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2006年12月 2日 (土)

歴史の断絶

 怖ろしい話を聞いた。母が世にも怖ろしい体験をしたのだ。その事件は、母がむかしから大事に持っていて、いまはもう動かない古い腕時計を、ふと思い立って近所の百貨店にある時計屋に持っていったときに起こった。母がその時計屋にゆくのは初めてで、二人いた店員はいずれも意外と若かったという……。

 「この時計、調子悪いんやけど、見てもらえますか?」
 「はい、ちょっとお待ちください」

 若い店員は腕時計を預って、店の奥へと下がった。が、どうも様子がおかしい。ずいぶんと時間がかかる。もうひとりの店員となにやら相談をしているらしい。ちょっと時計の調子を見るだけのことになにをもたもたしているのかと母がいらいらしていると、ようやく店員が出てきた。

 「……あの、これ、どうやって動かすんですか?」
 「どうやって、て??」
 「電池はどうやって入れるんですか?」
 「…………」

 伊達に七十年近くも生きているわけではない母は、それは“ゼンマイを手で巻いて動かす方式”の腕時計であり、時計の横に突き出ているツマミ(母は“竜頭”という言葉を知らない)をくるくると指で回すことで弾性素材に動作用のエネルギーを蓄える(という言いかたを母がしたわけではない)のだと、時計屋に教えてやったという。「最近、あんなにびっくりしたことないわ」と、母(69)は述懐する。

 おれもびっくりした。「月をなめるな」に匹敵するものがある。いくら若いか知らないが、少なくともこの連中は、プロの時計屋でございと看板を掲げて商売をしているのである。むかしの時計はゼンマイで動いていたということを知らないのであろうか? 知らなかったとしても、時計屋になる研修やらなにやらで習わないのであろうか? 「もうよろしいわ言うて帰ってきたわ。あんなんに時計つぶされんでよかったわ」と、母(69)は述懐する。そりゃあそうだろう。おれは、たぶん、若い医者にだってこうした類のやつがいるにちがいないと思い、心底ぞっとした。

 いやまあ、たしかに、一応ソフトウェアの開発をしているはずのおれが勤めている会社ででも、若いやつがチャールズ・バベッジフォン・ノイマンの名前も知らないのに驚いたことがあるが(おまえら、いくらソフト屋だからって、ハードウェアの歴史に興味がないにもほどがある。SF読め、SFを)、時計屋の世界でも、もはやこのような状態になっているらしい。

 冷静に時計屋の経営者になったつもりで考えてみると、なるほど、もはやあまり持ち込まれることもないゼンマイ式の時計などというものに関する研修をしても、費用の無駄だとも考えられる。おれの勤めている会社でもMS-DOSの研修なんてしてないし、バベッジもライプニッツも教えてないよな(そもそもそういうレベルの歴史は、大学卒業までに自分で勉強してこい)。それにしてもなあ……。おれが歳を食ったということなのだろうか、世の中の教育というものがおかしくなっているのだろうか、どっちだろう?

 多少は前者だとも思うが、大部分は後者であるような気がするなあ。だって、ソーラーパネルやキャパシタやリチウムイオン電池や水銀電池が発明される以前から、人類は腕時計というものを使っていたという知識はいくらなんでも若い時計屋にもあるだろうから(なかったりして)、ゼンマイ式の腕時計の存在を誰に教わらなくたって、それ以前の腕時計はどうやって動いていたのだろうという好奇心が湧き起こって当然だ。

 結局、そこが問題なのだろう。おれは、教育というものは、“好奇心を持つ能力”“自分で自分を教育する能力”のたったふたつだけを身につけさせれば大成功だと思っている。あとはおまけだ。いまの教育というやつは、一生使える、最も大切なそのふたつ“だけ”をあろうことか軽視して、あとのどうでもいいことばかり教えている(というか、それはなにかを教えていることになるのか?)のではないかと心配になってくる。「美しい国」だか「愛国心」だかなんだかは、べつにどうでもいい(そんなこと、そもそも学校で教えなきゃならんことか?)。「これはなんだろう?」「自分で調べてみよう」と思える能力のふたつさえ身につけられれば、それらは一生の宝である。義務教育のあいだにそれさえ身につけさせられれば、あとはほっといてもいいじゃないか。人生は長いのだ。



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コメント

格差社会ですねぇ
手巻きは、売っているものの高いですから
今のクオーツは、修理の場合はメーカーに丸投げです
時計屋のパートはやったことがあるんですが
時計屋は電池の交換しかしません
電池の接触面が汚れて動かない場合があるんで
その時は掃除して渡します

