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福岡県筑前町立三輪中学校での“いじめ”による生徒の自殺事件に関する報道に触れるたび、生徒をいじめていた教師本人によりも、あの校長に対してずっと腹が立つのはおれだけだろうか? あの校長の言動を見ていると、なにやら汚らしいものがテレビ画面からこちらに垂れてきそうな気がして、胸くそが悪くなるのだ。
あれが“先生”と呼ばれている人間なのか? あの校長の言動は“最低の小役人”のそれ以外のなにものでもない。己の中から出てくる言葉など一語もなく、ただひたすら言質を取られるようなことを口にしないようにびくびくし、自分の保身のみに汲々としている。あれが数多くの“先生”の中でも、人の上に立つ“先生の中の先生”なのか? ふざけちゃいけない。何度も言うが、あれはすでに教育者などではない。小役人だ。
はっきり言って、おれは学校の先生に“知識”を与えてもらったと実感したことがない。学校の先生が仕事でおれたちに与えている“知識”など、自分で本を読んだり、他のさまざまなメディアに触れたりするほうがずっと効率よく深く身につけられることばかりだ。知識の吸収という観点だけから考えれば、学校の授業などほとんど時間の無駄である。
ただ、おれは何人かの学校の先生から“ものの見かた”を与えてもらったことはある。「この先生のこういう視点には学ぶべきところがある」と、襟を正したことはあるのだ。おれは学校の先生の存在価値というのは、まさにそこにこそある、いや、そこにしかないと思っている。
この校長には、他人に与えられる“己のものの見かた”などなにひとつないだろう。こんなものが教育者であってたまるものか。
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コメント
反面教師って教師。
投稿: 神北恵太 | 2006年10月18日 (水) 05時02分
田舎だと公立の中学しか選択が無いですからね。とんでもない馬鹿は生徒にも教師にも一定の割合で混じってくるなと言うのが実感です。特に中学は学科毎に教師が異なりますから子供はどうしても問題教師と接触する機会が増えますね。
最近のマスコミの論調からか、教師連中は責任問題に対して過剰反応されている様ですが、小心っぷりには辟易させられることがしばしばでした。細かいシチュエーションは省略しますが、息子の担任からの電話で「それで私の責任は果たしたことになりますね。」のセリフを聞かされたときに、こりゃあかんと思いました。今の子供は教師に対して幻想を抱けないんじゃないでしょうかね。
投稿: おおじじ | 2006年10月18日 (水) 05時29分
まともな教師ほど、管理職にはなりたがらないものです。本業である「授業」ができなくなるポジションに誰が好きこのんでつきますか。校長というのは、「先生の中の先生」ではなく、「先生の仕事を教育委員会の下で管理する中間管理職」で、民間企業でいえば「課長」くらいのランクのものだとご理解下さい。管理職任用試験を受けることを決意した段階で、彼らは「教育者」から「役人」になるわけです。だから、冬樹さんの書かれた「小役人」という表現はずばりそのものの本質を突いているといえるでしょうね。
投稿: 喜多哲士 | 2006年10月18日 (水) 08時49分
蛉さんの意見に全く同感です。みたくない。あんなものみたくない。すべてがいたたまれない。
きのうよる、ぐうぜん「ドクターフー」というアメリカのsfを衛星第二放送で見ました。おもしろかった。こども時代に見た、宇宙家族ロビンソンからはずいぶん遠いとこにきたんだなあと感じた。
投稿: 姫野 | 2006年10月18日 (水) 10時57分
私も同感。
で、教頭、校長になると給料もさりながら、退職後の年金がぐっと上がるのです。機能は喜多さんがおっしゃるように「中間管理職官僚」なのですが、給与、恩典的には「先生の先生」なのですね。
このため、ある程度以上の年齢になると、家族から「管理職任用試験を受けてくれ」と懇願される場合もあるそうです。
投稿: 松浦晋也 | 2006年10月18日 (水) 11時13分
