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2007年9月の23件の記事

2007年9月30日 (日)

しあわせですかあなた今

沖縄、11万人が訴え 教科書検定「撤回を」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0929/SEB200709290015.html

 沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会が29日、宜野湾市の海浜公園で開かれた。参加者は主催者発表で11万人。米兵による少女暴行事件を機に8万5000人が基地の整理・縮小などを訴えた95年10月の大会を大きく上回る「島ぐるみ」の集会となった。参加者は検定意見の撤回と記述の回復を求める決議を採択した。
 大会は県議会各派や県PTA連合会など22団体で作る実行委員会が主催。壇上には、独自に大会を開いた先島諸島の自治体を除く全36市町村の首長や議長らが並んだ。
 沖縄戦体験者で実行委員長を務める仲里利信・県議会議長は「歴史的事実がねじ曲げられることは絶対に許すことはできない。県民大会は、住民を巻き込んだ悲惨な地上戦の惨禍に見舞われた沖縄が全国に発信する警鐘だ」とあいさつ。仲井真弘多知事も「文部科学省は県民の度重なる要請行動を真摯(しんし)に受け止めることなく、撤回要求に応じていない。強く抗議し、遺憾の意を表明する」と述べた。

(中略)

 文科省はこの教科書検定問題について「専門的な調査審議に基づいて実施された」として、検定意見は変更しないとの立場を貫いている。しかし、複数の教科書執筆者から訂正申請をめざす動きが出始めている。

 文部科学省の役人風情が自分たちを何様だと思っているのか知らないが、おおかた、こっちが思っているほどには頭を使わず気楽にやったんだろうよ。きっと、気楽にやったやつは、いまごろ予想外の(予想しろよ)反応にビビって、キンタマ縮み上がらせているだろうよ。「どうしようどうしよう、そんなつもりじゃなかったんだ」と布団かぶって震えてるよ、そいつらは。選挙で選ばれたわけでもない、ただのちょっと頭がよいにすぎない国民の下僕どもが、ちょっとつけあがっただけなのさ。

 沖縄の人たちよ、それほど心配する必要はないと思う。もはや、いまの情報化社会で、賢い子供たちは教科書なんぞ屁とも思っていないぜ。知りたいことがあれば、ウェブで調べるさ。右から左まで、いろんな言説を読み比べて、自分の頭で考えるさ。そのために彼らは日本語を習っているし、英語を習っているのだ。そりゃ、試験のときには、国が教えていることを、心の中で反吐を吐きながら要領よく書くかもしれないけどね。そんなことは、単なる世渡りのノウハウである。だいだい、いまの時代、誰が教科書なんぞを情報源にしているというのだ。

 それより、沖縄在住のブロガーよ、あなたたちの出番だ。あなたたちが、祖母や祖父から、母や父から聴いたことどもを、それぞれに発信してくれ。あなたたちは、本土のボンクラたちよりもかなり英語も得意だろう。海外に向けても発信してくれ。外圧がかかれば、役人どもなど、尻尾を股のあいだに挟んで、キャンキャン鳴きながら小便ちびって引き下がるさ。立ち上がれ、沖縄! おれは応援しているぞ。この時代、教科書の一行よりも、真摯なブログの一行のほうがずっと力がある。役人どもなんぞ、頭がよいから便利に使える国民の下僕にすぎないのだと、身のほどを思い知らせてやれ!



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2007年9月28日 (金)

リンゴは赤いが、氷は冷たい

『忙しい人』と『仕事ができる人』の20の違い (モチベーションは楽しさ創造から)
http://d.hatena.ne.jp/favre21/20070927

 素朴な疑問なのだが、ここに書いてあるようなことがこのまま続くとすると、「仕事ができる人」はそのうちただの「忙しい人」になってしまい、「忙しい人」はそのうちただの「暇な人」になってしまうように思うのだがどうか。

 そもそも「仕事ができる人」は「仕事ができない人」と、「忙しい人」は「忙しくない人」とそれぞれ較べるべきであって、分類基準の異なる二者を比べてみたところで、好きなことがいくらでも言えるだけである。これでは、「仕事ができて、かつ忙しい人」や「仕事ができず、かつ忙しくない人」の立場がない。「“SFな人”は密室に異次元などからエレガントに進入するが、“ミステリな人”は三次元空間でいろいろと見苦しいトリックを考える」などといった言説と変わらないのである。それでは“SFでミステリな人”や“ミステリでSFな人”や超限探偵Σ名探偵Zの立場がない。

 なになに、「『忙しい人』は、同じような仕事でも、イチイチ考えながら仕事をしている。/『仕事ができる人』は、同じような仕事が発生したら、考える事なく、仕事ができる仕組みを作り上げている」とな。なーるほど。きっと、偉大な発見や発明は、忙しい人によって為されたのにちがいないぞ。



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2007年9月27日 (木)

議員さまは18歳

英・労働党、女子高生を擁立 次期総選挙で (asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0926/TKY200709260374.html

 英与党の労働党は、17歳の女子高校生を次の総選挙の候補者に決めた。英国は昨年、若者に政治への関心を持ってもらうため、立候補できる年齢を21歳から18歳に下げたばかり。英史上最年少の国会議員が誕生するのでは、と話題を呼んでいる。
 候補者はエミリー・ベンさん。10月4日、18歳になる。今月24日の党大会で、党首のブラウン首相に「誕生日が来るまで選挙は待って」と話し、拍手喝采を浴びた。

 チィ坊~~! ――ってそれは番組がちがう番組が(古すぎてすまん)。

 いやしかし、こりゃなんとも大胆だなあ。《ロケットガール》もびっくりだ。日本だったら、たちまちファンクラブができるだろう(イギリスでもできてるのかもしれないが……)。

