出たな妖怪、『水からの伝言』
▼★き たーーーーーーーーー (前野[いろもの物理学者]昌弘のページ:日記兼更新記録 ■2007.6.17)
http://homepage3.nifty.com/iromono/diary/200706B.html#17
今日は息子の小学校の授業参観でした。道徳の授業をやっているのをぼんやり見ていると、隣の教室の声が聞こえてくる。なにやら音楽をかけているようだ。
「この音楽を聴かせると、こんな結晶ができます」
「おおおお(子供のどよめき)」
ちょっと待てこらなんだ今のは。思わず自分の子供そっちのけで隣の教室へ行くと、今度は
「『ありがとう』と書いた紙を貼ったら、結晶はこうです」
「へええええ(子供のどよめき)」
「『ばかやろう』だとこうです」
「ひゃあああ(子供のどよめき)」
あああ、決定だ。
水伝きたーーーーーーーーーーーーーー!!
というわけで、菊池誠さんと並ぶSF界のトンデモハンター、いろもの物理学者こと前野昌弘さんのお子さんの小学校にも、ついにあの『水からの伝言』汚染がやってきたそうなのである(じつは二度めだとか)。それにしても、よりによって、物理学者の前野さんが父兄として授業参観にやってきているときに、隣のクラスでこんな授業を行うとは、天網恢々疎にして漏らさずとはよく言ったものである(意味のわからん人は、水に訊かないで辞書を引こう)。
それにしても、まだこんな授業をやっている小学校があるとは、まったくもってけしからん。卑しくも教諭の資格を持っている方々は、『「水からの伝言」を信じないでください』(学習院大学理学部物理学科・田崎晴明教授)と『「水からの伝言」を教育現場に持ち込んではならないと考えるわけ』(大阪大学サイバーメディアセンター・菊池誠教授)を熟読するように。
おれが思うに、『水からの伝言』を“道徳教育”に用いることは、理科教育に用いること以上に罪作りなことだと思う。罪作りというよりも、情けないことだと思う。
科学的には「アホか」で終わりなのである。問題は、道徳的には「結論はそれほど悪いことを言っていないのだから、科学的事実などは二の次として、方便として教育に使ってもいいではないか」という奇妙な主張がまかり通っている点なのだ。これはすなわち、「細木数子や江原啓之の言っていることは、結論としてはそれほど社会常識に反しているわけではないから、彼らの主張の根拠がなんであれ、公共の電波で流す価値がある」という考えかたと同じである。ふざけるな。
これはもう、教育者の堕落以外のなにものでもない。“水伝”やら『オーラの泉』やらを奉じている教育者どもは、もはや自然科学のふりをしたインチキ権威やら、超常現象のふりをしたインチキ権威やらを口実にしなくては、まともな社会道徳すら教えられなくなってしまっているのだと、みずからの無価値さ加減に恥じ入るがいい。そんな輩を教育者であるとは、おれは認めない。
あなたのお子さんには、危険が迫っている。小学校でこんなバカなことを教えているのだぞ。事実に反することでも、それが耳に心地よければオーケーなのだという教育が、実際になされているのだ。これは憂国の事態である。資源もなーんにもない国が、“知”という最強の資源を失ったら、どうなると思う? こんなバカなことを教えている教師は、教師として不適格である。ほかにいくらでも仕事はあるのだから、頼むから教師だけは辞めろ。
お子さんが学校でこういうバカなことを習って(?)きたら、心ある親御さんは、ぜひ学校にねじ込んでいただきたい。その前に、もし給食費を払ってなかったら、ちゃんと払ってからにしてほしいが……。
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コメント
「きれいな結晶」はよくて、「汚い(あるいは非きれい)な結晶はよくない」という考え方そのものも学校の道徳の題材として適切とは思えないですよね。そういう表面だけで物事を判断しないように頭のつかいかたを教えるのが学校の目的なのだから。
投稿: 林 譲治 | 2007年6月18日 (月) 15時11分
>林譲治さん
>「きれいな結晶」はよくて、「汚い(あるいは非きれい)な結晶はよくない」という考え方そのものも学校の道徳の題材として適切とは思えない
まったく。子供に『マクベス』でも観せたほうが、よほど道徳教育になるでしょう。
それに、結晶の美しさで善悪を決められたのでは、ガラスのような過冷却液体の立場がありません。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年6月19日 (火) 01時25分