怖ろしい話を聞いた。母が世にも怖ろしい体験をしたのだ。その事件は、母がむかしから大事に持っていて、いまはもう動かない古い腕時計を、ふと思い立って近所の百貨店にある時計屋に持っていったときに起こった。母がその時計屋にゆくのは初めてで、二人いた店員はいずれも意外と若かったという……。
「この時計、調子悪いんやけど、見てもらえますか?」
「はい、ちょっとお待ちください」
若い店員は腕時計を預って、店の奥へと下がった。が、どうも様子がおかしい。ずいぶんと時間がかかる。もうひとりの店員となにやら相談をしているらしい。ちょっと時計の調子を見るだけのことになにをもたもたしているのかと母がいらいらしていると、ようやく店員が出てきた。
「……あの、これ、どうやって動かすんですか?」
「どうやって、て??」
「電池はどうやって入れるんですか?」
「…………」
伊達に七十年近くも生きているわけではない母は、それは“ゼンマイを手で巻いて動かす方式”の腕時計であり、時計の横に突き出ているツマミ(母は“竜頭”という言葉を知らない)をくるくると指で回すことで弾性素材に動作用のエネルギーを蓄える(という言いかたを母がしたわけではない)のだと、時計屋に教えてやったという。「最近、あんなにびっくりしたことないわ」と、母(69)は述懐する。
おれもびっくりした。「月をなめるな」に匹敵するものがある。いくら若いか知らないが、少なくともこの連中は、プロの時計屋でございと看板を掲げて商売をしているのである。むかしの時計はゼンマイで動いていたということを知らないのであろうか? 知らなかったとしても、時計屋になる研修やらなにやらで習わないのであろうか? 「もうよろしいわ言うて帰ってきたわ。あんなんに時計つぶされんでよかったわ」と、母(69)は述懐する。そりゃあそうだろう。おれは、たぶん、若い医者にだってこうした類のやつがいるにちがいないと思い、心底ぞっとした。
いやまあ、たしかに、一応ソフトウェアの開発をしているはずのおれが勤めている会社ででも、若いやつがチャールズ・バベッジやフォン・ノイマンの名前も知らないのに驚いたことがあるが(おまえら、いくらソフト屋だからって、ハードウェアの歴史に興味がないにもほどがある。SF読め、SFを)、時計屋の世界でも、もはやこのような状態になっているらしい。
冷静に時計屋の経営者になったつもりで考えてみると、なるほど、もはやあまり持ち込まれることもないゼンマイ式の時計などというものに関する研修をしても、費用の無駄だとも考えられる。おれの勤めている会社でもMS-DOSの研修なんてしてないし、バベッジもライプニッツも教えてないよな(そもそもそういうレベルの歴史は、大学卒業までに自分で勉強してこい)。それにしてもなあ……。おれが歳を食ったということなのだろうか、世の中の教育というものがおかしくなっているのだろうか、どっちだろう?
多少は前者だとも思うが、大部分は後者であるような気がするなあ。だって、ソーラーパネルやキャパシタやリチウムイオン電池や水銀電池が発明される以前から、人類は腕時計というものを使っていたという知識はいくらなんでも若い時計屋にもあるだろうから(なかったりして)、ゼンマイ式の腕時計の存在を誰に教わらなくたって、それ以前の腕時計はどうやって動いていたのだろうという好奇心が湧き起こって当然だ。
結局、そこが問題なのだろう。おれは、教育というものは、“好奇心を持つ能力”と“自分で自分を教育する能力”のたったふたつだけを身につけさせれば大成功だと思っている。あとはおまけだ。いまの教育というやつは、一生使える、最も大切なそのふたつ“だけ”をあろうことか軽視して、あとのどうでもいいことばかり教えている(というか、それはなにかを教えていることになるのか?)のではないかと心配になってくる。「美しい国」だか「愛国心」だかなんだかは、べつにどうでもいい(そんなこと、そもそも学校で教えなきゃならんことか?)。「これはなんだろう?」「自分で調べてみよう」と思える能力のふたつさえ身につけられれば、それらは一生の宝である。義務教育のあいだにそれさえ身につけさせられれば、あとはほっといてもいいじゃないか。人生は長いのだ。
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