 日本でも選挙権・被選挙権の引き下げが議論されているが、こういう女子高生が出てくれば、若者の政治への関心度がちょ~向上すること確実だ。スキンタイト議員服(?)とか開発すれば、世間の男どもはみな国会中継に釘付けである。少なくとも、ソラマメが眼鏡をかけたようなおっさんが出てくるよりは、なんぼかましだろう。麻生氏なら本気で考えるかもしれんなあ。



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2007年9月25日 (火)

老劇場は死なず、ただ消えゆくのみ

大阪・キタの名物映画館「三番街シネマ」が24日閉館 (asahi.com)
http://www.asahi.com/culture/update/0922/OSK200709220010.html

 名物映画館がまた一つ姿を消す――。大阪市北区茶屋町の映画館「三番街シネマ1・2・3」が24日、閉館する。75年の開業以来、デートスポットなどとして多くの人に利用されてきたが、複合映画館(シネコン)の台頭で入館者が激減した。最終日は「想(おも)いでのラストショー」と題し、「サタデー・ナイト・フィーバー」や「影武者」など9作を各500円で上映する。
 同館は6階建てのビルの4~6階部分にあり、97年には「もののけ姫」で全国最多の観客を呼び込むなど、計109万人を動員した。しかし、大阪府内にシネコンのオープンが相次ぎ、昨年は約50万人まで減少した。閉館後の利用方法は決まっていないという。

 いやあ、なんか寂しいよねえ。おれもここにはずいぶんお世話になった。二十代のころなんぞは、金曜日の夜にはしばしば独りでここいらへんをうろついていた。それだけで楽しかった。むろん、おれは映画は必ず独りで観る。二人で観ようにも相手がおらんわけだが、仮に誘う相手がおったとしても、おれは映画は独りで観たい。

 み~んなシネコンになってしまって、思い出深い映画館が次々と消えてゆくのは京都でも同じだ。学生時代に空きっ腹を抱えてガラガラの人気のない映画を観た小劇場も、みな消えてしまったか、シネコンにまとまってしまった。時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、寂しいね。たしかにシネコンは便利でいいのだが、なんというか、むかしの映画館が持っていた“悪所”としての雰囲気があまりに希薄だわな。快適すぎる。堂々としすぎている。いやまあ、それはそれで悪くはない。悪くはないが、なにかが足りない……。

 映画館ちゅうのはやっぱり、まず前のほうの席は小便臭くて、ハゲちょろけの固い座席に沈み込むようにしてスクリーンを見上げ、尻が痛くならないようにしばしば座りかたを調節する場所であってほしい。やる気のなさそうなおばはんにアイスモナカを売りにきてほしい。昼間からこんなところでこんなものを観ているようでは将来ろくな人間にならないなあと若者に思わせてくれる場所であってほしい。ほうら、ろくな人間にならなかったよ、やっぱり。

 かといって、怪しすぎる場所ではそれはそれで身の危険を感じたりするわけであって、映画館というのは、カタギの世界と怪しい世界とをちょうどよい塩梅に繋いでくれる“悪所”であったのだよな、むかしは。大毎地下劇場なんて、どう見てもショッカーの大阪支部であった。おれは『ブレードランナー』を数え切れないほど観ているが、大毎地下で観た『ブレードランナー』は生涯忘れられない。それほど、場所と映画がフィットしていたのだ。

 さらば、「三番街シネマ1・2・3」。ありがとう、「三番街シネマ1・2・3」。キミがくれた時間は永遠だ。



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2007年9月24日 (月)

「二酸化炭素」と「シー・オー・ツー」はちがう

 いつのころからだろうか、テレビでは非常にしばしば二酸化炭素のことを「シー・オー・ツー」と呼ぶようになってしまった。どうもおれはこれを聞くとカチンとくる。「二酸化炭素」じゃなぜいかんのだ? いまじゃ、「二酸化炭素」より「シー・オー・ツー」を聞くことのほうがはるかに多いよな。このような言いかたは、二酸化炭素なるものが“日常の等身大のわれわれから、なにかちょっと距離を置いたところにあるもの”であるかのような印象をかえって強く与えてしまうような気がする。というか、それが目的なのか? 「シー・オー・ツーを削減しましょう」というのはしょっちゅう聞くが、「エイチ・ツー・オーを大切にしましょう」なんて呼びかけは聞いたことがない。「今朝、住宅地で気体のシー・スリー・エイチ・エイトが爆発し……」とか「なんとシー・シックス・エイチ・エイト・オー・シックスのL体は、レモン百二十個分!」とかテレビで言うておるのも聞いたことがない。べつに聞きたいとも思わないが……。

 なんか、テレビで誰かが「シー・オー・ツー」というのを聞くたび、むかしその高い危険性が取り沙汰された世にも怖ろしい化学物質「DHMO」(dihydrogen monoxide/一酸化二水素)のことを連想する。え、あなた、ご存じないですか? それはいけない。環境問題に関心の高いSFファンはたいてい知っているんだが、まだまだ一般的には知られていないのかなあ。ご存じない方は、次世代のためにも、この機にぜひ知っておいていただきたい。とくに、書籍や電子機器などはDHMO汚染に弱いので、おれと趣味を同じゅうする方々は要注意だ。

