした mixi の規約改定騒ぎだが、おれはたぶん mixi の法務担当者がとんでもなく顧客視点を欠いたアホか、そもそも法務担当がいないのであろうと推測している。つまり、mixi の今回の大ボケは、mixi がいよいよ肥らせたユーザを取って食おうと、かねてから周到に研いでいた邪悪な牙を剥いたなどという上等な事件ではなく、単に mixi が上場企業としては信じられないレベルの幼稚な体制しか持っていない(下手すると、笠原社長は新規約を見てもいない)といった程度の、“はらほろひれはれ”なポカミスなのではないかと疑っているのだ。新規約とやらは、若造が適当にコピペして作ったのではないかとすら思っている。
でも、もしそうではなく、一応ちゃんと考えて作って発表したのだとしたら、mixi はいわゆるCGM(Consumer-Generated Media ……って言葉は英語圏ではあんまり使われていないみたいなんだが)というものをまったく理解せずにそう呼ばれるサービスをうっかり提供してしまっているのではないかと思われる。
今回の事件を機に、CGMなるものの資産価値は那辺にあるのかを、改めて考えさせられた。ユーザが作ったコンテンツに資産としての価値があるのか? いや、ちがうちがう。そう勘ちがいしがちだが、そうではない。コンテンツは、CGMの副産物あるいは老廃物にすぎないのではあるまいか――そう考えてゆくと、CGMの本質は、昨年のベストセラーにちゃんと書いてあった。なにしろベストセラーであるから、相当多くの人がすでに読んでいるはずなのだ。ちょっと長くなるが、あえて引用しよう。これこそ、CGMの本質、CGMの価値である。
さらにシェーンハイマーは、投与された重窒素アミノ酸が、身体のタンパク質中の同一種のアミノ酸と入れ替わったのかどうかを確かめてみた。つまりロイシンはロイシンと置き換わったかどうかを調べたのである。
ネズミの組織のタンパク質を回収し、それを加水分解してバラバラのアミノ酸にする。二十種のアミノ酸をその性質の差によってさらに分別する。そして各アミノ酸について、重窒素が含まれているかどうかを質量分析計にかけて解析した。確かに実験後、ネズミのロイシンには重窒素が含まれていた。しかし、重窒素を含んでいるのはロイシンだけではなかった。他のアミノ酸、すなわち、グリシンにもチロシンにもグルタミン酸などにも重窒素が含まれていた。
体内に取り込まれたアミノ酸(この場合はロイシン)は、さらに細かく分断されて、あらためて再分配され、各アミノ酸を再構成していたのだ。それがいちいちタンパク質に組み上げられる。つまり、絶え間なく分解されて入れ替わっているのはアミノ酸よりもさらに下位の分子レベルということになる。これはまったく驚くべきことだった。
外から来た重窒素アミノ酸は分解されつつ再構成されて、ネズミの身体の中をまさにくまなく通り過ぎていったのである。しかし、通り過ぎたという表現は正確ではない。なぜなら、そこには物質が「通り過ぎる」べき入れ物があったわけではなく、ここで入れ物と呼んでいるもの自体を、通り過ぎつつある物質が、一時、形作っていたにすぎないからである。
つまりここにあるのは、流れそのものでしかない。
ユーザが作ったコンテンツがCGMの資産価値だと思うのは、アミノ酸やタンパク質やDNAに蓄えられている情報が生命の本質だと思い込むようなものだ。ちゃうちゃう。そこにある“流れそのもの”がCGMの資産価値なのである。
CGM(って言葉自体、おれはあんまり好きじゃないけど)を“マネタイズ”したいと考える企業家たちは、基礎教養として生物学を学ぶべきではないかとすら、おれは本気で思う。うまくすれば、大腸菌に人間にとって有益な物質を作り続けさせたり、DNAに演算をさせたりするようなことが、CGMを利用したビジネスモデルにも可能であるかもしれないじゃないか。
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▼今度は在英日本大使館に侵入 シー・シェパードの活動家 (MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080306/erp0803062309008-n1.htm
