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2007年1月の27件の記事

2007年1月31日 (水)

べつにおれは国のために生まれてきたわけではない

 柳沢厚生労働大臣「女性は産む機械」発言がずいぶんと物議を醸しているが、なんだか根本的なところで大きな齟齬があるような気がしてならない。

 そもそも、どこの誰が、天下国家のことを考えて子供を産むというのだ? 子供なんてものは、自然な営みの中で、結果として勝手に生まれてくるものである。個々の女性ががんばろうがなにしようが、そんなもん、厚生労働大臣の知ったことか! ほっといたれや! あんた、小便するのにいちいち天下国家に益するかどうか考えながらやっとるのか?

 ほっといても、ああ、こんなすばらしい国のいまの時代に子供を産んであげたいなあと親が思えるような政治をすることがあんたらの仕事じゃろうが。何十年後か、何百年後かに日本民族が滅びようがどうしようが、そんなもん、Lサイズの卵があっちのスーパーよりこっちのスーパーのほうが二十円も安いなどとちらしを見ながら熟考している庶民には、知ったことではないのである。われらのあとに大洪水よ来たれ!



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2007年1月30日 (火)

ウンコをするのはおまえだけではない!

 いや、なんちゅうか、それはじつにみみちいことなのだけれどもね、でも、気持ちの問題じゃないかと思うわけよ。

 なんの話かというと、トイレットペーパーの話である。

 むかし、トイレットペーパーと人間存在を深く洞察した「運命」というエッセイを書いたところ、人生の真実を垣間見たと、ごくごく一部の人に激賞されたものだ。なんのことはない、公衆トイレなどでおれはトイレットペーパーの“切れ目”にしばしば遭遇してしまい、新しいロールを装着するという面倒な作業をする羽目になる、くそ、腹立つ、ということをこれでもかこれでもかとぼやいてみただけのものである。

 だが……。

 “切れ目”に遭遇するくらいはなにほどのこともない――と、おれは先日思い知った。

 おれが会社のトイレで用を足して尻を拭こうとすると、なんと、ロールがない。というか、芯だけが残っている。すぐそばに新しいロールが積んであるにもかかわらず、おれの前にウンコをしたやつは、それを装着してゆかなかったのである。なんということだ。尋常な神経ではない。ふつう、自分がちょうど一本使い切ったら、次の人のために新しいロールを装着してから出てゆきませんか? 信じられん。人情も地に落ちたものである。なーにが美しい国だ。

 おれの前にウンコをしたやつだって、いままでの人生で、前の人が装着していってくれた新しいロールの恩恵に与ったことだってあったはずだ。お互いさまというものである。人間はそうやって支えあって、生きて、糞をして、死んでゆくのだ。それともキミには、「ああ、前の人が替えていってくれたんだなあ」とありがたく思うほどの想像力すらなくなってしまっているのか。哀しい。嘆かわしいというよりも、おれはただそんなキミが哀しいぞ。

 なにもこんなことを義務教育で教えろとは言わん。政治が悪いなどと拗ねるつもりもない。ただ……ただ、なんちゅうか、こういうことは親が教えておけ!

 ああ、それにしても、こんなつまらんことを数日間も根に持っているとは、つまるところおれは、ケツの穴が小さいのだろうな。こういうオチだったのか。



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2007年1月29日 (月)

SF処理技術者試験

 坂本康宏氏のブログを読んでいたら、SF作家に資格制度があったらいいのにという話が出てきた。

 面白そうなので、勝手に作ってみる。といっても、いろんな資格に精通しているわけではないから、おれがいちばんよく知っている情報処理技術者試験の体系を参考に、“SF処理技術者試験”にしてみよう。


【SF提供者側】

 SFアナリスト
  出版戦略に基づくSF戦略の立案、SF化全体計画及び個別SF化計画の策定を行うとともに、計画立案者の立場からSF開発プロジェクトを支援し、その結果を評価する者

 SFプロジェクトマネージャ
  SF開発プロジェクトの責任者として、プロジェクト計画の作成、要員などプロジェクト遂行に必要な資源の調達、プロジェクト体制の確立及び予算・納期・品質などの管理を行い、プロジェクトを円滑に運営する者

 SFアプリケーションエンジニア
  SF開発プロジェクトにおいて、プロジェクト計画に基づいて、読者要件分析からSF設計、作品開発、校正までの一連のプロセスを担当する者

 テクニカルSFエンジニア(創作)
 テクニカルSFエンジニア(評論)
 テクニカルSFエンジニア(編集)
 テクニカルSFエンジニア(エンベデッドSF)
 テクニカルSFエンジニア(SFセキュリティ)
 テクニカルSFエンジニア(SF管理)
  SF基盤(SF共有の資源)の構築・運用において中心的役割を果たすとともに、個別のSF開発プロジェクトにおいて、固有技術の専門家として開発・導入を支援する者。

 SF開発技術者
  SF開発プロジェクトにおいて、企画書・プロットを作成し、効果的な作品の開発を行い、執筆・ゲラ校正までの一連のプロセスを担当する者

 基本SF技術者
  SF全般に関する基本的な知識・技能をもつ者(SF開発プロジェクトにおいて、プロットを作成し、作品の開発を行い、ゲラ校正までの一連のプロセスを担当しているか、将来、そのような業務を担当する者を含む)

【SF読者・消費者側】

 上級SFアドミニストレータ
  読者・消費者側において、日常の中でどのようにSFを活用すべきかについて判断するために必要な知識・技能をもち、SF化リーダとして日常生活改革・改善を推進する者

 SFセキュリティアドミニストレータ
  SFセキュリティに関する基本的な知識をもち、SFセキュリティ管理の責任者として、SFセキュリティを保つための施策を計画・実施し、その結果の評価を行う者