 ま、どうもマスコミの「シー・オー・ツー」汚染は、DHMO問題が揶揄している対象と同じようなもんだと思うね。




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ドミノ起き上がらし

 最近ドミノづいている(?)もんで、“ドミノ起き上がらし”という遊びが可能かどうか考えてみた。たぶん、可能である。

 まず、ドミノ倒しをふつうに地球上で行う。倒れたドミノは、床面にぺたんと伏せた状態にはならず、すべて次のドミノの上にきれいに折り重なっているとする。

 さて、この状態で、地球をまったく同じ大きさの中性子星と一瞬にして入れ替える。ここのところは、ちょっとご家庭では気軽にお試しいただけない技術的困難を伴うかとは思うが、ま、とにかく一瞬にして入れ替える。べつに中性子星でなくブラックホールでもいいのだが、ブラックホールだと事象の地平面上にものを乗せることができないため、強靭きわまりないチョコエッグのような外殻で覆ってやらなくてはならないだろうから、ここは中性子星くらいが適当であろう。

 ここまではよろしいか? で、地球が、大きさは同じままでとてつもない密度の物質と入れ替わったので、その重力場の勾配は非常に大きなものになるだろう。つまり、ほんのわずかな高さの差でも、ドミノにかかる潮汐力は、もとの地球の比ではない。ドミノは次のドミノに折り重なって倒れた状態にあるから、ドミノの最も高い部分と最も低い部分にかかる重力にはかなりの差ができるだろう。ドミノのあらゆる部分には、その部分を中性子星の中心方向とその逆方向へと引き裂こうとする力が働いている。そして、そのすべての合力は、斜めになって倒れているドミノを、地表に対して鉛直に立ち上がらせようとする力となって働くはずだ。SFファンには、ラリイ・ニーヴン『インテグラル・ツリー』に出てくる“インテグラル樹”の姿勢が潮汐力によって安定している状態を思い浮かべていただければ、話が早い。

 だけど、潮汐力が強すぎると、倒れているドミノはいっせいにぴょこんと起き上がってしまい、“ドミノ起き上がらし”らしくない。やはり、ドミノ倒しの逆をやってこその“ドミノ起き上がらし”である。

 そこで、中性子星の密度をうまく調節してやると(これもご家庭ではちょっと出せん味ですなあ)、ドミノ一個を起き上がらせることはできるが、前のドミノにのしかかられていたのでは起き上がらせられないといった最適な潮汐力が得られるであろう。この最適な条件下で“ドミノ起き上がらし”をやると、まず、自分の上に前のドミノがのしかかっていない最初のドミノがぴょこんと起き上がり、次のドミノが起き上がり、また次のドミノが起き上がり……という現象が実現できるはずである。ドミノ倒しの映像を逆回ししたように起き上がるのではなく、最初に倒れたドミノが最初に起き上がるというところが、“ドミノ起き上がらし”の面目躍如(なんの面目だ?)たるところである。

 とても危険な遊びなので、よいこのみんなは、かならずおとなのひとといっしょにやってね。



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2007年9月23日 (日)

こんばんわ、ムーディ冬樹です

 ひっさびさの《歌が途中で変わるシリーズ》ネタ。あまりに違和感がないので、もしかすると、すでにけっこうあちこちで唄われているのではあるまいか? いや、こんなの思いつくやつは、かなり歳食ってるか――


♪右から 右から なにかが来てる
 ぼくはそれを 左へ受け流す
 十七本目からは 一緒に火をつけたのが
 ああ この東京砂漠



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2007年9月21日 (金)

絵に描いたような……

Officials confirm meteorite but question sickness claims (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/WORLD/americas/09/19/peru.meteorite.ap/index.html

ペルーで謎のクレーターの臭気で吐き気 (Sankei WEB)
http://www.sankei.co.jp/kokusai/world/070919/wld070919002.htm

【ロサンゼルス=松尾理也】ティティカカ湖に近いペルー南部の山岳地帯で、隕石(いんせき)とみられる物体が落下してできたクレーターから異臭が発生し、近寄った住民ら約600人が相次いで体調の異変を訴える騒ぎが起きた。ペルー当局は専門家チームを現地に急行させ、対策を急いでいる。

 おおおお、こういう出来事になら、われわれは慣れているぞ(どんな“われわれ”だよ?)。

 まず、周辺住民はみな例外なく気分が悪くなったのかを調べるべきであろう。飲んべえの爺さんと四六時中ビービー泣いている赤ん坊だけはなんともなかったなんてことはないか?


「土曜日の夜、火の玉が空から落ちてきた」――隕石が落下した地域の住民の証言 (LATINA)
http://www.latina.co.jp/html/topics/topics_disp.php?code=Topics-20070919225101

 また住民の中には「土曜日(15日)の夜、空から火の固まりが落ちてきた」と証言する者も。住民の治療と真相の究明が待たれる。

 ほおほおほおほお、「火の玉が空から落ちてきた」とな。

 で、その住民は、奇妙な日焼けをしていないか? 火の玉が「歌った」とか言ってないか? El sol salio anoche y me canto. El sol salio anoche y me canto.



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2007年9月20日 (木)

スパイダーマン対バットマン?

 どうやらスパイダーマンのほうが強いらしい。

クモがコウモリを食べていた! 奄美大島で観察 (asahi.com)
http://www.asahi.com/science/update/0918/TKY200709180338.html

 クモが哺乳(ほにゅう)類のコウモリを捕らえて食べている珍しい場面を、京都大研究員の前園泰徳さん(35)が鹿児島県・奄美大島で見つけた。
 観察されたのは体長5センチ、脚を伸ばすと長さ20センチにもなるオオジョロウグモ。直径が1メートル以上もある大きな網を林道沿いなどに張り、ふだんは主にセミやガなどの昆虫を捕まえて食べている。
 前園さんは先月、両翼を開くと20センチほどのオリイコキクガシラコウモリが、クモの巣にかかっているのを発見。コウモリの首のあたりにオオジョロウグモがかみつき、消化液を出しながら体液を吸っていた。

 まあ、たまたま“どんくさい”コウモリだったのかもしれないが、これはなかなかすごい光景ですなあ。コウモリの超音波では、クモの巣を捉えられないのだろうか? それとも、やっぱりたまたまどんくさいコウモリだったのかなあ。