私も昔はいじめに遭ってました。当時は「いじめ」という事に対して正面から向き合う姿勢は一欠けらもなかったのです。学校の中で「好かれる・嫌われる」の2タイプで事を終わらせていた時代です。だから私は後者の「嫌われ者」だったのでしょう。いじめに遭っていた理由は15年以上たった今でも覚えています。吃音とチック症という他にはあまりいない悩みがあったからです。
先生からも「身体障害者」扱いされました。バイキン扱いもされました。社会見学当日体調を崩して突然休んだ時、先生から「友達がいないから来なかったんじゃないか?」と皆の前で怒鳴り散らされました。クラスの子達は皆無視するか近寄らないかのどちらかでした。いじめってされてる方はほんとに生き地獄で普通の人ととして生きて行くのがとても苦しい事ですが、いじめる側はいじめられてる人の気持ちは100%理解できないのも哀しい現実です。誰も理解してくれない。親に相談すると親から教師へ話がいって教師がクラスの皆の前でその話しをして、改善されるかとおもいきや、逆に「何でちくったんだ?」と言われ更にいじめはエスカレートする。見てみぬふりしてるだけで、助けてくれる人も影でも支えてくれる人がいない。日々孤独との戦いです。
死んだら楽になれるんだろうなと日々思っていました。福岡の中学2年生の男の子もきっと同じ心境だったでしょう。いじめって何年たってもなくならないなと痛感しているところです。先生が生徒と同じくらいの精神年齢なのか、クラスの子が先生と同じ大人のレベルなのか・・・どっちをみていいのかわからない。
投稿: かさぶた | 2006年10月18日 (水) 23時33分
はじめまして。
とても共感したのでトラックバックさせていただきましたが
不慣れで2回もやってしまいました。すみません。
(もっとも同じところにリンクしてますが)
私も中学校でプチいじめにあっているので
色々考えさせられます。
投稿: SIM | 2006年10月19日 (木) 16時45分
みなさんと年代が違いますが、昭和四十年代の小学校での記憶を振り返ると、自分はからだの不自由なともだちにどうつきあってきたかなと心もとない。小児麻痺の後遺症でかるい麻痺の子がいました。まじめでおとなしい子。いつも笑っていたっけ。からかわれてもいた。でもかれはだまって笑っていた。だから嫌われてはいなかった。みんなの中心にはいなかったけど、はじっこにちゃんといた。どんなときもにこにこと笑って。偉かったなあと思います。先年同窓会で久々にあったら、結婚なさっていて、落ち着いたお父さんになられていました。不思議なことにむかしより、そう小学校時代より若く感じました。
また、若い連句の友人に、軽い知的障害を負った青年がいます。かれはとっても不思議でした。小学時代、みなと違うからきついいじめを受け、ばかにされ、六年生で頭髪がすべて抜けました。するとさらにイジメがひどくなりました。それに親子で耐えて、知り合ったとき彼は中二くらいでしたが、俳句を一緒にするようになって、いろんなことを彼から学びました。ものを記憶するのを彼は右脳でやっているようでした。映像で処理するような感じです。人より劣っているとこだけじゃなく、勘がよかった。だから連句興行をしたときに、癒しの連句療法を編み出した偉い先生とも一座して、ちっともひるむことなく、句をだすことができました。とってもさえた句をだしてくれた。沖縄に修学旅行にいったときには、現地ですごい句をひねってくれた。人はこうだときめつけられないふしぎなものだと実感させられた出会いでした。俳句や連句は未来の詩形だなあと実感した出会いでもありました。なんというか、無意識がふかくかかわるので、自然といやされていく、そうされずにはおかない何かがあるようです。天真実と自分でつけた俳号はてんまことといい、句集「光」があります。それを出したとき、彼は19歳でした。いまは、元気にきのこ工場で働いて、自立をめざしています。またいつか一緒に連句できればと思っています。
投稿: 姫野 | 2006年10月19日 (木) 21時22分
一連の報道を見ていて思うんだが、
なぜ、どの報道機関も同じように、いじめの悲惨さや学校の対応の悪さばかりを取り上げるのだろう。
いじめは無くならない。それは今に始まったことではなく、人間が必ず持っている習性みたいなものだから。日本でも外国でも、昔も今も、学校だろうが会社だろうが、必ずいじめや差別は起きる。それは絶対になくならない。