 初級SFアドミニストレータ
  読者・消費者側において、SFに関する一定の知識・技能をもち、家庭内又はグループ内のSF化を読者・消費者の立場から推進する者

【SF提供者、読者・消費者から独立した立場】

 SF監査技術者
  被監査作品から独立した立場で、トップマネジメントの視点で、SFが社会に貢献しているかどうかを、安全性、効率性、信頼性、可用性、機密性、保全性、有用性、戦略性など幅広い側面から総合的に調査し、あるべき姿を描くことによって自ら形成した判断基準に照らして評価し、問題点について説得力のある改善勧告を行う者


 うーむ、あんまり面白くないな(笑)。“エンベデッドSF”ってなによ? イアン・ワトスンは関係なくて、たぶん、あちこちに埋め込まれているSF的なるものを指すのだろう。SF的な急須とか、SF的な鞄とか、そういうやつだ。

 実際にこういうのがあったら、おれはなにが取れるかなあ? 上級SFアドミニストレータはたぶん取れるだろうが(ほんものの上級システムアドミニストレータはかなりの難関である)、テクニカルSFエンジニア(評論)は落ちるだろうな。むしろ、SF監査技術者を目指したほうが適性に合っているかもしれん。

 しかし、もしこんなのがあったら、何省の管轄になるのだろう? SFに関係のない分野などないのだから、文部科学省や経済産業省はもちろん、すべての省に認定してもらわんといかんな。やっぱり、SFに資格なんぞないほうがいい。



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2007年1月28日 (日)

湯桶箱読み?

 それにしても、“東国原(ひがしこくばる)”というのは不思議な読みかただ。東村山「ひがしそんやま」と読んでいるようなものなのだぞ。〈訓・音・訓〉と読んでいるわけだから、さしずめ“湯桶箱読み”とでもいったところである。湯桶箱とはなにか? 知らん。たぶん、湯桶をたくさん持ち運ぶときに使う専用の箱のことだろう。そういうことにしておこう。

 ほかに、こんなふうに読む漢字三文字の名前ってあるかなあ? まあ、すぐには思いつかないが、名前なんだから、どういう読みかたもアリなわけで、いろいろあるにはちがいないよね。あ、そういえば、“小比類巻”という姓がありますな。これは〈訓・音・音・訓〉か。不思議だなあ。



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2007年1月27日 (土)

箸にも棒にも

 会社の帰りにいつものコンビニで、晩飯の弁当やら酒の肴のスルメやらなにやら、いろいろ買った。

 金を払うとき、レジ袋にスルメやら弁当やらを入れながら、その店員はさらりとおれに尋ねた。

「お箸、一本でいいですか?」

 い、一本って……。あまりのことにおれは絶句した。一本でよかろうはずがない。一本だったらそれは箸ではなく串ではないか見ればもう高校は出ていそうな風体の店員だがいまどきの若いもんは箸の数えかたも知らんのかなんという美しい国だろう――といったようなことが○・四八秒ほどのあいだにどっとおれの頭の中に湧いて出てきて、おれはつられて反射的にこう答えてしまった。

「はい、一本でいいです」

 よくない。いいものか。くそ、箸の正しい数えかたを教えてやるべきだったかと、コンビニから家まで歩いて帰る途中、おれは何度も後悔の臍を噛み千切っていたのだが、おや、ちょっと待てよ。

 コンビニでくれる箸は、透明なフィルムのようなもので包装された割り箸である。つまり、物理的にはなるほど“一本”にはちがいないのである。

 もしかしたら、割り箸は“一本”と数えるほうが合理的なのかもしれない。おれは厭だけどな。



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2007年1月26日 (金)

NHKの“タメ口喫茶”

 『新感覚★キーワードで英会話』(NHK)の安良城紅ちゃんが最近ちょっと気に入っている。本来おれは、こういうバタ臭いコは苦手なのだが、英語ネイティヴのせいか日本語のリズムがちょっと不自然で、視聴者に対して男言葉でタメ口を叩くところに、まあ、なんちゅうか、萌える。『三つ目がとおる』和登サンみたいに、“ボク”とか言ってほしいよね。えーと、おれ、四十四歳ですがなにか?

 ま、安良城紅ちゃんはともかく、この番組のアプローチはなかなかいいね。デジタルな訳語に頼らず、アナログなイメージを核に展開してゆくところがよい。言葉ってのは、やっぱりこういうふうに“感じる”ものだわね。むかし、McGraw-Hill が出してた同じようなアプローチの熟語動詞の解説書があって、たいへんしっくりきた憶えがある。『セサミストリート』とかも、つまるところ、こういうごくごく基本的な語の持つ“イメージ”を叩き込むアプローチを、英語ネイティヴの幼児に対して取っているわけだ。おれは、『セサミストリート』が途中から“部分二か国語放送”になったのは、日本の放送会に於ける大きな堕落のひとつだと思う。あの番組は、とても基本的な語のイメージを、ひたすら英語だけで叩き込む(あたりまえだ、英語国の幼児番組なのだから)ところがよかったのだ。

 結局のところ、外国語を身につけるのには、最も遠まわりで効率が悪いと思われている方法が、いちばん近道なのだろうとおれは思っている。つまりそれは、幼児が言語で世界を切り分けてゆく過程を、できるかぎり忠実に追体験するという方法だ。外国語の単語をいちいち母国語と対応させて数多く覚えるなどというのは、ちっとも外国語を学んでいることにならない、労多くして益のない方法である。無駄な努力とさえ言えよう。結局それは、母国語をなぞっているにすぎないからだ。

 母国語とは異なるやりかたで世界を切り取るという、考えてみればあたりまえのことを体得しなければ、外国語を学ぶ意味などまったくないではないか。それにはまず、最初に出会ったひとつの言語、母国語で世界を切り取る能力が不可欠だ。むかし、さだまさしが唄っていたように、地図にない町を見つけるには、最初に地図が必要なはずである。複数の言語をまったく同じように身につけなければならないような環境で育った人を、「食うに困らんだろうな」と羨ましく思うと同時に、ちょっと気の毒にも思う。だって、彼ら・彼女らにとって、それらの言語は、まったく“外国語”ではないのだろうから。



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2007年1月24日 (水)

今こそ、納豆を食べよう!