 カゲロウやガには、コウモリの超音波を感知するとジグザグ飛行をしたり、突如羽ばたきを止めてストンと落下したりして、コウモリのエコーロケーションの裏をかくような行動が見られるそうなのだが、シンプルなムシのほうが小賢しい哺乳類より一枚上手なのかもしれませんなあ。柔よく剛を制すってか。



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2007年9月19日 (水)

正直者

16歳の娘、斧で警察官の父を殺害容疑 「嫌いだった」 (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0918/TKY200709180043.html

 18日午前4時40分ごろ、京都府京田辺市、京都府警南署交通課巡査部長(45)方から、妻(41)とみられる女性の声で「主人が斧(おの)で首を切って自殺した」と119番通報があった。消防隊員が駆けつけると、2階の寝室で巡査部長が首から血を流して倒れており、すでに死亡していた。田辺署員が返り血を浴びた専門学校生の次女(16)に事情を聴いたところ殺害を認めたため、殺人容疑で緊急逮捕した。
 捜査1課と田辺署の調べによると、巡査部長はランニングシャツとパンツの下着姿で、右首の数カ所に傷があり、体の左側を下にして倒れていた。争った形跡はなかったという。
 警察が到着した際、次女は1階の居間にいた。居間には、血が付いた刃渡り約11センチの小型の斧もあった。斧はこれまで自宅になかったものとみられ、府警は次女が事前に準備したとみている。次女は「私が斧で切りつけた。以前から父が嫌いだった」などと供述しており、府警は動機を調べている。

 いや、われながらえげつなく不謹慎だとは思うのだが、このニュースを読んでいる最中、おれの脳は、おれが静止する間もあらばこそ、娘の台詞を反射的に英訳してしまったのだった――

 

I cannot tell a lie. I did it with my little hatchet.



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2007年9月18日 (火)

『英会話上達法』ふたたび

 ずいぶん前になるが、おれが高校生のころに影響を受けた名著『英会話上達法』倉谷直臣/講談社現代新書)を日記に取り上げたことがある。その後、それを発見なさった倉谷先生ご本人からメールを頂戴して驚いたりしたこともあった。

 最近はどんな活動をしてらっしゃるのだろうと、ひさびさに検索してみたら、倉谷先生、この春から「NK @ Global Village」というブログをはじめていらして、こいつが滅法面白い。『このブログは、私の「新・英会話上達法」です』とおっしゃっているとおり、あの『英会話上達法』の倉谷先生そのままの、反骨と諧謔に溢れた斬れ味のよい文章が楽しめる名ブログである。

 「学校英語をナメてはいかんぞ! (01-15) 」なんてエントリーは、痛快きわまりない。『「ネイティブも知らないような」という前に、ネイティブは知らないことをまず恥じなさい!』なんて啖呵は、不良ガイジンを奉ってチーチーパッパをやってるだけの薄っぺらな英語教師には、なかなか切れるもんじゃありませんぞ。考えてもみればよい。あなたが、外国人にわかりやすいように、本質を論理的に剔抉した視点で、正しい日本語を教えられるかを……。そんなことは、おれにはとてもできん。おれ以上に日本語に詳しい外国人になら、素直に教えを乞いたいと思う。そういうことなのだ。

 このブログ、なんでももうじき本になるとのことで、じつに楽しみだ。もう、デフォルトで買いだな。子供たちを、母国語も満足に操れないうえに似非英語を刷り込まれただけの根無し草にしようとする風潮に一石を投じる快著になることだろう。



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2007年9月17日 (月)

ジェットコースターの失敗学2

エキスポ社、トラブル公表せず 入場者に驚きと怒り (asahi.com)
http://www.asahi.com/national/update/0916/OSK200709160034.html

 ジェットコースターの死傷事故があった大阪府吹田市の遊園地「エキスポランド」で、再びジェットコースターのトラブルが起きた。安全を宣言して営業再開してからわずか1カ月余り。同園は今回の事態を公表せず、16日も営業を続けた。その甘い対応ぶりに、入園客や地元自治体から怒りや不信の声があがった。

 おやおや、こりゃもう、エキスポランドはダメだな。ここ十年ばかりのあいだに消えていった、ほかの多くの遊園地に名を連ねることになるにちがいない。民間企業のくせに、まるで官公庁のような認識ではないか。顧客という最強のステークホルダーの意向次第で簡単に潰れるというリスクを負っているがゆえに公的団体よりもはるかに優れた信頼性の高いサービスを提供するべき民間営利企業が、地元自治体ごときに「不満をあらわ」にされるとは、情けないとは思わんのか。

 以前のエントリー、「ジェットコースターの失敗学」で、「遊園地の経営者にも月に一回くらいは乗ってもらいたいものだ」と書いたが、経営陣がこの程度の認識では、もはや信頼を回復するには、ほんとうに役員が交替で、自分たちが経営する遊園地の乗りものに毎日乗るくらいのことをしなければ、世間は納得しないだろう。人の命をなんだと思っているのだ? 世間をなめるんじゃない。




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2007年9月16日 (日)

サンマを食った夜の『サイエンスZERO』

 今夜の『サイエンスZERO』(NHK教育)、「食卓から魚が消える?」は、じつに勉強になったなあ。いや、なにしろ、つい数時間前にサンマの塩焼きを二匹食いながら、辛口の熱燗を二合ほど飲んだのである。先週の土曜日も晩飯にはサンマの塩焼きを二匹食った。四日にも昼に一匹食った。今月になってから、サンマの塩焼きを計五匹食っている。塩焼き以外のサンマなど、おれには考えられない。