国際捕鯨委員会(IWC)の中間会合が始まったロンドンで6日朝、日本の調査捕鯨に反対するシー・シェパードの活動家とみられる男性が、在英日本大使館の外壁づたいに2階バルコニーによじ登り、「日本は調査捕鯨をやめよ」という横断幕を掲げた。男は約2時間後、警察官に逮捕された。この男性は1月にも同大使館のさくに鎖で体をつなごうとして逮捕されている。また、会合が開かれたヒースロー空港近くのホテルでも活動家4、5人が抗議活動を行った。(ロンドン 木村正人)
前からいらいらしていたのだが、こいつら、ただのテロリストでしょうが。おのれの主義主張のためなら、なにをしてもいいと思っている時点で、完全なテロリストだ。テロとの戦いに熱心なブッシュ政権は、最後に派手なパフォーマンスをやったらどうだ? いい花道になると思うぞ。こいつらは民主主義の敵である。ブッシュ政権の思想を貫くのであれば、こいつらの本拠地にトマホークでもぶちこめ! バンカーバスターで粉砕しろ! ブッシュ大統領よ、こいつらはいまはクジラを捕っている国に“たまたま”矛先を向けているだけであって、ちょっと気が変わるだけで、ウシを食っている国にも同じ論理で矛先を向けてくるポテンシャルを持っているやつらだぞ。むかし、あんたらが子飼いにしていたビンラディンとかいうやつと、基本的になんら変わるところがない。そのまま放っておくと、た~いへんなことになりますよ~! ♪来る~、きっと来る~、きっと来る~……。
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「安めぐみちゃんいいよねえ。おれくらいになるともう、なんかこう、娘みたいだよ」
「そすかー? ボクはこう見えてけっこう熟女が好きです」
「へえ、若いのに。ロバートの秋山みたいだな」
「他人とは思えないす」
「そうかあ。熟女ねえ……たとえば、誰が好き?」
「そうすねえ……原田知世とか」
「…………」
「なんか顔色悪いすよ」
「い、いやべつに……あはははは、あは」
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いや、べつに科学的に証明したわけではないのだが、なーんとなく主観的にそんな感じがするのだわ。
一時、七○キロにまで肥ってしまったものだから(おれは身長一七○センチである)、一念発起して意識して運動をし、六三キロまで下げた。その後、六五キロ前後をふらふらとさまようあたりで体重をキープし、十八パーセントから二十二パーセントあたりの体脂肪率をふらふらとキープしている。暇を見つけては、ダンベル振りまわしたり、腹筋運動をしたり、カーフレイズしたり、スクワットしたり、エスカレータをできるだけ使わず階段を昇るようにしたり、階段を昇る際にも踵を着かずに一段とばしで昇るようにしたりしていると、そこそこ筋肉というのはついてくるもので、ふくらはぎもむかしより太くなった。
で、感じるのは、靴下がずり落ちにくくなったということなのである。ふつう、ふくらはぎが太くなると、靴下はずり落ちやすくなるのではないかと思うのだが、どうやらちがうらしい。ふくらはぎが細いと、ゴムがちょっと緩んだだけで、靴下は容易にずり落ちはじめる。が、ある程度ふくらはぎが太くなると、多少ゴムが緩んでも摩擦が大きいままキープされ、靴下がずり落ちにくくなるようなのである。対照実験をしたわけじゃないから、科学的な言説ではないのだが、あくまで主観的にはそんなふうに感じるのだ。
もしこれが正しいとするなら、ふくらはぎを鍛えると靴下が長もちするようになると言えるのではあるまいか? 上等の靴下はどうかしらんが、おれが買うようなのは“三足、四足まとめていくら”みたいなのばっかりである。すぐゴムが緩む。だが、意識して運動するようになった以前と比べると、安物の靴下でも脚にへばりつく保持力が高まったような気がするのである。その結果、靴下が長もちするようになったと、主観的には感じられるのだ。同じように感じている人はいませんかねえ?