言いまつがい (眞鍋かをりのココだけの話)
http://manabekawori.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_21d4.html

あのね、今こそ納豆ですよ。


だいぶ業者さんも増産しちゃってるみたいだし、これだけ社会現象になったんだから

国民みんなで「納豆食べる月間」にしましょうよ。

(中略)

今回のことを逆手に、また納豆ブームが来たらいいなと思う、今日この頃。

 ををを、眞鍋かをり、えらいっ! 長年の納豆ファンとして、生産業者に勝手に成り代わって感謝したい。あなたは芸能人としての影響力というものをよく自覚してらっしゃる。そしてそのパワーを、困っている人々の力になってあげる方向にさりげなく使おうとしている。すばらしい。ダークサイドに堕ちてないね。芸能人の鑑じゃ。

 「今こそ納豆ですよ」――まったくそのとおりだ。『あるある大事典』のことは置いといてだね、そもそも、あれが捏造だったからって、掌を返すように納豆にそっぽを向くのはどうかしている。そりゃあ、なんだって食いすぎちゃいかんが、納豆食って悪いことなどなにかあるか? 日本古来の優れた発酵食品だ。納豆作ってる人たちは、あれで儲けたどころか、振りまわされてとんだ迷惑を被っているそうだ。今回まんまと騙されて納豆を食いはじめた人々よ。せっかく食いはじめたんだから、なにもやめることはないだろう。きっかけはともかく、納豆ファンが増えるのは喜ばしいことである。

 いいぞ、マナベー! あんたはえらいっ! 『サイエンスZERO』も欠かさず観るぞ。『TOKYO LOCAL』も欠かさず聴くぞ。



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主観的には説得力のある反証

 そもそも納豆食って痩せるってんなら、おれなんかとうのむかしに消えてなくなっとるわい。



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2007年1月23日 (火)

『ウェブ人間論』(梅田望夫・平野啓一郎/新潮新書)

 『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫が、芥川賞作家・平野啓一郎と、ウェブの進化が社会を、人間をどう変えてゆくのかについて語り合う対談。柳の下の泥鰌っぽいタイトルはあざといが、これがなかなかどうして面白い。論として図式的に整理した『ウェブ進化論』とちがい、なにしろ対談だから、あちこちにルースエンドが毛羽立っていて、ウェブをめぐってものを考えるのに格好の肴になる。

 いやもう、やっぱりSFファンとしては、爆笑したのはここですね――

梅田 でも今のインターネットを支えてる若者たちは、結構みんな『スター・ウォーズ』好きだと思いますよ。会話の中で、よく「ダークサイドに堕ちる」「堕ちちゃいけない」なんていう言葉を使っていますしね。会社でもライトセーバーを振り回していたり(笑)。
平野 さっきも言いましたけど、同じSFと言っても、『ブレードランナー』とかよりも、確かに圧倒的に壮大な話ですしね、宇宙の果てまでの話だから。『マトリックス』も壮大なようで、意外と小さな世界ですし。
梅田 この間も「はてな」の取締役会で、「梅田さんは最近ブログの更新がない」って吊るし上げに遭ったんです。「本が売れたからじゃないか」と詰問されて、それで僕は、「正直言ってブログを更新する何かいいアイデアが出た時に、更新しようかなって一瞬思うけど、次の本まで取っとこうかなって思ったりするんだよ、だってブログだけで届くものより、リアルの世界ってやっぱりすごいよ」って、あまり深く考えずに口にした瞬間に、「ダークサイドに堕ちてますよ!!」と一斉に言われちゃったんです。そして、「梅田さんはロングテールの頭へ行っちゃったんですね」と。彼らにとってはロングテールの頭っていうのはダークサイドなわけです。そして、ロングテールのテールのほうが正しい。それはもう全部言葉の遊びなんだけど、どこかでそう信じているところもあるんじゃないかと思うんです。

 うんうん、言う言う。「ダークサイドに堕ちる」ね。SFファンは、かなりむかしからふつうに言ってるんじゃなかろうか。もっとも、SFファンになっている時点ですでにダークサイドに堕ちているような気もしないではないのだがいやまあそれはともかく。

 Google の人々もはてなの人々も、とにかく『スター・ウォーズ』が大好きで、梅田氏ははてなの取締役になるにあたって“通過儀礼”として『スター・ウォーズ』のDVDを全部観ることを求められたそうなんだが、うーむ、そういう人たちなわけね。『スター・ウォーズ』経営?

 おれは『スター・ウォーズ』は嫌いじゃないにしても、SFとしてはそんなに好きじゃない。というか、あれはSFっちゅうよりは、筒井康隆をはじめ、いろんな人がもはや常識として指摘しているように、ユング的原型に満ち溢れた神話ですわな。いわゆる正統派SFみたいに前頭葉に訴えるものじゃなくて、誰もが深いところに持っている、抗い難い根源的なものに訴えるものだ。そういうところにおれは反射的に警戒してしまう。要するに、ポルノみたいなもんではないか。うわ、『スター・ウォーズ』ファンが刺しに来そうだな。でもまあ、『スター・ウォーズ』ファンというのは、そういうところもわかったうえで愛でているのであろうから、心配せんでもいいかもしれん。いや、おれは『スター・ウォーズ』もポルノも嫌いじゃないですよ。あの音楽が鳴り出すだけで、無条件に心が“勃つ”よね。

 なんの話だかわからなくなってきたが、そういう無邪気な連中が世界を動かしていることに、すれっからしの中年おやじとしてはいささかの危うさも覚えないではないが、やっぱり痛快さのほうが先に立つね。イケイケドンドンって感じだ。梅田氏もたぶんそんなふうに感じながら、才能ある若い人たちを眩しく見ているんだろう。

 『ウェブ進化論』にいまいちピンと来なかった人には、むしろこちらのほうがお薦め。対談形式だからつるつる読めるし、あっちこっちに話が転がってゆくぶん、いろいろな刺激に溢れている。こういうのを読んでいると、おれはおれがおれの生まれたころに生まれたことがとてもラッキーに思えてくる。ものすごく面白い時代に生まれ合わせたもんだよ。明日どうなるかわからんってのは、このうえなく贅沢で面白いことだと思うんだがどうか? それとも、三百年も同じような社会が続いていたころに生まれたかったかい?