 近年、クジラ(はまあ魚じゃないにしても)といいウナギといいマグロといい、どうも日本は外交下手のために政治的にハメられているのではないかと思わされるくらい、日本人の好きな漁業資源の獲得が制限を受けるようになっている。魚を食べると頭がよくなるかどうかはともかくとして、そう信じる外国の連中が組織する“死ね死ね団”かなにかが、日本人をアホにしようとして魚を食わさないように陰謀をめぐらせているのではあるまいか。

 それはともかく、政治的な事情とは別に、純粋に科学的に見ても、漁業資源は相当な危殆に瀕していることはたしかなようである。おれは、個人的には、動物性蛋白源のほとんどをニワトリと魚とオーストラリア産のウシに依存している。朝には生卵を二個ロッキーのように飲み、魚肉ソーセージを一本食う。昼にはマクドナルドのハンバーガーを一個食う。夜には、切り身の焼き魚が入っていることの多いコンビニ弁当を食う。植物性蛋白の大部分は納豆に依存している。月曜から金曜までは、規則正しくこれの繰り返しである。土日の夜だけは、多少食いものらしいものを買ってきて食う。生の素材を自宅で調理して食うなどという、しち面倒くさく時間が無駄になるようなことは、まずめったにしない。このようなじつに健康的な食生活のおかげで、メタボリック症候群にはほど遠い体組成を維持している。これで酒と煙草がやめられれば抜群に健康的なのだが、食に楽しみを求めないぶん、酒と煙草を嗜んでいるので、まあよかろう。

 一週間に二回しか食事をしない(あとのは単なる“栄養補給”であって、味とかいった些末なことはどうでもよい)おれですら、食卓から魚がなくなると非常に困る。魚肉ソーセージはおれの重要な蛋白源であるし、秋のサンマは生きている楽しみのひとつである。まあ、サンマの場合、サンマそのものよりも、どちらかというと熱燗のほうを重点的に楽しんでいるわけではあるが、サンマがある熱燗とサンマがない熱燗とは、まったく別のものなのである。それほど、熱燗にとってサンマは重要である。なにを言っているのかよくわからなくなってきたが、まあ、とにかく“持続可能な漁業”というコンセプトは大事だ。

 いやしかし、サンマが、食ったものをわずか三十分で排泄してしまうというのは、今夜の『サイエンスZERO』で初めて知った。だからワタに臭みがなくて、好む人が多いと考えられるのだという。なるほどねえ。まるで熱燗のために存在しているかのような生きものであるなあ。サンマのほうはそんなことはつゆ知らんだろうけど。サンマがなぜそんなに慌しい消化器官を持っているのかは、まだよくわかっていないそうだ。まあ、よくわからんでもうまいものはうまいからいいのだが、理由も知りたいところだ。今後の研究に期待したい。



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2007年9月14日 (金)

がんばれ原器

Official prototype of kilogram mysteriously losing weight (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/TECH/science/09/12/shrinking.kilogram.ap/index.html

「国際キログラム原器」が謎の減量50マイクログラム (CNN.co.jp)
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200709130016.html

 不思議なこともあるもんだ。増える原因のほうが減る原因よりもずっと多そうに思えるんだが、はてさて、真相はいかに?

 もし、ほんとうに質量が減ったんだとしたら、まず誰もが考えつく原因は、放射性崩壊だろう。作ったときにごく微量の放射性元素が不純物として混入していたとしたら、質量が減ることもあり得るだろうけどなあ。

 現在でも、質量だけが、普遍的な物理量に依らず、人工物が基準になっているというのは、言われてみれば無理もないよなあ。エネルギーを光速の自乗で割ればいいなどというのはあくまで理屈であって、実際問題として、一キログラムの質量に相当するエネルギーを「はい、これが原器です」などと扱えるわけがないのだ。

 それにしても、なぜ軽くなっちゃったのかなあ? えーと、誰ですか、「右に回しすぎたんだろ」なんて言ってるのは?



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2007年9月12日 (水)

うん、死んだら連絡するよ

あなたが死んだら大事な人にそれを知らせてくれる「DeathSwitch」 (Japan.internet.com)
http://japan.internet.com/busnews/20070904/7.html

DeathSwitch ではあなたが万が一死んでしまったり、動けなくなってしまったときに周りの人にそれを知らせてくれるサービスを提供している。
仕組みは簡単で、定期的に送られてくるメールに返信していくだけである。ただし、あなたが一定期間返信できなかったら、あらかじめ指定された人に指定した内容のメールを送ってくれるのだ。

 ああ、やっぱりこういう商売をしている人がいるんだなあ。十年前くらいから、腐乱死体になって人に迷惑をかけないようにするにはどうするかみたいなことを考えていたのだが、こういう商売があるなら話が早い。日本語版も提供してほしいなあ。特殊清掃の人には、できるだけ面倒をかけたくないよなあ。

 しかし、このサービスのサンプルメールを読んでると、なんだかフクザツな気分になるなあ。便利っちゃあ便利にちがいないのだが、こういう商売が必要な社会というのは、進んでいるのか後退しているのか、どっちだろう? これからどんどん少子高齢化社会になってゆくのはたしかだから、日本でもこんな商売が出てくるのは時間の問題だと思う。もうすでにあるのかもな。

 死期を自分で悟って、象の墓場みたいなところへ行ければいいんですけどね。

   ♪わたしの~お墓の前で~ 吐かないでください~

 酔っ払いがうろついてる墓地って、あるでしょ。ワンカップとか盗み飲みしてるやつとかいてさ。



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2007年9月11日 (火)

両手が同じように使えたらと憧れたよね

 あ、アレがひとつできた。

「水野亜美と水森亜土くらいちがう」

 水森亜土って誰とか言いっこなしね。まだまだ現役だぞ。知らない人は、そのへんのおばさんに訊いてください。



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2007年9月10日 (月)