必要なのは、いじめの酷さよりも、それに対応できる生き方を知っているかどうかだと思う。
私も小中学校では思い出したくも無いような経験をたくさんした。親にも先生にも失望して、自分への自信もなくなりかけた。でも「生きる場所はここだけではない、いつかここから出て行ってやる」って思ってた。
家を出てからもたくさん辛い思いをしたけど、自分が目指す生き方に進んできたら、いつのまにか、周囲に腹を割って話ができる友人や、心を許せる恋人がいるようになっていた。今は、生きていて良かった、と思える。
今自分の置かれている場所が全ての世界だと思えるかもしれないけど、そんなのは広い世界のなかのほんのほんの一部でしかない。
いじめにあったら運が悪かったんだと思って、自分を信じて、自分の生きたい道を目指して欲しい。
学校がダメならやめればいい。いまどき、まっすぐに進学して就職する以外にも生き方はいくらでもある。また勉強したくなった時に入れる教育機関もあるし、通信だって留学だって、色々ある。
会社でいじめにあったら転職すればいい。
傷を負いながら生きてる人はいくらでもいる。苦しいのは自分だけじゃない。
どうか、自分を信じて、他人に期待するのをやめて、生きることをあきらめないで欲しい。
投稿: ノラ | 2006年10月20日 (金) 13時25分
そういうことを私もいいたかった。
世界をうらまず人をのろわぬ一流のいじめられっこになるような教育がもとめられている。
あのじけんのあと、おなじようにずぼんをおろす遊びをしてきゃっきゃっとふざけていたよその学校の子達まで、先生にきつく説教くらったことを何とみる。
投稿: 姫野 | 2006年10月21日 (土) 12時05分
福岡の自殺いじめ事件、ひどすぎる。死んでしまった男の子が可哀想で可哀想で。私がいたら、抱きしめてあげたかった。
そのばか担任教師は、辞職するべき。こいつを止められなかった校長、教頭も辞職するべき。最近、いじめていた本人達が、「ひどいこと言った」とかって、両親に謝罪に来てるみたいだけど、ばっかもん、んなことするな、許されないんだから。そういうことはしないでください。どうしても謝罪したいのなら、誰もいない時に、そっと男の子のお墓へ行ってください。今になって、偽善者ぶるのはやめておいた方がいい。やっちゃったものは取り消しできないんだ。まだ13歳だから、許されると思ってるかもしれないね。死んだ男の子はもどってこないんだよ。それをもう1度考えて。いじめていた生徒達も、学校を辞めるべきだよ。それは無理だろうから、しばらく自粛したらどうかな。独りきりになって、じっくり考えてほしい、「何をしたのか」。ひょっとしたら、その死んだ男の子の霊にとりつかれるかもしれない、そのくらいに思っていた方がいい。自殺者の霊は
7代くらいは消えないから。
変わるけど、今こそ、日本人、全員が真剣に日本の環境の悪さを考えるべきです!
そうしないと、このまま日本は転落ですよ。
死んだ男の子のお父さん、えらいですね。ちゃんと、報道陣にも冷静に対処されている。心のうちは、悔しさと、やらいきれないつらさでいっぱいでしょうに。大切な息子さんを亡くされたことは、私も母親なので、さぞかしつらいことだと思います。いや、絶望できな思いだと思います。
男の子はちゃんと、お父さんを見ていますよ。お礼を言ってます。すごく優しい子だったんでしょうね。全く関係のない私ですが、このプログを通して、お悔やみ申し上げます。今は、励まされるのは、かえってつらいと思うので、あえて言いません。
人生、皆、つらいです、大変です。共に頑張りましょう。
投稿: kumiko | 2006年10月21日 (土) 13時17分
重いです。
おとうさんもおかあさんもほんとうの悲しみを悲しむ間がないのだとおもうと胸がふたぎます。
SIMさんの声を聞きますと、ものの見方を教えて下さった先生との出会いがあったから、死なずに生きれた、と書かれています。この言葉は何より重いです。じぶんたちは弟を死なせてしまったから。救えなかったから。社会じゃなく自分達をゆるせないから。
あたりが事件を忘れる頃、ほんとうの悲しみが始まる。きっと、自分達を責められるだろう。
こういうふうに思わせる逆縁は絶対にあってほしくない。自殺は絶対にしてはいけない。自分を生んでくれた愛する親を悲しませてはいけない。