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2007年1月22日 (月)

そのまんまじゃない東

 東国原英夫氏が宮崎県知事選挙で圧勝したことについて、自民党も民主党もずいぶんとうろたえているようだが、民主党はともかく、自民党がうろたえることはないだろう。東国原氏ほど“再チャレンジ”を体現している人もそうはいないと思うぞ。自民党としては、「みながあのような生きかたができる社会を実現します」とかなんとか、宣伝に利用する方向だってアリだと思うのだ。ちと、発想が硬直しているんじゃないかい?



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発覚!あるある大事典

「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ (asahi.com)
http://www.asahi.com/life/update/0120/013.html

 フジテレビ系の生活情報番組「発掘!あるある大事典2」で、納豆のダイエット効果を紹介した7日放送分にデータ捏造(ねつぞう)などの問題が判明し、制作した関西テレビ(大阪市)が20日、発表した。番組では、納豆を食べた被験者の中性脂肪値が正常値になったとコメントし、字幕で数字をつけて紹介。だが実際には測定しておらず、他の実験でも測定や検査をしないまま、架空の数字を番組で流していた。会見した千草宗一郎社長は「放送局としての信頼を著しく損ない、視聴者の信頼を裏切ることになり、誠に申し訳ない」と謝罪した。

 いやあ、このところ納豆が品薄で迷惑してたのだ。おれのような筋金入りの納豆食いにとっては、こんなにわかブームなど迷惑以外のなにものでもない。

 この番組がいかにいい加減であるかはふつうに観ていてもわかるし、“まず結論ありき”の非科学的な制作姿勢が以前からあちこちで指摘されていたりして、遅かれ早かれ一線を越えるだろうとは思っていたから、今回の捏造発覚には、なーんの驚きもない。遅すぎたのではないかとすら思う。まあ、打ち切りでしょう。けっこうなことだ。

 もちろん制作側がいちばん悪いのだが、ひょいひょい乗せられるほうも乗せられるほうだとおれは思うね。

 いやね、先日いつもの店に納豆を買いにいった母が(関節リウマチで手が不自由なのだが、軽いものなら自分で買ってこられるのだ)、予想どおりいつもの納豆がなかったと、売れ残っていた黒豆納豆を買ってきたのだった。母は大粒の黒豆納豆を食わないが、おれはべつに平気で食える。たまに食うとうまい。まあ、黒豆納豆は割高だが、この狂騒的納豆ブームのほとぼりが冷めるまではいたしかたない。

 しかし、ちょっと待て。以前、『発掘!あるある大事典』に、“黒豆食うと痩せる”とかいう内容の回がなかったか? あったよなあ。おれははっきり憶えているぞ。この番組の熱心な信者たちが納豆の品薄状況を招いているのだとしたら、なぜ黒豆納豆から売り切れてしまわないのだ? 少々割高でも、なにしろ“黒豆”“納豆”なのだから、あるある信者の目には、より魅力的な食材に映って然るべきではないかと思うのだがどうか? まあ、つまり、今回のアレでにわかに納豆を一日二パック食いはじめた消費者の記憶力というのは、その程度だということなのであろう。結局、この番組は、熱心に観られているというよりは、それ自身が消費されているにすぎないのだろう。番組を作るほうにもそれがわかっているにちがいないから、モチベーションも使命感も低いだろう。科学的に誠実な制作姿勢など望むべくもない。

 この番組は、制作姿勢も含めて、それそのものが“ニセ科学”として機能していたと言えるだろう。『「ニセ科学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の科学には決して期待できないものです』と、昨年末から話題になっている『視点・論点』(NHK)の「まん延するニセ科学」菊池誠さんがまさにおっしゃっていたとおりである。

 ただ、留意すべきは、この番組に援用(あるいは誤用)された科学者の研究そのものまで“ニセ科学”と決めつけてはならないという点である(中には、科学的に問題のある研究などもあるかもしれないが……)。この番組は、「小気味よく、物事に白黒を付け」ようとするあまり(それが多分に“テレビ的”であるということだ)、科学的な研究成果の解釈や提示方法に於いて、越えてはならない一線をいつしか越えてしまっていたということだ。おそらく、うっかり出演してしまった科学者や、研究成果を使われた科学者は、いま、大いに迷惑していると思う。

 “ゆとり教育”とやらを見直すことになったらしいが、こんな時代であるからして、ぜひ最低限のメディアリテラシーが身につくようなカリキュラムを義務教育に取り入れてほしいね。もっとも、メディアリテラシーの教育って、すごく難しいと思うんだよ。なにしろ、学校もメディアだからさ。どうしても自己言及性から逃れられないよね。先生の言うことや、学習指導要領や、この国の教育システムそのものを“正しく疑う”ことのできる能力を、そのシステム上で身につけさせねばならないというややこしいことになる。いまもむかしも、心ある教師は、その能力をこそ生徒に伝えたくてたまらないと思っているんだろうけど、現実は厳しそうだ。

 まあ、不完全性定理があるからといって数学が無価値になるわけではないのと同じで、体系の制約の中でその体系を相対化するメタレベルの視点を持ち得る知性が、人間にはたしかにある。そう悲観したものでもないという気もするんだよな。そういう知のありかたってのは、SFが次代に伝えてゆくべき最強の武器だと思う――って、結局、そこへ持ってゆくんかい!



