いま、そこにある厄介
京都市では昨年秋にゴミの分別がはじまったのだが、約半年経った今日このごろ、近所のどのゴミ置き場を見ても、示し合わせたかのように、貼り紙や立て看板にはこんなふうに書いてあるのだ――「……京都市指定の黄色いゴミ袋でないと持っていってくれないので、それ以外の袋は使わないでください」
ここいらは団地だから、これを書いている人はゴミ置き場によって異なるのである。なのに、どれもたいていこういう内容になっている。おれは近所のスーパーに買いものにゆくたび、さまざまな筆跡で同じことが書かれた貼り紙や立て看板をいくつも見て、ほとんど感動に近い感慨を覚える。つまりだ、人が京都市指定の黄色いゴミ袋(45リットルのが一枚45円もする)を使う理由は、地球環境がどうの決めごとがどうのといったきれいごとより、なによりかにより、“持っていってくれない”からなのである。“生活者”という言葉を使うのは気色悪いのだけれども、これこそ生活者の視点、生活者の本音というものであろう。「もしどんなゴミ袋でも持っていってさえくれるのであれば、誰が高い指定ゴミ袋など使うか、どアホ」とでも言いたげなこれらの注意書きは、微笑ましくもあり嘆かわしくもあり逞しくもある。
これはまさに、地球温暖化のような、目に見えずわかりにくい脅威は「ちゃんと怪獣の形にしてあげればいい」というおれの提言(?)を補強する観測事実と言えよう。たいていの人は、地球の環境が破壊されることを憂えてゴミの分別などという面倒くさいことをしているわけではないと思う。とにかく、ゴミを持っていってくれないと困るという、直近の、目先の、いま、そこにある厄介を回避するために行動しているのである。いやまあ、たしかにアタマでは大所高所に立って地球のことを考えている人は少なくなかろうが、ココロではゴミを持っていってくれないことのほうが、異常気象やらなにやらよりも正直ずっと困るのである。
安倍晋三という人の言動を見ていると、どうもここいらへんの嘆かわしくも逞しい“生活者感覚”とでも言うべきものが欠落しているのではないかと思われてならない。安倍首相にはぜひ、先ごろ亡くなった聖人のお言葉を、朝に夕に三回ずつ唱えるくらいのことをしてもらいたいと思う――「ア、わかっちゃいるけど、やめられねぇ」
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コメント
首相はすでに「そのうちなんとかなるだろう」はすでに、日々実践なさっているように思いますが。
投稿: 林 譲治 | 2007年4月 7日 (土) 15時03分
>林譲治さん
まあ、時間の問題で「ハイ、それま~で~ヨ」となることでしょう。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年4月 7日 (土) 20時28分
現状は「誠に遺憾に存じます」段階ですな。
……ほんっとーに偉大だったなぁ、植木さん。
投稿: クレイン | 2007年4月14日 (土) 18時59分