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2006年10月16日 (月)

カントリー・アイデンティティー考

 安倍首相が所信表明演説で用いた、あの“カントリー・アイデンティティー”という奇妙な言葉が先日来あちこちでけちょんけちょんに叩かれているが、「それを言うなら、national identity でしょーが」という至極もっともな指摘は多いものの、じゃあなぜ“カントリー・アイデンティティー”が奇異なのかについてはあんまりツッコんでいる人が見つからないので、おれなりに考えてみた。

 country という語が持つ意味領域を、あの安倍演説を作文した役人は、全然“ことば”として噛み締めていないのではなかろうか? なぜこの語が日本語で“国”とも訳され“田舎”とも訳されるのかということを、人気語学講座に倣って言うなら、「ハートで感じ」ていないにちがいない。やっぱり小学校で英語を必修化しないといけないのだろうか……というか、日本国民相手の演説原稿なのだから、日本語で書け!

 それはともかく、“カントリー・アイデンティティー”がなぜ奇妙なのか、端的に言えば、“おのれを意識的にそこに identify しなくてもよい場所”“その場所が自分にとってなんであるかを定義する必要がない場所”こそが country だからなのである。country に identity などない。というか、identity といった概念とは別次元にあるものが country だろう。country という語は、identity を自明の(self-evident)ものとして包含している。いや、その概念を無化している。

 ジョン・デンバーが、"Take me home, to the place I belong"などと national road に歌いかけておったらおかしいじゃろう? ブルース・スプリングスティーンがアホダラ経のように"Born in the USA"などと本人たちにとってあたりまえのことを繰り返しているのは、“そうやってことさら言挙げしなくてはならない概念”がそこに含まれているからだ。

 “カントリー・アイデンティティー”と相同の造語をあえて試みるとすれば、たとえば、“家(うち)柄”なんてどうだろうね? それを言うなら“家(いえ)柄”だろう――とツッコミたくなる違和感は、“カントリー・アイデンティティー”の違和感とほとんど同じなのである。

 しかし、その country の identity を問わねばならず、identify できる country を人々がどんどん失ってゆき、自分を identify する有形無形の country を意識的に探さねばならなくなっているのが、まさにいまの日本の社会であると考えれば、“カントリー・アイデンティティー”という言葉も怪我の功名のように見えてこないこともない。まあ、役人がそこまで考えてあえて使ったとはとても思えないのだが……。



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