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2007年1月21日 (日)

新作ひとつ

「松島ナミと松嶋尚美くらいちがう」

 いやまあ、オセロ・松嶋はけっこういい眼をしているしスタイルも悪くないので、案外、女囚さそりを演ってやれんことはないとは思うのだが……。多岐川裕美とか岡本夏生とか、けっこう“天然の人”が演った実績もあることだし。



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♪ヒラリー

♪鼻から牛乳~

 すまん、ちょっと唄ってみたかっただけ。

Hillary Clinton launches White House bid: 'I'm in' (CNN.com)
http://www.cnn.com/2007/POLITICS/01/20/clinton.announcement/index.html

ヒラリー氏、事実上の大統領選立候補宣言 (asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0121/001.html



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2007年1月20日 (土)

先生、不二家はおやつに入るんですかー?

 あのさー、不二家だけどさー、水に落ちた犬を叩きたくないけどさー、あとからあとから出てくる工場の杜撰なありさまには、呆れかえってノスタルジーを覚えるほどである。

 「三秒ルール」だの、細菌がたくさんいたら「無限」だの、子供か!?

 ほら、あの歌が唄いたくなってこないか?

  ♪アホが見~る~、ブタのケ~ツ~
  ♪アホが見~る~、ブタのケ~ツ~
  ♪アホが見~る~、ブタのケ~ツ~
  ♪アホが~見るブタのケツ~

 いや、ホント、まるで嘉門達夫のネタみたいなことばかり出てくるではないか。



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2007年1月18日 (木)

芸名のリスク

 そういえば、この人なんかは、今回の事件の被害者のひとりと言えるのではあるまいか。ま、いまは「オオタスセリ」だけどさ。



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2007年1月16日 (火)

不二家の罪

 今回の不二家による期限切れ原料使用事件、まことに残念なことである。組織ぐるみの隠蔽を裏付ける文書やら、どうやら期限切れ原料を意図的に使用することが常態化していたといった話やらが出てきているようでは、従業員やフランチャイズ店の方々には気の毒だが、もう不二家というブランドはダメだろう。件の文書を作成した者が正しく認識していたとおり、「雪印乳業の二の舞」になるのは確実だ。食いもののことである。一度不潔だと思われたら、もう終わりだ。本を買ったら落丁がありましたなんてのとは、わけがちがうのである。そこまで正しく認識しながら、どうして隠蔽とはちがう道を取れなかったのか、他人の会社のことながら、まことに残念だ。

 そう、残念なのだ。お客様をお客様とも思わぬ企業の悪行が表沙汰になったのだから、消費者としては喜んで然るべきなのだが、どうもおれは素直に喜べない。やはり、一消費者、いや、一日本人として、残念だという思いが強い。不二家くらいになると、もはやひとつの営利企業の浮沈などといったものを超えた責任があるのだ。それは、人々の思い出や夢に対する責任である。こういうのだって、歴としたCSRだと思うね。

 おれは不二家と聞くと、オバQパーマン怪物くんやらといっしょに、地蔵盆やらクリスマスやらなにやら、まるで時間が止まっていたかのような、子供のころの“よきひととき”を思い出す。これはなにもおれにかぎったことではないだろう。この国に生まれ育ち、いまこの時代を生きている人であれば、百人百様それぞれのあの“よきひととき”と常に共にあった不二家のお菓子と、ペコちゃんの真っ赤なほっぺといたずらっぽい舌を思い出すにちがいない。不二家というのは、そういう存在であったのだ。人々のそんな“よきひととき”に繋がる魔法の言葉「不二家」に、今回の事件は、永久に消えない醜い染みをつけてしまった。残念としか言いようがない。

 オバQが泣いているぞ。パーマンが泣いているぞ。怪物くんが泣いているぞ。もちろん、ペコちゃんもポコちゃんも泣いているぞ。山一證券が潰れようが、アーサー・アンダーセンが消え失せようが、オバQやパーマンは泣かないだろう。

 そりゃたしかに、自分ちの冷蔵庫に賞味期限・消費期限を少々オーバーした食いものが入っていたって、たいていの人は、匂い嗅いで大丈夫そうなら食うだろうさ。それ自体は、実害がなきゃ、ホントのトコ、おれはどうだっていい(基準の十倍の細菌ってのはまずいけどね)。だが、あの不二家が、消費者の健康を守る目的の決めごとを意図的にないがしろにし、それを隠蔽しようとする会社に成り下がってしまっていたという点は、なんとも悲しい。

 不二家が罪深いのは、まかりまちがえば、おれたちが腹を下して吐きながら寝込んでいたかもしれないからばかりではなく、なにより、おれたちの中のオバQやパーマンを、ペコちゃんやポコちゃんを泣かせたからである。

 さらば、不二家。さらば、ペコちゃん。さらば、少年の日よ……



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2007年1月14日 (日)

木を隠すなら森の中

 このところあちこちでバラバラ事件が頻発していて、朝から晩までバラバラの話ばかり見聞きさせられるせいか、家事をしている最中など、なんの気なしに「♪My baby, baby, バラバラ」だとか「♪その名もたーかきチンパン探偵、ムッシュバラバラバーラバラ」などと唄っているおのれに気づき、不謹慎なことであるなあ、おれに子供がいなくてよかったなあとちょっと反省し、また唄い続ける。案外、おれと同年輩の方々は、同じように鼻歌を唄っているのではないかとも思うのだが……。

 こういう物騒な事件の多いときに、同系列の愉快犯が現れるとしたらどうだろう? ただただウケたいというだけの動機で、なんともない自分の腕やら脚やらを切断して、そこいらのゴミ箱やら公園やらにビニール袋に包んで捨てるのである。とにかく、それくらいウケたいという異常なやつなのだ。捨てるとき、ちょっと中身が覗く程度に袋を裂いておくのがポイントだ。発見者も警察も、まさかこれらの腕や脚の主が生きているとは思わないだろう。ほんもののバラバラ殺人事件と愉快犯のバラバラ(じゃないのだが)四肢遺棄事件が合わせて二十件くらい起こると、警察の捜査が大混乱すること請け合いである(請け合うなー!)。まあ、いまはDNA鑑定ができるから、結局はちゃんと分類できるのだが、初動捜査は大いにややこしくなる。よい子のみんなは真似しちゃだめだよ!

