消えた“ちりめんタコ”
おれにとっての小さなしあわせとは、「ちりめんじゃこの中に小さなタコが入っているのを見つける」ような喜びだと幾度も書いてきた。事実、おれはもうすぐ四十四歳になるが、それだけの人生経験を経たいま、しみじみと思うのは、やはり人生とは、ちりめんじゃこの中に小さなタコが入っているのを見つけるための日々以外のなにものでもないのだということである。
しかし、だ。おれは最近、どえらいことに気づいた。近ごろのちりめんじゃこには、めったにタコが入っていないではないか! むかしのちりめんじゃこは、紙袋に入れて売ってくれたもので、まあ、そこそこの確率で小さなタコが入っていた。おれの親は、身体によいからと、子供のおやつにしばしばちりめんじゃこを食わせていたものだから、ちりめんじゃこは“お菓子”の一種だというイメージが、おれからはいまだに脱けない。そのちりめんじゃこのおやつの四、五回に一回くらいは、かわいいタコが入っており(おれはそれを「ちりめんタコ」といまでも呼んでいる)、おれはそれが楽しみでしかたがなかった。“あたり”のような感じがしたのだ。だものだから、おれにとっての“小さなしあわせ”という抽象的なものの表象は、この歳になっても、いまだに“小さなタコ”なのである。まあ、人間なんてそんなもんだ。
ところが、最近のちりめんじゃこときたら、透明フィルムで作ったような袋にきれいにパックされて売られていて、これまた、じつにきれいに質が揃っている。タコやらエビやらといった異分子は、めったなことでは入っていない。寂しい。じつに寂しい。いつのころからか、店で売られている食いものは、野菜だろうが魚だろうが、気味が悪いほどにきれいきれいで、形も整っているようになってしまった。曲がっていないキュウリなんて、どこか悪いのではないかとすらおれには思えるのだが、どうも現代では、キュウリにはまっすぐであることが求められているらしい。ちりめんじゃこからタコが排除されているのも、おおかた近年のそうした世間一般の嗜好が反映されているからなのだろう。自然が恵んでくれるものに、まるで工業製品のような均質性を過剰に求める歪な嗜好を現代日本人は育んでしまったのだ。
ああ、タコよ、タコよ、小さなタコよ、おまえはいったいどこに行ってしまったのだ? なに? そんなに小さなタコが食いたいのなら、消費者の声に敏感なわが社が、小さなタコばかりをきれいにパックした「ちりめんタコ」を企画するから、発売されたら思う存分食えって? いや、おれの言っているのは、そういうことじゃなくってですね……。
| 固定リンク
コメント
これ、美味しんぼの山岡夫妻に相談すると美味しいちりめんじゃこをご馳走してくれそうな話題ですね。
もちろん、貴方の役どころは「これだ、これが子供の頃食べていた本当のちりめんじゃこの味だ」と言う、というものです。
投稿: 通りすがり | 2006年11月10日 (金) 12時47分
私もタコを見つけるとうれしくて、ごはんの間中、横において眺めてました!
投稿: 湖蝶 | 2006年11月10日 (金) 23時55分
>通りすがりさん
「究極」のちりめんじゃこにはタコが入っているような気がしますが、「至高」のちりめんじゃこは純粋にちりめんじゃこだけのような気もします(笑)。でも、私はそもそもタコが入っていないようなちりめんじゃこはちりめんじゃことは認めないっ派です。
>湖蝶さん
でしょう! でしょう! 凡百のちりめんじゃこ(?)は、まさにタコを見つけるためにこそ存在するのです!
投稿: 冬樹蛉 | 2006年11月11日 (土) 00時58分
ちりめんタコ、だいぶ前に「ぬかるみ」で新野新さんがちょっと触れたことがあります。
「あの小さいタコ、あれがあのまま大きいタコになるんかいな……(副調の反応見て)あ、そうやゆうてるわ。可哀想になあ……年端もいかんまま……」
おいおい新ちゃん、「年端もいかん」のはちりめんじゃこも一緒でっせとツッコミいれたくなったのを覚えてます。
投稿: 堀 晃 | 2006年11月11日 (土) 04時48分
「ちりめじゃこの中のタコ」に匹敵する喜びと言えば「アサリの中のカニ」。と言うことで、今後はそちらの幸せを追求してはいかがでしょうか。
投稿: 奇妙愛博士 | 2006年11月13日 (月) 23時20分
すいません、書き忘れてました。「アサリの中のカニ」の正体について。
http://www.nhk.or.jp/kochi/kako/kaiketsu/kq_0628.html
投稿: 奇妙愛博士 | 2006年11月13日 (月) 23時21分
タコの混入が減ったのは、ちりめんじゃこがほぼ完全に養殖されるようになったからです。1988年に水産技術研究所が生け簀での養殖に成功してから全国に広まりました。
というのは嘘ですけど。
仮に養殖するとしても、ひやむぎにカラーのを混ぜる美意識は失わずにいたいもんですね。
投稿: 野尻抱介 | 2006年11月15日 (水) 04時26分
養殖にするなら、同時にタコも養殖するのは?
ところで、カラーひやむぎだけを食べるのはなかなか勇気が要ります。
どうように、ちりめんタコだけをまとめたら…やはり…。そうなったら、もうチリメンジャコではなくなってしまいます。
つまり、錦松梅の松の実のようなモンですよね。
投稿: やしお | 2006年11月15日 (水) 08時35分
>堀晃さん
ああ、いかにも(タコだけど)新野新さんの好きそうなネタではありますね。年端がいってるかいってないかは、ちりめんじゃことちりめんタコの平均寿命にもよるのではないでしょうか? よく知りませんが、タコのほうがずっと長生きだとすれば、“年端もいかな度”は、タコのほうが高いと言えるかもしれません。
>奇妙愛博士さん
おお、あのカニはたまたま入ったんじゃなくて、ああいうカニなわけですね。今後、たとえば「カニの入っていないアサリだけが影響を受ける致死性ウィルス」といったものが流行し、カニなしアサリが死に絶えたとすると、そのうちあのカニは、“アサリの身体の一部”と解釈されるようになるかもしれませんね。それこそ、ミトコンドリアや葉緑体みたいに。
>野尻抱介さん
>ひやむぎにカラーのを混ぜる
あれには、流しそうめんをしたときに流速が目視で測定しやすいという実利があるのだろうと私は疑っています。
>やしおさん
>そうなったら、もうチリメンジャコではなくなってしまいます
いわゆる“冬の時代”には、書店のSFはちりめんタコのような存在でした(笑)。本が全部SFになったら、それはそれでイヤかも。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年11月18日 (土) 01時23分