投稿: 姫野 | 2006年10月21日 (土) 23時37分
遊びで済ませられたり逃げれたりする子は良いですけれど、死ぬまで思い詰める子もいるって事です。鬱病って知ってますよね。
だから、適切な判断が大人に求められるのでは。
投稿: おおじじ | 2006年10月22日 (日) 11時58分
たくさんのコメントをありがとうございます。
近年言う、いわゆる“いじめ”は、私の子供のころのいじめとは、似て非なるものだと感じています。むかしは“いじめっ子”というのがいて、とくにその連中がやはり少数のいじめやすい集団をいじめていた。そういうむかしのいじめなら、私も体験したことがあります。でも、そのころのいじめの場合、周囲は“いじめっ子”のほうに冷たい目を向けていて、彼らのほうが少数派だったのです。いまのいじめは、それとはまったく別のメカニズムで起こっているように思えます。つまり、“無関心”である層が、消極的にいじめっ子のほうに加担しているも同然となってしまい、いじめられているほうは完全に孤立してしまうのですね。マザー・テレサが言っていたように、love の反対語は hate ではなく indifference なのでしょう。
ノラさんのコメントにある「今自分の置かれている場所が全ての世界だと思えるかもしれないけど、そんなのは広い世界のなかのほんのほんの一部でしかない」という認識こそ、まさに学校の先生が与えてやるべき最も大切なことだと思うのです。ノラさんのように強く聡明な子は、自力でその認識にたどり着けるかもしれないのですが、誰もがそうとはかぎりません。子供にとっては、とくに思い詰めている弱い子にとっては、自分のまわりのほんの小さな社会、学校という社会が、宇宙のすべてのように感じられ、そこで否定されることは「死ね」と言われているも同然と感じられることがあるのでしょう。
多様な価値観があるのだ、多様な世界があるのだと教えてやるべき先生が、貧しい単一の価値観を子供に押しつけているようでは、なんのための先生かと情けなくなります。もっとも、学校にかぎらず、日本という社会が、見かけの多様化とは裏腹に、むかし以上に単一の価値観に凝り固まっていっているような気がして、ちょっと寒気がする今日このごろです。SFの最大の武器である“相対化の視点”、そこから必然的に出てくる“多様性の肯定”という認識が、ちょっとでも単一価値社会の進行にブレーキをかけられればいいなあと思っています。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年10月23日 (月) 02時15分
はじめまして。
私も、20年ほど前にクラス全体から、先生から、いじめを受けていました。福岡の男の子のように、
罵倒もされました。(担任教師から!)
今でも、悪夢として蘇る夜もあります。
それほど、つらかった。死にたいくらいでしたね、当時は・・・
それでも、現在を生きています。
いじめられるほうの私にも原因があったんですから。
ただ、外見など、自分でもどうしようもない事で
いじめるのなら、
いじめてる子のほうが100パーセント悪いですけど。
ただ、福岡の男の子には、なんで死んでしまったんだ!もったいない!と言ってあげたい。
生きていれば、きっと報われる時がくるんですよ。
死ぬ勇気があるのなら、ナイフもって、いじめた
子達に相打ち覚悟で向かっていく方がいい。
私は、死ぬ方が生きるより辛いと思う。
「ああ、昔にこんなことあったなー。」
って、思えるようになるぐらい私も生きていきたいです。
いじめに対して自ら「死ぬ」ということは、「負け」といっしょなんですよ?
全国にいる、いじめられている子達!
「死ぬ」なんて、ゆうな!思うな!
生きてたら、絶対いいことある!そう信じたら、
ほんとに、報われる時が来る!
投稿: 匿名希望 | 2006年11月 5日 (日) 11時05分
>匿名希望さん
>ただ、福岡の男の子には、なんで死んでしまったんだ!もったいない!と言ってあげたい。
いや、ホントにそうです。
明石家さんまの座右の銘は、「生きてるだけでまるもうけ」だそうですが、これは歳食うほど重みがわかってくるいい言葉ですね。
投稿: 冬樹蛉 | 2006年11月 7日 (火) 23時21分