ただし、以前より正座がしにくくなったというのも、また感じるところではあるのだが……。
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これには大爆笑! これって、英語を教える学校のCMなのに、アメリカのテレビでは流せないよな。Engels leren? ってのは、よく知らんがオランダ語だろう。ドイツ語によく似ている。
後部座席に座っている子供たちには英語がわかっているんだろうね。子供たち同士が微妙に笑いながら顔を見合わせるところで、それを示唆しているのだろう。
不思議なのは、英語がまったくわからないオランダ人にはこのCMはちっとも面白くないはずだという点だ。つまりその、なんというかアレだ、“ある種の性交様式を試みたい”といった程度の英語は、多くのオランダ人には理解できるからこそ成り立つCMなのでしょうなあ。というか、オランダ人の中で“ある種の性交様式を試みたい”といった程度の英語がわかる層こそ、おそらくもっと英語をちゃんと身につけたいと思っているはずの、この語学学校のターゲット層であり、そこにピンポイントで訴求することを狙ったレーザービーム的広告なのかもしれない。英語がまったくわからないオランダ人であったとしても、「あのCM面白いね」と周囲で話題になったら、「え、私だけわからなかったのか。こりゃ、少しは英語覚えんといかんな」と焦るだろうしね。
まったく広告屋さんというのは、どこの国でも怖ろしく頭がいい。
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【最も値段の高いもの】
どうも、このブログにいらっしゃる方には、よくよくロボット好きの方が多いようで、2月もロボットがランクイン。まあ、これは《攻殻機動隊》ネタだから、キャラクター商品でもあるわけだが、子供がお小遣い貯めて買っているのではおそらくないだろう。
【最も値段の安いもの】
マーケットプレイスで一円とか十円とかのものが売れない月は、わりとライトノベルがこの枠にランクインしやすい。中心的読者層が若年層だから、ここいらへんに価格づけせざるを得ないんだろう。おれはこの人のは読んだことないんだが、ペンネームは「たけはや」って読むのね。どうも、最近のライトノベル系の人は、ちゃんと調べてからでないと迂闊に読めないような難読ペンネームが多いよね(人のことは言えないかもしれんが)。おそらくこれは、「名前がちゃんと読める」ということを通じて若者同士の“仲間ウチ感覚”みたいなものを醸成するための戦略なのだろう。若年層市場向けのペンネームは、知らない人には読めなきゃ読めないほどいいのかもしれん? とはいえ、小野不由美や岩井志麻子や桜庭一樹みたいな人たちがどんどん出てくる可能性を孕んだ市場であるからして、まるで判じもののような、あんまりぶっとんで読みにくいものもどうかと思うけれども。「健速」なんて、まだ読みやすいほうだよね。
【最も多く売れたもの】
これはまあ、おれ自身プッシュしているんで、ランクインしてくれて嬉しい。鋭い着眼とキレのいいユーモア感覚は、往年の『英会話上達法』ファンにはたまりません。文章もさることながら、ご自身で撮影なさっている写真が活きいきとしていてこれまたすごい。これはむかしの『英会話上達法』にはなかった楽しみだ。
英語が得意な人には、「結局あんたはガイジンに生まれたかったのか? 日本人に生まれたことを“損なこと”として後悔(?)しているのか?」と思わせるような人がしばしばいたりするのだが、倉谷直臣という人のすばらしいところは、日本人が外国語として英語を駆使することの重要性を、日本人としてのアイデンティティーを売りとばさずに説くところだ。そのスタンスは、彼が外国人に日本語を教えるときにも、ちょうど鏡に映したようにブレずに貫き通されている。倉谷直臣は、日本語を学ぶ外国人に“日本語が母語でないことはハンディキャップだから、日本人でないおまえらは気の毒だ”などといった教えかたはしないのだ。「外国語使用能力には限界があることを知りなさい」と説き、「みなさんは日本語を系統的に学んだのであり、そのことを誇りに思うべきだ」と説くのである。