 むろん、これは不謹慎なネタであって、現在実行するやつがいるとは、ちょっと考えにくい(絶対ないとは言えないが……)。だが、近い将来、再生医療の研究が進み、腕や脚を単独で発生させたりすることができる技術が確立すれば、こんな愉快犯が出現する可能性は大いにある。そんな時代になれば、そこいらに腕やら脚やらが落ちていた場合、警察はまず、その主がひとりの人間として出生届けが出ている人なのかどうか、そもそも殺人事件があったのか、単なる窃盗や愉快犯なのではないかといったことから捜査しなくてはならない。テクノロジーは世の中を便利にもするが、ややこしくもするのである。



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2007年1月13日 (土)

野生の嗜好

 いま、芋けんぴを食いながら芋焼酎を飲んでいるのだが、これって納豆食いながら味噌汁飲んでるようなものだよね。ね。ね。ま、かなり“ヘルシー度”に差があるような気はするが……。



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2007年1月10日 (水)

モグリの潜水艦じゃないのか

日本のタンカー、米原潜と接触 乗員無事 ホルムズ海峡 (asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0109/011.html

 米国政府などから日本政府に入った連絡によると、日本時間の9日午前4時15分ごろ、ペルシャ湾のホルムズ海峡南部で米原子力潜水艦ニューポート・ニューズと川崎汽船(東京都港区)の大型タンカー最上川(16万総トン)が接触した。双方の乗組員にけがはない。最上川は船底に傷が入って浸水しているが、自力航行が可能で、油漏れもないという。原潜にも放射能漏れはないと見られる。原潜が潜航していたのか、浮上していたのかは不明という。

 いやあ、これには正直ぞっとした。第一報がCNNからケータイに飛び込んできたときは、"A U.S. submarine collides with a Japanese merchant vessel, a U.S. Navy official tells CNN, adding there were no injuries but there was damage." としか書いてなくて、数分後に、場所がホルムズ海峡で merchant vessel がタンカーだと知って仰天。とにかく、大事なくてよかった。

 堺屋太一『油断!』を即座に連想したね。まあ、あれは原潜の事故とかじゃなくて、地域紛争だったかなんだったかで、長期間ホルムズ海峡が封鎖されちゃう話だ。むろん、原油を断たれた日本の社会は、徐々に崩壊してゆく。いまもしほんとにそういうことが起これば、『油断!』が書かれた当時のシミュレーションよりはかなりましではあろうが、ホルムズ海峡が通れなくなる期間によっては、かなり深刻な影響を被ることに変わりはないだろう。人為的に作り出された微生物が石油化成品をことごとく分解してしまうという怖ろしい事態を描いた『終末のプロメテウス』(ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン)にあったように、原油は燃料としてのみではなく、むしろ、現代文明を支えるプラスチックなどの化成品の原料として重要なのだ。

 それにしても、最近アメリカの潜水艦はたるんどる。どこに目をつけて運転しとるのだ。“ちりんちりん”を盗まれ((C)チュートリアル)でもしたのだろうか(って、自転車じゃないんだから)。

  

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2007年1月 9日 (火)

「Power for Living」のテレビCM

 テレビを観ていると、ここ二、三日、「Power for Living」とやらのCMが目につきはじめた。m-floVERBAL やら久米小百合(ってのは、久保田早紀だよ)やらが出てくる(ほかにヒルマン監督バージョンがあるそうだ)。一見して、アメリカ流のマスメディアを使った宗教団体の広告だとわかるようなものだが、非常に抽象的であり、出演者たちが「人生が変わった」といったような効能(?)を述べ、正体不明の無料冊子「Power for Living」の請求を勧めるだけで、具体的なことはほとんど明示されない。意図してのことかどうかは知らないが、広告手法的には一種のティーザー広告(じらし広告)として機能している。現におれはこうして調べちゃったもんな。まんまとハマっているわけである。もっとも、ティーザー広告としては成功していても、抽象的すぎて不気味、あるいは胡散臭いという印象すら与えてしまっており、逆宣伝にすらなっている可能性があるだろう。

 調べてみると、アーサーS.デモス財団という組織が布教しているキリスト教の一派の広告らしいのだが、宗教団体(またはそれに準じる組織)がこうした形でテレビCMを打つのは、アメリカではあたりまえでも、日本ではあまり馴染みがない。宗教番組としての枠を設けて布教を行うのであれば、これほど不気味な感じは抱かないし(カトリック教会とかね)、創価学会やら阿含宗やらにしたところで、まるで公共広告機構のCMに似せたような感じの、こうしたCMは打たない。もっと具体的に宣伝宣伝したものだからこそ、かえって「ああ、宗教の宣伝ね」と安心するのだ。このCMをプランニングしたやつは、かなりバクチを打ってるなという印象を受ける。

 この財団、ドイツでも同じようなキャンペーンを展開し、イデオロギーや宗教のCMを禁じているドイツの法律にひっかかり、放送禁止の処分を受けているという情報もある。まあ、ナチの残党の本場で、こういう手法使っちゃまずいでしょ。上のリンク先の記事にもあるように、American-style, mass-appeal religion が日本にも進出してきたということなのでしょうな。

