千のパケットになって
▼Mourning on MySpace (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/US/02/15/myspace.mourning.ap/index.html
Pages live forever
MySpace avoids deleting the deceased's profiles unless asked by family members, which means the profiles-turned-memorials can stay active for years. Other social-networking and blogging sites, such as Xanga and LiveJournal, also host memorials tied to deceased users' pages.
"We often hear from families that a user's profile is a way for friends to celebrate the person's life, giving friends a positive outlet to connect with one another and find comfort during the grieving process," MySpace, a unit of News Corp., said in a statement.
へぇ、MySpace は、故人のページを家族からの求めがあるまで消さないのか。mixi はどうなんだろうな? ココログは消されちゃうだろうなあ。
おれも、パソコン通信の時代から、何度かネットでの知り合いの死というものに遭遇してきた。ほとんど文字でしか知らない人々の死ってやつは、生身で知り合った人々の死とはまたちがった、不思議な喪失感を覚えさせるものである。なんというか、ある日ふらりと甦ってきて、また新しい書き込みをしてくれたら、「やあ、おひさ」などと気軽に言えそうな感じがある。また、そんなことはけっしてないと頭ではわかっているからこそ、「おひさ~」といまにもやってきそうな感じにいっそうとまどい、喪失感がいや増すといった複雑な心持ちがするものだ。
ブログやSNSが、遺された者たちの自我の組み換えにこのような形で貢献する媒体に育ってきているということには、奇妙な感慨を覚える。初めてウェブサイトを持って、継続的に日記を書くようになったころ、「おれが明日死んだら、ここはどうなるのかなあ?」などとよく想像していた。みんなするでしょう? 世界のどこかで、おれのまったく知らない人が、おれの死を悼んでくれたりするのかなあなどと想像しませんか?
してみると、個人のウェブサイトってのは、現代の墓標なのかもしれない。いや、墓標というよりも、故人と共有した時間をすぐに呼び出せるアルバムのようなものになってきているのだろう。面白い時代だ。じつに面白い時代だ。こんな感情を持てたのは、人類史の中でも、いまここに生きているあなたやおれたちが最初なのですぞ。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千のパケットに
千のパケットになって
あの大きなウェブを
吹きわたっています
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コメント
故人のサイトを読んで思考模写・文体模写する、というのが21世紀のイタコの仕事になるんでしょうか。
「死んだらネット上のデータをすべてデリートしてくれ」という面倒な遺言をする人も出てきそうですね。そのために各地のキャッシュやアーカイバのデータを消してまわるウェブ葬儀屋とか。
そうした面倒な作業を自動的に実行できるように、誰もがデッドマン・スイッチを身につけていて、脳死を検出してネットに通達するとか。
そのシステムを悪用して生きた人をネット上で「死」に至らしめるネット殺人者とか。
等々、いろいろSFネタを思いつくんですが、もはや一般小説家の領分かなあ。
投稿: 野尻抱介 | 2007年2月20日 (火) 04時04分
えーと、マイミクに半年ほど前に亡くなったかたがひとりおられますです。NIFTYでの知り合いだったんですけどね。
投稿: いしどう | 2007年2月20日 (火) 22時51分
逆に、動物として人間が生きていたとしても、ネットの上で死を宣告されたなら、その人は、その人を知っている人にとっては死者になってしまう。生死さえも自分では決められないという事も起こるかもしれない。
投稿: 林 譲治 | 2007年2月23日 (金) 06時55分
>野尻抱介さん
>故人のサイトを読んで思考模写・文体模写する、というのが21世紀のイタコの仕事になるんでしょうか。
こういう取り組み( http://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0511/12/news001.html )がすでに現実にはじまっているくらいですから、可能性はあるかも(^_^;)。ちょっと抵抗ありますけどね。
考えてみれば、たとえば神林長平さんの『帝王の殻』などに出てくる副脳(PAB)は、ライフログの究極の形なのかもしれません。
>もはや一般小説家の領分かなあ
そのあたりの微妙な領域は、近年、菅浩江さんがすごいですよね。一般小説的フォーマットの中で、SFとしてヌルいという印象をまったく与えないのがすごい。
>いしどうさん
それはご愁傷様です。そういうとき、故人のページを訪れると、どういう感じがするものなんでしょう。私はまだマイミクを亡くした経験はないなあ。
>林譲治さん
それは大いにあり得ますね。“社会的に抹殺される”などという言いまわしは、今後、どんどん“事実上、殺す”という意味に近づいてゆくかもしれません。林さん自身の作品をはじめ、そっち方面の考察はいろんなSFのネタになっていますが、みなが“裸眼”では世界を見ないのが常態になると、電脳的に殺されるのは、ほんとに殺されたも同じになっちゃうかも。
投稿: 冬樹蛉 | 2007年3月 4日 (日) 01時52分