階段を昇るドミノ

 先日の『ロンドンハーツ』の録画を観てたら、青木さやかを驚かせるために二回も“ドミノ倒し”が出てきた。青木が楽屋の扉を開けると、それに連動して凝った仕掛けのドミノ倒しがはじまるのだ。

 いや、ロンハーも青木さやかも、この際あんまり関係ないのだ。あのドミノ倒しを観ていて、ああそうかといまさらながらに納得したことがあるのである。ドミノ倒しなんか何回も観ているはずなのに、いまごろ気づいたのかとわれながら呆れる。

 ほれ、ドミノ倒しに必ずある仕掛けに、“ドミノが倒れてゆくという現象が階段を昇ってゆく”というのがあるじゃないか。今回のロンハーのドミノ倒しにもあった。ぱっと見にはちょっと不思議な感じがするんだが、倒れるドミノの先端が次のドミノの重心より上の部分を充分な強さでヒットすることができる程度の段差であれば、ドミノは自分より高い位置にあるドミノを倒すことができる。そうした条件を満たす段差を繰り返し設けてやれば、ドミノの“倒れ”に階段を昇らせることが現に可能である。

 だが、ドミノ倒しの録画をじっくりコマ送りで観ていると、ドミノの“倒れ”が階段を昇っているときには、“倒れ”が伝播してゆく速度が、平坦な部分を伝播してゆく速度よりも、あきらかに落ちている。単純に考えれば、その速度が落ちるぶんのエネルギーが階段を昇ってゆくぶんに使われているのだろうと思うのだが、なんだかそれもヘンな気もする。“倒れ”が重力に逆らって階段を昇ってゆくといっても、なにか質量のある実体が昇っていっているわけではない。そもそもドミノ倒しとはなんなのか、そのあたりからもう少しじっくり考えてみる必要があろう。

 まず、ドミノ倒しというものが成立すること自体、なかなか魅力的だ。最初のドミノを倒したエネルギーは、空気抵抗やらドミノ同士の衝突時に出る音やら静止しているドミノの慣性やらなにやらによって、最終的には熱に化けて失われ、ドミノを倒し続けることなどできないはずだからである。なのにドミノは倒れ続ける。考えてみれば不思議なことではあるまいか?

 そこで、無重量状態でのドミノ倒し(?)を考えてみる。ドミノ自身の質量によるもの以外には重力が働かない真空中の場で、ドミノを厳密に等間隔に設置する。最初のドミノ「│」をそのまま厳密にまっすぐ押し出してやり「→」、次のドミノ「│」の側面全体に厳密に同時に衝突するようにしてやる。最初のドミノの運動エネルギーを側面全体で同時に受け止めた次のドミノは、最初のドミノを反作用で跳ね返しながらもその次のドミノに向かって移動し、またもやびた~んとその次のドミノの側面全体にぶつかる。このような、無重量状態での“ドミノ玉突き”を考えてみると、最初のドミノの運動エネルギーは、ドミノ同士がぶつかったときの反作用によってたちまち減衰し、とても次々に伝播してゆくとは考えられない。なのに、地球上のドミノ倒しではそのようなことがふつうに起こっている。これはなぜか?

 つまり、ドミノ倒しは、最初のドミノを倒すのに加えた運動エネルギーが伝わっていっているのではないのだ。ひとつひとつのドミノを立てたときにそのドミノにチャージされた、重力場の中での位置エネルギーが順々に解放されていっているだけなのである。ひとつひとつのドミノは、言わば位置エネルギーのパッケージであって、前のドミノは、このパッケージを開封するだけの仕事(つまり、ドミノの安定を崩し、進行方向へ倒れはじめるようにするだけの仕事)をすればよい。開封された位置エネルギーは、たちまち減衰してしまう進行方向への運動エネルギーを、次のドミノを倒せるところまでリカバーする。これが次々と続いてゆくだけだ。要するに、ドミノ倒しなるものは、最初のドミノが次のドミノを倒すところまでで、構造的には完結しているのである。あとは同じことの繰り返しなのだから。

 1Gの重力加速度が加わる無限の平面上を一直線にドミノが無限個並んでいるという状況を想定してみると(物理的には不可能だろうが、思考実験としてはアリである)、このドミノが倒れてゆくさまは、一種の永久機関のように見える。だが、もちろんそれは永久機関ではなく、この無限個のドミノを立てたときに、位置エネルギーをチャージし、倒れる方向に秩序(すなわち情報)を与えたやつがどこかに絶対いるのである。そいつは、ちょっと不純な“マクスウェルの悪魔”と呼べるかもしれない。マクスウェルの悪魔は情報を与えるだけで、みずから対象にエネルギーをチャージするようなことはしないから、“ちょっと不純”なのである。

 ドミノ倒しが、減衰する進行方向への運動エネルギーを位置エネルギーでリカバーしながら続いてゆくさまは、地球上に落下してくる雨滴に似ている。妙な芸をせずに淡々と平面を倒れてゆくドミノ倒しを見ていると、“倒れ”の伝播速度は一定であることがわかる。つまり、ドミノの“倒れ”の伝播速度は、いわゆる終端速度に達しているのである。減衰する進行方向への運動エネルギーをひとつひとつのドミノにチャージされた位置エネルギーがなんとかリカバーして次に伝えているので、伝播速度を加速するだけの余裕がないのだ。この終端速度は、この場の重力加速度、ドミノの形状や質量や弾性、ドミノ間の距離、空気抵抗などの関数として決定されるだろう。これは、本来であれば重力によって加速されながら落ちてくるはずの雨滴が、空気抵抗によって終端速度に達し、ほぼ等速で落ちてくるさまに似ている。そう考えると、ドミノ倒しというやつは、横に雨が降っているようなものだと見ることもできよう。