 おれは宗教というものを幸か不幸か(おれ自身は幸だと思っている)知識としてしか必要としないタイプの人間なので、このCMにもマーケティング的な興味しかいまのところ抱いていない。それよりなにより、おれは、このCMの最後で、無料冊子の請求者に連絡はいたしませんといったことを言うのが、なんだか、無料サンプルを「他人に知られないよう、社名をださずに個人名にて特急便で郵送いたします」というヒサヤ大黒堂の広告みたいなだなと妙な連想をして、ちょっと笑ってしまった。というか、むしろ逆ヒサヤ大黒堂ですな。でも、たとえば、家族が全員創価学会員だとかイスラム教徒だとかゾロアスター教徒だとかボコノン教徒だとかいう人が、このCMに感銘を受けて(?)無料冊子を請求する場合、やっぱりヒサヤ大黒堂方式で送ってあげたほうが親切じゃないか?



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2007年1月 8日 (月)

フォッフォッフォッフォッ……

 さてさて、ひさびさにやっとこう。このブログに検索エンジンからやってきた人が検索に使った妙な検索語を愛でる、おなじみ(?)《ヘンな検索語》シリーズである。今日の検索語は――

「バルタン星人 声 mp3」

 あのですね、そもそもあなたは、なぜそんなものを探しているのでしょう? 音響効果かなにかのお仕事をなさっているのでしょうか? いや、こういうフィギュアとかが欲しいというのなら、おれも気持ちはよーくわかるけど、“ただ聴いて楽しむ”ためだとしたら、ほとんどフェチの域に近づいていると思われますなあ。ケータイの着信音に使うとか? まさか iPod に入れて通勤途上にエンドレスで聴いて楽しむとか?? 「ああ、一日の仕事を終えて、電車の中でバルタンの声を聴くと癒されるわぁ……」って?



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2007年1月 7日 (日)

状態による自己言及

 クリーニング屋に行ってからスーパー二軒とコンビニ一軒で買いものをし、両手にレジ袋をいっぱい提げて家路を急いでいると、近所の診療所のそばの空き地になにやら木製の札が出ているのに気づいた。ここは不法投棄が多く、以前から捨てるな捨てるなと立て札が立っているのだが、その新しい木製の札は、さっそく誰かにぶん殴られでもしたのか、大きく傾いで、いまにも剥がれ落ちそうなまま放置してある。で、その札が言うには、

「監視カメラ設置しました」

 ウソつけ。

 世にいろんな注意書きがあろうが、「監視カメラ設置しました」という札だけは、きちんとまっすぐ掲げなくてはならないよなあ。「貼り紙貼るな」という貼り紙の矛盾した自己言及はよくネタになるけど、監視カメラ設置を告知するこの札の場合は、みずからの状態が自己の言説を否定する自己言及になっているのだ。こういうタイプもあったかー。

 Big Brother is NOT watching yooooou!!



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2007年1月 5日 (金)

絶滅危惧IA類:福笑い

 NOVAの新春版テレビCMでNOVAうさぎ“福笑い”をやっているのだが、ぶっちゃけた話、日本全国でこの正月に福笑いなどという遊びをした人たちが、いったいどのくらいいるものなのだろうか? というか、あのCMを観たいまの子供たちには、そもそもNOVAうさぎがなにをしているのかさっぱりわからないのではあるまいかと、ちょっと気になっている。

 正直、おれ自身、最後に福笑いをやったのは小学生のころだったかと思う。三十数年はやってない。おれがやらないのはおれの勝手だが、その三十数年、人が実際にやっているところに居合わせたことすらないのだ。もはや実際には、福笑いという遊びは絶滅寸前なのではなかろうか? おれが知らないだけで、子供のいる家庭ではひょっとするといまでもやることがあるのかもしれないが、ほかに面白い遊び(というか、ゲーム)がいっぱいあるいまの世の中、わざわざ好きこのんで福笑いなどというさして面白くもない遊びをするとはとても思えないのだ。はっきり言って、福笑いはつまらない。おれが子供のころにやっていたときですら、正月には福笑いをするものという慣習にあえて従っていただけだったような気がする。いや、ホントに福笑いって掛け値なしに面白いですか?

 それでも福笑いは、誰もやらないのに、“正月の典型的な遊び”という記号としてのみしぶとく生き残っている。その記号すら、若い世代にはすでに伝わっていないかもしれない。福笑いの復興はあるのだろうか? ゲームソフトに福笑いってあるのかな? モンタージュはあるみたいだが、福笑いってのは寡聞にして知らないんだよなあ。



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ついでにもひとつ《女囚さそり》

 梶芽衣子を超える《さそり》があろうはずもないのだが、まだ観たことがなかった『新女囚さそり701号』をついでに Movie Circus(東映)@ShowTime で観た。二代目さそりは、まだ初々しい多岐川裕美。多岐川さそりは一九七六年公開で、調べてみると、『七瀬ふたたび』の三年前、『復活の日』の看護婦さんの四年前ということになる。

 ストーリーはソツなくまとまっている。というか、あきらかに意図的に非現実的なB級テイストを狙った伊藤俊也監督の梶さそりと比べると、ストーリーも演出もまともすぎてインパクトがない。それよりなにより、やはり多岐川裕美では可愛らしすぎて凄みに欠ける。さそりには“目力(めぢから)”がなくてはならないから、多岐川裕美に白羽の矢が立ったのはわからなくもない。当時“目力”のある女優といえば、多岐川裕美は確実に上位に挙がったろう。が、梶さそりの“目力”が強烈すぎて、多岐川さそりがどうしても霞んでしまうのである。視線に圧力があったとしたなら、梶さそりの視線はレーザーのように狭い一点に集中し鋼鉄の板をも貫きそうなのに対して、多岐川さそりの視線はビームの焦点がちょっと大きく、破壊力が弱い。気づいている人は気づいているだろうが、多岐川裕美は、かすかに外斜視(あるいは、左右の視力が大きくちがう?)に見える。それが非常に謎めいた雰囲気を醸し出し、美形に加えて多岐川の大きな魅力になっている。だが、それは女囚さそり・松島ナミには向かない類の魅力である。これが女囚さそりでさえなかったら、多岐川裕美だって十二分に魅力的なんだけどねえ。

