『ヒューマン2.0―web新時代の働き方(かもしれない)』(渡辺千賀/朝日新書)
「ヒューマン2.0」なんて、なにやらミュータントもののSFにそのまま使えそうなタイトルだが、そういう本じゃなくて、シリコンバレー在住のキャリアウーマンが、シリコンバレーなる天国のようでもあり地獄のようでもある奇跡的な異界に棲息する人々の生態を、赤裸々に面白おかしく真面目に紹介している好著。ほとんど軽いブログのようなノリで書かれているから、息抜き、暇潰しにつるつる読める。
“シリコンバレー”と聞くと、おれなどは、石を投げるとまずスーパーエンジニアに当たり、そこで跳ねた石がノーベル賞を受賞した科学者に当たり、そこで跳ねた石が海千山千のスーパービジネスマンに当たって落ちるかと思うと投資家の口の中に飛び込んで金になって戻ってくる――みたいなイメージを漠然と抱くわけだが、本書を読むと、その軽いノリの中から、アメリカが生んだこの特殊な空間の“息吹”が生々しく伝わってくる。意外とセコくてショボくてあくせくしているが、スゴいところはとてつもなくスゴいという、等身大の“シリコンバレー人間交差点”である。こういう切り口でシリコンバレーを語り、ひいてはワークスタイル変革の最先端に迫るというアプローチは、ありそうでなかったんじゃなかろうか。テクノロジーにまったく関心がない人でも読めるし、また、読んで面白いと思う。『渡る世間はギークばかり』とかなんとかいうタイトルにして、本書をベースにテレビドラマでも作ったら、けっこうウケるにちがいない。
それにしても、“不自由なくらいに自由”ということもあるのだなあと妙に考えさせられた。若い人たちがこういうのを読んで、「おおお、ここにはおれが求めているものがある。よし、おれもいっちょ、シリコンバレーで一旗挙げてやるか!」と燃えるのは大いにけっこうなことだと思うのだけれども、はっきり言って、おれみたいにあんまり社交的でないおじさんは、読むと疲れます。こんなに宙ぶらりんで慌しい思いをしなければならないくらいなら、地位も名誉もお金も要りません、ウチ帰ってSF読んで屁ぇこいて寝ます。
とはいえ、ウチ帰って屁ぇこいて寝る人ばかりでは技術もビジネスも進歩しないので、若い人にはやっぱりこういう環境に憧れてほしいと思うぞ。仮におれが天才級の技術者であったとしても、こんなに振幅の大きな生きかたは、話を聞くだけで疲れるけどな。しんどい。基本的に、おれはなにをするにも、エネルギーというかガッツというか、そういうなにかしらが決定的に欠けている。先天的疾患じゃないかと思うくらい、野心というやつがない。もう二十年若かったとしても、シリコンバレーにはまるで向いていなさそうだ。やっぱり、「肉食ってるやつらにはかなわんわ」というのが率直な感想なのでありました。納豆ばかり食っているおれなどとは、ベースのところのエネルギー準位がまるでちがう。
というわけで、「自分は技術の天才だ」と思う方、または「家族を砦にアウトドアライフを楽しんで、庭でトマトを育てながら技術に関わる仕事をしたい」という方は、是非一度シリコンバレーで働いてみてください。
……というのが著者からのお勧めである。お、おれはけっこうです。ウチで本読んで屁ぇこいて寝たいです。
若い人は信じないかもしれないが、そのむかし、おれたちの二、三年上の世代からおれたちの数年あとくらいまでの世代を、当時の世間は“新人類”と呼んだものだけど、なんのなんの、このシリコンバレーの“ヒューマン2.0”に比べれば、おれたちなんぞ、ほとんど旧人類の亜種、せいぜい“ヒューマン2.0β”か、よくても“ヒューマン2.0 RC”くらいだろう。
こういう愉快な本は、十代、二十代の人が読んで、ぜひ現実的オプションとして憧れてほしいもんだ。おれには、こういう生きかたは眩しすぎる。晩飯のコンビニ弁当買うときに、四百九十円のにするか五百二十円のにするか悩んだ末、思い切って五百八十円のゴージャスなのを買ってしまった日には、なにやら分不相応なことをした罪悪感のようなものを覚えて落ち着かない……といった生きかたが、おれには身の丈に合ってます、ハイ。
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コメント
シリコンバレーというとあれですね、作りものの胸の谷間…じゃなくて、眼下をシリコーンの大河が悠久の時をかけて流れて行く(のかどうかも、時間がかかりすぎてよく分からない)光景を想像しました。
投稿: ゆうきまさみ | 2007年4月29日 (日) 19時02分
>ゆうきまさみさん
“作りものの胸の谷間”ってのはいい定義ですね。これから、あれをシリコンバレーと呼ぶことにします。
よく考えたら、地球上の“バレー”は、氷でなければたいていが大部分はシリコンでできているバレーなわけで、ことさら“シリコンバレー”というのもヘンだと言えばヘンです。ぐちょぐちょの脳みそでできている“BRAIN VALLEY”とかもなかなか壮観かもしれません。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年4月30日 (月) 03時46分
作り物の胸の谷間に住む筆者でございます。書評ありがとうございました。超面白いです。
>ウチ帰ってSF読んで屁ぇこいて寝ます
我が家の生活は夫婦ともこれに限りなく近いです。(特にダンナが・・・、と日本語のできない配偶者に押し付けてみる。)
投稿: chika | 2007年5月21日 (月) 14時21分
>chikaさん
わわ、著者降臨だヽ(;^^)/ ウチは、SF関係者はしょっちゅう降臨してますが、ビジネス書の著者が降臨したのは初めてなので、ちょっとびっくりしています。こ、これだからインターネットってやつは……(^_^;)。好き勝手ほざいておりますが、面白かったですよ。
>我が家の生活は夫婦ともこれに限りなく近いです
きっと、屁ぇこいて寝てるときと仕事してるときの落差が激しいんでしょうね。屁ぇこいて寝てて社長が務まるとは思えませんし。そういえば、chikaさんの会社は、Blueshift Global Partners( http://www.blueshiftglobal.com/ )ということですが、このブログ界隈の読者筋ですと、blue shift と言えば、十人のうち五、六人は、ドップラー効果による光の“青方(紫方)偏移”のことだと思うはずです(笑)。
あー、ところで、せっかくですから、ご著書への感想を補足しますと、あの“慈善事業がシリコンバレーすごろくのあがり”ってのを読んで、妙に腑に落ちたのです。欧米の正義の味方に金持ちが多いのは、ああいうすごろく人生の雛形が、そう不自然じゃないものとして共有されてるからなのかもしれませんね。怪傑ゾロは総督だし、バットマンは富豪だし、『サンダーバード』のトレイシー一家は家族ぐるみで華麗なる一族だし、マイケル・ナイトは財団に雇われて生活の心配ないし、スーパーマンは宇宙人だし……( http://ray-fuyuki.air-nifty.com/blog/2006/05/post_3a18.html )。ビンボー人なのは、スパイダーマンくらいじゃないでしょうか(^_^;)? いや、話が逆なのかも。正義の味方に富豪が多いから、最後はみんな正義の味方になりたいと思って慈善事業に乗り出すものなのかもしれません。
私が暴漢に襲われそうになっているときに、ビル・ゲイツのバットマンとジョージ・ソロスのロビンが助けにきたら、それはそれでシュールな光景ではありますが……。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年5月22日 (火) 22時00分