50万円くらいの時計が故障すると修理代20万円くらいするんですよ

投稿: かおる | 2006年12月 2日 (土) 11時59分

うちの会社には「ダイヤル式電話を使えない」若者がいますよ
回して離すタイミングがつかめないとの事
彼が物心ついた時家にあったのはプッシュ式だそうで
「ダイヤル式は入社して始めて見た」そうで
横のハンドルをぐるぐる回して交換手を呼び出す電話まで記憶にある私は大変驚愕いたしました

投稿: ましゃみ | 2006年12月 2日 (土) 12時05分

>かおるさん

 この若い時計屋たちも、電池交換の研修しか受けていなかったのかもしれませんねえ。牛丼屋でも時計屋でもなんでもよかったのでしょう。時計なんかは、客のほうは対象に非常に愛着を持っている場合が多いわけですから、時計に愛情のないやつにいじくりまわされたくないですね。店員と客の感覚に存外に大きなギャップがあるってのは、昨今ではなんの世界でもそう珍しいことではないのかもしれません。“他人の命はたいして大事なものだとは思っていないバイト感覚のなんちゃって医者”なんてのにかからないよう気をつけねば(^_^;)。

>ましゃみさん

 ひいいぃ。そんな時代になってるんですねー。会社に入って初めてダイヤル式電話を見たというのは、実物を初めて見たということなんでしょう? テレビや映画でも観たことないなんてことは、とても考えられません。ヒッチコックは観てないでしょうけど。

投稿: 冬樹蛉 | 2006年12月 3日 (日) 00時41分

たぶんその店員たちは「時計屋の店員」ではなく、百貨店の店員かバイトなんじゃないんでしょうか。今でも機械式時計は(多少高いですけど)普通に売ってるわけですから、時計屋がそれを知らないとは考えにくいです。

それにしても、昨今はどの業種も正社員に教育を施して100%のサービスを提供するのではなく、バイトや派遣社員にマニュアルを渡して70%のサービスで誤魔化してコストを抑えるようなやり方がまかり通っているような気がします。こういうところからも技術の継承と云うものが失われているんじゃないかと不安になってしまいます。

投稿: koga | 2006年12月 3日 (日) 06時36分

>kogaさん
>昨今はどの業種も正社員に教育を施して100%のサービスを提供するのではなく、バイトや派遣社員にマニュアルを渡して70%のサービスで誤魔化してコストを抑えるようなやり方がまかり通っているような気がします

 おっしゃるとおりです。それをやっていい部分とやっちゃまずい部分があるわけですが、その切り分けがまずいというケースがよく見受けられますね。むしろ、バイトや派遣社員の中の優秀なやつがどんどんスキルを高めていて、いちばん危機感がなくてボンクラなのが正社員なんてこともあるみたいです(^_^;)。

投稿: 冬樹蛉 | 2006年12月 4日 (月) 00時47分

「いらっしゃいませ〜」
「ありがとうございました〜」

が意味を持たない只の呪文になってしまった日本で
何を言っても無駄ですよ。

随分前にこの国は終わっていますよ。

投稿: えと | 2006年12月13日 (水) 18時36分

大昔のサザエさんのマンガにも「戦後生まれの若い人」が戦前に常識だったことを全然知らないのに驚くというネタが時々見られますからねぇ。
戦後の昭和生まれが「平成に物心がついた若い人」に驚く時代がやってきたということですか。

投稿: ダイスケ | 2006年12月13日 (水) 22時04分

>えとさん
>随分前にこの国は終わっていますよ。

 終わっているとしたなら、いまこそ“日本 2.0”を作ってゆくチャンスではないですか。

>ダイスケさん

 ヒエログリフで書かれた日記にすら、「近ごろの若いもんはなっとらん」などと愚痴が出てくるそうですからねえ。

 もっとも、このケースは、単なるジェネレーションギャップではないと思います。よりにもよって“時計屋”が知らないというところに危機感があるわけで……。ファラデーを知らない電気技師とかアボガドロを知らない薬剤師とかはちょっとありそうにないですが、フォン・ノイマンを知らないソフトウェア開発技術者なら、案外ごろごろいそうな気がします。“即戦力”とやらを重視した“促成栽培”ってのは、結局のところ、業界の弱体化に繋がるような気がしてなりません。“知識労働者としてのエンジニア”と“脳髄労務者としての高度ルーチンワーカー”とに二極分解していっているのかもなあ……。

投稿: 冬樹蛉 | 2006年12月14日 (木) 02時39分

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