うまいから身体によいのか、身体によいからうまいのか?
おれはオリーブ油が好きだ。なんならそのまま飲んでもいいくらいである(さすがに、そんなに贅沢なことはしないが)。パスタなんかを食うときには、これでもかというくらいにかける。最後に皿の中に残ったオリーブ油をずずずと啜れるほどにかける。以前、「うまい汁を吸う」というエントリーでも書いたのだが、トマトにもどぼどぼオリーブ油をかけて食う。昨晩そうやって食った。
オリーブ油とトマトを一緒に食うとリコピンの吸収が高まるということが数年前から支配的な認識になっているけれども、おれはそれ以前からそうやって食っている。うまいからだ。イタリア人やらギリシア人やらも、むかーしから日常的にトマトとオリーブ油を一緒に食っている。彼らがそうやってトマトとオリーブ油を食ってきたのは、なにもリコピンがどーたらということを考えてのことでは絶対にあるまい。単にうまいからにちがいない。
いや、待てよ。“うまい”というのはどういうことだろう? 逆に考えてみたら、どうなるだろう? つまり、地中海あたりに住んでいた連中のうち、オリーブ油とトマトを一緒に食うと“うまい”と感じるような嗜好を偶然遺伝的に持っていた人々が、ほんのわずかでも健康になり、子孫を残す確率がほんのわずかでも高くなって、トマトをオリーブ油で料理するという文化が強化されていったという考えかたはできないか? そのようなダーウィン進化が有意に働くには人類の歴史は短すぎるような気もするんだが、まったく働かないというわけでもなさそうに思える。人類にはファームウェアとしての遺伝子だけではなく、個体の外部で進化するソフトウェアとしての文化があるから、ダーウィン進化が加速されるってこともあるだろう。このあたりの与太な思いつきを突き詰めてゆくと、マーヴィン・ハリスの“文化唯物論”に似たものになってゆきそうだなあ。
まあ、食文化というのは健康や寿命(すなわち、ハードウェアの耐久性)に大きな影響を及ぼすものであろうから、“文化唯物論”は極端だとしても、純粋にミームとしてだけ切り離して考えるわけにもいかないはずだ。“食性とダーウィン進化”だったら科学的にアプローチできそうだけど、“食文化とダーウィン進化”となると、これは一筋縄ではいかないだろう。でも、まったく無関係だとも思えないんだよなあ。
トマトにオリーブ油をかけて食うたび、おれはこういう与太に思いを馳せてしまう。人類が培ってきた食文化というものには、まだまだサイエンスが取りこぼしてきている不思議が隠されていそうな気がするんだよね。もっとも、トマトとオリーブ油のような健康によい食べ合わせが偶然か必然か文化として受け継がれてきている不思議があるのとまったく同じように、世界のあちこちには、健康に悪い食べもの、健康に悪い食べかたが文化として定着してしまったせいで、あたら寿命を縮めている人々だっているはずだ。「家を出るとき犬が騒いで、飛行機に乗り遅れる人もいる。その飛行機が墜落した場合、主人を救った不思議な犬ともてはやされることにはなるわけだが、世の中には、主人を引き止めて墜落する飛行機に乗せてしまった馬鹿犬もやはり同じ確率でいるはずだ」ってのと同じである。あ、そんな難しいこと考えなくたって、酒飲みで煙草吸いの手前が好例ではないか。
ま、好きな食いものを我慢して長生きするのと、好きなもの食って多少寿命が縮むのとどちらがいいかとなると、こりゃ、個々人の哲学の問題だからねえ。「酒も煙草も女もやめて 百まで生きた莫迦がいる」って都々逸の苦笑と自嘲と共感は、たぶん、世界中の人に通じるんじゃなかろうか。
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