 さて、そこで、例のドミノの“倒れ”が階段を昇る現象を見てみよう。ドミノAが、自分より高いところにあるドミノBを倒れながら叩くとき、ドミノAとBが同一平面上にあるときと異なるのは、AがBを叩く位置である。BがAより高い位置にあるとき、AはBの重心により近い位置を叩く。ドミノを最も小さいエネルギーで倒すには、重心から最も遠い上端付近を叩かねばならない。しかし、BがAより高い位置にある場合、AはBの上端を叩けず、少し重心に近い位置を叩く。つまり、Bを倒すのに、平坦な場でよりも多くのエネルギーを必要とする。しかし、ひとつひとつのドミノにチャージされている位置エネルギーはほぼ同量なので、進行方向への運動エネルギーがその損失を埋めねばならない。だから、“倒れ”が伝播する速度が落ちるのである。階段の段差が高すぎると、ひとつのドミノにチャージされた位置エネルギーでは進行方向への運動エネルギーの損失がリカバーしきれず、ドミノの“倒れ”は止まってしまうはずだ。

 では、ドミノAがドミノBの上端を叩くように、ドミノAだけ少し背を高くしてやったらどうだろう? むろん、そうすると、今度はドミノAの前のドミノは、ドミノAの上端を叩けず、ここで進行方向への運動エネルギーが余分に減衰する。いやあ、自然の収支ってのは、まことにうまくできているものである。エネルギー保存則ってのはじつに強固であるなあ……。

 ご存じのように、『ロンドンハーツ』は例の日本PTA全国協議会「子どもに見せたくない番組」とやらでV4の栄冠を勝ち取っているらしいのだが、どんなものからであれ、観るほう次第でなにかが学べるのである。おれはSFからそういう“ものの見かた”を教えてもらった。これはおれの人生で最大の宝だ。親御さんや先生は、ロンハーを肴に子供にこういう話をして考えさせてやったらどうなのかな?



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2007年9月 9日 (日)

ヴォミーサ

情報処理技術者試験が大改革へ、試験内容に「IT土方三原則」追加 (bogusnews)
http://bogusne.ws/article/54504061.html

情報処理推進機構(IPA)は7日、情報処理技術者試験の改革に関する中間報告を発表した。「資格を取得した者がかならずしも即戦力になっていない」という企業現場からの注文にこたえ、より使いやすい人材育成につながるよう新たに
  「IT土方三原則」
を試験科目に追加することを提言する内容となっている。

 ひいぃ。「より使いやすい人材育成」ってとこが、めちゃめちゃブラックだなあ。つまり、ここで言われている「より使いやすい人材」というのは、「自分の所属している会社の経営に疑問を持たない人材」「業界の構造に疑問を持たない人材」「社会のありかたに疑問を持たない人材」を意味していることはあきらかであり、そこを茶化している記事なのである。こわー。そこんとこは、みんなだましだましやっている、というか、だまされだまされやっている、というか、だまされたふりをしいしい適当にやっているというのが現状であって、あんまりはっきり言語化してはいかんのである。もちろんこれは、「みんなもっとはっきり言語化しろ」ということをブラックに言っているだけである。

 それにしても、このニュースのような制度改革をホントにやられたら、おれはまず試験に受かりそうにないなあ……。



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2007年9月 8日 (土)

『今日の早川さん』(coco/早川書房)

 いや、なんちゅうか、早川書房さんが突然マンガをご恵贈くださったのでちょっと面食らったのだが、読んでみて、なーるほどこれはおれにご恵贈くださってもまったく不思議はないにちがいないと思い知った。本好きの女性たちの日常を描く人気のブログコミックを書籍化したものだそうだが、おれはブログでは読んだことがなかったもんで、たいへん新鮮……かつ、身につまされた。

 SF者の早川さん、ホラーマニアの帆掛さん、純文学読みの岩波さん、ライトノベルファンの富士見さん、レア本好きの国生さん……おれが女だったら、絶対この五人の女性のどれかになっているにちがいない(ってまあ、男でも似たようなものになってしまっているわけだが……)。やっぱり、いちばん近いのは早川さんだろうけどな。ま、カタギの人から見れば、これらはみんな目くそ鼻くそなんだが……。

 『住宅事情、将来的に実現可能な展望など一切考慮せずにせっせと本を買い込んでは居住スペースを圧迫し、「宝くじさえ当たれば」などとはかない夢を抱きつつ、「そのうち家が傾くね」なんて他人事のように呑気な言葉を口にしたり、最後には「地震がきて本に埋もれて死ぬのなら本望」と物騒な居直りをするので、家族の心配の種となっています』って、誰かおれんちに盗聴器を仕掛けマシタカ? カメラもか? 気色が悪いほどである。このような因果な人が女性にもたくさんいるのだとしたら、まことに、まことに心強いことだ。そうさ、日本沈没の際には、みんなで本に埋もれて死のう。♪もうひとりぼっちじゃない あなたがいるから~。

 「うんうん、私も本に埋もれて死ぬのなら本望」と、なんの抵抗もなく頷いているそこのヘンなあなたならともかく、カタギの人にとってこのマンガがどのくらい面白いものなのか、おれには想像もつかない。というのは、このマンガ、全然フィクションの部分がない(ようにおれには思える)。日常そのもの、というか、人生そのものではないか。広義には、いわゆるエッセイマンガの範疇に入るのだろうが、『ちびまる子ちゃん』やら『あたしンち』やらをはるかに凌ぐリアリティーがある。えーと、「これのどこにリアリティーがあるの?」とおっしゃる方々は、無理にこちらへは誘いませんから、そっちで楽しく生きていってください。リアリティーとは相対的なものである。