人間は生まれる国を選べない。最初に覚える言語を選べない。自分のコアを形作っている言語に引けめを感じるような人生は不幸な人生だろう。本書は、自国語を愛するからこそ、同じように外国語を愛し尊敬することができるようなマインドセットと哲学をさりげなく語っているのだ。
【最もケッタイなもの(主観)】
「ケッタイな」というのは語弊があるが、邦訳が簡単に手に入るものをあえて原書で読もうという人は、いい意味でちょっと変わった少数派だろうと思う。これを買ったのが若い人だとしたら、その意気やよし。こういう人が、将来、翻訳家になったり編集者になったり評論家になったり書評家になったり作家になったりただのアホ日記書きになったりするのである。
おれが多少英語ができることがバレている人が、時折、「洋書が読めるようになりたいんですが、どんなのから読めばいいでしょう」などと、なにか勘ちがいして訊いてくることがある。「そりゃ、自分の好きな分野のものを読めばよいのです」と一応答えることにしているけど、たいていの人はSFファンじゃないので、カタギの人には「ただし、SFはやめといたほうがいいです。どこのどういう世界であるかもわからぬ舞台で、どういう生物のものであるかもしれぬ“意識”がいきなり説明抜きに一人称で語り出すような話であるかもしれないからです。初心者は、登場人物が現代の人間である、筋を追うだけでも面白いようなスリラーやホラーやミステリーがいいでしょう」と答えている。なぜなら、外国語の文章を大量に読んでいると、そのうち「何語で読んでいるのかを忘れる」という体験がやってくるもので、それが来たらしめたものだからだ。そのブレークスルーを早く味わうためには、なるべく自分が内容そのものに強い興味を持っている分野に関する文章を読むのがよいと思うからである。
だが、日本語でSFを読んで面白いと思えるような人で、科学技術用語に抵抗のない人であるなら、クラークは、おすすめリストに入る。原書で最も読みやすい、ヒネてない英語を書く人である。無味乾燥な文章だという意味ではない。非常に論理的に淡々と事実関係を叙述する文章であるからこそ、英国人的なユーモアや英語でしかうまく表現できないような詩情がさりげなく織り込まれている名文だ。おれは訳したことはないけれども、読みやすいということと訳しやすいということは一致しないであろうと推察される。クラークの文章は、読みやすいからこそ、おそらく訳しにくい。英語で意味を取るのは難しくないが、それを日本語でコードしようとすると、「なにかちがう。なにか取りこぼしている。意味が変わってしまう」と悩ませるような文章なのである。だから、英語を英語のまま読んで楽しみたいという人には、持ってこいだと思う。いちいち頭の中で日本語に訳さないと意味が取れないというレベルの人は、素直に邦訳を読んだほうがいい。それは外国語で読んでいることにならないからだ。
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近所のディスカウントスーパーに食糧の買い出しに行ったら、出口のところで発泡酒の試供品をくれた。そのままレジ袋に放り込んで、帰宅してから冷蔵庫に入れるときに見たら、金色の地に黒い文字ででかでかと書いてあった――「飲酒運転は法律で禁止されています。ご自宅に帰ってから冷やしてお飲みください。」
こんなことをいちいち書かなくちゃならないとは、酒のメーカーもたいへんだ。往来で酒をタダで配るとなると、こんなことまで明記しておかなくては、メーカー側も社会的に非難されるおそれがあるということなのだろう。細やかな配慮と言えばいえるし、嘆かわしいとも言えばいえる。
この注意書きを読んで、「おお、そうであったか。飲酒運転は法律で禁止されていたのか。これはよい勉強をした。なんと親切なメーカーであろうか。こうして書いておいてくれなくては、まさか酒を飲んでクルマを運転してはいけないなどとは、お釈迦様でも知らぬ仏のお富さん」などと目から鱗が落ちるやつはいないとは思うけどねえ。
日本人ってのは、賢いんだかバカなんだか……。
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たばかられないように気をつけよう。
「はばかり管理職」ってのもいそうだ。「ままかり管理職」……は、いそうにないが、いたらうまそうだ。
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