 最初からあんまり期待してなかったぶん、さほど落胆せず楽しめた。お人形さんみたいなふっくらした美形がさそりを演るというギャップは、それはそれで面白いかもしれない。褒めてるんだか貶してるんだか。

 ひとつ面白いことを発見した。この作品に三代目さそり夏樹陽子が、ワル代議士の秘書としてチョイ役で出演しているのだ。クレジットに名前も出ないほどのチョイ役である。これはどこかで誰かが書いているにちがいないと思い検索してみると、「CinemaScape-映画批評空間- [あらすじ] 新 女囚さそり701号(1976/日)」に裏事情が紹介されていた。これを撮っている最中、次回作出演をすでに多岐川は非公式に断っていて、カメリハを兼ねて三代目さそり候補の夏樹がチョイ役で出たということらしい。しかし、こんなことまで調べてる人がいるんだなあ。夏樹さそり以降はおれは観たことがないのだが、夏樹陽子はけっこういいのかもしれない。『ザ・ハングマン』だし。

 昨日、「おれはどうも、いまの日本がそろそろ《女囚さそり》的なものを欲しはじめているのではないかという気がしてならない」などと書いてから調べたら、おやまあ、二○○四年、二○○五年と、BS-i でテレビドラマ化されていたのか。うちは地上波とウェブしか観られんからなあ。DVDも出てるじゃん(こんな高いのは買わんけど)。ということは、この水橋貴己ってコが七代目さそりか。なんか、所属事務所ページの写真とDVDのパッケージの写真は、とても同一人物とは思えない。女ってのはコワいねえ。まあ、どこかで観る機会があるかもしれないから、憶えておくとしよう。



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2007年1月 4日 (木)

三が日は《女囚さそり》漬け

 三が日はとにかくグダグダになってなにもせず酒と映画に溺れるということにしているので、今年もほーんとになーんにもしてない。年に三日くらいはそういう日があってもいいじゃないか。

 今年は、新年そうそう、なんだか《女囚さそり》シリーズが無性に観たくなって、Movie Circus(東映)@ShowTime で金払って三本観た。まあ、千円ちょっとでこれだけ楽しめるのなら、ものぐさなおれにはレンタルよりも手軽でいい。

 『女囚701号 さそり』『女囚さそり 第41雑居房』『女囚さそり けもの部屋』の三本、ひさびさに観たが、やっぱりいいねえ。むかしはけっこう深夜に地上波テレビでもやってたもんなんだが、最近やらないよなあ。いやもう、このころの梶芽衣子ときたら、小便ちびりそうにカッコいい。タランティーノが惚れるのもわかるよ。こんな女優さんは、いまはいませんねえ。これだけの“目力(めぢから)”がある人は、葉月里緒奈くらいだろうと思う。何度も言うけど、葉月里緒奈にさそりを演ってほしいねえ。

 四作めの『女囚さそり 701号怨み節』は、あんまり好きじゃない。監督が替わって、シリーズの末期という感じだ。やっぱり、《女囚さそり》は、伊藤俊也監督と梶芽衣子のゴールデンタッグが最高だ。なかでも、三作めの『女囚さそり けもの部屋』が最高でありましょう。絶頂期の梶芽衣子にしか成し得ない鬼気迫る演技といい、スピーディーなストーリー展開といい、脇を固める成田三樹夫李礼仙(李麗仙)――っつっても若い人は知らないだろうが、大鶴義丹のお母さんだよ――の怪演といい、マンガの映画化が持つ独特の様式美が頂点を極めている傑作だ。このころの東映はほんとにすごかったんだよなあ。七十年代独特のちょっとサヨクがかった象徴的な劇画風演出も見どころだ。

 おれはどうも、いまの日本がそろそろ《女囚さそり》的なものを欲しはじめているのではないかという気がしてならない。弱い者いじめの世の中だからね。それに、なんの分野にせよ、だいたい三十年くらいでひとまわりするんだよな。さそりは、敵の銃を奪ったとしても、あまりそれを飛び道具としては使わない。さそりが“仕置き”をするときには、必ずドスや出刃を使う。怨念を込めた一撃を権力者の腹にぶち込み、あの大きな目をかっと見開いて相手の目を見ながらぐりぐりぐりぐりと内臓をえぐるのである。おれが思うに、中村主水の殺法は、多分にさそりの影響を受けているのではあるまいか。

 ああ、それにしても、梶芽衣子、カッコいいなあ。こういう若い女優さんが平成の世にも出てこないかなあ。

   

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2007年1月 1日 (月)

今月の言葉

いのしし短し 恋せよ乙女

 まあ、むかしチャットでよく使っていた定番っちゃ定番なんだが、よく考えてみると、「今月の言葉」で使ったことはなかったな。



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あけましておめでとうございます

 わ、もう少しで元日が終わってしまう。

 というわけで、くだらないことばかり書き散らしておりますが、今年もご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

 ところで、この日記で過去にもしつこく書いているのだが、今年も書く。今日は「元日(がんじつ)」であって、今日の朝が「元旦(がんたん)」なのである。今日という日を指して「元旦」と呼ぶのではないっ! わかったか、元日そうそうテレビで商売道具をおろそかに扱っている、そこのアナウンスできないアナウンサーっ、そこのタレントに恵まれないタレントっ!

 今年最初のエントリーがぼやきかよ。



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