 いやー、しかし、なぜかこういう可愛い女性たちには、おれの日常では全然遭遇しないのよなー。日本が一夫多妻制で、この五人の女性たちを全員妻にできたら、さぞや面白い人生が送れることであろう。週休二日でな。もっとも、家の中はぐちゃぐちゃになるにちがいない。ぐちゃぐちゃになったところで、おれも妻もそんなことはほとんど意に介さないであろうから、なんの問題もない。めでたし、めでたし。



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2007年9月 7日 (金)

冷たい夢に乗り込んで 宇宙(おおぞら)に消えるヴォイジャー

Voyager celebrating three decades of flight (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/TECH/space/09/04/voyager.anniversary/index.html

 考えてみれば、ヴォイジャー1号・2号の成果が次々と新聞をにぎわせていた時代というのは、おれたちの世代のSFファンにとっては、空想と現実が幸福に出会い続けていた黄金時代だったと言えよう。やはり、なんと言っても、イオの噴火の映像は衝撃的だった。たしか、『さよならジュピター』なんかは、ヴォイジャー2号の成果を“待って”書かれ、映画化されたものだと記憶している。

 このCNNの記事によれば、ヴォイジャー1号は、現在地球から最も遠くにある人工物だということだ。ということは、初めて太陽系を脱したパイオニア10号をすでに追い越しているわけである。

 なにはともあれ、三十周年おめでとう! あなたにとって、この三十年は、どんな三十年でしたか?



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2007年9月 5日 (水)

だからニヒルを気どる そして奇跡を唄う

Samma 今日(というか、もう昨日だな)は、外出先で昼に思わぬオペが入った。おれにとっては、この秋最初のオペだ。

 ご覧のとおり、オペは大成功だった。今年の患者は安い。脂もよく乗っている。この秋は、できるだけ多くオペをすることにしよう。

 それにしても、このエントリーのタイトルがわかる人は、もうけっこうなおじさん・おばさんのはずだよなあ……。




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2007年9月 3日 (月)

完全剛体と宇宙の壊滅

 完全剛体というのは、永久機関と同じくらい魅力的な物理与太のネタである。そんなものはこの宇宙に存在し得ないということがわかっていながら、存在したら面白かろうとついつい考えてしまうからだ。

 物理に関心のない方にも話についてきてもらうために、簡単に説明しておこう。高校生程度の物理の問題に、「ただし、この物体は剛体とする」といった条件がついていることがある。ここで言う“剛体”とは、外からの力によって変形しない物体であるといった意味だ。完全剛体というのは、究極の剛体のことである。つまり、端的に言うと、“まったくたわまない物体”のことである。

 たとえば、完全剛体で作った長さ三十万キロメートルの棒があったとする。この棒の端をちょいと一センチ押してやると、もう一方の端が厳密に同時に一センチ動く。つまり、光ですら一秒かかる距離を、エネルギー(と情報)がゼロ時間で伝わることになる。この棒の端を硬い棒かなにかでカーンと叩いてやると、その“音”は、やっぱりゼロ時間でもう片方の端に伝わる。音波は疎密波だが、疎密波もなにも、この物体は疎にも密にもならない。片方の端の変化は、厳密に同時にもう一端に伝わるのだ。こんな物体が存在しては都合が悪いことは、どんな物理音痴の人にも即座に了解されるだろう。完全剛体というのは、その存在自体が絶対座標を意味し、その物体が占める領域内では時間も空間も意味を失い、たちまち相対性理論に抵触するわけである。

 しかし、だから完全剛体は存在しないでは、SF的に面白くない。この宇宙には存在し得ないからこそ、存在したらどうなるかを考えたくなるのがSFファンというものである。で、今日も今日とて酒の肴に考えていた。もしかしたら、エヌ氏が完全剛体を発明したその瞬間に、この宇宙はたちまち“絶対宇宙”になってしまうのではあるまいか?

 「やったぞ! ホニャペレルカをソバジョラルテして、完全剛体を発明したぞ!」

 と、エヌ氏が叫んだ瞬間、この宇宙は、つじつまを合わせるために、一瞬にして、ひとつの均質な完全剛体になってしまうのではあるまいか? いやべつに確固たる理由があるわけではないのだが、なんとなくそんな気がする。自然はけっこう律儀なので、そんなふうにふるまいそうな気がするだけだ。

 もしかしたら、われわれの知っている宇宙の“外側”には完全剛体でできた絶対宇宙があって、絶対宇宙は隣接する(?)相対宇宙を“一瞬にして”自分たちの側に取り込んでいっているのではあるまいか? 異なる数学とわれわれの数学とのせめぎあいを描く、グレッグ・イーガン「ルミナス」のように……。

 だとしたら、絶対宇宙がわれわれの相対宇宙に“感染”してくるスピードはどれくらいなのだろう? その“界面”が迫ってくるスピードは? 絶対宇宙の側から見るとゼロ時間だが、われわれの宇宙の側から見ると光速を超えることはないというケッタイなことになるのかもしれない。というか、もしその界面が光速以上で迫ってくるように観測されたとすれば、観測者はすでに完全剛体になりかかっているのだ(?)。

 いやまあ、酒飲みながら書いてる与太だから、あんまり本気で考えんように。SFファンというのは、酒飲むと、こういうことばかり思いつくのである。



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2007年9月 1日 (土)

今月の言葉

西から昇ったおひさまを東へ受け流す

 まあ、考えてみれば、人の一生は東から昇ったおひさまを西へ受け流し続けているようなものだ。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。Make it simple to last your whole life long. Don't worry that it's not good enough for anyone else to hear. これでいいのだ。



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